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リリー 広島胡町

106 :アッセン傀儡政権 :2023/01/16(月) 20:23:58.74 ID:eAd0fu5q0.net
恐ろしい世界だ

バニャムレンゲ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B2
> 平野部から離れた高地に住んでいて、居住地域周辺以外ではその存在をあまり知られておらず、 政治的にも事実上無視された存在だったが、
>第一次コンゴ戦争の時にルワンダの旧ザイール侵攻のカモフラージュ役として 戦争を主導したため世界的に名を知られるようになった。
(中略) バニャムレンゲはベルギー当局に願い出て、フレロの首都だったレメラ (Lemera)からさらに遠いイトムブウェ(Itombwe)山へ 移住する許可を得た。
>イトムブウェはルジジ(Ruzizi)平野の上にあり、標高は約3000m程度 の高原である。イトムブウェは、 いもやとうもろこし、豆の栽培には適した土地であるが、 通常の農耕は行えず、バニャムレンゲは 牧畜で生活をした。
> バニャムレンゲはイトムブウェへ移動したため、もとのムレンゲにツチ族はいなくなり、 代わって、ヴィラ族が住むようになった。
> 移住するとバニャムレンゲはただちに周辺住民と軋轢を起こすようになった 。放牧した家畜が周辺の農地を荒らしたことや 、ツチ族が家父長的であったり、 
>食べ物が違う、自分達に固有の神話を持っているなど周辺住民と習俗が違ったり自分たちの風習を固持し周辺住民と交わろうとしなかったこと などが原因である。
(中略)  しかし、第2、第3婦人を娶ろうとする場合は、ツチ族以外の女性を 迎えることが多く、その間にできた子供は、ツチ族の間にもうけた 子供よりも低い身分に置かれるなど差別的に扱われたことが 嫌われたらしい。
> 一方、バニャムレンゲは他部族から差別の対象になった 。 「ボー(Bor、ペニスあるいは物を意味する、 この地方のスラング)」 と呼ばれたり、
>ブルンジでは「カジュジュ(kajuju、 この地方に生えるキャッサバに似た植物。 キャッサバと違って食べられない。)」と呼ばれたりした。
>バニャムレンゲは、この地域の他の部族と異なり割礼の風習がなかったため、 「カフィリ(kafiri、『皮かむり』という意味)」とも馬鹿にされ、強い屈辱感を 感じた。
>「バニャムレンゲ、ルワンダへ帰れ」という歌やその替え歌ではやし立てられたり、 「RRR(Rwandas return to Rwanda、ルワンダ人はルワンダに帰る)」と 呼ばれることもあった。
(中略) 9月9日にはウヴィラで反バニャムレンゲのデモが発生、ウヴィラは「死の町(ville morte)」だ、「外国人」は国外退去せよと叫んで、バニャムレンゲの家を襲撃、家財道具を奪った。
>デモは1週間続いた。その後、ザイール軍はバニャムレンゲの男たちを逮捕、一方で女性や子供は解放した。
>これは、ウヴィラの地区長シュウェカ・ムタバジ(Shweka Mutabazi)の指示によるものだと言われている。

インテラハムウェ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%82%A6%E3%82%A7
> 様々に訳されているが、インテラハムウェとはルワンダ語で「共に働く者」「共に攻撃する者」または「共に働き団結する者」という意味である。
(中略) 前述の通り、1994年4月以前のインテラハムウェの主たる役割は、党員拡大のための活動だったが、彼らはそのために暴力や脅迫を用いることを躊躇しなかった。
>インテラハムウェに限らず他党の青年部も同様のことを行ったが、暴力や脅迫によって無理やり自党に加入させる、対立する政党の支持者を襲撃・暴行を加えるといった事件が頻発した。
>このような暴力を伴った政党活動のことをルワンダ人は皮肉交じりに「クボホザ」(kubohoza)と呼んだ。
>「クボホザ」とは、ルワンダ語で「解放する」という意味である。これによって、地方の政党指導者の発言力が増した。

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