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【何もかもが】司馬遼太郎アンチスレ【嫌い】

1 :無名草子さん:2011/10/15(土) 23:22:01.94 .net
司馬遼太郎の一方的な決め付けが嫌い。
そのクセ裸眼の思索者とか馬鹿?

2 :無名草子さん:2011/10/15(土) 23:24:10.03 .net
竜馬がゆくとか下手すぎ。
なにが書いてあったか全く思い出せないレベル。
氏ね!!

3 :無名草子さん:2011/10/15(土) 23:35:28.40 .net
山田風太郎の夏目漱石や松本清張の森鴎外の様に偉大な先人を師とすることもなく
夜郎自大な文章を書き続けた愚人。

4 :無名草子さん:2011/10/15(土) 23:47:55.66 .net
どの作品を読んでも新しい知見が一つもない作家というのは人類の始まりから終わりまでで
彼のみではないのか?
無論そういう男にありがちな「独創性」連呼厨でもあるのが痛い。

5 :無名草子さん:2011/10/15(土) 23:53:20.56 .net
ペンネームが変すぎる。毛沢東男(けざわあずお)とか居たらキモいだろ。
それと同レベル。もしこういう自称をする男が美的感性があったらむしろおかしい。

6 :1-5:2011/10/15(土) 23:55:23.31 .net
てな感じで進行しましょう。

7 :無名草子さん:2011/10/16(日) 07:16:05.96 .net
ま、あんなもんじゃないの?
持ち上げる奴が気色悪いだけで

8 :無名草子さん:2011/10/16(日) 07:52:42.05 .net
日本史の方にでもいけばいいのに
わざわざアンチスレ立てるなんてどんだけだよ
しかも故人の

9 :無名草子さん:2011/10/16(日) 08:29:46.91 .net
新しい知見がないっていうのはちがう。
この人が広めて一般的になったものも多い。
逆なんだよ。

10 :無名草子さん:2011/10/16(日) 13:36:49.45 .net
読者に語りかけるような文体で、大衆小説として面白く、
+α効果に歴史を勉強した気になるのが司馬小説の魅力だな。
アンチのほとんどは、+α効果の部分を批判してんだよな。
それは司馬史観で事実とは違う。
司馬の野郎、出鱈目書きやがってってな。

11 :無名草子さん:2011/10/16(日) 20:21:42.00 .net
小説として面白くないのが司馬の一番の欠点なんだが・・・

12 :無名草子さん:2011/10/16(日) 22:50:10.13 .net
東男=はるおぐらい読めれよ

13 :無名草子さん:2011/10/18(火) 07:14:36.91 .net
>>9
こいつが世間に広めたって、こいつの元ネタはかなり復元されてるじゃん。
子母沢寛の新選組始末記とか著名作家の文芸作品までパクっているよ。

14 :無名草子さん:2011/10/22(土) 14:13:02.48 .net
司馬は幕末と明治で西郷隆盛の人格が変化したというがむしろ幕末の行動の意味をよく分かって
いなかったんじゃないのか?
実際にはほとんどの期間幽閉や軟禁をされていたし、活動していた期間はかなりな独断専行が目立つ。

15 :無名草子さん:2011/10/22(土) 17:09:48.00 .net
久しぶりに読み返してみたらあまりの内容の薄さに唖然とした。
子供の頃は歴史上のデータを知らなかったからその薄さを特に苦痛と感じなかったが
他の作家を読むようになると、こいつ表現の幅が少なすぎね?と思う。
もう少ししたら消えるね。確実に。

16 :無名草子さん:2011/10/23(日) 20:43:43.47 .net
>>14
俺は西郷の変化は、「ブレーンの大久保と決裂したから」ただその一点だけと思ってる。

でも司馬は、「なぜだろう、不思議だ。幕末はあんなに凄かったのに」と延々と首ひねってるのが不思議だった。

17 :無名草子さん:2011/10/25(火) 10:24:15.39 .net
子母澤寛
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1315143723/l50

18 :無名草子さん:2011/10/25(火) 19:34:16.91 .net
大久保はあくまで久光のブレーンであって、西郷との関係で言えば久光との間を
取り持っただけじゃない?

19 :無名草子さん:2011/10/26(水) 20:20:09.09 .net
空海の風景を読もうと全集を借りてまず谷沢永一の解説から読み始めたが、そこで引用される
司馬の見栄を切るのに似たハッタリの数々に既にお腹いっぱい。

20 :無名草子さん:2011/10/26(水) 21:01:58.90 .net
>>18
定説ではそうなんだけどね。
個人的には倒幕運動は、戦略は西郷、戦術は大久保っていう分担だったんじゃないかと思う。

21 :無名草子さん:2011/10/26(水) 21:38:55.20 .net
思うと言われてもなんか理由を挙げてくれないと信じられないけど

22 :特攻隊長:2011/10/26(水) 21:42:07.25 .net
司馬遼太郎ほどの偉大な作家を馬鹿にするとかてめぇらよっぽどいい本書けんだろうな!?

23 :無名草子さん:2011/10/26(水) 21:47:50.53 .net
てめぇらって言うほど人がいないんだけど(涙)

24 :無名草子さん:2011/10/26(水) 21:50:56.39 .net
直木賞取ったって騒ぐ本は大体面白くないけどなww

25 :特攻隊長:2011/10/26(水) 21:51:10.55 .net
そりゃあ司馬遼太郎ほどの偉大な作家をバカにするやつなんて滅多にいないね

26 :無名草子さん:2011/10/26(水) 21:57:01.86 .net
2ちゃんは多いんじゃない?
ネトウヨとか

27 :無名草子さん:2011/10/29(土) 02:34:47.59 .net
1

28 :無名草子さん:2011/10/31(月) 02:26:02.99 .net
なんか国粋主義的な雰囲気がキライ。
じじくささ、軍国主義とまでいかないが軍国趣味、それもイヤだな。

29 :無名草子さん:2011/11/01(火) 06:42:34.54 .net
初期はシナと読んでたのに途中から中国に言い換えたね。

30 :無名草子さん:2011/11/05(土) 17:00:55.22 .net
も少し余談ですが↓

31 :無名草子さん:2011/11/05(土) 19:11:03.79 .net
司馬の批判をするために色んな作家の本を読んだらそっちの方が面白いことに気づいた。
特に松本清張と吉村昭がオススメ。
山田風太郎はまあドッコイドッコイかな。

32 :無名草子さん:2011/11/05(土) 20:48:54.30 .net
さらに余談。

33 :無名草子さん:2011/11/19(土) 14:35:47.47 .net
司馬遼太郎は小林秀雄に似てる。共に「国民的」大作家・大批評家と称えられる。
しかし小林は自分にとって最重要のモチーフ
【太平洋戦争と中原中也】
に生涯ほとんど触れていない(批評家なのに)。司馬遼も同じく
【太平洋戦争】
にほとんど言及していない(歴史作家なのに)。そこが不満。


34 :無名草子さん:2011/11/19(土) 14:46:08.93 .net
司馬遼太郎は大衆小説を書いてた人だから。
面白けりゃいんだよ。

35 :無名草子さん:2011/11/19(土) 20:24:13.89 .net
面白いって人はなにが好きなの?
どの主人公もキモい性格だよ。

36 :胡蝶の夢 ◆fT8KbYiCLo :2011/12/10(土) 18:37:29.42 .net
そうか?

37 :無名草子さん:2012/01/19(木) 10:33:57.72 .net
「街道をゆく」シリーズは結構好き。
自分も旅をしている気になれるし、ちょっと歴史を学んだような
オマケの気分にもなれる。

38 :無名草子さん:2012/01/19(木) 12:20:29.36 .net
同じような文体でも宮城谷さんは歴史に対する謙虚さがあるから好きなんだけど、
司馬さんは常に過去の偉人たちに対して上から目線なのがなぁ。
昔は好きだったけどね、もういいかな。
今は吉村昭のような暗い重みの方が心地いい。

39 :無名草子さん:2012/01/20(金) 09:38:31.25 .net
セックスが好きそうな主人公が多い。てか、なんか目線がおっさん臭いんだよね

40 :無名草子さん:2012/01/24(火) 20:13:33.31 .net
翔ぶが如くとか無駄に長すぎ。そのクセ意外に情報量も少ないし。
フィクション部分が多いとかでもなくて、ただまどろっこしい語り口なだけ。

41 :無名草子さん:2012/02/11(土) 00:44:35.63 .net
すぐに「日本の歴史上類を見ない」とか言うね。
というか同じ様な言い回しが多い。つまらん。

42 :無名草子さん:2012/02/16(木) 02:04:09.21 .net
宮城谷は文章を批判されて、きっちりした文章を作るために白川静で漢字を徹底的に勉強したからね。
漢字フェチと言ってもいいくらい。宮城谷はフェチだけど、司馬は単なるオナニー

43 :無名草子さん:2012/02/21(火) 18:18:32.94 .net
司馬遼太郎の儒教嫌いって異常じゃね?
司馬のせいで儒教嫌いになったやつかなり多そう

44 :無名草子さん:2012/03/02(金) 02:23:55.64 .net
朱子学=停滞としか考えてないんだよな司馬って

45 :無名草子さん:2012/03/20(火) 17:39:18.42 .net
世間様じゃ「鳥の視点」とか言われてるようですが、要は上から目線過ぎて大事なものをボロボロ見落としてんじゃないですか?
坂雲で「被害思想でのみとらえるのが庶民の歴史ではない」って言っててドン引きしました。
映像化云々の前にもっと大きな問題があるだろ!

46 :無名草子さん:2012/03/20(火) 22:09:19.37 .net
司馬遼太郎 = ロックフェラーの犬 だろう

47 :無名草子さん:2012/03/23(金) 14:39:19.61 .net
>>45
司馬作品はほぼすべてソ連があった時代に書かれている
・歴史学者≒マルクス史観
・経済学者≒マルクス経済学

太平洋戦争は広島・長崎・東京大空襲etc
女子供の視点のみから回想された時代

司馬遼太郎が風穴を開けた

48 :無名草子さん:2012/04/05(木) 12:17:40.41 .net
>>39
セックスシーンで萎えるよな
ああ、またか…ってw

覇王の家からはもう駄作連発だよな、菜の花の沖なんか説明文に物語をつけたものだし…
むしろ小説ではない
あと終盤が駆け足になったり、最後が尻つぼみになったり

49 :無名草子さん:2012/04/12(木) 21:09:49.74 .net
>>47
司馬が風穴を開けたと思ってんの?
吉川英治、山本周五郎なんて大御所は司馬よりはるかに戦後の混乱や暴力に否定的だよ
さらに言えば、司馬史観はその後に主流になった教科書通説、実証的な歴史研究とも違う。
だから「日本列島は東西に長かったので東は(国際情勢に対して)眠っていた」
などというトンデモナイ歴史観を披露する。チャート式の18世紀末のロシア船南下あたりから見てみろと
実際には東日本諸藩のほうが蝦夷地樺太探索や北辺防備論などで西日本より敏感。
ペリー来航に際してもとっくに予想されており、アメリカ側の出方について幕閣は詳細に分析した結果、
江戸〜大阪間のシーレーンが脅かされると判断して和親条約受入の基本路線を固めている

それと司馬は時代を閉塞させてる。60〜70年代のパラダイムで小説を書き続けたから、
80年代以降、日本の近世や幕末、対外戦争に際して新資料が出てきてもまったく斟酌しなかった
この局面では司馬は「守旧派」。
長篠や日露戦争での敵前大回頭をはじめとする司馬俗説がことごとく覆されてるのは周知の通り

50 :無名草子さん:2012/04/12(木) 21:10:53.31 .net
司馬は風穴を開けたというより、アカデミックな研究に対して
適当に史料くっつけた個人の妄想をぶつけただけ。

51 :無名草子さん:2012/04/18(水) 15:22:27.64 .net
国賊

52 :テスト:2012/04/28(土) 18:58:11.53 .net
翠巒

53 :無名草子さん:2012/04/29(日) 18:48:46.17 .net
齦?

54 :無名草子さん:2012/05/31(木) 08:44:17.86 .net
難しい漢字ねえ

55 :無名草子さん:2012/10/11(木) 12:37:27.10 .net
播磨灘物語が売れそう

56 :五関敏之:2012/10/13(土) 19:09:21.49 .net
せやのう

57 :無名草子さん:2012/10/17(水) 12:09:39.49 .net
>>50

司馬遼太郎の本読んで坂本竜馬尊敬してるって人みると気の毒になる。
忍者ハットリ君をみて服部半蔵を尊敬してるのと変わらんのだよなあwww

58 :無名草子さん:2012/10/18(木) 14:55:42.38 .net
小説好きな人は司馬遼太郎は読まないよね。
史観がどうかとかは知らん。

59 :無名草子さん:2012/10/24(水) 10:20:30.30 .net
司馬遼太郎ファンのノリって
受験終わってからも予備校講師の信者やってる人のノリと同じだと思う。

60 :無名草子さん:2012/10/24(水) 10:42:41.60 .net
あの人のエッセイ(?)の特徴は、
複数の歴史的事象の間にすぐ因果関係を推測する事だね。

61 :無名草子さん:2012/10/26(金) 00:11:10.30 .net
司馬遼太郎記念館に行ったことがある。二万冊かの蔵書が高い天井まである
壁一面の本棚に収められている。上の方は見えにくいから、オペラグラスを
持っていくことをおすすめする。新旧、様々な本があった。しかし、ひとつ
気が付いた。すべて和書だった。幕末の歴史を調べるには和書だけでなく洋書
にもあたる必要があると思うが、この辺が司馬の限界かとも思った。

62 :敗訴一声会さくら接骨院親歌代英二:2012/10/31(水) 12:26:23.34 .net
>>56
aoi

63 :無名草子さん:2012/11/15(木) 07:17:27.30 .net
小説ごときが歴史観を作る
そういう時代だった

64 :無名草子さん:2012/11/15(木) 07:53:09.08 .net
この人ものすごく資料集めて読み込むので有名だったけど
それでいて書いた小説があんなに薄いのがびっくりw

65 :無名草子さん:2012/12/27(木) 13:12:48.88 .net
>>61
俺も記念館に行ったんだけど、がっかり感というか残念感しか残らなかったな。

歴史時代小説ファンの端くれとしては、司馬さんの蔵書をじっくり見ていきたかったけど、
地下1階から地上2階にわたって展示されているといっても、
裸眼で見られるのは下の方の書架に収蔵されているごくわずかの蔵書だけ。

61さんの言うようにオペラグラス持っていかなきゃいけなかったな。
しかし、ここを設計した安藤忠雄は、何を考えてんだよ。

66 :無名草子さん:2013/06/26(水) 11:38:00.32 .net
司馬遼太郎を読んで坂本龍馬を実在の人物と信じて疑わない人が殆どでしょうね。
「竜馬が行く」を読んだ後違和感が有った、
何が違和感なのか分からなかったが、
誰ぞの「坂本龍馬は居なかった」を読んだらすっきりした。

67 :無名草子さん:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN .net
>>63
まあ、左だと吉本隆明なんかが読まれた時代だからな
今や誰も吉本なんか話題にもしないだろw

68 :無名草子さん:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN .net
今、翔ぶが如くを読み出したが、説明説明で物語が進展しない。
複数の人物の物語中の時間以外の過去未来の説明とかどうでも良い。
フランス人やら外国人の説明もいらん。
ワクワクさせず非常に苦痛というか、作業のように読んでいる。
まだまだ先は長いが今後面白くなるのか?

69 :無名草子さん:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN .net
司馬は頭おかしかったのか?
同じネタを何度も使いやがって。
学校で重複しないように文章書けって習ったけど
ネタも重複しないように書くべきなのでは?

70 :無名草子さん:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN .net
司馬は維新側が正義で、幕府側が愚鈍で無能と設定したファンタジー作家だからな。

インタビューや下調べはしてたみたいだけど、都合のいいものだけ取り上げる朝日みたいな感じw
史実とは逆の事まで書いて幕府側を貶める事ばかり書いてるよ。

当時の欧州財閥の視点は全く持ってないし、それに幕府がどう対処したかなんて知らないみたいだ。


頭が朝日だったのは確かだと思う。
偏見の上に都合のいい小さな事実だけ拾って、全体を妄想ででっち上げて歪んだ歴史を捏造ってでね。

71 :無名草子さん:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN .net
作家だもの無かった事を有った様に、有った事を無かった様に、
如何にも真実らしく書く、それが作家ですよ。
歴史の真実の羅列が良いのですか? それはノンフェクションと言いますよ。

>>70
司馬氏が作家活動中に直接言ってやれば良かったのに
幕末の事は当時分かっていた事と今分かって居る事とでは差が有ると思いますがね。
作家はファンタジーを売る物ですよ、太古の昔からそれは変わりませんよ。

72 :無名草子さん:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN .net
たかだか作家が歴史家の顔しているのが問題だって上の方からずっと言われているだろう、KYだな

73 :無名草子さん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN .net
>>71 それを歴史小説とは言わない

74 :無名草子さん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN .net
>>73
歴史小説とは何ですか?
世の中にはフェクションとノンファクションしか無いですよ。
歴史小説と言っても江戸時代の事で残ってるのは書簡が主で発言内容は速記録が残ってる訳では無いですよ。
書簡にも偽物も多数存在している模様ですよ。
幕府の発言内容は幕末の混乱と江戸城引き渡しに於いて焼却廃棄されたと聴いていますよ。
残ってる書簡をつなぎ合わせて話を盛り上げるそれが作家の仕事です。
どの作家の作品にこの作品は真実を調べて事実どうりに書きましたと書いてありますか。
面白可笑しく興味を損なう事無く次の作品に繋いで行くそれが作家です。
話しを面白くする為に関係の無い人が登場するのは常です。
歴史を知りたいのなら御自分で古文書を調べる他に手は無いと思います。
又は複数の作家の共通事項のみ正しいんだろうと考える事も出来ます。

75 :無名草子さん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN .net
そう・・大上段にふりかぶってホームランを狙わんでもいいから。

言葉の定義の話ししかしていない。歴史に題材をとっただけで
歴史小説を詐称せずとも、時代小説でもファンタジーでもSFでも
あんたの意図にそうジャンルはすでにあるから、それを使って
話をすればいいこと。

76 :無名草子さん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN .net
>世の中にはフェクションとノンファクションしか無いですよ
ずいぶんオールオアナッシングなやつだな

77 :無名草子さん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN .net
ノンフェクション以外は全て創作が入ります、作者の思い入れが入ります。
と言ってもノンフェクションと言っても唯事実の羅列では無いので作者の思いが入って居ます。
歴史小説でも現代小説でも未来小説でも同じです。
小説は殆どが月刊誌週刊誌日刊紙に連載されますから面白く無ければ続ける事は出来ません、
その為には実在しない人物も登場します、無い事も有った事になります。
小説とは娯楽です、娯楽に厳密な真実を求める事は間違いです。
真実を知りたいのなら古文書を紐解く事です。

78 :無名草子さん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN .net
司馬作品で歴史を勉強した気になっちゃいかんよ。
ただの大衆小説だからね。

79 :無名草子さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
実名を使っておいて、小説だから構わないってかw

朝日っぽい詭弁だな。

80 :無名草子さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN .net
>>79
貴殿は真実を知りたいのですね。
ならば専門的歴史書を読む事です。娯楽小説に期待してはいけません。
実名の小説ならば他の著者の物でも幾らでも有る、そんな事も知らないのか?
それも著者は故人の物が多い、読書に励んでください。
此処でごねて居ても何も解決しません、御大事に。

81 :無名草子さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
歴史小説ってのは、まず判ってる真実が土台にあっていいと思うけどな。
司馬のは、捻じ曲げ過ぎていて歴史小説じゃなくてファンタジーだからな・・
特に維新ものは酷い

82 :無名草子さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN .net
>>80
××は○○ではないか、だとしたら△△であってもよい。

定義付けも正しくないし、解釈も間違ってる。
高い処から物を言うが、実は頭が悪い。

朝鮮日報と呼ばれる朝日新聞。

83 :無名草子さん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN .net
清水義範のパスティーシュは好きだな
猿蟹合戦とか社史を司馬文体で書いたやつ
パスティーシュの対象にされるのは偉いと思うね

84 :無名草子さん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN .net
清水義範にまねてもらえたので司馬遼太郎はえらい、といいたいのか?
本屋に行ってみな。清水より司馬のほうがたくさん置いてある。
だいたい、清水ってなにものよ?

85 :無名草子さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN .net
司馬遼太郎の本名は何だっけ?
生年月日と没年月日は何時だっけ?
没年齢は幾つだっけ?

86 :無名草子さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN .net
本屋にたくさん置いてあるから偉いって・・
だったら司馬より鳥山明やワンピースの尾田の方がたくさん置いてあるだろ

87 :無名草子さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN .net
司馬作品の大衆小説で歴史の勉強をしたという錯覚をする奴が多くてうざい。

88 :無名草子さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN .net
司馬氏の作品の何処が歴史を忠実に再現してるのでしょうか?
大衆娯楽歴史小説ですよ、
面白可笑しく楽しく愉快にはらはらどきどきする小説の何処が歴史に忠実ですか?
そんな事を考える人が居たなんてそれこそ小説以上だ。
事実は小説以上に奇怪成り とは良く言った物だ。

89 :無名草子さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN .net
それなら、司馬は吉田清治と同列だな。

捏造作家の都合のいい箇所だけ抜粋して日本に敵対する反日の急先鋒、朝日新聞

90 :無名草子さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN .net
捏造作家だって可笑しいね、面白いね、楽しい発想だね。
作家とは面白可笑しく楽しいお話を創作する物ですよ。
創作しない作家は作家では無い、本も出ない、誰も作家とは認め無い。
創作 = 捏造 何ですね、可笑しいたらありゃしない。

91 :無名草子さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN .net
>>88
いやいや、司馬の小説はハラハラもドキドキもさせてくれないじゃない
史実エピを読ませる作業小説だよ

92 :無名草子さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN .net
>>90
朝日は捏造に敏感だなw

偽造捏造、偏向偏見、頭が悪い朝日新聞さん。
また間違った定義付けから、妄想相手に恥ずかしい事を言ってるよ。

事実と向き合う習慣を付けたほうがいい。

先ず事実と向き合って、その上で解釈があってもいい。
間違った事実認識の上に、歪んだ解釈するのは、司馬と朝日の共通項。

93 :無名草子さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN .net
プッ

94 :無名草子さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN .net
基地外の人をマトモに諭しても無駄、 生暖かく見守ってあげましょう。

95 :無名草子さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN .net
マジでこいつの作品つまらん
なんかヨイショしたり、勝手にダメだって決め付けたり・・・
てめーの価値観なんかどーでもいいんだよってツッコミたくなるわw
説明する箇所をいくつも入れまくって話の流れを中断しまくって訳分からなくしているし

96 :無名草子さん:2013/09/03(火) 15:12:05.83 .net
まあ、文体は面白いでしょ
>>84は理解不能だったみたいだが
モノマネ芸人に真似してもらえる特徴があるだけたいしたもんだ

97 :無名草子さん:2013/09/06(金) 19:55:22.12 .net
大河を荒唐無稽だとか史実無視だとか言ってる連中が
その典拠にしてるのが司馬の小説だったりするからな。

どっちもフィクションなのに、
やってることが目糞鼻糞レベルだってことに
気づいていない司馬信者

98 :無名草子さん:2013/09/06(金) 20:30:31.41 .net
あんたはなんに気づいてるのかな〜?

99 :無名草子さん:2013/09/07(土) 03:27:55.54 .net
司馬信者は司馬の小説を史実か学者の書いた研究書なんかと勘違いしてる。

100 :無名草子さん:2013/09/09(月) 10:49:29.06 .net
どうもこのスレは
司馬遼太郎アンチというより
司馬遼太郎ファンアンチだな

101 :無名草子さん:2013/09/09(月) 13:00:55.52 .net
司馬信者なんて居るの? 司馬遼太郎だけを読んでいる訳では無いと思うよ。
面白ければ読むし、面白くなければ読まないだけだよ。
時代小説、歴史小説と言ってもそれが史実だなんて誰も思ってなんか居ないと思うよ。
小説なんて何処まで行っても小説だもの、物語です、作り話です、それが創作です。
全て荒唐無稽の話しですよ。
それをどうこうだって失笑ものですね。

102 :無名草子さん:2013/09/09(月) 14:17:46.20 .net
>時代小説、歴史小説と言ってもそれが史実だなんて誰も思ってなんか居ないと思うよ。
甘い。その認識は甘すぎる

103 :無名草子さん:2013/09/09(月) 14:26:22.94 .net
そういえば、そんなデタラメなグルメマンガもあったな。
何かにつけて嘘八百を並べて、居丈高に吹聴しまくる朝日のような反日マンガがw

『菓子の甘さは、干し柿を超えてはならない』とかあったけど、
干し柿の糖度って、40-70%で全く基準にならないんだよな。

ドライビールはディスるし、衛生管理もディスってたような気がするな。

挙句に、従軍慰安婦だ、日本は侵略した、チョンはエライ、みたいな思想を吹聴する、
朝日みないなマンガがあったよ。

マンガだからデタラメな歴史を並べて、身勝手な左翼思想を吹きまくっていいとか、
小説だから、何でもアリとか、実に朝日新聞的な発想だな。

司馬もそんなところだろうな。

そーゆー偏った司馬とか朝日みたいな奴に限って、
「ネットだからって、何を書いてもいい訳ないだろ」「ネットの闇」とか言い出して、
2chだけは許せないw

104 :無名草子さん:2013/09/10(火) 13:29:24.23 .net
2ch=NHK教育TV

105 :無名草子さん:2013/09/18(水) 03:02:50.81 .net
>>101
>時代小説、歴史小説と言ってもそれが史実だなんて誰も思ってなんか居ないと思うよ。
>小説なんて何処まで行っても小説だもの、物語です、作り話です、それが創作です。

司馬信者どころか、当の司馬本人が晩年には坂の上の雲に関して
「フィクションを禁じて書いた、全て事実を書いた」って言って
本人が作り話や創作であることを否定しているんだが。

106 :無名草子さん:2013/09/18(水) 04:50:28.83 .net
まあ、坂の上の雲に関しては、事実でないことも書いてるけどな。

107 :無名草子さん:2013/09/18(水) 09:03:49.32 .net
作家とは創作家
登場人物の一言一句の記録が残って居るとでも思ってるんだね。
成る程 此って もしかして ゆとり教育の弊害 マニアル世代 かな?

108 :無名草子さん:2013/09/18(水) 17:08:15.45 .net
>>107
>>105でも書いてるが、そういうのは、
坂の上の雲に書いてるのが全部史実で創作ではないと言った、
司馬遼太郎本人に言ってやれよ。

109 :無名草子さん:2013/09/18(水) 20:48:56.34 .net
全部史実って言ったんかいな。うそつけ。言うわけがない。

110 :無名草子さん:2013/09/19(木) 03:07:21.53 .net
>>109
ウィキの坂の上の雲の項目にあるけど、
>司馬は本作を執筆するにあたり、
>晩年に「フィクションを禁じて書くことにした」と述べている
>(「坂の上の雲 秘話」、朝日文庫版『司馬遼太郎全講演 5』所収)。
>フィクションを禁じたので、描いたことはすべて事実であり、
>事実であると確認できないことは描かなかったと作者は主張している
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9B%B2

111 :無名草子さん:2013/09/19(木) 03:12:34.31 .net
↑のは引用部分が中途半端だったな。
改めて

>司馬は本作を執筆するにあたり、
>晩年に「フィクションを禁じて書くことにした」と述べている
>(「坂の上の雲 秘話」、朝日文庫版『司馬遼太郎全講演 5』所収)。
>フィクションを禁じたので、描いたことはすべて事実であり、
>事実であると確認できないことは描かなかったと作者は主張しているが、
>実際は多くの研究者、作家により、作中の誤りや創作部分が指摘されており
>(一例として28サンチ榴弾砲を旅順に移送する件について、史実では第三軍司令部の大本営あて返電には
>「…ソノ到着ヲ待チ能ワザルモ、今後ノタメニ送ラレタシ…」とあるにもかかわらず、
>作中では「送るに及ばず」と拒否したことになっている。
>また、旅順要塞攻略における児玉源太郎の第三軍への指揮権介入の件については、その事実を証明する一次資料は存在せず、
>司馬作品以前に同様のエピソードが取り上げられていない)、司馬の創作ではないかとの意見が強い。

112 :無名草子さん:2013/09/19(木) 03:17:39.20 .net
小説は、あくまでもフィクションなんだから
自分勝手に都合よく創作しても構わないんだが、
フィクションとして出発して創作をしておいて、
後になって本人が「フィクションを禁じて書くことにした」て
いってフィクションでない=小説でないって言いだすのはどうなんだろうか…。

113 :無名草子さん:2013/09/19(木) 09:32:34.52 .net
成る程 成る程
ウィキペデアね、ゆとり マニアル スーパークレイマー ですね。
愉快 愉快 氏も草場の陰で喜んでるよ。
氏の著作を全て読んでください。 何か見いだす事が出来るでしょう。
著作者は話題にされる事を一番喜ぶよ。

以上で終了

114 :無名草子さん:2013/09/19(木) 18:10:19.02 .net
>>113
いや、クレイマーだの、
「氏の著作を全て読んでください。 何か見いだす事が出来るでしょう」みたいな
>>113自身もわかってるのかわかってないのか、敢えてぼかした、あやふやな逃げはいいから。
信者さんは司馬本人がフィクションとノンフィクションをごっちゃにしてしまったこと
に対して何かないの?
それとも「司馬先生は単なる小説家じゃない。司馬史観を持った学者でも
あるんだ」とでも思ってるの?

115 :無名草子さん:2013/09/20(金) 11:35:43.64 .net
氏は学者なの? 何処の大学の教授ですか? 歴史学等の博士号をお持ちですか?
それとも修士号をお持ちですか? 歴史関連の論文が有りますか?

先生ですか?貴方の何の先生ですか? 

小説家以外に何が有ると言うのですか?

正に貴方はスーパーウルトラクレーマーですね、
それも ゆとり世代 と マニアル世代 の代表選手ですね。

116 :無名草子さん:2013/09/20(金) 14:05:04.34 .net
司馬先生もご愛読
     )\∧/ヽ(_/(_∧/(_∧/(_
  )\/靖国参拝 捏造         (_    火 の な い と こ ろ に
  \         从 従軍慰安婦   /
    ) 強制連行  ∧_∧ ♪     フ   
  )~          (-@∀@)~  扇動 (      放 火 す る
  ゝ歴史教科書 _φ___⊂)        /
 <        /旦/三/ /|  歪曲  >
   )  从   | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |      (           それが朝日クオリティ
  /  軍靴   |. 脳内.ソース .|/  从     フ  

117 :無名草子さん:2013/09/20(金) 17:42:28.72 .net
>>115
じゃあ単純に聞くわ。
お前は、その小説家以外の何でもない司馬先生本人が
小説であるはずの「坂の上の雲」をフィクションではないと言いきったことについてどう思ってんの?
少なくとも「坂の上の雲」に関する限り、司馬先生のスタンスは「作家とは創作家」
の範疇ではないよね。自分で創作はしてないって言ってるんだから。

一方では小説だから創作は許される、もう一方では創作をしても小説ではない
っておかしくないか?
これは別にクレーマーでも何でもないぞ。これをクレーマーと呼ぶのはどこまで
信者なんだよって話。

118 :無名草子さん:2013/09/20(金) 21:04:48.48 .net
いあ、あんたはクレーマーだよ。
あんたとちがって、立場のある人間は嘘を付かないものだ。
史実との違いは単にそれを知らなかったか、ほかの史料を信じただけかもしれない。
それと、参照がwikiではあぶないな。対談のもとの出版物はもうないのか。

119 :無名草子さん:2013/09/20(金) 21:38:26.81 .net
>>118
>立場のある人間は嘘を付かないものだ

誰がどう見ても小説である「坂の上の雲」をフィクションではないと言うのは嘘ではないの?
登場人物の一言一句の記録が残ってすらいないのに、作中では登場人物たちがバンバンと台詞を
吐いているんですが。

>史実との違いは単にそれを知らなかったか

知らなくて創作で付け加えたんなら、ちゃんと創作です、小説ですって言えばいいのに
それでもフィクションは書かなかったって言っちゃうのこそ、嘘ではないんですか?

後、興味があれば自分で図書館なり行けばいいと思うけど、
「フィクションを禁じて書くことにした」をググるだけで、全集のどこにあるのか、
どこでの講演で実際にどんな風に言ったのかが出てくるよ。
引用しているのは司馬アンチだけではないし。

120 :無名草子さん:2013/09/21(土) 08:50:05.86 .net
随分読んでますね、あんなの嘘だ嘘だと言いながら全巻読破のようですね。
まるで愛読者ですね、座右の書のようですね。

嘘は大きい程嘘と思われ無い と言う事はご存じですか?
坂の上に雲が有ってどうしたの? 山の上に雲は良くできるよ。
坂の下の雲だったら雲海ですね。
フィクションを禁じたと言ってもそれは何時からの話しですか?
フィクシヨンの程度が低下したのでしょうね、
作家としてのクオリティーが低下したのでしょうね。

貴方達は何に付けても 超スーパーウルトラクレーマーですね、 間違いない。

121 :無名草子さん:2013/09/21(土) 21:13:28.72 .net
>>120
もう何言ってるのかわからんし、そもそも全然受け答えにもなってない。
とうとう信者も擁護できなくなったのか。
それとも、この程度の信者だからこそ、司馬の小説をそっくりそのまま史実だと
思い込んでしまうのか。

122 :無名草子さん:2013/09/22(日) 01:42:52.66 .net
646 :無名草子さん:2013/09/18(水) 15:02:07.68
旅順要塞はコンクリートの半永久的な要塞だ。
歩兵の突撃なんぞはびくともしないし、陸軍の野砲でも蚊がとまったようなものでなんともない。
この戦闘では世界で初めて大量に、そして組織的に機関銃が使われている。
コンクリートに銃眼が切ってあって、それが縦横に配備されている。
そこに日本兵が突撃する。
すると、その部隊はたちまち全滅する。
そういう突撃を繰り返す乃木は指揮官として能力がなかったんだよ。

↑こんな司馬の評価がそのまんま信者の中では歴史の通説として受けいられて
いるからな。小説を小説としてではなく、時折司馬史観みたいに、名前だけが
独り歩きして実際の確かさとかに疑問符がつくものを余談の形で混ぜて、
さも通説であるかのように見せかけるのが司馬先生は本当に上手だね。

123 :無名草子さん:2013/09/22(日) 09:38:57.51 .net
>>121
面白いね、さすが超ド級スーパーウルトラクレーマーですね。
あの程度の文章も読め無いんですね、
作家が史実道理に物語りを書く訳も無いし史実道理書ける訳も無いですよ。
史実なんて行間に垣間見えるだけですよ。
あなた方の座右の書は司馬氏の著作ですね、良くそれだけ熱心に読めますね、大したもんだ。

嘘嘘と騒ぐなら政治家の嘘でも調べてみたら面白いと思うよ。

124 :無名草子さん:2013/09/22(日) 16:54:18.63 .net
>>123
だから、
>作家が史実道理に物語りを書く訳も無いし史実道理書ける訳も無いですよ。
>史実なんて行間に垣間見えるだけですよ。
お前は毎回こんな風に言って、司馬作品が史実と違う点を擁護してるけど、
当の司馬本人が「フィクションを書かなかった」=書いてあることは
全部史実、史実道理に物語りを書いたって言ってるんだから。
お前がいくら司馬はフィクションだと言っても、司馬本人がそれを既に
否定してんの。で、お前も言ってる通り、誰がどう見ても創作である司馬作品を、作者自身が
さも全て史実で創作は一切入れてないと言いきるのはおかしいんじゃないかって話。

それなのに、「嘘は大きい程嘘と思われ無い」だの「嘘嘘と騒ぐなら政治家の嘘でも調べてみたら」
だのと話を意味不明な方向にそらしたり、全くわけのわからない受答えしかできて
いないってことにいいかげんに気づいて。

125 :無名草子さん:2013/09/23(月) 08:50:22.40 .net
だから故人の過去の発言に何時まで拘ってるの?
なんで其処まで拘らなければ成らないの?
何処が史実ですか? 面白いお話そのレベルですよ。

全くクレーマーレベルの事しか言って無い事に気づいて下さいね。

126 :無名草子さん:2013/09/23(月) 18:30:28.67 .net
面白いお話のレベルなら、尚更、自分の小説はフィクションではない
なんて勝手に言っちゃだめだろw
講演であっても、後で本として活字化されて残るし、
現に一部の痛い信者は司馬作品を読んですっかり歴史を勉強した気に
なってる。

てか、司馬も何でこんな事言ったんだろうか。
創作部分があることなんか、創作をした自分が一番知ってる筈なのに。

127 :無名草子さん:2013/09/24(火) 03:04:45.57 .net
てか、>>125って前からいる、
痛い司馬信者で>>71とか書いた奴か。

128 :無名草子さん:2013/09/24(火) 09:14:41.06 .net
>>126
面白いね、小説家なんて何を言っても勝ってですよ。
それは作家自身が小説の中に入りきってるからですよ。
小説を読んで歴史の勉強ですか、歴史とはそんなに甘い簡単な物ですか?

歴史小説を読んで歴史を勉強した気に成るなんて貴方方だけですよ。
司馬信者ってなんですか、幾らも読んでません、貴方がた面白杉ですね。
しばれん・いけなみ・かじやま が面白いよ。

ゆとり世代のクレーマーですね、政治の嘘を追求すれば良いのにね。

129 :無名草子さん:2013/09/24(火) 10:31:36.68 .net
「龍馬は行く」 の坂本龍馬は実在の人物と思ってる? それとも架空の人物?
どちらと思ってますか?

130 :無名草子さん:2013/09/24(火) 15:30:46.02 .net
「竜馬がゆく」だろう

131 :無名草子さん:2013/09/24(火) 15:37:17.07 .net
「良馬場で買う」だろ

132 :無名草子さん:2013/09/24(火) 18:33:27.91 .net
司馬のファンスレ(?)に行けば、いかに司馬の作品を読んで
それを史実や通説だと思い込んでる連中が多いかわかるよ。
というか、そんなのばっかり。
司馬の小説だけを読んで、その主張を鵜呑みにして、
物知り顔で、これが史実で通説ですみたいなレスばっかりだから。

133 :無名草子さん:2013/09/25(水) 08:52:58.82 .net
君らは「坂本龍馬」は実在したと思うの? それとも架空の人どっちなの?

134 :無名草子さん:2013/09/25(水) 09:02:30.63 .net
実在はしたろうよ、グラバーのエージェントとして

135 :無名草子さん:2013/09/25(水) 13:04:50.72 .net
>>134
それが此のスレの公式見解ですか?

136 :無名草子さん:2013/09/25(水) 20:41:51.74 .net
坂本龍馬は実在の人物
坂本竜馬は司馬が作りだした架空の人物

137 :無名草子さん:2013/09/26(木) 10:31:14.91 .net
>>136
面白い 愉快 愉快

龍馬と竜馬 が別人だって 此も新解釈ですね。

実在しただって可笑しいよ。

138 :無名草子さん:2013/09/26(木) 17:17:22.60 .net
誰か>>137を日本語に翻訳してくれ
もうこいつが何を言いたいのかよくわからない

139 :無名草子さん:2013/09/26(木) 18:09:50.29 .net
朝日とチョンはね、
自分の考えが受け入れらないと火病起こすんだよ。

140 :無名草子さん:2013/09/27(金) 08:30:02.55 .net
龍馬も竜馬も良馬もりょうまも架空ですよ、
「竜馬が逝く」 は架空の話しですよ。
あんな違和感満載の実在の人物はあり得ないですよ。
小説は架空のお話ですよ、誰の著作でも同じですよ。
このすれ面白杉ですね。
元々架空の話しを真実だ真実だなんて愉快過ぎる。

141 :無名草子さん:2013/09/27(金) 11:40:13.82 .net
朝日新聞さんのぶっちぎりの頭の悪さが可笑しいやら悲しいやらw

142 :無名草子さん:2013/09/28(土) 03:30:29.18 .net
>>140は司馬が空想小説書いてると言われてよっぽど
くやしかったのか、竜馬が嘘なら龍馬までどうせ嘘だと
とうとう坂本龍馬の実在まで
司馬先生の竜馬と一緒に否定し始めたか。

143 :無名草子さん:2013/09/28(土) 10:09:05.81 .net
ハイハイ ブッチギリで頭が悪いですよ。
坂本龍馬が実在だって山内容堂にだまされてやんのバカみたいですね。

余程にネジ曲げて解釈するのが好きなようですね、司馬は単なる作家ですよ。
それ以外でも何でも無い、作家は何処まで逝っても作家ですよ。

144 :無名草子さん:2013/09/28(土) 17:28:53.36 .net
負けるとゲーム盤ひっくり返す奴居るだろ。
ナイーブ(幼稚)な奴、下衆な奴、卑怯な奴がよくやる手。
どーにも出来なくなると「はいはい、負け負け」で火病を起こす。

一人暮らしの老人を騙したり、弱い奴を恫喝して言いなりにさせたりするチョンみたいな犯罪もあれば、
地元の実力者やチョン圧力団体を背景に女子供にイタズラしようとしている奴を制しようとして、
やむなく殴ってしまって有罪になってしまった奴も居る。

どちらも犯罪だが、その質は全く異なる。
都合のいいように何かを一括りにして、自己主張を押し付けるのは朝日とチョンと低脳がよくやる見え透いた手。

ディテールを検証しない、させない。
させないから、反省もしないし、自分の主張は間違ってないなどと開き直るチョン朝日。

カイジで言えばイカサマがバレタ後の班長だね、お前らマンガは見ないかも知れんけど。



正面から事実と向き合って、細部を堂々と話し合って、
勘違いがあれば認めて直す日本人とは本質で全く異なる種族だなw


ぶっちぎりで頭が悪いうえに、尊大で卑劣で、どうにもならないな、朝日新聞さん。

┐('〜`;)┌ やれやれ.

145 :無名草子さん:2013/09/29(日) 08:33:07.26 .net
やれやれ
居ない者はどこを探しても居無いよ
坂本龍馬・坂本竜馬・坂本良馬・さかもとりょうま は実在せず。
良く読み込めば気が付くはずですよ、と言っても貴方の感性では無理ですね。
「龍馬が逝く」 の読後の違和感とちぐはぐさ、
それを押し殺して居ると納得するなんて不可能ですよ、
自分に対して素直に成ってくださいね。
司馬遼太郎なんて単なる作家です、それ以上でも以下でも有りません。

146 :無名草子さん:2013/09/29(日) 09:36:01.41 .net
┐('〜`;)┌ やれやれ.

147 :無名草子さん:2013/09/29(日) 11:43:57.06 .net
坂本龍馬なんて山内容堂に依って作られた者ですよ。
郷士が江戸の上屋敷に行く事なんて無理です。
郷士は上士とは真ともに口を聞く事は出来ません。特に土佐藩に於いてはなおさらです。
一度脱藩したらそれはお尋ね者です、お尋ね者が元に復帰する事はあり得ません。
又、生存の証拠が有り過ぎます、有る過ぎると言う事は生存し無かったと言う事です。
坂本龍馬の台本は山内容堂が書いた物です。
山内容堂は新政権が出来た時に良い位置を得る為に画策した物と思われます。
坂本龍馬を演じた者は何名か居た事でしょう、その何名かは山内容堂の手の者です。
その為にちぐはぐに成って居ます、又、其処に違和感が生じるのです。
そして、此の物語には裏テーマが存在します、お気つきですか?
又、元に成った物語も存在すると言いますよ。
司馬遼太郎氏はその元と成った物語を再構成したと思われます。
「やれやれ」なんて書いてないで正面から反論して下さい、
後、全てに於いて貴方は決めつけてますが全ては流動的です、
聖徳太子が居なかったと言う様にね。

148 :無名草子さん:2013/09/29(日) 13:29:32.80 .net
江戸の上屋敷が何だって?
山内容堂がどうしたって?

朝日新聞さん、先ずは、まともに史料として扱われてる資料に目を通してみるといい。
得たいの知らない伝聞ばかりじゃなくて、評価された上で史料となっているものを。


ああ、そうか、お前がいつも言ってる「全部創作ですよ」って事かwww


微妙にずらしていい加減な事ばかり吹聴してる朝日新聞さん。

その上でファンタジーとしないと、つまらなさ過ぎる。
まぁ、ぶっちぎりの頭の悪さを誇る朝日新聞さんには無理だろうけどねww

┐('〜`;)┌ やれやれ.

149 :無名草子さん:2013/09/29(日) 15:48:37.40 .net
やれやれ
江戸の上屋敷も山内容堂も分から無いんですね。駄目だこりゃ
もっと広く見るべきですね。
何でも決めつけて居る様ですね、回りの方は大変でしょうね。

「坂本龍馬」は存在しません、間違い無い事です。
坂本龍馬狂には絶対に受け入れられ無い事です。

やれやれ

150 :無名草子さん:2013/09/29(日) 16:07:52.90 .net
ピラミッドを宇宙人の仕業と言って聞かない奴がいるね。

確かにあれ程大きな岩を規則正しくくり貫いて正確にならべて、
何千年も保つ建造物をあれほどの太古に作ったとは、普通は受け入れがたい。

普通なら一蹴すべき事だが、あの時代の地球人が建造できる事を証明できなければ、
宇宙人説を捨ててしまう事は出来ない。


頭の悪い朝日新聞さんとかチョンはここで止まっているんだよ。

そーゆー疑問はすでに話し合われて解決してるんだ。
それを覆すには、新しい証拠なりなんなりしないといけない。

だが、遺伝子的に頭が悪く尊大で無知だから、そーゆー経緯を全く知らない。


2013年の今から引力を発見するニュートンみたいなものだwww

先人の足跡を見ろよ。

事実に向き合う習慣を身に着けた方がいい。


まぁ、遺伝子的に火病のお前には無理な話だろうけどねw


┐('〜`;)┌ やれやれ.

151 :無名草子さん:2013/10/01(火) 22:30:27.45 .net
君たちね、全集の年表に最初の結婚・離婚の事実が書かれていないのは、
著名人であられる司馬氏のプライベートが興味本位で書き立てられて、離婚した
元の奥様とご子息の平穏な家庭生活が乱されないようにとの配慮があっての
ことだからね。関係者のすべてが故人になられない間は、こういうことは
そっとしておくべきだと思うけどね。

152 :無名草子さん:2013/10/07(月) 02:21:33.02 .net
司馬のファンスレ?から
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/books/1359814355/686
>吉川英治など従来の歴史ものに比べてフィクションを排して書いたところが司馬の人気だったはずだ
>外国では歴史家が一般向けに書くタイプの本だよ、司馬の小説は

な、やっぱり司馬は単なる小説家で基本的に書いてあることは全部フィクションな筈なのに、
信者の中では司馬を学者か歴史家だと勘違いして、司馬の小説を専門書の代替にして
いる奴がいるだろ。

153 :無名草子さん:2013/10/08(火) 11:27:26.21 .net
福田 定一

154 :無名草子さん:2013/10/12(土) 23:02:43.18 .net
司馬信者って何であんなにアホの一つおぼえというか思考停止状態なの?

155 :無名草子さん:2013/10/13(日) 15:00:28.50 .net
>>154
と言ってる貴方は「竜馬はいく」を信じてるの?

坂本龍馬 竜馬 良馬 は存在し無い。

156 :無名草子さん:2013/10/14(月) 18:34:35.93 .net
今の司馬遼太郎ファンスレでも盛り上がってるけど、
司馬のファンは「司馬は小説家であって歴史家ではない」
「司馬の小説はあくまでも小説であってフィクションです」
とかの当然の指摘をされると異常に怒る。

あいつらの中では司馬遼太郎は一体何者になってるんだ?

157 :無名草子さん:2013/10/17(木) 23:52:37.91 .net
9月、戦車第1連隊第5中隊の解散式(終戦当時、福田定一少尉)
 3月13日の大阪空襲で自宅焼失、母の実家に復員。

1946年 〔昭和21年〕ー23歳
 京阪神地方の新興紙、新日本新聞社に入社、京都大学記者倶楽部に配属。

1948年 〔昭和23年〕−25歳
 新日本新聞社が倒産。
 5月 産業経済新聞社に入社、京都支局に勤務、大学と宗教を担当。

158 :無名草子さん:2013/10/26(土) 01:21:24.70 .net
明治憲法を褒める奴は信用できない。

159 :無名草子さん:2013/11/10(日) 18:34:15.32 .net
>>156
敢えて小説の形をとってるけど、司馬先生の小説を単なる小説と一緒にされては困る。
史実に基づきながらも独自の史観を交えて語られる、研究書とも肩を並べる、歴史の専門書。

160 :無名草子さん:2013/11/11(月) 18:56:39.79 .net
「この国のかたち」だけは他の本とは別ものらしいな。でも俺はこのエッセイだけは好きだ。
しかし、犬死にさせられかけた自身の経験もふまえ、日本が第二次世界大戦に参戦したことは愚行の極みとここで論ずるわりに、
あの戦争が明治維新以来の必然の帰結の側面を持つと司馬大先生が考えなかったはずもないと思うんだがな。
先生は自身の賛美と非難が表裏一体したその歴史観の矛盾を説明することなく生涯を終えられてしまった。

161 :無名草子さん:2013/11/12(火) 23:59:11.76 .net
岩波ブックレット・芝士官を問うは面白い。

162 :無名草子さん:2013/11/13(水) 13:33:26.16 .net
芝士官、命令を復唱せよ!

163 :無名草子さん:2013/11/14(木) 11:03:00.70 .net
史観なんて大袈裟なものかねえ

164 :無名草子さん:2013/11/14(木) 18:01:42.76 .net
◆全く逆の事が書いてある。どっちが史実に近いのか?

講談社現代新書「ローマはなぜ滅んだか」著者: 弓削 達
http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1489682

岩波新書「新・ローマ帝国衰亡史」 南川高志著
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1305/sin_k709.html

165 :無名草子さん:2013/11/14(木) 19:38:06.08 .net
2012年10月13日 (土) 坂本龍馬はいなかった
http://yume-peterpan.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-a512.html

 第一、本の中にも書かれていますが、本当に坂本龍馬という人物が実在したのな
ら、明治維新に向けてアレだけの功績を残した英雄であるだけに、たとえ暗殺され
て志半ばに亡くなったとしてもですよ、薩長や土佐の出身者からなる明治政府から
「坂本家」に対して何らかの論功行賞があってしかるべきであり、明治政府が「坂
本龍馬」という名前を世の中から抹殺してしまうわけがないじゃないですか(苦
笑)

 にもかかわらず、坂本龍馬の名前は没後もいっこうに表には出て来ず、明治16
年になって高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』という坂本龍
馬を主人公にした歴史小説が掲載されて、初めて世間に「坂本龍馬」の名が知れ渡
ったという事で、結局のところ坂本龍馬が本当に実在したかどうかは、今のところ
闇の中というのが本当のところだという・・・ (^^;

166 :無名草子さん:2013/11/17(日) 15:12:32.60 .net
「坂本龍馬はいなかった」も『汗血千里の駒』も読んだ、
坂本龍馬は居なかったと思う、坂崎紫瀾の想像上の人物です。

167 :無名草子さん:2013/11/22(金) 17:45:21.60 .net
>>163
出版社や信者が、売ったり自分が読んでるものに箔つけるのに
過剰に持ち上げただけで、史観なんて大層なもんじゃない。
まあ、司馬本人もだんだんと持ち上げられて自分が一作家の枠を超えた
在野の研究者で、自分が書くのは全て史実だと錯覚してきたきらいもあるけど。

168 :無名草子さん:2013/12/09(月) 06:47:41.39 .net
台湾行ったときに夫婦そろって肉は食えない魚も食えないで現地人をめちゃくちゃ酷使したらしいな

169 :大阪人顔=ダウン症顔:2014/02/06(木) 00:22:48.74 .net
■日本人(モンゴロイド)が差別される理由〜人種差別の本質は容姿差別〜

皆さんはダウン症をご存知でしょうか?染色体異常が原因と思われる病気で、身体、
知能の発達が著しく低くなります。この病気は世界中で見られるのですが、とても奇妙な、
そして興味深い特徴があるのです。それはこの病気を持って産まれた人はいかなる人種でも
皆同じ顔をしていると言う事です。そして、その顔とはまさにモンゴロイドそのものなのです。
欧米でも中東でもアフリカでもモンゴロイドの顔をした人がしばしば産まれているのです。
そのため、外人はモンゴロイド顔にとても敏感なのです。
勿論、周りの人はそれが遺伝子に異常を持って産まれたであろう事を知っていますが…
これは同じモンゴロイド顔をした日本人同士が議論していても決して理解できる物ではありません。

■「ダウン症候群」=「Mongolism(蒙古人症)」または「mongolian idiocy(蒙古痴呆症)」

ダウン症は、1866年に英国の医師ジョン・ラングドン・ハイドン・ダウンが初めてその存在を発表しました。
ダウン医師は発達の遅れを持つ子供の中に両親は違っていても、兄弟のようによく似た子供達が
いることを発見しました。ダウン症の特徴は、モンゴリアン(蒙古人)の特徴とよく似ていることから、
ダウン医師はヨーロッパ人の中で能力の劣った蒙古系の人種が生まれてきたと考えました。
そしてモンゴリズム(蒙古症)という名を付けたのです。その後、1965年にWHOによって
ダウン医師の名前から「ダウン症候群」を正式な名称とすることが決定されました。

■ダウン症の特徴はモンゴロイドの特徴

ダウン症の容貌の特徴に短頭・首が太く短い・低身長・短い手足
凸凹してない平面顔・筋緊張低下・内眼角贅皮(蒙古ひだ)・厚いまぶた
平坦な鼻根・あごが未発達・エラなし・直毛…
全ての特徴が現れる訳ではありませんが、モンゴロイドはダウン症の特徴が多く集まっています。
コーカソイドでも、この病気を持って生まれてくるとモンゴロイドのような顔になります。

170 :大阪人顔=ダウン症顔:2014/02/06(木) 00:23:38.41 .net
ダウン症白人
http://www.webhealthguides.net/wp-content/uploads/2008/12/down-syndrome-child.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/200703/17/99/e0061699_8402712.jpg
http://home.comcast.net/~daryl59/10q/anderson_jess/jess6yr.jpg
http://farm4.static.flickr.com/3049/2898762045_3a8b25e921.jpg
http://farm5.static.flickr.com/4067/4388393284_fde9888ca6_o.jpg
http://farm1.static.flickr.com/67/221312842_56f7226735_o.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2407/2218535223_1878359353.jpg
http://farm5.static.flickr.com/4005/4645374407_d6c1a54b79_b.jpg
http://farm8.staticflickr.com/7163/6706080901_a6fbf1c5fb_b.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2538/4242767068_c90f3bdc33_b.jpg
http://farm4.static.flickr.com/3091/2866451687_ac9f819320_o.jpg
http://farm1.static.flickr.com/189/486175516_2c712abb2d_o.jpg
http://farm1.static.flickr.com/209/486175518_913a9ef453_o.jpg
http://farm1.static.flickr.com/224/516519237_d27973d164_o.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2591/3956692766_7af06fd1e5_b.jpg
http://farm4.static.flickr.com/3236/2869943204_c7a88760f9.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2075/1673880491_a1f275377a.jpg
http://farm4.static.flickr.com/3295/2825936216_a037218da6.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2488/3793291213_17384b8a19_b.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2750/4374275588_b71b83fc60_o.jpg
http://farm3.static.flickr.com/2717/4451939494_090883dfaf.jpg
http://farm7.staticflickr.com/6110/6256180346_5d11f6e639_b.jpg
http://farm7.staticflickr.com/6218/6256176114_2d28fbb290_b.jpg

171 :大阪人顔=ダウン症顔:2014/02/06(木) 00:24:38.07 .net
蒙古ひだの写真
http://waynesword.palomar.edu/images/epican1.jpg
http://en.wikipedia.org/wiki/Epicanthic_fold
http://www.nlm.nih.gov/medlineplus/ency/imagepages/9298.htm
http://www.se-biyou.com/html/eye4.html

ダウン症の顔は後頭部と顔面の骨格が未発達なため顔を
押しつぶした扁平な顔であり、彫が極端に浅い究極の童顔である。
そして最も童顔であるアジア人はダウン症の顔に近いと言われており、
白人のダウン症児はアジア人の最大の特徴である蒙古ひだを持っている。
これは別の言い方で蒙古症とも言われている。

モンキーライン
http://2ch.jpn21.net/Imgboard/01/data/img20130805224637.gif
http://www.gazou.me/cache/large/f0417cb22931a40a06513765512b4941.jpg

http://www.biyo.2-d.jp/page/9kasyo/
百年後の日本人の顔は、いまよりもっとあごが退化した顔になると言われています。
それは、柔らかいものばかりたべているせいです。
あごの骨は硬いものをかめば咬むほど発達しますが、柔らかい食べ物では、発育不良化が進みます。
鼻が高く、あごも発達している白人は、Eラインの人が多いのですが、日本人では
美人系芸能人にまれにあるぐらいで、ほとんどがモンキーラインなのです。

172 :無名草子さん:2014/02/17(月) 22:33:26.56 .net
1 名前: 名無し三等兵 [本代を返せ!] 投稿日: 2013/04/24(水) 07:17:16.64 ID:???
俺が大学1年生の時、日露戦争100周年と言う事で、TVでは
色々な特番が組まれ、関連書籍も多く出ていた。

そこで、以前から人気のあった「坂の上の雲」を読んだ後、
歴史・軍事の専門家の書いた日露戦争の書籍を読んだ。
そして、ショックを受けた。

司馬はフィクションを封印し真実しか書かず、資料は参謀本部が
残した前線の地図だけで物語を演繹的に構成したと言っていたが、
「坂の上」は、機密日露戦争史を丸パクリしただけの一から十まで
大嘘のオンパレード小説もどきだったことが判明した。

実際には乃木は有能な将官だったし、海軍がゴリ押しした二○三高地
攻略も必要なかったし、第三軍に児玉の干渉はなかったし、東郷は
日本海海戦の直前に連合艦隊を対馬近辺から移動することも考えたし、
児玉は参謀次長になった時、田村怡与造の作戦案を滅茶苦茶に修正
しまくり だったし、・・・

司馬に騙されている人は専門書とか読まないの?

3 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 08:37:55.15 ID:???
司馬で歴史を語る奴がいるのは事実だが
それは司馬のせいじゃない

4 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 10:05:59.17 ID:???
歴史小説を一瞬でも史実だと思い込んだ>>1が悪い

5 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 10:12:51.15 ID:???
>>1
大学生になっても歴史書と歴史小説の区別が付かないとか、どんだけ頭が悪いんだよ
これがゆとり脳か…

173 :無名草子さん:2014/02/25(火) 00:13:32.77 .net
>>161
遅くなりましたが「近現代史をどう見るか-司馬史観を問う」(岩波ブックレット)読みました。
司馬史観批判の決定版ですね。新自由主義史観の愚劣さも併せて的確な指摘がされていると思いました。
ここに書き込む事はもうないと思います。お世話になりました。

174 :無名草子さん:2014/02/25(火) 00:54:16.04 .net
司馬アンチだが、中村政則なんかに言われたくないわ
更に性質の悪い毒に冒されたようなもんじゃないか

175 :無名草子さん:2014/03/03(月) 11:40:10.64 .net
ジョージ秋山の漫画「銭ゲバ」に白髪頭の新聞記者が出てくるんだけど
口癖が「公害はうんこです」

176 :無名草子さん:2014/06/07(土) 09:27:13.76 .net
普通は死後に再評価されるのに、死後にタブーが解けて評価を落とした珍しい作家

177 :無名草子さん:2014/06/19(木) 19:38:45.96 .net
歴史小説界の平山郁夫だなw

178 :無名草子さん:2014/06/19(木) 22:31:02.77 .net
小者がえらそうに書いてるという感じ

179 :無名草子さん:2014/06/22(日) 17:27:23.12 .net
>>178 小者はお前だと思うのだがw 

180 :無名草子さん:2014/06/22(日) 18:44:30.26 .net
9月20日 18:00
猫を虐殺! 川崎市エリート職員を逮捕(夕刊フジ)
 猫虐待で川崎市のエリート職員が逮捕−。猫の体に粘着テープを巻き、
身動きがとれないようにして衰弱死させたとして、
警視庁蒲田署は20日、動物愛護法(虐待)の疑いで川崎市建設局用地第二課主査、
上原宏之容疑者(38)=東京都大田区西六郷=を逮捕した。
調べでは、上原容疑者は今月9日ごろ、大田区仲六郷の区立仲三児童公園にいた
猫を捕まえ、胴体に粘着テープを巻き付けて自分の車に閉じ込め、
約1週間にわたり水も餌も与えず死なせた疑い。
猫の死骸(しがい)は近くの小学校の校庭で発見された。
上原容疑者は「仕事でストレスがたまり、イライラしてやった」
などと供述しているという。
現場付近では9月3日以降、衰弱死した猫7匹が見つかっており、
同署で関連を調べている。
上原容疑者は明治大学政経学部経済学科卒業後、昭和62年に川崎市職員となり、
清掃局や宮前区役所を経て、平成13年から建設局に。
今年4月、主査に昇格していた。
同市建設局では「非常に優秀な人材で、このような事件を起こすとは
想像もつかない」と話している。
Copyright 2002,TheSankeiShimbun.

181 :無名草子さん:2014/07/08(火) 12:57:19.04 .net
司馬遼太郎最高!

182 :無名草子さん:2014/07/08(火) 22:53:16.21 .net
司馬遼太郎最低!

183 :無名草子さん:2014/07/12(土) 22:25:06.57 .net
>>172見てもわかるように、司馬信者の悪いところは、
基本的には司馬小説を史実と思い込んで司馬小説を読んで
歴史のお勉強をした気になってるくせに、いざ司馬小説が史実と違うと
言われると、すぐに司馬は小説だからと逃げるところ。

184 :無名草子さん:2014/07/16(水) 23:26:25.11 .net
なんかヤリチンな人物が多いイメージなんだが・・・
国盗り物語なんかおっさんが幼女をレイプしている描写があって萎えた

185 :無名草子さん:2014/07/19(土) 14:44:27.45 .net
播磨灘物語のあとがきで、読者から「おまえの小説には人民が登場しない」とケチ付けられた、
官兵衛の内臓まで詳細に書けというのか!と訳の分からない反論しててワロタ

186 :無名草子さん:2014/07/22(火) 11:29:27.27 .net
人民なんて日本にはいない
みな、陛下の赤子である

187 :無名草子さん:2014/07/22(火) 21:25:11.92 .net
嫌いなものは絶対に認めようとしない
事実を捻じ曲げてでも批判しようとする

188 :無名草子さん:2014/07/28(月) 15:52:39.99 .net
イラストレーターで収入が少ないからと30代後半で漫画家になろうとする、ひきこもりのバカ発見。
足立区に住んでいるそうだ
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html

189 :無名草子さん:2014/08/15(金) 16:26:24.19 .net
>>187
徳川家康と幕府
乃木
昭和の陸軍

みんな司馬の嫌いなもの。で、それを真に受ける馬鹿が
司馬の偏見をさも通説であるかのように広めてしまった。

190 :無名草子さん:2014/08/16(土) 02:50:14.93 .net
>>189
劉邦も入れておこう
あの終わり方はないだろう思う

191 :無名草子さん:2014/08/18(月) 22:57:16.76 .net
>>190
項羽と劉邦はなんかつまらなくて途中で止めたわ
父親が読んでいたが

後期の司馬作品って娯楽として楽しめないっつーか、だた文献の丸写しみたいで嫌だったな
古本で買っても金の無駄レベルばっか
あれは本当に小説か?竜馬がゆく程度に物語書けよと思ったし

192 :無名草子さん:2014/08/28(木) 15:33:14.54 .net
高村薫
司馬遼太郎さん。私はたいへん苦手です。歴史は明治で終わったわけではない。明治か
ら始まったわけでもない。彼の『坂の上の雲』を愛読書だと挙げる人たちというのは、経
団連に代表されるこの国の経済界の人たち、つまりああいう価値観の人たちなわけで、私
がさっき申し上げた、理解できないという人たちと共通のものです。
司馬遼太郎さんの文章というのは一つ一つが、一行一行が断定であり、「何々かもしれ
ない」「何々であろうか」とか語尾はやわらげているのですが、実はすべて断定なんです。
断定をする根拠がどこにあるのか、と私は思います。だから、申し訳ないですが、私は司
馬遼太郎の話はできないです。
《質問者2》Q1:よくわからないとおっしゃった、経営者とか、政治家とか、検察とか、
彼らがなにもないから、中身が空っぽだからこちらが反映するものがないということでし
ょうか。
《回答》
そうではないです。その行動原理が、彼らの価値観がわからないということです。彼ら
が日本のものづくりの方向を間違えたとしか思えない。今でも過去の幻想というものにし
がみついている

193 :無名草子さん:2014/08/28(木) 15:34:56.61 .net
《質問者2》Q2:自分で考えて行動されているわけではなくて、上からの命令、誰かの利
害を代弁するだけだから、話をするのに当たり所が無いと理解してよろしいでしょうか。
《回答》
そうです。企業にお勤めのサラリーマンがその組織の中で刃向かえない、組織の論理に
染まるほかないというのはわかるのです。私もサラリーマンでしたからわかります。だけ
ども、経営者とかのトップ、経済界のトップの人たちが個人の、あるいは、これからの日
本の行く末、あるいは、日本の経済に対する見識を持つ力もあるし、持つことができる立
場であるはずなのに、彼らのやっていることというのは、例えば、結局、今のソニーもパ
ナソニックもそうですが、日本のものづくりの方向を間違えたとしか思えない。もっと早

194 :無名草子さん:2014/08/28(木) 15:35:47.15 .net
くに方向転換あるいは、踏み出すべきであったと思うのに、彼らは今でも過去の幻想にし
がみついていて、結局、何万という従業員、もしくは、そのすそ野にある日本の産業界全
部を道連れにして身動きとれない所にいる。その彼らの見識のなさというのに私は理解で
きないです。
《質問者2》Q3:事実かどうかわからないが、誰かを重役にするのに、トップが最終的に
は占い師の占いで決めるという話を聞いたことがあるのですが、これは事実(かどうか)
はわかりませんが、非常に重大なことを自らの見識で判断せずに、きわめて怪しい人に背
中を押してもらう。これは経営では無い。もしくは政治家でも、自らの見識、努力をおこ
たって、自らの責任ではない形で決断しているのではないかと、ようするに、それは(中
身が)空っぽだから、この人からは何も得られない。ジャッジする能力を持っていないの
では無いかと、お考えになったのではないかと思い、質問しました。
《回答》
何か得ようと思ってお目にかかっているわけではなくて、小説というのは、例えば経済
界の経済人というものを描くためには、中身がひどいことも含めてその人のリアリティを
作りますので、私自身がその方からなにかを得ようとか、そういうことは思ってはいない
のです。ただ、理解ができない。思えば、そういう形で福島の事故も引き起こされたのだ
と思っています。これは私たち日本人にとって痛恨の出来事だと思います。こういう大人、
こういう社会を許してきたことは痛恨の極みです

195 :無名草子さん:2014/08/31(日) 21:01:32.56 .net
>>191
信者にはその後期の司馬作品も人気がある。
その文献丸ごとみたいな感じなのが、司馬作品を小説として見ないで
歴史の勉強をしてる気になって読んでる人には特に。
前に司馬ファンスレで、司馬の作品をあれはもう小説のレベルじゃない
なんて言ってるヤツがいたくらいだから。

196 :無名草子さん:2014/10/24(金) 20:34:31.69 .net
司馬も大概だ思うがこれを高村に言われたくないわ
高村も司馬を読むやつを批判すればいいのにね
そうすれば高村も高村を読むやつがどんなやつか比較される思うんだが、
そこんところ高村は答えられるんだろうか? そんなすごいやつが読んでるかと

>小説というのは、例えば経済界の経済人というものを描くためには、
>中身がひどいことも含めてその人のリアリティを作りますので
これなんかブーメランで帰ってきそうw

197 :無名草子さん:2014/11/25(火) 18:30:13.06 .net
>>195
それってもう文献から物語にする引き出しがないって司馬が言っているのも同じなのに・・・

持ち上げている奴はアフォだなw

198 :無名草子さん:2015/04/14(火) 15:05:32.10 .net
この人、性格の悪さが顔に滲み出て草生えるわw
坂の上で松川叩けばいいのに乃木叩いているところで終わっている

なんか小説じゃないんだよね
歴史映画の作品を見ていてシーンの途中感想を描写しているにしか見えない
『なるほど』←はっ?

199 :無名草子さん:2015/05/20(水) 12:04:13.21 .net
小林よしのり コラム

ー アメリカ自虐ヨイショ史観を治療する −

教科書的な明治近代の教え方が、いかにクズだったか、
そして司馬史観の悪影響がいかに現在まで続いているか、勉強してたら痛感する。

安倍首相が米議会で言った「我が国のアメリカとの出会いは民主主義との出会いでした」
という超でたらめな言説に、怒りを感じない日本人は、全部、売国奴である!

あの米議会演説後、安倍政権の支持率は上がったらしいから、日本国民の半分が売国奴なのだ。
砲艦外交と不平等条約との出会いが、なにが民主主義との出会いだ!

「我が国のアメリカとの出会いは、帝国主義との出会いでした」と米議会で演説してこそ、
日本の遅れて実践した帝国主義の理由を全世界に説明することになる。

安倍首相はアメリカ・ヨイショ史観の売国奴である。

中国・韓国に対する日本人の歴史観は、自虐史観だと主張しながら、
アメリカに対する安倍首相の超自虐的な歴史観には、なんにも感じないのが今のクソ保守だ。

『大東亜論』で、現在の日本人の誤った歴史観を徹底的に治療してやらねばならない。

200 :無名草子さん:2015/05/24(日) 20:53:24.70 .net
坂の上の雲って日露戦争ものの中で最も有害無益な本でしょ
あれを読むくらいだったら、
その辺の日露戦争の概説書買って読むほうが全然面白いし理解も進む

ごちゃごちゃして読みづらく、文庫7巻もあるのに内容は機密日露戦史のパクリ
しかも思いっきり不正確とか誰得・・・

201 :無名草子さん:2015/05/28(木) 00:17:30.49 .net
山岡荘八に書いて欲しかったな>日露戦争もの

日清戦争からだけどw

202 :無名草子さん:2015/05/29(金) 00:36:07.10 .net
信者に言わせると「山岡荘八の小説は(司馬に比べ)つまらん」らしい

203 :無名草子さん:2015/05/30(土) 17:59:54.36 .net
ID表記されないからと言って信者が荒らしているなw
『芝に文句つけてる馬鹿は長州野郎だろ(キリッ』だっておw

★司馬遼太郎の正体は大嘘つきの印税詐欺師★
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1366377163/

204 :無名草子さん:2015/07/16(木) 21:19:12.49 .net
>>202
実際山岡は詰まらんからなぁ

205 :無名草子さん:2015/07/16(木) 21:20:13.55 .net
上げ忘れた

206 :無名草子さん:2015/07/17(金) 00:49:34.53 .net
>>204
偉そうに歴史家批判しないだけマシだ

207 :無名草子さん:2015/08/19(水) 20:37:32.83 .net
司馬遼太郎さん(本名、福田定一)の課税対象遺
産額が約26億4千万円に上がることが、大阪国税局東大阪税務署の14日の
告示でわかった。・・・このうち、妻のみどりさん(67)が約16億8千万
円、長男(44)が約9億6千万円を相続した。・・以下略」(平成9年2月14
日日経新聞夕刊)司馬には子供がいたのである。

しかし、息子の存在はそれまで表に出ていなかった。人気作家の司馬遼太
郎にぶら下がり商売をしてきた出版社、新聞、テレビなどのマスコミには
これをとりあげる「勇気」はなかった。まさに、世紀の「文壇タブー」で
あった。
「噂の真相」(1998年6月号)は、司馬遼太郎の離婚した妻とその息子
(長男)のことを取材し特集した。世間には報道されていないので、その
概要を、長くなるが引用し紹介する。(なお、「噂の真相」は、反権力・
反権威・反タブーとスキャンダル報道とを売り物にする月刊誌であった。
世間の評価は毀誉褒貶、2004年3月で休刊した)
《 (訪問者に対して)八尾市の自宅の長男(小学校教諭)は取材に応じ
ず「そのことはすべて財団に聞いてください」の一点張り、また、再婚し
た彼の母親つまり司馬の前妻も「何もお話することはありません」とイン
ターホーン越しに繰り返すのみだった。

208 :無名草子さん:2015/10/05(月) 00:03:41.10 .net
実は、それ以前から司馬遼太郎は小説を書いていた。確認できる限りでの最初の作品は「わが生涯は夜光貝の光と共に」と題された短篇で、仏教雑誌「ブディスト・マガジン」創刊号に載せた。明治初年、
すでに本家の大陸でも伝来地日本でも伝統技巧の失われた螺鈿(らでん)細工に魅せられ、その技法の追究と完成に生涯を費す男の物語だった。
 そこには「芸術至上主義者」に対して司馬遼太郎が抱く距離感が早くもあらわれている。司馬遼太郎は「名人上手」と「技芸への執念」を、性として好まないのである。このとき彼は満二十六歳だった。
 その六年後、五六年の年頭からは「花妖譚」と題した連作を、生け花の家元が主宰する「未生」という月刊誌に書いている。これは、
とくに司馬遼太郎の作家キャリア前半期における短篇小説群の重要なサイドストリームとなった「怪異」への傾きが見てとれる作品である

209 :無名草子さん:2015/10/05(月) 00:08:44.26 .net
「随筆ぐらふいっく 船場(せんば)よいとこ」(「主婦の友」昭和36年9月号)に記す。全体の三分の一弱、同行者との会話のエッセンスのみ抜粋する(ルビと傍点は原文のまま)。
「(前略)『すると、むかしのいわゆるドコンジョウの街のにおいはどこにあるんです』/『ここですよ』/と、私は船場丼池(どぶいけ)の町角に立った。その商戦のすさまじさは、写真をごらんになれば、やや想像できるだろう。(注・タバコをくわえて雑踏をゆく
筆者のスナップほか全四葉のグラビアをお見せできないのが残念)/これは、船場の野武士の町だ。/
私は、この町のすごさを、どうみじかく説明すべきか、ことばがない。月に何軒かの倒産があり、夜逃げがある、といえばよいか。/戦後、ここの連中は、上品な船場にゲタバキでのりこんできて、あらたに丼池の町をつくり、海賊のようなツラガマエで商売をはじめた。
/『あれは船場人やない』/と古い土地の人はマユをしかめるが、かれらは、/『太閤(たいこう)はんも、もとは野武士やったやないか」/とやりかえす。/大阪を見物しようと思えば、
まっさきに船場丼池筋にゆけばよい。ここには、テンピンボウ一本で天下にたちむかってゆこうとする男らしい夢がある」

210 :無名草子さん:2015/10/05(月) 00:37:40.75 .net
石原氏は司馬の特徴を言うのに『義経』を例に挙げた。司馬は周知の通り、源義経を戦術の天才である一方、
世間も政治もわからない幼児的な人物として描いている。石原氏はそれが「司馬さんの限界」というのだ。
 義経というのは変なやつだった。やっぱり天才なんだ。その「変な」ところに司馬の明快な筆はなかなか届かない。
司馬は人間の不定形なもの、ドロドロとしたものを裁断しているのではないかと語ってくれた。司馬と石原氏の人間観・世界観の相違がうかがえるようで、興味深かった

211 :無名草子さん:2015/10/05(月) 00:53:20.47 .net
 宗教記者であった四八年夏、二十五歳の司馬遼太郎は京都北西の山中、まさに深山幽谷というべき地にある志明院(しみょういん)という真言の寺を訪ねたことがあった。「もののけ」が出るとされたその寺で、
彼は実際もののけのしわざを体験したのだ、とさらっと語っている。もののけは、年ごとに明るさを増す俗界の夜に耐えがたく、ここまで逃げてきたものらしいと語ったあと、つぎのようにつづけた。
「結局、私自身にもそういった雑密(ぞうみつ)的原始感情に感応するところがあるからでしょうね」「根っこのところでは
日本人が伝統的にもっている暗くて華やかなロマンチシズムのようなものにもつながっているのではないでしょうか」(「密教世界の誘惑」『司馬遼太郎全集』第12巻月報27)
 こんなセンスが、一連の不思議な傑作短篇を生んだのである。そしてまた、「電気のない闇というもののすばらしさを、宮崎さんのアニメでひとつ表現していただきたいものですな

212 :無名草子さん:2015/10/05(月) 00:57:20.94 .net
司馬さんがいち早く気にして嫌っておられた政治家用語は、「改善をする」「追及をする」「陳謝をする」「善処をする」といった、
いったん名詞にしてから動詞にする「——をする」という言葉であった。
 なぜ、提案する、と素直に動詞を使わないのか、提案をする、というとひとごとのようによそよそしく響く。それが狙いだろうか、と嫌っておられた。これもいまや、「このクニ」と共に、国会のなかで全盛である。
「反省をするというと、する主体と反省の間に、ほどよい距離があるような感じがしますな。誰が発明したのか、
うまいぐあいに反省するのも善処するのも本人ではない、誰か他の人、という雰囲気が漂うけど、誠実でないですな」と言われたのを思い出

213 :無名草子さん:2016/02/28(日) 21:00:52.56 .net
なんか辛気臭い

214 :無名草子さん:2016/02/29(月) 10:40:36.26 .net
あくまで娯楽小説の作家であるならなんの問題もなかったと思うよ。
史実を捻じ曲げていたとしても、たかが小説で歴史の勉強をする方が馬鹿なだけだし。
小説は別の惑星の話なんだからなんでもいいんだよ。
エッセイやら対談やらで偉そうに歴史を語っちゃうのがいただけなかったね。

215 :無名草子さん:2016/03/03(木) 08:49:02.11 .net
まあ語るのは自由かな。
有り難がって持ち上げるのが馬鹿なだけで。

216 :無名草子さん:2016/05/28(土) 13:43:37.05 .net
>>214
娯楽小説を史実そのものと思ってる日本人が多いのが問題。
NHKはじめドラマにしまくったマスコミはもっと検証番組をつくるべし。

217 :無名草子さん:2016/08/12(金) 13:38:58.08 .net
司馬のアンチスレで必死にageて荒らしている信者様koeeeeeeeee
つーか、今頃なんなの?

218 :無名草子さん:2017/05/22(月) 21:37:40.92 .net
深川図書館特殊部落

同和加配

人ボコボコぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc

なんのための施設か? →特殊な関係用

219 :無名草子さん:2017/06/04(日) 21:36:37.21 .net
深川図書館特殊部落

同和加配

人ボコボコぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc

なんのための施設か? →特殊な関係用

220 :無名草子さん:2017/08/31(木) 10:06:43.58 .net
しばさんわるくいうな

221 :無名草子さん:2017/09/29(金) 18:22:12.49 .net
司馬遼太郎のはなしは、そもそも小説になってないからな。

小説内の時間は下手糞に何度も前後するし、作者がえんえん雑談するし。あんなもんを文学作品とかって言う奴はアホや

人物が登場してすぐに、こいつは後でこうなるんだが、とかネタバレを作者が何度もする。

さらに、あとでこいつは勝ち残るんだがと作者が言って、そいつは褒めまくる
あとでこいつは負けるんだがと言って、負けるやつはけなしまくる
そんなん子供で言える

司馬の本って、ろくに小説読んでないバカが読んでるんだろうな

司馬の本って、ろくに歴史の勉強をしたことないやつが読んでるんだろうな

司馬遼太郎が好きですと買って言ってる奴って「私はバカです」って言ってるのと同じってわからないんだろうな

マンガやラノベの方が、ちゃんと小説としてストーリーが有って司馬より上

222 :無名草子さん:2017/10/29(日) 20:43:29.56 .net
夕食は、近藤がぜひ一緒に、というので、部屋でとった。

 給仕は近藤の女房のおつねがしてくれるのだが、無口で陰気で、この女が給仕をすると、どんな珍味でもまずくなるような気がした

223 :無名草子さん:2017/11/06(月) 04:38:48.57 .net
陰気な舞手は、たとえたくみに舞ってもひとびとはその巧みさよりもその欠点に目がゆく。
逆に陽気な舞手ならば、少々下手に舞っても、観衆はその陽気にまどわされ、つい欠点に目がゆかず、長所にのみ目がゆく(「新史太閤記」)

224 :無名草子さん:2017/11/20(月) 20:15:33.54 .net
吉本隆明bot‏ @T_Yoshimoto ·
司馬の作品から歴史を学ぶというのは、学者としては甘い態度です。そんないい加減な態度では「本当の歴史」はわかりません。 『私の「戦争論」』

225 :無名草子さん:2018/01/12(金) 11:47:50.55 .net
一般書籍よりもおすすめてきにネットで得する情報とか
グーグル検索⇒『稲本のメツイオウレフフレゼ

E1CMY

226 :無名草子さん:2018/02/11(日) 17:16:59.76 ID:J52CPP/mu
考えが浅薄な癖に、したり顔でさも事実かのごとく書くから虫酸が走る。
影響力があるから尚更。
歴史なんてものは不確定だし、娯楽だし、色んな解釈があってしかるべきだし、
この分野の入り口として多くの人の切っ掛けになってくれているのは偉大であろうけど、
あれみたいな見方しかできんと思うと苦々しくてたまらん。

227 :無名草子さん:2018/02/11(日) 17:21:33.62 .net
浅薄にして軽率
十数年前の歴史物ってなんか権力者を小馬鹿にしたものが多かったよな。学研かなんかの漫画が凄く品性なかった
司馬もそいつらと変わらん。したり顔で適当なことかく。軽薄なのはいいが謙虚さが足りんのがつくづく駄目

228 :無名草子さん:2018/03/04(日) 14:41:12.92 .net
実況スレ
http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/liveetv/1520131987/1-1000

229 :無名草子さん:2018/05/29(火) 19:02:45.10 .net
40HJO

230 :無名草子さん:2018/09/28(金) 07:45:34.65 .net
江東区立深川図書館特殊B

銅和加配
在目特券

奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
被害者が警察を呼んでくれと何度も言っているのに公務員は無視し続けてた
幼児が歓声上げて走り回る       見ぬふり
小学生が歓声上げて走り回る     見ぬふり
中学生が大声で談笑して走り回る   見ぬふり
高校生が閲覧机で談笑雑談      見ぬふり
公務員による恣意行為
etc

なんのための施設か? →特殊な関係用

翌日、被害者を公務員が脅していた

231 :無名草子さん:2018/12/24(月) 10:33:32.53 .net
>>1
海音寺潮五郎スレッドが
ないのは何故?

232 :無名草子さん:2018/12/31(月) 06:10:47.46 .net
>>1
海音寺潮五郎スレッドが
ないのは何故?

233 :無名草子さん:2019/01/05(土) 10:28:51.60 .net
司馬遼太郎の描く明治の人間像はウソばかりですね

234 :無名草子さん:2019/01/09(水) 09:46:31.58 .net
司馬遼太郎のブームは出版社のPRに一般の平凡な読者が引っかかった
結果だよ。

今、読むとそのことがよく見えてくるだろう。
明治の文豪と称する人達の小説も同じくだ。戦後の小説家のほとんどが
文才はないゴロツキばかりだ。

235 :無名草子さん:2019/03/04(月) 11:16:03.50 .net
世良の「奥羽皆敵」の手紙は会津による工作だった!!

会津藩より世良修蔵の偽手紙をこしらえて
大山格之助へ遣わす途中、仙台人が
この手紙を見たところ、仙台を滅ぼすとの
文字があった。仙台は藩を挙げて怒り
どうせ滅ぼされるなら、会津に与して滅ぼうと
ついに世良を殺して、奥羽諸藩と連合したのである。

世良の暗殺は、仙台藩が一向に本気で
会津攻めを行おうとしないことに
立腹した世良が、秋田に転戦していた
同役参謀大山格之助にあてた書簡に
「奥羽皆敵と見て」と書いたことを
仙台人が知り、怒って殺害したというのが通説
(『仙台戊辰史』など)である。

だが、この大村書簡によると
明治元年九月の時点で仙台藩は「世良書簡は偽造だった」と認めていた。大村は、仙台藩の
嘘(偽造を会津の手によるものとした)
とみて、憤慨したものらしい。

大村益次郎研究家 山本栄一郎

236 :無名草子さん:2019/04/18(木) 21:55:19.47 .net
大嫌いというほどじゃないが、余計なエロシーンがうざいときがあった

237 :無名草子さん:2019/05/22(水) 01:00:05.94 .net
吉本隆明bot‏ @T_Yoshimoto · 5月20日

司馬の作品から歴史を学ぶというのは、学者としては甘い態度です。
そんないい加減な態度では「本当の歴史」はわかりません。 『私の「戦争論」』 

238 :無名草子さん:2019/05/22(水) 18:54:33.63 .net
それに関しては吉本が言うな思うけどな

239 :無名草子さん:2019/09/07(土) 22:40:27.28 .net
>>2
寝待ちの藤兵衛とかオリキャラが竜馬を慕う理由が無理有りすぎて、出来の良いラノベって感じ、あまりに主役に都合がよすぎ

240 :無名草子さん:2020/06/07(日) 14:46:13 .net
司馬遼太郎
唯一の推理小説にして本人が大嫌いな作品と公言している「豚と薔薇」のあとがきには、
以下のように記されている。

“他人の秘事を、なぜあれほどの執拗さであばきたてねばならないのか、
その情熱の根源がわからない。それらの探偵たちの変質的な詮索癖こそ、
小説のテーマであり、もしくは、精神病学の研究対象ではないか”

昭和33年に松本清張の「点と線」が出版され、推理小説ブームの濫觴が見え始めた時期
の文章である
こんなことを書けば、松本清張が司馬遼太郎を嫌うのも無理はない

241 :無名草子さん:2020/08/25(火) 22:52:15.37 .net
余談であるが、
ひとむかしまえの経営者の愛読書はほぼ司馬遼太郎だという真実を我々はわすれてはならない

242 :無名草子さん:2021/03/31(水) 11:00:38.95 .net
「ネトウヨ(ネット右翼)」の源流である歴史修正主義者が司馬史観の後継者を標榜するようになった
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1617154984/

243 :無名草子さん:2021/05/11(火) 20:25:45.35 .net
司馬遼太郎は捏造作家

244 :無名草子さん:2021/05/15(土) 01:25:48.06 .net
・副島「ウソは、司馬遼太郎もヒドい。彼は、対モンゴル戦争用の情報将校ですからね。司馬の小説は作り話のウソばっかりだ。」(123頁)

→司馬の配属は一貫して戦車部隊である。終戦時の階級は少尉。
情報将校というような役回りではなく、戦時中にモンゴルとの関わりもなかった

245 :無名草子さん:2021/05/27(木) 00:44:00.90 .net
1.井上ひさし氏との対談
@司馬:関西人から見ると東京は東北人が作ったと考えるところがある。A井上:東北人から見ると東京は長州人(と薩摩人)が作ったと考えるところがある。B司馬:合理主義というのは哲学者が生んだものではなく、貨幣経済が密度高く行われることにより生まれた。京都で室町時代から貨幣経済が稠密に行われ、
その余波を受けたのは大坂ぐらい。それ以外は明治以後。C井上:奥羽山脈とつながりの少ない福島県と宮城県は東北ではなく準東北で、東北は山形、秋田、岩手、青森という感じ。

2.大野晋学習院大学名誉教授との対談
@司馬:日本語にはラリルレロから始まる言葉がない。ろうそく、ラッパ、らっきょうとかは漢語。江戸時代にロシアをオロシャとしか言えなかった。AB司馬/大野:母音をたっぷり発音するのは関西式発音で必ず聞き手にわかる。関東では荒っぽく母音を落とすことがあり聞いて非常にわかりにくい。大阪の漫才は日本語の正統な流れ。
C大野:漢字が日本に入ってから1500年。その間に漢字を日本語の造語要素として採り入れながら使いこなしてきた。あまり漢字制限するのは文化的に不得策。

3.徳川宗賢学習院大学教授との対談
@徳川:関西風の言葉の調子(母音を融合させない)も西の方へ行くとあるところで止まってしまう。中国地方は上方と違っても、海を隔てた四国が上方に近い。A司馬:広島、岡山が関西からみれば標準語に近く聞こえる。阿波、伊予へ行くと私らが失った上方弁をまだしゃべっている感じ。
B徳川:北のほうでは越前、加賀、能登、越中…、その辺までは上方風の感じ、そのはずれが佐渡。C司馬:若狭は上方ですけど、越前に行くと違うような感じで東国のにおいがやっぱりする。

246 :無名草子さん:2021/05/27(木) 00:44:27.42 .net
4.多田道太郎京都大学名誉教授との対談
@A司馬/多田:美人は動きの中で見出される。静止したり写真に撮ったりすると美人じゃない人が多い。われわれが女性にひかれる場合の
一番のポイントというのは女性のしぐさである。B多田:ではどのような身振りをしたら一番魅力的に見えるか、
昔は人の目を見なかったとか、笑う時に口に手を当てるとかだったが今は必ずしもそうはいかない。
C多田/司馬:名は体をあらわすというのは、名前が人生に対するしぐさというか親の希望を表すわけで、名前はむしろ、親を判断する手がかりになる。

5.赤尾兜子氏(俳人)との対談
@ABC赤尾/司馬:(俳句というものは日本化された漢語イメージから成立する文芸かとの司馬の問いから始まって)俳句の原型になる基礎的な
構築の言葉の根は、漢語、漢文的系列によってこのわずか17音の詩を構築したということ。芭蕉自身が若いころ漢語まじりの作品をいっぱい書いている。
芭蕉はそれで自分の骨格をつかみ、その上で和語だけの(例えば)「さみだれを集めてはやし最上川」とか「何の木の花とは知らずにほひかな」となる。

6.松原正毅民俗学博物館センター長との対談
@松原:万葉仮名ができる6世紀後半くらいまで500年以上にわたり中国に営々と行っては漢籍を持ち帰り、漢文を習った連中が上層部に相当蓄積された。後に空海のような天才が出てくるが、
それを生むだけの厚い土壌が形成されたということだろう。A司馬:関東には百済から入植者が大量に入り、子音をうまくしゃべれる連中が沢山いた。東京の人が比較的うまく子音を言えるのは、
その残映と思う。私ら関西人はそれに劣等感も持ち、しまいには開き直り、我々の方が縄文の正統と思うところがある

247 :無名草子さん:2021/05/27(木) 00:46:12.05 .net
日本人は明治維新で儒教をすてた。一時は廃仏毀釈で仏教まで捨てた。洋学に大転換した。これを文化大革命であるとすれば、
毛沢東中国がやった文化大革命などよりも底の底からひっくりかえしたという点でははるかに大がかりで徹底している。

司馬遼太郎『花神』より

248 :無名草子さん:2021/05/27(木) 00:48:44.10 .net
ことばの意味・来歴みんな司馬さんに教えてもらった
ほぼ毎日一語 ここに紹介してゆきたい。

https://sibasan.yuukiwada.com/

249 :無名草子さん:2021/05/27(木) 16:52:39.74 .net
司馬遼太郎は、長い間日本から遥かに遠い僻陬(へきすう)の海に位置するアイルランドに強い関心を持ち続けてきた。
その国はかつてシーザーも征服欲を
刺激されないといわれるほど厳しい風土の国であった。しかし司馬遼太郎はアイルランド人が
古代ケルト民族から受け継いできた比類ない「想像力」と、孤高の精神を見つめようとする

ヴィエルの<青春の痕跡>を追う。やはりスペイン・バスク出身のロヨラはパリでザヴィエルと出会い、
二人はやがてイエズス会を結成する。司馬さんは二人のバスク人キリスト者のなかに対照的な精神性を感じとった

250 :無名草子さん:2021/05/27(木) 16:53:21.77 .net
司馬遼太郎氏が「新疆ウイグル自治区を訪ねて」(1975年)と題してエッセイを寄稿しています。このエッセイを読んで、とても印象に残った記述を以下に引用・掲載します。
『私は少年のころから、中国の内部または周辺にすむ少数民族のファンであったが、かつて新疆省とよばれたその地域は、上代、西域(狭義)とよばれた地で、東西文明の交渉史上、かぎりないロマンティシズムを秘めており、
今なおその古代的交渉の渦の中にあった諸民族の末裔がすんでいるのである。そのことはウイグル人たちの顔に象徴される。
モンゴロイドの諸民族が、白系人との混血によって、特異な容貌の民族をつくりあげ、西方の歌舞や音楽をタクラマカン沙漠の周辺でそだてあげ、いわゆるシルクロードの文化を保持してきた地域で、
アメリカ合衆国の少数民族も米国人であるように、このシルクロードの諸民族もまた、多民族国家であるところの中華人民共和国の人民なのである。』
この著書で、司馬遼太郎氏は35年前であっても、中華人民共和国の国の成り立ちを「多民族国家」と見做しています。漢民族が大多数であっても中原以外の周辺地域にはさまざまな民族が生活しています。そして、新疆に住む漢民族ではないウイグル人でも、
同じ中華人民共和国の人民とはっきりと断言しています。これは、司馬さんの中国に関する卓見した国家観です。
また、何がなんでも単一民族だけで一つの国家を作ろうとする短絡的な民族運動に、司馬さんは警鐘を鳴らしているのです。その不毛な民族対立が、住民の流血にまで発展してしまうからです

251 :無名草子さん:2021/05/28(金) 08:22:36.82 .net
こんなスレあったんだね
でもみんなちゃんと読んでて偉い
自分は坂の上の雲を途中で挫折して司馬遼太郎作品合わないと思った
かなり頑張って読んでも文章が頭に入ってこず、確か4、5巻目あたりだったと思うけど2、3ページおきくらいに乃木ディスりが入ってくるのがウザすぎてブックオフ持ってった
作者は乃木希典が死ぬほど嫌いなんだなってことしかわからなかった
203高地以前のシーンがカケラも印象に残ってないことにも驚くけど、本当に根本的に合わなかったなと思う

252 :無名草子さん:2021/05/31(月) 01:12:50.16 .net
「ペルシャの幻術師」
モンゴルびいきのモンゴル小説が読めるのかと思いきや、ナンの目から見たモンゴル人の描写が容赦なくてこう、いたたまれなくなってくる。ちびで粗野で、かっこいいはずの騎馬での戦闘もナンから見れば野蛮なだけで、
殺すことしか楽しみを持たない幼稚な馬鹿。その上、色恋下手。そばにいることを強制して逃げるのを許さないくせに「でも許しがない限り決して手は出さない」とか果てしなく嫌悪が募るだけですよ…
でも容赦がないだけで悪意は含まれてない気がするんだよなあ。別段美化も醜化もせず、正直に書いただけという感じ。ナンや幻術師アッサムはとてもきれいな「物語の登場人物」なのに、モンゴルの描写は生々しい。と、思う。

「兜率天の巡礼」
宗教が日本に根付かない理由について。
異端として追われ、コンスタンティノープルから長い長い流亡の果てに日本へたどり着いた普洞王の一行は、祖国とは異なる、その穏やかな気候に驚く。ここでは、自然は人間に牙を向かない。
「このようなくにに住む者達は、一体、悪というものを知っているであろうか。悪を知らなければ、おそらく善をも知るまい。善悪を知らずして生涯をすごせる天地こそ、天国というべきであろう。」
この地の人びとにとって、神とは生きていく指針を与える厳格な主人ではなく、生活の隣で一緒に暮らす友人だった

253 :無名草子さん:2021/06/04(金) 14:15:08.56 .net
司馬遼太郎のものは、僕らは短編だったら面白いと思って読みますけれど、長いものはとても読めないですよ。もうがまんできない、
いやもういいよとなっちゃうんです。ボクシングと同じで、たとえば強いパンチをばっかり打っていると、
相手はそれに慣れちゃって倒れないんです。だけど、弱いのを入れながらときどき強いのを出すと、これが効いて倒れるんです。ようするに
、司馬遼太郎にはパンチに強弱がなくて、いつでもある一定の強さのパンチばかり打っているんです。それは一見、弱いパンチよりいいだろうと思うかもしれませんが、
そうじゃないんですね。ボクシングを見ている人ならすぐわかると思いま
す。
(「家族・老人・男女・同性愛をめぐって」2002.10.7談話収録 「吉本隆明が語る戦後55年第10巻」2003.3.10三交社に収録された)

254 :無名草子さん:2021/06/16(水) 06:30:22.28 .net
司馬遼太郎は嘘と誇張ばっか。
事実を捻じ曲げて都合の良いように解釈して、最悪な人間

255 :無名草子さん:2021/07/02(金) 11:20:26.15 .net
司馬遼太郎

「韓国への想いのたけというのが深すぎて、ひとことでは言いにくかったのである。私は、日本人の祖先の国にゆくのだと、ということを言おうと思った。」

「飛鳥文化は百済文化をぬきにして語れない。王朝文化は百済と同じ。ほとんど百済ぐるみが日本にひっこしたのではないかという想像が『日本書紀』の記述によって可能だ。白鳳期といわれる芸術時代が花をひらくのも、亡命百済人たちが日本の宮廷に収容されたことをはずしては考えられない。」

「日本の奈良朝以前の文化は、 百済人と新羅人の力によるどころが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。盆踊りは朝鮮の野踊りからきたものではないか。平安時代には野踊りが盛んであった。」

「百済は北朝にたよらず、もっぱら揚子江以南の南朝にたより、その文化的影響を濃厚にうけた。その百済の影響を飛鳥期の日本がうけるため -- つまりは江南の六朝の文化がはるか極東の島へ飛び渡って -- 飛鳥文化の華をひらくというふしぎな作用をもたらすのである。百済が、南朝 (六朝) の文化を模條したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。」

256 :無名草子さん:2021/07/02(金) 11:21:08.36 .net
司馬遼太郎

「壱岐には、唐人 -- 漂流朝鮮人であろう -- を祀った古趾が多い。海のむこうから来た客人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。対馬・壱岐が、朝鮮からやってきた鹿卜の受け皿になっていたことは、まぎれもない。この時期の対馬・壱岐というのは、本土に対してもっとも華やかな位置を占めた時代であった。」

「卜占という古代における一種の科学を含んだ日本神道は、壱岐・対馬からはじまっているのである。対馬の道を往きつつ右のように考えてくると、日本の神道が決して日本列島固有のものではなかったということがわかる。神道というものの原型が、 朝鮮からきたか、 表現を変えれば共通の時期があったと想像することは、 想像という言葉が大げさなほどに自然なことである。」

「稲作の伝来に関して想像すると、たしかに中国南部からもきたであろう。しかし主として朝鮮半島を経由してきたという説はうごかしがたい。三世紀の対馬の卑狗も、四世紀後半から五世紀の人と思われる鶏知の前方後円墳のぬしも、朝鮮半島や博多湾沿岸のひとびととおなじ型の米を食っていたであろう。」

257 :無名草子さん:2021/07/03(土) 11:13:33.53 .net
司馬遼太郎のものは、僕らは短編だったら面白いと思って読みますけれど、長いものはとても読めないですよ。もうがまんできない、
いやもういいよとなっちゃうんです。ボクシングと同じで、たとえば強いパンチをばっかり打っていると、相手はそれに慣れちゃって倒れないんです。
だけど、弱いのを入れながらときどき強いのを出すと、これが効いて倒れるんです。ようするに、司馬遼太郎にはパンチに強弱がなくて、いつでもある一定の強さのパンチばかり打っているんです。
それは一見、弱いパンチよりいいだろうと思うかもしれませんが、そうじゃないんですね。ボクシングを見ている人ならすぐわかると思いま
す。
(「家族・老人・男女・同性愛をめぐって」2002.10.7談話収録 「吉本隆明が語る戦後55年第10

258 :無名草子さん:2021/07/03(土) 11:14:38.71 .net
本気で小説家としてやっていくとしたら、内容プラス文体なんですよ。本気で読むほうだって内容プラス文体で読むわけですよ。文芸書というものは。
まずはその人の文体の癖が大事なのに、それを無くすとどうなるかというと、ボクシングでいえばパンチに強弱がなくなるんです。
文体の癖を無くしてわかりやすくすると、リズムがつかないんです。それがいいと思っているわけだからしょうがないですけれどね。
(「家族・老人・男女・同性愛をめぐって」2002.10.7談話収録 「吉本隆明が語る戦後55年第10巻」

259 :無名草子さん:2021/08/12(木) 00:19:10.10 .net
司馬がノモンハンの小説を書けなくなったいきさつとして、司馬の内面的な問題だけではないとする指摘もある。司馬はノモンハン事件の調査を進めていく中で、ノモンハン事件で責任を取らされて予備役行きとなり、戦後に長野県上山田温泉で温泉宿を経営していた
歩兵第26連隊長の須見新一郎元大佐と知り合った。連隊長解任の経緯から軍中央の参謀に不快感を抱いていた須見は、参謀を「悪魔」と罵倒するほどであり、昭和軍部に批判的であった司馬と意気投合している[535]。
須見は謹厳実直な陸軍軍人ながら、明確に日本陸軍の作戦用兵に対しては批判的であり、
司馬の小説の構想にうってつけの人物であったため、司馬は須見を主人公のモデルとして小説を書こうと決めて、
熱心に上山田温泉通いをしていた[536]。そんな中で、1974年の『文藝春秋』正月号で司馬は参謀本部元参謀で伊藤忠商事の副社長だった瀬島龍三と対談し、それが記事となった。
須見は、中央のエリート参謀であった瀬島に対して「あのインチキめ」と腹立たしく思っており、その瀬島と対談した司馬に対して
「あんな不埒な奴にニコニコと対談し、反論せずにすませる作家は信用できん」と激高し、今までの取材内容を使用するのはまかりならんと絶縁状を司馬に送り付けている[537]。
絶縁状を送り付けられた司馬は、須見を主人公のモデルとする構想が挫折したため、ノモンハン事件の小説が書くのが困難となってしまった[538][539][540]。
後に司馬はこの時を振り返り「もしぼくがノモンハンを書くとしたら血管が破裂すると思う」と述べるほど追い詰められている[531]。
ノモンハン事件ではないが、司馬は自分の戦車兵時代の話を、同じく司馬原作のテレビドラマ『梟の城』の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、これも撮影困難として挫折した経緯があ

260 :無名草子さん:2021/08/22(日) 00:10:25.55 .net
北斗の人の周作は自分の人生のなぞらえでもあるんだろうな。妻子が栄達のたがになるような記載も何回か出てきたし。

261 :無名草子さん:2021/12/25(土) 22:26:23.31 .net
岡潔対談集 (朝日文庫) 文庫 2021/5/7
司馬遼太郎が学徒出陣で終戦まで満州に居て捕虜にならずに帰国した、と聞いて「、、前世ではろくなことはしていないだろうけど
、現世ではやがてよいことをするだろうということになっているのですよ、きっと」(だから、よい仕事をせよ)と語りますが、
このとき司馬遼太郎46才、坂の上の雲を産経新聞に連載して文名大いに上がりかけた頃です。 
司馬が「ソクラテスやお釈迦さんは未開の時代だったからこそあんな深い思索が出来たのだと思います」と語るのに対して岡先生:さりとて未開へ行けと奨励するわけにもいかん。
だから文士というものの使命がある。もしそうでなければ、文士とは溜まり水に湧いたボウフラとしか考えようがない。

井上靖との對談「美へのいざない」は美學を通して日本人の宗教や外来文化への態度、教育の問題等を話題にして居ます

262 :無名草子さん:2021/12/26(日) 23:09:39.03 .net
宮崎正弘の国際ニュース・早読み<<今週の書棚>>より
福井雄三『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』(主婦の友社)

過日、或るシンポジウムで著者の福井教授とご一緒した。
話題はノモンハン事件から近代現代史の誤謬をめぐる企画で、話題が集中したのは
従来ソ連が勝った! 勝った! と宣伝されてきた日本軍とソ連軍との軍事衝突の真実である。
評者(宮崎)はノモンハン現場の現状から説明を始めた。

冷戦が終わってロシアがいくぶん民主化されたおりに、夥しい機密文書が世に出た。
毛沢東の機密に関してはユン・チャン(『ワイルドスワン』の著者)が、それらの
機密文書を詳細に追跡し、十年がかりで『毛沢東、知られざる真実』を書いた(本邦未訳)。

ノモンハンは日本がかろうじて勝っていた事実が判明し、これまでの五味川純平、
司馬遼太郎、半藤一利、田原聡一郎などが主張してきた巧妙な左翼の嘘がばれた。
とりわけ司馬遼太郎は、デタラメな軍事史観をもとに全てを一方的に判定する癖
がある。その売国的歴史観を「乱世史観」と称したことは有名だが、『坂の上の雲』は、軍事データや作戦の齟齬に関する誤謬に満ちている。

乃木大将が愚かであった、と分析すること自体、歴史の嘘を踏襲し、みずからの
歴史しらずを晒しているようなものだが、これまで不思議なことに司馬氏への批
判がすくなかった理由は、司馬遼太郎の小説がいまも飛ぶように売れるため、出版社、新聞社が司馬遼太郎批判を忌避してきたからである。
そのタブーも破られる日がきた。
福井氏は、何が真実であるかを読者に誠実に木訥に提示し、しかし大胆に歴史を問
い直す作業に挑まれてきた。本書は司馬遼太郎批判を、『中央公論』に書いたこと
が端緒となって編集者が強く単行本化を従容し、その後の考察が加わった力作となった。

263 :無名草子さん:2021/12/26(日) 23:15:28.25 .net
坂の上の雲』は間違いばかり、「乃木愚将論」は真っ赤な嘘!
実は乃木大将が「戦上手」だったからこそ、日本は救われた――。

司馬遼太郎が『坂の上の雲』や『殉死』で描き出した乃木希典像は、「愚将」「戦下手」などというものであった。だが、実際の乃木は、まったく違っていた。

264 :無名草子さん:2022/01/14(金) 13:58:50.00 .net
司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく2 韓のくに紀行』で、沙也可が日本名「サエモン」の音訳、あるいは「サイカ(雑賀)」のことではないかと推理した

265 :無名草子さん:2022/02/08(火) 06:25:39.66 .net
>>214
それは小説読もうが読みまいが勉強のできないお頭の弱い子の言い分だな

266 :無名草子さん:2022/02/12(土) 10:33:15.66 .net
司馬遼太郎
 「山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響をもっとも多く受けたものの一つですから、
  それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで受けつづけてきたところですから。
  そういうことがあって、長州的思考法というのは、ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。」

267 :無名草子さん:2022/02/12(土) 10:47:46.84 .net
司馬遼太郎
「平安時代までの日本文化は外国のもの。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」

「飛鳥文化は百済文化をぬきにして語れない。平安時代までの日本文化は外国のもの。盆踊りは朝鮮の野踊りからきたものではないか。平安時代には野踊りが盛んであった。

」「壱岐には、唐人 -- 漂流朝鮮人であろう -- を祀った古趾が多い。海のむこうから来た客人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。」

「ほとんど百済ぐるみが日本にひっこしたのではないかという想像が『日本書紀』の記述によって可能だ。」

「卜占という古代における一種の科学を含んだ日本神道は、壱岐・対馬からはじまっているのである。」

「稲作の伝来に関して想像すると、たしかに中国南部からもきたであろう。しかし主として朝鮮半島を経由してきたという説はうごかしがたい。三世紀の対馬の卑狗も、四世紀後半から五世紀の人と思われる鶏知の前方後円墳のぬしも、朝鮮半島や博多湾沿岸のひとびととおなじ型の米を食っていたであろう。」

268 :無名草子さん:2022/02/12(土) 10:48:10.88 .net
「対馬・壱岐が、朝鮮からやってきた鹿卜の受け皿になっていたことは、まぎれもない。対馬の道を往きつつ右のように考えてくると、日本の神道が決して日本列島固有のものではなかったということがわかる。この時期の対馬・壱岐というのは、本土に対してもっとも華やかな位置を占めた時代であった。」

「朝鮮は水がなすくない上に、しばしば大きなひでりがあり、そういう年の冬には、「対岸へいこう」という連中が多かったであろう。 日本列島は幸いにも初夏に梅雨があり、初秋に台風があって、耕作のための水に不自由 しない。われわれ日本人の血に朝鮮半島通過の血液がまじるのは、日本の水がそれを呼び、この海域を吹く風がそれを運んできたものにちがいない。」

「韓国への想いのたけというのが深すぎて、ひとことでは言いにくかったのである。私は、日本人の祖先の国にゆくのだと、ということを言おうと思った。」

「日本の奈良朝以前の文化は、 百済人と新羅人の力によるどころが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。」

「百済は北朝にたよらず、もっぱら揚子江以南の南朝にたより、その文化的影響を濃厚にうけた。その百済の影響を飛鳥期の日本がうけるため -- つまりは江南の六朝の文化がはるか
極東の島へ飛び渡って -- 飛鳥文化の華をひらくというふしぎな作用をもたらすのである。百済が、南朝 (六朝) の文化を模條したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。」

269 :無名草子さん:2022/02/12(土) 10:52:38.84 .net
司馬遼太郎
「律令体制が完成したのちの渡来人に対しては、大和では必要ないので、近江の開拓をさせたりする。その次にやってきたのは、関東平野に移住させる。

それがやがては旺盛な開墾能力を身につけ、のちの坂東武士団を形成する。
坂東武者は当時、源平藤橘を名乗っていますが、ぼくは子供のときから不思議に思っていたんです。

そんなはずがない。それは天皇、つまり京都秩序に自分の家はより近いというしるしだけなんですね。
単なる、平安末期の流行にすぎない。平安初期では、近畿の住民の三割までは新渡来人でしょう。

大半は奈良朝のある時期に移住した渡来人の子孫ですね。そうでなければ坂東武者のあのたけだけしい騎馬能力は説明つかない。

朝鮮半島の住民で騎馬能力があるのは常識的に考えて北の方の高句麗ですけれども、この高句麗と日本とは非常に密接な関係がありますね」

270 :無名草子さん:2022/02/12(土) 10:55:52.13 .net
[司馬:日本の白兵というのは、一対一で日露戦争のときロシア軍とやるというのは、
向うの体格は大きいし、銃も長いし、結局これだろう。三人か四人一組で一人を
倒すというのは、新撰組もやっているんですね。赤穂浪士もやっているんですね。
だから、 自分を弱いものだとするリアリズムの最初だと思うんですよね。ここは
リアリズムが あるんです。ここから山県が、この成功を軸として日本陸軍を
つくった。]

271 :無名草子さん:2022/02/12(土) 11:00:01.14 .net
司馬遼太郎
「自分を日本人と規定するより倭人と規定するほうが、ずっと自分がひろがってゆく感じがする」

272 :無名草子さん:2022/02/17(木) 12:40:37.69 .net
歴史的結果としての日本は、世界のなかできわだった異国というべき国だった。
  国際社会や一国が置かれた環境など、いっさい顧慮しない伝統をもち、さらには、
  外国を顧慮しないということが正義であるというまでにいびつになっている。外
  国を顧慮することは、腰抜けであり、ときには国を売った者としてしか見られな
  い。その点、ロシアのほうが、まだしも物の常識とただの人情が政治の世界に通
  用する社会であった。   (司馬遼太郎氏著『菜の花の沖<六>』

273 :無名草子さん:2022/02/17(木) 12:41:06.81 .net
私の連隊である戦車第一連隊は戦争の末期、満州から連隊ごと帰ってきて、北
  関東にいた。東京湾や相模湾に敵が上陸すれば出撃する任務をもたされていたが
  、もし敵が上陸したとして、「われわれが急ぎ南下する、そこへ東京都民が大八
  車に家財を積んで北へ逃げてくる。途中交通が混雑する。この場合はどうすれば
  よろしいのでありますか」と質問すると、大本営からきた少佐参謀が、「軍の作
  戦が先行する。国家のためである。ひっ殺してゆけ」といった。
               (司馬遼太郎氏著『歴史の中の日本』

274 :無名草子さん:2022/03/15(火) 19:50:08.84 .net
『人間の集団について−ベトナムから考える』
「寿会のひとびと」「青木茂氏の風貌」「異郷を流浪する話」「桃太郎伝説」に登場するベトナム残留日本兵は、
青木茂氏ではなく落合茂氏である。ご本人が実名の公表を控えてもらいたいという希望をもたれていたと思われる。
現に同氏は本品が書かれた4年後である1977年、公安関係者から「日本の買弁資本の手先」と追及され
妻子を残し日本に帰国し東京銀行大阪支店に勤務されている。
つまり「寿会のひとびと」に登場する東京銀行サイゴン支店支店長が落合茂氏であり、青木茂氏のモデルである。
作品中はトーメンのサイゴン支店勤務となっているが、それは前職であろう。

275 :無名草子さん:2022/03/20(日) 14:01:34.34 .net
平和な日本にいても
浅間山荘の赤軍グループとか誤爆とかで内部粛清やっちゃうのいるしな。
信念とか理念にのめり込んで、やたら過激に攻撃的になることで
熱狂するタイプとかいるんだろうな。
日本はおそらく、比較的少ないとか司馬遼太郎が書いてたけど。

276 :無名草子さん:2022/04/09(土) 19:56:41.65 .net
司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』において、以下のような粗筋がベースになって描かれている。
明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。
レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを
支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。
その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。これらの明石の工作が、
後のロシア革命の成功へと繋がっていく。後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。

この件は歴史家から疑念が示されている

ロシア国内の情況を把握するため、明石に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。
さらに明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉から、「お前を信じているぞ」という
趣旨の激励の電報が届いた。明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触した

満洲義軍(まんしゅうぎぐん)は、日露戦争中の1904年、ロシア軍の後方攪乱・兵站破壊を任務として満洲の馬賊を集めて創設された特別任務隊である。
トップに立ったのは、「花大人(ホアターレン)」として知られた花田仲之助少佐である
これらの部隊の総指揮を行ったのは、日本陸軍の情報将校の先駆けで現地満洲軍の高級参謀だった福島安正である。実際のところ、
満洲義軍については、研究がほとんど存在しない。何故ならば、この組織は国際法に抵触する秘匿されたものであり、当時の公式の戦史に記述が存在しないからである。

277 :無名草子さん:2022/04/10(日) 15:34:10.75 .net
街道をゆく 28 耽羅紀行 (朝日文庫) 文庫 2009/2/6
司馬 遼太郎 (著)
ひょっとすると、父母未生以前に、自分はこの耽羅国にいたのではないか──シャーマン、海女、モンゴル馬など、
若いころから思い続けていた古代が息づく島、韓国・済州島を2度のわたって訪れ、韓国と日本の文化の原像を探る。

韓国南端の済州島を、そこを故郷に持つ在日の畏友二人を先達に歩く。日本に押し寄せた蒙古軍が馬を肥やした漢拏山麓の草原をめぐり、
巫人や海女など古層で日本文化とつながる民俗を訪ねる。繰り返し表れるのは、朝鮮史五百年の停滞をもたらした科挙および朱子学への強い批判と、巻き込まれざるを得なかった民衆への哀憐の情。著者による朝鮮(民族)論の集大成の観がある一冊。

街道をゆく 2 韓のくに紀行
「私が韓国にゆきたいと思ったのは、十代のおわりごろからである」―宿願をはたすため、いまだ“日帝支配三十六年”の傷口の乾かぬなかをゆく。
素朴な農村をたどって加羅・新羅・百済の故地を訪ね、「韓」と「倭」の原型に触れようとする旅は、海峡をはさんだ両国の民が、はるかいにしえから分かちがたく交わってきたことを確認する旅でもあった
「朝鮮人は現実よりも観念に興奮する」

炎は流れる(3) 明治と昭和の谷間 大宅 壮一 (著)
「琉球人の基本的性格が“離島性”にあるとすれば、韓国人の場合は、大陸とはなれられない“半島性”にある。
これらと日本を結びつけて、その三角関係を見るということが、第三巻の主たるテーマとなった。
いわば“歴史のルポルタージュ”の見本みたいなつもりで、筆をすすめた次第である」(あとがきより) 沖縄・韓国と日本との関係の歴史的考察に現地旅行の実体験を加え、
事態の変化に対して希望的観測と悲観的観測がともに強く出すぎる日本民族の精神構造上の欠点をさぐる。

278 :無名草子さん:2022/04/12(火) 00:16:43.35 .net
ドナルド・キーン曰く、「江戸時代の日本は儒教社会でしたね」
司馬遼太郎答えて曰く、「然にあらず、目上の者の前で煙草を吸うなど、儒礼に反するものであり、日本は、儒学を取り入れたが、儒教は社会には根付かなかった」。

279 :無名草子さん:2022/04/17(日) 10:16:14.06 .net
20年ぶりくらいで司馬の小説読んでいるが(歳月)、全然面白くない。

280 :無名草子さん:2022/04/24(日) 00:13:54.05 .net
第24回(1990年) 吉川英治文学賞受賞
大衆文学の歴史 単行本 1989/3/1尾崎 秀樹 (著)
100年余に及ぶ大衆文学の通史。円朝の講談・人情噺の速記本化、立川文庫の活況、「大菩薩峠」の執筆開始などの前史をふまえ
、大衆文学の成立から今日の隆盛までを、あまたの作家の人と作品にふれながら描きあげた著者100冊目の記念碑的労作。戦前篇、戦後篇に分冊。

大衆文学論 (講談社文芸文庫) 尾崎秀樹 (著)
白井喬二、菊池寛らを論じ、先行する大衆文学論を詳細に考察した第一部「大衆文学の理論」。吉川英治、山本周五郎、松本清張らの、作家と作品を論じた第二部「作家の年輪」。
時代小説の挿画、落語、浪曲など、大衆文化・芸能を掘り下げた第三部「大衆文学の周辺」。独自の視点で大衆文学を検証し、芸術性偏重の従来の文学観に新たな文学論を提示した画期的評論集。芸術選奨受賞作。

近代文学の傷痕―旧植民地文学論 (同時代ライブラリー) 1991/6/14尾崎 秀樹 (著)
日本軍隊の直接的暴力は非難されても、アジアの人々の思想と精神に残した爪痕については語られることが少ない。本書は、「満洲」文学、台湾文学
をめぐる戦時下の文学者たちの言動を、確実な資料にもとづいて洗い直し、日本の旧植民地に対する功罪を問い、日本の近代化の帰結としての15年戦争像を構築しようとした画期的な論稿である。

立川文庫の英雄たち (中公文庫) 文庫 1987/6/1
足立 巻一 (著)
猿飛佐助、真田幸村、塚原卜伝等の人物を生みあるいは育て、忍者や豪傑が縦横に活躍する痛快無比の世界を築いて大衆文芸の母胎となった「立川文庫」。その成立から終焉に至る事情を詳述し、その魅力の謎に迫る。

281 :無名草子さん:2022/04/24(日) 00:31:35.30 .net
菊池昌典『歴史小説とは何か』筑摩書房以下引用。司馬遼太郎について。

「つまり、司馬の歴史観は、横軸に『時間』、縦軸に『高さ』をとった鳥瞰的歴史観であり、『時間』つまり歴史空間の現在からの距離に比例して
『高さ』もきまり、俯瞰の視界範囲が拡大するということである。
司馬は、みずから、この史観をビルの屋上から下をみおろす姿に擬して
語っている。そしてまた、この『時間』と『高さ』を凝縮して表現する事件が、
革命、維新、そして戦争であることも論をまたない。
司馬の『歴史小説』はこのんで、このもっとも能率的な歴史の凝縮点に着目し、
さらに、できるだけ高い位置から下界の歴史舞台を俯瞰し、
ゴマメのように動き回る人間を観察するところから、はじまるのである」。

「これが司馬が『歴史小説』を書いて、現代小説に手をそめない理由がうなずけよう。現代では、そもそも『時間』と『高さ』の関係は成立しない
からである。……何よりもこの手法による限り、下界にうごめくゴマメのような
人間関係に視座を設定しようとすれば、もっとも視界に入りやすい、
めだつ人物が対象とされがちである。さらに俯瞰は、歴史の立体的構成を見失なわせ平板化し、歴史をささえる下層は、
彼の視界には入りがたくなる」。

「いかなる戦争も、いかなる革命も、司馬の網膜にとびこんでくるのは、
所詮エリートなのである。このことは、司馬の『竜馬がゆく』『坂の上の雲』
などの代表作のみならず、その全作品のモティーフとなっている。そうであるがゆえに、歴史の展望台に争ってのぼり、
歴史のドラマをエリートの目を通して俯瞰しようとひしめく民衆の心をゆさぶるのである」。

「本質的な対立のない社会という日本論は、どうしても、本質的な歴史の対立を示す歴史的事実について過小評価をうまざるをえない。
あるいは、日本人の残虐さ、とりわけ、国境をこえたアジア人に対する
眼をおおうような残虐さに対する無関心へとつながっていく」

282 :無名草子さん:2022/04/25(月) 00:00:27.74 .net
時代小説盛衰史〈上〉 (ちくま文庫) 文庫 2012/7/1
大村 彦次郎 (著)

中里介山「大菩薩峠」から司馬遼太郎の登場まで、半世紀に及ぶ時代小説の栄枯盛衰を豊富なエピソードと味わい深い語り口で描ききった力作。
名作が誕生する背景や秘話、大きな役割を果たした挿絵画家や作家と苦楽を共にした編集者など、作品とともに生きた人間像を掘り起こした好著。

大衆文学研究賞・長谷川伸賞受賞

283 :無名草子さん:2022/04/25(月) 00:57:14.19 .net
最近、のぼうの城とか天地明察とか
時代小説とも言えないラノベが時代小説と言われるのはいかがなものか
天地明察とかまったくの誤りばかり
少しぐらいの虚構は多めに見るが、科学的、内容的な誤りは目に余る

41 :無名草子さん:2012/10/15(月) 00:02:19.15
早晩、消えて逝くだろうから、生温かく見守ってあげれば? (笑
作者が勉強して、資料を読んで、化けるかもしれないけどね(無いだろうな
生活とか、時間の制約とか、資料を集められない担当編集員とか
理由はあるのかもしれないけど、資料を読んでないよね?
って作者がゴロゴロ  そんな昨今です。
(と昔の人も言っていたと思うけどね)

司馬の死後16年経つけど、いまだに司馬を超える作家が出てこないしなー
毎年、生きている作家よりも亡くなった作家の本のほうが売れているのは寂しいわー

45 :無名草子さん:2012/10/19(金) 13:35:25.60
もうそんなになるか
池波正太郎や藤沢周平タイプは出て来てるが
司馬遼太郎系は全くいないなあ

戦争体験必須
出来れば明治生まれで
時代設定を過去にした単なるラノベは読みたくないんで

284 :無名草子さん:2022/04/25(月) 01:55:20.08 .net
「忍術」ブームは大正年間の立川文庫によるもので、これは活劇型・お子様向けだったが、大人も熱中した。ここからマンガの忍者も出てくる。第882夜に紹介した杉浦茂もそういう系類になる。
 それに対して「忍びの者」ブームは初めて現実社会のリアリズムやニヒリズムに向けられていて、男と女の扱いも描き方も真剣になっていく。これは第352夜にも書いたように、五味康祐の『柳生武芸帖』が皮切りだった
。昭和31年の連載開始である。ここに村山知義の『忍びの者』が加わり、そこへ白土三平の劇画『忍者武芸帳』や『サスケ』が追い打ちをかけた。
 司馬遼太郎(第914夜)が直木賞をとったのも昭和34年の『梟の城』だった(ごく最近、篠田正浩が映画化した)。ぼくにはそのころの柴田錬三郎の『赤い影法師』や福田善之の戯曲『真田風雲録』も忘れがたいものになっている。
 もうひとつの「忍法」ブームはこのあと山田風太郎が風変わりな狼煙をあげ、「くの一」の流行にさえ及んだのだけれど、ここから先はすべての忍者ものがメディアを交えてごちゃごち

285 :無名草子さん:2022/04/25(月) 01:56:52.08 .net
このシリーズには大きな欠陥もあることも言っておく。文章文体に魅力を欠くことだ。新藤兼人が書いていたことであるが、村山は舞台や映画の脚本を担当すると
、抜群の要約と削ぎ落としをやってみせるそうである。けれども肉付けのほうは、『忍びの者』を読むかぎりは、あまりうまくない。話題や場面や解説が次々に変わるほうに、手法が走っている。
 これは、村山があまりに多くの領域の“前衛”を走ってきたことと関係があるにちがいなく、ということは、この物語は文学として読むよりも、映画や劇画のように読めばいいということなのだ

286 :無名草子さん:2022/04/26(火) 01:05:52.66 .net
忍者と忍術 (中公文庫) 文庫 2001/5/1
戸部 新十郎 (著)

287 :無名草子さん:2022/04/26(火) 09:47:25 .net
光文社時代小説文庫文庫オリジナル
●北斎おんな秘図
●歌麿おんな秘図
●広重おんな秘図
●写楽おんな秘図
●西鶴おんな秘図
●近松おんな秘図
●鶴屋南北おんな秘図
●平賀源内おんな秘図
著者:大下英治

288 :無名草子さん:2022/04/26(火) 09:51:37 .net
「世の人の心惑わす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな」――寛文10年(1670)、ある夏のさかりの夕方、
杉森信盛(すぎもりのぶもり)は、南禅寺裏で心中前の男女の狂おしい抱き合いを覗き見した。
美しい裸身を目に焼きつけた信盛は以後、自らも女修業を重ね、“近松門左衛門”と名乗って『曾根崎心中』など数々の名作を生む

前衛的な詩風から、“阿蘭陀西鶴”と称された井原西鶴。1682年、処女小説『好色一代男』を刊行。「色」と「金」という欲を中心に町人の心情を綴り、
新しい文学世界を切り開いた。その後もベストセラー作品を量産するが、一方で「遊里での色修業こそ、俳諧修業、人間修業」を信条に、さまざまな女性遍歴を繰り広げていた……

江戸時代に浮世絵師の最高峰と称された東洲斎写楽。しかし、この人物は寛政6年に彗星のごとく現われ、10カ月のうちに2日に1点、計40点という凄まじい作品を量産し忽然と姿を消す。
一方、女の美しさ、色気と格闘した美人絵師・歌麿には謎の空白期間が存在し、その期間は写楽の活躍時とピタリ一致する……。なぜ正体を隠しつづけたのか?

鉄蔵、のちの葛飾派の祖・北斎は15歳で吉原の門をくぐった。洒落本の木版を頼まれても、女に無知では話にならない。女体は生きた芸術品だった。
ふと知った女掏摸・かえでと結婚、その紹介で浮世絵師・勝川春章の門下となり世に出る。のちに女体修行に明け暮れ、秘画も多いが「富嶽三十六景」は光る。

289 :無名草子さん:2022/04/26(火) 09:59:47 .net
爛熟した江戸文化を背景に浮世絵師が続々誕生した。なかでも歌麿の絵の評価は高い。彼は醜男だった。遊女を知ったのも22才。
女が言った。「美人画をお描きよ。必ずモテるから」と。彼は遊郭の名妓から茶屋の女まで、
それぞれの美を探求した。春画も多く、どの男性も巨根なのは彼自身の描写とか。勇助から豊章、さらに歌麿と改名して世に出るまでの秘話を満載!

『東海道四谷怪談』を書き、歌舞伎狂言作者として最も著名な鶴屋南北。人一倍好奇心の強い南北は十四歳にして、男と女の妖しいからみ姿を赤裸々に
描写することができた。以後、「あそびを養分にしてこそ、芸や作風に艶が出る」を信条に、色どりの魔術師たちに翻弄されながら、
数々の傑作を生み出していく。あやかしの世界で客を魅了した男の奇抜な人生を描いた野心作

。「東海道五十三次」を描いた絵師・安藤広重が、晩年に艶本を描いたことはあまり知られていない。広重の描く人物は滑稽で、人間くさい。
特に女人には目がなく、艶本の基礎は、実は東海道五十三次の旅での女修業によって培われたものであった……。

江戸時代中期の本草(ほんぞう)学者・発明家にして、戯作(げさく)者・平賀源内。その旺盛な探求心は、女体の“からくり”にも向けられていた。
“興味”を抱いた女性と、あれこれ知恵を絞り、奇抜な手だてを講じては逢瀬を重ねる。海女(あま)の姉妹、物産展で見初めた薬種商の女将(おかみ)、オランダ商館長の青い瞳の娘……。

290 :無名草子さん:2022/04/29(金) 12:12:44 .net
戦国の忍び 司馬遼太郎・傑作短篇選 (PHP文芸文庫) 文庫 – 2007/4/3
本書は、司馬遼太郎が世に送り出した忍者小説五篇を収録したオリジナル編集の
短篇集である。
みじめな生活から逃れるべく伊賀を抜けた若き下忍・猪ノ与次郎の予想外の運命
を描いた「下請忍者」。
武田信玄が織田信長のもとに送り込んだ謎の忍者・知道軒道人に、伊賀忍者・蚊
羅刹喜平次が立ち向かう「忍者四貫目の死」。
真言立川流や僧兵大名・筒井家に関わる闇の中で、上忍殺しの犯人探索に乗り出
した梅ノ源蔵が兄弟子たちと闘う「伊賀者」。
優れた伊賀者として伝わる湯舟ノ耳無と岩尾ノ愛染明王が死力を尽くして対決す
る「伊賀の四鬼」。
徳川家に仕えた伊賀同心が二代目・服部半蔵に叛旗を翻した事件を、新たな解釈
で綴った「最後の伊賀者」。

291 :無名草子さん:2022/04/29(金) 12:16:48 .net
最後の伊賀者 (講談社文庫)
◆「下請忍者」
◆「伊賀者」
◆「最後の伊賀者」
◆「外法仏」
◆「天明の絵師」
◆「藘雪を殺す」
◆「けろりの道頓」
「外法仏」と「天明の絵師」と「藘雪を殺す」と「けろりの道頓」は、いわゆる「忍者モノ」ではありませんが、ある意味で「忍者モノ」というべきか

292 :無名草子さん:2022/04/29(金) 12:19:57 .net
戦国の女たち 司馬遼太郎・傑作短篇選 (PHP文
豊臣秀吉の正室として位人臣を極め、夫の死後は二人で築いた豊臣家の行く末を決定づけた北ノ政所。兄・秀吉の思惑によって結婚のみならず離婚さえも強いられ、一生を翻弄され続けたが、
その生涯を沈黙で染め抜いた秀吉の妹・旭姫。夫・細川忠興の異常な嫉妬によってがんじがらめの束縛を受けながら、毅然として己を貫き、関ケ原の折に最期を迎えたたま(ガラシャ)。
このほか、変わり者の侍大将・渡辺勘兵衛に思いを寄せる藤堂家小姓頭の妻・由紀の慕情や、一夜の出会いを大切に抱き続けて生きようとする小若の純情、さらには夫を猛烈に働かせて
財を築いた遊び好きの妻・小梅と、戦乱のなかに咲いた女性たちの人生を浮かび上がらせた珠玉の短篇集である。
●女は遊べ物語
●北ノ政所
●侍大将の胸毛
●胡桃に酒
●一夜官女
●駿河御前

293 :無名草子さん:2022/04/29(金) 17:31:20.12 .net
日本の城の謎〈攻防編〉 (祥伝社黄金文庫)
なぜ加藤清正は鉄壁の石垣を築いたか。なぜ藤堂高虎は築城の天才といわれるのか。なぜ毛利家は海岸線に城を移したのか。
なぜ江戸城は世界最大の城といわれるのか。なぜ秀吉は三木城攻めに2年もかかったのか。

日本の城の謎〈築城編〉 (祥伝社黄金文庫)
天守閣に登っておしまい……ではもったいない! ●なぜ豊臣秀吉は城攻めの天才と呼ばれるのか ●本当に武田信玄は城を造らなかったのか 
●なぜ織田信長は安土城を築いたのか ●城の絵図が正確無比な理由 ●なぜ難攻不落の小田原城が落ちたのか ●名城に今も残る人柱伝説……

日本の城の謎〈伝説編〉 (祥伝社黄金文庫)
名城と謳われる城々には奇怪な伝説がよく似合う。姫路城、江戸城、金沢城……語り継がれた秘話から見えてくる、歴史の隠された断片。
〈佐賀城〉もうひとつの化け猫伝説〈姫路城〉「甲子夜話」に記された十二単衣の妖魔
〈熊本城〉銀杏の木に宿った加藤清正の怨霊〈江戸城〉湯殿で暗殺された太田道灌の無念〈金沢城〉舵に取り憑かれた加賀騒動の張本人…

294 :無名草子さん:2022/04/30(土) 01:37:31.97 .net
日本の古代
第1巻:倭人の登場    第2巻:列島の地域文化
第3巻:海をこえての交流 第4巻:縄文・弥生の生活
第5巻:前方後円墳の世紀 第6巻:王権をめぐる戦い
第7巻:まつりごとの展開 第8巻:海人の伝統
第9巻:都城の生態    第10巻:山人の生業
第11巻:ウヂとイエ    第12巻:女性の力
第13巻:心のなかの宇宙  第14巻:ことばと文学
第15巻:古代国家と日本   別巻:日本人とは何か
編者=岸 俊男、森 浩一、大林太良
中央公論=1995年10月18日(第1巻) 他

295 :無名草子さん:2022/05/01(日) 14:38:30.26 .net
なぜ武士は禅宗を好んだのでしょうか。その理由は、普段から肉体を鍛えている武士たちにとって、禅の修行は精神を鍛える手段として有効だったからです。強い精神性を教え説く禅宗の宗教観が、死を覚悟して合戦に臨まなくてはならない武士の気質に合致していたからでしょう。

 修行を通じて自己自身を深く見つめ、理屈をこねるのではなく、直感的に真理に至ろうとする禅の思想は、頼れるのは自分の肉体だけという武士の生き様に重なったのです。

 また、新興勢力である武士は、きらびやかで高尚な貴族文化にどこか引け目と反発を持っており、それらと強く結びついた天台宗や真言宗よりも、新しく興った念仏宗や禅宗に親近感を持ちやすかったことも要因のひとつでしょう。

 しかし、武士が禅宗を重用したのは、それだけではなかったようです。中世の人達は、禅僧には死霊や妖怪などの怪異を鎮める力があると信じていました。

 それは、建長寺が埋葬地であり、処刑場でもあった地獄谷に建立されていることや、円覚寺が蒙古襲来(文永・弘安の役)で亡くなった兵士達の霊を慰めるための寺院だったこと、さらには天龍寺が後醍醐天皇の怨霊を鎮めるための建立されたことからも想像できます
武士にとって禅宗とは、精神を鍛える有効手段なだけでなく、合戦で殺めてしまった死霊や悪霊を鎮める力を持った宗教でもあったので

296 :無名草子さん:2022/05/01(日) 17:19:38.63 .net
旧版 世界の歴史 中公文庫 全16巻
1巻 古代文明の発見 貝塚茂樹 2巻 ギリシアとローマ 村川堅太郎 3巻 中世ヨーロッパ  堀米庸三 4巻 唐とインド  塚本善隆 5巻 西域とイスラム  岩村忍 6巻 宋と元  宮崎市定
7巻 近代への序曲  松田智雄  8巻 絶対君主と人民  大野真弓  9巻 最後の東洋的社会  田村実造 10巻 フランス革命とナポレオン  桑原武夫  11巻 新大陸と太平洋  中屋健一
12巻 ブルジョワの世紀  井上幸治 13巻 帝国主義の時代  中山治一 14巻 第一次大戦後の世界  江口朴郎 15巻 ファシズムと第二次大戦  村瀬興雄 16巻 現代―人類の岐路  松本重治

297 :無名草子さん:2022/05/01(日) 17:35:55.37 .net
新版 世界の歴史 中公文庫
1人類の起源と古代オリエント 大貫良夫/屋形禎亮/前川和也/渡辺和子 2中華文明の誕生 平勢隆郎/尾形勇
3古代インドの文明と社会 山崎元一 4オリエント世界の発展 小川英雄/山本由美子 5ギリシャとローマ 桜井万里子/本村凌二
6隋唐帝国と古代朝鮮 礪波護/武田幸男 7宋代社会と周辺の民族 伊原弘/梅村坦 8イスラーム世界の興隆 砂糖次高
9大モンゴルの時代 杉山正明/北川誠一 10西ヨーロッパ世界の形成 佐藤彰一/池上俊一
11ビザンツとスラヴ 井上浩一/栗生澤猛夫 12明清と李朝の時代 岸本美緒/宮嶋博史 13東南アジア史のあけぼの 石澤良明/生田滋
14ムガル帝国から英領インドへ 佐藤正哲/中里成章/水島司 15オスマン帝国とイラン 永田雄三/羽田正 16ルネサンスと地中海 樺山紘一
17ヨーロッパ近世の開花 長谷川輝夫/大久保桂子/土肥恒之 18ラテンアメリカ文明の興亡 高橋均/網野徹哉 19中華帝国の危機 並木頼寿/井上裕正
20近代イスラームの挑戦 山内昌之 21アメリカとフランスの革命 五十嵐武士/福井憲彦
22近代西欧の市民社会 谷川稔/村岡健次 23アメリカ合衆国の膨張 紀平英作/亀井俊介 24アフリカの民族と社会 福井勝義/大塚和夫/赤坂賢
25アジアと欧米世界 加藤祐三/川北稔 26ファシズムと社会主義 柴宜弘/木村靖二/長沼英世 27自立へ向かうアジア 狭間直樹/長崎暢子
28第二次世界大戦から米ソ対立へ 油井大三郎/古田元夫29冷戦と経済繁栄 高橋進/猪木武徳30新世紀の世界と日本 下斗米伸夫/北岡伸一

298 :無名草子さん:2022/05/01(日) 17:36:23.04 .net
日本の歴史
1神話から歴史へ 井上光 2古代国家の成立 直木孝次郎 3奈良の都 青木和夫 4平安京 北山茂夫
5王朝の貴族 土田直鎮 6武士の登場 竹内理三 7鎌倉幕府 石井進 8蒙古襲来 黒田俊雄
9南北朝の動乱 佐藤進一 10下剋上の時代 永原慶二 11戦国大名 杉山博 12天下一統 林屋辰三郎
13江戸開府 辻達也 14鎖国 岩生成一 15大名と百姓 佐々木潤之介 16元禄時代 児玉幸多
17町人の実力 奈良本辰也 18幕藩制の苦悶 北島正元 19開国と攘夷 小西四郎 20明治維新 井上清
21近代国家の出発 色川大吉 22大日本帝国の試煉 隅谷三喜男 23大正デモクラシー 今井清一
24ファシズムへの道 大内力 25太平洋戦争 林茂 26よみがえる日本 蝋山政道
別巻1図録 原始から平安 井上光貞、竹内理三
別巻2図録 鎌倉から戦国 竹内理三、永原慶二
別巻3図録 織豊から幕末 児玉幸多
別巻4図録 維新から現代 小西四郎、林茂
別巻2 年表・地図・読史備要 児玉幸多

299 :無名草子さん:2022/05/01(日) 17:49:57.71 .net
講談社学術文庫 日本の歴史
0「日本」とは何か 網野善彦 1縄文の生活誌 岡村道雄、改訂版有 2王権誕生 寺沢薫
3大王から天皇へ 熊谷公男 4平城京と木簡の世紀 渡辺晃宏 5律令国家の転換と「日本」 坂上康俊
6道長と宮廷社会 大津透 7武士の成長と院政 下向井龍彦 8古代天皇制を考える 大津透、大隅清陽、関和彦、熊田亮介、丸山裕美子、上島享、米谷匡史
9頼朝の天下草創 山本幸司 10蒙古襲来と徳政令 筧雅博 11太平記の時代 新田一郎
12室町人の精神 桜井英治 13一揆と戦国大名 久留島典子 14周縁から見た中世日本 大石直正、高良倉吉、高橋公明
15織豊政権と江戸幕府 池上裕子 16天下泰平 横田冬彦 17成熟する江戸 吉田伸之
18開国と幕末変革 井上勝生 19文明としての江戸システム 鬼頭宏 20維新の構想と展開 鈴木淳
21明治人の力量 佐々木隆 22政党政治と天皇 伊藤之雄 23帝国の昭和 有馬学
24戦後と高度成長の終焉 河野康子 25日本はどこへ行くのか H・ハルトゥーニアン、T・フジタニ、姜尚中、岩崎菜緒子、比屋根照夫、T・モーリス=スズキ、C・グラック

300 :無名草子さん:2022/05/03(火) 19:32:32.41 .net
江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 1992/6/1田中 優子 (著)
近世的なるものとは何だったのか―。平賀源内と上田秋成という同時代の異質な個性を軸にしながら、博物学・浮世絵・世界図・読本といったさまざまなジャンルの地殻変動を織り込んで、
江戸18世紀の外国文化受容の屈折したありようとダイナミックな近世の〈運動〉を描いた傑作評論。1986年度芸術選奨文部大臣新人賞受賞作

。第23回(2001年) サントリー学芸賞・芸術・文学部門受賞。芸術選奨文科大臣賞
江戸百夢 近世図像学の楽しみ (ちくま文庫) 文庫 – 2010/5/10田中 優子 (著)
何があってもおかしくない「江戸」時代。何が起こっても不思議でない都市「江戸」。それは、アムステルダムも蘇州もソウルも含みこむ場所であり、彫刻、絵画から手拭いまで、百のお多福、蝶、
馬が駆け巡り、ベルニーニのエクスタシーもフェルメールの新興市民も全てをるつぼのように内在させていた。それら図像を縦横無尽に読み解く快著。
カムイ伝講義 (ちくま文庫) 文庫 – 2014/5/8田中 優子 (著)
カムイ伝』を通して、江戸の社会構造を新視点で読み解く。そこから今の時代が照射される。江戸の階級制度から現代の格差・貧困社会が、
一揆の伝統から現代のデモが、そして江戸時代の肥料から未来の循環型社会が見えてくる。漁師、マタギ、綿花や蚕を育てる人々、女、子ども。自らの手で生産する、武士とは別の生き方

白土三平論 (ちくま文庫) 文庫 – 2013/9/10四方田 犬彦 (著)
自然を前にした人間の卑小さを語り、階級闘争を鼓舞、古代神話を説いて博物史に到る。慢画家白土三平の本質とは何か。幼少時から白土作品に深く魅了されてきた著者による
体系的研究の書。出自、貸本漫画時代、蜂起の哲学を描いた『忍者武芸帳』、階級差別を問う『カムイ伝』、そして食物誌まで、巨匠の全体像に迫る

301 :無名草子さん:2022/05/08(日) 22:02:00.11 .net
鬼打ち猿丸   『 黒潮の岸辺記 』改題
黒潮に洗われた男たちのたじろぐことのない性根、無骨な愛、
 朴訥な感性を、紀州弁の独特なリズムで語る雄大な海のロマン。
「 おちょろ丸 」、「 餌 」、「 鬼打ち猿丸 」、「 斑 」など九篇を収める、異色の時代小説集
。ベストセラー『 元禄御畳奉行の日記 』の著者が描く異色異彩の時代小説集
神坂氏とこの作品集 ― 解説にかえて : 司馬遼太郎
司馬さんのこと ―― 『 黒潮の岸辺 』改題にあたっての あとがき : 神坂次郎
 (「 神坂氏とこの作品集 」生原稿、 歓談写真、 和歌山城 司馬スケッチ、『 街道をゆく 』における
   神坂登場 該当文 あり

302 :無名草子さん:2022/05/08(日) 22:11:48.40 .net
黒潮の岸辺』にて第2回日本文芸大賞受賞
神坂次郎

黒鯨記

303 :無名草子さん:2022/05/11(水) 19:47:57.49 .net
象徴の設計 松本清張
幕末から明治維新への混乱と変革を経て、急速な近代化と富国強兵を成し遂げ、日清日露の戦争に勝利した明治国家が、大正デモクラシーを間に挟みつつも昭和期に入って急速に軍国主義と国粋主義に傾斜していったのはなぜか。その近代化の陰にある歪みの部分を担うのが、元勲にして巨魁である山県有朋である。
西南戦争で西郷が倒れ、大久保利通が暗殺された後、政治の表舞台は伊藤博文が担ったが、陸軍と警察は山県が担った。
伊藤が表舞台の光の部分で脚光を浴びる存在なら、山県はそれを裏で支える汚れ役、国家の治安を一手に引き受けたようなものだ。
この著作は山県が自由民権運動や政党をいかに敵視して、密偵も多用して執念深くかつ用意周到にその分裂をはかり弾圧をしていったかが丁寧に描かれている。板垣や大隈の動きも手に取るように把握して、巧みに押さえ込んでしまう。
また、松方デフレ財政が米価を下げて自由民権運動の資金源であった自作農を窮乏化させ、それが秩父事件などの暴発につながる経緯も立体的に描かれている。
とにかく山県という男は治安と民衆抑圧にかける暗い情熱がすさまじい。人間類型としては、KGB創設者のジェルジンスキーやFBIを創設して40年近く君臨したフーバーにも比すべきかもしれない。

この本の前半では、自由民権思想が軍に侵入するのを防止するため軍人勅諭がつくられる過程が詳しく描かれているが、興味深いのはフランス人権思想の洗礼を受けた哲学者の西周が起草した原案の穏健でむつかしい
文面が気に入らない山県が、東京日日新聞の福地源一郎の手も借りて、天皇が自ら直接軍人に力強く諭す端的な勅諭に変えられていくところである。
これは教育勅語にも共通するが、下級公家と下級武士によってつくられた明治国家のよりどころが天皇神格化にあったことがこの本の題名の由来であろう

304 :無名草子さん:2022/05/12(木) 13:37:38.05 .net
老いを感じる男の人生の陰影を描いた傑作長篇
心が通わない妻と放蕩息子の間で人生の空しさと焦りを感じる紙屋新兵衛が、薄幸の人妻おこうに想いを寄せ、深い闇に落ちていく。

辞書には載っていないようであるが、「文品」という言葉を目にしたことがある。真っ先に浮かんだのが藤沢周平氏の作品だった。氏の時代小説は、武家もの、市井もの、歴史ものと多岐にわたるが、
ジャンルを超えて小説としての品格がある。氏のファンであり続けてきたのは、「文品」に由来しているように思えたのである。
文品にはもちろん、文体が含まれる。氏の作品でいつも感服するのはごくなんでもない情景の描写だ。やさしい言葉を使いつつ、目の前に光景が浮かんでくる。そこに、心象や暗示が微かに込められているときもある。
本書『海鳴り』には、海や川の情景が幾度か登場する
《そして空は、よく見ればゆっくりと一方に動く黒雲に埋めつくされているのだった。街道には、ほかに人影はなかった。歩いているのはそのころはまだ新助と言っていた、新兵衛ただひとりである。
 笠を押さえながら、新兵衛はいくぶん心ぼそい気分になりながら歩いていた。そのとき新兵衛は、見えるところにくだけては散る磯波とはべつの音を耳にした。音は沖から聞こえて来た。
 そのときはじめて、新兵衛は海に眼をやったのだが、思わず声を出すところだった。沖の空は、頭上よりも一層暗く、遠く海とまじわるあたりはほとんど夜の色をしていた。音はそこから聞こえて来た。寸時の休みもなく、
こうこうと海が鳴っていた。重重しく威嚇(いかく)するような、遠い海の声だった》
その文体に導かれて、読者は物語へと誘われ行くのである

305 :無名草子さん:2022/05/13(金) 14:23:14.39 .net
右門捕物帖  佐々木味津三
岡本綺堂『半七捕物帳』、野村胡堂『銭形平次捕物控』、佐々木味津三『右門捕物帖』、城昌幸『若さま侍捕物手帖』と並んで五大捕物帳
捕物小説という種目が岡本綺堂の『半七捕物帳』から始まったが
推理小説家の都筑道夫は、本作について、『半七捕物帳』と比較して「がぜん派手になるかわりに、あるのは発端の異常性だけ」「きわめて魅力のある謎が、論理をまったく無視して、
いいかげんに解決されるありさまには、泣きたくなるくらいで、もう推理小説としては読むにたえない。
むしろ、右門のせりふの珍妙さには笑いがこみあげてくるし、その愚かな言動を地の文が、なんたる明察、疾風迅雷の行動、と持ちあげているおかしさで、ロバート・L・フィッシュの「シュロック・ホウムズの冒険」の
ようなナンセンス・パロディとしてなら、かなりの評価ができるだろう」[2]と評し、「むっつり右門の成功によって、捕物帳は推理小説から、怪奇時代小説に変貌した」

奉行所から十手を授かる少数の正式な十手持ちは“小者”と呼ばれ、大多数を占める定町廻り同心が個人的に雇用する非公認の“御用聞き”とは区別されていた。正しくは江戸では御用聞き(ごようきき)、
関八州では目明かし(めあかし)[注 1]、上方では手先(てさき)あるいは口問い(くちとい)、
と各地方で呼称は異なった。岡は「岡目八目」と同じく脇の立場の人間であることを表し、公儀の役人である同心ではない脇の人間が拘引することから岡っ引と呼ばれた。岡っ引は配下に手下、下っ引と呼ばれる子分を持つ事も多かった。
本来「岡っ引」は蔑称で、公の場所で用いたり自ら名乗る呼称ではない。下っ引きを配下とすることから「親分さん」が正しい呼称だが[2]、時代小説や時代劇で用いる事例が多い

銭形平次の魅力を司馬遼太郎が「街道をゆく本所深川散歩・神田界隈「叙述がすずやかで、すだれごしに上等な夏の料理をたべているような気がした」と書いている
ただし、同時代の推理小説家の評価は低く(例えば江戸川乱歩、木々高太郎など)、捕物帳は推理小説ではないとの論争を招いたこともある。

間違いだらけの時代劇 (河出文庫) 1989/7/1名和 弓雄 (著)
現代語訳 雑兵物語 (ちくま文庫

306 :無名草子さん:2022/05/13(金) 19:57:50.50 .net
現代人は、戦国大名は独裁者と考えがちだが、実際は小さな国を持つ国衆の代表に過ぎなかった。国衆は起請文(誓約書)を交わし、人質を出して戦国大名と盟約を結び、領国の自治権を認めてもらう代わりに戦時には兵を出す約束をした。
国衆は誓約を破ったり、より良い条件を出す戦国大名が現れたりすれば離反するので、国衆への気配りは欠かせなかったのである。
 作中では国衆が村重の謀叛を支持しているが、これは村重の軍略を聞き勝利できると確信したからにほかならない。ただ国衆は不利になれば寝返る危険があるので、村重は毎日のように軍議を開いて状況を報告しながら、
裏切りの早期発見に努めている。宮仕えをしている読者なら、中間管理職的な苦労が多く、上に立つがゆえに相談相手が少なく、妻・千代保との会話に安らぎを感じる等身大の村重に共感するかもしれないが、これが最新の研究で見えてきた戦国大名のリアルなのである。
 また剣術が武士の嗜みになるのは、太平の世になった江戸時代以降のことで、戦国時代は確実に敵の鎧が貫ける鑓、弓、鉄砲が主要な武器だった。鑓も足軽が使う三間鑓(三間は約5.45メートル)
と武将が馬上などで使う鑓は別物で、長く扱いが難しい三間鑓は、隊列を組んで上から叩きつけて敵陣を崩したり、鑓衾を作って敵の侵入を阻止する集団戦闘に使われていた。弓は鉄砲に取って代わられた印象も強いが、連射が簡単なので重宝されたようである。

307 :無名草子さん:2022/05/14(土) 16:52:50.11 .net
イギリスも、インドの「セポイの乱」(1857年)、中国の「太平天国の乱」(1851年〜64年)など、植民地支配に反抗する“てごわい民族運動”に直面したこともあって、我が国に対しては“柔軟な政策”をとっていました。日本の統治能力を認めつつ、「日本人の手による政変」の後押しにはこのような背景があったのです。

少し説明が長くなりましたが、我が国が「明治維新」を成し遂げた頃の国際環境は、このように“西欧列国勢力の空白期”といっても過言でない“一瞬の幸運”に恵まれたと言えるでしょう。

308 :無名草子さん:2022/05/19(木) 16:46:13 .net
司馬遼太郎は、権力側からの寵愛を受け、彼らの望む歴史観をドラマチックに仕立て、ベストセラーを生み、大河ドラマに採用され、国民的な支持を得てきたんだと思いますが、この場合の権力者とは誰になりますでしょうか??
ググってみたのですが、核心的なソースや文献がみつからなかったので、もしあれば教えて頂きたいです。

309 :無名草子さん:2022/05/20(金) 16:27:29.86 .net
「室町」の「無頼」だったのでしょうか。

垣根 この時代を調べると現在の日本、特にバブル経済が弾けたあと二十年以上経ったいまの日本と社会の様相が酷似しているんですね。為替や信用取引が登場し、馬借などの輸送機関が生まれ、農業生産高が飛躍的に上昇し、
人と物と銭がめまぐるしく回り始めます。また日明貿易を初めとした海外との交易が盛んでグローバリズムの波に洗われ、
日本人の生活空間の原型となる床の間や、茶の湯や侘びさびなどが誕生し、経済的にも文化面でも国力は増していました。にもかかわらず公家と武家、神社仏閣は好き勝手に利益を吸い上げる仕組みを築き上げ、国民の間にかつてないほどの格差が生まれ、
その現状に対して政府である室町幕府はまったくの無策でした。鎌倉や江戸時代と違って人口が一極集中化した京の都は、職を失った牢人や流民で溢れ返っていた。応仁の乱が勃発する前、
何も持ってなかった者が、どのように世に立ち、いかにして個人として生きたかに強く惹かれました。

310 :無名草子さん:2022/05/20(金) 21:52:08.30 .net
堺屋太一
織田信長の天才性である。
筆者のいう「1560年体制」=兵農分離、全国統一市場、政治が宗教への優位を確立した絶対王制等々、信長のつくりだした「しくみ」は16世紀日本を世界で最も富強な国のひとつにした。(その良い証拠が、文禄・慶長の役である。さほどの必要もなかった戦に海を越えて大軍を派遣できたばかりか、戦に負けても国力が疲弊していない。)
安土桃山の日本は既に中世を脱し「近代初期」と呼んでいい段階に達していた

秀吉は天下布武を達成した。日本全土を統一、貨幣経済を普及させ、自ら関白、太政大臣となり、太閤と呼ばれた。十六世紀のうちに、これほどの完全な中央集権型の絶対制を実現した国は世界中に見当たらない。しかし、夢を達成したことは、夢を失ったことでもある。この瞬間から戦国バブルの崩壊が始まる。

311 :無名草子さん:2022/05/21(土) 16:27:37.54 .net
文化面でも、義教の趣味がために和歌と蹴鞠が優遇される一方で琵琶法師や闘鶏(後花園天皇は好きだった)が抑制される一方で義教死後に再び闘鶏ブームが起きたりする話や
、中国では当時軽視されていた牧谿の水墨画の発見、雪舟が冷遇されたがゆえに自由に絵をかけ、小栗宗湛は義政に好まれたがゆえに自由に絵がかけなくなってしまったという対比など、なかなか面白い。
こうした流れの中にも、幕府が唐物を独占していた状況が財政難で困難となるという背景がある。

312 :無名草子さん:2022/05/22(日) 15:55:40.82 .net
『室町無頼』
既成の歴史観をくつがえす、今年度ベスト必至作![レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
「おい、読み終わったかい?」
「ああ、思った通りの大傑作さ。今年のベスト10に入ることは確実だ。この作品が本誌に連載されはじめたとき、私はいかん、と思った。もちろん、駄目という意味じゃないよ。
こんな面白いものを毎週、少しずつ読まされたら欲求不満になってしまう。単行本にまとまってから読もうと思ったわけさ」
「辛口の君にしては大絶讃じゃないか。で、テーマは何だい」
「この世に生きとし生けるものすべてが、納得のいく人生を歩めますように、というこの本は祈りの書だ。無頼の意味もそこにある」

応仁の乱前夜の状況はもっとひどい有様で現代の格差社会と二重写しにされ、蓮田の起こした相国寺(しょうこくじ)大塔での一揆の場面なんぞ、
これまで歴史・時代小説で描かれてきた一揆の概念を根底からくつがえしてしまっている。何ごともはじめてづくしの小説なんだって―」

313 :無名草子さん:2022/05/22(日) 20:58:15.46 .net
その財力を賭けて粋を競った相手の紀ノ国屋文左衛門は、悪銭廃止令によって没落した。勝ち残った奈良屋茂左衛門の胸を一陣の風が吹き抜けていった。紀文と共に一つの時代が過ぎていったようだ

……(表題作「霜の朝」)。

314 :無名草子さん:2022/05/27(金) 13:18:12.09 .net
昭和40年の作品ですか。「真田太平記」よりだいぶ前の作品です。後講釈になりますが、おそらく著者の模索中の実験作といったほうがいいのかもしれません。後の「真田太平記」とだぶる時間(一年から2年)を凝縮して取り扱っているのですが、
作品は全体としては不思議なことに緊張感に欠けています。様々な登場人物が出てきますが、個々の人物の造型はどれもいまいち印象に欠けます。
一つには丹波大介の設定に問題があったようです。甲賀という組織から外れてしまった設定にしたため、存在感と動機付けに欠けてしまったまま、この関ヶ原という天下分け目の戦いにのぞんてしまうという羽目に陥ってしまいました。大介のあいまいな一匹狼という忍びの設定はあまりにも
現代人の価値観を投影したものであり、現代とは違う戦国の時代設定の中では必然的にそのリアリティを失ってしまったようです

そして連載小説の性なのでしょうか、悲しいかな結末はあっという間に早送りされ、大介とのかかわりのある「ある女性忍び」もあっという間に登場しては処理され消えてしまいます。

ただ後の「真田太平記」にも使われるディテールはかなりの部分本書で出尽くしています。これらの実験と失敗を通じて、あの骨太の「narrative」の型とモティーフが生み出されたと考えれば、著者にとっても必要不可欠なステップだったのかもしれません。

315 :無名草子さん:2022/05/29(日) 20:11:49 .net
んまあ石組みなら東南アジアの寺院とかヨーロッパの城やピラミッド、巨石文明、インカの剃刀も入らないようない石組みの方が凄いと思うけどね。

土塁を石で固める石垣は、単純に石やレンガを摘んで作る城壁よりも余程強固で、築城技術では当時世界の最先端とも言える技術なんだぞ。
特徴は、大砲打ち込まれても破壊されない強度。
西洋の城も、大砲戦が増えてからは、石垣のような土塁と石の組み合わせで作られるようになっていくんだから。
日本の城は、百年に渡る戦国時代と、2度に渡る海外遠征、当時世界一と考えられる数の鉄砲をはじめとした火器に鍛え上げられた堅城だよ。
戊辰戦争や西南戦争といった、数百年後の兵器を用いた戦争ですら、大規模な城は直接攻撃による落城はほとんどしていないんだから。

大阪城は天守がコンクリだけど、石垣や堀の壮大さは日本一
天守はシンボリックな建物ではあるけど、
要塞としての機能は、単に大きな塔以上のものではないから、元々天守の無い城ってのも結構ある。
石垣、堀、城門といった主要施設が健在なら、城としては実質の機能は十分と言えるよ

日本は地震の関係で石造りの壁面がないから木彫りにしていただけで、彫刻の技術なら西欧よりはるかに精緻なものがあったよ。元々石は脆くて彫刻の素材には向かない。
セメントが発明され現代の工法になってから後も、日本のコンクリート建築技術は世界のトップにある。現在の耐震工法というのも日本が発明したものだしね。

日本の「城」は軍事施設であって、海外の貴族が住まう家としての「城」とはまた別物

大阪城はお堀と大きさを体験する所だよ。んで、姫路城が本物の天守閣を見る所

日本の多湿な気候では、石の建築ではカビや冷え・通気性の問題がある
多湿ではない英国等の建築でも、採光と冷えの対策を両立させるために、高く幅の狭い窓のデザインと、何十cmにもなる厚みの壁が巨大建築の主流
またこれらの窓や壁の仕様は、自重で潰れやすい石建築の耐久性をも補強する
しかし、それらが可能なのも、ひとえに地震の発生数と災害規模が、日本に比べると殆ど無いようなものだからだ

日本庭園は遠景を借景して完成形になる
海外の日本庭園はよくできていても遠景がマッチしてないんだよな。その辺がイマイチに感じるなー。

316 :無名草子さん:2022/06/02(木) 13:22:23.05 .net
塵劫記 (岩波文庫)
江戸初期の和算家吉田光由(1598‐1672)の主著。書名は仏教語の「塵点劫」に由来する。大数・小数の名、九九の掛算から、
米や材木の売り買い、金銀の両替、検地、河や堀の普請といったさまざまな実用問題と、継子立て、ねずみ算などの数学遊びを図とともに豊富に載せており、全体がしっかりとした数学的体系をなしている

算法少女 (ちくま学芸文庫 1974年に『算法少女』(岩崎書店)でサンケイ児童出版文化賞を受賞

父・千葉桃三から算法の手ほどきを受けていた町娘あきは、ある日、観音さまに奉納された算額に誤りを見つけ声をあげた…。その出来事を聞き及んだ久留米藩主・有馬侯は
、あきを姫君の算法指南役にしようとするが、騒動がもちあがる。上方算法に対抗心を燃やす関流の実力者・藤田貞資が、あきと同じ年頃の、関流を学ぶ娘と競わせることを画策。はたしてその結果は…。安永4(1775)年に刊行された和算書『算法少女』の成立をめぐる史実をていねいに拾いながら、豊かに色づけた少年少女むけ歴史小説の名作。江戸時代、いかに和算が庶民の間に広まっていたか、それを学ぶことがいかに歓びであったかを、いきいきと描き出

317 :無名草子さん:2022/06/30(木) 14:59:10.99 .net
中公文庫日本の近代シリーズ
(1)開国・維新 1853〜1871
(2)明治国家の建設 1871〜1890
3)明治国家の完成 1890〜1905
(4)「国際化」の中の帝国日本 1905〜1924
5)政党から軍部へ 1924〜1941
(6)戦争・占領・講和 1941〜1955
7)経済成長の果実 1955〜1972
(8)大国日本の揺らぎ 1972〜

中公文庫シリーズ日本の近代 -
「逆説の軍隊」 捕虜虐待や非戦闘員殺害、終戦時の森師団長殺害など、ファナティックで特殊なイメージの強い昭和の日本軍だが、明治時代の北清事変や日露戦争では軍紀の厳正さと国際法遵守で高い評価を得た。この変容は何が原因か。様々な逆説を内包する日本軍の謎を「近代化」と「成長」をキーワードに解明する
「官僚の風貌 」
「日本の内と外」 開国で国際社会に編入された日本は、欧米が牛耳る「世界」を必死に生き延び、日清・日露の戦を勝ち抜いて二十世紀を迎えた。だが新しい世紀は、世界大戦の惨禍と、共産主義という新たな局面で大きく揺すぶられていた。第一部「列強への途」、第二部「共産主義の世紀」と二部構成で描く近代日本の歩み。
「メディアと権力」
「都市へ」(西欧文明との出会いは、日本の佇まいに何をもたらしたのか。それは、「場所」として存在した日本古来の建築物が「空間」と出会うことによって、都市が近代へと脱皮する出発点だった。変容する都市の風貌から、日本人のアイデンティティの軌跡を検証する。
「新技術の社会誌」
「企業家たちの挑戦」 三井、三菱、住友など財閥が勃興し、古河市兵衛や大倉喜八郎ら政商が活躍した明治を経て、大正昭和の大衆化の時代に消費者本位のビジネスを展開した小林一三、松下幸之助、本田宗一郎まで、大変動の時代をビジネス・チャンスと捉え時代を先どりした経営者たち。彼らの手腕と発想はどう培われたのか

318 :無名草子さん:2022/06/30(木) 15:14:05.98 .net
第7回(1985年) サントリー学芸賞・政治・経済部門受賞
米国の日本占領政策―戦後日本の設計図 五百旗頭 真 (著

吉田茂賞受賞作
日米戦争と戦後日本 (講談社学術文庫) 五百旗頭 真 (著
真珠湾」から半年余、わが国が緒戦の戦勝気分に酔っていた頃、米国ではすでに対日占領政策の検討に着手していた

吉野作造賞受賞作
占領期 首相たちの新日本 (講談社学術文庫、五百旗頭 真 (著
敗戦2日後に誕生した東久邇内閣を皮切りとして、7年後の占領統治の終焉までに、幣原、吉田、片山、芦田、再び吉田と5人の首相、6代の内閣が生まれた
通史的に描くのではなく、5人・6代の首相たち(吉田のみ再度、政権についた)が、何を想い、何を資源として、
この地に堕ちた国を支え上げようとしたか。そして何に成功し、何に行き詰まったか。

319 :無名草子さん:2022/06/30(木) 21:35:34.05 .net
江上波夫 『騎馬民族国家
司馬遼太郎は、江上を“最も敬愛する人”と言い、「独自の仮説なくして学問なし」
という信念の司馬は、“日本の考古学者で、40年の時に耐えうる仮説を提示し得た学者”

320 :無名草子さん:2022/07/01(金) 02:07:54.38 .net
、司馬遼太郎氏の朝鮮(韓国)関連紀行文の 3 部作 − 「韓のくに紀行」「耽羅紀行」「壱岐・対馬の道」
− 研究の一環であって、朝鮮関係の表現を中心に司馬氏の朝鮮認識について探ってみるのに目的がある。
その内容は、1) 日本神道の原型は対馬にあり、対馬の古神道は朝鮮に定着した古代大陸信仰の影響を受けて
いたと見ていること 2) 「遣新羅使」の存在確認と単発性・無成果であった役割の分析 3) 豊臣の朝鮮出兵の
無謀さと日韓合併の間違いの指摘 4) 中西氏の山上憶良の百済流民説への賛同 5) 古代朝鮮半島の文字(イド
ゥ等)が存在していないことへの残念な遺憾表明 6) 元・高麗連合軍の日本侵略過程説明 7) 朝鮮儒教文化の
前近代性と閉鎖的弊害の指摘等である

壱岐には、唐人 ― 漂流朝鮮人であろう ― を祀った古趾が多い。海のむこうから来た客
人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。<p. 35, 10>

「遣新羅使」の存在については韓国でもほとんど取り扱われていない。

ともかくもこの遣新羅使は日本の政治史にはどういう貢献もしなかったが、大坂湾を出て以来、
船泊りのつどおそらく全員が歌を詠み、そのうちの秀歌を記録し、保存し、ついに帰還まで百四十
五首という大量の秀歌を『万葉集』に入れたということで、文学史上の大きな業績をのこしたこと
になる。<p. 38, 6

321 :無名草子さん:2022/07/01(金) 02:20:31.51 .net
○ 姓についていえば統一新羅などは徹底していた。唐という巨大帝国からの圧迫をよりすく
なくし、利益をより多くひきだすために外交の妙のかぎりをつくしたが、ついには朝鮮古来の氏族
のよび方や名のつけ方まで廃し、中国式にしてしまった、と私は思っている。<p. 44, 9

秀吉の朝鮮侵略のときに連れて帰った唐人に屋敷地をあたえて住ませたという。かれらに豆腐の
専売権をあたえて他の者にはやらせなかったというから、高知の豆腐はひょっとするとこの系列
が相当ながくつづいたかもしれないのである。豆腐は、朝鮮語で dubu という。<p. 75, 11

大まかなその理由は、中国、朝鮮の王朝を成立させている古代的農業社会が、地球上の他か
らの経済や文化の刺激によってこわれることをおそれたのであろう。徳川日本の鎖国は、いうまでもなく三代将軍家
光の代の十七世紀からだが、それまでの日本人には私貿易においても海外渡航においても、原則的
に自由であった。 ≪中略≫ 刺激のまっただなかでにわかに鎖されたからこそ特異な文化が醞醸
されたとみるべきで、古くから鎖国だった中国・朝鮮では、鎖国が常態であったために、古代が温
存されつづけただけであった。 条件の相違にすぎない。<p. 102, 8>

幾万でなく幾千であったとしても、それほどの人数を連れて帰ってしまったかと驚かされる。
日本側にとってこの朝鮮侵略は国内を疲弊させただけでなんのもたらすところもなかった。た
だ室町期からつづいた茶の美術の隆盛期にこの侵寇戦争は起こっている。朝鮮の民衆が用いるめ
し茶碗や雑器が、海をわたって日本の美意識の中に入りこむと、美学という人類が持った最高の錯覚に照射されて宝石以上のかがやきを持った。<
p.109, 4>
○ ともかくも徳川家は自分の手が汚れていないために、送還を約束した。が、いったん「宝
石」をうむひとびとを抱え込んだ諸藩はこの勧告をきかなかった。≪中略≫
双方、相互主義の原則をもちつつも、さまざまな点で凹凸があった。日本側が沿道の諸大名のは
しばしにいたるまで朝鮮通信使を重んじすぎ、一方通信使のほうは儒教的尊大さを持しすぎると
いうこともあった。儒教国と非儒教国の差ということもあるであろう。<p. 110, 15>

322 :無名草子さん:2022/07/01(金) 02:31:00.43 .net
ただ山上憶良は、当時の人としては文明の感覚や人間意識の点でかけはなれた ― 日本離れした ― ところがあり、荒雄の死について
それを侠として感じうる精神と教養をもっているのは、あるいはこの人だけではなかったかとも思われる。
山上憶良は百済人の子ではなかったかという推定を、前期の中西進氏は持っておられる。 ≪
中略≫ ほとんど百済ぐるみが日本にひっこしたのではないかという想像が『日本書紀』の記述に
よって可能だが、中西氏は『山上憶良』で綿密に論考されつつ、やがて、自分の推定にもし従うと
すれば、として、憶良は百済でうまれた、とし、四歳のとき「故国滅亡の嵐の中を」父憶仁につれられて日本に渡航した、としておられる。<p. 137

○ 卜占という古代における一種の科学を含んだ日本神道は、壱岐・対馬からはじまっているのである

○ 対馬の場合、済州島よりも朝鮮半島に近いのに、『魏志』の倭人伝という三世紀の世界を書いた史書でも、「対馬国」として邪馬台国に属
している。邪馬台国から地方官として卑狗(彦のこと?)卑奴母離(夷守)が派遣されている、と
書かれているが、要するに上代から倭人世界の濃密な一地域であり、朝鮮世界に属したことがない。
両島の歴史地理の関係は、ふしぎといえばふしぎである。<p. 161, 1>

こんど公開されたこの国務省外交機密文書によれば、一九五一年七月九日、韓国の駐米大
使ヤン氏が、当時の国務長官ダレス氏に会い、対馬の領有を主張した、となっている。堂々とした外交交渉である。≪中略≫
室町期から戦国にかけて東アジアの沿岸に出没する倭寇のうち、朝鮮沿岸を専門とした者のほとんどは、対馬人であった。<p. 163, 2>

○ 朝鮮は中国以上に中華思想がつよく、むしろ激烈である。中華思想をもつ者でけが「人」
であり、持たないのは夷狄であり、それを漢字文化としてしか持っていない中途半端な日本人の
場合、特殊人として「倭」としか言いようがない、というのがその基本思想であろう。<p. 165, 4>
○ これを一挙に簡素化したのは、将軍の補佐役だった新井白石(一六五七 〜 一七二五)で
あった。かれは朝鮮通信使の傲岸さをたしかに憎んでいた 8)。<p. 168, 10>

323 :無名草子さん:2022/07/01(金) 02:47:32.07 .net
○ 日本の儒学は、中国や朝鮮のように科挙の制がないために、国を挙げてやるということは
なかった。いわば専門家にまかせるという主義で、古く京都の朝廷で博士家をその専門の家として、
維持させた。鎌倉になって武家政治が出現すると、統治学としての儒学はおとろえた。日本の武家政
治というのは、中国でいう法家にちかい。<p. 171

○ 朝鮮と日本の関係は、ときに個人レベルでの友情も成立させがたいほどにむずかしい。そのことがすでに十八世紀初頭から存在している

朝鮮は、中国大陸に隣接しているため国をたててゆくについて困難な環境にあった。朝鮮独自の年号を用いたこともあったが、国家の安全の上か
ら中国を宗主国とし、その年号を用いたことのほうが多い。といって十九世紀のヨーロッパ的概念
における属邦ではなく、単に宗支 ― 本家・分家 ― という儒教的礼教を原理とするそれであったといっていい。<p. 184, 11>

中華とは簡単にいえば対外意識において他国を野蛮人とみる意識なのである。この時代もその
後も朝鮮の公文書では、日本の室町大名や小名はみな倭酋とか巨酋とかいった表現でかかれてい
る。酋とはいうまでもなく未開人のかしらという意味だが、ひるがえっていえばそのように書かね
ば自国が中華、小中華にならない。中国、朝鮮が凄惨な停滞におちいったのはこのためであった。
古を尚ぶという停滞こそ儒教的には正しい姿であり、相手を正視する視点をもたず野蛮国でもって片づけてしまわねば、自分の礼教が立たない。

324 :無名草子さん:2022/07/01(金) 02:49:14.30 .net
○ 古朝鮮は、古日本と同様に、固有の文字がなかった。古朝鮮が記録時代に入るやいなや、
記録には漢語、漢文を用いたことが、それらを日本に伝える上で日本のためにはなかった。しかし
朝鮮にとっては記録を中国語に置きかえて ― それも鮮やかすぎるほどの漢文で ― おこなう
ために、後世にとっては古朝鮮語がどんなものであったか、わからなくなってしまった。古曰本の
場合、『古事記』と『万葉集』がのこされたおかげで古語が中学生の学習書の中にまでコトパと
して生命をもちつづけている。もし古朝鮮のことが書かれた『三国史記』が朝鮮語によるものであ
ったなら、日朝の比較言語学というのはよほどおもしろいものになっていたにちがいない。
古朝鮮語というものが、せめて地名にでも残っていればすばらしいものであったろうと思うの
である。統一新羅王国は対中国政策で惨憺たる苦心をしたことは大いに評価されねばならないが、
その大政策の一環であったのかどうか、全朝鮮の地名をすべて漢語漢音にしてしまうという思い
切った文化大革命をやってのけた。このため、地名からも古朝鮮語が消えた。もし地名にそれが残
っていれば、対馬にきて古朝鮮の地名との異同を考える楽しみがあるのだが、いまとなれば対馬単独で考えざるをえない。<p. 236, 4

325 :無名草子さん:2022/07/03(日) 14:02:55.63 .net
司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。

326 :無名草子さん:2022/07/05(火) 01:16:27.27 .net
日本神話と古代国家 (講談社学術文庫) 直木 孝次郎 (著)
神話の条件として著者は、「神々の物語が、一部の人の創作でなく広く民衆に支持され、宗教性と呪術性をもつこと」をあげる。
「記・紀」編纂の過程で、また明治以後の歴史教育のなかで、日本神話はどのような潤色が加えられたか。
天孫降臨の話やヤマトタケル伝説、三種の神宝などの具体例をもとに、綿密な文献学的方法による研究を進め、古代国家の歴史と形成に果たした神話の実体を明らかにした労作。

日本古代国家の成立 (講談社学術文庫) 直木 孝次郎 (著)
四世紀の崇神天皇に始まる三輪政権が、応神天皇を始祖として瀬戸内海の制海権を握った河内政権により征服される過程や、壬申の乱の後に天武天皇が実力で
全権を掌握するまでを綿密に解説。また稲荷山古墳鉄剣銘を独自に読み解き、雄略天皇の日本統一をめざした戦いを明らかにするなど、古墳や遺物に秘められた謎を著者ならではの緻密な分析と推理で解く

327 :無名草子さん:2022/07/05(火) 12:20:29.88 .net
岡田英弘先生(東京外国語大学名誉教授)の日本史等に対する見方(歴史観)についてである。一点目としては、日本の歴史を「世界史の一部分」として捉える、ということである。逆に言えば、日本の古代史論議における最大の「欠陥」は、「日本古代史を世界史の観点から見ようとしないこと」(p.11)であろう。
次に二点目として、「歴史は、何よりもまず…(中略)…書く人の主張の表現」であり、「歴史は決して、単なる事実の記録ではなく、何かの立場を正当化するために書くものである」(前掲『日本史の誕生』序章)ということである。さらに付け加えるならば、「歴史」という文化は、
岡田先生の区分けによると「地中海型」と「中国型」に大別でき、前者は「対立」を、後者は「正統」をモチーフとしており、我が国最初の歴史書である『日本書紀』を見た場合、当然のごとく「中国型」をモデルとしてい

328 :無名草子さん:2022/07/05(火) 12:27:13.95 .net
葛城と古代国家 (講談社学術文庫) 文庫 – 門脇 禎二 (著)
統一王朝大和朝廷が成立する以前、大和には倭国(やまとのくに)と葛城国(かづらきのくに)が存在していた。百済からの渡来人、蘇我氏とその一族が定着した地、海外の新文化の流入路で数多くの古墳が残る葛城は、
どのような国だったのだろうか。考古学の成果と諸史料の綿密な検討によって、その支配の実態と大和との関係を系統的に解明する。
《付》河内王朝論批判

古代出雲 (講談社学術文庫) 文庫 – 門脇 禎二 (著)
1984年、出雲の弥生中期の遺跡神庭荒神谷(かんばこうじんだに)から大量の青銅器が発掘され、世間の耳目を聳動(しょうどう)させた。
銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本、初の同時出土。古代の出雲には、どのような勢力が存在したのか。
大和や吉備との関係は、どのようなものであったのか。考古学上の新発見と数多くの論考・新説を検討し直し、著者独自の視点から、鮮明な古代出雲像を提示する。

大和朝廷 (講談社学術文庫) 文庫 – 上田 正昭 (著)
大和朝廷の起源は、今も多くの謎ち包まれている。本書は古代国家成立の経緯を、2世紀後半の倭国動乱から説き起こし、卑弥呼が登場する女王の世紀を経て、
4世紀三輪王権確立による倭国の発展と5世紀の河内王朝への推移を解説。さらに大伴氏など有力豪族と大王家との争いによる王統断絶と蘇我氏の進出までを
、綿密な文献批判と大胆な推理で考察した。古代史研究にあらたな問題提起をした力作。

329 :無名草子さん:2022/07/05(火) 12:40:49.29 .net
渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か (角川選書) 単行本 – 2013/6/22上田 正昭 (著)
日本の歴史を考える上で欠かせない、大陸から来た人びと。百済・加耶系の漢人、新羅系の秦人、高句麗系の高麗人などは、いつ、どのように登場し、
どういった役割を果たしたのか―。彼らの入国を意味する「帰化」と「渡来」の語を明確に区分、古代史に風穴をあけた泰斗による、
「渡来人と渡来文化」の集大成。近年の発掘調査の成果も踏まえ、古代国家形成にかかわる渡来を、東アジアという視点でダイナミックに提示する。

帰化人 古代の政治・経済・文化を語る (講談社学術文庫) 関 晃 (著)
四~五世紀、楽浪・帯方から渡来し、大和政権に貢献した人々。六~七世紀、律令国家成立に寄与した韓民族。日本が新しい段階に足を踏み入れ、
豊かな精神世界の展開を可能にする、大陸や半島の高度な技術や知識をもたらした彼らこそ、古代の日本人そのものだった―。帰化人の実像に迫り、古代東アジア史研究に多大な影響を与えた、不朽の金字塔。

日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫) 文庫 – 2005/6/1井上 光貞 (著)
謎にみちた日本民族の生成を神話学・歴史学・考古学の最新の成果によって解明、神話の中の真実を探り、女王卑弥呼を語り、日本の歴史の夜明けを描く。
第二次大戦後、画期的な進歩を示した歴史学と発掘成果いちじるしい考古学とは、古事記・日本書紀の世界に、まったく新しい光を投げかけた。
これら諸学を総合的に協力させることにより、従来の歴史書には見られない鮮明さで、古代日本はその姿を現すこととなった。巻末に森浩一「四十年のちのあとがき」を付す。

飛鳥の朝廷 (講談社学術文庫) 文庫 – 井上 光貞 (著)
倭王武にはじまり、仏教伝来と聖徳太子の登場、大化の改新を経て白村江の戦い、壬申の乱と続いた動乱の時代。中国・朝鮮と濃密な関係にあった日本は、
東アジア世界の激動の中、文化の飛躍的発展を背景に古代天皇制を確立し、統一国家への歩みを進めた。『日本書紀』など史料の精緻な分析により、史学界の泰斗が六~七世紀の日本の姿を鮮やかに描き出

330 :無名草子さん:2022/07/26(火) 21:18:14.78 .net
慶応長崎事件 単行本 1985/8/1司馬 遼太郎,
発表媒体はまちまちながら昭和30年代後半に書かれた『慶応長崎事件』『薩摩浄福寺党』『倉敷の若旦那』『五条陣屋』『おお、大砲』『壬生狂言の夜』『侠客万助珍談』『けろりの道頓』
を収める講談社(当時)独特の短編選集。
現・講談社文庫ではこの外題・構成ともに失われており、更には『おお、大砲』だけは版権が離れたのか、同文庫のどの短編集にも見当たらなくなっている(要確認)。その意味で貴重(?)な本書は、
大阪の陣で幕を閉じる巻末の『けろり〜』を除いて、旧幕時代の極末期、文久から慶応にかけての数年間に起きたエピソード的な小事件を並べた連作―時系列通りではないが―の体裁。

331 :無名草子さん:2022/08/01(月) 11:22:51.23 .net
江戸近郊道しるべ 現代語訳 (講談社学術文庫)

文化・文政・天保の頃、徳川家御三卿のひとつ清水家に仕えた武士が、多忙な勤務の合間に楽しんだ日帰り散策紀行。大都市・江戸も一歩郊外に出れば、
豊かな自然に囲まれていた。起伏に富む地形、田畑と湿地、深い森に佇む社寺旧跡と素朴な人々。ささやかな名所・絶景を求めて歩く喜びに満ちた、時空を超える江戸東京お散歩ガイド。(解説・田中優子)

332 :無名草子さん:2022/08/01(月) 21:28:49.23 .net
ロシア人によるロシア国家の決定的な成立は、わずか15、16世紀にすぎないのです。若いぶんだけ、国家としてたけだけしい野性をもっている(p10)
・ロシアの対外行動には、一つの法則がある・・・異民族地帯に乱がおこったときに、救援をもとめてくる一派の勢力に加担し、その一派から出兵を要請されたとして出兵し、そのあと「法を改め政を匡す」(ロシア領にする)(p220
)1533年、有名なイヴァン四世(雷帝)が即位・・・ロシア国家の基礎ができあがる・・・貴族に反逆のうたがいあれば住民まで大虐殺する・・・恐れをもたせることこそ当時のロシアにとって統治の本質的な秘略
ロシア史においては、他民族の領土をとった場合、病的なほどの執拗さでこれを保持してきた・・・やる気なら喧嘩は買ってもいい。という考え方を伝統的にとってきたロシアが、日本と北方四島返還さわぎにのに例外を設ける保証などどこにもない
シベリア出兵・・・理由もなく他国に押し入り、その国の領土を占領し、その国のひとびとを殺傷するなどというのは、まともな国のやることだろうか(p249)

333 :無名草子さん:2022/08/01(月) 22:45:15.83 .net
初めて世界一周した日本人 (新潮選書) 1993/9/1加藤 九祚 (著)

江戸時代、多くの荷船が海難事故で漂流した。船乗りたちの大半は水死したり餓死したりしたが、
漂流しロシアの船に乗って世界周航した漁民たちがいた。その見聞録に、外国人が見た彼らの様子を合わせて、その周航の全貌を描く

魯西亜から来た日本人―漂流民善六物語 単行本 1996/10。
1813年函館。高田屋嘉兵衛の仲介による日露会談の席に、ロシア側の通訳として一人の日本人がいた。漂流の末カムチャッカ
にたどり着いた石巻若宮丸の乗組員でロシアに帰化した善六の生涯を中心に漂流民たちの足跡を追う。

334 :無名草子さん:2022/08/02(火) 19:40:11 .net
乱世の英雄
海音寺潮五郎

豊臣秀吉は成功者なら誰でもする少年時代の苦労話をなぜしなかったかなど、歴史通の著者が披露する楽しい歴史裏話がいっぱい。

335 :無名草子さん:2022/08/05(金) 17:50:17.31 .net
大和維新 単行本 2018/9/21
植松 三十里 (著)
「勤、大和の誇り忘れるべからず」師は13歳の今村勤三にそう書き遺し、天誅組と共に散った。やがて明治。維新を先駆けたはずの奈良県は廃藩置県を経たのち大阪府へと吸収され、
災害復興も後回しの屈辱的地位に置かれた。議員となった勤三は師の無念と民の怒りを受け、大和の再独立のために立ち上がる。

平成15年「桑港にて」で歴史文学賞を受賞して作家デビュー。平成21年「群青 日本海軍の礎を築いた男」で新田次郎文学賞受賞。同年「彫残二人」で中山義秀文学賞受賞。

336 :無名草子さん:2022/08/06(土) 19:42:39 .net
天明蝦夷探検始末記―田沼意次と悲運の探検家たち

浅間山の大噴火や東北大飢饉、北方からの異国船の到来やアイヌ民族の蜂起など、世紀末的な様相を呈した江戸時代の天明期。この時代の転換期に、かつて誰もなし得なかった蝦夷地探検が秘密裡に決行された――
本書は、みちのくの山村の地下に潜った『蝦夷拾遺』を読み解き、探検の全体情況を細密画のように描き切った在野の研究者による画期的な労作である。田沼意次の北方政策を浮かび上がらせ、
松平定信による歴史歪曲と粛清政治を徹底批判、そして青島俊蔵ら断罪された蝦夷地探検者たちの名誉回復をめざす名著、待望の復刊。

337 :無名草子さん:2022/08/06(土) 19:52:41.67 .net
開国前夜―田沼時代の輝き―(新潮新書
田沼意次といえば、賄賂を好んだ金権政治家と見られがちだが、彼の施政には、旧来の格式にとらわれない発想の斬新さと先見性があった。
田沼時代は、この時代がなければ、のちの明治維新はなかったと思えるほど、諸外国とくらべても遜色のない経済の活況と豊饒な文化を生みだした時代なのである。
本書では、平賀源内や杉田玄白、池大雅など、開国前夜ともいうべき時代を生きた先駆者たちを通して田沼時代を俯瞰する。
鈴木/由紀子『闇はわれを阻まず 山本覚馬伝』で第四回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞

主殿の税 田沼意次の経済改革 (講談社文庫) 佐藤雅美 (著)
財政再建にとりくんだ老中の「志」とは何か。意次の読みの深さと卓抜した行動力の秘密。
通説をくつがえす歴史経済小説――十代将軍・徳川家治の、日光東照宮参詣費用20万両を、いかに捻出するか。
この難事を克服した田沼意次は、次第に逼迫する幕府財政を立て直すため、新しい「事業」に着手する。だが意次の前には、反対勢力の厚い壁が……。
賄賂の卸問屋といわれた田沼意次像を打ち破り、財政再建に懸けた老中の「志」を描く、歴史経済小説

田沼意次(中) (講談社文庫) 村上元三 (著)

338 :無名草子さん:2022/08/06(土) 23:43:30.54 .net
六つの村を越えて髭をなびかせる者 単行本 – 2022/1/12西條 奈加 (著)
直木賞作家の新たな到達点! 江戸時代に九度蝦夷地に渡った実在の冒険家・最上徳内を描いた、壮大な歴史小説。
本当のアイヌの姿を、世に知らしめたい―― 時は江戸中期、老中・田沼意次が実権を握り、改革を進めていた頃。幕府ではロシアの南下に対する備えや交易の促進などを目的に、蝦夷地開発が計画されていた。 出羽国の貧しい農家に生まれながら、算学の才能に恵まれた最上徳内は、師の本多利明の計らいで蝦夷地見分隊に随行する。
そこで徳内が目にしたのは厳しくも美しい北の大地と、和人とは異なる文化の中で逞しく生きるアイヌの姿だった。イタクニップ、少年フルウらとの出会いを通して、いつしか徳内の胸にはアイヌへの尊敬と友愛が生まれていく……。 松前藩との確執、幕府の思惑、自然の脅威、様々な困難にぶつかりながら、それでも北の大地へと向かった男を描いた著者渾身の長編小説!

第25回歴史文学賞受賞作
北夷の海 単行本 – 2002/1乾 浩 (著)
樺太は半島か島か―。極寒の地・樺太の探検に情熱を注ぐ松田伝十郎と間宮林蔵。二人の苫難の行程と葛藤を描き、両者の人間像を活写する力作!表題作のほか「東韃靼への海路」「遙かなる氷雪の島」を収録

。北冥の白虹―小説・最上徳内 単行本 – 2003/4/1乾 浩 (著)
天命6年(1786)、日本人として初めて択捉島・得撫島に足跡を印した北方探検家・最上徳内。出羽国楯岡村の貧農の子に生まれた徳内の北方探検に賭けた夢と生き様を描く長編歴史小説

339 :無名草子さん:2022/08/07(日) 00:03:43.11 .net
林蔵の貌 上 (集英社文庫) 文庫 – 1996/11/20
北方 謙三 (著)
激動の予兆をはらむ江戸・文化年間、越前の船頭・伝兵衛は謎の武士・野比秀磨を乗せ蝦夷地へと櫓を漕ぐ。
そこに待っていたのは測量家の間宮林蔵。彼らの行ったロシア艦との秘密交渉は、徳川幕府とそれに対抗する朝廷・水戸・島津の連合勢力
との抗争の口火となった―壮大な北の海にひろがる男たちの野望
。反幕勢力、南下するロシア、莫大な利権を狙う海商たちの錯綜する思惑が極北の蝦夷地に結集する。ある秘命を帯びた間宮林蔵は諸国を奔走し、
権力者たちの野望うずまく中へと身を投じてゆく。それぞれの命運を背負った男たちの人生と、黎明期の日本を描く迫真の時代小説。

荒波のなか蝦夷地に向かう舟一艘―文化年間、歴史は静かに動き始めた。謎の武士・野比秀磨は、蝦夷に上陸し、測量家・間宮林蔵に出会う。
北の大地の巨大利権を巡る、幕府、朝廷、豪商たち、そして雄藩・水戸と薩摩をも巻き込んだ密謀は成功するのか?鍵を握るのは、
蝦夷地を知り尽くしたこの男…。新しい国のかたちを模索する男たちの激情と策略のうねりを活写する、幕末大河巨編。

340 :無名草子さん:2022/08/07(日) 01:19:27.67 .net
街道をゆく 15 北海道の諸道 (朝日文庫)
函館を出発点に札幌、旭川、陸別へ──古代から幕末維新までの長い道のりをたずね歩く旅。
原野を切り開いた開拓使や劣悪な環境で労働を強いられた囚人、屯田兵の時代を振り返り、アイヌとの抗争から台頭した松前氏の京風文化を思う

稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、
兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。

司馬遼太郎『街道をゆく<32>阿波紀行・紀ノ川のみち

船山馨
お登勢〈上〉 (文庫コレクション―大衆文学館

341 :無名草子さん:2022/08/07(日) 01:25:04.44 .net
静かな大地 (朝日文庫 い 38-5) 文庫 2007/6/7
池澤 夏樹 (著)
短い繁栄の後で没落した先祖たちのことを小説にするのは、彼らの物語を聞いて育ったぼくの夢だった--明治初年、淡路島から北海道の静内に入植した宗形三郎と四郎。
牧場を開いた宗形兄弟と、アイヌの人々の努力と敗退をえがく壮大な叙事詩。著者自身の先祖の物語であり、同時に日本の近代が捨てた価値観を複眼でみつめる、構想10年の歴史小説。第3回親鸞賞受賞作。〔解説・高橋源一郎

静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族
花崎皋平 著岩波現代文庫
幕末の蝦夷地を踏破した松浦武四郎.アイヌ民衆の受難と出会い,自己変革を遂げた男の軌跡を活写する
幕末の蝦夷地を十数年間も探検・調査し,アイヌ民族の風俗・文化を記録する中で和人による虐待を告発した松浦武四郎.大地に根を張り,固有の習俗を育んできたアイヌ民衆の輝きとは何か.
なぜ彼らは抑圧の下で呻吟することを強いられているのか.記録者として自己変革を遂げていく松浦を描き出す入魂の力作評伝.池澤夏樹解説


342 :無名草子さん:2022/08/20(土) 21:23:57.52 .net
李舜臣だが、韓国では朴正熙政権時代(一九六一〜七九年)になってから最高級の偉人として称えられ、光化門前に銅像も立てられナショナル・ヒーローになったが、それまではそれほど有名ではなかった。政治的に曲折のあった人物だったからだ。
それを武人だった朴正熙が歴史からピックアップし国民的英雄に仕立てたのだ。
ところが面白いことに李舜臣はむしろ日本で昔から高く評価されていた。その話は司馬遼太郎の名著『坂の上の雲』(第八巻)に登場するが、日本海軍では彼は「世界第一の海将」とされ、
その業績と戦術が研究され語り継がれてきた。そして日露戦争の勝敗を決した日本海海戦にあたって、鎮海湾から出撃した日本の連合艦隊は「李舜臣の霊」に戦勝を祈ったという

司馬遼太郎が参照したのは川田功の小説『砲弾を潜りて』
・司馬はこの「小説の記憶」を頼りに、連合艦隊の水雷艇の艦長が李舜臣に祈ったというエピソードを書いた
・しかし当小説にそんな記述はなく、主人公の「水兵」が負傷したとき李舜臣が薩摩兵の銃弾を受けて泰然自若としていてことを思い出して、痛みをこらえたという場面しか出てこない
・創作の水兵のエピソードを司馬遼太郎が読んで水雷艇の艦長の実話になった
・それを朝鮮人が聞いて東郷平八郎の逸話にした

343 :無名草子さん:2022/08/29(月) 21:01:20.22 .net
司馬遼太郎全講演〈第2巻〉1984‐1989
奄美大島と日本の文化

344 :無名草子さん:2022/08/30(火) 18:48:55.11 .net
司馬遼太郎なんかもさ、著書で稲伝来と日本人のルーツについて述べる時
大陸江南地方からのルートに言及する際に必ず言い訳的に「朝鮮半島からも来た」って注釈をつけてるのよね。
あれは何に対して忖度していたのか。よっぽど色々言われてたんだろうなと。

そもそも亜熱帯食物の稲が何で乾燥寒冷な半島経由が必然ルートみたいな前提話なのか。
皆無と言っているのではなく、枕詞の半島由来ってのが印象操作臭い

稲を日本に持ち込んだのが弥生人でありそれが朝鮮半島から来た
ってのは、誰の意向か知らんが学校教科書含めて大々的に日本で喧伝されて来たからね(今でも根強く)

345 :無名草子さん:2022/09/15(木) 12:05:26.01 .net
新編 木馬と石牛 (岩波文庫) 1996/10/16
金関 丈夫 (著)

「和漢洋にわたる象のように重い知識と,それに拮抗し得る鳥のように軽い精神をもちあわせている」と言われ,
しばしば南方熊楠に比せられる金関丈夫(1897−1983).人類学・解剖学・民族学・考古学・言語学などにわたる該博な知識を駆使し,
鋭い着眼で東西の説話や伝承を自在に比較考証する.学問をたのしむことを教えてくれる本.

矢尻が刺さった女性の頭骨。彼女の死はいったい何を意味するのか。抜歯の習俗や勾玉等の装身具からどのような精神世界が探れるか。
占い・入れ墨の風習の伝来はどうだったか。博覧強記の人類学者・金関丈夫が、発掘の成果を世界の民族例を参照し、古文献を駆使して綴った軽妙なエッセイ。古代世界への想像力を刺激する一冊。

346 :無名草子さん:2022/09/17(土) 21:30:01.70 .net
第六回和辻哲郎文化賞受賞
咸臨丸 海を渡る (中公文庫) 文庫 – 1998/12/1
土居 良三 (著)
軍艦奉行・木村摂津守の従者として咸臨丸に搭乗、太平洋を渡った長尾幸作の航海日誌『鴻目魁耳』―。
本書は、著者の曾祖父が遺したこの一次史料を手がかりに、福沢諭吉ら同乗者たちとの友情、勝海舟の辛苦など、渡航のドラマを克明にたどる

347 :無名草子さん:2022/09/27(火) 16:37:16.04 .net
司馬遼太郎の『故郷忘じがたく侯』で「第十四代沈壽官は名人だ」という話になっていますが、ネットで「司馬遼太郎はウソつきだ!」とバラした人間がいるのです。

 実は、第十四代の沈壽官は焼き物など焼いていないのです。当時、東京の早稲田大学政経学部にいたのです。『中杉 弘のブログ』「仏法対話(84)沈寿官の真実」でも一度、掲載しましたが司馬遼太郎は凄いウソつきです。

この間、土方歳三資料館に行ってきました。土方家子孫の愛(めぐみ)さんに会ってきました。その資料館に土方歳三の愛刀があり、持っていた刀は、「和泉守兼定第十二代」と書かれています。それを司馬遼太郎の小説では、
「和泉守兼定第二代」の之定(のさだ)になっているのです。司馬遼太郎の小説は全てウソです。それは、自分が一番よく知っているのです。二代目之定は、千両もする刀です。それを土方歳三が持っていることにして話をつくっているから、「燃えよ、剣」は全て創作です。

十四代は昭和四一年に、韓国民を震え上がらせていたKCIA(韓国情報局)の招きで渡韓し、
>朴大統領に会い、ソウル大学で講演している。その時十四代はどういう肩書で渡韓している
>のか。司馬の筆によると「ソウル、釜山、高麗の三大学の美術史関係の研究者にまねかれ
>て渡韓した。」(同書五九ぺージ)とある。ここでは陶工家の肩書は出てこない。←←←
>薩摩焼きの第一人者でもないのだ。それはそのはずである。十四代が東京から帰鹿したのは
>昭和三五年以降のはずである。昭和三一年出生の長女の届けは東京都。長男のそれは昭和
>三四年、横浜で届け出。次女の出生(昭和三六年三月三一日)の届げ出が初めて鹿児島でな
>されている。この間の十四代の経歴はどうなっていたのか

348 :無名草子さん:2022/10/04(火) 00:31:03.77 .net
家康が朱印船貿易では秀吉以上の成果を収めたとか、
ノヴァイスパニア(メキシコ)との通商を望んで田中勝介を渡海させたとか、
ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを顧問として重用したとか、
家康の開明的な面はまったく描かず、田舎の陰険な爺さん扱いしたんだよね。
家康に関しては明らかな不当評価だと思われる

「鎖国は百害あって一利なし」と言ってた海音寺潮五郎の影響を感じさせる

349 :無名草子さん:2022/10/17(月) 20:45:03.05 .net
高句麗は北方にある。民族としての感じも、あるいは風俗や言語まで韓族とはちがっていたらしい。韓族の国が、南のほうの新羅・百済だが、
ところがこの両国にはさまれてちっぽけな国がひとつあった。洛東江の下流がうるおしている穀倉地帯にあり、それがいまの地名でいえば金海付近にあった。

朝鮮の民間伝承でも、「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」
というのがあるそうだ。上代では、駕洛国だけが、他の韓人とはちがった風俗をもっていたともいわれる。

「倭というのはかならずしも日本人のみを指さない。上代のある時期までは、南朝鮮の沿岸地方から北九州をふくめての地域の呼称もしくは諸族の呼称であった」
という説得力に富んだ説まで出ている。さらにまたこの駕洛国のひとびとが日本に弥生式農法と文化をもってきた、ともいう。

新羅が百済を滅ぼした後のことだが、妙なことに戦勝国であるはずの新羅からもどんどん人間が渡来してきて、飛鳥の日本の文化や生産に参加した。
日本にゆけば優遇される。
と、戦勝側の新羅人も考えたに違いないが、彼らを動かして海に浮かばしめた直接の動機は政情不安やら内乱だったに違いない。朝鮮は半島国家であるだけに常に政情不安がある。
新羅は唐の助けを借りたために唐の属領に近い形になった。
このための軋轢や政争というものが、日本への政治亡命者を間断なく出す羽目になったように思える。
日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたと言ってよく、
関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。百済・新羅から渡来した人々は互いに敵国だったため、日本に来てからも仲が悪かったらしい。

白村江でその大帝国の外征軍と戦って惨敗した以上、その大帝国に対抗せねばならぬという外的事情と、その外的事情を内的事情に転化して古代的土着勢力を一掃して強力な統一国家を確立すべき必要に迫られていた。
それにはまず、官僚養成のために必要な大学を作らねばならないのである。そのための総長が必要であった。鬼室集斯がどれだけの学者であったかは不明だが、彼以外にはその適任者がなかったに相違なく、それによって日本最初の大学総長が百済人であったという歴史が必発するのである

350 :無名草子さん:2022/10/17(月) 20:45:24.01 .net
今の京都市の市内と郊外は、かつて山城国と呼ばれていた。平安遷都以前においてこの山城平野を開拓したのは朝鮮からの渡来者であった。彼らを秦氏と言い、太秦を首都としていた。
その隆盛期に出た秦河勝は政治家としての聖徳太子の経済的なパトロンであり、太子のために太秦に広隆寺をたて、いわば別荘として提供した。
その秦氏がその部族の工人に作らせたか、本国から持ってきたかしたものがこの日本で最も優れた彫塑とされている弥勒の半跏思惟像なのである。
侵略というこの凶々しい関係の他にそういう関係も日本と朝鮮との間に濃厚にある。たとえばその秦氏は決して虐待されていない。上古ではこの氏族から大臣も出たし、
その後も豪族として大いに栄え、その支族は山城と播磨に広がり、はるかに降って戦国の大名である土佐の長曾我部元親の長曾我部氏も本姓ハ秦氏ナリと自ら称しており、
いずれにしても上代から中世にかけての日本の氏族の中で、この朝鮮系氏族は最も華やかな氏族の一つであった。

351 :無名草子さん:2022/10/17(月) 20:52:29.40 .net
百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移ってきたであろう。私的にきた者は北九州や山陰あたりに住んだかもしれないが、鬼室集斯のような王族の場合は一族郎党を率いて朝廷を通してやってきたに違いない。
「蒲生」という近江の地名は、はるかに降って戦国期に蒲生氏郷を代表的な存在とする蒲生氏の根拠地であったことで知られているが、古代ではこの近江国蒲生郡・神崎郡のあたりは「蒲生野」と言われる原野であった。
蒲生の地名は近江だけでなく、鳥取県、大分県など各地にある。鹿児島の蒲生は、カモと発音する。全国に無数にあるカモ(鴨・加茂)と同じ意味を表す異字で、要するに蒲生とは古代出雲系の民族だったと思われる鴨族の居住地のことだったに違いない。
要するに鬼室集斯ら百済の亡命者がこの蒲生郡一帯に住んだ時にはすでにこの辺りには出雲系の鴨族がいて古神道を奉じ、弥生式農業を営んでいたに違いないが、『日本書紀』の記述の臭いから察しても広漠たる原野というに近く、人煙もまれであったように思われる。
鬼室集斯がこの国にやってきた時、天智朝廷は、大層な位階を与えているのである。小錦下とは、後の従五位下に相当する。

352 :無名草子さん:2022/10/18(火) 02:55:18.73 .net
日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫) 文庫 1994/6/17
梅原 猛 (著)
かつて東北は文化の先進地だった。亀ケ岡式土器に代表されるように、繊細で深みのある高度な縄文文化が栄えたのである。
著者は東北各地を旅しながら、宮沢賢治など詩人たちの心の深層に耳を傾け、また土着の信仰や祭りの習俗・アイヌの言葉に、日本人の隠された魂の秘密を探り当てる。原日本文化論の新たな出発点を印す意欲作。

北のまほろば―街道をゆく〈41
太宰治が「悲しき国」と嘆いた津軽・南部・下北。稲作が始まって以来、“けかち(飢饉)”に悩まされてきた本州最北端の大地には縄文の豊かな生活の跡が埋まっていた!
縄文の昔は「まほろば」として栄えた本州最北端の地・青森を歩き、風土に即した生活とは何かを問う。太宰治が悲しき国と嘆いた津軽・南部・下北など、「けかち(飢饉)」に悩まされてきた地に、豊饒の歴史の鉱脈を探る。

縄文時代、青森県の地は山や野に木の実が豊富で、三方の海の渚では魚介がとれ、走獣も多く、川にはサケ・マスもやってきて、考古学上、信じがたいほど豊かだったと想像されている、という。著者は、縄文時代の青森県の地を「北のまほろば」だったと称している。
しかし、弥生時代以降、稲作が日本全国にくまなく浸透し、特に江戸時代、コメの獲れ高(石高)が身分や豊かさを規定する基準となってからは、平均して五年に一度は冷害で凶作となる北国はしばしば飢饉に見舞われ、
貧しさにあえぐのがつねとなってしまった。かつての「北のまほろば」は失われ、相対的に後進地帯の位置付けとなってしまったことを著者は嘆いている。土地それぞれの持ち味を発揮できない「画一化」への警鐘とも受け取れる。
三内丸山をはじめとする遺跡を巡りつつ、風土に即した生活とは何かを問い、この地が育んだ作家や板画家・棟方志功を思う

353 :無名草子さん:2022/10/21(金) 10:17:05.96 .net
東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称された。特に邪馬台国の所在地をめぐる論争では畿内説を主張し、九州説を唱えた白鳥と激しい論争が展開された

「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です。
それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であつて、
これを本当に知って居れば、それで日本歴史は十分だと言つていいのであります

354 :無名草子さん:2022/10/21(金) 10:42:36.15 .net
日本文化史研究(上) (講談社学術文庫) 文庫 – 1976/10/8内藤 湖南 (著)
日本文化は、中国文化圏の中にあって、中国文化の強い影響を受けながらも、日本独自の文化を形成してきた。

支那論 (文春学藝ライブラリー) 文庫 2013/10/18内藤 湖南 (著)
その中国論は、一言で言えば、皇帝の権力が強くなる一方、貴族階級が消滅して平民が台頭し、商業が盛んになった北宋(960年~)の時点ですでに、中国は近世(近代)を経験した、というものである。
「支那の歴史を見れば、ある時代からこのかたは、他の世界の国民の……これから経過せんとしているところの状態を暗示するもので、日本とか欧米諸国などのごとき、
その民族生活において、支那よりみずから進歩しているなどと考えるのは、大いなる間違の沙汰である」
――湖南は、中国の民主化の挫折を予言するのであるが、それも、中国が「近世」の段階にすでにこれを経験・失望し、西洋や日本の「近代」での経験に先んじていたからなのである。
政治的独裁と経済発展が混在する現代の中国。湖南の中国認識は、今日、いっそうのリアリティを持っており、われわれ自身の中国認識の出発点となりうるだろう。

史論の代表的なものに、独特の文化史観に基づき、中国史の時代区分を唐と宋の間を持って大きく時代を分けるというものが唐宋変革論である。内藤は秦漢時代を上古と規定し、
後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とする。そして唐の後期から五代十国時代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したとする。
この説は内藤の死後、宮崎市定ら次世代の京都学派が発展させ、宋以後中世説を唱える歴研派との時代区分論争が展開された

唐宋変革の位置づけについては中世から近世への変化とする学説(京大説)と、古代から中世への変化とする学説(歴研説)とがあり、両説を巡って激しい論争が展開された
唐代以前を貴族中心の時代と位置づけるのに対し、宋代では庶民が政治・経済・文化の中心になると解釈される
宋代を近世とするのは、政治・経済・文化の多面的な変化はヨーロッパのルネサンスと共通点が多いことからである。

355 :無名草子さん:2022/10/22(土) 00:22:39.71 .net
司馬遼太郎「街道をゆく(25)中国・閩のみち」(朝日文庫・新装版,朝日新聞出版,2009)より引用:


 私は,こどものころから『西遊記』がすきである。

 五,六年前,太田辰夫・鳥居久靖氏の完訳上下二巻(「中国古典文学大系」31・32,平凡社刊)を数週間かけて読み,その期間中,そのおもしろさにぼうとした。たまたまこの期間中十点ほどの小説作品を読む義務が継続していたために,そのどれもこれもが色褪せてみえて閉口した。

 むろん両者を比較するなど饅頭とワインをくらべるようなものだが,読み手としての私の心の結像装置はひとつだから,つい『西遊記』にひかれてしまう。

 『西遊記』という奇想天外なイメージを創ったというだけでも,中国人は偉大である。しかし作者はたれかとなると,特定が困難らしい。

 もっとも,現代中国では作者がはっきりしていて,明の中期の文学者呉承恩(1500~82)とされている

356 :無名草子さん:2022/10/22(土) 00:23:49.59 .net
西遊記』の作者を明の呉承恩としたのは,胡適(1891~1962)であった。このひとが二十世紀の中国における学問的巨人で中国の近代化に功があったことはよく知られる。ただしかれはデューイの高弟で,プラグマティストであった。1946年,米国からもどって北京大学学長になったが,翌々年脱出した。その後,新中国では胡適の近代主義は資本主義の代弁者のようにみなされ,かれに対する批判文だけでも全8巻あるという。

 その胡適に「西遊記考証」という論文があって,作者呉承恩説がはじめて世に出た。

 魯迅(1881~1936)も,その著『中国小説史略』で,呉承恩が作者であるとしている。魯迅自身はコミュニストではなく,むしろ生硬な左翼には批判的であったが,人間そのものの擁護という立場を持しつづけた。死後,その稀有な清潔さは新中国の精神的支柱になり,毛沢東はかれをもって「中国第一等の聖人」と評した。

 私は正岡子規を好むことと同じ感情のなかで魯迅を沁み入るように好んでいる。しかし国家の聖人にされてしまっていては,地下の魯迅も窮屈にちがいない。

 胡適はともかく魯迅が「呉承恩」といったことが,その後の中国における『西遊記』研究をせまいものにしているらしい。(pp. 192-194)

357 :無名草子さん:2022/10/22(土) 00:37:32.83 .net
『佐渡のみち』
の中の、孫悟空と佐渡、の話が良かった。面白くて、何回も繰り返し読みました。よくこんな話を思いつくな、と感心します。
西遊記なんて子供用の物語だと思ってましたが、そうでもないようです

司馬遼太郎はここで起きた「小比叡騒動」について、かなりの紙数をついやしてふれている。
有能なために抜擢された相川町奉行が、腐敗している既存勢力からねたまれ対立した。奉行は江戸中央に訴えようとしたが失敗する。蓮華峰寺の僧は奉行を支持して寺にかくまい、ともに戦ったが、制圧された。
このことと比較して、司馬は『西遊記』をとりあげる。
通天河という大きな河に、霊感大王という大悪人がいた。その支配下にある小悪人どもを孫悟空が活躍して倒すのだが、霊感大王には歯が立たない。ついに天上に昇って観世音菩薩に泣きついて助けを求めた。
そこで菩薩は近くを歩いてみて、裏庭の蓮池に泳いでいる金魚がいっぴき足りないことに気がつく。菩薩は小さな籠をもって通天河に降りていき、ひょいと金魚をすくって籠に入れる。
これだけのことで解決してしま
この話は中国の官僚制批判であると司馬遼太郎はいう。
 中国史はそのまま官僚史といってよく、裏返せばそれ以上に、それによる民衆の被害史であるともいえる。(中略)
 地方の官や吏は、その匪賊よりもたちが悪いというのは歴朝の民衆にとってのごく平凡な常識で、いかにすればかれら地方官吏の強欲な私益追求から、よりすくなく害を受けられるかということが
、中国が官僚史である反面での中国民衆史であったといっていい。

358 :無名草子さん:2022/10/30(日) 19:26:10.50 .net
秋山駿氏が次のように書いている。
”私は五味康祐の『柳生武芸帳』を時代小説の戦後傑作の第一に推す。星の数ほども無数にある時代小説の中で随一の傑作であると思っている。吉川英治の宮本武蔵よりずっと格が上であると思っている。これは三島由紀夫さんも賛成してくれた。“
 秋山氏はやはり昨年新たに刊行された文春文庫「柳生宗矩と十兵衛」のあと書きで”五味氏の時代小説はいわゆる凡百の歴史小説などよりずっと上にあるものだ。“と書き、その理由として、何よりも文体がよい。そして剣に生きる武士の心情や剣に泣かされる心の心事を描いていかにも思い入れが深い。
 剣を中心に日本人は独自の心性を形成してきた。そういう日本的な独自の心性の細部が五味氏の描く断片や行間のあちこちから気韻をもって甦ってくることである。これこそ大きなことだ。
と書いている。

359 :無名草子さん:2022/10/31(月) 16:27:36.14 .net
野口武彦
『谷崎潤一郎論』で亀井勝一郎賞、1980年、『江戸の歴史家』でサントリー学芸賞、1986年、
『「源氏物語」を江戸から読む』で芸術選奨文部大臣賞、1992年、『江戸の兵学思想』で和辻哲郎文化賞、2003年、『幕末気分』で読売文学賞受賞
江戸人の精神絵図』講談社学術文庫
忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』ちくま新書

渡辺保 『忠臣蔵 もう一つの歴史感覚』講談社学術文庫

360 :無名草子さん:2022/10/31(月) 19:19:39.57 .net
荒木又右衛門(下)文庫コレクション―大衆文学館
著:長谷川 伸

寵童渡部源太夫を河合又五郎に殺害された岡山藩主・池田宮内少輔忠雄の怒りは、又五郎が、かねて池田家に遺恨を抱く旗本組に身を寄せるに及んで頂点に達する。そのころ、大和郡山で事態の進展を見守る源太夫の義兄・荒木又右衝門は、
武門の意地と掟の狭間で深い苦悩の中にあった……。旗本対大名の対立と幕藩体制の緊張感を背景に、緻密な考証で仇討の本義を描き出す、本格歴史小説屈指の名作!
亡君の上意を得て、事情は一変する。又右衛門は安んじて義弟・数馬の願いを容れた。同じころ、長年の盟友河合甚左衝門もまた甥・又五郎のために起った。かくして、旗本と大名の対決という幕府を震撼させる危機を孕んだまま、
伊賀上野鍵屋ヶ辻の決闘の朝は来た!史料の精査をもとに、日本3大仇討の1つとして芝居に講談に喧伝された虚飾と誇張を排しリアルな剣客像を創出した歴史文学の最高峰!

361 :無名草子さん:2022/11/01(火) 17:41:36.76 .net
小説を書くという作業は、自分自身の中にある普遍的人間が歴然と住んでいて、それがいかに奇妙な心理や行動を表現しようとも、
本来普遍性から外れることがないという、いわば証明不要の公理のようなものを信ずる以外に書けるものではない。(中略)男は一個の身を無数の権力もしくは権力現象に身をゆだねたり、
そのとりこになり、他に害をあたえたり、あるいは害を受けたり、ときにはそれを得ることによって何事かの自己表現を遂げようとあくせくし、それがために生死する。
(中略)志とは単に権力志向へのエネルギーに形而上的体裁をあたえたにすぎない場合もあるが、それはそれなりに面白く、さらにはいかなる志であっても志は男が自己表現をするための主題であり、ときには物狂にさせるたねでもあるらしい。
— 司馬遼太郎「自分の作品について

362 :無名草子さん:2022/11/01(火) 18:27:45.94 .net
『戦国名刀伝 (文春文庫) 。東郷隆
 歴史上に知られる名刀を取り上げた8篇が納められている。
 「にっかり」「末広がり元平」「竹俣」「かたくり」「児手柏このてがしわ」
「伊達脛中」「石州大太刀」「まつがおか」である。

甲冑は単なる武具ではなかった。凝りに凝ったデザインはその実力を誇示するばかりでなく、信ずる「神」すら顕示されていた。それは究極の自己表現でもあった。
本書は信長、秀吉ら武将たちの甲冑にまつわる奇妙な物語6編を収録、その夢、野望、そして無念の死を鮮やかに描きだす。舟橋聖一文学賞受賞作。

『狙うて候―銃豪村田経芳の生涯』で新田次郎文学賞

363 :無名草子さん:2022/11/02(水) 21:33:49.96 .net
「盗賊モノ」にはさまざまな名作がありますよね。雲霧仁左衛門は、いわゆる義賊ではありません。鼠小僧のように、世の悪を懲らしめ、庶民に富を分配するみたいな存在では決してない。
「雲霧仁左衛門」
あくまで「悪」に徹している。でも、盗賊の矜持を大切に生きる本格の盗賊。そのありように、僕は何だか好感を抱いてしまう。悪を悪のままで描き切っている筆致。そのさじ加減が、素晴らしい。

ただ、物語の展開はあまりに早くて、似たような人名、地名、屋号が次々と出てくるため、ちょっと混乱するかも知れません。雲霧一味の足並みも、後半になると「ほつれ」が見え始めます。そのあたりのゴチャゴチャした感じと、スリルもまた良いのです。
それにしても、読み進めていて強く感じるのは、「江戸の街は圧倒的に今よりも暗い」ということです。夜の闇がめっぽう深いのです。そうすると、人々は、
五感を今よりも遥かに働かせて生きていかなければならない。風や、温度、川の流れ、季節の移ろい。五感をフル活用させていくぶん、さまざまなデバイスで補完されている僕たちよりも、能力がよっぽど高いように思います。

364 :無名草子さん:2022/11/04(金) 12:15:47.81 .net
火付盗賊改-鬼と呼ばれた江戸の「特別捜査官」 (中公新書) 新書 – 高橋 義夫 (著)
江戸の放火犯・盗賊・博徒を取り締まった火付盗賊改。時代小説では颯爽たるイメージだが、江戸庶民の評判は必ずしも芳しくなかった。不透明な捜査手法、苛酷な取調べには幕閣も眉をひそめた。捕物名人と呼ばれて人気を博し、無宿人対策の人足寄場創設に尽力した
長谷川平蔵などは例外的であった。当時の随筆や世相風聞録をも博捜し、時の権力者や大盗賊たちとの関わりも絡め、功罪相半ばした火付盗賊改の活動の実態に迫る。

「火附盗賊改」の正体 ――幕府と盗賊の三百年戦争 (集英社新書) 新書 – 2016/9/16
丹野 顯 (著)
「鬼平」だけではない、武闘派旗本の知られざる素顔
泣く子も黙る“殺しのライセンス”
「火附盗賊改」と言えば “鬼の長谷川平蔵”の名が挙がる。否、正確には長谷川平蔵の名しか挙がらない、とも言える。実際、彼らは町奉行に比べ日陰の立場にあった。だが、強盗・放火といった凶悪犯罪が多発した百万都市・江戸で、火附盗賊改ほど頼りにされた組織はなかった。謎多き存在感と相まって、町人はもちろん武士たちも、畏怖と同時に畏敬の念を抱いたという。
本著では、凶悪な盗賊一味との対決を軸に、その誕生から変遷、彼らならではの捕り物、苛烈な詮議の様子、幕臣の中での位置づけ、人情味あふれる素顔まで、豊富な資料をもとに、旗本の中でも武闘派の猛者ぞろいだった火盗改の実像に迫る。

365 :無名草子さん:2022/11/04(金) 16:26:02.80 .net
文:北上 次郎 (文芸評論家)『海狼伝』 (白石一郎 著)
大佛次郎『ごろつき船』『ゆうれい船』、長谷川伸『国姓爺』、村上元三『八幡船』、南條範夫『海賊商人』、隆慶一郎『見知らぬ海へ』、近年では和田竜『村上海賊の娘』など、海を舞台にした時代小説は少なくない。そのなかでも白石一郎は、海洋冒険小説を数多く書き、強い印象を残している。
直接的な海の描写は少ないが捕鯨場面が圧巻の『サムライの海』、織田水軍の将・九鬼嘉隆と副題のついた『戦鬼たちの海』なども読ませるが、本書はそのなかでも最高傑作といっていいだろう。本書は、昭和六十二年七月に、
第九十七回の直木賞を受賞している作品だが、いまでも全然古びていないのは見事。そもそも時代小説は現代を舞台にしていないのだから古びないだろうというのは間違い。残念ながら古びてしまうものもあったりする。では、いまでも色彩感豊かに読ませる作品は何がポイントなのか。大佛次郎『ごろつき船』を想起すればそれは明らかだ。
こちらは海の活劇を活写する波瀾万丈の大ロマンで要約が難しい長編だが、この主人公たちが陸の国境に縛られていないことに注意。彼らは海に生きることでその拘束から自由になっている。こういう視点を持たないと、海洋冒険小説に躍動感は生まれない。
 本書でも、迫力満点の海の戦闘は描かれている。まぎれもなく、これは海の小説だ。しかしそういう場面があれば、それだけで海洋冒険小説になるというものではない。主人公が陸の国境に縛られず、海賊衆の掟にも縛られず、あらゆることから自由になっていることが、この物語に自由な風と躍動感を与えているのである

366 :無名草子さん:2022/11/05(土) 15:21:31.07 .net
池波正太郎 真田太平記を読み始めたんだけど・・・
一巻で嫌になった
「・・・」であった。
こういう同じような文章が頻繁に出てきてうんざりしてしまった
「うーむ」や「はい・・・いいえ。」をくどいまでに多用する
山岡壮八を思い出した
こういうのって作家の癖なんだろうか?
時代小説にしてはボギャブラリーが少ないのも気になったし
山本周五郎や吉川英治を読みすぎたせいだろうか

367 :無名草子さん:2022/11/05(土) 20:09:18.28 .net
戦国時代用語辞典 単行本 2006/12/1学研プラス
戦国は言葉という面でも、江戸時代への助走エリアであった。中世から近世へとシフトし、外国との交渉もあり言葉の面でも進化がみられた。
「江戸語」との差異を見極めながら、戦国時代特有の用語を取り上げ、図解と共に明解に解説した必携の書。

時代小説用語辞典 単行本 –2005/4/1学研プラス
歴史群像編集部 (編集)
本書は江戸時代のおもに江戸を舞台にした時代小説に出てくる用語をテーマ、項目ごとに解説したものである

時代小説「江戸」事典 (双葉文庫)
江戸を舞台にした時代小説を、より楽しく深く味わうために知っておきたい事柄や用語をわかりやすく解説した、読んで面白い「江戸」事典です。時代小説を読むときに手元に置いておくのもよし
、江戸雑学物として読むのもよし、時代小説入門ガイドにもよし。双葉文庫の時代小説とあわせて1冊あると重宝すること間違いなし。
全10章、101のテーマ、収録語数2000余の充実の内容。江戸と、そこに生きた人びとを理解する教科書として読むのもよし

江戸ことば・東京ことば辞典 (講談社学術文庫)
あかぬけ・ごますり・しみったれ・とんちき・はすっぱ・はったり・へっぽこ・やぼてん…。人々の口から口へ伝えられたイキでイナセな庶民のことばの数々。
現代人の毎日の暮らしの中でいまも使われているクチコミ語八二二の語源・意味・用例を明快に解説する。江戸から東京へ。国語学界の第一人者が多年にわたる近代日本語の変遷の研究のなかからまとめた「江戸ことば・東京ことば」おもしろ小辞典。

江戸語辞典 新装普及版
江戸のことば13000語を収録した「江戸ことば百科」! 日常語を中心に名物、地名、有名店から祭祀、慶弔、飲食、遊郭など、
当時使われていたことば・関連語を五十音順に配列。便利な巻末付録付き。(江戸時代和暦・西暦対応表、吉原略図、芝居小屋略図、方位・時間の図〔一日〕、年中行事〔一年〕、人生儀礼〔一生〕)
江戸市民の日常語を中心に、遊郭の言葉・役者言葉・隠語・ことわざ・地口、当時にぎわいをみせた地名、役者・俳人など通人といわれた人名、さらに飲食・服飾・祭祀・商売など

368 :無名草子さん:2022/11/05(土) 21:44:50.94 .net
山本周五郎→藤沢周平
格調が高く主人公もストイックで立派なのが多いよね。
読んでて「おい、おい、そんなに頑張らなくていいよ」なんて
言いながらも涙がでてきちゃうような主人公とか。

池波正太郎
俗っぽくて主人公もあんまり格調高くないよね。「おい、おい
あんまり酒ばかり食らってるなよな」というような主人公。

369 :無名草子さん:2022/11/12(土) 17:18:22.78 .net
水上 勉の清富記 (新潮文庫
南宋の風光明媚な都、臨安のはずれ、苦竹の森に日がな一日、山繭を混ぜた竹絹紙を漉く孟阿は、清貧を好しとせず、富を捨てず心を富ませて隠棲を楽しんだ「清富記」。
南宋と同様に、度牒乱売で禅宗が堕落衰滅した頃の明に漂着した、尺八(洞簫)の上手な無外和尚の最期と、鳩を飼う母子の悲哀を伝える「飛奴記」。
他に、達磨を始祖とする禅宗の六代目の祖「慧能えのう」など禅的世界を描く短編集

度牒(どちょう)は、国家公認の得度に際して、国家機関によって新たに得度した僧尼に交付される身分証のことである。出家得度の証明書。公験(くげん)、告牒(こくちょう)、度縁(どえん)ともいう

朝廷と無関係に成立した鎌倉新仏教や真言律宗は、太政官に替わって宗派の名において独自の度牒を発行するようになった。
江戸幕府は各宗派の独自発行を認めたが、替わりに発行元を本山に限定する事で統制を行った。
明治維新後はこうした規定は廃止され、各宗派それぞれの規定に基づいて(大抵は得度時に)度牒を交付する事になっている

370 :無名草子さん:2022/11/17(木) 19:51:10.28 .net
大仏次郎賞受賞作
リンネとその使徒たち―探検博物学の夜明け (朝日選書) 単行本 1997/11/1
西村 三郎 (著)
実在の“ロスト・ワールド”探検。啓蒙の18世紀、大博物学者リンネの愛弟子たちは、
師の教えに導かれ、新大陸・アラビア・日本へ。この偉大なる「使徒」たちの苦難と栄光の旅を、鎮魂の想いをこめて描く。

博物学の欲望―リンネと時代精神 (講談社現代新書) 新書 1992/8/1
松永 俊男 (著)
世界のすべてを知りつくしたい―。動・植・鉱物=万物を収集、分類、記述する博物学が学問の王だった18世紀。
その帝王リンネと、その下に鎖国日本を含む全世界をめざす弟子。珍品に踊る王、富豪。博物学の壮大な野望を描く

ナチュラリストの系譜 ――近代生物学の成立史 (ちくま学芸文庫)
西欧でどのように動物や植物の観察が生まれ、生物学の基礎となったか。分類体系の変遷、啓蒙主義との親和性等、近代自然誌を辿る名著。解説 塚谷裕一

371 :無名草子さん:2022/11/17(木) 20:00:50.64 .net
第12回和辻哲郎文化賞
文明のなかの博物学―西欧と日本〈上〉 単行本 – 1999/8/1
西村 三郎 (著)
西欧と日本、ユーラシア大陸の東西の端を占める両地域で、近世に同時に起きた、
大衆レベルでの広範囲な博物趣味の大流行。この文明のパラレリズムを地球的・世界史的スケールで考察する。

博物学は,人間が身のまわりに見いだすありとあらゆる事物を関心の対象とする知の体系であるという。上巻では,18世紀から19世紀にかけての博物学と
博物趣味の社会的ブームのありさまを,西欧と日本ついてみることから始め,中国の本草学の起源と沿革,その日本への導入,西欧における本草学・博物学の系譜などについて述べている。
そして下巻では,近世の西欧社会と日本で博物学のブームを引き起こした原因は何であったかを考察し,西欧と日本での博物学の展開の違いを,両世界での精神史的構造と結びつけて考察している
西欧の博物学が近代生物学へと発展を遂げたのに対し、絢爛たる興隆をみせた江戸の博物学はやがて衰退していく…。「西と東の博物学」のその後の運命を決定づけた、両者の基本的性格の違いを明らかにする。

チャレンジャー号探検―近代海洋学の幕明け (中公新書) 新書 – 1992/10/1
西村 三郎 (著)
十九世紀中葉、三年半の年月を費やして世界の海を巡り、当時まったく未知の領域であった深海を探って、近代海洋学の礎を築いたイギリスの科学探検船、チャレンジャー号。この探検によって、
海全体の様相が白日のもとにさらされ、地球の自然を知るという人類史的営みの上でも大きな意義をもたらした。本書は、大海原に乗り出した乗組員と自然との闘いを通し、彼らが情熱を注いで解明しようとした海とそこに棲む生物の世界を活写する。

372 :無名草子さん:2022/11/19(土) 19:02:55.32 .net
手毬 (新潮文庫) 文庫 1994/11/30
瀬戸内 寂聴 (著)

本書「解説」より
この『手毬』の作者である瀬戸内寂聴の良寛像はこれまでのどの良寛像ともちがっている。それを強いて言ってみれば、エロスによって融けてゆく良寛だといっていい。そのためには直接にエロスでもって良寛像を融かすよりも、貞心尼という晩年の良寛にまつわる尼僧との交流を介するのがいちばんいいことになる。(略)
貞心尼はエロスの自在さを与えられて、同性愛のおぞましさも、不能の夫との性行為も知り、佐吉という教養ある行商人には生理にこめられたエロスをさしだし、良寛にたいしては魂のエロスともいうべきものを流露させる。
――吉本隆明(文芸評論家)

373 :無名草子さん:2022/12/16(金) 19:58:17.78 .net
岡田英弘bot

すでに国民国家化に踏み切っていた清朝は、日清戦争の直後から、日本を国民国家のモデルとして採用した。その過程で各省が建設した日本型の新軍が、
漢人の反満洲革命運動の温床となり、清朝を滅ぼすことになったのである

じつは(シナの)大家族制というのはフィクションなのである。清朝時代の大地主を調査したものを見ると、どんな大地主でも三代目になると、均分相続のために資産が細分化され、経営が成り立たなくなる

日本の家のように長男が家督を継ぐところは何十代でも続くが、シナでは旧家は存在せず、次から次へと潰れて、新しい人間が持ち主になる。
すでに国民国家化に踏み切っていた清朝は、日清戦争の直後から、日本を国民国家のモデルとして採用した。その過程で各省が建設した日本型の新軍が、
漢人の反満洲革命運動の温床となり、清朝を滅ぼすことになったのである

マルクス主義の時代区分では、「古代奴隷制、中世封建制、近代資本制」と、それぞれの時代には特有の生産様式が存在することになっている
。言うまでもなくこれはとんでもないナンセンスである。時代の三区分はあくまで政治を基準にした区分であり、それが経済構造に対応すべき必然的な理由は何もない

日本の家のように長男が家督を継ぐところは何十代でも続くが、シナでは旧家は存在せず、次から次へと潰れて、新しい人間が持ち主になる。

374 :無名草子さん:2022/12/19(月) 00:42:48.98 .net
赤い影法師
本書「解説」より
一言でいえば、伝習のサイクルに全体の構成をととのえながら、その中で、思う存分に空想をおどらせ、ハメをはずし、作者もたのしめば、読者もよろこばすといった伝奇小説のコツに徹した快作なのである。(略)
その上、作者独自のドライなエロティズムは、もはやあぶな絵といった不健康な覗き趣味とはちがった現代的感覚をもっている。アワヤ落花狼藉といったような古風なくすぐりとは無縁なところに成立している。
――瀬沼茂樹(文芸評論家)

375 :無名草子さん:2022/12/27(火) 15:23:30.96 .net
司馬が自分は「(広い意味で)日韓同祖論者」とか言ってるし。

韓国の田んぼ見て滋賀あたりの風景と似てるとか言ってるし・・・そりゃ
日帝が整備したから当たり前って突っ込みたかった。

付合ってる連中も金達寿(半分司馬もあきれてたが)、京大の上田、京都の在日
パチンコ屋の鄭詔文とかアレな連中が・・・
しかも鄭詔文の高麗美術館の理事とかなってるし・・・・

司馬が「竜馬〜」の長吏で解放同盟から攻撃受けた時、助けたのは街道シンパの上田?

376 :無名草子さん:2023/01/02(月) 20:26:53.92 .net
この国のかたち

朱子学の作用:明治維新派革命的思想としては貧弱というほかにない、尊王攘夷でしかない。後醍醐天皇は宋学(朱子学として大成)という
イデオロギーのとりこになって、天皇という歴史的存在から飛躍して中国皇帝のようなつもりになった
統帥権の無限性:参謀という得体のしれぬ権能を持った者たちが愛国的に肥大して謀略を企んで国家に追認させてきた。
明治憲法は三権分立だったのに昭和になって統帥権が次第に独立し始めた。その万人が参謀本部で自分たちがそれを所有していると信じていた

日本が六朝の影響を脱するのに明治維新までかかったこと

明治国家は、十分に成功した国家といえる。その因の一つとして、
汚職がほとんどなかったことをあげていい。政治家•官吏あるいは教育者たちの汚職ほど社会に元気を失わせるものはないのである。

天領では税金が安かったからゆとりがあり独自の文化が花開いた

革命をおこした国は据傲になる。特に革命で得た物差しを他国に輸出したがるという点で、古今に例が多い
。明治の日本人には朝野ともにその意識がつよく、他のアジア人にとって不愉快きわまりないものであったろう

弥生式の稲作がひろがるにつれて日本は松の多い景色に変った。松は日本にとって繁栄の象徴

「重油によるエンジンの出現により……対米戦など、万が一でもおこせるものではなかった」

377 :無名草子さん:2023/01/08(日) 16:27:16.79 .net
土地の公有化というのは、あくまでも象徴的な表現であると思います。
ポイントは、土地が空氣や水のような共有財産であり、公共の利益に即して利用する方が、個々の為に利益になるであろうという
長期的な視点に立つ考え方にあると思います。労働や知恵で稼ぐよりも、そこにある地面を売ったり山を切り崩すことの方が、
利益になるという考え方が国を滅ぼす、そのようなことを言いたいのであろうと思います。
大事なことは、日本における資本主義が非常にあやういものの上に立っており、欧米の資本主義とは大きく異なることを理解することかもしれません。
太閤検地以来、見逃されていた山林の扱いについても、このことを考えるにあたり非常に興味深いものがあります

「土地はすべて公有し、利用価値の高い人に適切に利用させるようにすべきだ」という小説家の意見に対し、「所有権を否定しても、利用権の付与を誰が決めるのか?この点をクリアしないと、社会制度は改善されない」旨、やんわりとたしなめる松下幸之助がすばらしい。
他方で、都会の田畑を(土地利用の不効率として)否定するような発言が小説家から繰り返しなされたことには問題があった。現在の我々は、この本の刊行後(平成4年以降)、”農地の宅地並み課税”が実現した結果、
マンションだらけの(魅力のない)町並みだらけになってしまったことを嘆かざるを得ない。
優れて直感的であったが、もう一歩突っ込んだ議論になぜならなかったか?
小説家の「結論ありき」の手法は、遺憾としか言いようがない。

「作家の良心と感」によって本書を成したことは評価できるものの、すでに21世紀、人口減少と土地余りの時代をむかえた現在に読み返せば、
当時の高名な人物達の思考でさえ随分と目先だけのものであり、長期的な視点がないことがわかり、反面教師的な面白さもある、
「資本主義はあくまでも物をつくってそれを売ることによって利潤を得るものであり、企業の土地投機や土地操作によって利益を得るなどは、何主義でもない」
などという文を見ると司馬の経済・経済学に関する無知がよく理解できよう、おそらくは司馬は複式簿記を理解していない

378 :無名草子さん:2023/01/08(日) 16:44:48.27 .net
.普仏戦争…明治日本に強い影響を与えた普仏戦争(明治3年〜4年)。パリ留学中の前田正名(旧薩摩藩士)、渡正元(旧芸州藩士)らもパリ陥落で義勇兵として参戦している。
プロシアの圧倒的な勝利は、幕末以来仏式だった日本の兵制を、此の戦争中プロシアに留学した桂太郎の献策によって独式に大転換した。

「太平記とその影響」…講釈師が演じた程の人気があった『太平記』は、その音感的な名調子に南朝方の正統思想を織り込み、楠木正成人気を興して日本人に朱子学と尊皇イデオロギーを受容させた。
それは歴史を動かす程の力を秘め、桂内閣では明治天皇に続く北朝の統から、数代の天皇を除き、明治天皇を以て第121代とする変更をさせるに到った。

.異風の服飾…仙石権兵衛秀久、伊達政宗、前田利家といった傾奇者の服装は、ただ派手に留まらず、独創性溢れる拵えは才覚を表すものであった。

日本的権力について」…独裁者を古来嫌う日本の権力史。中国から輸入した律令制が早々と破綻し、貴族時代を経て、
鎌倉幕府は紛争の調停機関の役割を主とし、日本の政体はこれ以降天皇と武家政権との二重構造を維持した。徳川幕府は更にその中に譜代と外様との二重構造を持つ、日本独特の合議制機関であった。

379 :無名草子さん:2023/01/25(水) 22:35:26.43 .net
神道は、たとえば「死んだらどうなりますか」という問いへの答えはありません(司馬 p.164)。
・日本の場合、基本的に神道的なものがあって、清浄こそこの世
の最高価値で、もっとも尊いと思っている(司馬 p.179)日本の拭き掃除という清潔な習慣について言及している

・・一つの神道的な空間というものが日本人にあって、その上に 仏教がやってきたり、儒教がやってきたりするけれども、神道的な
  空間だけは揺るがないという感じじゃないでしょうか。・・(司馬)
ここでいう神道とは、要するにお座敷ならお座敷を清らかにしておくと
いうだけで、べつに教義もなければ何もない。「皿」のようなもので仏教も儒教もその上をかすめていっただけという。

第二章 空海と一休 − 宗教の普遍性について
国際的な真言密教
一休の魅力

第三章 金の世界・銀の世界 − 乱世の美学
足利義政と東山文化
革命としての応仁の乱
金の復活 − 織豊時代

第八章 江戸の文化
上方は武士文化、江戸は町人文化

380 :無名草子さん:2023/01/27(金) 15:12:58.88 .net
復元安土城 (講談社学術文庫) 文庫 – 内藤 昌 (著)
天正七(一五七九)年。琵琶湖畔、安土の山に峻峭な天主が完成する。黄金の瓦、黒漆の壁、朱の八角円堂。
和様、唐様、南蛮風を統合した造形美が、新しい時代の到来を告げる。戦国の世の終焉と平安楽土の現出を託した天才・都市プランナー信長
はどんな町作りを実現したのか?広範な史資料の渉猟と発掘調査の結果をもって、日本初の近世都市の驚くべき全貌を明らかにする。

安土城天主は、軍事を第一機能とする旧来の常識からは遠く離れた存在であった。(略)理想郷志向の「城」の歴史相において、この安土城を「天下を正す」シンボルとなし、
総見寺で天道思想にもとづく庶民信仰をおこす。くわえて「楽市・楽座」の施策をもって城下の繁栄を図り、なおかつ周辺には外濠をうがって外敵からの安全性を住民に保障し、その「正義」をより具体的に天下に顕示したわけである

城 夢想と現実のモニュメント―渋澤龍彦コレクション河出文庫 2001/10/1
渋澤 龍彦 (著)
権力意識が一点に凝集し、しかも絶対的な夢想に支配された〈城〉。織田信長の「幻の城」安土、廃墟となったサド公爵の
ラコストの城……カステロフィリア(城砦愛好)に憑かれた人々をめぐる珠玉のエッセイ集。

381 :無名草子さん:2023/01/29(日) 13:01:31.75 .net
司馬遼太郎さんは1991年のソ連崩壊で赤恥を書いてしまい御気の毒でしたよね。
五味川順平さんも同じでしたかね。
1991年のソ連崩壊で、ロシア大統領に就任したエリツイン大統領が、
スターリンが極秘国家機密にして封印した、赤軍のモンハン戦争敗因調査団報告書。
頃を解除して全面公開
迫る対フインランド侵攻の戦車師団を、ジューコフに任せたいスターリンが、ノモンハンの壊滅的敗北の隠蔽を命令したんですね
其のジューコフは雪の中の戦いの冬戦争で、白い布でd覆った速射砲を操る全身白衣のフィンランド軍に戦車師団を壊滅される大苦戦。
戦後に書いた自叙伝で、ノモンハンの生き地獄と、冬戦争のフィンランド軍の作戦に殺られてしまいました。
毎晩涙が止まらず、数年間は朝起きると枕がびっしょり濡れて居ました。
と正直にお記述していて世界を驚かせました。
まぁ其の後、幅広キャタピラで傾斜砲塔のT34が配備されてからは、ベルリン迄鼻歌を歌いながら荒野を快速で走る戦車ハイキングでした。
と自慢を扱いていますけどねw
現在でもアマゾンで完売されている「ノモンハンの真実」と言う本に、
赤軍ノモンハン戦争敗因調査団報告書、の全貌が詳しく記述されていますね。

382 :無名草子さん:2023/02/25(土) 01:47:14.79 .net
地形と気象"で解く! 日本の都市 誕生の謎 歴史地形学への招待 単行本(ソフトカバー) – 2021/5/25
竹村 公太郎 (著)

養老孟司氏激賞!
「技術者の視線が解き明かす、新しい日本通史。日本人のアイデンティティーの深層に迫る竹村史観」

東京(江戸)、京都、大阪、神戸、福岡、仙台、静岡、奈良、鎌倉、甲府――
街はどのようにつくられ、賑わったか!?
[本書の主な内容]
奈良盆地での文明誕生/中央の湖を自由に行きかう舟/恵みの地は呪いの地へ/日本列島の地理的な中心・京都/
東日本へ行く要の地/モンゴル軍を破った福岡の地形/「信玄堤」という画期的な治水事業/
信長が戦った比叡山と大坂の地形/今も現役の「太閤下水」/家康が関東で発見した宝/
安倍川がつくった鉄壁の軍事都市/日本堤と墨田堤の仕掛け/幕末に広重が描いた風景/全国の森林が消失する危機

日本史の謎は「地形」で解ける (PHP文庫) 文庫 – 2013/10/3
竹村 公太郎 (著)
養老孟司氏、推薦! 荒俣宏氏、推薦!

荒俣宏氏、驚嘆! 「地形で読み解けば、全地球の文明・文化が理解できる。第2弾は古代エジプトの謎まで! 」
養老孟司氏、激賞! 「なぜ日本は世界一の長寿国になれたか──。その問いを解く鍵が『大正10年』にあったとは! 」

養老孟司氏、荒俣宏氏、またも大絶賛!!―― 「3部作完結、もう読めないって!? 冗談じゃないよ、読者の楽しみ奪うのかい!?」(荒俣氏)

383 :無名草子さん:2023/02/27(月) 19:44:50.53 .net
顕家の戦死に続き、閏7月には越前で新田義貞が戦死した(親房は『神皇正統記』で義貞の戦死もほぼ無視している)。8月には足利尊氏が征夷大将軍となり、南朝の劣勢は覆いがたい情勢となった。
親房は反撃の体勢を整えるため、自ら再び奥州へ向かうことを決意する。この年の9月に義良親王・宗良親王・結城宗広そして親房を乗せた大船団(一説に500艘)が奥州目指して伊勢を出航した。ところが船団は暴風雨に襲われて散り散りになり(『神皇正統記』によると房総沖、『太平記』では天竜灘沖)、
義良と宗広は伊勢へ吹き戻され、宗良は遠江に漂着、鎌倉周辺に漂着して足利方に討ち取られる者も多くいた。親房の乗る船はいったん房総沖から伊豆まで吹き戻されたが、ひとまず北上して常陸の内海(霞ヶ浦。当時はより広大・複雑だった)に入って東条荘(現・茨城県稲敷市)に上陸した。ここには南朝に味方する勢力があったようで、親房はまず神宮寺城に、
それから阿波崎城へと入っている。しかし上陸直後にその情報が出回ったらしく、足利方の烟田時幹の攻撃を受けて神宮寺・阿波崎2城は10月上旬に相次いで落城した。
続いて親房は常陸の有力武士で南朝方となっていた小田治久の居城・小田城(現・つくば市)へと入った。小田治久は常陸守護をつとめることもあった名門で、元弘の乱の折に流刑となった後醍醐の腹心・万里小路藤房を預かり、それが縁で南朝方となっていたのである

384 :無名草子さん:2023/02/27(月) 19:46:46.62 .net
小田城に腰を落ち着けた親房はこの常陸の地で5年間に及ぶ奮闘を開始する。はじめ親房は義良親王と結城宗広が奥州に到着したものと信じていたが、彼らが伊勢に吹き戻されてしまったことを知って構想の修正を迫られる。
親房がもっとも頼りにしたのは白河にいる宗広の子・結城親朝で、親房は五年間で合計70通に及ぶ書状を親朝に送り続け、
出陣を催促し続ける。結果的に親朝が実際に出陣することなく終わるのだが、親朝は彼なりに可能な限りの資金や物資の援助、あるいは足利方への軍事的圧力を北からかけるといった親房への支援を行っている。
 延元4年(暦応2、1339)8月16日、後醍醐天皇が吉野で無念のうちにこの世を去った。後を継いで即位したのはかつて親房が擁していた11歳の義良親王=後村上天皇である。このころ親房は小田城内において「大日本は神国なり」で始まる日本通史『神皇正統記』の執筆にとりかかる。
この『神皇正統記』は建国神話から始まって後村上に至るまでの歴史をつづり、「万世一系」の皇統が連綿と続いてきたことが日本の特殊性であると主張する一方で、「不徳の皇統は断絶する」(武烈、称徳、陽成の例)という儒教的価値観も導入され、
それが「天照大神のおはからい」によって皇室の「正統」が“移動”して続いていく、という論理で大覚寺統=後醍醐=後村上こそが「正統」であるという結論を導き出す。当時最高水準の和漢の歴史に精通していた親房らしく、
手元に持っていた簡単な皇統譜のみを材料に日本・中国の史書・前例をちりばめた濃厚な一冊であり、江戸時代以降の尊王論、いわゆる「皇国史観」へとつながって後世の日本に重大な影響を与えることになる。

385 :無名草子さん:2023/02/28(火) 23:06:25.26 .net
陳儀
司馬遼太郎は、陳を「絵に描いたような東洋的政治家」と評している。その意味は、賄賂を取りまくって私腹を肥やし、周囲を腐敗させる中国型官僚のことで、実際彼が関わった中国の省はことごとく腐敗している。
意外なことに彼は日本の陸士を出ており奥さんも日本人

台湾大虐殺(二二八事件)当時の台湾統治の責任者。現在では虐殺の首謀者は蒋介石だと判明しているが、当事者of当事者の一人として台湾史最凶の人物として伝えられている

386 :無名草子さん:2023/03/07(火) 15:02:20.00 .net
たたら製鉄の原料は鉄鉱石でなく、砂鉄です。砂鉄を「ここ数年の屈託である」と司馬氏は語っています。元来日本は東アジアにおける鉄の後進国で、鉄生産が盛んになるのは平安中期です。
これ以降、日本人の中に欲望と好奇心という猛々しい心が育ち、ひいては農業や商品経済の発展につながったのではないか、そう推察した司馬氏は砂鉄を通じて東アジアの本体のようなものの一端がのぞけないかと考え、今回の旅に至るのです。

田部たなべ長右衛門ちょうえもん氏の屋敷を訪ねます。かつて「日本一の山林王」と称され、吉田村自体が「田部家の城下村」でしたが、屋敷には村を威圧するような豪壮さがなく「どちらかといえば質実な造り」と司馬氏は驚いています

司馬氏は「別世界」と評しました。菅谷の山を降り、掛谷の町の橋まで戻ってきたとき、「なにやらほっとして下界に戻ったような気がした」とも述べています

司馬遼太郎著 「司馬遼太郎が考えたこと 14 エッセイ1987.5〜1990.10」(新潮文庫)」 の16−44ページに、司馬遼太郎のロンドン講演録(「文学からみた日本歴史」、昭和62年6月)が載っています。その中に 「製鉄」の歴史とその社会的意味が述べられています。
そこには、日本には紀元5世紀頃、製鉄技術が朝鮮半島から出雲地方に渡ってきた、鉄製品は農耕用の鍬や鋤などが多く生産され、稲作が急速に普及して多くの人口を養い、商品経済も盛んになって、「縄文時代」 と呼ばれる社会から
稲作勢力の社会である 「弥生時代」 が始まった、対中国への「鋼(はがね)」 の輸出が盛んになり、 中国からは 「漢文」 の書物が多く入るようになり、日本式漢文の読み方が発明されて、文学の興隆となった、とあります。
また、同講演録には、産業革命の中心の英国では、先端技術の 「蒸気機関」 とともに、やはり「製鉄」 が産業の基盤であり、とくに 「コークス」の発明によって、それまでの製鉄燃料の木材の消費量が減って、英国の森の消失を緩和し、大気汚染も緩和された、などとあります。

387 :無名草子さん:2023/03/10(金) 01:41:33.76 .net
実は、それ以前から司馬遼太郎は小説を書いていた。確認できる限りでの最初の作品は「わが生涯は夜光貝の光と共に」と題された短篇で、仏教雑誌「ブディスト・マガジン」創刊号に載せた。明治初年、すでに本家の大陸でも
伝来地日本でも伝統技巧の失われた螺鈿(らでん)細工に魅せられ、その技法の追究と完成に生涯を費す男の物語だった。
そこには「芸術至上主義者」に対して司馬遼太郎が抱く距離感が早くもあらわれている。司馬遼太郎は「名人上手」と「技芸への執念」を、性として好まないのである。このとき彼は満二十六歳だった。
その六年後、五六年の年頭からは「花妖譚」と題した連作を、生け花の家元が主宰する「未生」という月刊誌に書いている。これは、とくに司馬遼太郎の作家キャリア前半期における短篇小説群の重要な
サイドストリームとなった「怪異」への傾きが見てとれる作品である。寺内大吉に小説家たらんとする希望を「告白」したのはこの時期のことだった。

三十二歳の司馬遼太郎は、このときの「当選の辞」につぎのように書いている。
「私は、奇妙な小説の修業法をとりました。小説を書くのではなく、しゃべくりまわるのです。小説という形態を、私のおなかのなかで説話の原型にまで還元してみたかったのです
。こんど、その説話の一つを珍しく文学にしてみました。ところがさる友人一読して『君の話の方が面白えや』、これは痛烈な酷評でした。となると私はまず、私の小説を、私の話にまで近づけるために、うんと努力をしなければなりません」

388 :無名草子さん:2023/03/10(金) 01:48:28.07 .net
戈壁(ゴビ)の匈奴」だった。それは、かつて隊商の交易都市として繁栄し、蒸発し去ったかのように消えた都市国家西夏(せいか)の物語である。
第一次大戦直後、広大な西疆(せいきょう)の砂の中で、ひとりの退役イギリス軍大尉にして考古学者が、大きな玻璃(はり)の壺を見つけた。鉛がふくまれているのか、打つと清涼な金属の音を発した。
砂漠で小石を拾っても、そこに死者の声が聞こえはせぬかと耳にあてる彼は、その壺を見つめるうち、「あの、考古学徒のみが享受しうる詩と奇蹟と科学の融けた『天国』が、静かに霧のように降りてくる」のを体験した。
彼が「天国」の向こうに見たのは「西夏の街衢(まち)、そこを往(ゆ)き交う異風の男女」そして「暁闇(ぎょうあん)の風を衝(つ)いてゆく十万の騎馬軍団」の幻景だった。
 こんな書き出しからユーラシア中央部の十三世紀の物語が展開され、司馬遼太郎の極初期代表作と目される「戈壁の匈奴」だが、
この退役大尉の心境は司馬遼太郎のそれと重なる。彼もまた拾った石器に耳をあて、遠い過去の声を聞きとろうとした少年だった。

389 :無名草子さん:2023/03/10(金) 01:49:59.65 .net
「風が絹のように柔らかい。光が、たわむれるように肌にまつわる。此処には、人間の膚骨を刺戟する何ものもない。このようなくにに住む者達は、一体、悪というものを知っているであろうか。悪を知らなければ、おそらく善をも知るまい」(「兜率天(とそつてん)の巡礼」)
渡海し、さらに竹内峠を越えてきた古代秦氏の先祖にこういわせている司馬遼太郎は、少年の頃より陸と海とを走るその道から、遠く大陸の草原と砂漠を見はるかしていたのである。その意味で彼が作家への
道を歩むことは石に彫られていたかのように必然であったし、その初期作が日本人の出てこない「説話」であったこともまた必然だったのである。
 司馬遼太郎の短篇小説には竹内街道や当麻村にゆかりのある主人公が少なくない。役小角(えんのおづぬ)(「睡蓮」)、飛び加藤(「飛び加藤」)、果心居士(「果心居士の幻術」)などである。
これらの人々には大陸渡来のにおいがある。そして彼らはみな人間離れした「幻術」のつかい手である。合理の精神に満ちた作家であるはずの司馬遼太郎にして、これはどうしたことだろう。
 宗教記者であった四八年夏、二十五歳の司馬遼太郎は京都北西の山中、まさに深山幽谷というべき地にある志明院(しみょういん)という真言の寺を訪ねたことがあった。「もののけ」が出るとされたその寺で、彼は実際もののけのしわざを体験したのだ、とさらっと語っている。
もののけは、年ごとに明るさを増す俗界の夜に耐えがたく、ここまで逃げてきたものらしいと語ったあと、つぎのようにつづけた。
「結局、私自身にもそういった雑密(ぞうみつ)的原始感情に感応するところがあるからでしょうね」「根っこのところでは日本人が伝統的にもっている暗くて華やかなロマンチシズムのようなものにもつながっているのではないでしょうか」(「密教世界の誘惑」『司馬遼太郎全集』第12巻月報27)
こんなセンスが、一連の不思議な傑作短篇を生んだのである。そしてまた、「電気のない闇というもののすばらしさを、宮崎さんのアニメでひとつ表現していただきたいものですな」(「宗教の幹」宮崎駿、堀田善衞との鼎談

390 :無名草子さん:2023/03/19(日) 15:14:19.21 .net
中国文明の歴史1 中国文化の成立 水野清一 責任編集
北京原人が出現した太古の時代から中国文化の原型が成立した殷・周までの時代を、考古学の最新成果を駆使して描く大いなるドラマ。

中国文明の歴史2春秋戦国 貝恂ホ樹 責任編集
周王朝の崩壊とともに中国古代社会の秩序は崩れ、世は実力主義の時代となる。諸国の君主は虎視眈々と機会を窺い富国強兵策に狂奔する。

中国文明の歴史3秦漢帝国 日比野丈夫 責任編集
法律と謀略と武力のかたまりだった秦は、わずか十余年で亡ぶが、受けつぐ漢は、前後四世紀にわたる安定した王朝となる

中国文明の歴史4分裂の時代―魏晋南北朝 森鹿三 責任編集
北方民族と漢族の対立抗争で、三国時代・五胡十六国・南北朝と政権は四分五裂。一方、仏教が西方から招来、ヒミコの使者が洛陽訪問。

中国文明の歴史5隋唐世界帝国 外山軍治 責任編集
分裂を隋が統一し唐が世界帝国の建設を受けつぐ。東西の交流が行われ東アジア文化圏が成立。日本は律令制により国家体制を整備。

中国文明の歴史6宋の新文化 佐伯富 責任編集
庶民の力を結集し宋代の新文化は日本にも刺激を与えて鎌倉新文化を出現。それは西アジア、欧州ルネサンス文化の成立にも影響。

391 :無名草子さん:2023/03/19(日) 15:18:27.16 .net
中国文明の歴史7大モンゴル帝国 田村実造 責任編集
モンゴルを統一し、世界征覇の野望のもとに、空前絶後の世界帝国を築いたチンギス・カン。恐るべきエネルギーで欧亜を席捲。

中国文明の歴史8明帝国と倭寇 三田村泰助 責任編集
永楽帝時代に海外発展で国威を発揚、繁栄と泰平の世を迎える明帝国は、「北虜南倭」の患が高じ、秀吉の朝鮮出兵が明の衰亡を促す

。中国文明の歴史9清帝国の繁栄 宮崎市定 責任編集
十八世紀は比類ない繁栄をもたらした清王朝の黄金時代であった。しかし盛者必衰の法則にもれず、やがて没落と衰亡の前兆が……。

中国文明の歴史10東アジアの開国 波多野善大 責任編集
惰眠をむさぼる東アジアは、聖書とアヘンと近代兵器を携えた西欧に開国を強いられ、そして侵攻にあえぎながらも民族意識が芽ばえる。

中国文明の歴史11中国のめざめ  宮崎市定 責任編集
清朝の三百年の統治は遂に破綻をきたし、この腐敗混迷を救うべく孫文が立ちあがる。かくして辛亥革命は成功し、北伐がはじまる。

中国文明の歴史12人民共和国の成立へ  内藤戊申 責任編集
蒋政権樹立から内戦十年、抗日八年の歴史が始まる。蒋軍、紅軍、日本軍の三つ巴の戦い、大長征を経て人民共和国が成立する。

392 :無名草子さん:2023/05/13(土) 16:56:18.87 .net
作家・司馬遼太郎氏(1923―96)が「唯一の別荘を置く町」として観光パンフレット
などでPRしてきた和歌山県古座川町が、司馬遼太郎記念財団(大阪府東大阪市)からの
「宣伝に使われるのは本意でない」との苦情を受けて、パンフレットから同氏の話題を
削除したことが10日、わかった。
人口3700人、「自然」以外には氏の名前しかPRの柱にできるものがなかっただけに、
町は「残念だが仕方ない」。

町などによると、司馬氏は、同町出身の知人の案内で75年から何度も訪問。
77年、江戸時代から続く庄屋屋敷跡が売りに出され住民が残念がっていることを知って購入し、
木造2階建ての「山荘」を建てた。
「人々が超然とした姿勢で美しい自然を守っている」と、ゆったりとした風土への愛着を周囲に語り、
山荘にも数回滞在。没後は財団が管理している。

町は99年、財団の協力を得て「南紀熊野体験博」で、古座川での氏の足跡や業績を紹介する写真展を
開催。翌年にはパンフレット(16ページ)に4ページにわたって、著書「街道をゆく」を引用して紹介。
癒やしの地として氏が山荘を構えたことにも触れ、これまでに約8万部を配った。
しかし財団は昨年9月、「保存のための土地購入で、本来、別荘の趣味はなく、自己顕示欲の少ない人。
体験博終了後も宣伝されるのは本意ではない」と抗議。町はパンフレットからゆかりの話題を削除した。

広瀬征彦町長は「財団からは了承してもらっていると思っていたので、残念」と肩を落とすが、
財団は「山荘の有効利用などは別途、検討したい」としている。

393 :無名草子さん:2023/05/13(土) 17:43:02.12 .net
山本健吉」と「井上光貞」の対談の中で「山本健吉」は、「飛鳥というのは日本人の心の故郷だと言っていますけれども、そこに住んでいたのは百済人や新羅人であった。飛鳥の住民の8〜9割は渡来人によって占められていた」と語っている。さらに続けて「井上光貞」は、「それは続日本紀に書かれている」と述べている。
「奈良時代」ごろ「飛鳥地方の住民の80%〜90%が朝鮮人」であったことは「続日本紀」「姓氏録」に書かれており、また、「司馬遼太郎・上田正昭・金達寿の対談集」によれば「飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない」と語り、「飛鳥における政治の実権は蘇我氏<朝鮮人>の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」と亀井勝一郎氏は述べている。
「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。」

394 :無名草子さん:2023/05/23(火) 17:47:05.62 .net
内藤湖南「明代はつまらん」
宮崎市定「明代はナマコのように特徴がない」
司馬遼太郎「明代は古代よりも古代らしい」

395 :無名草子さん:2023/05/26(金) 21:58:23.70 .net
司馬遼太郎の記述によれば

「台湾先住民族、高砂族は四国の漁師のようだ、「褌」ふんどしをして気風、気性、習慣が
同じだ」とある

396 :無名草子さん:2023/07/22(土) 20:54:28.42 .net
それで?

397 :無名草子さん:2023/08/31(木) 10:09:32.06 .net
坂の上の雲で乃木は人格については超一級の人として書かれてるけど、能力については伊地知とともに無能の代表みたいに書かれてる

無能ってのは司馬遼太郎の小説の中の話が先行しすぎだろ
機関銃を据えたコンクリの縦深陣地と戦うって人類にとって初めてのケースだし
日露戦争の頃の装備で勝利するには消耗戦で勝つ以外にないだろ
逆に効果的な攻略法があったなら第一次大戦での欧州人はどれだけ無能だったのかって話よ
203高地が決戦場になったのもそれまでに地道にロシア軍の戦力を削り続けた結果ロシア軍も決戦に応じるしか無くなったからだし

司馬なんて慶州の陵墓(まあ古墳)を見て「息を飲む美しささ」とか
韓国に、おべんちゃら使う五島勉レベルの作家だよ
(写真を見れば分かるが少なくとも息を飲む美しさでも何でも無い)

司馬の作品は「長州憎し」で塗り固められてるからなあ
学徒出陣で陸軍に徴兵され、死ぬほど嫌いな魚を食わされた恨みで凝り固まってるw

398 :無名草子さん:2023/09/08(金) 18:21:38.99 .net
池波正太郎
明確なシリーズではありません。
設定や主人公を読み替えることで、シリーズのように楽しめる作品群です。
おすすめの順番は次の通り。
夜の戦士
蝶の戦記
忍びの風
忍びの旗
忍者丹波大介
忍びの女
火の国の城 

399 :無名草子さん:2023/09/11(月) 19:46:35.38 .net
行きゆきて峠あり
(大衆文学館―文庫コレクション) 文庫 – 子母沢 寛 (著)
江戸昌平黌(しょうへいこう)の卒業試験に落ちた榎本釜次郎は、彼を見込む箱館奉公・堀織部正に随(したが)って北海道を知り、
また長崎で海軍の技術を習得する。オランダ留学も果たし海軍副総裁となった榎本だったが、倒幕の流れは洋々たる前途を一気に押し流す。「男」を描いて定評ある著者が辿る幕末の異才・榎本武揚の運命
。官軍への幕府海軍艦船引き渡しを拒否した榎本武揚は、主力を卒いて箱館へ向かう。脱走である。一旦は松前軍を破り独立政府を名乗るが、
官軍の圧倒的な物量の前に降伏、かくて榎本らは江戸の獄中へ…。得意の聞き書き、関係者の証言等を多用し、榎本武揚とその時代を骨太に描く、巨匠晩年の代表的雄篇

400 :無名草子さん:2023/09/14(木) 15:11:16.50 .net
船は、どの船でも人格を感じさせる。特にジャンクは中国人の思想を具象化したものといえる──福建省の古代名である「びん」。古くは稲作の民にして漂流民でもあった越人の地、
そして大航海時代には東西文明の交流の舞台となった地域を歩く。

福建省もともと漢民族の土地ではなく、文化が異なる。びん(もんがまえに虫)は漢民族が少数民族を見下して名付けた名前であるが、多くのものはけものへんである

元々、中国から日本へ輸出される生薬の荷造り用のヒモとして使われていたのを、阿波・堂ヶ浦の漁師が大阪で見て「釣糸としてつかえるのでは!?」と考え、テグスとして広まった
そのおかげで、庶民の食卓に鮮魚が行き渡るようになったという。
「特殊な蛾の大型のイモムシをながめていて、その中に糸のモトがあるだろうと考えた最初の福建人(?)はえらい人である。
その糸を見てこれを魚釣りにつかおうと考えた堂ヶ浦の漁師も、われわれの恩人といっていい。異国間の文化交流というのは、テグスのようであるのが理想のように思える」

_______________________________

401 :無名草子さん:2023/09/25(月) 00:27:23.90 .net
司馬遼太郎が考えたこと〈9〉エッセイ 1976.9~1979.4 (新潮文庫)
この巻は、「新疆ウイグル自治区を訪ねて」や日本と中国の成り立ちを対比して考察した「砂鉄がつくった歴史の性格」など

これは、1976年から2年半の司馬さんの思い出を綴った書です。国内では成田空港が開港し、国際的にはイラン革命がおこるなど騒然とした頃です。この頃司馬さんは、
「胡蝶の夢」や「項羽と劉邦」などを執筆されています。日本の近代化の中での医療に携わった松本良庵や、中国の漢帝国建設時の物語を描かれていた時期です。
 「砂鉄がつくった歴史の性格」では、鉄器を作り始めた漢時代からの燃料としての木炭の需要について語られています。
現在の中国の砂漠化が、この時代からはじまっていることを知ると、当時の繁栄国が、その将来と子孫に大きなツケを廻していることを知ることができます
。現代の環境問題の原因のひとつを探ることができます。「坂本竜馬と怒涛の時代」では、竜馬の新しい価値観が、日本を幕末から商品経済に導いていったことが、興味深く記されています。
 また、「近所の記」では、司馬さんが住んでおられた土地の歴史を、郷土誌家とは違って視点で描かれています。
 民族と土地の問題を通して、日本の将来とアジアの中の日本を見つめようとされた時期だったような気がします。

402 :無名草子さん:2023/10/03(火) 22:25:10.63 .net
忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫) | 丸谷 才一,
なぜ忠臣藏は人気があるのか。『たった一人の反乱』の作者が、あのたった47人の反乱の謎を解明し、
忠臣藏論のパラダイムを変革した、文芸評論の名作。野間文芸賞受賞作。

忠臣蔵と四谷怪談―日本人のコミュニケーション (朝日選書) 単行本 – 1983/11/1
鶴見俊輔 (著), 安田武 (著)

403 :無名草子さん:2023/10/05(木) 17:56:48.13 .net
徹底検証〈忠臣蔵〉の謎
編:尾崎秀樹  講談社文庫
江戸の民衆は、赤穂浪士の討入りを固唾(かたず)をのんで待っていたという。
ではなぜ討入は成功したのか。松の廊下刃傷(にんじょう)事件の真の動機は?大石内蔵助や堀部安兵衛は巷間伝えられるような人物だったのか?歌舞伎、
講談等が形づくった虚像を排し史実に迫った、興味尽きない〈忠臣蔵〉面白読本

404 :無名草子さん:2023/10/06(金) 22:39:05.74 .net
岩波現代文庫 >
「瞼の母」「一本刀土俵入」など見捨てられた者の悲哀と意地を描き,同時代の庶民に圧倒的に支持されてきた大衆文学の巨匠長谷川伸.
その核心にある義理人情を分析し,生活者のモラルを問い詰め日本人の情感の根源に迫る.独学の評論家佐藤忠男が口先だけの知識人への怒りをこめて描く迫真の力作評伝.
佐藤さんの最初の論文「仁侠について」(『思想の科学』)以来あたためてきた,庶民の精神史」というテーマを,大衆文学の巨匠長谷川伸の生涯と作品を題材に描きだした.本書は,他の大衆文学作家との比較や三島由紀夫との対比によって,
長谷川伸の特異性を浮彫にした,近代日本の倫理思想史,大衆文化史,庶民教育史といった側面をもつ作家論である.見捨てられた者の悲哀と意気地を,苦労人の立場から追求して,
同時代の庶民の代弁者であった長谷川伸の世界は,佐藤忠男の世界でもあった.

「私は,長谷川伸を近代の日本の代表的な思想家のひとりと見なしてこの長編評論を書いたのである.長谷川伸が表現した思想とは
,義理人情であり,侠気であり,意地である.それらはふつう,思想とはみなされていないが,じつは社会を構成している大きな思想の流れの重要な一部であると思う.ただ,
ふつう思想と呼ばれるものが教義とか宣言とか論文というかたちで表れてくるものであるのに,これらはフィクションの物語としてしか表現されていないためにそうは認められていなかっただけなのだと思う」
 60年代半ば,騒然とした世相のなかで,佐藤忠男さんは口先だけで三島由紀夫を賛美する左右の知識人への怒りを込めてこの評論を書き継いでいった.

405 :無名草子さん:2023/10/06(金) 22:46:02.78 .net
池波正太郎先生の大変素晴らしいエッセイを何十冊も読んだ中に、「…師匠の長谷川伸は…」と何度も出てくる

406 :無名草子さん:2023/10/07(土) 00:01:39.39 .net
現在の集落の基礎ができたのは江戸時代に入ってからで、大和郡山藩の金堂陣屋を中心に古代の条里制地割に沿って、弘誓寺や勝徳寺・浄栄寺などが周囲に配置され、集落が形成されました。
五個荘金堂地区の近江商人は、主に江戸時代後期から明治・大正・昭和戦前期にかけて、呉服や綿・絹製品を中心に、革新的商法によって商圏を全国に広げました

五個荘金堂地区の町並みは古代条里制地割を基本とし陣屋と寺院を中心に形成された湖東平野の典型的な農村集落で、近江商人の本宅群と伝統的な農家住宅がともに
優れた歴史的景観をよく伝え、我国として価値が高いとされています

司馬遼太郎氏は、五個荘金堂地区を訪れた時、この町並みの印象を「たがいに他に対してひかえ目で、しかも微妙に瀟洒(しょうしゃ)な建物をたてるというあたり、
施主・大工をふくめた近江という地の文化の土壌の深さに感じ入ったのである(出典 「街道をゆく」近江散歩)」と、表現されています。

五個荘金堂地区の町並み保存事業は、レトロ感覚の時代村造りではありません。優れた歴史文化を身近に感じながら暮らし続けること、これが地域の人びとの誇りとなり、
地域のアイデンティティとなり、より豊かな現代のまちづくりへと生かすための事業です。

407 :無名草子さん:2023/10/07(土) 19:59:17.86 .net
講談社 講談名作文庫 全30冊
1真田幸村 2水戸黄門 3大岡政談 4柳生旅日記 5赤穂義士銘々伝
6太閤記 7鼠小僧次郎吉 8いれずみ奉行 9猿飛佐助 10一休和尚漫遊記
11由井正雪 12快傑自来也 13荒木又右衛門 14伊達騒動 15天保六花撰
16弥次喜多道中記 17寛永三馬術 18清水次郎長 19塚原卜伝 20大久保彦左衛門
21雷電為右衛門 22左甚五郎 23幡随院長兵衛 24田宮坊太郎 25国定忠治
26岩見重太郎 27後藤又兵衛 28寛永御前試合 29野狐三次 30佐倉宗五郎

408 :無名草子さん:2023/10/11(水) 11:02:22.91 .net
平林たい子文学賞、河竹賞
忠臣蔵 もう一つの歴史感覚 (講談社学術文庫)
渡辺 保 (著)
日本人の心のうちに、「大石内蔵助」という名は一つの男の理想像として刻み込まれている。このイメージは、実は歴史上の人物像とは隔たりがある。それでは「忠臣蔵」という共同幻想をつくったのは、いったいだれなのか。そしてこの壮大なフィクションは、どのようにして歌舞伎最大の古典となり、
時代を超えて一つの美意識を完成させるに至ったのか。

読売文学賞
黙阿弥の明治維新 (岩波現代文庫)
渡辺 保 (著)
河竹黙阿弥の「江戸情緒」や「江戸趣味」は本物なのか、彼の作品「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」の背景に存在する招魂社の意味は何か。明治維新をはさみ前半生の小団次らとの協働の検証と後半生の散切物の読み込みを通して、黙阿弥こそが日本の近代演劇の
始祖であるとの主張を掲げ、演劇史の書き換えを要求する刺激的な評伝

409 :無名草子さん:2023/10/16(月) 01:01:04.92 .net
矢田 挿雲(やだ そううん『江戸から東京へ (中公文庫)』は、都市化が進む東京の町を散策する内容で、地誌読み物の草分けとして名高い

三田村鳶魚  鳶魚江戸文庫  (中公文庫)全36巻 別巻2巻

江戸を楽しむ―三田村鳶魚の世界 (中公文庫) 2000/2/1
山本 博文 (著)
荒木又右衛門や赤穂浪士仇討ちの真実、将軍家光「大馬鹿説」の真相、町奉行所の捕物の実際と自白第一主義の裁判、
蕎麦から肉食まで、ゆたかだった江戸の食生活など―。日本エッセイスト・クラブ賞受賞の近世史家が、江戸学の祖・三田村鳶魚の業績を辿りつつ、
大名家史料など第一次史料をもとに、新たな江戸時代像を描く。

江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸 (講談社文庫) 1994/11/1
山本 博文 (著)
江戸の萩藩お留守居役、福間彦右衛門の日記「公儀所日乗」。この第1級史料をもとに藩邸生活の実態、藩の命運かけてたたかう
外交官・留守居役の実像などを新進気鋭の歴史学者があきらかにする歴史ノンフィクション。根廻し、裏工作など現代社会の原像がかいま見える好著。
日本エッセイストクラブ賞受賞作

410 :無名草子さん:2023/10/18(水) 11:18:30.20 .net
司馬遼太郎は、長い間日本から遥かに遠い僻陬(へきすう)の海に位置するアイルランドに強い関心を持ち続けてきた。
その国はかつてシーザーも征服欲を
刺激されないといわれるほど厳しい風土の国であった。しかし司馬遼太郎はアイルランド人が
古代ケルト民族から受け継いできた比類ない「想像力」と、孤高の精神を見つめようとする

ヴィエルの<青春の痕跡>を追う。やはりスペイン・バスク出身のロヨラはパリでザヴィエルと出会い、
二人はやがてイエズス会を結成する。司馬さんは二人のバスク人キリスト者のなかに対照的な精神性を感じとった

411 :無名草子さん:2023/10/18(水) 13:18:00.68 .net
吉川英治の武蔵は、自己鍛錬に終始した誰が読んでもカッコイイというイメージです。他方、司馬遼太郎などが描く武蔵は、勝つためなら何でもする、手段を選ばない戦略をめぐらす合理主義的なところがありま

412 :無名草子さん:2023/10/18(水) 13:23:48.28 .net
月形半平太
幕末の京都を舞臺に男の器量、女の情を描いた正統派時代劇です。末だ、丗の中が「司馬史観」に汚染される前の作品で、イデオロギー的擦り込みが無いのが氣持ち良いですね
和装の着付け着こなしがいいですね(当たり前に着て居るだけですが、近頃の邦畫は此の點見られたものでは無いので)
本筋は政談では無くて人情ですから本作の様に型の美しさが大切で、其れを失ったら時代劇たり得ません。

413 :無名草子さん:2023/10/18(水) 17:01:35.65 .net
1〜3巻はひどいです。4〜5ページに1回は「薩長は汚い、ずるい。会津は清い。」と繰り返しくりかえし主張してあり、うんざりしてきます。
作者が取材した歴史的な事実や文献が列記されているページが多く、歴史的にはほぼ無名の会津人が、何流の学問を修め、刀は何流で槍は何流等といった、ストーリー上はほぼ無意味なことが、細かく書かれています。会津人の怨念と執念が書かせているのかもしれませんが、
読み飛ばさないと、話の筋が追えません。
江戸で戦った彰義隊を描いた5・6巻、河井継之助の長岡城攻防戦を描いた10・11巻、白虎隊の12巻、鶴ヶ城落城の13巻は読む価値はあると思いますが、
読んでいて面白くは無いです。

「少し偏り過ぎているかな」という感は否めません。幕末の知識と客観的な見識が無いと幕末について誤った知識を植え付けかねない本ではあります。
戦争では敵も味方もみんな自分が正義と思って戦っています。故に自分の大事なものを命をかけて守るために戦うのです。にもかかわらず、一方だけを悪としその事を叩くといった本についてはいかがなものかと思います。

17年にわたって雑誌に連載されたためでしょうか、同じエピソードが何度となく書かれています。
このことは17年かけて読む場合は記憶を呼び覚ます上で良いのかもしれませんが、一気に全巻を読む人間としては、繰り返しが多いと感じられます

414 :無名草子さん:2023/10/19(木) 11:20:01.68 .net
吉川英治を読んでて、つられて俺も『新平家』を読んだら、これにはまりまくって、つられて
荘八の『伊達政宗』を読んだら、これがもう古臭くて古臭くて閉口したね。なんか1巻の途中で放棄したよ。
隆慶一郎なんかを読んじゃうと荘八って全然だめね。
その点、吉川英治は時代を越えて凄いと思っ
新平家物語』の完成度は凄いと思う。一人一人の登場人物が丹念に書きこまれている。
法皇(上皇)から下賎の民まで千差万別

415 :無名草子さん:2023/10/26(木) 10:51:32.44 .net
美男狩」(野村胡堂 講談社大衆文学館 全2巻
幕末も間近な頃の江戸。抜け荷(密貿易)の咎で捕らえられ獄死した銭屋五兵衛が残したという莫大な財宝を求めて、五兵衛の孫・お京が現れるところから物語は始まります。
 品川台場沖に船を出したお京たちですが、それを見咎めたのは幕末三剣客の一人斉藤弥九郎と桂小五郎。彼らに捕らわれたお京を救うために立ち上がった北辰一刀流の美剣士

宝探しあり剣戟あり、恋の鞘当てあり妖術合戦ありと、時代伝奇小説の魅力をぎゅっと凝縮したような盛り沢山の内容であります。

他の作家、例えば怪建築と妖しの女性大好きの国枝史郎が書くと妙にEROくてその一方で妙に求道的な内容になりそうですが
、そこはさすがに胡堂先生、「ですます」調の爽やかな文体もあって、全体のテンションを保ちつつも、題材から来る陰惨さや淫靡さを巧みに緩和して物語を構成しており、感心させられます。

乱れからくり 泡坂妻夫
1978年)日本推理作家協会賞受賞作、第79回直木賞候補
銭屋五兵衛の隠し財産
玩具会社部長の馬割朋浩は隕石に当たるという奇禍で命を落とす。
その葬儀も終えぬ内に彼の幼児が睡眠薬を過って飲み死亡する。さらに馬割家の人々のあいだで不可解な死が連続して……。ねじ屋敷と呼ばれる馬割家の庭に造られた巨大迷路に隠された一族の謎とは? 
伝法肌の女性探偵と新米助手の活躍

宗教的幻想がほろびかけて、しかも科学への信仰がまだ十分に力を得ていない時代に奇術が華麗な分野を占めた。
「探偵小説」と銘打ったこの作品にもそういう妖しさが感じられる

泡坂・連城の両氏の、読者を騙すためなら既存の小説観に捉われず何をしてもいいという姿勢、それを実現するための優れた技巧の数々は
、後の新本格推理の作家たちにも大きな影響を与えた。

荒唐無稽なストーリーやかなり詳しくうんちくを語るところが、この作者
前半薀蓄ばっかりだし、なかなか話の本筋が見えてこないし
いつものことだが、キャラが弱い。ボクシング経験者という設定も、あまり活きていない。
とはいいつつも、オチが面白いのも泡坂作品の特徴

416 :無名草子さん:2023/10/26(木) 11:21:11.13 .net
銭屋五兵衛は、加賀藩に高額な運上金と引き換えに抜荷を黙認されていたが、幕府の疑惑にさらされるや、
藩によって財産没収の上極刑という足切りにあう。しかし、その財宝の一部は隠匿されという、
吉川英治「檜山兄弟」みたいな作品ですが、この銭屋秘宝争奪譚というのはかなりの数の作品があり、しかもこの昭和初期に多いようですね。
先日読んだ誰ぞの短編に似たようなのがありました。

檜山兄弟 上 (角川文庫) 2016/9/22
吉川 英治 (著), 北上 次郎 (解説)
八十年の時を超えた名作が復活!
幕末、開国を迫る列強の圧力が高まる中、一人の男が長崎にやってきた。豪商・銭屋五兵衛の遺児である檜山三四郎は50万両という大金を積んだ星雲丸の行方を求めて出島の異人屋敷に蟄伏したのだ。
鍵は船長が残した懐中時計。だが三四郎は天誅組崩れの志士に感化され勤王の志を抱くようになる。
一方、遠島破りを犯して長崎に流れ着いた梅吉と安は放蕩を続けていたが、三四郎を襲ったことで運命の歯車が回り始めた…。
英公使パークスの元に身を寄せた檜山三四郎は、薩長連合の秘命を帯び、両藩の巨頭に会うべく動き出す。
阻止せんとする幕府の刺客との暗闘! 壮大な奇想と圧倒的なリーダビリティ。幻の傑作時代伝奇が遂に復刊。

417 :無名草子さん:2023/10/28(土) 12:46:55.73 .net
結束 信二(けっそく しんじ
「東映時代劇」の黄金期を支えた、昭和時代を代表する脚本家の一人。
碑には司馬遼太郎の筆で
結束さんは人生をよき景色としてみていたすばらしい心のもちぬしでした
の言葉が刻まれている

418 :無名草子さん:2023/11/01(水) 23:06:45.98 .net
吉村昭著「虹の翼」巻末、元担当編集者の解説文によると、司馬遼太郎が「菜の花の沖」執筆に向け資料収集や取材を行っていたまさに同時期、吉村昭も高田屋嘉平を盛んに調べていたそうである。
編集者がネタが被っている旨を両者に告げると、司馬遼太郎は今からネタを変更すると原稿が間に合わないと頭を抱えたのに対して、吉村昭は「では私は高田屋嘉平を書かない事にします」とあっさり諦めたという。
「菜の花の沖」と「北天の星」両作品で重要人物となるディアナ号副艦長リコルドは、嘉平を才覚と度量を兼ね備えた大人物と評し、強い友情で結ばれたのに対して、五郎治を少しでも隙を見せると小細工を弄する曲者として、常に警戒し続けている。
吉村昭は、この対比を作中の人物のみならず、作品自体でもやろうとしたのではないかと思える。
何れか一方だけ読んだと言う方には、是非とももう一方も読んでいただきたい。
2人の歴史小説家の視点の違いは、きっと面白いと感じる筈だ。

419 :無名草子さん:2023/11/05(日) 01:38:33.64 .net
天下城〈上〉佐々木 譲
我らの頼り、志賀城が落ちた。信濃での平穏な暮らしは武田軍に踏みにじられた―。その日こそが、戸波市郎太の原点となった。若者は軍師の弟子となり、戦国乱世に遍歴を続けた。だが師の逝去により、その道を絶たれてしまう。運命は、彼を名高き近江の石積み、穴太衆のもとへ導いたのだった。鍛えあげた
戦略眼と最高峰の技術を受け継いだ男は、やがて、日本一の城造りとなる。

戦国武将たちは、自城の守りを固めるため、城造り・戸波市郎太の力を求めた―。織田信長の再三の要請を受け、市郎太は覇王の言う「天下城」を造ることを約束する。
その機会が訪れる前にも多聞山城や合戦前の長篠城を手がけ、技術を磨いた。乱世を平定した信長は、近江に城を築くことを決めた。伝説となった安土城の栄枯盛衰。そして数奇な運命を生きた鬼才の生涯も幕を閉じる。

420 :無名草子さん:2023/11/11(土) 19:59:34.89 .net
微光のなかの宇宙 私の美術観
好太郎の生涯は、31歳までしかなかった。かれはそのみじかい時間のなかで、すぐれた作品をのこしたばかりでなく、
めまぐるしく旋回する行動と精神によって、ひとの人生の何倍かを生きた。三岸節子は、そういう好太郎の精神と内臓の奥まで入りこんで、血や粘液にまみれたさまざまのものをつかみ出しては、昇華させ、表現した。
そのころの三岸節子には、すでにこんにちの巨大なる開花を約束するすべての天分がみられたが、しかし好太郎のように虚空に閃いてひらく華のようではなく、
石の多い坂道を登る大型のいきもののように、足どりは着実でゆるやかであった。しかし夭折した天才が時間切れのために伸ばし得なかったもっとも重要な部分を、彼女の一部として継承した。

『歴史の世界から』 司馬遼太郎、中公文庫
戦後、いくつかの三岸節子の作品を見たときの感動は、わすれられない。
当時、なみはずれて激しく大きい質と量をもった彼女の情念を包みこむには、この人の手持ちの、
もしくはこの世の既存の造形技術は、小さくすぎるように思われた。ちょうど、一反風呂敷のはしばしにロープをつけて、
いきのいい牛をむりやりに押し込んでいるといった感じで、その破綻した場所からはげしいなにかが噴き出していたし、むしろ私の場合、そのふしぎな気体に酔わされた。
ころ私は、主題性が脆弱で処理技術がうまいだけの絵を無数に見ていただけに、日本にも、天性、油彩世界に適った才質がうまれ得るのだということを三岸節子の作品において思ったりした。

421 :無名草子さん:2023/11/11(土) 20:01:57.01 .net
オホーツク街道 街道をゆく
三岸好太郎ほど北海道の風土を象徴する芸術家はいないと私はおもっている。
31歳で夭折するまでの十年間、自分の天才性を、さまざまな様式を借りて表現した。好太郎にとって様式は貸し衣装のようなもので、様式そのものに生命はなく、借りた様式は、不必要なら容捨なくぬぎすてた。
替り身が早いというのではなかった、好太郎には、中身がある。
若い最晩年の名作は「オーケストラ」(1933年)である。キャンバスに白っぽい絵具をたっぷり塗りたくったあと、釘のようなもので、引っ掻くようにして、群像を描いた。古代の洞窟画に似ていた。
「オーケストラ」が発表された翌年に三岸好太郎は死ぬ。幾度も羽化をくりかえした蝶のような生涯だった。
かれは、その全作品でもって、大正末年から昭和初年までの日本のモダニズムの先頭を駈けぬいた。その作品には日本的風土の異質性の重みからくる澱もなく、
思想的ためらいからくるひるみもなかった。快活な水泳選手の泳ぎっぷりを見るようだった。もっとも実人生のほうは破滅的だったが。
三岸好太郎は、典型的な都会派でもあった。都市を信じきっている都会っ子のように、油絵がもつ近代性と普遍性を信じきっていたかのようで、どの作品にも筆触に田舎くさい躊躇がない。
つまりは、札幌に似ている。

422 :無名草子さん:2023/11/11(土) 20:03:40.64 .net
オホーツク街道−街道をゆく
その村井氏と、札幌の横断歩道をわたりながら、私はまたしても三岸好太郎の画風をおもいだした。すれちがう人々が、たとえば尾張名古屋や、伊予松山、安芸の広島などのまちの人達とどこか違うのである。
日本の大都市は、札幌および神戸、横浜などをのぞいて、ほとんど城下町から出発している。むろん城下町には、そのよさがある。
ただ、都市における都市性というのは、多少の気どりで成立している。街路を歩くひとびとは、舞台を歩く俳優のように多少は気取ってもらわなくてはならない。札幌には、それがある。
日本の多くのまちは、まわりの農村にとって入会山のようなものでありつづけている。まちにきても、家のなかの顔のまま−いわば野良着やドテラの顔のまま−で歩いている。
−親しみやすいまちですね。
といわれるのは、都市にとってうれしいことではない。
札幌の場合、明治初年の都市建設のとき、都市はこうあるべきだという観念がちゃんと成立して出発したせいか、
みな根っからの市民の顔をしている。都市の象徴としての娘さんたち姿が、よその都市よりも自然に背筋が伸びているようなのである。
要するに札幌は三岸好太郎に似ている。
風土が希薄というより、希薄なのが札幌の風土だとおもえばいい。

423 :無名草子さん:2023/11/24(金) 14:38:14.62 .net
円空と木喰 (角川ソフィア文庫
修験道の厳しい修行に身をおいた円空。旅を棲家とした木喰。二人の「ひじり」の作った仏像には、極めて大きな違いがある。
孤高にして厳しく知的に冴えた刀痕と、清潔にして火のように激しい意志的な造型の円空仏。日本の仏像彫刻で忘れ去られた完全な一本彫りを試み、
自刻像をはじめ飄逸な作品を多く残した木喰。仏教民俗学の泰斗が両者の足跡を丹念に歩き、作られた仏像を通して、芸術的側面だけではなく宗教的側面の謎に迫る。

木喰上人 (講談社文芸文庫) 文庫 2018/4/12
柳 宗悦 (著)
かつてない表情をたたえる木喰仏に一目で魅入られた著者の情熱が、上人が生地に書き残した記録の発見という僥倖を呼び、
後半生をかけた五千里にも及ぶ廻国修行で千躰以上の仏躯を刻んだという、江戸後期の知られざる行者の、
想像を絶する生涯の全貌が明らかに。全国各地で忘れられていた多くの木喰仏が発掘される調査の過程が、後の民藝運動の礎となった記念碑的研究の書が初文庫化。

424 :無名草子さん:2023/11/24(金) 18:48:41.53 .net
街道をゆく 38 オホーツク街道

日本人の先祖の一派で、5~10世紀に北海道を拠点に活躍したオホーツク人。幻の海洋民族の痕跡をたずね、著者は稚内、枝幸、常呂、網走などを歩いた。
少年時代からの考古学ファンで、さらに雄大な北海道考古学の世界に魅せらせる。「雪の季節に北海道に行ってみたかった」という一行そのままに、ゴム長姿で雪を蹴散らし、地元に溶け込んでいく

。司馬氏の「街道をゆく」というと、大きくは「氏の博学を披歴したシリーズ」と「氏の思いを夢物語風に語るシリーズ」に分かれると思っています
で、当巻は、全43巻(43巻は未完)の38巻に当たることもあり、後者に入る1冊かと思います

稚内から網走にかけて。この地域にはかつて「オホーツク人」が活動していたという。アイヌ民族ではなく、樺太の民族とも微妙に違う、独特の民族らしい。

本州の弥生文化=稲作も必要なかった。そしてこのオホーツク文化と擦文文化を受け継ぐ形で、13世紀以降(鎌倉時代)にアイヌ文化が生まれた。

稲作文化から見ると、冷害をもたらすオホーツク海は恐ろしいのに対して、漁業にとっては宝をもたらし、千島海流は「親潮」となる。
農業と漁業で、同じ天気が真逆になることもあるとは新鮮な指摘だった

市会議員を28年もつとめた中川イセさんの述懐が興味深かった。北海道は自由と平等の土地だという。「本州には古い因襲や伝統があって、人間はそのしがらみに縛られているからどうしようもない。
唐ちりめんの帯なんかしてると「村長の娘さえ締めてないのに」と非難される。夜遅くまで働いてると、
他人に対するイヤミだとか、あの嫁は本家への面当てに働いてるなんて言われる。その点、北海道は、夜、寝ないで働いても誰も何も言わないでしょ」

425 :無名草子さん:2023/11/24(金) 21:21:12.98 .net
著者は冒頭で、明治初年に、乾いた寒冷の陸奥地方に北欧の国土経営法をあてはめていたら、岩手県などは蜜と乳の流れる山河になっていたかもしれない、と問題提起している。
日本では弥生時代に稲作が伝わって以来、全国あまねく稲作を普及させることが政権における「王化」であり、特に江戸時代は、水稲の獲れ高(石高)をもって大名や武士の権威づけとされた

陸奥地方は古来から名馬の産地であり、農耕よりも牧畜により適しており、もし牧畜を主体に経済活動が構築されていたら、というのが著者の嘆きである。
ただ、江戸時代に例えば南部藩が、水田をほどほどにして牧畜を盛大にする、という政治決断をしたとしたら、必ず失敗したにちがいない、と著者は考えている。
それは、水稲から牧畜への変更が、単に経済の問題にとどまらず、水稲の神聖を犯す重大な挑戦行為と受け取られたため、というのが著者の見解である。
著者は次のようにも述べている。「日本人は均一化を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫であり、従って南部の土地でさえ米をつくらざるをえず、もし作らねば世間の仲間に入れてもらえないようなはめになる」。
著者は「街道をゆく」で、均一化、画一化による没個性化の弊害をしばしば訴えている。

陸奥は言わずと知れた東北地方ではあるが、福島から北、現在の山形秋田である出羽の国を除く太平洋側の地域のことである
八戸と盛岡は南部藩領であり、津軽藩とは相いれないところがある

八戸の偉人は医師である安藤昌益であり、身分階級差別なくみな平等であるという思想を唱えており、封建体制への抵抗、儒教を否定した。

426 :無名草子さん:2023/11/24(金) 21:24:30.86 .net
薩肥は鹿児島と熊本のこと
大和政権の時代の熊本の球磨と鹿児島の曽於(そお)に住んでいた部族をいい、その後皇帝に仕える「隼人」になったとされる
戦国時代を経て、加藤清正の所領となったが、肥後もっこすといわれるほどのプライドの高さ、組織だった活動に向かないことは、加藤清正の朝鮮出兵時の活躍や、
熊本城築城をはじめとする治水事業、農業普及や南蛮貿易など多くの功績によるものがあかもしれない。

薩摩はまたすごい、島津氏は江戸時代には徳川家康にさえも機会あらば討たんという態度であり、幕末には西洋式近代産業を取り入れ富国に努め、
倒幕という爆裂が一気に起こった。更に隼人の爆裂は西郷隆盛を中心とする士族と官軍との熾烈な戦いとして勃発しその戦いは九州を北上し、
田原坂において最大の決死線となりその後6カ月も続いたのちに、敗北し、薩摩隼人の心行きは消滅に至った。この際に薩摩人は敵味方の屍を区別なく丁重に弔ったという。

薩摩人の気風について次のように述べている。「薩摩人は江戸期を通じて他国人では加藤清正がいちばん好きであり、清正でなくてもよく戦う敵がもっとも好きだという傾向が濃厚であった」。
真田幸村について、薩摩の旧文書に、「真田は日本一の兵(つわもの)」と、幸村の奮戦を称賛しているのも、よく戦う敵が好きだという薩摩人の気風を表しているのかもしれない。
薩摩藩は、関ヶ原の合戦後と、豊臣秀吉の九州征伐後の二度、「薩摩処分」を経験したが、いずれの危難も男性的に処理し、耐え、子宮的発想をしなかった、と著者は述べている
幕末、日本が欧米列強の植民地にならなかったのは、薩摩藩の主導力によるところが大きい、とも著者は述べている。
「かれら(薩摩人)は決して政治的ヒステリーをおこさなかった。その理由のひとつとして薩摩藩には拗ね意識というものが歴史的に存在しなかったということにもよる」。

西南の役で薩摩士族が徹底的に壊滅してから薩摩の気風が絶えたのかもしれない、と著者は推測している

427 :無名草子さん:2023/12/01(金) 01:36:27.66 .net
「中学校の時から30歳まで18年ほど悩む時期がありました。 400年以上日本に住んでいたのに、なぜ卑下発言を聞かなければならないのかと思いました。 一体何をすれば日本人になれるのか。 また、何が韓国人を作るのか気になりました」

長い彷徨は有名小説家の司馬遼太郎と相談して終止符を打った。 彼は父親のシム·スグァンをモデルに小説「故郷を忘れるわけがない」を書いた作家だ。 「真の愛国は他国を理解し愛することだとおっしゃいましたね。 日本人や韓国人が重要なのではなく、ただ一つの人間として生きていくかが重要だと」

そのため、政治的に韓日両国関係が揺れるたびに心が痛む。 「政治が文化に介入するのは良くないと思います。 不買運動などが二度と起こらないことを願っています」

彼は「私にとって韓国は父の国、日本は母の国」とし「日本人がこのように素敵な伝統工芸があるということを誇りに思うなら、それが私が韓国に恩返しをすること」と強調した。

428 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:03:17.23 .net
)日本の場合も、徳川幕府は朱子学をもって官学とした。
ただ、日本の場合、幸いにも江戸中期、多様な思想が出てきて、朱子学が唯一のものではなくなった。たとえば、
ほとんど人文科学に近い立場をもつ荻生徂徠や伊藤仁斎の学問がそうで、かれらは朱子学の空論性を攻撃した。徂徠における実証主義は清朝の考証学より半世紀さきがけ、
江戸期の思想に好もしい影響を与えた。余談になるが、儒学の面のみに限っていうと、朱子学を唯一の価値とした朝鮮と、このあたりでレールが岐れたともいえる。
が、日本でも一か所だけ、おそるべき朱子学的幻想が沈殿していった土地がある。水戸だった。
水戸黄門といわれた徳川光圀は、早くから日本史編纂の大事業を企てていたが、たまたま明の遺臣朱舜水が異民族王朝である清からのがれて亡命してきたのを手厚く保護した。
こうした気分のなかで、光圀は学者をあつめて修史事業をつづけ、その没後もつづけられた。事業は、水戸徳川家の財政を圧迫しつつも二百数十年も継続したのである。その気長さにおいて、日本史にまれな偉観であるといっていい。
その修史態度は史料あつめや史籍の校訂、考証においてすぐれていたが、しかし記述にあたっては、“義理名分”をあきらかにし、忠臣叛臣のくべつを正すという徹底的な宋学価値観の上に立ったために、後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。
ただ、この事業によって、幕末、水戸が朱子学的尊王攘夷論の中心的な存在になったことはたしかである。
要するに、宋学の亡霊のようなものが、古爆弾でも爆発したように、封建制の壁をぶち壊してしまった。もっとも、それによってひらかれた景色が、滑稽なことに近代だった。この矛盾が、その頃もその後もつづき、いまもどこかにある。(

429 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:05:21.40 .net
これは夢想だが、もし江戸後期あたりにルソーの思想が漢訳されて日本につたわったとすれば、そういうグループの参加によって明治維新の思想も、器の大きなものになっていたはずである。
現実には、その思想はあとから(明治十年前後)きた。革命政権というのは革命思想を守るものなのである。あとからきた思想は、当然、危険思想あつかいにされてしまう。
明治維新は、思想的な器量という点では決して自讃に耐えるようなものではない。しかも、明治後、教育の面では、江戸期の日本的な“諸子百家”の思想までが教えられることがなく、
ながく宋学(水戸)イデオロギーが生きたのである。左翼のあいだでさえ、水戸イデオロギー的な名分論のやかましい歴史がつづいてきた。
過去は動かしようのないものである。
ただ、これに、深浅いずれにしても苦味を感じる感覚が大切なのではないか。

430 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:06:58.45 .net
<この国のかたち(一)第二章「朱子学の作用」より、転載>

敗戦までを日本の近代とすれば、−とくに官の歴史としてはーその出発点は明治初年の太政官政府にある。それを成立させたのはいうまでもなく明治維新なのだが、革命思想としては貧弱というほかない。
スローガンは、尊王攘夷でしかないのである。外圧に対するいわば悲鳴のようなもので、フランス革命のように、人類全てに通ずる理想のようなものはない。
また人間の基本の課題もほとんど含まれていないのである。
革命が内蔵した思想や熱気、あるいはそれがかかげた理想は遺伝子のようなもので、結局はその後の(敗戦までの)歴史を規制したり、形づけたり、器の大小をきめたりした。
「異民族をうちはらえ。王を重んじよ」
などとは、まことに若衆組が棒を握って勇んでいるようで、威勢はいいが、近代という豊饒なものを興すテーゼにはならない。
このことについては、大正末年から敗戦までのあいだに“近代”そのものが痩せおとろえてしまったことと思い合せればいい。
幕末の攘夷書生や処士が鎖国の継続こそ勅諚であるととなえて大暴れし、結果として太政官政府ができると、開国してしまった

431 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:08:07.97 .net
宋以前の中国人は、いわば文明主義者だった。むろん異民族に対して野蛮という感覚はもっていたが、
漢民族としての民族主義はことさらもたなかった。みずからの優位性は当然のことだったし、ナショナリズムがうまれたり、それを鼓吹する必要もなかったのである。
宋においては、ナショナリズムの鼓吹が切迫して必要だった。漢人でありながら、侵略者である異民族王朝の官僚になったりするものも多く、
また漢民族王朝の宋の官僚で敵に通じる者さえあった。このため夷は攘うべく王(漢民族正統の王)は
尊ぶべしという思想が成立した。つまりは、宋という特殊な状況下で醸し出された一種の危機思想で、本来、普遍性はもたないものなのである。それが新思想として13世紀の日本にきた。
中国・朝鮮、それに日本における尊王攘夷思想の成立と展開という研究を左右に偏せず、社会科学的にやってもらいたいと思うのだが、そういう本は昔もいまもないらしい。

432 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:18:16.79 .net
幕府は、学問はなるべく朱子学であれとしていた。ですから、朱子学を官学、お上の学問としておりましたが、強制力はそれほどなかったようです。越後長岡藩は七万石ほどの藩ですが、ここは外様ではなくて普代の大名なんです。
ところが陽明学が藩の学問でした。朱子学も陽明学も似たようなものなのですが、ちょっとにおいが違います。陽明学のほうが、変な言い方をしますと、ややちょっと一神教の雰囲気があるというか、その点が違う程度であります。
南部藩は明治以後、単に岩手県になってしまってですね、規模からいっても気の毒なことであります。南部藩では折衷学という学問が中心になっていました。要するに朱子学は観念論哲学であります。
しかし江戸初期が過ぎた頃に荻生徂徠が登場します。この人は中国にも朝鮮にもいなかった儒学者でした。ちょうどいまの人文科学に似たような考え方の学問を起こしまして、
当時はそれを古学とか、古文辞学と呼んでいたかも知れませんが、物を平たく見るというような基本的な姿勢があった学問です。
南部藩は、この朱子学と陽明学を折衷させようとした学問、折衷学をとった藩です。そしてこの藩から、明治になって内藤湖南という人物が出ています。
われわれ日本人で明治元年から今日に至るまで、トインビーに匹敵するような大歴史家を一人挙げよと言えば、文句なしに内藤湖南でしょう

433 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:20:39.15 .net
どうして大和政権が古代日本の代表的な勢力となったのか。4、5世紀であっても大和政権は、他の諸勢力に比して比較的大きかったが、絶対的ではなかった。
ところが7世紀になると、戦国乱世のような大規模な攻伐があったようには思われないのに統一性の高い国家ができた。この奇現象は、1869年の版籍奉還も同じである。
7世紀の面妖さは、5世紀の中国に隋という統一帝国が勃興したことにより説明できる。対外恐怖心が共有されたことが大きい。これは明治維新も同じである。統一国家の芯となったのは「律(刑法)・令(行政方)・格(例外的な法規)・式(細則)」である。
四者は相関し法体系をなした。これらは中国から導入した王土王民制(儒教に基礎をおく)である。しかし、制度のうち宦官と科挙は入れず、儒教も学問としては導入したが民間の宗教意識としては導入しなかった。これらを導入していたら日本は中国そのものになっていただろう。
6、7世紀に日本に導入された仏教もインドのそれとは異なる。王朝や氏族を守護するものとして導入された。平安初期の天台宗・真言宗もこの点で変わりはない。
日本では幸運にも、ついに、ヨーロッパ、中近東、インドあるいは中国のように、人々のすべてが思想化されてしまうという歴史を持たなかった。しかし、思想への憧れは持っており、宗教ではなく書物を通じて摂取しようとした。

434 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:29:07.73 .net
日本の13世紀はすばらしい時代であった。新仏教、彫刻におけるリアリズム、開拓農民の政権(鎌倉幕府)により、
律令制下で力を蓄えた公家・寺社勢力と対抗し、田を作るものがその土地を所有する権利を確立した。
この素朴なリアリズムをよりどころにする百姓の政権ができて、日本は中国や朝鮮とは似ない歴史を歩み始めた。
宋学(尊王攘夷)はイデオロギーであったが、このとりこになったのが後醍醐天皇である。日本の天皇としてではなく、中国の皇帝のようなつもりになり大乱を起こした

。後醍醐天皇は、建武の中興において、ごく自然な日本的体制であった鎌倉の武家体制を否定し、中国の皇帝のような専制権を持とうとした。
正成はこれに呼応して、河内金剛山のふもと赤坂に城塞を作り、1000名の手兵で幕府軍20万7600騎(太平記)の大軍に抵抗した。
北条執権府がいかに無能で弱いかを天下にさらけ出し、赤坂陥落後も、ゲリラ戦や正規戦で幕府軍を大いに苦しめた。
尊氏が北朝を立ててからは、焦土作戦を企画した。京都という都市は食糧を生産せず貯蔵もしていない。いったん京都を退いて敵の尊氏を京都に呼び込み、
四方を固めて敵を叩こうとした。しかし、帝の側近は帝が京都を退くこの策を受け入れず、聖運でなんとかなるのではないかとした。正成は、わずか500騎で兵庫に下り、湊川で一族とともに討ち死にする。
太平記読みは講談の源流であり、とくに江戸期、元禄のころ武士や庶民の間で隆盛を極めた。人気は正成に集中した。昭和になり、朱子の尊王論が国民教育に取り入れられ、楠木正成は思想語に近くなった。

435 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:52:06.03 .net
耽羅紀行 街道をゆく
十六、七世紀頃から、世界の経済や思想が騒然としはじめて、価値観が多様になる気配を示しはじめたころでもなお、中国と朝鮮は世界史に背を向け、独創を排し、
朱子学一価値に固執し、知性を牢獄に入れているとしか言いようのないこの制度を頑固に続けていた。
朱子学は、宋以前の儒学とは違い、極度にイデオロギー学だった。正義体系であり、べつのことばでいえば正邪分別論の体系でもあった。
朱子学がお得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪ということを議論することだが、こういう神学論争は年代を経てゆくと正の幅がせまく鋭くなり、
ついには針の先端の面積ほどもなくなってしまう。その面積以外は、邪なのである。

その試験は朱子学をもって唯一の学派とし・・・このことは、朝鮮史に凄惨な災禍をもたらした。朱子学は、考証や訓詁といった実証性よりも、大義と名分を重んじ、
それについての異同を飽くなくたたかわせる学派なのである。・・・中国人や朝鮮人ほどに、精神の活力に富んだ民族が、
世界が近代に入ってゆくもっとも大切な五世紀を、この屁理屈のような学問のために消耗したというのは、くやまれてならない。

韓国と日本の文化の違いは、韓国には知識人がいるだけで、日本のように知的な奇人がいなかったということだ。ということを、十年ばかり前、韓国人の文章の中で読んだことがある。
 ・・・私はこの人は李朝と江戸期を比較しているのだと思った。江戸期には太田蜀山人や平賀源内だけでなく、秋田の殿様で精妙な昆虫分類学者もいたし、
大阪の傘職人で蘭学の研究をした人もいたし、伊予宇和島の仏壇修繕屋だったハンパな職人が銅板張りの蒸気機関を作ったりもした。
 それらは、商品経済が活性化した社会が生み出す人間の精神の一分化で、人種論的なものではない。

436 :無名草子さん:2023/12/08(金) 14:54:15.61 .net
そのころ朝鮮には肩引きや動物に引かせる車さえ無かったというのは、文明史的な驚異である。
朝鮮人ほど思弁的能力の高い民族が、形而下的な面になると車も持たなかったというのは、要するに朱子学的な政治のせいではあるまいか。

朱子学というのは大義名分を論じ始めると、カミソリのような薄刃を研ぎにといで、自傷症のように自らを傷つけ、
他を傷つけたりもするイデオロギー

「潜水漁法は、済州島の海女が、日本の海女に教えたのだ」

<朱子学は、妥協を許さぬ方向へ人を駆り立てる思想>
日本でも朱子学的名分論を主流とした「水戸学」は、幕末の志士たちに大きな影響を与えたにもかかわらず、維新後の
明治政府の要職には水戸出身の姿は見えない。
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水戸藩内部では維新が成る前に、佐幕派の諸生党、勤王激派の天狗党で、血みどろの内部抗争が続き、惜しい人材
をみんな殺してしまったのだそうです

437 :無名草子さん:2023/12/08(金) 15:14:29.64 .net
司馬遼太郎『長安から北京へ
・ 大正期から日本の参謀本部は、中国に対する侵略ということを軍事思想の基礎に置いていたことはまぎれもない。
中国の領土の地面をおさえ、その資源を得て対ソ防衛をするという以外に防衛思想がなく、
しかも事故催眠をかけてそれが東洋平和のためだと思い、宣伝もした。

中国では礼教の外の民族(夷狄)を獣に類するものとしてきたが、
これは人種差別ではなく、「文化差別」というべきもの。

儒教は近代国家の原理と決してかみ合うことがない。
儒教の本質が同血の秩序を論理化したものである以上、「私」が絶対に優先する原理だから。

加害と被害の貸借対照表を作るとすれば、従来はモンゴル人のほうが常に加害者だとされがちだったが、
これは漢民族本位の見方で、実際には、漢民族の農民が上代以来、農地を求めてモンゴル地帯に進出し、
あるいは浸透し、それを漢民族の王朝が保護し、結局はモンゴル人の遊牧地を三色したという側面が強い。
清朝時代には、王朝の方針としてモンゴル人の力が弱められ、「外館(ワイコワン)」と称する、
魔物のような商業機構が北京に出現し、
モンゴル人相手の商売に、この世のものとは思えないほどのあくどさで儲け、
モンゴル人はこの外館に血を奪われて疲弊し、
日本の大正末期ころには救い難いほどに貧窮化させられることとなった。

中国が昔から互いにひとつの民族であるという認識を持てたのは、
「漢字」が「表意文字」であったことが大きい。
もし「表音文字」であったのなら、互いが同じ民族であるとは中々意識しづらかったにちがいない

438 :無名草子さん:2023/12/08(金) 16:38:05.90 .net
日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるをえなかった。ウラジオストックに停泊し、また欧露から回航されて来る大艦隊と戦うには、
やむなく大海軍であることを必要とした。応急の必要に迫られ、日本は開戦前7〜8年の間に世界有数の大海軍を建設した。
本来、大海軍というものは世界各地に植民地を持つような国において必要なものであり、無敵艦隊のスペインはそうした例の代表的なものである。
日露戦争後においても日本は世界中に植民地など有していない。大海軍は必要なかったのだ。
しかし、一度生まれた組織は、参謀本部という奇胎を背後に増殖を続けた。
日本における帝国主義は本当に存在したのか。たしかに日本は韓国併合を行ったが、
イギリスにおける帝国主義は、過剰な商品やカネのはけ口であるが、日本ではそんな過剰な商品など存在しなかった。日露戦争の勝利が日本国と日本人の調子をくるわせてしまった。
小村寿太郎は、ぎりぎりのところでポーツマスにおける講和を結んだ。日本にはもう戦争を続けるだけの力は残っていなかった。
しかし、国内では講和拒否、戦争継続を唱える新聞と大群衆を生んでいた。この狂気こそがその40年後の破滅への出発点であった。

満州へは当時無関税で商品を輸出していた。これにより現地の資本は総倒れとなったが、その商品たるや、人絹、砂糖、雑貨のようなものであった。
このちゃちな帝国主義のために国家が滅ぶこととなる。一人のヒトラーも出ずに大勢でばかな40年を持った国は他にはない。

439 :無名草子さん:2023/12/08(金) 16:43:05.25 .net
日本においては君主は君臨すれども統治せず、の姿勢を持ち続けた。江戸期に実権を持っていたのは藩主ではなく老中であった。

維新後、尊王攘夷思想は、尊王だけが残り、イデオロギー化した。マルキシズムを含め、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり論断するようになると、
幼児のようにあどけなく、残忍になる。

明治憲法は明らかに三権分立の憲法であった。統帥権などという用語は存在していない。日本の歴史は一級の歴史であるが、
この昭和10年から20年だけは異質な時代である
現在と日本史上の中世、近世には十分つながりがある。しかし、近代の昭和一ケタから20年の敗戦までは、日本史の中で非連続の時代である。
昭和前期の日本は、統一的な意思決定能力をもっていたとは思われない。
当時の参謀本部作戦課長に話を聞いたことがあったが、小石ほども実のあることを言わなかった

大概大概(テゲテゲ)という言葉が薩摩にある。上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとした指図はしない、といった意味である。
戊辰戦争の西郷隆盛、日露戦争の大山巌、東郷平八郎といった薩摩人はみなテゲを守った。これは薩摩の風土性というより、日本全体がそのような風である。
上の三名は、マスタープランを明示した後は、部署部署を責任者に任せてしまい、自身は精神的な象徴性を保つのに終始する。これに対し、山県有朋(長州)はこまごましたことを部下に指示した。
テゲであるには、人格に光がなければならない。そうでない人物が首領になると日本人は参ってしまう。
日本陸軍では、くだらない人物も大山型を気取り、スタッフに過ぎない参謀に大きな権限を持たせた。これら参謀は専断と横暴のふるまいをした。

440 :無名草子さん:2023/12/08(金) 20:19:04.79 .net
人間はよほどでない限り、自分の生国、母校などに自己愛のようなものをもっているが、この土俗的な感情は軽度の場合ユーモアになるが、
重度の場合は血生臭く、見苦しい。単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別次元のものである。
ナショナリズムは、本来、眠らせておくべき性質のものである。わざわざこれに火をつけるのは、
よほど高度の政治意図から出る操作であり、歴史はこれに揺さぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している。
ついでながら「尊王攘夷」も輸入思想である。宋(960-1279)では、征服王朝による侵略を受け続け、結局滅んでしまったが、その政権下で夷を打ち払い、
漢民族の正当の王を尊ぶべしという思想を生んだ。これは危機時におけるものであり、普遍性を持つものではない。

441 :無名草子さん:2023/12/08(金) 23:22:27.94 .net
本来の仏教はじつにすっきりしており、人が死ねば空に帰するという考え方で、釈迦も墓を持たない。他の宗教のような教義もなく、救済の思想もない。
解脱こそが理想であり、煩悩の束縛から放たれ、自主的自由を得ることが理想である。
一方、日本の宗教改革ともいえる鎌倉時代には、浄土真宗と禅宗が現れた。禅宗は、仏教本来の解脱的性格を備えている。一方、浄土真宗は、仏教よりもキリスト教に近く、救済の性格を持つ。
救済の性格は、本来の仏教にはなく、大乗仏教にはじめて現れるものである。
親鸞は大乗経典のなかでも『阿弥陀経』のみを自分の根本経典とした。阿弥陀仏をGODに近い唯一的存在ととらえた。親鸞の思想にはいっさい呪術性がなく、
これを排除した点はプロテスタンティズムに似ている。念仏はひとのためのものではなく自分のためのものであり、鎌倉時代の個の成立と関係がある

442 :無名草子さん:2023/12/09(土) 12:11:39.94 .net
・ 日本において、「将軍」という為政者は鎌倉、室町、江戸を通じ、大名対策を行う存在ではあったが、
人民をなんとか幸福にさせたいという思想は本来、絶無に近かった。
しかし中国においては紀元前から、曲りなりにも政治とは人民のためのものであり、
人民を離れて政治思想はないという伝統が継続してきたが、日本の歴代の権力には、そういうものが殆どなかった。

・ 中国の歴史には「王朝」と「民族」は存在したが、「国民」は新中国以前においては成立していない。
本質が違うが、国民国家の成立という点のみについていえば、新中国の誕生と日本の明治国家の誕生は酷似している。

中国においては、自国と他国とが対等であるというこの平凡な事実を知るのは、幕末から。
それまでは、世界は礼教をもつ自分たちの「天下」と、未だ礼教に服していない野蛮人たちの住む国という
二種類の認識しかもたず、この認識を強烈に支えるものが儒教だった。
中間の存在に「朝貢国」がある。
中国では、漢民族は多種類の民族の血が入り混じって民族の成立をみたためもあって、
相手が何民族であるかよりも、相手が「華夏の文化」に浴しているかいないかで自他を区別した。
もし「夷狄」の生まれであっても漢民族の衣服を着、その礼の習慣をもち、
漢民族の言語を使うという文化性さえ持てば、華夏の民であるとした。
以上の文化性のうち、時刻の言語を使う場合は、夷狄であるが、その場合は「外蕃」となった

443 :無名草子さん:2023/12/09(土) 13:46:09.05 .net
新選組をはじめたばかりで、鴻池の番頭になるのはつまらないと思ったのでしょう。近藤は言いました。
「自分にはとてもできないが、私の国元に佐藤彦五郎という人物がいる。尊敬すべき人で、庄屋なので経済にも明るい。彼を呼びましょう」
さっそく急飛脚を出した。当時もう「支配人」という言葉がありました。
「鴻池の支配人にならないか」
という手紙が佐藤家に残っています。私は佐藤家を訪ね、その手紙を見せていただきました。もっとも、佐藤彦五郎は断りました。幕府の制度で、庄屋はよその土地に移れないのです。近藤はまだ無知で、それをよく知らなかったようですね。
こうして人を得ずに、鴻池は明治維新を迎えます。大名貸しは大打撃を受けました。天王寺屋など、次々と金融家が倒産した。
鴻池もヨタヨタしていたのですが、そのとき早くも「住友」が出現しています。住友の先見性は士族を番頭以下に入れたことでした。
鴻池は立ち遅れた。立て直しに苦慮したあげく、住友を見習おうと、つまり再び士族を入れようということになった。
落語で「士族の商法」という話があります。士族の急ごしらえではうまくいかないという話です。
ところが住友、鴻池は「士族の商法」でなければと考えた。
鴻池は五代友厚に相談します。
五代さんは薩摩の志士あがりです。
明治になって疲弊していた大坂の経済を再興するために活躍し、この商工会議所の初代会頭になった人です。
いわゆる商家の出ではありません。
「いかがでしょうか。士族を一人回していただけないでしょうか」
鴻池は頼みました。
このころの士族とは、読書階級、知識人という意味でもありました。五代さんは考えて、
「土居通夫がいいだろう」
土居さんも商工会議所の七代目の会頭となった人です

444 :無名草子さん:2023/12/09(土) 13:48:47.09 .net
明治維新は徹底的な革命だった。諸藩に莫大な金を貸して富裕を誇った金融業は、鴻池を残して一夜でまるはだかになり、全国300万の士族とその家族は失業し、農民は米でなく現金で年貢を払わなくてはならなくなった。
江戸時代は幕府も藩も原則として自作農主義であり小作農は少なく、自作農は自給自足を原則としており、現金など持っていなかった。このため現金の入る家業の造り酒屋にたのみこみ、
自分の田の所有権を渡し、税金を肩代わりしてもらう約束で小作農になった。革命は、フランス革命やロシア革命と異なり、誰も得をせず、社会全体が手傷を負う形で成立した。
島津久光は、この革命の発端となった薩摩藩を率いていたにもかかわらず、こんなドラスティックな形での変革は望まなかった。彼は、新政府(太政官)を憎み、
西郷を安禄山であると悪罵した。西郷もこれは堪えたようで、新政府を辞して鹿児島に戻っている。久光は大久保も恨んだ。まさか版籍奉還をするとは考えていなかった。
大久保は冷厳な人物であった。儒教的な思弁を好まず、軽兆さがなく、現実主義だった。

忠臣蔵はお侍の話である。浅野家の若い殿様が、高家(儀典課長)の吉良にいじめられる。この浅野家の経済力の裏には赤穂の塩があった。
これが全国に流通していた。また、日本列島の沿岸を回船が運航し、商品流通を行っていた。
また江戸の識字率は世界一だったのではないか。文字を習わせるのは、聖賢の書を読むためではなく、農村や町方のこどもが
奉公した時に帳付けをできるようにするという、きわめて経済的な動機によるものである。江戸や大坂では劇場が栄えたが、これは貴族の保護によるものでなく、大衆の木戸銭によるものである。
商品経済の盛んな世になると、モノの売買、カネの貸借すべて個人が矢面に立つようになる。モノの価値を権力でなく相場が決めるようになり、江戸時代はそうした意味ですでに近代であった。
ヨーロッパにおける近代精神は、宗教的権威の否定、科学的合理主義と人格の自律性、人間主義の3つが柱であるが、
これらはすでにそれぞれ富永仲基、山片播桃、井原西鶴により江戸時代に育成されていた。明治維新成立の時、この日本が育てた近代に欧米の近代を接木していれば面白いことになったのではないか。

445 :無名草子さん:2023/12/14(木) 13:32:52.76 .net
朱子学は理屈っぽい、議論の学問です。私は朱子学を呪わしく思うときがあるぐらいなのですが、この影響を深刻に受けたのは中国より朝鮮でした。中国は広いですからいろいろな考え方が雑居できますが、朝鮮は狭いですからそうはいきません。
朱子学一元主義といいましょうか。李氏朝鮮は500年続くのですが、朱子学が国の隅々まで締め付け、人々は非常に理屈っぽくなった感じがするぐらいです。
秋山玉山はよくわかっていました。熊本というところは、一人一党の土地柄で、論を立て始めたらだれも譲らない。ただでさえ理屈っぽい、この肥後の風土の中で朱子学を学ばせたら、理屈っぽい人間ばかりになって、もうどうしょうもないと考えた。
ですから古文辞学を入れましょうと、これは荻生徂徠の学問であります。物を平たく見る学問でした。ちょっとオーバーな言い方をしますと、今日の人文科学に近い学問ですね。

446 :無名草子さん:2023/12/14(木) 13:41:04.13 .net
この国のかたち:日本は、すべての人が思想化される歴史を持たず、幸運だった
A 「日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている。」
A-2 日本には、普遍的な思想が、生まれなかった。

B 7世紀に、一挙に統一国家が成立したのは、キツネにつままれたように不思議。
B-2 大小の古墳を作った諸氏族や族長たちが、中国の統一(隋唐)に、恐怖した。

C 1869年の版籍奉還で、一夜にして統一国家となる。これも奇現象。
C-2 情報による想像の対外恐怖心(外圧)で、律令国家も、明治政府も、あっという間にできた。

D 律令制は、王土王民制だが、族長や氏族の長たちは、魔法のように、私有する土地を手放した。日本史がもつ不思議な「はかなさ」である。

E 日本は、隋唐の儒教を、面として、つまり民衆に溶け込んだものとしては、受け入れなかった。儒教は、中国では、血族的宗教意識である。
E-2 仏教も、日本では、鎮護国家の仏教であって、民衆を思想化しなかった。
E-3 インドのヒンズー教は、民衆の骨の髄までしみ込んでいる。
E-4 鎌倉仏教は、若干、民衆の思想化の方向を示したが、一時である。

G 「思想とは、本来、血肉になって社会化さるべきもの」だが、日本では、それは「好まれない」。
G-2 そのくせ「思想書を読む」のは大好きである。
G-3 「こういう奇妙な――得手勝手な――民族」!ほかにも、地球上にそういう民族がいるなら、「ぜひ訪ねて行って、その在りようを知りたい。」

447 :無名草子さん:2023/12/14(木) 13:45:06.34 .net
E 尊王攘夷思想は、宋で生まれた。
E-2 あわれな統一王朝宋で、金との対抗のため、「夷を打ち払い、漢民族の正統の王は尊ぶべし」との思想が生まれた。
E-3 この宋学が、新思想として、13世紀の日本に来た。
E-4 宋学は、欧陽脩、司馬光、そして朱子が大成させた。朱子学!
E-5 宋学の中核は。大義名分論と尊王攘夷論である。
F 日本では、13世紀に宋学が伝わるまで、「尊王」、「攘夷」、「大義」、「名分」などの観念は、なかった。
F-2 宋学は、“正義”の体系であり、日本の当時の読書界に、大きな影響をあたえた。
G 日本の13世紀は、素晴らしい時代。すなわち、関東に開拓農民の政権、鎌倉幕府が成立した。
G-2 武士は自作農、家の子は小農民。
G-3 鎌倉幕府は、素朴なリアリズムをよりどころにする“百姓”の政権だった。
G-4 京の公家・社寺と異なる土着の倫理が、「名こそ惜しけれ」!「はずかしいことをするな」という坂東武者のすがすがしい精神。
H 宋学的名分論の「夷」(エビス)など、日本には存在しない。京の公家、また彼らに依存する真言・天台の学僧たちが、坂東の大小の農場主の政権を、強引に「夷」とした。
H-2 後醍醐天皇は、宋学というイデオロギーのとりことなり、中国皇帝のつもりになった。やがて武家と対立し、南北朝の大乱を引き起こす。
I 中国では、元・明・清で科挙の試験は、朱子学によった。
I-2 朱子学の理屈っぽさ、すなわち現実より「名分」を重んずることの弊害。
I-3 李氏朝鮮の末期には、官学の朱子学が、亡国の因を作った。官僚は、神学論争に終始した。
J 徳川幕府は朱子学を官学としたが、江戸中期に、幸いにも、多様な思想が出てきた。すなわち、人文科学に近い荻生徂徠や伊藤仁斎。彼らは、朱子学の空論性を、攻撃した。
J-2 徂徠の実証主義は、清朝の考証学より半世紀早く、江戸期の思想に好影響を与えた。
K 日本で、おそるべき朱子学的幻想が沈殿したのは、水戸。
K-2 水戸光圀は、明の遺臣・朱舜水 を保護
L-2 革命思想(尊王攘夷)を守る革命政権(明治政府)は、あとから来たルソーの思想を、当然、危険思想扱いした。
L-2 明治後、教育の面では、宋学(水戸学)イデオロギーが、生き続けた。
L-3 左翼の間でさえ、水戸イデオロギー的な名分論のやかましい歴史が、続いた。

448 :無名草子さん:2023/12/14(木) 13:52:19.29 .net
A 1905年の日露戦争勝利から、1945年の日本敗戦までの「40年」。それは、日本の歴史における化物でのような期間である。
B 日本は、日露戦争の勝利後、形相を、一変させた。
B-2 日本は、にわか作りの大海軍を、日露戦争後、半減させればよかったのに、維持し続けた。みずからの防衛に適合した小さな海軍に、もどさなかった。
B-3 日露戦争では、やむなく大海軍を必要とした。日本は、開戦前7-8年で、世界有数の大海軍を建設。
B-4 ロシア海軍は、日露戦争でほぼ壊滅。再建には半世紀以上かかると、言われた。
C 大海軍は、本来、帝国主義国のみが必要とする。@植民地の威圧・収奪、A陸兵の輸送、B各地からの収奪物の運搬のため。Ex. スペイン、イギリス。
C-2 しかし日本は、日露戦争が終了したとき、そもそも世界中に植民地など持たなかった。
C-3 にもかかわらず、「栄光」の海軍は、目的が無いのに、大海軍を維持した。組織の自己増殖。
D-3 「参謀本部」が、ロシアの復讐を恐れた。
D-4 日露戦争後、1908年、参謀本部は、関係条例改正で、内閣どころか、陸軍大臣からも、独立した。
D-5 ただし、まだ“満州事変”のように、“参謀”たちの謀略で侵略戦争が起こされるところまでは、行っていない。
E 日本は、当時、経済が貧弱で、帝国主義ですらなかった。
E-2 過剰な商品と、過剰な資本(カネ)のはけ口のため、植民地を求めるのが「帝国主義」。つまり、企業の私的動機のため、公的な政府や軍隊を使う。
E-3 日本が、韓国併合したとき、日本の産業界に、過剰な商品などなかった。日本が朝鮮で売ったのは、タオル、日本酒、マッチその他、日用雑貨品だった。“ちゃちな”帝国主義。
日露戦争の勝利が、日本国と日本人を、“調子狂い”にした
この大会と暴動が、「向こう40年の魔の季節」の出発点となる
F-5 日比谷焼き討ち事件の原因は、@戦争の実相を明かさぬ政府の秘密主義、A煽るのみで真実を知ろうとしない新聞にもあった。
ただし、新聞が実相を知っていて煽ったとすれば、以後の歴史への犯罪である。
G 韓国併合について、ソロバン勘定としてペイするか、誰も考えなかった。
G-2 満州国を作った時も、ペイの計算がなかった。結果としてもペイしなかった。

449 :無名草子さん:2023/12/14(木) 14:02:35.58 .net
H 華北に、謀略的な冀東(キトウ)政権が1935年にできて、日本からの商品が無関税で輸出できるようになる。このため、上海などの中国の民族資本は総倒れ。抗日に、資本家も参加するようになる。
翌々年(1937年)、日本は、泥沼の日中戦争に入る。
H-2 華北の無関税化で、“満州”も儲かるようになるが、その商品たるや、1935年段階でも、人絹、砂糖、雑貨がおもだった。この“ちゃちな”帝国主義のため、国家がほろぶ。

4)“統帥権”の無限性:「参謀」たちが愛国的に自己肥大し、謀略を企み国家に追認させてきたのが、昭和前期国家である。

A 昭和ヒトケタから同20年は異胎の時代”である。ほかの時期なら、兼好法師、宗祇の室町時代、また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期と、連続性をもつが、昭和前期の20年は、全く非連続である。

ノモンハンで、関東軍は、戦車隊の育成と保全のためと称し、戦闘の進行中、戦車隊だけ撤退させた。
日本軍は、死傷者70%以上という世界戦史にも、まれな敗北。
D-4 ノモンハン事変は、関東軍参謀の独走で、参謀の元締めである東京の参謀本部さえ、事後に知らされた。
E 「参謀」という得体の知れぬ権能を持った者たちが、愛国的に自己肥大し、謀略を企んでは、国家に追認させてきたのが、昭和前期国家である。
「無限に近い権能をもちつつ、何の責任もとらされず、とりもしない」
敗戦の責任は、生き残った何人かの部隊長にかぶせられ、自殺させられた人もいた。参謀は責任を取らない。当時、日本陸軍の暗黙の作法として、責任を取らせたい相手の卓上に拳銃を、置いておいた。
G-4 かの連隊長(元大佐)は、自殺を拒否。このため退職させられた。

アメリカ軍が本土上陸すれば、避難する国民をひき殺して南下しない限り、戦車は進めない。道路が2車線しかなかった。

C-2 旅の僧(実は北条時頼)に、鉢の木を焚いて暖をとらせた佐野源左衛門常世、そして平明な良心だけを政治の心としていた時頼。彼らこそ、日本人の代表だった。

450 :無名草子さん:2023/12/14(木) 14:23:26.82 .net
 明治維新は、「国民国家を成立させ、日本を植民地化の危険から救い出す」というただ一つの目的のために、一挙に封建社会を否定した革命。
C 明治維新は「徹底的な革命」だった。
@ 諸藩に莫大な金を貸し、富裕を誇った大阪の金融業は、鴻池を残し、すべて一夜で丸裸になった。
A 全国300万の士族とその家族が、失業。
C-2 「明治維新は革命でなく、権力が移行しただけ」との説は、のんきすぎる!
C-3 明治維新は、封建性が一挙に否定されたので、“階級”として得をしたものがいない。
D 太政官政府だけが、うまい目を見ているとされ憎まれた。
D-2 薩摩の島津久光も、新政府を激しく憎んだ。藩そのものも否定され、「家来どもにたぶらかされた」と久光。
D-3 久光は、西郷隆盛を、「安禄山」と、ののしり続けた。
D-4 西郷が、新政府を辞した感情的な理由の最大のものは、久光からの悪罵。
D-5 久光は、「新政府が、まさか版籍奉還はすまい」と思っていた。ところがM2、版籍奉還!
E 久光は、西郷と同様、大久保利通も、憎む。主筋から人格もろとも否定された西郷と大久保(太政官の二大巨頭)は革命の成立後、笑顔を忘れた。「旧主筋を裏切った」という倫理の基本を揺るがす呵責。
E-2 大久保は「冷血」(福地桜痴)をもって、情熱のすべてを国家建設にそそぐ以外なかった。
F 明治初年の太政官の重要な構成員の多くは、旧主家に対し複雑な感情。その感情を礼節で補った。
F-2 大久保、もしくは太政官の権力は、背後の神のようなもの、聖なるもの、聖なる虚空を必要とした。
F-3 諸藩の下級武士が、@将軍を政権から追い、A旧主である諸侯から統治権を取り上げ、B四民を平等にし“国民”というそれ以前の日本になかったものを創り出す。
F-4 悪意がインプットされた「天皇制」の語だけで、明治維新や明治期をかたづけることはできない。

451 :無名草子さん:2023/12/14(木) 14:29:26.70 .net
A 江戸期は、商品生産、流通が盛んだった。
A-2 忠臣蔵によれば、浅野家が、一晩で江戸城の畳替えができるほど、江戸には多くの畳屋があった。
A-3 赤穂塩が、とびきりのブランド品として、全国に流通するなど、江戸期の経済社会は、“近代”だった。
A-4 江戸期には、日本列島沿岸を、商品を運ぶ廻船が、すきまなく旋回した。
A-5 北前船:@大阪湾出航のとき六甲山麓の菜種油・綿布を積む→A赤穂で赤穂塩→B伊予で蝋(ロウ)(ビンツケやローソクの材料)や絣→D周防で紙を積む→Eそれらを日本海航路の諸港で売り、また諸国の物産を買う→F敦賀でムシロ(肥料用干ニシンの梱包材)を買う→G松前で干ニシンやコンブを積む→H大阪の靭(ウツボ)(全国的な金肥の問屋街)で干ニシンを売る→I干ニシンは河内などの綿作地で綿に化ける→J再び全国に運ばれる・・・・

B 江戸中期の日本の識字率は、世界一レベル。農村や町方の子どもが、奉公で帳付けができるための寺子屋。
B-2 無学だと、船で船頭になれず、商家で手代・番頭になれず、大工で棟梁になれない。これは、“近代”的!
C 大坂や江戸で劇場、相撲の興行。貴族の保護によらず、大衆の木戸銭で運営されていた。これも“近代”的!

D 江戸期には、商品経済社会の発展で、ルネサンス期のように、個人の自覚の高まり生じた。中世では、ひとびとは、ブドウの房のように一族として、ぶら下がっていた。
D-2 商品経済の社会では、モノの売買、カネの貸借で、個人が矢面に立つ。神仏の加護、家格の権威でなく、現世的人間主義、個人の自律性が、要求される。
D-3 モノの価値を決めるのは、権力でなく、相場。ひとびとは、合理主義者となる。
D-4 江戸中期ごろから、「“近代”という潮が腰まできていた」。

452 :無名草子さん:2023/12/14(木) 14:31:03.79 .net
F 明治政権は、「近代」を欧米から買ったが、「近代」は江戸期日本に、少量はあった。明治政権は、それを知らなかったか、黙殺した。
F-2 ヨーロッパの近代精神とは、(1)宗教的権威の否定(Ex. 富永仲基)。(2)科学的合理主義と人格の自律性(Ex. 山片蟠桃、三浦梅園)。(3)人間主義(Ex. 井原西鶴)。
G 明治維新の時、日本・江戸期の“近代”的な要素に、欧米の近代を接ぎ木できるとよかった。そうすれば、昭和の初期、あれほど「思想として痩せた社会」に、ならなかったろう。
G-2 雄藩の下級武士の教養は、朱子学的なものだった。(一部、国学的なもの。)
G-3 日本の風土的な近代主義者は、坂本龍馬(質屋の分家の子)だったが、政権樹立前に倒れた。
H 「近代の超克」は戦時中(S17)、知識人に衝撃を与えた。戦後は、「近代の超克」は、「軍の戦時指導に調整的役割を果たした」と、評判が悪くなった。
H-2 小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、下村寅太郎、河上徹太郎など。
H-3 近代とは、本来、「ガラのわるさ」、「モノの質量を、大衆レベルで比較する精神」、「モノを比較して、ハダカの価値を見てしまう精神」。
H-4 ところが、「近代の超克」派は、「ヨーロッパ文明に依って教育されてきた」などと、「品がよく、教養的な」近代について、語る。
H-5 近代とは、“三八式歩兵銃を何十万挺ならべたって、世界を相手に戦争はできませんよ”といったガラの悪さのことである。
H-5 「戦後のガラのわるさ」こそ、江戸の“近代”に対応する。
H-6 戦時中の「近代の超克」が語る“近代”は、「痛ましいほどに品がよく、教養的」である。それが、明治国家が、買いに買った近代であった。

https://blog.goo.ne.jp/higa58/e/515574df904f470d45c1098da385f0fc
司馬遼太郎『この国のかたち

453 :無名草子さん:2023/12/14(木) 18:33:01.50 .net
街道をゆく 28 耽羅紀行
海女やシャーマニズムなど昔の日本と生活スタイルが似ていることを指摘している。
また、蒙古が元として中国・韓国を統治していた時代に、日本に襲来していきた
蒙古軍がこの島の漢拏山麓の草原で蒙古馬を放牧し、現地人として土着化したことなども興味深い。
そして朝鮮半島が高麗朝から李氏朝鮮にとってかわられてからの儒教・朱子学が人民をいかに苦しめたという歴史が説明されている。
そして李氏朝鮮が科挙制度を導入し政治闘争が絶えず、その負け組で死罪を逃れたものが
島流しにされた島であることが記され、日本の隠岐や八丈島に似ている。
また、李氏朝鮮は奴婢を含めていくつもの賤民を作っていたが、漁民や聖職者もその中に入っていたのは日本と異なっている。海女のように裸になることは賤しいこと、
また目に見えない神や霊魂を語ることはタブーで孔子の論語に怪力乱神を語らずとある。共に儒教の影響で日本とは異なることが印象的だった。
著者によると、日本の江戸時代に儒教・朱子学を幕府は推奨したにもかわらずその被害を受けなかったのは、
儒教ではなく儒学を学んだだけで生活や政治にはさほど取り入れなかったことが功をなしたと言っている

454 :無名草子さん:2023/12/25(月) 02:14:47.24 .net
日本にとっては遠いヨーロッパでおこった戦争だが、普仏戦争(1870〜1871)ほど、ひとの国同士のさわぎながら、日本に影響の大きかった事件はない。

「幕府がフランスに魅力を感じたのも当然であろう。幕府はナポレオン三世の寵臣のひとりである駐日公使レオン・ロッシュをまるで政治顧問のように信頼し、ロッシュも幕府瓦解までこれを自分の政府のように愛着をもった。
小栗ら幕府の急進的な改革派は、同時代の最大の偉人はナポレオン三世であると信じた

三世は、大ナポレオンのおいというだけのきわめて薄弱な政治的根拠を手品のたねにし、大の没落後、フランスは何度も革命的な
政変の歴史をへているにもかかわらず、二月革命のどさくさのなかから皇帝という時代遅れの地位をつくりあげてしまった

「プロシャの宰相のビスマルクがさまざまの手でフランスを挑発しナポレオン三世はついその手に乗り、景気よく宣戦布告した。ひとつにはこのころには
三世皇帝の政治的寿命がそろそろ尽きはじめており、外征をすることによって国民の関心を外にむけようとしたこともあったがなによりも彼がフランス陸軍の精強さについての信者であることだった。当然、勝つとおもった

これが明治になり、普仏戦争でのフランスの敗北とナポレオン三世の失脚によってがらりとかわるのだが、かわるまでにすこし話がある

455 :無名草子さん:2023/12/25(月) 02:23:38.78 .net
中国は日清戦争で一方的に敗北を喫し、そのために列国からナショナリズムがない、国を守る気概がないと見なされて一斉に侵略を受けたと『坂の上の雲』で司馬遼太郎が言っている

『坂の上の雲』を完全に読了。いろいろ印象に残ったことはあるが、明治の陸軍の肋骨服といわれる黒に金モールの軍服が、カーキ色の昭和陸軍のものに変わったのが奉天会戦のころ、つまり日露戦争中に満州の
黄色い荒野で敵に目立たないようにするためだったというのをはじめて知る

456 :無名草子さん:2024/01/08(月) 17:15:17.00 .net
司馬遼太郎氏の言葉です
職人。実に響きがよい。日本は世界でも珍しいほど職人を尊ぶ文化を保ち続けてきた。
近隣の中国や韓国では職人を必要以上にいやしめてきた事に比べれば、日本は「重職人主義」の文化だったとさえ言いたくなる。
『この国のかたち』よ

457 :無名草子さん:2024/01/09(火) 11:03:52.88 .net
司馬遼太郎『この国のかたち』の第六巻に「醤油の話」がある。
覚心という信州出身の禅宗のお坊さんが中国から帰り、和歌山県の湯浅で径山寺味噌をつくった。すると上に液が溜まり、それを取り出したものが醤油の原型となって、16世紀初めに千葉県野田に伝えられたそうだ。
そして、飯田市郎兵衛家が醤油の醸造を開始した

江戸期の赤穂の塩は日本一の品質をもっていた。「いいものがほしい」という、商品経済の熟成期の傾向がすでに社会をおおっていた。塩であれば何でもいいという社会ではなくなっていたのである

もしソ連が、無償で北方四島を日本に返還するようなことがあれば、それとおなじ法解釈のもとで、多くの手持ちの領土を、
それはわが国の固有領土だと思っている国々に対しても返還せねばならないという理屈がなりたつ。ソ連の首脳部にとって、返還など、無理難題を越えたほどのことだということを、私どもは成熟した国民として理解しておく必要がある。

ヤルタ協定では、広大なモンゴル高原と、小さな千島列島とが、それぞれ一条項を立て、等価値であるかのように相並んで記され、
アジアにおける戦後領域がきめられたのである。このことは、もし千島列島をソ連が日本に返還するとすれば、ヤルタ協定が崩れ、モンゴル高原もまた、中国側から要求されればその「現状が維持される」ことを、法理的にはやめざるをえなくなる

。中国のように長城や防御力をもつ都市をつくるにいたらず、また西方のローマ文明社会のように城壁と石造城館をもつ都市国家をつくるということもしなかったということが、ロシア国家史の開幕を遅らせ、またその遅い開幕を内容をも特異なものにしたといえる。

江戸期の大名は、行政の場である「表」だけでなく、私生活の場である「奥」までが行政化されていた。性生活ですら相続をたしかなものにするための子供づくりという目的意識が明快で、まわりの家臣たちから管理されていた。

458 :無名草子さん:2024/01/09(火) 11:10:35.10 .net
江戸時代は武士の面でとらえてもいいが、商品生産や流通の異常な盛行という側面からみると、性格がはっきりしてくる。
 当時、長大な日本列島の沿岸を、商品を運送するための廻船がすきまなく旋回していた。例えば、北前船の場合、どの船も大阪湾を出る時に、六甲山麓で搾油された菜種油や綿花を積む。その後、決まって赤穂の外港により、赤穂塩を積むのである。また伊予ではビンツケやローソクの材料の蝋や絣(かすり)、周防では紙といったように、各地の商品を積む。それらを日本海航路の諸港で売り、土地の物産を買い、途中で敦賀ではムシロ(北海道でつみこむ肥料用の干しニシンの梱包材)を購入する。松前では船ばたがずっしり沈むほど干しニシンや昆布などを積み、干しニシンは大阪の靫(うつぼ:全国的な金肥の問屋街)に売るのである。干しニシンは河内などの綿作地の土の中に入って、綿に化け、再び全国に運ばれる。

 さらに違う面は識字率である。江戸中期以後の日本の識字率はあるいは世界一だったと思われる。子弟に文字を習わせる武士を除き、農民や町人のこどもが、奉公した時に帳簿付けがでるように親が願って、我が子に習わせるのであり、無学だと、船に乗っても船頭になれず、商家につてめても、手代・番頭になれず、大工に弟子入りしても棟梁になれなかった。
 また、大阪や江戸では劇場がさかえ、相撲が常設的に興行され、大衆の木戸銭で運営されていた。

 さて、モノには質と量があり、これを教えるのは商品経済の社会である。この商品経済がさかんな世となると、モノの売買もカネの賃借もすべてが個人が矢面に立つことになる。
こういう社会になると、神仏の加護は頼めず、家格の権威も役に立たないため、人々は現世的な人間主義やおのれ一個を戒める自立性をもたざるをえなくる。また、モノの価値をきめるのは権力ではなく、相場である。ゆえに人々は知らず知らずに合理主義者になる。
 江戸中期は人々の自覚なしに、『近代』という潮が腰まで来ていた。

459 :無名草子さん:2024/01/14(日) 13:08:53.68 .net
メッケルは参謀教育をするのについては現地へ行くのです。これが当時のドイツふうですね。古戦場へ行く。古戦場で最大のものは関ケ原です。関ケ原へ参謀たちを連れていって、メッケルが統裁官になり、参謀を石田方や徳川方にさせて作戦の訓練をするわけです。その時メッケルはさほどの
予備知識なくして関ケ原盆地へ入っていったのです、両軍の配備地図だけを持って。両軍の配備地図というのはもう徳川期にできておりましたですからね。メッケルはそれをじっと見ていて、「石田方の勝ち」とまず宣言したわけです。
誰が見ても石田方の勝ちなんです。先にふれましたように、石田方は大垣から夜行軍によって戦場に先着していた。それ以前から到着していた部隊もある。それぞれが丘陵のいいところに場所を占めており、その丘陵たるや、
東軍が赤坂から入るには一つしか道がない。赤坂というのはやや低い土地で、その低地から大げさにいえば登るようにして二列縦隊ぐらいで東軍が入ってこなければならない。これでは袋のネズミになるわけであり、部署からいえば、まさに石田方の勝ちなのです。
ところが、当時の参謀―日本人将校たちが、いや、そうじゃないんです、石田方が負けたのです、といっても、メッケルはそんなバカなことがあるか、これは石田方が勝ったのだ、といいはってきかなかったらしい。
しかたがないので当時の政治情勢と徳川家康の威望を説明したわけです。家康が戦う前にすでに一種の世間の機運と自分の威望を計算しつくして、
敵に対して内部工作をしていたこと、そして裏切り、もしくは戦場で中立をとる者が続出するであろうという期待を持っていたし、その手もうっていた―それで結果がメッケルの考えたのと違うことになったのだ、と説明したのですね。
するとメッケルはすぐに、ああ、わかった、政略は別だ。純粋に軍事的にみれば石田方の勝ちだが、その上に政略という大きな要素がのればこれはまた別だ、といったという話です。

司馬遼太郎「関ケ原私観」(『歴史と風土』

460 :無名草子さん:2024/01/22(月) 16:22:04.60 .net
「どの国府もそうだが、水害のすくない場所がえらばれていた。そのくせ、まわりに美田があり、細流も流れている、という場所が理想とされた。さらには交通路に不便があってはならない、というのも条件だった。(略)三角洲とか扇状地とかよばれる水害の多い低地に大集落(たとえば城下町)が進出するのは、豊臣秀吉がえらんだ大坂が最初である。次いで江戸、広島、名古屋など、海に面した土地に大城下町が営まれるのが普通になった。理由は、水害の危険よりも、商品経済のために、河口港を付属させるという利益のほうが大切になったのである」。

461 :無名草子さん:2024/01/25(木) 17:11:54.00 .net
司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、「実は華も礼も虚礼に過ぎない」と書き記している。その例の一つとして、「李氏朝鮮の場合、社会の底にいる聡明な小児をえらび、男根を断って宦官にし、宮廷で秀才教育を施した。
明の宮廷への工作のためだった。ありようは、朝鮮国王から『天朝』に美姫を献ずるとき、お付きとしてその宦官をも贈り、入り込ませるのである。
その宦官は学才があるため、当然ながら明の宮中で出世をする。明のほうもよく心得ていて、朝鮮国王の代がかわるとき、冊封のための勅使としてその朝鮮系宦官をその母国に派遣するのである。ブラックユーモアといっていい。
天朝の勅使になったその朝鮮系宦官は道中、ほしいままな気儘をはたらき、賄賂をふところにいれつづけ、ついに母国の王城にいたる。朝鮮国王は城門のそとでその宦官に拝跪するのである。壮大な虚構ではないか」と記す[12]。
この他にも司馬遼太郎は同書の中で、「清の世になると、朝鮮は(オランケと蔑視していた女真族・満州人の)
清朝に対して前代の明朝と同様、これを、『天朝』ととなえ、清国皇帝に手厚く事えた」としながらも、「内々においては清朝をもって夷狄とののしり、また女真風に辮髪させられている中国人民についてはこれを『犬羊』であるとした」と記す。そして「このような腸捻転(ねんてん)にも似た思想的閉塞は朱子学という思弁哲学の惨禍であったともいえる」

462 :無名草子さん:2024/01/25(木) 17:59:46.96 .net
司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、
「朝鮮では明の年号を使用するとともに、両国は儒教という思想を共有し、祭典もまた朝鮮は明の礼制に合わせた。朝鮮固有のシャーマニズムを淫祠とし、また廃仏毀釈(仏教弾圧)をおこなって、
儒教の優位性を高め、観念の上では中国以上の儒教国家となった」とし、「やがて本流である中国の「中華」に対し、支の国として『小華(小中華)』と称するようになる」と同書の中で述べる。
そして「小華である以上、その徳に服する蛮(蕃)が必要となる。このため他の国々(日本や琉球や満州の一部など)が(思想的に)それらに当て嵌められた」と関係性を述べ、
「この理(空論)によって日本は蕃国(野蛮国)とされた。ただ朝鮮という華に朝貢してこないのは、日本がそれだけ無知だったという形式論になった」

韓のくに紀行』の中で、「儒教というものは、日本にあっては紙で木版画印刷された書物というかたちをとりつづけてきたが、中国ではもっとおそるべきものである」
と記す。それは「漢以来、(儒教が)統治の原理であり、多分に体制そのものであり、これを統治させるものからいえば人間関係の唯一の原則で、人間であるかぎりこれ以外の習俗はない」

「李朝五百年間、中国的儒教体制の模範生であった朝鮮は、中国の歴代王朝から、『東方儀礼ノ国』とほめられつづけたように、
習俗として礼教を重んじつづけてきた。むろんそれは形式主義であってもかわまない。むしろ形式主義こそ国家と人間の秩序にもっとも大切な物だというのが、儒教的な思考法である」

朝鮮儒教は華夷の差をたてることに敏感だった。『小華』である以上、その徳にすいふくする『蛮』(蕃)をもたねばならない」とし
「このため、(儒教)思想的に日本が蕃(野蛮)に当て嵌められた」

「朝鮮王から派遣された1人なので、対馬の殿様なんてものは自分より下だと思っている」

小中華という架空の真実のなかで生きる儒教の徒の申維翰は、日本人に対し、『人』という文字をつかわないのである。人とは文明人のことで、
申維翰的定義では、中華と小中華の場合のみつかわれるのに違いない」

463 :無名草子さん:2024/01/25(木) 18:00:59.38 .net
江戸時代の沸騰した商品経済や、庶民を含めた識字率の高さ、商売での公の精神などには目もくれず、華夷の差別感だけで日本を見たとされ[12]、
しきりに「笑うべし」という問投句を入れつつ[12]、さらに中国古典にあった『士農工商』という言葉さえ使わず、
『国に四民あり、曰く兵農工商』と言った。このことについて司馬遼太郎は『この国のかたち』の中で、儒教文明にあって『兵』は卑しいものとされ、たとえば中国の俗諺に「良い鉄は釘にならない。良い人間は兵にならない」
とあるように、兵とはあぶれ者ややくざ者が王朝の徴に応じて兵になるものとされ、読書階級の士である申維翰は、『士』という言葉を日本人に使うことを惜しんだとしている

464 :無名草子さん:2024/01/28(日) 22:15:19.02 .net
鄭家は大軍を養うために、台湾における漢人開拓農民を、残念ながら奴隷にした。
 というより、それより前、38年間この島を統治してきたオランダ人の奴隷農民をひきついだのである。
もっとも、鄭家の台湾時代、全軍が屯田兵になって農地をひらいた。
 そういう農地は、とくに“営”とよばれた。いまでも地名にその痕跡がのこっていて、
たとえば台南県の平野に、「新営」
という小ぶりないい町がある。その南に林鳳営、林鳳営の西に下営などという集落もあって、いずれも鄭氏時代の名残りといえる

 中国は前漢の武帝以来、儒教が国教とされ、二千年もそれがドグマとしてつづいた。 
つらぬいて人治主義だった。 身もふたもなくいえば、歴朝の中国皇帝は私で、公であったことがない。
その股肱の官僚もまた私で、たとえば地方官の場合、ふんだんに賄賂をとることは自然な私の営みだった。このため近代が興りにくかった。
 台湾にやってきた蒋介石の権力も、当然私であった。一方、勝者になった毛沢東(1893〜1976)の権力も、多分に私だった。
 毛沢東の権力が私でなければ、プロレタリア文化大革命のような私的ヒステリーを展開できるわけはないのである。

後藤新平は、日本ふうの法律万能が現地の不評を買っていることを知っていた。のちのち台湾が法治国家の一部として熟するにせよ、いまは“科学的(生物学的)にやる”と言い、また、“無方針でゆく”ともいった。

シンガポールの指導者、リー・クワン・ユーさんが豪州に行ったとき、「いまの豪州人が英国人だと思っていないように、われわれも中国人ではありませんよ、シンガポール人です」、そういったそうです。
 ドイツ人もスウェーデン人も同じゲルマン民族です。しかしドイツ人が「君も私も同じゲルマン人じゃないか」といって、スウェーデンで物を売ることはない。スペイン人がフランスに行って、おなじラテン人のよしみで、などともいわないでしょう。
 漢民族ではあっても、台湾は台湾人の国ですね

大陸の政権は、本来ならば住民の意思を聞くべきでしたね。チベット人に、モンゴル人に、ウイグル人に聞けばよかった。聞く余裕も思想もなく、清朝の版図をそのまま継承した。(p.419)

465 :無名草子さん:2024/01/28(日) 22:25:18.15 .net
「ほかの国を植民地にするのは、何よりも他民族の自尊心という背景をくだくことで、国家悪の最たるものだ」

「内蒙古を国土にしているのも、住民の側からみれば実におかしい。
毛沢東さんの初期の少数民族対策は理念としてよかったが、実際には内蒙古もチベットも、住民は大変苦痛なようですね。それをもう一度台湾でやるなら世界史の上で、人類史の惨禍になりそうですね」

「中国のえらい人は、台湾とは何ぞやということを根源的に世界史的に考えたこともない」

466 :無名草子さん:2024/01/28(日) 22:33:57.20 .net
現代中国の統一者である毛沢東も、漢の武帝と同様、一思想をもって統一を維持しようとした。(中略)
もっとも、武帝の世とは違い、毛沢東のやり方は苛烈だった。かれの
教説に沿わない者は、殺されたり幽閉されたりした。この点では、清朝よりもさらに”古代”だったというほかはない。

漢民族世界は、孔子が音楽好きであったように、古代は音楽がさかんだった。
歴代の王朝は、宮廷に伶人(楽官)を抱え、華麗なものだった。とくに唐朝の国楽が日本に影響して雅楽になった。
ただ、漢民族世界は、王朝が亡ぶたびに、音楽も亡んだ。前王朝につかえた伶人が、殺されるのを避けて逃げてしまったからである

人間は、一個の精神のなかに、子供と大人を同時に持っている。子供
の部分で恋を語り、芸術に接し、科学・技術や芸術を創造する。さらには正義を語る。
だからこそ大人は、終生、自分の中の至純な子供をひからびさせるべ
きではないのだが、その方法は少年少女期の教育にある、と伊沢は思ったに違いない

もう少し非学問的な空想をつづけると、”高砂族”と日本時代に呼ばれ
てきた台湾山地人の美質は、黒潮が洗っている鹿児島県(薩摩藩)や
高知県(土佐藩)の明治までの美質に似ているのではないか。
この黒潮の気質というべきものは、男は男らしく、戦いに臨んでは剽悍で、生死に淡泊であるということである

花蓮はいいまちである。ただ、ほとんどのまちの人達の家祖がここ百
年来の移住者だけに、移ってきたときの悲しみが、まだ乾かずにいる。
準造氏は、そういう悲しみを小石の中から見出そうとしているらしく、拾っては袋に入れていた

467 :無名草子さん:2024/02/12(月) 16:12:38.95 .net
柴田錬三郎と野坂昭如が司馬遼太郎は資料を集めるしか能がないなと言っていたな

468 :無名草子さん:2024/03/09(土) 23:17:16.14 .net
昭和の戦争について批判的な司馬遼太郎ですら、『坂の上の雲』の中で、ロシアは日本に対して白人同士ではあり得ないサディスティックな折衝をやっており、同じように「ハルノート」もサディスティックな要求で、白人同士の国ではあり得なかっただろうと書いている

469 :無名草子さん:2024/03/19(火) 22:18:09.34 .net
蝦夷地は河内の棉作の盛行により活況を呈する。棉が多くの「蝶」をつけるにはすさまじい肥料を投入しなければならない。はじめは干鰯が投入されたが、おいつかず、
鰊が用いられるようになった。その鰊がすべて蝦夷地から運ばれてくる。
盛況だった頃は、松前城下の三人の家老の屋敷は、江戸で言えば諸侯の館のようであったといい、家老でもない家でも一万石の館ほどはあったという

徳川慶喜は大坂城におり、京の薩長と向かい合っていた。大坂の旧幕府軍が五万、京都側は五千。さらに大坂湾には開陽丸以下四隻がある。幕府側が負けるはずがなかった。
だが、と司馬遼太郎氏は言う。日本の変動期は奇妙なもので、源平決戦や関ヶ原のように、旧時代を背負う勢力が兵力も多く、地の利も有利であるのに、あたらしい時代を背負う兵力寡少の側に負けてきた。
面白いのは、横浜あたりの外国人の目から見れば、新政府に対する信用はなかったようだ。発行されている外字紙で新政府びいきのものはなく、徳川方がいずれ政権を回復するという観測をもつもののあったそうだ。

開陽丸に掲揚されている国旗は、徳川国家の国旗である日の丸の旗だった。日の丸は幕府が総船印として制定したもので、いつの間にか外国人もこれを日本の国旗として認識するようになったようだ。
これをいつ明治政府が継承したのかはよくわからないそうだ。戊辰戦争での新政府軍の旗は菊花紋だった。

470 :無名草子さん:2024/03/19(火) 22:41:47.72 .net
独自の文化に閉じこもっていた民族が世界史的な潮流の中で自立しようとする時に普遍性にあこがれる傾向があることを指摘している。そして、そのために夢中に跳躍するというのだ。
それが端的に見えるのが、兵器というものであるという。この兵器は普遍性を戦慄的に体感できるものだともいっている。
この兵器によって引き起こされる戦争。
戦争は補給が決定する。補給が相手よりもはなはだしく劣弱になった時に終了するというのだ。ベトナム戦争は敵味方とも他国から無料で際限なく補給されている。
なら、どうなるか。あるベトナム人は、ベトナム人がいなくなるまで戦争は続くという。
ベトナムでは韓国人は憎悪と嫌悪の対象だという。
というのは、ベトナム戦争で韓国兵は強く、不幸なことに殺人技術者としての悪い印象のみをベトナム人に与えたというのだ。
だが、この両国は歴史も地理的環境も酷似しているというのだ。それは、両国とも中国の歴史的変化に大きく巻き込まれ、そして、
それによって政治的な体制も大きく変化を経てきていることに起因している。
似たような運命を経てきたのに、皮肉な結果となったのがベトナム戦争だったといえる

471 :無名草子さん:2024/03/20(水) 10:13:19.33 .net
「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。」と井上光貞・山本健吉は述べている。

また、司馬遼太郎・上田正昭・金達寿の対談集によれば「飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない」と語り、
「飛鳥における政治の実権は蘇我氏<朝鮮人>の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」と亀井勝一郎氏は述べている。

「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。」と佐々克明は述べている

472 :無名草子さん:2024/03/23(土) 15:37:54.23 .net
薩摩藩領に入る。その夜は鹿児島の三大ホテルの一つといわれるところに泊まったが、その猥雑さに鹿児島には洗練された文化意識というものが絶えてしまったのだという思いを抱いた。

九州が豊かさゆえに中央から独立圏を形成しえたこと、一方で、薩摩藩では富農富商が育たず、伝統を溜めこんで洗練し、次代に継承していくことがなかったため、明治で藩がくつがえると同時にすべてを失ったということが述べられている。

473 :無名草子さん:2024/03/24(日) 13:25:46.68 .net
時代小説の戦後史 柴田錬三郎から隆慶一郎まで』 縄田一男著(新潮選書、1650円)

『眠狂四郎』『柳生武芸帳』『魔界転生』……。戦後の文壇で一世を風靡(ふうび)した剣豪・時代小説。そのヒーロー像には作家の激烈な戦争体験が影を落としていた。柴田錬三郎、五味康祐、山田風太郎、隆慶一郎、
4人の流行作家の実像と名作誕生の背景を、大衆小説評論の第一人者が解き明かす。

474 :無名草子さん:2024/03/26(火) 13:23:31.84 .net
北上次郎
いやはや、面白い。いま読んでも面白いのか、と驚いてしまった。
直木三十五なおきさんじゅうご『南国太平記

ようするに、小太郎に倒されて地面に横になるというシーンだが、
それを「外」から説明として描くのではなく、庄吉の感覚として「内」から描くのである。
すなわち、足に大きな力がぶつかって、次に気がつくと青空が見えていた
――つまり地面に倒されていた、
というわけだ。すごくリアルで肉感的といっていい。

句点を多用して独特のリズムをつくり、そのために読みやすいこと。

本書は86年前に書かれた長編ながらも、アクションの切れがよく、
文体のリズムがよく、わき役たちの造形もいいという傑作である。

475 :無名草子さん:2024/03/31(日) 22:41:08.82 .net
・忠誠心という、この甘美な精神は、中世のひとびとの多くに、原液として湛えられていたかと思える。ただ農民の場合、その対象がなく、武士の場合も、地上のなまの主人もさることながら、天国の支配者であるキリストに仕えることのほうに強烈な昇華を見出したのではないかと思える。
こういう点でも、インドや中国の社会よりは、当時の日本の社会のほうが、切支丹受容にむいていたであろう。
ザビエルが、「東インド地方で発見された国々のなかで、日本の国民だけがキリスト教を伝えるのに適している」と報告したのも、むりもないことかもしれない。

・ところが、ローマ法王庁は、当時も、そしてこんにちにいたるまで、かれらを殉教者としては認めていないのである。その理由の一つは、神父が存在しない場所で事をおこしたということがあるのであろう。

・近世日本が、同時代の中国や朝鮮の社会と異なっていたのは、商業上の文書類が圧倒的に多いこと、武士や庄屋階級という、儒教体制における「官」からいえばはるかにひくい層において、自分の体験や見聞を私家用に書く者が圧倒的に多かったことである。

・天草が幕府直轄領になると、むしろ禅宗が前面に押し出された。
禅宗は、自分一己の解脱のみを説く。他宗のように、神仏に頼み、祖先の霊にたすけをもとめたりする他力の心があればそれだけで解脱への勇猛心が弱まるとする。
禅家の積極的無神論にかかっては、切支丹の神などは迷信になってしまうのである。

・「明治のとき、なぜ長崎県に組み入れてもらえなかったのか」
たしかに人情ということからいっても、肥後(熊本県)の気風がもっている重厚さや理屈っぽさよりも、肥前がもっている軽快さのほうが、天草の風に似つかわしい。

476 :無名草子さん:2024/04/02(火) 01:06:54.08 .net
これに対し、仏教は釈迦以来、人間固有の欲望を捨てるという態度でつらぬかれています。
ところが密教にあっては俗世での欲望を保持したまま悟りをひらくことができるというのです。密教には一歩間違えば淫祇邪教(いんしじゃきょう)
になりかねないきわどさがありました。それだけに初期密教は、刃物の上を素足で渡るような危険性を持ちつつ、緊張した論理で構築されています。 
インド密教は北へ行って八世紀にチベットにおいて「ラマ教」となり、また東に向かって中国に入り、一時期栄えましたがほどなく衰えました。
中国には道教という似たような土着の呪術があり、西方から密教がやって来ると道教は密教の思想的内容
を取り入れて体力を強くしたために、密教は中国人の感覚に訴える力を失いました

。欽明天皇は宗教的感動を持ったというよりも、もっと初歩的な感動を持ったはずです。それまでの日本の人物彫刻というと゛埴輪゛のような素朴なものだけでした。
仏像のリアリズムに驚いたにちがいないのです。゛人間とそっくりの形をしているじゃないか゛と。 
つまり思想よりも目に見える゛文明゛に驚いたのです。気取って言うと、芸術的ショックをうけたのです。 
さて、古代に話を戻します。その後二百年間、日本国は ゛造寺造仏゛に精を出しました。
大乗仏教は釈迦の時代の原始仏教と違い、大寺という建物を造り、仏像を鋳造せねばならないので、お金がかかるのです。 
゛国家仏教゛たらざるをえませんでした。
その゛造寺造仏゛は七〇八年、奈良の都という新首都が建設されるころに頂点に達します。
ただしこの首都はわずか七十七年間で捨てられました。
僧侶達が暴慢になったからだといわれています。 
一例で言いますと、大仏造営に熱心だった聖武天皇(701〜56)が、自分は「三宝(仏教)の奴(やっこ・・奴隷)である」と宣言したことがあります。今
日の法解釈で言えば「地上の王様の上に仏法がある」というようなものです。
このため大寺が横暴をきわめるようになりました。 

477 :無名草子さん:2024/04/02(火) 01:27:47.30 .net
子規と最澄には似たところが多い。どちらも物事の創始者でありながら政治性をもたなかったこと、自分の人生の主題について
電流に打たれつづけるような生き方でみじかく生き、しかもその果実を得ることなく死に、世俗的には門流のひとびとが栄えたこと、などである。

江戸幕府は、天皇家に親王がたくさんうまれることをおそれた。それらが俗体のままでうろうろしていたりすると、南北朝のころのように
「宮」を奉じて挙兵するという酔狂者が出ぬともかぎらず、このため原則として天皇家には世継ぎだけをのこし、他は僧にし、法親王としてその身分を保全したまま世間から隔離することにした。

かつて木造であったものが、一見木造風のコンクリートに模様がえさせられる場合、実体であるよりも実体の説明者(ナレーター)の位置に転落させられてしまうことを、
建てるひとびとは考えてやらないのではないか。

ときに唐は、晩唐の衰弱期で、かつてあれだけ世界の思想や文物に寛容だったこの王朝が、仏教に非寛容になり、土俗信仰である道教を大いに保護しはじめていた。
多くの理由があるにせよ、国家が衰弱して力に自信がもてなくなると、かえってナショナリズムが興るということであるのかもしれない。

478 :無名草子さん:2024/04/02(火) 11:21:00.83 .net
積極的に殺生するなということですが、しかし、殺生すると罰があたるという意味ではないのです。
門徒には仏罰というような迷信はありませんから、阿彌陀如来が本願をたてて、せっかく悪人といえども、残らずお浄土に連れて行ってくださる、
それに感謝する、それに感謝する意味を込めて、生き物を殺さないんだということなのです。
そのくせ一見矛盾して いるかのようですが、浄土真宗の僧侶は親鸞以来、肉食妻帯を(肉食というのは魚を食べること) 原則としてきました。

空海(774〜835)も煩悩は肯定していますが、煩悩を軸にして即身成仏するというのが空海のセオリーでした。
しかし親鸞はちょっとちがっていて、どうしようもなく煩悩があるから人間だという、普通人間認識から出発しています。
新幹線でも東海道在来線でも、滋賀県を通ります。
田園の広がる近江平野を眺めていると、大きな屋根のお寺を1ケ寺囲んで家々があるのが目に付くはずです。
あれが滋賀県の景色で浄土真宗の景色です。
その浄土真宗のお寺は、他宗の寺と違い、いっぺんにわかります。
中世の一向一揆のさなかにできてゆく形なのですが、要するに砦なんです。
屋根を大きくしてあれば、戦争の時に城を焼くための火箭が飛ばされても、屋根に落ちますから瓦は燃えない。
ですから屋根の部分、上部構造を非常に大きくしているわけです。
これに似た屋根は、想像図にある安土城の天守閣にある屋根、黒田屏風にある大阪城の天守閣最上階の屋根で、私はひょっとすると、
この形は室町時代に蓮如が発明したものではないかと空想したりします。
ともかくも、戦国のころ浄土真宗は寺々が砦でした。
ですから浄土真宗のお寺は遠目にもひとめでわかります。

479 :無名草子さん:2024/04/02(火) 11:27:37.70 .net
なぜ中世の浄土真宗が、そのように布教に熱心だったかと いいますと、領地が無かったのです。
同じ浄土教でも浄土宗と浄土真宗が際だって違っていたのは浄土宗には領地があり、どんな寺でも小さな田圃か山林を持っていることでした。
つまり浄土宗は農地地主として寺を維持していました。
というのは家康は江戸を開府すると権威のために東叡山寛永寺を建てます。
これは幕府は京都の天皇家に対抗する存在であるべきで、
しかも江戸を新しい首都にするためには、日本仏教のオーソリティである天台宗の叡山が必要であったということです。
一方自分の宗旨の浄土宗を大事にして天台宗と同格にし増上寺を造り、これを将軍家の二大菩提寺にしたのです。 
ところが 一方の浄土真宗というものは、そんなものは無かったわけですから、信徒をもって田圃にする。
そのことを古くからある仏教用語で福田(フクデン)と言いました。
わたしのところも信徒でしたから、私の戸籍名 福田(フクダ)はフクデンからきているわけです。

西洋の貴族と普通の民衆の間には、中世の貴族と民衆の関係が継承され、いまだに貴族の家、貴族の意識というものはなかなか壊れないでいます。
そのかわり貴族というのは、身体も庶民と喧嘩しても勝たなければいかんとか、自分自身の体力その他を作り出すのになかなかしっかりしています。
第一次大戦が起こるとケンブリッジの学生は真っ先に志願して兵隊に行くなど
「尊ばれているものはそれだけの義務がある」

別に階級意識があるから悪いとかいいとかの問題では無く、日本人の猥雑なほどの無階級意識というのはどうも室町時代にできたようです。 
室町期でそういう社会的気分を大きく膨らませたのは浄土教だと思います。

480 :無名草子さん:2024/04/03(水) 16:44:26.21 .net
マルコはフビライに仕えていた時期があり、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を産出する、といった誤った情報を、フビライは確固として信じ」ていたと、
作家の司馬遼太郎は『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)の中で記している。

広大な版図内で交易が活発になるにつれ、元では貨幣制度が発達していった。
「紙幣の濫発によるインフレを鎮静させるには国家が銀を大量に獲得せねばならず」、
日本を征服するのが手っ取り早いと考えたと司馬は推測する。

481 :無名草子さん:2024/04/03(水) 16:57:37.20 .net
 浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士の屠殺場のような惨況を呈した。元軍は城楼のような大船九百隻でもって博多湾をうずめている。上陸軍は二万人であった。迎え討った九州の武士たちは、せいぜい一万騎足らずであったであろう。(中略)
武器は、中国をふくめたユーラシア大陸という広域規模の中から、よりどりで採用した強力かつ新奇なものをそろえていた。たとえば、鎌倉武士の頭上でさかんに炸裂した震天雷という投擲(とうてき)爆弾もそうであった。
鋳鉄もしくは陶製の器の中に火薬を詰め、
導火線に火をつけて敵にむかって投げつける兵器で、当時としては他に比類のない殺傷力をもっていた。(中略)
軍隊の進退は、鉦(かね)や太鼓によっておこなうあたり、漢民族の様式であった。その騒がしさは天地も震うかのようであり、鎌倉武士たちの馬はこの音におどろき、武者たちは敵と戦うよりも自分の馬をしずめるのに大童(おおわらわ)になった。
よく知られているように、鎌倉期の日本の戦法も、敗因のひとつだった。(中略)
たとえば、いざ開戦というときに、矢合(やあわせ)の儀式をおこなう。飛ばせば空中で鳴る鏑矢(かぶらや)という殺傷力のない矢をまず射るのである。この博多湾の多々羅浜辺でも、これをやった。元軍はどっと笑ったという。
その次の儀式は、両軍の各陣から力自慢の
武者一騎ずつが出て勝負するのだが、日本軍がこれをやったために、その選りぬきの一騎武者たちは多数の元軍歩兵にかこまれ、殺されたり、捕らえられたりした。
そのあとも華麗な甲冑武者が散発的に突出したが、ねずみの大群の上を蝶々が舞っているようなもので、戦争という形態さえ成立しなかった。」

482 :無名草子さん:2024/04/03(水) 17:41:03.22 .net
元寇について) ・戦争とは敵を大量に殺傷することだという思想は、
源平合戦においても、まったく存在しない。 それよりも敵をおどし、意識の上で敵をして敗北を悟らしめようというやり方で、戦争というよりもスポーツに近く、
スポーツと同質の約束事が同民族内で成立し、慣用されていた

日本での貿易の利益というのは、とほうもないほどに大きかった。
日本は銀にくらべて金のやすい国で、欧州の値段からみれば三分の一程度にすぎず、日本から金を持ち帰るだけでも巨利を博した。
この日本の金相場の特殊さは、その後、徳川時代になっても変わらず、オランダ人が、尊大な徳川幕府の態度と
牢獄のような出島の暮らしに二世紀半も耐えていたのも、この利があるからであった。

「オランダ人はその独立戦争によってスペインの首かせから脱し、ヨーロッパで最初の市民社会を創ったと考えていいが、
同時にビジネスというものを宗教から切り離して独立させて近代を開いた最初の民族ではないかと思われる。」

483 :無名草子さん:2024/04/03(水) 22:23:32.01 .net
秀吉の反発は、神社仏閣の焼き払いということにおいてもっとも大きかったに違いない。逆にいえば、イエズス会がもしこれをしなければ、秀吉の反発というのはさほどのものではなかったのではないか。
秀吉の感覚では、(神社仏閣は)日本における社会的効用の高い施設であり、それを否定することは、宗教問題をはみ出て、主権者への挑戦と受け取ってしまう要素があったであろう。

・江戸時代の兵学の愉快なことは、兵学自身、兵器の進歩発達をいっさい認めなかったことである。決して勝たない、しかし同僚の大名には作法上の恥はかかない、
しかも、社会というものに進歩はありえないし、あってはならないのだという三千万の合意の上に、その兵学の基礎は成立している

484 :無名草子さん:2024/04/21(日) 10:33:11.08 .net
稲垣 史生(いながき しせい    考証テレビ時代劇を斬る』河出書房新社 1981
多くの映画やテレビドラマの時代考証を手掛けた江戸時代考証の第一人者。江戸趣味の好事家や時代小説好きにはよく知られた存在であった。
司馬遼太郎は、稲垣の著書「時代考証事典」の帯に「唯一の先達の仕事」との推薦文を寄せるなど、江戸時代考証において自分よりも優れた知識を持つ稲垣には敬意を表していた。

485 :無名草子さん:2024/04/24(水) 17:32:04.70 .net
近世風俗志 5冊 守貞謾稿もりさだまんこう、 (岩波文庫 黄 1996/5/16
喜田川 守貞 (著)
喜多川守貞という人は、大坂に生まれ、のち江戸に住んだ人で、大坂と江戸の風俗の違いに大いに興味を持ち、ありとあらゆることを書き残してくれた人です。
「人生を無駄に過ごさないで、それを書き残しておきたい」というのが動機らしい。

喜田川守貞さんの私的な考察が多分に含まれるとは言いながら、幕末に近い時代を生きた人の貴重な記録である

江戸時代の考証本には、結構、孫引きしてある内容も多く、間違いも散見している場合があるが、この本を読んでおけば間違いはない

百科事典ということでは「和漢三才図会」などもありますが、守貞漫稿とセットで利用すれば、かなりの事が分かってくるかと思いますね


和漢三才図会わかんさんさいずえ、寺島 良安(てらしま りょうあん、東洋文庫 全18巻
明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典
南方熊楠は、全巻を筆写したという


喜多村 信節(きたむら のぶよ
嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)
岩波文庫5冊

486 :無名草子さん:2024/04/26(金) 13:23:05.49 .net
日本剣客伝 (朝日文庫)
時代小説ファンが愛する作家たちの傑作を集めた、
競作シリーズ「日本剣客伝」を、剣豪が活躍した時代ごとに編みなおして復刊
戦国篇では、南條範夫『原卜伝』、
池波正太郎『上泉伊勢守』、柴田錬三郎『小野次郎右衛門』を収録。

江戸篇では、山岡荘八『柳生十兵衛』、吉行淳之介『堀部安兵衛』、
有馬頼義『針谷夕雲』を収録。

幕末篇では、村上元三『高柳又四郎』、
海音寺潮五郎『千葉周作』、永井龍男『沖田総司』を収録

487 :無名草子さん:2024/04/30(火) 13:34:51.65 .net
。B司馬:合理主義というのは哲学者が生んだものではなく、貨幣経済が密度高く行われることにより生まれた。京都で室町時代から貨幣経済が稠密に行われ、
その余波を受けたのは大坂ぐらい。それ以外は明治以後。

多田/司馬:名は体をあらわすというのは、名前が人生に対するしぐさというか親の希望を表すわけで、名前はむしろ、親を判断する手がかりになる。

488 :無名草子さん:2024/05/11(土) 14:59:43.74 .net
司馬遼太郎は「関が原」で 次のように描いている。
藤堂高虎というのは秀吉手飼いの大名(伊予板島で八万石)だが、このところ たのまれもせぬのに徳川家の間諜をみずからつとめ、殿中の情報をせっせと 持ってきている妙な男である。
(中略)
主家を自分でえらぶ男で、一つ家への中世的な忠誠心などはじめからなかった。 この点、中世的な武士道のすきな家康には多少理解しがたい型の男だ。 [新潮文庫上巻 p.212]
家臣を統御するにも利と射倖心で釣り、みずからの処世法も利と射倖心で 動いている。もっとも、豊臣大名の中では
――応接は高虎に。
といわれたほどに、交渉ごと、お祝いの使者、もめ事の調停、宴会の接待などに 長じた男だ。そういう露骨な功利主義をおおいかくすすべも知っている。 [新潮文庫上巻 p.272]

489 ::2024/05/23(木) 20:02:51.11 .net
司馬遼太郎氏は竹島を韓国へ返すべきとか
司馬氏の随筆の中で戦後直ぐ侵略してきたロシア兵と酒を酌み交わしたとか
そう言う内容が多かった方です。
また朝◯には素晴らしいハングルがあります。との言及もされています。
ハングルを誰が改良して広めた事には全く触れられていません。
司馬遼太郎氏の活躍した時代、昭和40、50年代。
何事も朝鮮から学んだということが堂々と大手を振って日本の学会ではまかり通っていた時代。
そんな時代の産物でしかないことを見極めないといけない。

《伊藤博文評》司馬遼太郎「やはり「大政治家」ですね。フレキシビリティそのもの。」

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