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詩文学

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/31(火) 18:15:47.81 ID:Vq290yAX.net
アーケード

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/31(火) 18:16:18.23 ID:Vq290yAX.net
https://i.imgur.com/CeOkjW0.jpg

3 :はひふへほ:2023/01/24(火) 17:06:13.28 ID:bwo35FCf.net
万葉集 第10巻 2238番
天飛也 鴈之翅乃 覆羽之 何處漏香 霜之零異牟
天飛ぶや雁の翼の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ
あまとぶや かりのつばさの おほひばの いづくもりてか しものふりけむ
(出典 万葉集ナビ)

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/24(火) 23:46:57.61 ID:bwo35FCf.net
飛 鴈之翅乃 覆羽之 何處漏香 霜之零異牟
「飛(とぶ)」、「翅(つばさ)」、「覆羽(おほひば)」、「零(ふり)」
「と『ぶ』」、「つ『ば』さ」、「お『ほ』『ひ』『ば』」、「『ふ』り」

一連の「はひふへほ」の発音が想起させるイメージと「しも(霜)」の
「し」の発音が想起させるイメージの対比が強く意識されて詠まれて
いることが明らかであるように思はれる。
また、この場合、「翅(つ『ば』さ)」、「覆羽(おほひ『ば』)」の
表記に見られるとおり、「秩vという漢字は、「は」の発音を表す
ために用ひられている。ところが、万葉集の歌を検索してみると、
現代の日本語で「羽毛」が「『う』もう」と音読みされるのと同様に、
「秩vが「う」の発音を表すために用ひられている事例もあること
に気づくだろう。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/25(水) 00:07:18.79 ID:FT509qvB.net
これはとても興味深いことであるように私には感じられる。というのも、
万葉仮名において、「?秩vは、それでもやはり、圧倒的に多数の事例に
おいて「は」の発音を表すために用ひられながらも、Wiktionaryの記載
を参照してみると、中国語の中古音として想定される発音は、
"Middle Chinese: /ɦɨoX/, /ɦɨoH/"であり、これは、万葉仮名において
「う」の発音を表すためによく用ひられている「宇」という漢字の
中国語の中古音として想定される発音、"Middle Chinese: /ɦɨoX/"
と同じだからである。そして、この漢字としての「?秩vと「宇」の
発音の共通性、もしくは、少なくとも近似性は、「??は)」が主と
して「はひふへほ」の系列に組み込まれ、「宇(う)」は、その
系列からは外れているという違いにもかかわらず、古代の日本語に
おいては、おそらく意識されていただろうと私には思はれるのである。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/25(水) 00:38:24.71 ID:FT509qvB.net
例えば、万葉集ナビにおいて「宇都(うつ)」をキーワードにして検索して
みるといい。最初にヒットする用例は、現代の表記では「移ろふ」となる
「宇都呂布(うつろふ)」である。次の別の用例は、「宇都里由久(うつりゆく)」
であり、その後に「宇都世美(うつせみ)」がヒットし、これは、現代の
表記法では、言ふまでもなく、「現世(うつせ)身(み)」となるが、
万葉仮名では、「打(うつ)蝉(せみ)」という表記も見られる。
さらなる用例としてヒットするのが、「宇都良々々々(うつらうつら)」、
「宇都久之美(うつくしみ)」などである。

これらの「宇都(うつ)」を含め、「う(薄)す」、「う(失)せ」、
「う(浮)く」など、極めて多くの日本語の表現に用ひられる「う」の
発音が共通して想起させるイメージは、ちょうどドイツ語の»Haut«
(From Middle High German hūt)(出典 Wiktionary)に対応させる
ことができる「表層」だろうと私は考へている。

「う」の発音がそのようなイメージで用ひられているであろうことは、
例えば、「うたかた」という表現の用例を見ても確かめることができる。
>泡沫人(読み)うたかたびと
@ 水面に浮かぶあわのように、はかなく消えてゆく人。
はかなく死んでいく人。
※後撰(951‐953頃)恋一・五一五「思ひ河たえず流るる
水のあわのうたかた人にあはで消えめや〈伊勢〉」
(出典 精選版 日本国語大辞典)

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/25(水) 09:37:04.16 ID:FT509qvB.net
万葉集 第13巻 3336番
奥藻麻 枕所為 <蛾>葉之 衣<谷>不服尓 不知魚取 海之濱邊尓 浦裳無 所宿有人者
沖つ藻を 枕になし ひむし羽の 衣だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は
(出典 万葉集ナビ)

「<蛾>葉之 衣(ひむしのはのころも)」とは、はだぎ(肌着)のことだろうか。

万葉集 第20巻 4431番
佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛
笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る衣に増せる子ろが肌はも
ささがはの さやぐしもよに ななへかる ころもにませる ころがはだはも
(出典 同上)

8 :しもやけ(霜焼):2023/01/26(木) 07:53:12.63 ID:jserDo5L.net
「おほ(覆)ふ」ように「は・だ(肌)」に「か(掛)かり(雁)」「は・だ(肌)」をくる(包)むのが「は(/葉)」の「ころも(衣)」である。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 09:10:35.90 ID:jserDo5L.net
'white lies are white' is true if and only if white lies are white.

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 09:34:54.08 ID:jserDo5L.net
何かに触れてどのようにか心が揺れる。
その心の揺れがどのようであるのか何らかの具現的な形象に仮託して
捉へようとする。その形象が、心の揺れがどのようであるのかを
まことにつた(伝)へるものとして、すなはち、仮託された
心のありようをうつ(映/移)すものとしてつか(使/仕)へるか
どうかをこころ(試)み/(心観)るのが「こゑ(声)」に出すことである。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 10:13:05.14 ID:jserDo5L.net
「こゑ(声)」に出すこと自体が具現的な形象に仮託することになり、
その形象には「こゑ(声)」を出す身体の具体性がともなふ。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 10:29:45.26 ID:jserDo5L.net
ニーチェもそのことにはっきりと気付いていたとおり、
「なにもしないことができる」ことは、「なにかをすることができる」
ことと同じくらいに大切である。というより、「なにかをすることができる」
ことの背景には必然的に「なにもしないことができる」ことがあり、前者は、
後者により暗黙に支えられている。ただ、しばしば、人がそのことを忘れて
いるだけである。「なにもしないことができる」ことが、いかに生きる
ための基本要件であるかは、二日間、完全に眠りを奪われただけで誰でも
すぐに気づかされることになるだろう。眠ることさえできない状態とは
まさしく、「なにもしないことすらできない」状態に置かれることである。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 11:02:19.43 ID:jserDo5L.net
ハインリヒ・マンの作品として"Der Untertan"という題名の小説があるそうだ。
"Untertan"という語をキーワードに検索したら、ヒットしただけなので、
私はこの作品も、それ以外のハインリヒ・マンの作品も読んでおらず、
この小説の内容についても、検索でヒットしたWikipediaの記載を少し見た
だけのことしか知らない。ただ、"der Untertan"は、一般的にその存在様態
からして、»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うことに従う」ことに
よって評価されてその立場を確保しているので、みづから(身づ柄/自ら)を
"der Untertan"であると認識して、みづから(身づ柄/自ら)の振舞ひに
よって評価されて確かめられる地位を大切にしている限り、人(ひと)が
自分に向ける言葉はすべてその関係性においてのみその価値を評価する
ことになる。したがって、人(ひと)が自分に向ける言葉が、
みづから(身づ柄/自ら)が»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うこと
に従う」ことによって評価されることの妨げとなるなら、その言葉
が「まこと」であるかどうかはどうでもよく、むしろ、そのような
何の価値もない言葉を向けられることを、せいぜい、「嫌がらせ」と
見なすか、»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うことに従う」
関係性において、より低い地位にいるものとして扱おうとする侮辱
と見なすのである。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 12:06:44.28 ID:jserDo5L.net
英語の"truth"という言葉について、もともとは、日本語の「まこと」に
対応させることができるような表現として用ひられ、"truth"と対比される
"false"は、「いつはり」に対応させることができると指摘した。
それに関連して、真理条件的意味論 (Truth-conditional semantics)
の代表例に用いられる
>'snow is white' is true if and only if snow is white.
を引用して示した。ここで、「真理条件」とはどのようなものかを考へて
みるといい。例えば、私に画面上で"c"という記号が表示され、それに
対して私が次にように発言したとしよう。
>「その記号は右に開いている」
実際、"c"は記号として右に開いているのだから、私の発言は、
"true"/「まこと」 なのだろうか。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 12:27:22.54 ID:jserDo5L.net
画面上に"c"が表示されて、私が「その記号は右に開いている」
と発言した場合、"c"が記号として実際に右に開いていることが
確かめられるという事実だけでは、私の発言が"true"/「まこと」
であることにはならない。これは、視力検査の場合を考へてみれば
すぐに分かることである。

画面上に"c"が表示されて、私が「その記号は右に開いている」
と発言したところで、私にその記号のどちら側が開いているのか
実際に見えていなければ、その発言が「事実として当たっている」
ことが確認できたとしても、私の発言は、「まこと」ではなく、
「でたらめ」であり、「でたらめ」の発言が偶々、
「事実として当たっている」だけであり、記号がどちらに開いて
いるのか分からないことに私が自分でも気づいているのに
そのことを認める代わりにその発言をしたなら、その発言が
偶々、「事実として当たっている」としても、私の発言は
「いつはり」/"false"であることになる。発言される言葉が
「まこと」/"true"であるというのは、事実がどのようであるか
気づいているとおりに伝へているという誓約であり、
誓約したところで、事実がどのようであるかについて、
その気づきに誤りがないという保証にはならない。誤って
いたとすれば、誓約により責任が生じることになるという
だけのことだ。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 13:39:03.57 ID:jserDo5L.net
ひるがえって、「乳呑児がみどり児である」ことが「まこと」である
ためには、乳呑がみどりであるとはどのようなことであるのかに
気づいている必要がある。単に、「乳呑児」と「みどり児」は
互換的に言い換えが可能でると暗記しているだけでは、視力検査票
の1.0の列の記号の並びを暗記していて、それらの記号が実際に
自分にどのように見えているかにかかわらず、「言い当てる」こと
ができるのと変わらない。ましてや、「たまのを」を、「枕詞」
と定義される「たまの緒(お)」として暗記して、その表現が
分かったような気になっているのは、「でたらめ」であるだけ
でなく、「いつはり」であり、「いつはり」を他人に「まこと」
として「をし(教)へ」ながら、ただ(正)しい日本語の表現の解釈
を指導することなどできるはずもないのである。

>«Die Kunst gibt nicht das Sichtbare wieder, sondern macht sichtbar»
Paul Klee

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 23:41:36.37 ID:jserDo5L.net
現代の日本語に「痛い人」という表現があるが、「痛い人」という言葉に
私がまず想起するのは、ゴットホルト・エフライム・レッシングだ。
特に"Fable"に少し目を通しただけでもそれを感じる。ただし、
この場合、私は、「痛い人」という言葉を、現代の日本語において
通用している、人の振舞いの否定的な評価として想起しているのではない。
心から「いた(悼/傷/痛)む」ことをよく知っている人が「痛い人」である。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 23:43:37.99 ID:jserDo5L.net
誤:"Fable" 正:"Fabeln"

なにげなく題名を英語に変えてしまった。
これは単純に「イタい」誤記である。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/26(木) 23:45:02.12 ID:jserDo5L.net
しかも、英語に変えるときに複数形を単数形にしてしまっている。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/27(金) 00:00:54.91 ID:HUWD1sDl.net
一般に悲劇において「悼む人」の代表とされるのがソポクレースの悲劇、
『アンティゴネー』でその題名ともなっている中心人物のアンティゴネー
だろうが、私はそこに描かれるアンティゴネーには、「心から
いた(悼/傷/痛)む人」を感じない。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 11:19:44.26 ID:8lDDoORj.net
万葉仮名において「秩vが圧倒的に多くの事例において「は」の発音
を表すために用ひられながらも、中国語の中古音として想定される
発音は、「羽毛(うもう)」の「う」という漢字としての音読みに
対応するように"Middle Chinese: /ɦɨoX/, /ɦɨoH/"であり、これが、
万葉仮名において「う」の発音を表すためによく用ひられている
「宇」という漢字の中国語の中古音として想定される発音、
"Middle Chinese: /ɦɨoX/"とほぼ同じであると考えられることを
上に指摘した。日本語において、「う」と「は」の発音が互いに
関連するように用ひられていることは、他の多くの表現においても
見ることができる。例えば、「薄(うす)」と読まれる場合は、
「う」の発音であるが、「薄」の漢字が音読みされる場合には、
「はく」である。「初雪」という表現では、「初」は「はつ」と
読まれるが、「初々しい」という表現では、「うひ」と読まれる。
古語には、「はだらに」という表現があるが、これは、現代の
日本語では「うっすらと」に対応するものと考へらえている。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 11:23:02.67 ID:MJ0dKKD0.net
万葉集 第20巻 4478番
佐保河波尓 許保里和多礼流 宇須良婢乃 宇須伎許己呂乎 和我於毛波奈久尓
佐保川に凍りわたれる薄ら氷の薄き心を我が思はなくに
さほがはに こほりわたれる うすらびの うすきこころを わがおもはなくに

万葉集 第10巻 2337番
小竹葉尓 薄太礼零覆 消名羽鴨 将忘云者 益所念
笹の葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ
ささのはに はだれふりおほひ けなばかも わすれむといへば ましておもほゆ

万葉集 第20巻 4443番
比佐可多<能> 安米波布里之久 奈弖之故我 伊夜波都波奈尓 故非之伎和我勢
ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
ひさかたの あめはふりしく なでしこが いやはつはなに こひしきわがせ
(出典 万葉集ナビ)

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 11:34:12.02 ID:MJ0dKKD0.net
このように見てくると、「はだ(肌)」は、「表層に接触する」様態を
想起させ、「はつ(初)」は、「表層につく」様態を想起させる表現で
あるように思へる。だからこそ、「はつゆき(初雪)」は、単に
「うっすらと」積もるだけでなく、薄い層として何層にも積み重なる
ものとしてイメージされるのではないだろうか。

万葉集 第10巻 2318番
夜乎寒三 朝戸乎開 出見者 庭毛薄太良尓 三雪落有 [一云 庭裳保杼呂尓 雪曽零而有]
夜を寒み朝門を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり [一云 庭もほどろに 雪ぞ降りたる]
よをさむみ あさとをひらき いでみれば にはもはだらに みゆきふりたり [にはもほどろに ゆきぞふりたる]

万葉集 第20巻 4475番
波都由伎波 知敝尓布里之家 故非之久能 於保加流和礼波 美都々之努波牟
初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ
はつゆきは ちへにふりしけ こひしくの おほかるわれは みつつしのはむ

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 11:37:21.62 ID:MJ0dKKD0.net
万葉集 第14巻 3537番(異伝歌1)
宇麻勢胡之 牟伎波武古麻能 波都々々尓 仁必波太布礼思 古呂之可奈思母
馬柵越し麦食む駒のはつはつに新肌触れし子ろし愛しも
うませごし むぎはむこまの はつはつに にひはだふれし ころしかなしも
(出典 万葉集ナビ)

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 13:31:38.15 ID:MJ0dKKD0.net
>>16に引用したパウル・クレーの言葉は、私自身がクレーの著書を
読んで拾ってきたものではなく、先日、図書館で借りた矢羽々祟著、
『読んで味わうドイツ語文法』という本に引用されているのを使は
せてもらうことにしたものだ。

>>11において私は、
>「こゑ(声)」に出すこと自体が具現的な形象に仮託することになり、
その形象には「こゑ(声)」を出す身体の具体性がともなふ<
と指摘したが、同書には、このことを例証するのにとても好都合な
具体例も記載されている。それは、以下に引用させてもらう
ドイツ語の言葉遊びである。

>Es lagen zwei zischende Schlangen zwischen zwei spitzen
Steinen und zischten dazwischen.
2匹のシュシュと音を出すヘビが2つの尖った石の間にいて、
その間でシュシュと音を出していた< 同書、p.250

これが言葉遊びとして面白いと感じられるのは、言葉の発音が
これらの言葉によって表現されるイメージを如実に想起させる
からだろう。また、これをドイツ語の発音どおりに発音してみれば、
表現に用ひられている発音とそれによって想起されるイメージの
関係が、日本語の場合の発音とイメージの関係にもとても近い
ことに気づくはずである。ここで、そのような類似性が感じられる
のは、この言葉遊びでは擬音語/擬態語が多用されているから
に過ぎないと結論づけるのは考へが浅い。無論、形象として
利用される声(こゑ)に仮託される様態は、必然的にあらかじめ
定まったものではない。しかし、そのことは、それでも、
「どのようであるか」をその効果において如実に伝へることに
なる声(こゑ)が、「どのようであるか」を仮託する形象として
好んで用ひられることになるのを否定するものではない。
すると、実のところ、そもそも、いずれの言葉が「擬音語/擬態語」
に由来し、いずれの言葉がそうではないかという区別は、
本来的に無効なのである。逆に、「どのようであるか」を如実
に伝へる効果が感じられなくなった言葉が、「擬音語/擬態語」
としては認識されなくなり、「そういうものとして通用する」
規約として扱われるようになるのである。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 14:12:47.46 ID:MJ0dKKD0.net
私は、学問制度としての「哲学」の「哲学史」にはほとんどまったく
関心がないが、それでもわずかながら「哲学史」について書かれた
本も読んだことがあるので、スピノザがシェリングやヘーゲルといった
ドイツの代表的な哲学者に多大な影響を及ぼしたことは知っている。
哲学に興味がないと明言したゲーテさえ、自分とは対照的な素質
の持主であるとしながらも、スピノザの哲学には深く感銘を受けた
としている。私は、ラテン語が読めないので、昔、スピノザの
『エチカ』の日本語訳に目を通してみたが、そのときには、
「これでは熱心に読んでもよく分からないだろう」と思った
だけではなく、分かる限りにおいて、「これは私の肌には
まったく合わない」と感じられた。

今、スピノザの全集が新訳で刊行されはじめているとの
ことで、これは、別にスピノザのファンではない私に
とっても歓迎すべきことで、目を通したことがない
スピノザの著作に触れれば、読まず嫌いのままになって
いる私のスピノザの印象も変わる可能性があるだろう
から、この全集が大いに売れて、地元の自治体の図書館
でも購入されることを期待している。ただ、今のところ、
近年になって出版された分厚いスピノザの哲学の詳細な
研究書に概観的に目をとおしてみて、いかにスピノザが
誤解されているかという話を少し読んでみても、やはり
私の昔からの印象はほとんど変わらない。それは、
スピノザは、観念を操作することに専念している人
であって、感性を微細に働かせて、経験を如実に捉へ
て表現しようとする人ではないというものだ。例えば、
光学レンズを磨くことで生計を立てていたといわれるが、
その経験は、光学の効果を日々確かめる経験は、
スピノザの思索にどれだけ如実に反映されているだろうか。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 14:26:49.95 ID:MJ0dKKD0.net
>PROPOSITIO 3
Affectus, qui passio est, desinit esse passio,
simulatque ejus claram, & distinctam formamus ideam.

PROPOSITION 3
Un affect qui est une passion, cesse d’être une passion,
sitôt que nous en formons une idée claire et distincte.<
(出典 u-picardie.fr/ethique/partie5.php)

私の曲解かもしれないが、このような命題とその証明を読むだけでも、
例えば、"Affectus, qui passio est"を、より具体的に、苦悩を
もたらす混乱した「カコフォニー」/"cacophony"であるとした
場合、スピノザが説いているのは、その「カコフォニー」/"cacophony"
を、身体に対する混乱した音の悪影響として捉えて、その混乱した音を、
構成要素としての混じり合っていない単純な波長にまで分解してしまう
なら、それが苦悩を生じさせることはなくなる、というようなこと
であると感じられる。このような「曲解」であるかもしれない私の
理解に基づくなら、スピノザが説いていることは、その「思想」が
どうであれ、その実践においては、感性の働きを麻痺させることにしか
つながらないだろう、と私には思へる。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 14:56:11.72 ID:MJ0dKKD0.net
同じ喩えを用ひるなら、苦悩をもたらす混乱した「カコフォニー」/
"cacophony"に、人々が自分勝手にてんでばらばらに奏でる楽器の音を
聴き取るのがレッシングだろう。私には音楽の素養も資質も完全に欠如
しているが、レッシングは、オーケストラのために作曲する音楽家、
またはオーケストラを編成して指揮しようとする指揮者が、各自の
奏でる楽器の調べをうまく組み合わせて、全体として調和するように
「シンフォニー」/"symphony"を構成することを「予定調和的な理想」
として目指しているように私には感じられる。ただ、レッシングは、
脚本家であるため、混乱した「カコフォニー」/"cacophony"から
調和を導き出そうとするとき、レッシングが専ら関心を向けている
のは、既に背景をもつことが前提とされている人々のそれぞれの
心のうごきの相互関係であり、音楽家が、楽器や音声以外の背景の
雑音を排除したコンサート・ホールで演奏することを前提とする
ように、背景まで徹底して探求して、知ろうとすることへの関心が
感じられない。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/28(土) 19:42:55.50 ID:MJ0dKKD0.net
>>25
このように長々と説明してもまだ、最も大切なことがきちんと伝はっている
のかどうかよく分からないので、言ひ方を変へて繰り返そう。

言葉を話すとき、"ordinary speech"がまずあって、それを意図的に
ひねって工夫を凝らした表現技法として"figure of speech"があるの
ではない。そうではなく、声(こゑ)に出して発話する行為自体が、
発せられる声(こゑ)に仮託して、どのようであるかを伝へようと
こころみる"figure of speech"なのだ。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/29(日) 10:51:05.36 ID:61v6fetN.net
Online Etymology Dictionaryで英語の"hiss"という表現を検索して
みると、次のとおり記載されている。
>late 14c., of imitative origin. Compare Danish hysse,
German zischen, etc. Johnson wrote, "it is remarkable, that
this word cannot be pronounced without making the noise
which it signifies." <
(出典 etymonline.com/search?q=hiss)

ところで、日本語には、「敵もさるもの引っ搔くもの」という
言い回しがあるが、「さる(猿)」は、「引っ搔く」から「さる」と
呼ばれるのだろうか。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/29(日) 11:35:12.94 ID:61v6fetN.net
岩波古語辞典で「さる【猿】」の項目を参照すると、
>B湯女(ゆな)の異名。風呂屋女。「[湯女(ゆな)]の異名を
『さる【猿】』と言ふ事は、諸人[ノ]垢(あか)を掻く故なりとかや」
(仮・都風俗鑑、四)<
とある。

ここで、「掻」をWiktionaryで検索してみると、その元となった
漢字として「搔」があり、この漢字の中国語の中古音として想定
されている発音は、"Middle Chinese: /sɑu/"であり、その語源を
「爪」の発音に関係づける想定もされているようだが、「爪」の
想定される中古音は、"Middle Chinese: /t͡ʃˠauX/"である。
さらに、引っ搔かれたなら「擦傷(さっしょう)」が生じることが
連想されるので、「擦」で検索してみると、この漢字の発音を
表す部分である「察」の想定される中古音は、
"Middle Chinese: /t͡ʃʰˠat̚/"である。

万葉集で「猿」が表記に用ひられている歌では、「猿」は、一般に
「さる」の発音ではなく、「まし」という発音を表記するために
使はれているが、次の歌では、例外的に「さる」と読まれるものと
され、そのように読むことは、この歌のそれ以外の言葉との関連
からも妥当だろうと思へる。

万葉集 第3巻 344番
痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見<者> 猿二鴨似
あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ
(出典 万葉集ナビ)

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/29(日) 11:49:30.81 ID:61v6fetN.net
さて、>>30で英語の"hiss"という表現について、
>Johnson wrote, "it is remarkable, that this word cannot be
pronounced without making the noise which it signifies."
という言葉を引用したが、英語には"hiss"の他にも多くの
「擬音語」/「擬態語」に分類される表現が存在するだろう。
なぜ、"hiss"の発音がその発音が表現して伝へようとすること
と合致していることが、特に"remarkable"/「おも・『しろ』し」/
「いと・『しろ』し」と感じられたのだろうか。

日本語の場合、かつては「猿」を表現するために用ひられた「さる」
という発音が、「引っ搔く」作用を如実に想起させたことは間違ひ
ないだろうと私には思へる。では、「さる(猿)」が「引っ搔くもの」
を表現していたとすると、「さる(猿)」は、「擬音語」/「擬態語」
なのか。そうであると考へるか否かは、「さる」の発音を用ひる
ことが、「引っ搔く」作用をじか(直)に想起させるような効果を
発揮していると感じられるか否かに依存するだろう。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/29(日) 13:33:01.37 ID:61v6fetN.net
湯女(ゆな)の異名として風呂屋女を「さる」と呼ぶこと、これは
差別だろうか。「さる」が「諸人[ノ]垢(あか)を掻く」行為と
実際に結びついていて、そう呼ばれたのなら、「引っ搔く者」
を指す言葉として用ひられたと考へられ、実際、それをメタ言語
的に説明する必要性が生じていることから見れば、
「湯女(ゆな)」は獣(けもの)としての「猿(さる)」に「ひと(等)」
しいというような発想ではなかったのだろうと思ふ。ただ、
それでも、「引っ搔く者」として「猿(さる)」のようである
ということであれば、やはり、「湯女(ゆな)」を「さる」と
呼ぶことに、見下すような差別意識が働いていたと考へるのが
自然だろう。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/29(日) 13:55:59.30 ID:61v6fetN.net
欧米では、人(ひと)を獣(けもの)としての「猿(さる)」呼ばわりする
ことが人種差別の代表的な行為であるとされる。では、人(ひと)を
「さへづ(囀)る者」と呼ぶことは、差別だろうか。"Twitter"という
名称は、「さへづ(囀)る」ことを意味する英語の動詞、"to twitter"
に由来するが、今では、"Twitterer"/「ツイッタラー」という表現
も流通しており、"Twitterer"をCambridge Dictionaryで検索すると、
次にように説明される。

>a person who publishes short remarks or pieces of information
on the social media service Twitter<
(出典 dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/twitterer)

この説明では、Twitter社のソーシャルメディア・サービスで自らの
発言を発信する人が"twitterer"と呼ばれるとされることになるが、
そもそも英語の"to twitter"という動詞そのものが「さへづ(囀)る」
行為を意味しているわけだから、人を"Twitterer"/「ツイッタラー」
と呼ぶことがただちに「さへづ(囀)る者」を想起させることにも
なることは避けられないだろう。ところで、日本語の古語では、
人が話していることが「さへづ(囀)る」と表現される場合、
そこには、「(小鳥が)さへづ(囀)る」のと同様に「人(ひと)の言葉
としては認識されない話し方で何やらしゃべっている」という
差別意識が明白に働いている。

35 :Ich bin dein Labyrinth...:2023/01/29(日) 14:13:32.55 ID:61v6fetN.net
逆説的に聞こえるかもしれないが、差別の根源は、
「ひとをひととしてあつか(扱)ふ」ことにあり、このことには疑ひの余地がない。
「ひとをひととしてあつか(扱)ふ」とは、「ヒトをヒトとして扱ふ」
ことを含め、「『ひと(等)しいもの』を『ひと(等)しいもの』として扱ふ」/
"To treat what is equal as being equal"であり、裏を返せば、
「ひとでないものは、ひととしてあつか(扱)はない」こと、つまり、
「『ひと(等)しくないもの』は、差別するように扱ふ」/
"To treat what is not equal as being different"という「差別化」/
"differentiation/discrimination"であることになる。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/29(日) 14:53:31.31 ID:61v6fetN.net
>欧米では、人(ひと)を獣(けもの)としての「猿(さる)」呼ばわりする
ことが人種差別の代表的な行為であるとされる。<

これも逆説的に聞こえるかもしれないが、人種差別をなくすことを
訴え、働きかけつづける、良心的であるとされる欧米のメディア、
政治家、知識層に属するとされる人々は、理想としてすら、
「ひとがひととしてあつか(扱)はれる」ようになる世界の実現
などまったく目指してはいない。人(ひと)がそのような理想が
掲げられているものと思ひ違ひをしたとすれば、それは、
人(ひと)が誰でも、理想的な世界が実現されたなら「自分も人(ひと)
として人(ひと)らしく配慮されて扱はれるはずだ」と都合よく考へて
しまうことに基づく錯覚である。では、そのような良心的な人々が
実際に「理想としてその実現を追求している」のはどのような
世界かと言えば、それは、「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"
の個体または個体の集団としてうまく扱ふことができる世界」
である。無論、この場合、「猿(さる)」/ "ape"というのは、
科学的な知見に基づくとされる「類人猿としてのヒト」のこと
である。これも、大学の研究機関を含む「知的活動」として
長年にわたってどのようなことが推進されてきたのか、どの
ようなことが徹底的に妨害されてきたのかを自らの体験として
経験し、観察してきたなら、まったく疑いの余地がない。
「人(ひと)」は、科学的な事実として「類人猿としてのヒト」
であるのだから、その前提に基づいて物事を考へようとしない
者は、生物学における「進化論」を否定する非科学的な信念に
囚われた何か異常のある/矯正されるべき「猿(さる)」/ "ape"の個体
であるものとして扱はれることになる。

37 :Ich bin dein Labyrinth...:2023/01/29(日) 15:40:36.95 ID:61v6fetN.net
各自に「ひとがひととしてあつか(扱)はれる」ようになる世界の実現
が理想として追求されているかのような錯覚を抱かせつづけながら、
「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"の個体または個体の集団
としてうまく扱ふことができる世界」の実現を目指す仕組み作りに
各自に自主的かつ献身的に貢献させる、これが統治の課題である。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/29(日) 16:09:43.92 ID:61v6fetN.net
その秩序が実効力の行使によるものとされるのであれ、宗教的な権威に
よるものとされるのであれ、科学的な知見の権威によるものとされる
のであれ、あるいは単に年功序列によるのであれ、人(ひと)が
みづから(身づ柄/自ら)をその秩序における「配下」/»Untertan«
としての立場を自覚するようになるにつれ、「人(ひと)が人(ひと)に
向ける言葉」として発する言葉は通用しなくなる。なぜなら、
人(ひと)は、みづから(身づ柄/自ら)に向けられる声(こゑ)を、
まずなによりも「を(治)す」ことをこころみる声(こゑ)と認識
するようになるからだ。それがただ単に着衣の「ボタンが1つ
外れている」ことに気づかせる声(こゑ)であったとしても、
その声(こゑ)が、秩序における上側からの声(こゑ)であったなら、
それは正すべき落ち度に気づかせるものと認識され、
秩序における下側からの声(こゑ)であったなら、不遜な
からかいの声(こゑ)に聞こえることになるだろう。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/30(月) 09:54:53.00 ID:MzIsZ+ez.net
誤:「引っ搔く」作用をじか(直)に想起させる
正:「引っ搔く」作用をぢか(直)に想起させる

私も少し気を抜くと、大切なところもすぐに"ordinary spelling"で
表記してしまうが、「ぢか(直)に」は、「直」が「ちょく」と
読まれることからも明らかなとおり、本来、「ぢか(直)に」と
表記されるはずの言葉である。「直」の中国語としての想定される
中古音は、"Middle Chinese: /ɖɨk̚/"である(Wiktionary参照)。
ここで、"figurative"と"ordinary"の関係を考へてみるといい。
「じかに」と「ぢかに」は、いずれの表記が用ひられても、
読まれるときには同じように発音されるが、どちらの表記が
"figurative"に感じられるかと言へば、「ぢかに」の方だろう。
しかし、この表記は、「普通の表記」にわざわざ手を加えて工夫を
凝らしたものではない。例えば、「地」は「ち」なのだから、
「地面」を「ぢめん」ではなく、「じめん」と表記する
「普通の表記」の方が不自然な矯正を強ひるものであるように、
"figurative"に感じられる表記の方が先で、「普通の表記」は、
直立不動の姿勢をとることを強ひる「気をつけ」の号令の
ように「恣意的な矯正」として使はれている。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/30(月) 13:51:03.57 ID:MzIsZ+ez.net
類人猿としてのヒトに倫理や道徳があるとすれば、鯨偶蹄目イノシシ科の
イノシシにでも倫理や道徳があるはずだろう。生物種としてのヒトの
倫理や道徳というのは、とても奇妙な考え方であり、科学的であること
を権威の裏付けとする生物学の考え方とは相容れない。ところが、
「類人猿としてのヒト」には倫理も道徳もないとするのは、
「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"の個体または個体の
集団としてうまく扱ふことができる世界」 の実現を目指すためには
とても都合が悪い。そこで考え出されたのが、動物倫理、環境倫理、
生命倫理などのきわめて曖昧な観念であり、環境倫理や生命倫理
においては、倫理や道徳は、「類人猿としてのヒト」を動物として
扱ふ動物倫理となる。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/30(月) 14:00:12.45 ID:MzIsZ+ez.net
他の動物と対比される「特別な生物種としての人類」のものとして
唱えられるそのような倫理や道徳の奇妙さに気づいて、それを
根本的に批判したのがニーチェであると考へられているが、
実は、ニーチェの倫理や道徳の批判は、かなり中途半端である。
しかし、ニーチェの倫理や道徳の批判に基づくとされるその後の
議論というのは、現在に至るまで、批判な思考を徹底して進める
どころか、さらに大幅に後退して、後退させたままに押しとどめている。

42 :動物倫理:2023/01/30(月) 14:10:02.17 ID:MzIsZ+ez.net
>わ(侘)びしらにまし(猿)らな鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ
古今集 雑体・凡河内躬恒

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/31(火) 08:24:46.93 ID:0hg17iBr.net
万葉集 第9巻 1785番
人跡成 事者難乎 和久良婆尓 成吾身者死毛生毛 <公>之随意常 念乍
有之間尓 虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美 天離 夷治尓登
朝鳥之 朝立為管 群鳥之 群立行者 留居而 吾者将戀奈 不見久有者

人となる ことはかたきを わくらばに なれる我が身は 死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ
ありし間に うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 天離る 鄙治めにと
朝鳥の 朝立ちしつつ 群鳥の 群立ち行かば 留まり居て 我れは恋ひむな 見ず久ならば
(出典 万葉集ナビ)

44 :Ich bin dein Labyrinth...(oneself as an ape):2023/01/31(火) 08:39:17.72 ID:0hg17iBr.net
>ひと(人)は誰しも『ひと(人)/ヒト』となりて生まれしからには、
みづから(身づ柄/自ら)を含むすべての『ひと(人)/ヒト』の個体
および集団に対して『類人猿としてのヒトに対する動物倫理』に
則って振る舞ふべきである。<

明示的にであれ、暗黙にであれ、このような形式で主張される
「類人猿としてのヒトに対する動物倫理」を、ひと(人)が誰でも
「己/汝」の規範とすべきであるとする考へ方の根本的な奇妙さに
気づかないようなひと(人)は、理性と知性と感性が三重に麻痺して
いるのではないかと私には思へる。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/31(火) 10:36:06.65 ID:0hg17iBr.net
>Fab. 9. Libr. IV
Peras imposuit Jupiter nobis duas,
Propriis repletam vitiis post tergum dedit,
Alienis ante pectus suspendit gravem.

Jupiter hat uns diese zwei Säcke aufgelegt? Er ist also selbst Schuld,
daß wir unsere eigene Fehler nicht sehen und nur scharfsichtige Tadler
der Fehler unsers Nächsten sind? Wieviel fehlt dieser Ungereimtheit
zu einer förmlichen Gotteslästerung? Die bessern Griechen lassen
durchgängig den Jupiter hier aus dem Spiele; sie sagen schlechtweg:
Ανθρωπος δυο πηρας εκαστος φερει; oder: δυο πηρας εξημμεθα του
τραχηλου usw.
(出典 projekt-gutenberg.org/lessing/abfabel/abfab401.html)

46 :悟りの境地:2023/02/01(水) 08:12:14.77 ID:msIgNHh4.net
Being yourself is always a good enough compensation.

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/01(水) 09:13:14.53 ID:msIgNHh4.net
みづから(身づ柄/自ら)に実質と呼べるようなものがあるとすれば、
その実質は、つねにすでに「かげ」である。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/01(水) 09:50:03.37 ID:msIgNHh4.net
日本語の古語において「かげ」は、英語の"shade"や"shadow"とは異なり、
鏡に映った姿のような像を意味するようにも用ひられるので、現代の
日本語の「影(かげ)」の用法を当たり前のものと思っていると、一瞬、
戸惑ふが、その像が"shade"や"shadow"のように暗いものであれ、
光が投射されたように明るいものであれ、"a projected image"に
対応するように用ひられることが多い。

ただし、日本語の「かげ」という表現そのものの解釈はさらに簡単で、
「かかる/かける」作用により「かかるもの」が「かげ」である。
したがって、「かかる/かける」のが恩恵であれ、迷惑であれ、
「〜のお『かげ』で」と表現される。また、「人の『かげ(陰)』に
隠れて〜する」や「建物の『かげ(陰)』になって(見えない)」など
の表現を見ても、このことを容易に確認することができる。
「こかげ(木陰)」の「かげ(陰)」は、英語の"shade"に対応している
ように見えるが、この場合もやはり、樹木の枝葉が「かさ(傘)」の
ように「かかる」作用により「かかるもの」として「かげ(陰)」と
なっている。このため、日本語で哲学するのにも「かげ」を
"a shadow image"のようなものと思ひなしてしまうと、最初から
無用な複雑さを導入することになる。日本語の表現は、それが
ピジン言語的な使用に形成されたことにより徹底的に
プラグマティックに磨かれているので、そのことが既に可能に
している表現の簡明さをやすやすと手放してしまうと、恣意的で
無駄に限定の多い定義に頼って考へを余計に混乱させることになる。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/01(水) 15:06:42.10 ID:msIgNHh4.net
>「普通の表記」の方が不自然な矯正を強ひるものであるように、
"figurative"に感じられる表記の方が先で、「普通の表記」は、
直立不動の姿勢をとることを強ひる「気をつけ」の号令の
ように「恣意的な矯正」として使はれている。<

ところで、「気をつけ」という号令は、何に気をつけるように指示して
いるのかと言へば、無論、それは、「自らの姿勢に気をつけるように」
ということだろう。では、「自らの姿勢に気をつけるように」とは、
どのような指示なのか。

>„Herr Hauptmann, bitte —“ Welche Katastrophe! Er hatte in seiner
Ahnungslosigkeit vorwitzig das Wort an eine Macht gerichtet,
von der man stumm und auf den Knien des Geistes Befehle
entgegenzunehmen hatte! Der man sich nur „vorführen“ lassen
konnte! Der Hauptmann donnerte, daß die Unteroffiziere
zusammenliefen, mit Mienen, in denen das Entsetzen vor
einer Lästerung stand.<
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/56-57)

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/02(木) 21:38:07.43 ID:gqNj9U0H.net
誤:ピジン言語的な使用に形成された
正:ピジン言語的な使用によって形成された

51 :月と鼈(スッポン):2023/02/03(金) 00:24:43.09 ID:Y6rC/aD5.net
月影とスポットライト

>つき−かげ 【月影】
名詞
@月光。月明かり。月光の当たる所。
出典源氏物語 桐壺
「つきかげばかりぞ八重葎(やへむぐら)にもさはらず、さし入(い)りたる」
[訳] 月光だけが、茂った雑草にも邪魔されずに、さし入っている。

A月の姿。
出典古今集 恋二
「つきかげにわが身をかふるものならばつれなき人もあはれとや見む」
[訳] 月の姿にわが身を変えられるならば、つれないあなたも、しみじみと眺めるだろう。

B月明かりの中の姿。
出典源氏物語 橋姫
「ほのかなりしつきかげの、見劣りせずば」
[訳] ほのかに見えた月明かりの中の姿が、もし(昼でも)見劣りがしなかったら。<
(出典 学研全訳古語辞典)

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/03(金) 09:17:35.57 ID:Y6rC/aD5.net
月と鼈(スッポン)は大違いだが、それでも比べられるのは互いに
どのようにか似ているからだが、ただ月もすっぽんもともに
「まる(円)い/円形」であるというだけでは、他にも「まる(円)い/円形」
であるものはいくらでもあるのだから、比較の対象がすっぽんである
必要はないだろう。では、月も「すっぽん」のどのようであることに
共通性が認められるのかと言へば、それは、月と「すっぽん」(
「すっぽん」という発音の呼び名を伴う見た目の形)の「まる(円)さの
局所性」ではないだろうか。

>Dancing In The Moonlight (It's Caught Me In It's Spotlight)
Thin Lizzy<

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/03(金) 09:26:41.89 ID:Y6rC/aD5.net
>月影(読み)つきかげ
精選版 日本国語大辞典「月影」の解説
つき‐かげ【月影】
@ 月の光。月のあかり。<

この説明は誤りではないが、メタ言語的な説明として不十分である。
さらに、この説明を妥当であることを前提にして、
「つき(月)かげ(影)」=「月の光」であるのだから、「かげ」は、
「光」を意味すると判断したなら、それは不十分なメタ言語的から
導かれた「不適切な拡大解釈」であることになり、その推論を
「『分析的な手続き』によって正当化されるものである」などと考へた
なら、それは自らの稚拙さ/愚かさの証明にしかならない。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/03(金) 09:36:31.76 ID:Y6rC/aD5.net
「つき(月)かげ(影)」とは、より適切にメタ言語的に記述しようとするなら、
「月のスポットライト」/「スポットライトとしての月」ということになる。
このことの妥当性を確認するためには、例えば、
>>51に引用した「つきかげ(月影)」という表現の@、A、Bの用法と 、
それとはまったく無関係に行われている英語の辞書における"spotlight"
の説明を比べてみるだけでも十分だろうと私は思ふ。

>spotlight
noun
1
a: a projected spot of light used to illuminate brilliantly a person, object, or group on a stage
b: public notice or attention
held the political spotlight
2
a: a light designed to direct a narrow intense beam of light on a small area
b: something that illuminates brilliantly
(出典 merriam-webster.com/dictionary/spotlight)

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/03(金) 11:34:00.57 ID:Y6rC/aD5.net
誤:この説明を妥当であることを前提にして
正:この説明が妥当であることを前提にして

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/03(金) 22:33:33.17 ID:Y6rC/aD5.net
>>54
日本語の古語の表現は、「日本語」という枠組みに自らを縛り付けること
を放棄したなら、多くの場合、現代にもそのまま通用する表現として
容易に理解することが可能となる。

Wie ein Scheinwerfer am Himmel – erster Vollmond des Jahres
(出典 .bz-berlin.de/deutschland/wie-ein-scheinwerfer-am-himmel-erster-vollmond-des-jahres)

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/03(金) 22:53:02.24 ID:Y6rC/aD5.net
>「つき(月)かげ(影)」とは、より適切にメタ言語的に記述しようとするなら、
「月のスポットライト」/「スポットライトとしての月」ということになる。

ここでは、便宜上、「かげ(影)」に「スポットライト」という言葉を
当てているので、やはり「かげ(影)」は「光(ひかり)」を表現している
ではないかという印象を与えてしまうが、さらにメタ言語としての
一般性を重視して言い換へるなら、
「つき(月)かげ(影)」とは、「月の『投射』」/「『投射するもの』
としての月」である、ということになる。
この場合は、「かげ(影)」を「投射」と言い換へているわけだが、
そのように記述することが好都合であることは、それにより、例えば、
「かがみ(鏡)」≒「投射見」、
「かがり(篝)び(火)」≒「投射する火」
といった解釈を直ちに導きだすことができて、より広い仮説の
ネットワークが容易に形成され得るからである。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/04(土) 08:24:03.06 ID:zRp2JF8H.net
日本語の「かげ」≒英語の"cast"である。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/04(土) 10:58:24.27 ID:zRp2JF8H.net
>日本語の「かげ」≒英語の"cast"である。

メタ言語的な記述としてこの対応関係はかなり都合がいい。
なぜなら、「かける」≒"to cast"、「かかる」≒"to be cast"、
「かげ」≒"cast"となって、例えば、万葉集の歌で「可賀(かが)」を
キーワードにして検索してみると(万葉集ナビの検索機能を利用する
ことができる)、「かがみ(鏡)」、「かがり(篝)」、「かがふ(被)り」
その他がヒットして、それらの言葉が同じ歌において詠まれる他の
表現(例えば、「かかる」など)との関係でどのように用ひられているか
に注目すると、表現のネットワークが自然に形成されるからである。

60 :「かげ」の啓蒙、あるいは《Les Lumieres》 als Scheingerechtigkeit:2023/02/04(土) 11:18:40.17 ID:zRp2JF8H.net
そのようにして意識されることになる日本語の表現のネットワークを
踏まえて、あらためて上に引用したドイツ語の表現を見てみよう。

>Wie ein Scheinwerfer am Himmel – erster Vollmond des Jahres

すると、この場合、「満月」/»Vollmond«が»Scheinwerfer«と
見なされるのだから、「かげ」、すなはち、"(what is) being cast"
は、»Schein«/「ひかり」であることになり、「つき(月)かげ(影)」
のように、「ひかり」の作用を表しているはずの表現に「かげ」
という言葉が用ひられるといふ、現代の日本語の感覚からすれば、
一見、奇妙に思へる表現に働いている論理も、何ら日本語に独特の
ものではないことが分かる。だからこそ、
「かげ」/"(what is) being cast"が»Schein«/「ひかり」で
あり得るのとまったく同様に、»Schein«/「ひかり」もつねに
「かげ」/"(what is) being cast"/「仮象」であり得るのだ。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/04(土) 11:52:53.50 ID:zRp2JF8H.net
私は、「暗黒啓蒙」と呼ばれるような言論思想には一切何の関心もなく、
それに関連して名前が挙がるような言論思想界の著名人たちの
著作には、目を通してみようと思ったことすらないが、政治思想的に
どのような立場をとるのであれ、「啓蒙」に対抗するのが「暗黒啓蒙」
であると自然に思ってしまう時点で、いかにも「浅はか」であると私には
感じられる。私がここで指摘してきたような「かげ」の有様をきちんと
踏まえて言論を展開している人は、今の言論思想界のスター
(すなはち、「ほしかげ(星影)」である)とされる人々の間にどれだけ
いるのだろうか。

62 :かげ/仮象/ScheinとしてのNaked Truth:2023/02/05(日) 08:57:09.39 ID:4TzaTU+1.net
光そのものを目の当たりにすることによって生じるのはいつでも、
「目が眩むこと」/"whiteout"であり、したがって、
白日の下にさらされたまことの姿は、たとえそれが、澄んだ空の青さ
と雲の白さのように明瞭なものであったとしても、つねに「かげ」/
「仮象」/»Schein«である。また、ひらきなおって白日の下にさらして
見せるまことの姿もやはり、つねに、自らをも欺く目眩まし/
"whitewash"として作用する。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/05(日) 10:10:10.72 ID:4TzaTU+1.net
「道徳」を批判したニーチェが理想としたのは、しかし、自らが
はだかのままで白日の下にさらされて生きるのをは(恥)ぢること
のないようにすること、日本語としてより分かりやすい表現に
言い換へるなら、
「(他に誰一人見ている人がいなくても)
お天道様には(恥)ぢることのない生き方をすること」である。

>Und ihr Weisen und Wissenden, ihr würdet vor dem
Sonnenbrande der Weisheit flüchten, in dem der Übermensch
mit Lust seine Nacktheit badet!<
(出典 zeno.org/nid/20009254978)

>Wer aus sich kein Hehl macht, empört: so sehr habt ihr Grund,
die Nacktheit zu fürchten! Ja, wenn ihr Götter wäret,
da dürftet ihr euch eurer Kleider schämen!<
(出典 zeno.org/nid/20009254676)

64 :true and fair view:2023/02/05(日) 22:03:32.24 ID:4TzaTU+1.net
ありのままの光景を目の当たりにするとはどのようなことか

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/06(月) 09:50:11.64 ID:vZDu/y+7.net
>日本語の「かげ」≒英語の"cast"である。
このメタ言語的な関係性を意識することで、日本語の表現に働いている
論理がより明確に理解できるようになる。例えば、

〜の恩恵を「こうむ(被)る」←〜の恩恵を「『かが』・ふ(被)・る」
〜のお「かげ(陰)」で

「かかる」≒"to be cast"からは、その再帰表現である
「かか・は(関/係/拘)・る」とはどのような様態を表現しているのかかが
より明確になり、さらに、「うかが(窺/覗)・ふ」も、「う」が他の多くの
表現において「表層」を表現するように用ひられていることを踏まへると、
「う・かが・ふ」(奈良時代には「うかかふ」であったとされる)として
解釈され得るのではないかという意外な推測まで仮説のネットワークとして
生じることになる。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/06(月) 11:51:19.47 ID:vZDu/y+7.net
>「うかが(窺/覗)・ふ」も、「う」が他の多くの表現において「表層」を
表現するように用ひられていることを踏まへると、「う・かが・ふ」
(奈良時代には「うかかふ」であったとされる)として解釈され得るのでは
ないか<

そのように考へた場合、「うかが(窺/覗)・ふ」は、英語の"to survey"に
対応すると考へることができることになる。

>survey (v.)
c. 1400, "to consider, contemplate," from Anglo-French surveier,
Old French sorveoir "look (down) at, look upon, notice; guard,
watch," from Medieval Latin supervidere "oversee, inspect,
" from Latin super "over" (see super-) + videre "to see"
(from PIE root *weid- "to see").<
(出典 .etymonline.com/search?q=survey)

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/06(月) 11:57:25.70 ID:vZDu/y+7.net
「うかかふ」で検索してみると、以下のサイトの次のような記載がヒットした。
ヒットした記載をただコピペしただけなので、このサイトの読み方や語義説明
の妥当性については、私は何も知らない。ただ、このコピペした記載については、
特に何も問題はないように思へる。

>上代語で読む日本書紀〔宣化天皇〕
候海水以來賓
海(わた)の水(みづ)を候(うかか)ひて以ちて賓(まらひと)来(きた)りて<
(出典 http://himiko-y.com/scrp2/d28snk01.html)

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/06(月) 13:55:25.46 ID:vZDu/y+7.net
ここで、例えば、「窺う」と「フランス語」をキーワードにして検索して
みると、
>ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典 第3版(和仏の部)の解説
うかがう(窺う)
guetter, épier, surveiller<
として、《surveiller》がすぐに出てくるので、古語の「うかがふ」を
フランス語の《surveiller》に対応させて考えることは何ら特別なこと
ではないだろう。しかし、この場合、その対応関係は、「うかが(窺)う」
を「う〜」・「−かか−」・「〜ふ」という形態の表現法であると
見做す解釈から推察されたものであり、「う」≒"surface/surfacing"、
「かげ」≒"cast"、「かか・る」≒"to be cast"、「〜ふ」=「復/覆」
(再帰表現を形成するメタ言語的指示)という解釈は、それぞれ独立に、
「うかが(窺)う」という表現の解釈とはまったく無関係に導き出された
ものである。にもかかわらず、「かげ」の考察から、そのまま
「うかが(窺)う」という表現の解釈まで仮説のネットワークとして
つながり、表現法として、英語、フランス語、ドイツ語などにおいて
すぐに対応するような表現を見出すことができることが「意外」に
感じられるのである。実際、言葉の解釈に関心のある日本語を母語と
する、学者を含む一般の人々に「影」と「窺う」は、言葉として互ひ
にどのように関係しているのかと尋ねても、その問ひの意味をどう
捉へたらよいのかすらまったく理解されず、怪訝な顔をされるだけだろう。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/07(火) 13:37:59.57 ID:urT1Nqaz.net
「お天道様」が天下をあまねく照らして「し(知/領)ら」しめる
天のパノプティコンであるとするなら、山から谷まで人の住む地上に
遍在して地のパノプティコンの役割を務めているのが、『古事記』
によれば、山田の「かかし」であり、万葉集の歌にも「たにぐく」と
して詠まれるヒキガエルである。

万葉集 第5巻 800番
>天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は
天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ<
(出典 万葉集ナビ)

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/07(火) 14:06:08.34 ID:urT1Nqaz.net
「かかし」の語源は、不明であるとされ、検索すると、
>かかし【案山子・鹿驚】
精選版 日本国語大辞典「案山子・鹿驚」の解説
〘名〙 (「かがし」とも)
@ (においをかがせるものの意の「嗅(かが)し」から) 田畑が鳥獣に
荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けない
ようにしたもの。[...] おどし。<
という説明がヒットするが、この語源説は、いかにとってつけたような
理屈の説明であり、別名の「おどし」が、フランス語の《épouvantail》
や英語の"scarecrow"に素直に対応するのと比べても、表現法として
不自然である。「かかし」を「か(嗅)ぐ」動作と関連付けて説明しよう
とする動機は、「かかし」には、「かがし」や「かがせ」などとの
別称があり、古くは「かがし」と発音されることの方が多かったと
推察されていることによるものだろうが、「か・か」が「かが」と
発音されるのは何ら不自然なことではなく、「かが」であるから
「か(嗅)ぐ」に違いないと考える分類的な発想は、短絡的である。
例えば、英語の"scarecrow"は、直訳すれば「カラスおどし」で
あるので、そこから連想すれば、「かか/かが」をカラスの警戒の
鳴き声ではないかとする推論が容易に成り立ち、さらに、
別にそれをカラスの鳴き声に限定しなくても、日本語の古語には、
鳥獣類がやかましく鳴き声を出す様子を伝へる「かかめく」という
表現がある。したがって、「かかし」/「かがし」/「かがせ」を、
鳥獣類を「かが(めか)す」おどしであるとする解釈も、何の無理も
なく成立し得るだろう。
>精選版 日本国語大辞典「かかめく」の解説
(「かか」は鳥獣の鳴き声を表わす。「めく」は接尾語) 鳥獣が鳴く。
かか鳴く。
※今昔(1120頃か)二六「猿〈略〉木に走り登て、かかめき合たり」<

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/07(火) 14:07:15.62 ID:urT1Nqaz.net
誤:いかにとってつけた
正:いかにもとってつけた

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/08(水) 09:36:33.59 ID:Ryb4zKYU.net
フランス語の《épouvantail》≒ピジン語としての
日本語の「嚇々(かか/かが)し」⇒「かかし(案山子)」という解釈も
無理なく成立する。

>嚇(Middle Chinese: /hˠaH/, /hˠæk̚/)
1. to frighten; to scare
驚嚇/惊吓 ― jīngxià ― to frighten
2. ⁜ to threaten; to intimidate
恫嚇/恫吓 ― dònghè ― to intimidate

日本語の古語の研究を長年、専門としてきた人々が、このような関係性
に気づいていないことは到底あり得ないのだ。だから、辞書や辞典に
も記載されることとして一般に当たり前のように流通させられている
説明は、いかにも嘘くさく、いかがわしく、どうでもよいものと
感じられることになる。

73 :かつあげ/恫嚇:2023/02/08(水) 09:54:56.30 ID:Ryb4zKYU.net
ここで、「かかめく」の場合には、鳥獣類が互いに同類に警戒させる
鳴き声として発するものとして認識される声から、その声を発して
危険が迫っていることを互いに伝へる行為としての「相互性」を
脱去して、その声を一方向的に用ひるなら、「音波」としては
物理的にまったく「同一の声」が恫喝の声として使ふことができる
ようになるというキアスム的な関係性に留意することは重要だろう。
(例えば、カラスが危険を知らせる鳴き声を録音して、別の複数の
カラスを脅すために使ふこともできる)。

>日本語の古語には、鳥獣類がやかましく鳴き声を出す様子を伝へる
「かかめく」という表現がある。

>>嚇(Middle Chinese: /hˠaH/, /hˠæk̚/)
1. to frighten; to scare
2. ⁜ to threaten; to intimidate

74 :暗い夜道の独り歩きはやめましょう:2023/02/08(水) 10:12:13.21 ID:Ryb4zKYU.net
>気を付けよう甘い言葉と暗い道

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/08(水) 10:30:11.76 ID:Ryb4zKYU.net
>「かげ」の考察から、そのまま「うかが(窺)う」という表現の
解釈まで仮説のネットワークとしてつながり、表現法として、
英語、フランス語、ドイツ語などにおいてすぐに対応するような
表現を見出すことができ<

ドイツ語の場合、「うかが(窺)ふ」を「う〜・−かか−・〜ふ」
という形態の表現法であると理解した場合に私に想起されるのは、
用法がそのまま重なるわけではないものの、»beobachten«という
表現である。
>プログレッシブ 独和辞典の解説
❶ ((英)observe) ((j-et4))(…4を)観察する;監視する,見張る<

»beobachten«は、語源的には、"be- +&#8206; Obacht +&#8206; -en"と解釈
されるが、"be-"の用ひられかたは、日本語の「〜ふ」に、
"Obacht"の"ob"は、日本語の「う〜」に、"Acht"を動詞化して
それを自らの行為とする"be-achten"は、日本語の「気に『かける』」
ことに対応するものと見ることができるだろう。

76 :期待される学習効果:2023/02/08(水) 16:27:05.99 ID:Ryb4zKYU.net
>Diederichs Inneres zog sich noch mehr zusammen unter
dem Gefühl eines schaudererregenden Abgrundes,
wie er sich auftat zwischen Jadassohn, der hier die Macht
vertrat, und ihm selbst, der sich zu nahe ihrem Räderwerk
gewagt hatte. Es war aus frommer Absicht geschehen,
in übergroßer Verehrung der Macht: gleichviel, jetzt
hieß es sich besonnen verhalten, damit sie einen nicht
ergriff und zermalmte; sich ducken und ganz klein machen,
bis man ihr vielleicht doch noch entrann. Wer erst wieder
dem Privatleben gehörte! Diederich versprach sich,
fortan ganz seinem geringen, aber wohlverstandenen
Vorteil zu leben. <
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/230)

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/08(水) 20:19:38.09 ID:Ryb4zKYU.net
今、現代思想として論じられている言説などよりよほど「現代性」を
感じさせる小説だけど、検索しても、日本では、この作品について
ほとんど何も論じられていないに等しいね。私自身も偶々、»Untertan«
という表現を検索していたらこの作品がヒットして、とても安価だった
ので入手してみただけで、まだ半分くらいまでしか目を通していないが。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/08(水) 23:57:56.22 ID:Ryb4zKYU.net
>ある貧者、螽を捕らうずるとゆく路次において蝉をみつけ、
乃ちこれをとつて殺さうとするところで、かの蝉の申すやうは、
さりとて我を殺させられうこと本意ない儀ぢや、それをなぜに
と申すに、五穀草木に障りとはならず、さして人に仇をなすこと
はござない、結句梢にのぼつて、さへづりをもつて夏の暑さを
慰めまらするところに、理不儘に殺させらるることは何ごとぞ
と事を分けて申せば、そのもの道理に責められて、たちまち
赦免いたいた。<
『天草本 伊曽保物語』、新村出 翻字、pp.25-6

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/09(木) 09:58:32.30 ID:Uvfwjhig.net
「イソポ」を引用したついでに思ひついた喩えをひとつ書き込んでおこう。
私が書き込むのは独り言ばかりであるが、私の「独り言」は私という
個人の独力によって成立しているものなどではまったくない。
私の「独り言」は、つねに多くの他人の力を借りながら、
「力を合はせる」ことによって成立している。しかし、それは、
その言葉の通常の意味で他人の「協力」を得ているということでもない。
それはむしろ、角力/相撲の多様な投げの決まり手が、取組み相手の力を
借り、自分の力を相手の押したり引いたりする力に合はせることでしか
生まれないのと同様のことである。その際、相手が私に「協力」して、
うまく投げてもらおうというと思っているということはない。むしろ、
そのように「協力」してもらったなら、投げの効率を高めることが
可能になったとしても、投げの決まり手の多様性は失はれてしまうだろう。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 10:25:52.02 ID:BVa76XNq.net
>「イソポ」を引用したついでに思ひついた

「ついでに」という表現には、「序(つい)でに」という漢字が当てられる
ことが慣習となっているが、「ついでに」における「ついで」は表現と
して明らかに「つ(次)いで/序(ついで)」の「ついで」とは異なるだろう。
私には、「ついでに」という表現は、「つい(対)い(出)でに」の発音を
圧縮したものであるように感じられるが、検索してもそのような説を
唱えている記述はまったく見当たらない。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 10:48:07.52 ID:BVa76XNq.net
古文に現れる「対」という漢字は、漢語として「たい」と読まれるが、
英語の"pair"に対応する「一対(つい)」の「対」に「つい」または
「つゐ」という平仮名が当てられていることは、私には奇妙に感じられる。
それは、やはり英語の"pair"に対応するように用いられる「つがひ(番)」
の発音が自然に感じられるのとは対照的だ。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 13:10:45.55 ID:BVa76XNq.net
このようなことを言ひ出したのは、仮に「対(つい)」が「つひ」であった
とすれば(そのような証拠は検索しても見当たらないが)、表現として
それはドイツ語の»Bezug«や、その動詞形の»beziehen«に似ている
と感じられるからであり、そのような連想が生じたのは、ドイツ語の
動詞の前綴りとされる"be-"がどのような表現であるのかについて、
少し考へていたからである。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 13:22:38.80 ID:BVa76XNq.net
私は、ドイツ語については、教育を受けたことがなく、ドイツ語の文法や
表現法について、まったくの素人で、ドイツ語の辞書すら所持してないが、
それでも、ドイツ語の文章に目を通していると、頻繁に用ひられる
»be-〜«という形の動詞に表現としての共通性が感じられる。

上の書込みで私は、»beobachten«という動詞の»be-〜«を
「うかがふ」という表現における「〜ふ」に対応させたが、
»be-〜«は動詞を再帰形にするための表現でも、「〜ふ」の
ように、メタ言語的にひっくり返しを指示するものでもない。
それでも、この場合に»be-〜«を「〜ふ」に対応させることは、
それなりに理に適っているように私には感じられる。では、
それは、どのような理由によるものだろうか。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 13:36:52.87 ID:BVa76XNq.net
私は、ドイツ語の動詞の前綴り»be-〜«について、言語学やドイツ語学
において、これまでどのような研究がなされてきたのか一切知らない。
"ドイツ語"&"前綴り"&"be"などのキーワードで»be-〜«の表現法に
ついて検索してみても、文法的な説明はすぐに見つかるものの、
それがどのような表現法であるのかをメタ言語的に説明する記述は
まったく見当たらない。かろうじて、»be-〜«は、動詞を「強調
する」働きをするといったような説明は見られるが、動詞の何を
どのように強調するのかが適切に記述されなければ、これでは、
何も言っていないに等しい。その一方で、»be-〜«の形の動詞が
並べられたリストを見れば、すぐに共通性が感じられ、一見、
すぐにでもその共通性を記述できるように思へるが、実際に
記述してみようとすると、適切なメタ言語的な表現を見出すこと
は、それほど簡単ではない。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 13:44:08.47 ID:BVa76XNq.net
ただ、ここで、ドイツ語の動詞の前綴り»be-〜«が、場合により、日本語の
「〜ふ」に対応させることができるようにそれなりに似ていると感じられる
ことは、記述のための手がかりとして役立つように私には思へる。
そこで、私が暫定的に思ひついたメタ言語的な記述は、以下のとおりである。

>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする。<

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 14:07:23.72 ID:BVa76XNq.net
語源的に見れば、ドイツ語の動詞の前綴りの»be-〜«に何ら謎はない。
問題となるのは、その表現としての効果をどのようにメタ言語的に記述
することが適切か、だけである。例えば、»be-〜«の表現として効果は、
英語の"come"に対応する»kommen«と、
英語の"come by"に対応する»bekommen«
を比べて見れば、一目瞭然である。
>"come by something",
to get something, using effort, by chance or in a way that
has not been explained<
(出典 dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/come-by)

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 14:12:49.50 ID:BVa76XNq.net
>become (v.)
Middle English bicomen, from Old English becuman "happen,
come about, befall," also "meet with, fall in with; arrive, approach,
enter," from Proto-Germanic *bikweman (source also of Dutch bekomen,
Old High German biqueman "obtain," German bekommen,
Gothic biquiman). A compound of the sources of be- and come (v.).

It drove out Old English weorðan "to befall." The older sense is
preserved in what has become of it? The meaning "change from
one state of existence to another" is from 12c. The meaning
"to look well, suit or be suitable to" is by early 14c., from
the earlier sense of "to agree with, be fitting or proper" (early 13c.).<
(出典 etymonline.com/search?q=become)

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 14:27:33.69 ID:BVa76XNq.net
要するに、ドイツ語の動詞、»bekommen«の»be-〜«は、その表現
としての働きとして、英語の"come by (something)"という表現における
"by"にそのまま対応している。では、この"by"は、ドイツ語の
»kommen«にやはりそのまま対応する"come"との関係において、
どのような働きをしていると考へることが適切なのか。
その問ひに対する私の暫定的な応へが、この場合、"by"は、
"come"を修飾して、"come"の作用の効果として主体性を
再帰的に表出させる働きをしている、というものである。
ただし、ここで最も注意しなければならないのは、「主体性」
という用語を、「主語」や「目的語」などの文法用語と
混同してはならないということである。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 14:42:59.13 ID:BVa76XNq.net
>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする。<

しかし、ここで、»be-〜«に対して、つまり、"come by"の"by"に対して
「再帰的に」という表現を用ひることは適切だろうか。私は、それは
条件付きで適切だろうと思ふ。どのような条件かと言へば、それは、
その再帰を、あらかじめ存在するものとして想定される主体への再帰
として捉へるという決定的な過ちを犯さない限りにおいてである。
私は、「主体性を再帰的に表出させる」と言っているのであって、
「主体に作用を再帰的に及ぼす」と言っているのではないことに留意しよう。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 14:57:50.42 ID:BVa76XNq.net
例えば、»ziehen«は、「引く」、「引っ張る」といったような作用
を表現する動詞だが、その作用を»be-〜«によって修飾した動詞で
ある»beziehen«の次のような用法も参考になるだろう。

プログレッシブ 独和辞典の解説
>❸ ((et4))(…4を)定期的に受け取る
eine Zeitung beziehen\新聞を定期購読する
eine Rente beziehen\年金を受ける.
❹ ((et4))(…4に)移り住む
ein neues Haus beziehen\新しい家に入居する.
❺ ((et4))(立場など4を)取る
einen klaren Standpunkt beziehen\態度をはっきりさせる.<

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 20:13:54.88 ID:BVa76XNq.net
別の例を見てみよう。

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>schwören
❶ [他]([英] swear)誓う, 宣誓する; ⸨話⸩ 断言する; [自]
>beschwören
❶ ([英] swear)(…が)真実であることを誓う〈誓約する〉

この場合は、引用した部分だけでは、»schwören«であろうと、
»beschwören«であろうと、いずれにも"swear"という英訳が
対応させられ、表現としてあまり変化が生じていないように見える。
だが、実は、これは説明の一部だけを引用したからそう見える
だけで、»schwören«とは異なり、»beschwören«は、
英語の"conjure"という表現に対応するようにも用いられる。

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>❸ (…を魔力・呪文で)呼び出す; 祓(はら)う, 追い出す; 操る.
>❹ (…を)呼び覚ます, 呼び起こす.

>con‧jure
1 [intransitive, transitive] to perform clever tricks in which you
seem to make things appear, disappear, or change by magic
2 [transitive] to make something appear or happen in a way
which is not expected <
(出典 ldoceonline.com/jp/dictionary/conjure)

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 20:27:14.00 ID:BVa76XNq.net
ここで、ドイツ語の»beschwören«と英語の"conjure"を語源的に
見比べてみると、ドイツ語の»be・schwören«に対して、
英語の"conjure"の方は、
>from Latin coniūrō (“I swear together; conspire”),
from con- (“with, together”) + iūro (“I swear or take an oath”)<
(出典 Wiktionary)
であり、»schwören«が"iūro"に対応するのだから、ここで»be-〜«
が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応していることになる。
さて、引用した語源説明では、"con-〜"は、"with, together"に
対応する「意味を表す」ものと解釈されているが、この説明は妥当
だろうか。私には、このような形での語源解釈は、言葉を表現法
として捉へることを疎かにする言語学的な説明の致命的な弱点を
如実に反映したものであるように見える。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/10(金) 20:29:12.48 ID:BVa76XNq.net
あまり言い過ぎるとまたアクセス禁止を食らふので、ここらへんで自重しておこう。

94 :なぜでしょうねw:2023/02/10(金) 22:26:38.40 ID:BVa76XNq.net
逆鱗に触れる

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 11:03:25.21 ID:Il5ORs6Y.net
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

その言語を母語とする専門家であれば、必然的に、その言語における
表現を、その言語を母語としない者と比べて、より容易に、適切に
メタ言語的に記述することができると考へることは、思ひ込みに過ぎ
ない。確かに、人は、自分が母語とする言語の表現を使ひ慣れて
いるので、ひとつの表現をさまざまな別の言い方で表現することも
できる。その言い換へを意識的に示すことは、表現のメタ言語的な
記述の役割を果たし、そのようにして表現の用法を説明することに
おいては、自分が母語とする言語について、それを母語としない
人々と比べて、圧倒的に優位にある。しかし、慣用化された表現
が、なぜそのように表現されるのかをメタ言語的に細かく記述する
ことが求められた場合、その優位性はたちどころに失われる。なぜなら、
慣用化された表現はまさしく、それをメタ言語的に細かく記述する
ように求められないことに有用性があり、その有用性を慣習として
身に付けていることが、その言語を母語としていることだからである。
例えば、日本語を母語としている人が、「みっともない」という
表現はどのような表現なのかを問はれたとすると、この表現がどの
ように用ひられるのかを言い換へによって示すことは簡単にできる
だろうが、「『みっとも』ない」の「みっとも」とはどのような
表現なのかメタ言語的に細かく記述することのできる人はまずいない
だろう。せいぜい、辞書や辞典を参照したり、ネットを検索したり
して、そこに示される「解答」を権威ある「正解」として示すこと
ができるだけである。そのような「正解」を探し出すことなら、
別にその言語を母語としているかいないかは、便宜上、それが
探索に有利に働くかどうかの違いに過ぎない。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 11:23:18.20 ID:Il5ORs6Y.net
ここで、「みっともない」という表現を例に出したのには理由がある。
私自身、日本語を母語としているものの、この「『みっとも』ない」の
「みっとも」がどのような表現なのかよく分からない。そこで検索して
みると、「みっとない」は、「見たくもない」という意味の「みとうもない」
の発音が変化したものであるという説明がヒットする。そこで私に
分かるのは、そのような説明を権威ある「正解」として示す人々が
それなりに多くいるというだけで、特に「みっとも」がメタ言語的に
記述されて表現としてよく分かるようになったとは感じられない。
また、これを「正解」とするのであれば、それによって得られる
「みっともない」という表現の理解は、日本語を母語としているか、
それとも外国語として学習してよく知っているかにより違いが生じる
ことも特にないだろう。ところで、「みっともない」は、
「さまにならない」、「ぶざまである」、さらには、場合により、
「がらにもない」などと言い換へることができるが、これに
対応する古語の表現として容易に見出されるのが、「さま(様)あ(悪)し」
であり、「みっともない」/「さま(様)あ(悪)し」に対応する英語の
表現が、"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)の否定形である
"unbecoming"である。ここで、当然、想起されてよいのが、
"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)は、表現の用法としては
今ではまったく異なるものとなっているドイツ語の»bekommen«と
語源的に共通していることだ。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 11:49:25.36 ID:Il5ORs6Y.net
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

この自分の書込みを再び引用したことにも理由がある。これは、
ドイツ語の»be・schwören«と英語の"con・jure"の対応関係について
述べたものだが、これらの表現において»be-〜«と"con-〜"がそれぞれ
果たしている役割が対応していることは、たまたま(偶々)ではない。
日本語を母語としていて、学校の勉強以外で外国語に触れたこともない
という人でも、大多数は「コンビニ」という言葉は知っているだろう。
「コンビニ」は、"convenience store"を省略形にしたカタカナ語
なので、「『コン』ビニ」の「コン」は、上に述べたラテン語由来の
"con-〜"である。では、"con・venience"の"venience"の方はどうか
と言へば、こちらは、同じくラテン語の動詞、"venire"に由来して、
英語の"to come"に対応する。さて、そこで、この"con・venience"の
ラテン語由来の"con-〜"を"be-〜"に、"venience"を"coming"に
対応させるとどうなるだろうか。言ふまでもなく、もたらされるのは、
"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)である。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 12:03:09.68 ID:Il5ORs6Y.net
これがどういうことが分かるだろうか。私のようなドイツ語の素人に指摘
されるまでもなく、この英語の"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)の
用法をもたらしたのと語源的に共通する表現は、現代のドイツ語としては、
英語の"comfortable"や"convenient"に対応するように用ひられる
»bequem«となっている。

>bequem
Etymology
From Middle High German bequæme, bekōme (“suitable”), from
Old High German biquāmi, derived from biqueman (whence
German bekommen).<
(出典 etymonline.com/search?q=convenient)

他方で、ラテン語を継承するフランス語においては、
《convenir》、「〘 à 〜、〜に〙適している、似合う」
《convenable》、「〘 pour 〜、〜に〙適当な、ふさわしい」
《convenance》、「適当、適合、合致、都合、便宜」
などの表現が用ひられている。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 12:20:49.11 ID:Il5ORs6Y.net
いろいろと細かいことを言っているが、ここで重要なのは、
英語の"becoming"にしろ、ドイツ語の»bequem«にしろ、フランス語
の《convenable》にしろ、これらの表現に共通しているのは、それを
日本語で端的に表現するなら、その様態が「あ・ふ」ものであることだ。
「様態が『あ・ふ』」ことが、「さま(様)よ(良)し」であり、
その否定が「さま(様)あ(悪)し」である。「〜ふ」は、「あ(悪)し」
の場合にはっきりと見てとれるとおり、「離れる様態」を表す
「あ」を「ひくり返す」というメタ言語的な指示なので、確かに、
表現として、そのような「ひっくり返し」を指示するものではない
"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》とは、表現法上の機能が異なっている。
それでも、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである。これが、ドイツ語の表現における»be-〜«に
「〜ふ」を対応させて語源解釈をした理由である。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 12:24:53.54 ID:Il5ORs6Y.net
ちなみに、ゲルマン語学における»be-〜«の説明は、代表的には、次の
ようなものだろう。私には、これが適切なメタ言語的記述となっている
とは思へない。

>The Old English prefix also was used to make transitive verbs
and as a privative prefix (as in behead). The sense "on all sides,
all about" naturally grew to include intensive uses (as in bespatter
"spatter about," therefore "spatter very much," besprinkle, etc.).<
(出典 etymonline.com/word/be-?ref=etymonline_crossreference)

101 :unbecoming/さま(様)あ(悪)し:2023/02/11(土) 14:54:43.73 ID:Il5ORs6Y.net
>狗兒と馬の事
狗兒をその主人愛して、つねに膝のうへに置き、だきかかへて、不便を
加へられた。又ある時その主人ほかから歸られたれば、その膝にあがり、
胸に手をかけ、口をねぶりなどして、いと馴々しい體であったによって、
主人いよいよ愛せられたところで、驢馬この由をみて、羨む心がおこ
つたが、「われもあのごとくにして愛せられう」とおもひ、あるとき
主人の胸に兩足をあげ、口をねぶり、その座を駈けめぐれば、主人は
大きに腹をたてて、さんざんに打擲し、もとの厩へ追ひくだされた。<
『天草本 伊曽保物語』、新村出 翻字、p.45

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 22:46:42.83 ID:Il5ORs6Y.net
>>100
英語におけるこの"be-〜"についての(したがって、ドイツ語における
»be-〜«についての)このメタ言語的な記述が、私には適切であるとは
思へないのは、この記述では、なぜこの語源的には英語の"by"に
つながる"be-〜"の表現上の用法が、語源的にも、その単独の用法
においてもまったく別であるラテン語由来の"con-〜"の表現上の
用法と対応するのか、まるで説明できなくなるということだけではない。
この記述では、実のところ、英語を母語とする人々の多くにとって
とても大切な表現であるはずの"believe"および"belief"という言葉
すら、まともに語源的に解釈することができないのである。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 23:04:15.99 ID:Il5ORs6Y.net
>Etymology
From Middle English beleven, bileven, from Old English belīefan
(“to believe”), from Proto-West Germanic *bilaubijan (“to believe”),
equivalent to be- +&#8206; leave (“to give leave or permission to, permit,
allow, grant”). Cognate with Scots beleve (“to believe”),
Middle Low German belö̂ven (“to believe”), Middle High German
belouben (“to believe”).

A related term in Old English was ġelīefan (“to be dear to;
believe, trust”), from Proto-West Germanic *galaubijan
(“to have faith, believe”), from Proto-Germanic *galaubijaną.<
(出典 en.wiktionary.org/wiki/believe)

>believe (v.)
Origin and meaning of believe
Middle English bileven, from Old English belyfan "to have faith
or confidence" (in a person), earlier geleafa (Mercian),
gelefa (Northumbrian), gelyfan (West Saxon), from
Proto-Germanic *ga-laubjan "to believe," perhaps literally
"hold dear (or valuable, or satisfactory), to love"
(source also of Old Saxon gilobian "believe," [...]<
(出典 etymonline.com/search?q=believe)

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 23:18:45.09 ID:Il5ORs6Y.net
これらの語源説明では、"believe"もやはり"be-〜"という形の
表現であることが明示されるものの、なぜ"be-〜"なのか、
またそれが表現上、どのような役割を果たしているのかまったく
説明されていない。<
>equivalent to be- +&#8206; leave (“to give leave or permission to,
permit, allow, grant”)
と記載されるが、"be-〜"がなぜ、どのように"to give 〜"を表現する
と解釈され得るのか不明であり、そもそも、さらに"leave"の語源
解釈を参照するなら、この説明が不自然であることに気づくはずである。
>Etymology 1
From Middle English leven, from Old English lǣfan (“to leave”),
from Proto-West Germanic *laibijan, from Proto-Germanic *laibijaną
(“to let stay, leave”), causative of *lībaną (“to stay, remain”),
from Proto-Indo-European *leyp- (“to stick; fat”). <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/leave#English)

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 23:37:17.05 ID:Il5ORs6Y.net
見てのとおり、"be-lieve"の"-lieve"に対応するOld English lǣfan
(“to leave”)が表現しているのは、「そのままにする」ことである。
では、「そのままにする」作用を"be-"で修飾することが、その作用
の効果として主体性を再帰的に表出させる働きをするとすれば、
"be-lieve"はどのような表現であると理解されることになるだろうか。
それは、「あづ(預)く」こと、「まか(任)す」こと、「たく(託)す」、
「ゆだ(委)ねる」こと、さらには日本語の古語の用法における
「(神仏を)たの(頼)む」こととなるだろう。そして、そのように
解釈された"be-lieve"にちょうど対応するのが、フランス語の
《confier A à B》であり、《se fier à qn/qc》である。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/11(土) 23:47:22.04 ID:Il5ORs6Y.net
こんなことをいくら書き込んだところで、誰にも感謝されないどころか、
迷惑がられるだけであることは明らかで(匿名でなしに同じ発言したと
したなら、徹底的に人格を否定されることになるだけである)、
私個人にも何ら「実益」をもたらすわけではないが(「実害」をもたらす
惧れなら大いにある)、一応、言ひたいことが、アクセス規制を受けずに
書き込めたことは良かった。

107 :すがのねのねもころごろに:2023/02/12(日) 09:15:00.54 ID:3Oy82E4v.net
>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする。<

>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである。<

これらのことをまとめて一度に示すのにとても好都合な例が
英語にはある。それは、普通は「婚約する」と日本語に訳される
"to betroth"である。"to betroth"は、より直訳に近い形で
日本語にするなら、「まこと(誠)/忠実さをちか(誓)ふ」こと
を意味しており、これに対応するスペイン語の表現は、
ラテン語の"comprōmittere"に由来する"comprometer"である。

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/12(日) 09:22:49.05 ID:3Oy82E4v.net
一般に通用している英語の語源説明が、"be-〜"の表現上の用法の
解釈についてどれほど無理を押し通そうとしているのかは、
この"to betroth"という表現の語源解釈の記述を参照してみると
はっきりするだろう。

>betroth (v.)
c. 1300, betrouthen, "to promise to marry (a woman)," from be-,
here probably with a sense of "thoroughly," + Middle English
treowðe "truth," from Old English treowðe "truth, a pledge" (see truth).
It is attested from 1560s as "contract to give (a woman)
in marriage to another, affiance." <

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/12(日) 10:01:45.98 ID:3Oy82E4v.net
"to betroth"/「まこと(誠)/忠実さをちか(誓)ふ」ことの誓ひが
果たされると、有効となるのが配偶者間の義務関係である
"conjugal obligations"である。数学において"conjugal"に
対して用ひられる日本語訳は、「共役」であるが、より直訳
に近い形で訳すなら、"conjugal"は、語源的にラテン語の"coniugare"
に由来するので、「共軛」、つまり、「くびき(軛/頚木)をともにする」
ということになる。
>coniugare "to join together," from assimilated form of com
"with, together" (see con-) + iugare "to join," from iugum "yoke"<
(出典 etymonline.com/search?q=conjugation)

ここで、"co-〜"は、どのような働きをしているだろうか。上の語源説明
では、"co-〜"は、"with, together"に相当する「意味を表している」
ものと解釈され、それが"iugare"/「くびき(軛/頚木)をかける」作用に
対して「足し算」の記号で示されているが、"conjugation"が表現して
いるのは、「一緒にくびき(軛/頚木)をかける」ことではない。
そうではなく、"co-〜"によって"iugare"/「くびき(軛/頚木)をかける」
作用を修飾することで表現されることになるのは、「くびき(軛/頚木)を
ともにする」ことであり、したがって、"co-〜"による作用の修飾が
もたらしているのは、「くびき(軛/頚木)をともにする主体性」を
再帰的に表出させる働きである。あらためて繰り返すが、ここで
「再帰的に」と表現する場合、私は、"co-〜"が、
「くびき(軛/頚木)をかける」作用をあらかじめ存在するものと
される主体に再帰的に及ぼす働きをすると言っているのではない。
そうではなく、「主体性を再帰的に表出させる」と言っているの
である。

110 :一蓮托生:2023/02/12(日) 10:10:50.65 ID:3Oy82E4v.net
>compromise (n.)
early 15c., "a joint promise to abide by an arbiter's decision,
" from Old French compromis (13c.), from Late Latin compromissus,
past participle of compromittere "to make a mutual promise"
(to abide by the arbiter's decision), from com "with, together"
(see com-) + promittere "to send forth; let go; foretell;
assure beforehand, promise," from pro "before"
(from PIE root *per- (1) "forward," hence "in front of, before")
+ mittere "to release, let go; send, throw" (see mission).<
(出典 etymonline.com/search?q=compromise)

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/12(日) 10:46:22.90 ID:3Oy82E4v.net
新村出 翻字『天草本 伊曽保物語』のなかの話では、私は、なんといっても
pp.48-9の「イソポ、アテナスの人々に述󠄁べたる譬の事」が一番好きだ。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/12(日) 11:26:44.27 ID:3Oy82E4v.net
>"be-lieve"の"-lieve"に対応するOld English lǣfan
(“to leave”)が表現しているのは、「そのままにする」ことである。<

このOld English lǣfan(“to leave”)の感覚は、スペイン語であれば
"dejar"に、フランス語であれば、《délaisser》に対応させてイメージ
すると分かりやすいが、スペイン語の"dejar"が、日本語のカタカナ語
ともなっている「リラックス」につながるラテン語の"laxāre"に遡る
ことから、フランス語の《délasser》、さらにそこから《reposer》
の用法を考えてみることも、英語の"believe"が語源的に表現している
と考えられる感覚をイメージするのに役立つ。

>ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典 第3版(仏和の部)の解説
reposer
[自]
❶ ((sur))(…に)基づく,根拠を置く;(…の上に)建つ.
❷ [文章]休む;横になる;眠る;永眠する.
❸ laisser 〜 du vin ワインを寝かせておく.
━[他]休める,疲れをいやす;(体の一部を)もたせかける.
━se 〜
❶ 休む,休養する.
❷ ((sur))(…に)任せる,頼る.

万葉集 第5巻 904番
>いつしかも 人と成り出でて 悪しけくも 吉けくも見むと 大船の 思ひ頼むに
(出典 万葉集ナビ)

このように見てくると、英語の"to believe"が表現している感覚が、この
「思ひ頼むに」の「たの(頼)む」に対応していることが分かるはずである。

113 :頼母子講:2023/02/12(日) 20:10:46.75 ID:3Oy82E4v.net
このように見てくると、
"belief"とは、「(何かを)たの(頼)むおも(思)ひ」である
という、誰でも最初から知っている当たり前のことが分かる。

したがって、誰かが懐いている「(何かを)たの(頼)むおも(思)ひ」が
誤っていると考へて、いくら自分が信頼できると思っている事実を
その相手に示してみせたところで、その事実がその相手の懐いて
いる「たの(頼)むおも(思)ひ」に応へることのできるものでなければ、
大抵の場合、その「思ひ」を変へることはできないのである。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/13(月) 09:06:42.34 ID:ILMvFJ8R.net
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

»bestätigen« ⇔ "to confirm"

»be-〜«は、英語の"I hereby 〜"と宣言する場合の"hereby"の
"by"がそうであるように、発話遂行的な働きをしている。

115 :急がば回れ:2023/02/13(月) 09:39:47.08 ID:ILMvFJ8R.net
与へられた形式にそのまま沿ふようにしてみることの利点とは、
それにより、望ましくないために認めたくない不都合な事実にも
自動的に気づかされる結果がもたらされることである。

例えば、地図上で現地点から目的地まで定規で直線を引いてみる。
すると、直線距離としては現地点から目的地まで数百メートルしか
離れていないのに、途中に鉄道の線路があり、踏切りがなく、
道路が行き止まりになっていて、高架橋で道路が線路を超える
地点まで数キロメートルの回り道をしなければならないことに
気づかされる。そんなはずはない。通れる場所があるはずだという
思ひに強く囚われてしまうと、反現実的な想定に期待をかけて、
理不尽に無駄な時間と労力を費やすことになることが多い。

116 :「を(復)と・つ・ひ(日)」再臨する救済の神:2023/02/13(月) 10:08:41.98 ID:ILMvFJ8R.net
一神教とは、»Wille zur Macht«に応へる存在者を「たの(頼)むおも(思)ひ」
を統一的に組織化する特別な形式である。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/13(月) 10:13:57.42 ID:ILMvFJ8R.net
日本語の古語で用ひられた「を(復)ちみづ(水)」という言葉を知っているだろうか。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/13(月) 10:55:10.30 ID:ILMvFJ8R.net
人は誰でも、現状で「あ(悪)しきこと」や「まがまが(禍々)しき」
ことに襲はれていれば、またはそのようなことが生じる惧れがあれば、
どのようにかしてそれをまぬが(免)れることが「できることを」
(すなはち、»Wille zur Macht«である)ねが(願)ふ。
「を(復)ちみづ(水)」とは、それを飲むことによって
「『い(息/生)のち(力)』を『みなぎ(漲)ら』せる」ことの
できる万能薬であるが、一神教とは、あらゆる「あく(悪)」を
ただ(正)すことができ、あらゆる「まが(禍)」をなほ(直)すことが
できる万能性のちから(力)を「たの(頼)むおも(思)ひ」を統一的に
統合しようとする形式である。一神教においては、そのような
万能性のちから(力)を具現化する救済の神が再臨することになる
のは、「を(復)と・つ・ひ(日)」であると告げられる。そのお告げ
を希望をもたらす「福音」であると感じるか、悪い冗談であると
感じるかは、人それぞれだろう。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/13(月) 11:01:58.75 ID:ILMvFJ8R.net
万葉集 第17巻 4011番
>たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息づきあまり
けだしくも 逢ふことありやと あしひきの をてもこのもに 鳥網張り
守部を据ゑて ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文に取り添へ 祈ひ祷みて
我が待つ時に 娘子らが 夢に告ぐらく
(出典 万葉集ナビ)

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/13(月) 11:06:47.44 ID:ILMvFJ8R.net
万葉集 第5巻 904番
>思はぬに 邪しま風の にふふかに 覆ひ来れば 為むすべの たどきを知らに
白栲の たすきを掛け まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ祈ひ祷み
国つ神 伏して額つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり
我れ祈ひ祷めど しましくも 吉けくはなしに
(出典 万葉集ナビ)

121 :Fidelity Fund:2023/02/13(月) 13:01:54.33 ID:ILMvFJ8R.net
ところで、たのもし(頼母子)講とは、"credit union"である。

122 :まちがひありません:2023/02/13(月) 13:12:04.15 ID:ILMvFJ8R.net
I stand by my words.

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/13(月) 14:17:12.23 ID:ILMvFJ8R.net
It seems to me that the seeming inability of English and German
language specialists to explain the use of the prefix, "be-"
adequately may well be "betraying" something very important about them.

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/13(月) 15:42:32.39 ID:ILMvFJ8R.net
それにしても、学問板からの永久追放(アクセス禁止)は年を越えようと、
もうずっと変わらないな。いつからアクセス禁止になったのかもう
記憶にないくらい。私ごときに発言を許すことのなにがそんなに不都合なのかw

125 :I mean it.:2023/02/14(火) 13:48:37.07 ID:ZGxh3YyZ.net
英語の"to betroth"(「まこと(誠)/忠実さをちか(誓)ふ」)という
表現において、"be・troth"における"troth"は、語源的に古英語の
"treowðe"(「まこと(誠)/忠実さ」)に由来し、これは、現代の英語で
使用される"truth"の語源でもある。したがって、そもそも、なぜ、
どのように"to betroth"という行為が可能であるのかを考へてみると、
発せられる言葉の「意味」とは、その言葉を発する行為に認められる
"betrothal"(「まこと(誠)/忠実さのちか(誓)ひ」)としての
「かひ/効験」であるということになる。

つまり、
>'snow is white' is true if and only if snow is white.
といった例文で代表的に示されるような"truth-conditional semantics"
(真理条件的意味論)が教へているのは、"to betroth"(「まこと(誠)/
忠実さをちか(誓)ふ」)という行為が成立するのは、その機会のための
特別な誓約の言葉を発からではなく、むしろ、その「つもり」で
何かを言ふ行為そのものが、"to betroth"(「まこと(誠)/忠実さを
ちか(誓)ふ」)こととして言葉の「意味」を成しているからである、
ということだ。

126 :Was bedeutet das?:2023/02/14(火) 14:01:46.00 ID:ZGxh3YyZ.net
その意味で、英語やドイツ語を研究する専門家が、英語とドイツ語の両方に
おいて多用され、表現上、極めて大切な役割を担っていると思はれる
前綴り、"be-〜"/»be-〜«を、見たところ、まるでまともに説明できて
いないことは、とても»bedeutsam«であると言ふことができるだろう
と私は思ふ。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/14(火) 14:12:51.13 ID:ZGxh3YyZ.net
哲学することを言葉として伝へようとする限りにおいて、
言語表現がどのように用ひられているのかについてのメタ言語的な
記述を抜きにして哲学することはできない。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/14(火) 14:48:24.83 ID:ZGxh3YyZ.net
「あさって必ず返すから、少し金を貸してくれ」と頼んで人から
金を借りて、借りた日から3日経っても返す様子がないので
返済を促されて、再び「あさって必ず返すから」と言ったなら、
それは「意味のある」言葉ではなくて、「虚言(そらごと)」で
ある可能性が高い。では、「近いうちに必ず返すから、少し金を
貸してくれ」と頼んで人から金を借りて、いつまでたっても
返す様子がないので催促すると、「近いうちに返すって言った
だろ。をとつひ(一昨日)になったら必ず返すから」と返答した
としたらどうだろう。普通であれば、それは、「金輪際、
借りた金を返すつもりはない」という返事であるものと理解
するだろう。そのような言葉をとして人に与へて、それを
「まこと」として成立させることができるのは、現世の人で
はなく、メシアだけである。なぜメシアがそのような言葉を
「まこと」として成立させることができるかと言へば、それは、
メシアは、現世の人のように時間的に限定された存在ではない
からである。さらに、メシアの言葉は、お告げとして現世の
人に与えらえるものの、それが「まこと」として成立するの
は、「をとつひ(一昨日)」がやってきてから、つまり、言葉
を受け取った人の方も、現世の肉体を離れてた魂(たましひ)
として、時間的に限定されない存在となってからである。
時間的に限定されない存在となった魂(たましひ)に、
にもかかわらず、なぜか、現世の肉体を伴っていた人格が
保たれているというのは不思議な話ではあるが。

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/14(火) 15:27:00.87 ID:ZGxh3YyZ.net
制度宗教とかかわりがなく、自分は無信仰であると思っている人々は、
自らの「(何かを)たの(頼)むおも(思)ひ」が一神教の制度宗教の神学
によって教えられるものと同様の形式に則っていることにまったく
気づくことができないことがよくある。

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/14(火) 15:28:52.36 ID:ZGxh3YyZ.net
誤:そのような言葉をとして人に与へて
正:そのような言葉を「まこと」として人に与へて

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/14(火) 23:16:09.18 ID:ZGxh3YyZ.net
またこのようなことを言ふとアクセス規制を受ける惧れはあるが、
誤解のないようにはっきりと言っておこう。>>123>>126
ような指摘をするとき、英語やドイツ語の研究者でもなく、ドイツ語に
ついては教育を受けたことすらない私の方が、これらの言語を長年
研究してきた専門家よりも、これらの言語の表現についてより深く
理解しているなどというようなことを示したいわけではない。
私は、ここには何か著しく奇妙なことがあると指摘しているのであり、
このような奇妙さを敢へて(「敢へて」というのは、この場合に限定
されず、同様に本当は多くの人々が簡単に気づくはずの「奇妙なこと」
を匿名ではなしに、わざわざ指摘したなら、経験上、個人的な人格を
徹底的に否定されるだけでなく、多くの不利益をもたらす実害を
個人的に被ることになるのが通例であることをよく知っているからだ)
指摘することが、私の愚かさの表れであることを既によく知っている。
その一方で、私は、大人しく黙っていることが、(不利益をもたらすの
を避けるのに有利になるということ以外で)私にどう利益になるのか
よく分からないだけ、まだ十分に愚かなのであり、私のこの愚かさは、
おそらくもう死ぬまで直らないのだろうと、諦めている

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/14(火) 23:29:16.69 ID:ZGxh3YyZ.net
ここで指摘する奇妙さにどれだけ多くの人々が容易に気づくことになる
のか試してみよう。

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>kennen
❶ ([英] know)(見聞・習熟・体験して)知っている,
わかっている; (…が)だれ〈何〉であるか知っている;
❷ ⸨j-et an et⸩ (…を…で)識別する.

>bekennen
❶ [他]([英] confess)(〔自分の罪・過ちを〕)認める;
(信仰を)告白をする; ⸨sich zu j-et⸩ (…への)信仰を告白する,
(…に)公然と味方する
sich schuldig 〜|(裁判で)自分の罪を認める.
❷ 〘商〙(受領を)確認する. <

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/14(火) 23:45:39.56 ID:ZGxh3YyZ.net
ドイツ語の»bekennen«に対して英語の"to confess"は適切な訳語であり、
この場合も、ドイツ語の前綴り、»be-〜«に対して"con-〜"が対応して
いるものの、»kennen«は、"to know"に相当し、"fess"は、
>fateri "to admit," akin to fari "speak,"
(出典 Online Etymology Dictionary)に由来するので、こちらの方は、
表現としては対応していない。しかし、より分かりやすい対応関係は、
ドイツ語−スペイン語辞書を引くとすぐに得られる。

Deutsch: kennen/bekennen
Spanisch: conocer/reconocer
(出典 wordreference.com/dees/〜)

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/14(火) 23:51:07.26 ID:ZGxh3YyZ.net
何がどう不都合で専門家でも「気づかない」ことになっているのかまで
推論により容易に指摘することができるように私には思へるが、
そこまですると、「陰謀論」のレッテルを貼られるのがオチなので、
やめておく。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 08:12:22.46 ID:+sZDD647.net
>ドイツ語の»bekennen«に対して英語の"to confess"は適切な訳語であり

このように明言したが、この言ひ方にはちょっと、というより、
かなり大きな語弊がある。どのような語弊かと言へば、それは、
ドイツ語の»bekennen«という表現を英語の"to confess"に対応させる
ことは、現実にドイツ語の»bekennen«という表現がそのように使用
されているように、»bekennen«を、キリスト教という制度における
「告白」に沿って理解することを前提としてしまうことになること
である。ところが、英語の"to confess"の語源であるラテン語の
"confiteri"の用法そのものが一般的な表現として、英語の"to confess"
にそのまま対応するものではなく、むしろ、"to acknowledge"に
対応しており、こちらの方が、»bekennen«に素直に対応している
ことが、英語の語源辞典やラテン語の辞書を参照しても確認する
ことができる。
(以下を参照)
latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/2235/
etymonline.com/search?q=confess
(etymonline.com/search?q=acknowledge

ここには、「核心的」と呼べる問題が潜んでいる。その問題に
ついて述べるために、まずは、私自身の書込みを再引用しよう。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 08:16:48.31 ID:+sZDD647.net
423考える名無しさん2021/10/29(金) 09:09:43.340
"Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."
「えもい(云)はれぬことにつきては、これをいは(祝/斎)ふべし。」

人は「斎(いは)ふ」ことにおいて、身を清(きよ)め「口をつつしむ」。
しかし、それは禁忌として「口を閉ざす」ことだけを意味しているわけ
ではない。そうではなく、「斎(いは)ひ」においては「えもい(云)はれぬこと」
として「口をつつしむ」ことについて、「はふ(祝/葬/溢)り」においては、
それを「いは(祝)ひ」、「こと(言)ほ(祝)ぐ」のである。そのことを
意識するなら、ウィトゲンシュタインの言葉そのものが、「斎(いは)ひ」
に偏った一方的な解釈に導かれやすい表現であるといふことはできるのだろう。
しかし、この言葉が人々の注目を集めてきたのは、「口に出すことができないこと」について「口に出すべからず/口をつつしむべし」と宣告しているように
見える、一見したところ「ナンセンスな冗長性」により、別の解釈を
招来しようとしているように感じられるためだろう。日本語の「いは(祝/斎)ふ」
という表現において可能になる両義性のもう一方の解釈をドイツ語で明示
しようとしたなら、
"Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man reden."
ということになるだろうが、こちらの方は、今度は「矛盾していてナンセンス」
であるとされるはずである。しかし、ここでウィトゲンシュタインの言葉
の表現の「ナンセンスな冗長性」は、
「口に出すことのできない(えもい(云)はれぬ)ことについては、(形象として/
figuratively)かた(語/騙)るほかない」という解釈を実際に招来し、
この解釈は、「現実の歴史意識の両義性」を的確に表現するものであると
ともに、実際の人々の生活における実践を反映している。

137 :Bekenntnis/「自白する」/(な(己/汝)を「『しろ』し」めす):2023/02/15(水) 08:31:10.97 ID:+sZDD647.net
Bekenntnis/「自白する」/(な(己/汝)を「『しろ』し」めす)⇔「な(己/汝)をし(知/領)る」

700名無しさん@お腹いっぱい。2022/11/28(月) 10:28:55.84ID:LzhMDzgO
「汝自らを知れ(なんじみずからをしれ)」と訳される"γνῶθι σεαυτόν"は、それを日本語の古語を用ひるなら、ただちに「な(己/汝)をし(知)れ」と言い換へることができる。というのも、「な(己/汝)」は、己(な)の相手
である汝(な)を指すようにも、汝(な)の相手である己(な)を指すようにも用ひられ得るからである。

さらに、「〜をし(知)れ」という表現について見ると、「し(知)る」は、
「『しるし(験)』を顕現させる」作用(ドイツ語の»sich zeigen«に対応
する)として、しめ(標)た(立)てること、もしくはしめ(標)ゆ(結)ふこと
で(即ち、しめなは(注連縄)により)或る領域を「いは(祝/斎)ふ」べきも
のとして「し(領)る」ことも意味し、そのような領域としてしめ(標)
されるのが「しま(島)」である。したがって、「な(己/汝)をし(知)れ」
は、「な(己/汝)をし(知/領)れ」というみこと(御言/命)になるので、
なんら特別な解釈を加へることなく、自然に「な(己/汝)みづから
(身づ柄/自ら)を『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』べし」という
格言であるものと理解される。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 08:42:01.28 ID:+sZDD647.net
何が言ひたいか分かるだろうか。
>ドイツ語の»bekennen«に対して英語の"to confess"は適切な訳語であり

このように断言するなら、その断言は、"to confess"を、そうすることが
一般的であるように「(罪や犯罪行為の)自白」やキリスト教のカトリック教会
において行われる「告解」という行為になぞら(擬)へて理解するのではなく、
「(信仰の)『告白』/acknowledgement」からさらに遡って、
"to con・fess"を「(えもい(云)はれぬことを)いは(祝/斎)ふ」行為に
なぞら(擬)へて解釈することによって初めて、適切になると考へられる
のである。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 09:00:28.56 ID:+sZDD647.net
>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を
再帰的に表出させる働きをする。<
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである。<

»bekennen«を「自白する」と訳す場合も、その表現法は、
「白日の下に晒されるべき『自己』」があらかじめ存在することが
前提とされて、その自己に»kennen«/「知る」作用を再帰的に
及ぼすことが「自白する」ことなのではない。そうではなく、
この場合もやはり、»be-〜«は、表現上、»kennen«作用の
効果を再帰的に表出させる働きをしており、»bekennen«
という行為によって「『しろ』し」めされて再帰的に表出する
のが「自己」なのである。

Bekenntnis/「自白する」/な(己/汝)を「『しろ』し」めす⇔「な(己/汝)をし(知/領)る」

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 09:11:37.13 ID:+sZDD647.net
普通の人は言ふのをはばかることを、ここまでつつしみなくわざわざ
口に出す愚か者も、世の中にはそういるものではないことは、
私みづからも「み(認)める」/»bekennen« 。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 10:05:03.36 ID:+sZDD647.net
"before"、"behind"、"beside"、"beneath/below"、"beyond"、
さて、「いは(祝/斎)は」れている「や・しろ(社)」はどこか。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 10:15:56.29 ID:+sZDD647.net
"between"が抜けていた。他にあるかな。

143 :to confess:2023/02/15(水) 17:27:50.63 ID:+sZDD647.net
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 10:32-33
1894 Scrivener New Testament

32 πας ουν οστις ομολογησει εν εμοι εμπροσθεν των ανθρωπων
ομολογησω καγω εν αυτω εμπροσθεν του πατρος μου του εν ουρανοις

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 17:33:26.56 ID:+sZDD647.net
<聖書<口語新約聖書
『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年
>マタイによる福音書
10:32
だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた
天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 <
(出典 ja.wikisource.org/wiki/マタイによる福音書_(口語訳)#10:32)

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 17:34:57.93 ID:+sZDD647.net
>What Does It Mean to Confess Christ?
“Whoever acknowledges me before men, I will also acknowledge
him before my Father in heaven.” Matthew 10:32 (NIV)

The word ‘acknowledge’ (or confess) in the Greek is
homo = ‘one’ plus logeo = ‘word.’ It literally means “to be of
one word.” To confess Jesus is to be of one word with Him,
to say what He says.<
(出典 openthebible.org/open-the-bible-daily/what-does-it-mean-to-confess-christ/)

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 17:49:41.71 ID:+sZDD647.net
>◄ 3670. homologeó ►
Strong's Concordance
homologeó: to speak the same, to agree
Original Word: ὁμολογέω
Part of Speech: Verb
Transliteration: homologeó
Phonetic Spelling: (hom-ol-og-eh'-o)
Definition: to speak the same, to agree
Usage: (a) I promise, agree, (b) I confess,
(c) I publicly declare, (d) a Hebraism, I praise, celebrate.<
(出典 biblehub.com/greek/3670.htm)

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 18:04:27.49 ID:+sZDD647.net
>>143-146
この場合も、私は、ここに記載を引用して貼り付けたような対応関係や
説明をあらかじめ知っていて、ドイツ語の»bekennen«という表現に
ついての私の解釈を書き込んでいるのではない。手順は、まったく
逆である。»bekennen«という表現を、同様に前綴り、»be-〜«
を用ひる他の表現との関連において、より一般的な推論により解釈する
ことが、私の解釈に都合のよい対応関係や説明を検索に容易に
見出すことを可能にしているのだ。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 19:44:30.73 ID:+sZDD647.net
>>144
日本語を母語としていて、それなりに英語の運用能力がかなり高い
人でも、英訳の聖書を知らなければ、この日本語訳を読んで、
「受けいれる」が英訳では"to confess"と訳されることが
あるとは思いもしないだろう。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/15(水) 20:03:33.42 ID:+sZDD647.net
ところで、これらの訳語の元となっている古代ギリシア語の
"ὁμολογέω"という表現は、それを形の上ではラテン語にそのまま移した
表現である"homologare"を介して現代のフランス語では、「許可する」、
「公認する」を意味する表現として用ひられている。
>homologuer
プログレッシブ 仏和辞典 第2版の解説
➊ 〖法律〗 …を認可する.
➋ 〖スポーツ〗 〔記録〕を公認する<

この《homologuer》のWiktionnaireにおける記載で語源を遡って
いくと、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"の用法のフランス語による
記述に辿りつき、そこでは、まず最初に次のように記述されている。
>ὁμολογέω
Concorder, parler d'une même voix.
λέγουσι Κορίνθιοι, ὁμολογέουσι δέ σφι Λέσβιοι — (Hdt.1.23)<
(出典 fr.wiktionary.org/wiki/ὁμολογέω#grc)

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/16(木) 10:35:23.89 ID:DLkF/h6a.net
"マタイ" & "10:32"をキーワードにして検索すると、この節における
古代ギリシア語の"ὁμολογέω"に対する直接または間接の様々な
日本語訳の言葉がヒットする。それらの事例をいくつか拾って
並べてみると、次のとおりである。

〜の仲間であると言い表す
『〜の友だ』と認める
〜を認める
(〜について)告白する
〜を言い表す
〜を受けいれる 

また、『ラゲ訳新約聖書』では、「〜を宣言する」と訳されている。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/16(木) 11:06:31.52 ID:DLkF/h6a.net
以上のとおり、"ὁμολογέω"は、直接または間接的に様々な日本語の
表現で訳されているが、「〜を認める」とされることが多いようである。
ただし、単に「〜を認める」と表現したのでは、一般に、認める側に
その権限があるものと理解されて、原文の表現の意図に沿はないと
考へられるので、それ以外の表現も試みられているのだろう。

私は、古代ギリシア語を教はったことも、自分で学んだこともないので、
この文例以外で"ὁμολογέω"がどのように用ひられているのか、
自分で事例を確認して解釈することはできないが、>>146に引用した
>Usage: (a) I promise, agree, (b) I confess,
(c) I publicly declare, (d) a Hebraism, I praise, celebrate.<
から、それが日本語としてどのような表現に相当するのかを推測する
ことはたやすい。"ὁμολογέω"は、"ὁμο・λογέω"と分けられ、
それに"con・fess"が当てられているわけだが、この場合もやはり、
"con(with, together)・fess(speak)"は、「一緒に云ふ」ことを
意味しているのではなく、「しか(然)い(云)ふことをたが(違)へない」
こと/「しか(然)相違ないとい(云)ふ」ことを意味している。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/16(木) 11:33:41.72 ID:DLkF/h6a.net
したがって、キリスト教という鏡/「耶蘇鏡」を通して見た古代ギリシア語
の"ὁμολογέω"という表現を、「まそ(麻蘇/真)鏡」にそのまま映し出して
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 10:32を訳すことを「こころみ(心観)」るなら、

>πας ουν οστις ομολογησει εν εμοι εμπροσθεν των ανθρωπων
ομολογησω καγω εν αυτω εμπροσθεν του πατρος μου του εν ουρανοις
>それゆえ人の前でわれのまこと(真言)をしろしめす者には、
われも、天にましますわが父の前でその者のまこと(真言)ををしろしめす

とすることもできるだろう。この場合、"ὁμολογέω"は、
「しか(然)い(云)ふことをたが(違)へない」こと/「しか(然)相違ない
とい(云)ふ」ことを意味することにおいて、「しか(然)い(云)ふ者」
の「まこと(真言)」は、「相違ないとい(云)ふ者」の「まこと(真言)」
と同じであるものとして「しろしめされる」ことになる。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/16(木) 11:36:01.84 ID:DLkF/h6a.net
誤:まこと(真言)ををしろしめす
正:まこと(真言)をしろしめす

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/16(木) 11:44:26.53 ID:DLkF/h6a.net
これが、「いは(祝/斎)ふ」 に対応するのは、「いは(祝/斎)ふ」
という行為が、基本的に、「ことい(言忌)み/ことほ(言祝)ぎを
同じくすることによって『な(汝/己)』をしろしめすように
しめ(標)ゆ(結)ふ」行為であるからである。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/16(木) 12:17:18.95 ID:DLkF/h6a.net
私は、キリスト教のレトリックがどのような言語表現をどのように操って
いるのかは、むしろ、「まそ(麻蘇/真)鏡」に映した方がよく見えるよう
になるのではないかと思ふ。なぜなら、「まそ(麻蘇/真)鏡」を通して
見た場合には、しろしめされる「『な(汝/己)』のまこと(真言)」
は、人の前であろうと、天つ神の前であろうと変はらないのに対して、
「耶蘇鏡」を通して見た場合には、「『な(汝/己)』のまこと(真言)」
がキリストの父の前でしろしめされることは、それが人の前で
なされるのとは比べものにならない、計り知れないほど大切な
こととされるからである。さらに、「まそ(麻蘇/真)鏡」を介して
効験をもたらすことが期待される天つ神は、統治イデオロギーが
それをどのように利用するにせよ、おほきみ(大君)の上位互換
であるかのように見間違へられることがないのに対して、
「耶蘇鏡」の「天にまします父なる神」は、容易に君主の上位互換
であるかのように見間違へられることがよくあるからである。

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/16(木) 12:18:14.01 ID:DLkF/h6a.net
誤:どのような言語表現をどのように
正:言語表現をどのように

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/17(金) 00:12:50.24 ID:Hoj8pEsN.net
>>140
誤:「み(認)める」
正:「みと(認)める」

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/17(金) 00:16:31.47 ID:Hoj8pEsN.net
読み返すと、細かい誤記がいくらでも見つかるな
>>125
誤:言葉を発からではなく
正:言葉を発するからではなく

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/17(金) 09:27:51.13 ID:Hoj8pEsN.net
>>135
誤:「核心的」と呼べる 正:「核心的」とも呼べる

私の書込みには、誤記がとても多く、いちいち訂正しているときりがない。
考へていることを言葉の表現で伝はるようにすることを試みている以上、
誤記を軽視すべきではないが、実のところ、私は、誤記によって書込み
が私自身に意味不明となるのでない限り、それほど気にしていない。
喩えてみれば、カレーを作る材料の買物をするメモに、「タマネギ」と
書くべきところを、「タマギ」と書いているようなものだ。
私は、まずなによりも自分で考へるために書いているので、気にかける
必要のあることに気が行き届いていることの方が大切であって、
「タマネギ」とメモすべきところに「ニンジン」と書いてしまったり、
「長ネギ」と書き間違えていなければ、それでいいのである。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/17(金) 09:36:30.40 ID:Hoj8pEsN.net
きちんと誤記のないように書こうと「気をつけている」と、本末転倒に
なりかねない。というのは、「気をつけている」ためには、既に
そのことを「気にかけている」が前提となるからだ。いくら完璧に
「気をつけている」ことができたとしても、そのことによって
あらかじめ「気にかけている」ことが限定されてしまうのでは、
完璧な「気をつけ」の姿勢をとることに集中するあまり、後方
不注意になることを気にかけなくなってしまうようなものだ。

161 :イスメーネー:2023/02/19(日) 09:56:32.18 ID:y8/Wenpd.net
表現法のパターン認定が文法である。
ここで「認定」と表現するとき、「認定する」行為を、古代ギリシア語
における"ὁμολογέω"という言葉の用法を語源的に気にかけながら、
現代のフランス語の《homologuer》に対応するものと考へて
理解すると都合が良い。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/19(日) 10:45:22.90 ID:y8/Wenpd.net
言葉の語源を追求する見地からは、言葉に組み合はされて現れる
単音節の発音であっても、それが組み合はされる個々の要素として
捉へられる限り、意味のない言葉の要素はない、つまり、あらゆる
要素は、意味をあらかじめ帯びていることになる。だから、
言葉の語源的説明は、語源的な要素の意味と想定されるものを
足し算的に合はせることによって言葉の意味の解釈を示すこと
が一般的である。

これに対して、文法研究の見地からは、単音節の語を含め、
いかなる言葉も、まず文法があって、それに則って要素が組み合は
されて初めて意味を有するのであり、文法のなしの発音は、
言葉として意味のない単なる声の響き/»Klang«に過ぎないもの
であるとされることになる。

これらの二つの見地は、明らかに対立し、互いに矛盾しているが、
そのいずれもが正当なものとして言語表現の説明や解釈に
適用されることが普通である。しかし、そこでは、言葉が
言葉、つまり、人に意味の通じる発音として「認められる」
のに最も大切なことが忘れられている。それは、発せられる
声(声以外の別の手段による合図であってもよい)が、表現法
として通じるものとしてそのパターンが認められることである。
まず表現がこころみ(心観)られて、その表現が「まこと(真言)」
として「しろしめ」れることにより初めて、それが言葉として
意味を成すとされるのであり、あらかじめ言葉を構成する
意味を帯びた要素が存在するのでも、先に決められたものと
して存在する文法が、それ自体では無意味とされる声の響きの
組合せに意味を与へるわけでもない。

163 :bemoan:2023/02/19(日) 11:12:48.42 ID:y8/Wenpd.net
言語とはどのようなものであるかについての私の理解を示すのに、
ソポクレースの悲劇、『アンティゴネー』に示される対立の図式を
流用してみるのも面白いのではないかと私には思はれるが、その場合、
この劇の私の解釈は、一般に通用している『アンティゴネー』の
理解とはだいぶ異なったものとなるだろうと思ふ。いずれにしても、
私には、古代ギリシア語の原文が読めないので、そこで用ひられて
いる表現を詳しく検討することができず、現時点では、深入りしても
あまり有益ではなさそうだ。

164 :訴ふ:2023/02/19(日) 11:54:35.96 ID:y8/Wenpd.net
>complain (v.)
late 14c., compleinen, "lament, bewail, grieve," also "find fault,
express dissatisfaction, criticize," also "make a formal accusation
or charge to an authority," from stem of Old French complaindre
"to lament" (12c.), from Vulgar Latin *complangere, originally
"to beat the breast," from Latin com-, here perhaps an intensive
prefix (see com-), + plangere "to strike, beat the breast"
(from PIE root *plak- (2) "to strike").<
(出典 etymonline.com/search?q=complain)

このような記述を見ると、いかに語源解釈における"be-〜"、
»be-〜«、《con-〜》の説明が、"perfidious"なものであるかに
気づかされざるを得ないだろう。
>from Latin com-, here perhaps an intensive prefix (see com-)
とされるとおり、表現解釈の都合に合はせて、この場合には、
"com-"も"an intensive prefix"とされるが、この場合には、
"complain"がフランス語の《se plaindre de 〜》に対応する
ように
>plangere "to strike, beat the breast"
として、「たたく」作用、「うつ」作用を自らに及ぼす再帰動詞
と見なすような理解が示されている。要するに、語源により言葉の
意味を解釈する側自らが、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》という
要素に割り当てた意味を、言葉の解釈を操作的に導き出すための
「たの(頼)み」としていないのである。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/19(日) 14:40:16.19 ID:y8/Wenpd.net
ところで、「記号論」と訳されることが一般的である"semiotics"の
語源説明を参照すると、
> from sēmeion "a sign, mark, token," from sēma "sign" (see semantic).
(出典 etymonline.com/search?q=semiotic)
と記載され、「記号論」/"semiotics"の"semio-"は、「意味論」と訳される
"semantics"の"sema-"と語源的に共通であるとされるだけでなく、
究極的には、日本語の表現として用ひられている「禅(ぜん)」とも共通
であるとされる。
>"to see, look" (source also of Sanskrit dhyati "he meditates;" see zen)
(出典 etymonline.com/word/semantic?ref=etymonline_crossreference)

このような関連付けで語源的に共通であるとすることに「意味がある」と
するのなら、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"は、"mark, sign, token"
を意味していたとされるのだから、日本語の「しま(島)」や、
「標(しめ)ゆ(結)ひ」の「標(しめ)」と語源的に共通であると主張しても
何の無理もなさそうに思える。私には、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"
と「禅(ぜん)」が語源的につながっているというのが確かなことであるの
かどうかさっぱり分からないが、いずれにせよ、単に個々に言葉を拾ひ
出して類似をまとめてみても、実際にはあまり役に立たないだろう
と思ふ。その反面、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"と「標(しめ)」
の類似性が単にまったくの偶然に過ぎないとしても、それらの用法に
類似性が見られるなら、その類似性を活用することは、言語表現を
解釈するのに大いに役立つだろうとも思ふ。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/20(月) 09:55:20.42 ID:y09gz2Z1.net
>>161イスメーネー2023/02/19(日) 09:56:32.18ID:y8/Wenpd
>表現法のパターン認定が文法である。

これを認めるとき、言語系統論を論じることには、「どのような
意味があるのか」を考え直さざるを得ないことになるだろう
(誤解のないように付け加えると、これは、「言語系統論を
論じることには何の意味もない」という結論を導き出すよう
に促そうとする反語的な問ひではない)。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/20(月) 10:25:09.76 ID:y09gz2Z1.net
例えば、日本語が、大陸側で中国語を形成することになった表現法を
大々的に流用することによって形成されていることは、既に繰り返し
指摘してきたとおりである。流用によって「日本語」となった言葉を
日本語から排除していくなら、日本語そのものが成立しない。
にもかかわらず、日本語は、中国語を形成した規範を無視するように
独自の表現法を編み出すことによって(それ自体が表現の流用に
よるものだが)独立した言語として形成されているので、言葉
の「意味」を基準に対応関係を参照すると、中国語の表現との
発音の規則的な対応関係は成立しなくなるため、「中国語
系統」の言語ではないとされる。その一方で、言語系統論に
おいては、一般に、意味的に互いに対応するとされる「語」
の発音の規則的な対応だけが問題とされ、「文法的」な違い
は不問に付される。すると、言語系統論は、どこまで、
どのように系統の確かさが確保されるのか、もとより、
原理的な問題を抱え込んでいることになるだろう。日本語は、
他方で中国語となった表現を大々的に流用しているのだから、
単音節のレベルでその対応関係を拾い出すことはやさしい。
しかし、単音節は、それによって言語系統論として対応関係
の系統を確かなものとして示すには、表現として操作性が
高すぎるのである。したがって、言語系統論も実のところ、
発音の「『表現法』上のパターン」の対応関係に依拠している
ことになる。

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/20(月) 10:49:14.26 ID:y09gz2Z1.net
インド・ヨーロッパ語族の系統論を論じるために想定される
「印欧祖語」は、もともと、系統を論じるために架空で再構築された
モデルとされるものであり、「印欧祖語」という形で実際に言語と
して使用されていたと考えられているわけではない。すると、
実際に有効性があるのは、表現を系統的に遡るように比較する
ことによって、かなりの程度で表現パターンの規則的な対応関係を
見出すことが可能であり、その場合に言語表現の規範の共有が認め
られるということまでであって、「インド・ヨーロッパ語族」として
分類されるような人々を集団として、 非印欧語族の言語を話す
人々と明確に分けることができるといったようなことではない。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/20(月) 14:13:04.64 ID:y09gz2Z1.net
>>114
>>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<
»bestätigen« ⇔ "to confirm"
be-〜«は、英語の"I hereby 〜"と宣言する場合の"hereby"の
"by"がそうであるように、発話遂行的な働きをしている。 <

ここでなにが面白いのかと言へば、それは、言語哲学者のオースティンは、
発話を"perfomative"なものと"constative"なものに分けて対比させたが、
この場合の英語の"constative"の"con-〜"も、ドイツ語の»bestätigen«の
»be-〜«と表現上、同じ役割を果たしていることを見れば、"constative"
とされる発話は、まさしくそれが"con・stative"であることを意図して
発話されることにおいて"perfomative"/「発話遂行的」であることが
はっきりと分かるからである。次に具体例を引用する。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/20(月) 14:17:58.75 ID:y09gz2Z1.net
>Napoleon Fischer grinste geschmeichelt. „Weil Herr Doktor
sagen, daß ich ein großer Politiker bin… Ich will von dem
Schadenersatz weiter nicht reden. Intimitäten aus den
ersten Kreisen sind für uns doch wichtiger als —
„— als so ein Mädchen“, ergänzte Diederich. „Sie denken immer als Politiker.“

„Immer“, bestätigte Napoleon Fischer. „Mahlzeit, Herr Doktor.“
Er zog sich zurück — indes Diederich feststellte, daß die proletarische
Politik ihre Vorzüge habe. Er schob seine drei Goldstücke wieder in die Tasche.<

(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/292-3)

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/20(月) 14:55:05.47 ID:y09gz2Z1.net
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

英語の語源説明を参照すると、英語の"be-〜"は、サンスクリット語を
介して、既に日常の日本語としても用ひられるようになっている
「有(う)無(む)」の「有(う/ゆう)」に語源的につながるものとされる
ようだが、私には、むしろ、これを語源的にも「表現として」
日本語の「〜ふ」につながる可能性を探った方が「意味がある」の
ではないかと思へる。その場合、私にすぐに想起されるのは、
日本語の「〜ふ」が「復」の漢字が当てられる表現の流用であり、
そのこと自体が、「概念」としては、英語の"ambi-"や"bi-"によって
も表現される「双数性」を想起させる(例えば、「ふた・たび」、
「ふた(二)つ」の「ふ」)ことである。これについては、
気が向いたら、時間のあるときにさらに詳しく書き込むことにする。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/20(月) 15:04:22.64 ID:y09gz2Z1.net
ところで、「ふた(蓋)」は、それが「おほ(覆)ふ」ものとわか(分)れる
ことによって「ふた(蓋)」である。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 09:10:07.24 ID:8PH9oGBN.net
哲学する者にとって、説明するとは、既に分かっていることを他人に
開示することではなく、現状の自分の理解と無理解をみづからに晒すことである。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 09:21:55.44 ID:8PH9oGBN.net
極めて当たり前のことだが、分からないことを探るのが探求である。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 10:26:07.55 ID:8PH9oGBN.net
口を開いて言ふことが「ことづ(言付)け」であるのなら、それが伝へられる
ことにより用件が済むのなら、それで良いのであって、
それ以上の説明の必要はないのである。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 10:27:37.43 ID:8PH9oGBN.net
人が「ことづ(言付)け」以外で口を開くことを排除しようとしているのは誰か

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 10:33:53.33 ID:8PH9oGBN.net
「ことづ(言付)け」と「つ(告)げぐち(口)」だけが許されるように
人と人との関係が組織化された状態を想像してみるといい。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 11:19:22.92 ID:8PH9oGBN.net
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

"be-〜"は、分離された表現として用ひられる場合には、"by"
となる。それは、"drop by"/「立ちよ(寄)る」、"stand by"/
「よ(寄)りそ(添)って立つ/準備の整った状態で待つ」といった
表現に用ひられているが、より単純には、「〜により」として
手段を示す"by"や、「〜のそば(側)に」という近接性を表現
する"by"でもある。その"by"に対応する表現要素としての
英語の"be-〜"やドイツ語の»be-〜«が、多くの事例で、
ラテン語系の言語においては、《con-〜》に対応していることは、
無論、偶然ではない。ラテン語において《con-〜》は、
分離された表現としては、"cum"として用ひられ、これは、
英語の"with"のような使はれ方をする。これらのことから見ても、
英語の「be動詞」を用ひる存在の表現は、「よ(寄/依)る」という
様態を想起させることを介した表現法であると見ることができる。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 11:22:23.49 ID:8PH9oGBN.net
ただし、ここで私が「be動詞」と呼ぶのは、文字通り"be"を表現として
活用する場合のことであって、文法上の「be動詞」の活用形(語源的に
ばらばらであると考へられている)のことではない。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 11:27:36.49 ID:8PH9oGBN.net
>>175
誤:用件が済むのなら、
正:用件が済めば

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 11:55:57.35 ID:8PH9oGBN.net
日本語の場合、「ゐ/を(居)る」という存在の仕方が、そこから動かずに
留まっていることを表現しているのに対して、一般に存在することを
表現すると考えられている「あ(或)る」は、これに関連する古語の
「あり(歩)く」という表現にも見てとれるとおり、場所の定まらない
あ(在)り方であり、「あり(歩)き」がちょうど英語の"ambulant"に
対応することは、"be-〜"/»be-〜«と存在の関係について考へるうえ
でも示唆的である。

>ambulant (adj.)
1610s, "walking, moving from place to place," from Latin
ambulantem (nominative ambulans), present participle of ambulare
"to walk, go about" (see amble (v.)). Of diseases, denoting
cases in which the patient may be up and around, by 1913.<
>amble (v.)
[...]from Latin ambulare "to walk, to go about, take a walk,"
perhaps a compound of ambi- "around" (from PIE root *ambhi-
"around") and -ulare, from a Proto-Italic *ala- "to wander,"<
>*ambhi-
also *mbhi-, Proto-Indo-European root meaning "around;"
probably derived from *ant-bhi "from both sides,"
from root *ant- "front, forehead."<
(出典 Online Etymology Dictionary)

私には、この最後の"*ambhi-"の語源説明は、とても不自然に
感じられ、もっとずっと無理のない自然な解釈が可能だろうと思っている。

182 :二進法のひととなり:2023/02/21(火) 13:22:10.11 ID:8PH9oGBN.net
さて、突然ですが、ここで謎かけです。

「ひとり」でいるときは、いつもでもそこに確かにいるのに、
「ふたり」にになったとたん、跡形もなく「ふつり」と消ゆのは誰でしょう。

183 :双論賛成・各論反対:2023/02/21(火) 13:39:02.85 ID:8PH9oGBN.net
「概念」としての"being"は、それが「よ(寄/依)る」様態によって
存在していることにより、文字通り「人(ひと)」のごと(如)く
(この場合、「文字通り」というのは、その文字の通りその
ようであるという意味である)「双数」的であるが、しかし、
その「双数性」が現れるのは、作用が「よ(寄/依)る」様態で
働くことの効果が再帰的に表出することによってであって、
あらかじめともに存在するとされるの二つのものが互ひに
寄り添ふことによってではない。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/21(火) 14:08:48.53 ID:8PH9oGBN.net
誤:「ふたり」にになった
正:「ふたり」になった

185 :知らぬが佛:2023/02/21(火) 17:06:47.56 ID:8PH9oGBN.net
>いつもでもそこに確かにいるのに

ここは、「いる」ではなく、きちんと「ゐる」と書くべきでしたね。
また、「ふたり」という表現を使ふとき、当然、私に想起される
のは、「ふ(復)(Middle Chinese: /bɨuH/)たり」なのですが、
それだけではなく、「ふつり」と表現するときも、私に
想起されるのは「ふ(弗)(Middle Chinese: /pɨut̚/)つり 」なのです。
そして、「そこ」がどこであれ、決してそこに「ふたり」が
「ゐる」ことはない。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/22(水) 17:01:59.36 ID:9mcIlQgo.net
偶々、検索していたキーワードと本の題名が合致していて、なおかつ
販売価格があり得ないほど廉価だったという理由だけで入手した
Heinrich Mannの"Der Untertan"だが、文学作品としては滅多に
出合うことがないような名著だと私は思ふ。一生のうちに読める
本の数はそれほどまでに多くない。だから、偶然に出会う名著は
貴重である。よく知られていて、高い評価を受けている本でも、
目を通してみると、手元に置いておきたいと感じるような著作に
出合うことは稀である。

187 :アジ演説:2023/02/22(水) 22:57:17.81 ID:9mcIlQgo.net
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

誰も言はないので敢へて言ふが、言語表現として見れば(別に私は、
デカルトについて論じようというわけではない)、「コギト」/
"cogito"がもたらすのは、英語から借用されてカタカナ語として
日本語にもなっている「アジテーション」/"agitation"作用の効果
として主体性を再帰的に表出させることである。

>agitation (n.)
1560s, "debate, discussion" (on the notion of "a mental tossing
to and fro"), from French agitation, from Latin agitationem
(nominative agitatio) "motion, agitation," noun of action from
past-participle stem of agitare "move to and fro," frequentative
of agere "to set in motion, drive forward; keep in movement"
(from PIE root *ag- "to drive, draw out or forth, move").<
(出典 etymonline.com/search?q=agitation)

188 :De quoi s'agit-il?:2023/02/22(水) 22:59:56.05 ID:9mcIlQgo.net
誤:"agitation"作用
正:"agitation"の作用

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/22(水) 23:37:26.92 ID:9mcIlQgo.net
ラテン語の"cogito"をWiktionaryで参照すると、その語源として
>From con- +&#8206; agitō.
と記載されている。"agitō"は、「作用を働かせる」ことに由来する
表現なので、なぜ"con-・agitō"が「かむか(考)ふ」ことを意味する
表現となるのか少し戸惑うが、むしろ、「かむか(考)ふ」という日本語
の方から"con-・agitō"を捉へ返した方が、この表現法も解釈しやすく
なるのではないかと思ふ。ただし、私が見る限り、「かむか(考)ふ」
という日本語も、「おも(思)ふ」という日本語も表現として、
"con-・agitō"にそれほどうまく対応するものではない。
その一方で、Wiktionaryでそのままリンクをたどって
関連するスペイン語の表現を参照すると、
>From Latin cōgitō, cōgitāre. Doublet of cuidar.
ラテン語の"cōgitāre"から、「注意を払う」、「気を配る」、
「世話をする」などの意味で用ひられるスペイン語の
"cuidar"という表現が派生していることが分かる。
また、さらに注目されるのは、"con-・agitō"の"agitō"と
共通するラテン語の語源からは、フランス語において
《Il s’agit de 〜》という表現法が派生していることだ。
これは、「あつか(扱)はれるのが何であるのか」を示す
ための表現である。これに対応するスペイン語の表現は、
"se trata de 〜"となる。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/22(水) 23:45:43.36 ID:9mcIlQgo.net
「作用が働く」ことを表現する動詞が、フランス語の《Il s’agit de 〜》
という表現においてなぜ「あつか(扱)はれるのが何であるのか」を示す
ための表現となるのか、これも、最初は、少し捉へにくい印象を受ける
かもしれないが、やはりカタカナ語として既に日本語にもなっている
「アジェンダ」という表現を想起してみれば、この表現を感覚的に
捉へることもそう難しいことではないだろう。

>agenda (n.)
1650s, originally theological, "matters of practice," as opposed
to credenda "things to be believed, matters of faith," from Latin
agenda, literally "things to be done," neuter plural of agendus,
gerundive of agere "to do" (from PIE root *ag- "to drive, draw
out or forth, move").<
(出典 etymonline.com/search?q=agenda)

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/22(水) 23:59:31.53 ID:9mcIlQgo.net
ここで、ラテン語の"cōgitāre"が英語に取り込まれて名詞化された
"cogitation"の語源解釈を参照すると、次のように記載される。

>from Latin cogitationem (nominative cogitatio), noun of
action from past participle stem of cogitare "to think, reflect,
consider, turn over in the mind," which is apparently a
contraction of co-agitare, from assimilated form of com
"together" (see co-) + agitare, here in a sense of "to turn
over in the mind," literally "to put in constant motion, drive,
impel," frequentative of agere "to move, drive"<
(出典 etymonline.com/search?q=cogitation&ref=searchbar_searchhint)

しかし、これは、私には、かなりご都合主義的で、整合性のない説明
であるように私には感じられる。というのは、"agitare"が「動かす作用」
を表現しているとしても、それを"to turn over"とするのは、過剰な解釈
であるように思へるからである。さらに、"together"を意味するとされる
"co-"に関しても、きちんと説明がされているようには見えない。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/23(木) 00:03:38.56 ID:hZ/rlOwT.net
まだ途中だが、長くなったので、続きはまた時間のあるときに書き込むことにする。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/23(木) 10:37:30.73 ID:hZ/rlOwT.net
言おうと思っていたことは、もうそれほど残っているわけではないが、
続きを書き込むことにする。

>>187に引用したとおり、ラテン語の"agitare"は、一般に
>"move to and fro," frequentative of agere
として解釈される表現である。したがって、"agitare"に、例えば、
現代のフランス語で用ひられる《remuer》を当てるなら、
"cōgitāre"≒《remuer les idées》とするなら、そのまま、
"cōgitāre"⇔《remuer les idées》⇔「かむか(考)ふ」のように
対応させることは容易だろう。しかし、ここには大きな問題がある。
というのは、"agitare"≒《remuer》とするのがそれなりに妥当で
あるとしても、"cō-"は、《les idées》に対応するような表現ではなく、
《les idées》が《remuer》の作用の対象としてあらかじめ存在する
とすること自体が、まず先に「かむか(考)へ」があるとする結論の
先取りになってしまうからである。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/23(木) 10:42:27.10 ID:hZ/rlOwT.net
誤:《remuer》を当てるなら、
正:《remuer》を当てて、

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/23(木) 11:11:14.82 ID:hZ/rlOwT.net
私は、この問題を解消する「ヒント」は、フランス語の《Il s’agit de 〜》
という慣用句や、カタカナ語として日本語としても使はれる
「アジェンダ」という表現にあると思う。というのも、「アジェンダ」
とは「討議されるべきこと」を意味するように用ひられるのに対して、
《Il s’agit de 〜》において再帰形で用いられている動詞は《agir》
であり、"cōgitāre"の"agitare"は、《agir》の語源であるラテン語の
"agere"の"frequentative"であるとされるからである。フランス語の
《agiter》は、「討議する」こと、つまり、「(互いの間で)検討する」
ことを意味するように用ひられ、《Il s’agit de 〜》という慣用句も、
《s'agiter》が「討議される」ことを意味することと明らかに関連
しているだろう。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/23(木) 11:26:14.86 ID:hZ/rlOwT.net
長くなり過ぎたので、何を問題としているのか分かりにくくならない
ように「結論」を急ごう。といっても、それは、既に最初に述べたこと
の繰り返しである。

"cōgitāre"は、《Il s’agit de 〜》や《s'agiter》のように文法的に
再帰形であるわけではない。しかし、"cōgitāre"が、
"cōgitāre"⇔《remuer les idées》⇔「かむか(考)ふ」
のような対応関係をもたらすとすれば、それは、"agitare"
の「作用の効果として再帰的に表出することになる『主体性』」
が《les idées》だからである。したがって、"cōgitāre"の
場合も、"cō-"は、表現法として、英語の"be-〜"やドイツ語の
»be-〜«に対応する働きをしていると言ふことができるだろう。

197 :無責任なアジテーション:2023/02/23(木) 11:50:59.12 ID:hZ/rlOwT.net
さらに、スピノザの議論がどうであろうと関係なく、また私にラテン語の
知識がまったく欠けていることも無視して、いつものとおり、無責任な
ことを言はせてもらえば、用法はよく分からないまま、「概念」として
その表現だけはよく目にする「コナトゥス」/"conatus"についても、
同様の議論が成立するだろうと私は思っている。
>conor, conaris, conari A, conatus sum (Dep.) Verb
1. to try
2. to attempt
(出典 latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/269/)

Wiktionaryで"conor"の語源を参照すると、次のように記載される。
>From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona,
from root *ken- (“to set oneself in motion”). How the verb's
active voice virtually vanished remains unknown. <

私の根拠のない憶測によれば、この語源解釈は完全に誤っている。
私の思ふところでは、"conor"の"co-"も上で検討してきた"co-"
と同様の表現であり、"nor"は、ドイツ語であれば、»nehmen«
に、古代ギリシア語であれば、"νέμω"につながるような語源に由来する。
>Etymology
From Proto-Indo-European *nem- (“to assign, allot; take”).
Cognate with English numb, Dutch nemen, German nehmen,
and Albanian njeh (“count”), nëmë (“curse”). <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/νέμω#Ancient_Greek)

したがって、言葉の「意味」から対応関係を示すなら、"conatus"は、
英語の"undertaking"やフランス語の《entreprise》に近いことになる
だろう。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/23(木) 11:56:08.53 ID:hZ/rlOwT.net
ひとまず言ひたかったことは言ひ尽くしたので、スッキリした。
しばらくは、発言を控えることにしよう。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/23(木) 14:06:48.95 ID:hZ/rlOwT.net
書き込もうと思って忘れていたので、付け足しておくが、
ニーチェの»Wille zur Macht«/「できることを」がプラグマティズムに
近いものとして現れるのは、»Wille«に沿ふように行はれるのが
どのような行為であるにしても、その効果としてもたらされる
ものが»die Macht«/「できること」として「先取り」されている
からである。しかし、その»die Macht«/「できること」が
「無に、もしくは無限にみづから(身づ柄/自ら)が解消されること」
であるとすればどうなるのか、というのが禁欲主義的ニヒリズムの
問題である。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/23(木) 16:58:32.66 ID:hZ/rlOwT.net
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働き<

《con-〜》の表現上の利用のされ方としては、ドイツ語の場合、
»be-〜«だけでなく、»mitansehen«のような表現に見られる
"con- (“with, together”) "と意味的にも対応する»mit«の用法も参考になる。

>mitansehen
>Es ist so kläglich, den Untergang einer schönen Entwicklung
mitansehen zu müssen.
[Schalcher, Traugott: Die Reklame der Straße, Wien: C. Barth 1927, S. 57] <
(出典 dwds.de/wb/mitansehen)

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 08:30:26.29 ID:m9i6LeA4.net
私は、ドイツ語の辞書を所持していないので(本当は、手元に紙の辞書が
欲しいのだが、それを入手するための金があると、同じ金額で手に入る
ドイツ語の原書の方が魅力的なので、いつまでたっても辞書を購入する
に至らないという奇妙な理由によるw)、ネット検索でヒットした
ドイツ語の分離動詞の用法を引用する。

>Ich kann das nicht mit ansehen.
(それは見るに耐えない。)<
(出典 rika-museum.com/learning-german-ansehen/)

»mit・an・sehen«または»mit an・sehen«という表現において、
»mit«はちょうど、「見て『ゐ/を(居)』られない」と表現される
場合の『ゐ/を(居)』に対応する表現となっていることが分かる。

次に、»mit・nehmen«という表現について見ると、
>Er fuhr so scharf in die Kurve, dass er einen Teil der Mauer mitnahm.
(彼はカーブに急な角度で突っ込んだため、壁をこすってしまった。
→ 壁の一部を持っていった)<
(出典 rika-museum.com/learning-german-prefix-mit/)

こちらの場合には、»mit・nehmen«の»mit«は、»nehmen«、つまり、
「と(取/獲/採/摂)る」作用を働かせる側の「身体性」を表現している
ことが分かる。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 08:43:18.36 ID:m9i6LeA4.net
したがって、「コナトゥス」/"conatus"に、>>197に示したとおりに
勝手な憶測による独自の語源解釈を施して、この場合の"co-"にドイツ語の
»mit-«を対応させて考えてみるなら、英語の"undertaking"やフランス語
の《entreprise》に対応させることもできる「コナトゥス」/"conatus"
の第三者的な「具体化」/"corporation"が、»das Mitnehmen«としての
「み(身)ど(取/獲)り」/「みどり(緑)」であることになる。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 09:26:04.71 ID:m9i6LeA4.net
>Quae tempestas, di immortales, quae flamma, quae vastitas
quae pestis Graeciae fuisset, nisi incredibilis ac divina virtus furentis
hominis conatum atque audaciam compressisset! <
(出典 latin-is-simple.com/en/library/cicero/philippics/philippica-10/?h=conatum)

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 10:30:17.73 ID:m9i6LeA4.net
>„Prost!“ sagte Diederich. „Aber, meine Herren, mögen
die subversiven Tendenzen im Lande noch so stark sein,
wir sind stärker, denn wir haben einen Agitator,
den die Gegner nicht haben, und das ist Seine Majestät.“ <
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_III)

205 :Benehmen Sie sich!:2023/02/24(金) 13:43:08.91 ID:m9i6LeA4.net
「しつけ(身・美)」/"discipline"は、»das Benehmen«をよいものに
することを目的として行はれる。
言い換へるなら、「しつけ(身・美)」/"discipline"とは、
よ(善)き「みどり」がお(生)ひしげ(茂)るようにする一方で、
あ(悪)しき「みどり」が枯れ果てるようにするための「優生学」であり、
だからこそ、「しつけ(身・美)」は、「み(身)にいた(痛/傷)み」を
覚えさせるように行はれる「とが(咎)め」と表裏一体となっている。
それでも、「みどり」のもたらす「みのり」が、「とが(咎)め」に
よって与へられる「いた(痛/傷)み」を上回るなら、「しつけ(身・美)」
は失敗する。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 14:05:56.54 ID:m9i6LeA4.net
このことからも、「『なにもしない』ことが『できる』」ことは、
誰にとっても、実は、とても好ましい「よ(善/良)い」ことである
ことが分かる。ただし、「そんなことをしても何にもならない」、
「そんなことをすると身のためにならない」と言って親切に
忠告してくれるだけでなく、その忠告を無視して何かをしようと
するなら、それを実力行使で「とが(咎)め」ようとする場合、
たとえ、その本人が自分は倫理的・道徳的に正しいと確信して
いたとしても、その振舞ひが誰の身のためになっているのかは、
定かではない。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 14:10:11.86 ID:m9i6LeA4.net
世の中には、何もしないことと、何もさせないことを専門の職業として
自分の一生をそれに捧げている人々が、一般的な想定で信じられている
よりもはるかに大きな割り合いで存在する。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 14:14:40.59 ID:m9i6LeA4.net
>Dies ist eine harte Zeit. Wer sich nicht wehrt, muß dran glauben
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/343)

209 :場当たり的な説明の好例:2023/02/24(金) 17:59:30.81 ID:m9i6LeA4.net
英語の"to have"と"to behave"の対比も、表現形成において"be-〜"が
担っていた役割をよく示している。しかし、英語においてこれほどまで
に基本的な表現についても、一般に通用している語源解釈は、場当たり
的な説明しかできていない。

>behave (v.)
early 15c., reflexive, "conduct or comport" (oneself, in a specified
manner), from be- intensive prefix + have in sense of "to have
or bear (oneself) in a particular way, comport" (compare German
sich behaben, French se porter). The cognate Old English compound
behabban meant "to contain," and alternatively the modern sense
of behave might have evolved from behabban via a notion of
"self-restraint." In early modern English it also could be transitive,
"to govern, manage, conduct." Related: Behaved; behaving.<
(出典 etymonline.com/search?q=behave)

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 18:12:17.66 ID:m9i6LeA4.net
本当にそんなことはどうでもいいと思っているのなら、まだましなのである。
しかし、残念ながら、事態ははるかに深刻である可能性の方がずっと高い。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 18:13:42.06 ID:m9i6LeA4.net
しかも、その深刻な事態については、私のような愚か者でなければ、
口を開こうとさえしないだろう。何の得にもならないのだから、
当たり前と言へば当たり前だが。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 23:43:37.49 ID:m9i6LeA4.net
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

既にしつこいほど自己引用しているが、ここで、一見、意外に
思へるかもしれないが、ひとたび気づいてみれば、ごく自然に
感じられるであろう事例を示そう。それは、「さび(寂)しい」
という表現に見られる「さ(寂/錆)び」という表現により
伝へられる感覚と、「(ある場所に)とどまる, 居続ける」
(ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説)
ことを意味するドイツ語の»bleiben«という動詞が表現して
いる感覚のきれいな対応関係である。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 00:03:10.34 ID:VCd/vZLi.net
「さ(寂/錆)び」の「さ」は、「さ(去)る」の「さ」であり、
「さ(去)る」ことがもたらす「さら(晒)す」ことの「さ」でもある。
「〜び」の方は、「〜ふ」の活用形であり、したがって、
「さ(寂/錆)び」とは、「さ(去)る」こと、および「さら(晒)す」
ことの作用の効果として再帰的に表出する主体性の様態であり、
そのような様態を生じさせることを意味するのが「さび(寂)し」
である。

「さ(寂/錆)び」は、「さ(去)る」作用の効果としてもたらされる
のだから、そこに「さら(晒)さ」れて「残っている」イメージを
想起させる。このことは、万葉集の歌を見ても、容易に確認する
ことができる。

>万葉集 第19巻 4159番
礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神<左>備尓家里
礒の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり
いそのうへの つままをみれば ねをはへて としふかからし かむさびにけり
(出典 万葉集ナビ)

>万葉集 第17巻 4003番
伊尓之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尓家牟
古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ
いにしへゆ ありきにければ こごしかも いはのかむさび たまきはる いくよへにけむ
(出典 同上)

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 00:19:10.19 ID:VCd/vZLi.net
では、ドイツ語の»bleiben«の方はどうだろうか。Wiktionaryを
参照すると、その語源は、次のように説明されている。

>Etymology
From Middle High German blīben, belīben (“to remain in
the same position, pause, blin”), from Old High German bilīban
(“to remain”), from Proto-Germanic *bilībaną (“to remain”),
from Proto-Indo-European *leyp- (“to stick, glue”).
Cognate with Dutch blijven (“to remain”),
English belive (“to remain, stay”). More at belive. <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/bleiben)

現代のドイツ語の»bleiben«からは»be-〜«の"e"が消失している
が、この表現の場合も語頭の"b"は、前綴りの»be-〜«であることが
分かる。さらに、語源的にも、この表現は、"to remain"を意味する
とされるが、"*bilībaną (“to remain”)"のリンクをたどると、
>*lībaną
to remain, to be left<
(出典 en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/lībaną)
と記載され、"to remain"、つまり、「残る」ことが、"to be left"、
「さ(去)られる」こととキアスム的に反転する関係として捉へられて
いることを表現していたものと想定されていることが分かる。さらに、
この想定は、»bleiben«が英語の古語の"belive"と語源的に共通である
と考へられることからも裏付けられる。次に、その語源説明を参照する。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 00:26:53.14 ID:VCd/vZLi.net
>belive (v.)
obsolete verb, Middle English biliven, "remain in a place; be left over,"
from Old English belifan "remain," intransitive form of belæfan
"cause to remain" (see beleave). A general Germanic compound
(cognates: Old Saxon bilibhon, Gothic bileiban, Old High German
biliban, German bleiben, Dutch blijven).

It was confused in early Middle English with beleave and merged
into it, which gave beleave two clashing senses ("to leave,"
also "to remain") which might be why the compound word,
the cognate of important verbs in other Germanic languages,
was abandoned in English and only leave (v.) remains.<

ここまできれいに説明できるのに、"be-〜"/»be-〜«の用法に
ついてメタ言語的に記述する段になると、場当たり的に一貫性の
ない説明になるというのは、むしろ、極めて不自然である
(つまり、「自虐的」に何か無理をしている)と言はざるを得ない
のではないか。

216 :残り物には福がある/古典の効用:2023/02/25(土) 10:11:23.19 ID:VCd/vZLi.net
"to be left"、「さ(去)られて残る」ことの効果が再帰的に表出して、
「かむ(神)さび」となり、"to leave"、「そのままにする」ことの
効果が再帰的に表出して、「(神仏を)たの(頼)む」こと、すなわち、
"belief"となるという関係性は、とても面白くないだろうか。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 11:39:41.82 ID:VCd/vZLi.net
「残り物には福がある」、これは、書籍の場合にはよく当てはまることが
多い。偶々、格安だったので最近、入手したHeinrich Mannの
"Der Untertan"もその典型だろう。この小説が滅多に出会ふことのない
名著であると感じられるのは、そこで語られているのが他に例のない
ような特別な「ストーリー」であるからではない。魅力を感じさせる
ような人物がそこに描かれているからでもない。そうではなく、
Heinrich Mannの言語表現が、誰でもが容易に気づいて「ゐ」ながらも、
メタ言語的に記述することのない、したがって、それ自体を対象と
して語ることのない、ここでも論じてきたような関係性を極めて
巧みに言葉として捉へて、それを読む側に(私のようにドイツ語の
教育を受けたことのない者にさえ)うまく伝はるようにすることに
成功しているからである。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 11:46:16.25 ID:VCd/vZLi.net
一般に、極めて「雄弁な」人々、「多弁な」人々も、気づくはずのこと
に気づかされて、その「気づき」について語ることを迫られると、
とたんに黙り込むのである。

219 :かむ(神)さび:2023/02/25(土) 12:01:17.70 ID:VCd/vZLi.net
>relic (n.)
c. 1200, relik, "a body part or other object held in reverence or
affection due to its connection with a holy person," from Old French
relique, relike (11c., plural reliques), from Late Latin
reliquiæ (plural) "the remains of a martyr," in classical Latin
"remains, remnants," noun use of the fem. plural of reliquus
"remaining, that which remains."

This is related to relinquere (perfective reliqui) "to leave behind,
forsake, abandon, give up," from re- "back" (see re-) + linquere
"to leave" (from PIE *linkw-, nasalized form of root *leikw- "to leave").
Old English used reliquias, directly from Latin.
(出典 etymonline.com/search?q=relic&ref=searchbar_searchhint)

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 13:42:10.77 ID:VCd/vZLi.net
>beteiligen
ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
❶ [再]([英] participate in) ⸨sich4 an et3⸩ (…に)参加する, 関与する; 出資する
an et3 beteiligt sein|…に参加〈関与〉している.
❷ [他] ⸨j4 an et3⸩ (人に…を)分け与える, 参加させる.<

民主主義の政治とは、個人がまつりごとに出資者として参加することなのか?
これについては、»beteiligen«という表現とは関係なしに既に別の機会に
掲示板の別のスレッドで十分に論じたので、もはや言ひ残したことはほとんどない。
»beteiligen«のあり方の正しさを規範化しようとすればするほど、
まつりごとへの出資者として正当な「配分」/"share"について「調整」
するために集会に参加しているつもりの個人は、「分け前」ではなく、
「あ(当)てが(交)ひ」を競い合ふように「調教」されることになるだろう。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 13:43:28.60 ID:VCd/vZLi.net
誤:競い合ふ
正:競ひ合ふ

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 20:45:35.65 ID:VCd/vZLi.net
ところで、古語の「わりなし」が表現しているのは、"irrational"でも、
"unreasonable"でもなく、フランス語であれば、《sans mesure》、
ドイツ語であれば、»ohne Maß«である。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 20:51:28.42 ID:VCd/vZLi.net
尺度の問題を相対的な数量の問題にすり替えてはいけない。

224 :ひと(人/一/等)をはか(測/量/諮/謀)る尺度:2023/02/26(日) 09:55:21.84 ID:r5TThqWY.net
ひと(人/一/等)が万物をはか(測/量/諮/謀)る尺度であるとしても、
その尺度は、あらかじめ与へられているわけではない。

統治において、「ひと(人/一/等)をはか(測/量/諮/謀)る尺度」は、
「蛇に睨まれた蛙」(G.E.Lessing, "Fabeln", '13. Die Wasserschlange"
参照)の臆病さ/愚かさと、「そば(側)か(離)り/そ・ばかり(曾婆訶理)」
(『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171参照)の勇気/賢さの
間にある。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 09:59:56.65 ID:r5TThqWY.net
>Die Wasserschlange  ― Gotthold Ephraim Lessing

Zeus hatte nunmehr den Fröschen einen andern König gegeben;
anstatt eines friedlichen Klotzes eine gefräßige Wasserschlange.

"Willst du unser König sein", schrien die Frösche, "warum
verschlingst du uns?"
"Darum", antwortete die Schlange, "weil ihr um mich gebeten habt."
"Ich habe nicht um dich gebeten!" rief einer von den Fröschen,
den sie schon mit den Augen verschlang.
"Nicht?" sagte die Wasserschlange. "Desto schlimmer!
So muss ich dich verschlingen, weil du nicht um mich gebeten hast."<

(出典 deutschland-lese.de/streifzuege/fabeln/gotthold-e-lessing/die-wasserschlange/)

>曾婆訶理、吾が爲に大き功あれども、既に己が君を殺せし、これ義ならず。
然れどもその功を賽(むく)いぬは、信(まこと)無しと謂いつべし。
既にその信(まこと)を行はば、還りてその情(こころ)に惶(かしこ)けれ。
故、その功を報(むく)ゆれども、その正身を滅してむとおもほしき。<
(出典 『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171)

226 :蛇に睨まれた蛙:2023/02/26(日) 10:05:56.16 ID:r5TThqWY.net
>>215
>"be-〜"/»be-〜«の用法についてメタ言語的に記述する段になると、
場当たり的に一貫性のない説明になるというのは、むしろ、極めて
不自然である(つまり、「自虐的」に何か無理をしている)と言はざるを
得ないのではないか。 <

227 :似非数学ポエム:2023/02/26(日) 10:18:48.85 ID:r5TThqWY.net
この"be-〜"/»be-〜«/"con-〜"(すなはち、英語の"to be"および"by"
でもある)によって伝はる「存在感」が、ユークリッドの互除法である。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 10:30:30.72 ID:r5TThqWY.net
>「人(ひと)」のごと(如)く(この場合、「文字通り」というのは、
その文字の通りそのようであるという意味である)「双数」的である

229 :犬も歩けば棒に当たる:2023/02/26(日) 11:05:41.58 ID:r5TThqWY.net
>Da knurrte der Wulckowsche Hund, unter dem Präsidenten
hervor aber kam ein donnerndes Geräusch, ein lang hinrollendes
Geknatter — und Diederich erschrak tief. Er verstand nicht,
was dies für ein Anfall gewesen war. Das Gebäude der Ordnung,
wieder aufgerichtet in seiner Brust, zitterte nur noch leise.
Der Herr Regierungspräsident hatte wichtige Staatsgeschäfte.
Man wartete eben, bis er einen bemerkte; dann bekundete
man gute Gesinnung und sorgte für gute Geschäfte…<
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_V)

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 12:19:49.74 ID:r5TThqWY.net
>ところで、古語の「わりなし」が表現しているのは、"irrational"でも、
"unreasonable"でもなく、フランス語であれば、《sans mesure》、
ドイツ語であれば、»ohne Maß«である。<

これに対応する英語の表現は、"without moderation"であり、
「『わり(割)』なし」の「わり(割)」、「『わり(割)』にあ(合)ふ/
あ(合)はない」、「『わり(割)』をく(食)ふ」、「『わり(割)』と良い」
などの表現において用ひられる「わり(割)」を孤立させて、名詞化
するならそれがドイツ語において対応するのは、英語では、
"modesty"や"moderation"として訳される»Bescheidenheit«
である。この「わり(割)」を、数量化された「あたひ(価/値)」の
与へられた「比」/"ratio"になぞら(準)へて捉へてしまう思想や
哲学は、「ひと(人/一/等)」について決定的に誤った考へ方を
して「ゐ」る。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 12:21:07.24 ID:r5TThqWY.net
誤:名詞化するならそれがドイツ語において対応するのは
正:名詞化するならそれにドイツ語において対応するのは

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 17:04:20.44 ID:r5TThqWY.net
>>200-201
>»mit・an・sehen«または»mit an・sehen«という表現において、
»mit«はちょうど、「見て『ゐ/を(居)』られない」と表現される
場合の『ゐ/を(居)』に対応する表現となっていることが分かる。<

この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。
母語の日本語として普段から慣れ親しんでいる表現が、どのような
表現法であるのかについて、私自身は、をそ(教)はったことのない
ドイツ語の表現に接して、誰にをそ(教)はるでもなく初めて意識される
のは、とても面白いことだ。

>精選版 日本国語大辞典「いたたまらない」の解説
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)三「わたしが初ての座敷の時、
がうぎといぢめたはな〈略〉それから居溜(ヰタタマ)らねへから演コらうと云たらbフ」<

233 :名無bオさん@お腹いbチぱい。:2023/02/26(日) 17:09:19.77 ID:r5TThqWY.net
コピペしたらなぜか文字化けした。

誤:演コらうと云たらbフ
正:下らうと云たらの

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 23:26:55.00 ID:r5TThqWY.net
>>197
>Wiktionaryで"conor"の語源を参照すると、次のように記載される。
>From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona,
from root *ken- (“to set oneself in motion”).<

"conatus"/「コナトゥス」のこの語源解釈に誰も文句をつけないのも、
かなり「自虐的に無理をしている」ように私には思へる。なぜなら、
ラテン語で"conor"の前に"prae"を付けただけの"praeconor"は、
英語の"to proclaim"に対応するような意味となるからだ。
(出典 latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/5569/)
そして、この"praeconor"という表現は、ラテン語から派生した
現代のスペイン語の"pretender"という表現に似ている。この
"pretender"と語源を同じくする英語の"to pretend"は、現代では、
「見せかける」という意味で使われるが、英語においても古くは、
そのように用ひられていたわけではない。
>pretend (v.)
late 14c., pretenden, "to profess, put forward as a statement or assertion,
maintain" (a claim, etc.), "to direct (one's) efforts," from Old French
pretendre "to lay claim," from Latin praetendere "stretch in front,
spread before, put forward; put forward as an excuse, allege,
"from prae "before" (see pre-) + tendere "to stretch" (from PIE root
*ten- "to stretch").
(出典 etymonline.com/search?q=pretend)

235 :を(終)はりなき数学ポエム:2023/02/27(月) 09:36:49.71 ID:KoqPzC2N.net
「まるくをさ(収/治)める」とは「を(折)りあ(合)ひ」がつくように
することだろう。もともとは法制度の用語に由来するとされ、
「通達」の意味で用ひられるとともに、日常語としては、
»Bescheid sagen«で「(どうするかを)知らせる」、
»Bescheid wissen«で「事情に通じている」などの表現で
よく使われ、その場合は「情況」に相当すると考へることができる
»Bescheid«も、語源的には、「を(折)りあ(合)ひ」に相当するような
表現ではないかと私には思へる。
ところで、「まるくをさ(収/治)める」ように「を(折)りあ(合)ひ」が
つくようにすることは、円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられた
あたひ(価/値/能)の比により近似して求めることになぞら(擬)へる
ことができるだろう。

236 :を(終)はりなき数学ポエム:2023/02/27(月) 10:01:59.34 ID:KoqPzC2N.net
円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられたあたひ(価/値/能)の比と
して求めることは、連分数計算の形式で表現してみれば、はっきりと
分かるとおり、究極的に数へられた数の比として決して収束すること
のない円周率を、既に定まった数の比として近似するたびに、
その都度、単位(たん・ゐ)としての1(「ひと/一/人/等」)の
方が精度として規定されることになる。これを、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』が
つくようにすること」に合はせて考へてみるなら、何か角
の立つ事情が生じた場合、それが「まるくをさ(収/治)まる」
ように「ひと/一/人/等」の規定の方が「を(折)りあ(合)ひ」
をつけること/"modification"もしくは"moderation"/
»Bescheidenheit«を求められるようになることを意味して
いるだろう。

237 :を(終)はりなき数学ポエム:2023/02/27(月) 10:31:33.46 ID:KoqPzC2N.net
ところが、である。そのようにして「『まるくをさ(収/治)める』ように
『を(折)りあ(合)ひ』がつくようにすること」をすべての人々、あるいは
世界全体としての原理原則/倫(=人・侖)理としてしまうなら、
「を(折)りあ(合)ひ」をつけようとすることは、「究極的に数へられた
数の比として決して収束することのない円周率」を無限の精度で
追求するために、「ひと/一/人/等」が「を(折)りあ(合)ひ」をつける
ことを無限に絶え間なく求められるようなことになる。

当事者の間で物事に何らかの角が立つ状況であれば、「を(折)り
あ(合)ひ」をつけることが求められるのは、それが頻繁に生じて
煩わしいと感じられるとしても、「や(止)むを得ない」(原理原則
としての「を(終)はりなき」無限ではない)こととして受け容れ
られるだろう。しかし、もはや、みづから(身づ柄/自ら)が
関与することによって初めて成立する当事者の間では、
どのように角が立っているのかまったく不明でありながら、
「すべての人々、あるいは世界全体」という「究極的に数値
として求められた円周率」に喩えられる、決して「そこ」に
はあり得ない存在のために際限なく「を(折)りあ(合)ひ」を
つけることを求められるならば、それは、あらかじめ徒労
に過ぎないことと分かっていることを一方的に強制されて
いると感じられるようになる。にもかかわらず、一般的に
広く通用している哲学や思想は、明示的にであれ、暗黙裡
にであれ、そのような「『無限』の追求」を理想としている
のである。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 10:40:58.59 ID:KoqPzC2N.net
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」をすべての人々、あるいは世界全体としての
原理原則/倫(=人・侖)理として、あらかじめ定めて、その原理
原則/倫理に従ふように個々の人々を誘導すべきだという考へ方
は、一見、まともで、正しいものであるように見えながら、
それ自体、まったく»Bescheidenheit«を欠いている。

239 :統治者目線で全体のことを考へるようになった蛙:2023/02/27(月) 10:44:25.94 ID:KoqPzC2N.net
>「イソポ、アテナスの人々に述󠄁べたる譬の事」

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 11:13:55.78 ID:KoqPzC2N.net
>この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。

とても意外なことに、これに関連して「獺(カワウソ)」が、語源的に
どのような表現であったかを、連想により導き出すことができる。
なぜなら、「獺(カワウソ)」は、古語では、「かはうそ」ではなく、
「かはをそ」だからである。「かはをそ」が水辺に棲むイタチ科の
動物であることから、「かは」が「かは(河/川)」であることに
疑いの余地はない。では、「をそ」は何かと言へば、「を(居)そ(且)」
である。さらに、「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった
様子であり、したがって、「を(居)そ(且)」は、「ゐ(居)た(立)ち」、
つまり、「イタチ」の別表現であることになる。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 11:15:17.37 ID:KoqPzC2N.net
>Derived characters
咀, , 姐, 狙, 阻, 䏣, 柤, 𤇅, 祖, 租, 粗, 組(组), 蛆, 袓, 䱉, 助, 䢸, 䪶, 宜, 㡹, 査, 𤇙, 䯶, 跙, 徂
(出典 en.wiktionary.org/wiki/且)

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 11:26:53.19 ID:KoqPzC2N.net
日本語の「ゐ(居)る」に対応して、英語の"to be"が本来的に
表現しているのは、「存在」とういよりも、「臨場感」だろう。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 11:31:57.00 ID:KoqPzC2N.net
ただし、あらかじめ非対称な関係がそこにあることを前提としている
ように感じられる「『臨床』哲学」という言葉は、私は好きではない。
「臨床」は"bedside"以外ではあり得ないだろう。

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 22:29:15.66 ID:KoqPzC2N.net
臨場性/ライブとしての"being"

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 10:52:43.80 ID:5iWWGne4.net
>「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった様子であり

「立ち上がった様子」を単に"standing"という状態に対応するものと
イメージしてしまうとすれば、この説明を適切に理解していない。
「そ(且)」によって表現されているのは、"standing"ではなく、
"to stand up"であり("to help"に対応する「助」という漢字が、
"to help (stand) up"をイメージさせるものであることを想起して
みるのもいいだろう)、さらには「『そ』び(聳)ゆ」の「そ」に
対応するように"rising up"であり(「阻」がどのような形象文字
としてどのような様態をイメージさせるものであるかを考へて
みるとよい)、その作用が概念化して捉へられた"uprising"である。

ただし、日本語の表現としてこの「そ」の用法は、「且」という
漢字によって縛られるものではなく、この漢字の象形がその様態の
イメージを想起させるのに好都合であるために利用したまでである。
例えば、以前に牛頭天王に関連して、
「曽尸茂梨(そしもり)」⇔「蘇志摩利(そしまり)」の互いに反転した
関係について説明したとき、「曽尸茂梨(そしもり)」は、死体が
うず高く重なる「死屍累々」であり、「蘇志摩利(そしまり)」は、
「復興の志」であるといったような説明をした憶えがあるが、
この場合の「そ(曽/蘇)」も、"rising up"に対応している。
他にも、「蝦夷(えぞ)」、「熊襲(くまそ)」「阿蘇(あそ)山」、
「味噌(みそ)」(てまえ・みそ(三十・一文字/みそ・ひともじ))など
における「そ」の用法がすぐに想起される(「そ/ぞ」は、「増」
や「層」などの漢字に関連付けられる場合も多く見られること
から、「そ(且)」と「そ(曽)」のイメージは複合化している)。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 11:21:13.46 ID:5iWWGne4.net
このような連想による推論のプロセスは、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」は、その都度、暫定的に単位の精度を「都合に
合はせて」定めて、近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へ
を求めることに喩えることができるが、それを何らかの権威によって
たし(確)かなことがあらかじめ保証され根拠に基づく演繹、または
「全体的な結果」として最終的に到達されるはずであると信じ込まれ
た絶対的な予定調和からの逆算のようなものと思ひ違ひをするなら、
推論の根拠がまったく不確かなことや、導き出される近似の
こた(応)への精度(誤差が大きすぎて、まったく使ひものにならない
場合も含めて)に大きなばらつきが生じることに気づいて、
期待を裏切られることになるだろう。しかし、それは、そもそも、
勝手な思ひ違ひである。というのも、私は、他の誰かが私の
推論によって導き出されたこた(応)へをたの(頼)みにしなければ
ならないなどということは、まったく要求していないからだ。
利用するのも、利用しないのも各々の勝手であり、たの(頼)みに
できるかどうかは、その都度、各自が自分で確かめればよいこと
であって、私の知ったことではない。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 11:24:32.28 ID:5iWWGne4.net
誤:近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へを求めることに
正:近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へを求める連分数計算に

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 11:44:43.48 ID:5iWWGne4.net
"a live being"は、意味不明に冗長であるが、
"being alive"は、"being"と"live"の恣意的な切り離しである。

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 13:56:02.72 ID:5iWWGne4.net
>>245
それにしても、「白(シロ)鼬(イタチ)」とも呼ばれる「オコジョ」の
名前の由来を検索しても、何もヒットしないばかりか、その漢字表記さえ
見当たらないのはなぜだろう。「カワウソ(獺)」という名前の「ウソ」は、
もともとは「をそ」であり、「乎曽」と表記されたことが岩波古語辞典
にも記載される。私は、この「をそ」は、「を(居)そ(且) 」であると
説明したが、「そ(曽)」に想定される中国語の中古音は、
"/d͡zəŋ/"または"/t͡səŋ/"であり、「そ(且) 」に想定される中国語の
中古音は、"/t͡sʰiaX/"または"/t͡sɨʌ/"であり、後者の音読みは、
"しゃ/しょ/そ/ぞ"とされている。「そ(且) 」と「力」を組み合は
せて、"to help (stand) up"を表現するものと考へらえる「助」
の音読みは、「じょ」であるが、想定される中国語の中古音は、
"/d͡ʒɨʌH/"であり、想定される発音がこれと近く、やはり助ける
ことを意味するように用ひられた「丞(じょう/しょう)」
(Middle Chinese: /d͡ʑɨŋ/, /d͡ʑɨŋH/)は、「烝」(Middle Chinese:
/t͡ɕɨŋ/, /t͡ɕɨŋH/)に関連して、その語源は、
>From Proto-Sino-Tibetan *s-tjaŋ (“upper part; rise; raise”) (STEDT).
であるとされる(Wiktionary参照)。それだけでなく、「烝」の発音は、
朝鮮語では、"증 (jeung)"として発音され、同じ発音で読まれる漢字
には、他に「曾/増/噌」があり、「烝/증 (jeung)」は、"steam"、
"many"の他に"to rise"を意味するものと解釈されている。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 14:09:17.04 ID:5iWWGne4.net
「貂/鼦」は、日本語としては「てん」と読まれるが、これは、
日本語となった「てん」に「貂/鼦」の漢字を当てたもので、
音読みではない。しかし、このようにみると、「てん」という
日本語の名称そのものが、
>Proto-Sino-Tibetan *s-tjaŋ (“upper part; rise; raise”)
に由来しているように見える。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 17:22:49.21 ID:5iWWGne4.net
それにしても、「小僧が憎い」というのは分からなくもないが、
「僧」は、サンスクリット語の音を漢字で移すために用ひられた
にしても、やはり、「人・曾」で"upright person"をイメージ
させただろうと想像できるが、「心・曾」で「憎む」/"to hate/abhor"
という意味になるのは、少し不思議な感じもする。
やはり「こころ(心)」は、「立たせる」べきものではなく、
「安らか」にさせていた方がよいということだろうかw

252 :禁欲主義的僧侶/なほ(直)き人としての地球市民:2023/02/28(火) 18:02:43.77 ID:5iWWGne4.net
biedermännisch rechtschaffenarch → honest upright
biedermännisch spießbürgerlich pej → bourgeois
biedermännisch contempt. (heuchlerisch) fig → hypocritical
(出典 wordreference.com/deen/biedermännisch)

253 :あなづらはし:2023/02/28(火) 18:09:26.64 ID:5iWWGne4.net
>Herkunft ⓘ
mittelhochdeutsch bider(be) = bieder; brauchbar, nützlich,
althochdeutsch bitherbe = brauchbar, nützlich,
eigentlich = dem Bedürfnis entsprechend<
(出典 duden.de/rechtschreibung/biderb)

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 21:47:47.77 ID:5iWWGne4.net
>>202
>「コナトゥス」/"conatus"の第三者的な「具体化」/"corporation"が、
»das Mitnehmen«としての「み(身)ど(取/獲)り」/「みどり(緑)」
であることになる。 <

これは、書いてみると、とても便利な例であることにあらためて
気づかされる。どのように便利であるかと言ふと、真理条件意味論を
利用して、日本語の「みどり」の表現としての語源的な意味と、
英語の"be-〜"が、表現上、「"be-〜"により修飾される作用の
効果として主体性を再帰的に表出させる働きをする」という
記述の妥当性とが「たが(互)ひ」に実証されるのを示すことが
できるからである。

>'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.

255 :一石二鳥:2023/02/28(火) 21:56:48.95 ID:5iWWGne4.net
>'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.

さて、'the infant is みどり'という文において「みどり」が英語の
どのような表現に対応すると考へたら、この文が"true"/「まこと(真言)」
であるものとして成立するだろうか。そのこた(応)へは、もはや
言ふまでもないだろう。「と(取/獲)る」に対応する英語としてすぐに
思ひ浮かぶのは、"to take"と並んで極めて頻繁に用ひられる動詞で
ある"to get"である。これを"be-〜"で修飾すると"to beget"になる。
これをそのまま活用して、「みどり」≒"begotten"とすると、
>'the infant is begotten' is true if and only if the infant is begotten.
となり、かくして、「みどり」の意味の解釈と"be-〜"の表現上の
用法の説明の妥当性が「たが(互)ひ」に実証されることになる。

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 22:04:07.29 ID:5iWWGne4.net
>>246
誤:このような連想による推論のプロセスは、
正:このような連想による推論のプロセスとして、

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