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詩文学

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/31(火) 18:15:47.81 ID:Vq290yAX.net
アーケード

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 14:10:11.86 ID:m9i6LeA4.net
世の中には、何もしないことと、何もさせないことを専門の職業として
自分の一生をそれに捧げている人々が、一般的な想定で信じられている
よりもはるかに大きな割り合いで存在する。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 14:14:40.59 ID:m9i6LeA4.net
>Dies ist eine harte Zeit. Wer sich nicht wehrt, muß dran glauben
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/343)

209 :場当たり的な説明の好例:2023/02/24(金) 17:59:30.81 ID:m9i6LeA4.net
英語の"to have"と"to behave"の対比も、表現形成において"be-〜"が
担っていた役割をよく示している。しかし、英語においてこれほどまで
に基本的な表現についても、一般に通用している語源解釈は、場当たり
的な説明しかできていない。

>behave (v.)
early 15c., reflexive, "conduct or comport" (oneself, in a specified
manner), from be- intensive prefix + have in sense of "to have
or bear (oneself) in a particular way, comport" (compare German
sich behaben, French se porter). The cognate Old English compound
behabban meant "to contain," and alternatively the modern sense
of behave might have evolved from behabban via a notion of
"self-restraint." In early modern English it also could be transitive,
"to govern, manage, conduct." Related: Behaved; behaving.<
(出典 etymonline.com/search?q=behave)

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 18:12:17.66 ID:m9i6LeA4.net
本当にそんなことはどうでもいいと思っているのなら、まだましなのである。
しかし、残念ながら、事態ははるかに深刻である可能性の方がずっと高い。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 18:13:42.06 ID:m9i6LeA4.net
しかも、その深刻な事態については、私のような愚か者でなければ、
口を開こうとさえしないだろう。何の得にもならないのだから、
当たり前と言へば当たり前だが。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/24(金) 23:43:37.49 ID:m9i6LeA4.net
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

既にしつこいほど自己引用しているが、ここで、一見、意外に
思へるかもしれないが、ひとたび気づいてみれば、ごく自然に
感じられるであろう事例を示そう。それは、「さび(寂)しい」
という表現に見られる「さ(寂/錆)び」という表現により
伝へられる感覚と、「(ある場所に)とどまる, 居続ける」
(ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説)
ことを意味するドイツ語の»bleiben«という動詞が表現して
いる感覚のきれいな対応関係である。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 00:03:10.34 ID:VCd/vZLi.net
「さ(寂/錆)び」の「さ」は、「さ(去)る」の「さ」であり、
「さ(去)る」ことがもたらす「さら(晒)す」ことの「さ」でもある。
「〜び」の方は、「〜ふ」の活用形であり、したがって、
「さ(寂/錆)び」とは、「さ(去)る」こと、および「さら(晒)す」
ことの作用の効果として再帰的に表出する主体性の様態であり、
そのような様態を生じさせることを意味するのが「さび(寂)し」
である。

「さ(寂/錆)び」は、「さ(去)る」作用の効果としてもたらされる
のだから、そこに「さら(晒)さ」れて「残っている」イメージを
想起させる。このことは、万葉集の歌を見ても、容易に確認する
ことができる。

>万葉集 第19巻 4159番
礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神<左>備尓家里
礒の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり
いそのうへの つままをみれば ねをはへて としふかからし かむさびにけり
(出典 万葉集ナビ)

>万葉集 第17巻 4003番
伊尓之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尓家牟
古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ
いにしへゆ ありきにければ こごしかも いはのかむさび たまきはる いくよへにけむ
(出典 同上)

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 00:19:10.19 ID:VCd/vZLi.net
では、ドイツ語の»bleiben«の方はどうだろうか。Wiktionaryを
参照すると、その語源は、次のように説明されている。

>Etymology
From Middle High German blīben, belīben (“to remain in
the same position, pause, blin”), from Old High German bilīban
(“to remain”), from Proto-Germanic *bilībaną (“to remain”),
from Proto-Indo-European *leyp- (“to stick, glue”).
Cognate with Dutch blijven (“to remain”),
English belive (“to remain, stay”). More at belive. <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/bleiben)

現代のドイツ語の»bleiben«からは»be-〜«の"e"が消失している
が、この表現の場合も語頭の"b"は、前綴りの»be-〜«であることが
分かる。さらに、語源的にも、この表現は、"to remain"を意味する
とされるが、"*bilībaną (“to remain”)"のリンクをたどると、
>*lībaną
to remain, to be left<
(出典 en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/lībaną)
と記載され、"to remain"、つまり、「残る」ことが、"to be left"、
「さ(去)られる」こととキアスム的に反転する関係として捉へられて
いることを表現していたものと想定されていることが分かる。さらに、
この想定は、»bleiben«が英語の古語の"belive"と語源的に共通である
と考へられることからも裏付けられる。次に、その語源説明を参照する。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 00:26:53.14 ID:VCd/vZLi.net
>belive (v.)
obsolete verb, Middle English biliven, "remain in a place; be left over,"
from Old English belifan "remain," intransitive form of belæfan
"cause to remain" (see beleave). A general Germanic compound
(cognates: Old Saxon bilibhon, Gothic bileiban, Old High German
biliban, German bleiben, Dutch blijven).

It was confused in early Middle English with beleave and merged
into it, which gave beleave two clashing senses ("to leave,"
also "to remain") which might be why the compound word,
the cognate of important verbs in other Germanic languages,
was abandoned in English and only leave (v.) remains.<

ここまできれいに説明できるのに、"be-〜"/»be-〜«の用法に
ついてメタ言語的に記述する段になると、場当たり的に一貫性の
ない説明になるというのは、むしろ、極めて不自然である
(つまり、「自虐的」に何か無理をしている)と言はざるを得ない
のではないか。

216 :残り物には福がある/古典の効用:2023/02/25(土) 10:11:23.19 ID:VCd/vZLi.net
"to be left"、「さ(去)られて残る」ことの効果が再帰的に表出して、
「かむ(神)さび」となり、"to leave"、「そのままにする」ことの
効果が再帰的に表出して、「(神仏を)たの(頼)む」こと、すなわち、
"belief"となるという関係性は、とても面白くないだろうか。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 11:39:41.82 ID:VCd/vZLi.net
「残り物には福がある」、これは、書籍の場合にはよく当てはまることが
多い。偶々、格安だったので最近、入手したHeinrich Mannの
"Der Untertan"もその典型だろう。この小説が滅多に出会ふことのない
名著であると感じられるのは、そこで語られているのが他に例のない
ような特別な「ストーリー」であるからではない。魅力を感じさせる
ような人物がそこに描かれているからでもない。そうではなく、
Heinrich Mannの言語表現が、誰でもが容易に気づいて「ゐ」ながらも、
メタ言語的に記述することのない、したがって、それ自体を対象と
して語ることのない、ここでも論じてきたような関係性を極めて
巧みに言葉として捉へて、それを読む側に(私のようにドイツ語の
教育を受けたことのない者にさえ)うまく伝はるようにすることに
成功しているからである。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 11:46:16.25 ID:VCd/vZLi.net
一般に、極めて「雄弁な」人々、「多弁な」人々も、気づくはずのこと
に気づかされて、その「気づき」について語ることを迫られると、
とたんに黙り込むのである。

219 :かむ(神)さび:2023/02/25(土) 12:01:17.70 ID:VCd/vZLi.net
>relic (n.)
c. 1200, relik, "a body part or other object held in reverence or
affection due to its connection with a holy person," from Old French
relique, relike (11c., plural reliques), from Late Latin
reliquiæ (plural) "the remains of a martyr," in classical Latin
"remains, remnants," noun use of the fem. plural of reliquus
"remaining, that which remains."

This is related to relinquere (perfective reliqui) "to leave behind,
forsake, abandon, give up," from re- "back" (see re-) + linquere
"to leave" (from PIE *linkw-, nasalized form of root *leikw- "to leave").
Old English used reliquias, directly from Latin.
(出典 etymonline.com/search?q=relic&ref=searchbar_searchhint)

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 13:42:10.77 ID:VCd/vZLi.net
>beteiligen
ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
❶ [再]([英] participate in) ⸨sich4 an et3⸩ (…に)参加する, 関与する; 出資する
an et3 beteiligt sein|…に参加〈関与〉している.
❷ [他] ⸨j4 an et3⸩ (人に…を)分け与える, 参加させる.<

民主主義の政治とは、個人がまつりごとに出資者として参加することなのか?
これについては、»beteiligen«という表現とは関係なしに既に別の機会に
掲示板の別のスレッドで十分に論じたので、もはや言ひ残したことはほとんどない。
»beteiligen«のあり方の正しさを規範化しようとすればするほど、
まつりごとへの出資者として正当な「配分」/"share"について「調整」
するために集会に参加しているつもりの個人は、「分け前」ではなく、
「あ(当)てが(交)ひ」を競い合ふように「調教」されることになるだろう。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 13:43:28.60 ID:VCd/vZLi.net
誤:競い合ふ
正:競ひ合ふ

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 20:45:35.65 ID:VCd/vZLi.net
ところで、古語の「わりなし」が表現しているのは、"irrational"でも、
"unreasonable"でもなく、フランス語であれば、《sans mesure》、
ドイツ語であれば、»ohne Maß«である。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/25(土) 20:51:28.42 ID:VCd/vZLi.net
尺度の問題を相対的な数量の問題にすり替えてはいけない。

224 :ひと(人/一/等)をはか(測/量/諮/謀)る尺度:2023/02/26(日) 09:55:21.84 ID:r5TThqWY.net
ひと(人/一/等)が万物をはか(測/量/諮/謀)る尺度であるとしても、
その尺度は、あらかじめ与へられているわけではない。

統治において、「ひと(人/一/等)をはか(測/量/諮/謀)る尺度」は、
「蛇に睨まれた蛙」(G.E.Lessing, "Fabeln", '13. Die Wasserschlange"
参照)の臆病さ/愚かさと、「そば(側)か(離)り/そ・ばかり(曾婆訶理)」
(『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171参照)の勇気/賢さの
間にある。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 09:59:56.65 ID:r5TThqWY.net
>Die Wasserschlange  ― Gotthold Ephraim Lessing

Zeus hatte nunmehr den Fröschen einen andern König gegeben;
anstatt eines friedlichen Klotzes eine gefräßige Wasserschlange.

"Willst du unser König sein", schrien die Frösche, "warum
verschlingst du uns?"
"Darum", antwortete die Schlange, "weil ihr um mich gebeten habt."
"Ich habe nicht um dich gebeten!" rief einer von den Fröschen,
den sie schon mit den Augen verschlang.
"Nicht?" sagte die Wasserschlange. "Desto schlimmer!
So muss ich dich verschlingen, weil du nicht um mich gebeten hast."<

(出典 deutschland-lese.de/streifzuege/fabeln/gotthold-e-lessing/die-wasserschlange/)

>曾婆訶理、吾が爲に大き功あれども、既に己が君を殺せし、これ義ならず。
然れどもその功を賽(むく)いぬは、信(まこと)無しと謂いつべし。
既にその信(まこと)を行はば、還りてその情(こころ)に惶(かしこ)けれ。
故、その功を報(むく)ゆれども、その正身を滅してむとおもほしき。<
(出典 『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171)

226 :蛇に睨まれた蛙:2023/02/26(日) 10:05:56.16 ID:r5TThqWY.net
>>215
>"be-〜"/»be-〜«の用法についてメタ言語的に記述する段になると、
場当たり的に一貫性のない説明になるというのは、むしろ、極めて
不自然である(つまり、「自虐的」に何か無理をしている)と言はざるを
得ないのではないか。 <

227 :似非数学ポエム:2023/02/26(日) 10:18:48.85 ID:r5TThqWY.net
この"be-〜"/»be-〜«/"con-〜"(すなはち、英語の"to be"および"by"
でもある)によって伝はる「存在感」が、ユークリッドの互除法である。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 10:30:30.72 ID:r5TThqWY.net
>「人(ひと)」のごと(如)く(この場合、「文字通り」というのは、
その文字の通りそのようであるという意味である)「双数」的である

229 :犬も歩けば棒に当たる:2023/02/26(日) 11:05:41.58 ID:r5TThqWY.net
>Da knurrte der Wulckowsche Hund, unter dem Präsidenten
hervor aber kam ein donnerndes Geräusch, ein lang hinrollendes
Geknatter — und Diederich erschrak tief. Er verstand nicht,
was dies für ein Anfall gewesen war. Das Gebäude der Ordnung,
wieder aufgerichtet in seiner Brust, zitterte nur noch leise.
Der Herr Regierungspräsident hatte wichtige Staatsgeschäfte.
Man wartete eben, bis er einen bemerkte; dann bekundete
man gute Gesinnung und sorgte für gute Geschäfte…<
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_V)

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 12:19:49.74 ID:r5TThqWY.net
>ところで、古語の「わりなし」が表現しているのは、"irrational"でも、
"unreasonable"でもなく、フランス語であれば、《sans mesure》、
ドイツ語であれば、»ohne Maß«である。<

これに対応する英語の表現は、"without moderation"であり、
「『わり(割)』なし」の「わり(割)」、「『わり(割)』にあ(合)ふ/
あ(合)はない」、「『わり(割)』をく(食)ふ」、「『わり(割)』と良い」
などの表現において用ひられる「わり(割)」を孤立させて、名詞化
するならそれがドイツ語において対応するのは、英語では、
"modesty"や"moderation"として訳される»Bescheidenheit«
である。この「わり(割)」を、数量化された「あたひ(価/値)」の
与へられた「比」/"ratio"になぞら(準)へて捉へてしまう思想や
哲学は、「ひと(人/一/等)」について決定的に誤った考へ方を
して「ゐ」る。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 12:21:07.24 ID:r5TThqWY.net
誤:名詞化するならそれがドイツ語において対応するのは
正:名詞化するならそれにドイツ語において対応するのは

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 17:04:20.44 ID:r5TThqWY.net
>>200-201
>»mit・an・sehen«または»mit an・sehen«という表現において、
»mit«はちょうど、「見て『ゐ/を(居)』られない」と表現される
場合の『ゐ/を(居)』に対応する表現となっていることが分かる。<

この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。
母語の日本語として普段から慣れ親しんでいる表現が、どのような
表現法であるのかについて、私自身は、をそ(教)はったことのない
ドイツ語の表現に接して、誰にをそ(教)はるでもなく初めて意識される
のは、とても面白いことだ。

>精選版 日本国語大辞典「いたたまらない」の解説
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)三「わたしが初ての座敷の時、
がうぎといぢめたはな〈略〉それから居溜(ヰタタマ)らねへから演コらうと云たらbフ」<

233 :名無bオさん@お腹いbチぱい。:2023/02/26(日) 17:09:19.77 ID:r5TThqWY.net
コピペしたらなぜか文字化けした。

誤:演コらうと云たらbフ
正:下らうと云たらの

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/26(日) 23:26:55.00 ID:r5TThqWY.net
>>197
>Wiktionaryで"conor"の語源を参照すると、次のように記載される。
>From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona,
from root *ken- (“to set oneself in motion”).<

"conatus"/「コナトゥス」のこの語源解釈に誰も文句をつけないのも、
かなり「自虐的に無理をしている」ように私には思へる。なぜなら、
ラテン語で"conor"の前に"prae"を付けただけの"praeconor"は、
英語の"to proclaim"に対応するような意味となるからだ。
(出典 latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/5569/)
そして、この"praeconor"という表現は、ラテン語から派生した
現代のスペイン語の"pretender"という表現に似ている。この
"pretender"と語源を同じくする英語の"to pretend"は、現代では、
「見せかける」という意味で使われるが、英語においても古くは、
そのように用ひられていたわけではない。
>pretend (v.)
late 14c., pretenden, "to profess, put forward as a statement or assertion,
maintain" (a claim, etc.), "to direct (one's) efforts," from Old French
pretendre "to lay claim," from Latin praetendere "stretch in front,
spread before, put forward; put forward as an excuse, allege,
"from prae "before" (see pre-) + tendere "to stretch" (from PIE root
*ten- "to stretch").
(出典 etymonline.com/search?q=pretend)

235 :を(終)はりなき数学ポエム:2023/02/27(月) 09:36:49.71 ID:KoqPzC2N.net
「まるくをさ(収/治)める」とは「を(折)りあ(合)ひ」がつくように
することだろう。もともとは法制度の用語に由来するとされ、
「通達」の意味で用ひられるとともに、日常語としては、
»Bescheid sagen«で「(どうするかを)知らせる」、
»Bescheid wissen«で「事情に通じている」などの表現で
よく使われ、その場合は「情況」に相当すると考へることができる
»Bescheid«も、語源的には、「を(折)りあ(合)ひ」に相当するような
表現ではないかと私には思へる。
ところで、「まるくをさ(収/治)める」ように「を(折)りあ(合)ひ」が
つくようにすることは、円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられた
あたひ(価/値/能)の比により近似して求めることになぞら(擬)へる
ことができるだろう。

236 :を(終)はりなき数学ポエム:2023/02/27(月) 10:01:59.34 ID:KoqPzC2N.net
円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられたあたひ(価/値/能)の比と
して求めることは、連分数計算の形式で表現してみれば、はっきりと
分かるとおり、究極的に数へられた数の比として決して収束すること
のない円周率を、既に定まった数の比として近似するたびに、
その都度、単位(たん・ゐ)としての1(「ひと/一/人/等」)の
方が精度として規定されることになる。これを、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』が
つくようにすること」に合はせて考へてみるなら、何か角
の立つ事情が生じた場合、それが「まるくをさ(収/治)まる」
ように「ひと/一/人/等」の規定の方が「を(折)りあ(合)ひ」
をつけること/"modification"もしくは"moderation"/
»Bescheidenheit«を求められるようになることを意味して
いるだろう。

237 :を(終)はりなき数学ポエム:2023/02/27(月) 10:31:33.46 ID:KoqPzC2N.net
ところが、である。そのようにして「『まるくをさ(収/治)める』ように
『を(折)りあ(合)ひ』がつくようにすること」をすべての人々、あるいは
世界全体としての原理原則/倫(=人・侖)理としてしまうなら、
「を(折)りあ(合)ひ」をつけようとすることは、「究極的に数へられた
数の比として決して収束することのない円周率」を無限の精度で
追求するために、「ひと/一/人/等」が「を(折)りあ(合)ひ」をつける
ことを無限に絶え間なく求められるようなことになる。

当事者の間で物事に何らかの角が立つ状況であれば、「を(折)り
あ(合)ひ」をつけることが求められるのは、それが頻繁に生じて
煩わしいと感じられるとしても、「や(止)むを得ない」(原理原則
としての「を(終)はりなき」無限ではない)こととして受け容れ
られるだろう。しかし、もはや、みづから(身づ柄/自ら)が
関与することによって初めて成立する当事者の間では、
どのように角が立っているのかまったく不明でありながら、
「すべての人々、あるいは世界全体」という「究極的に数値
として求められた円周率」に喩えられる、決して「そこ」に
はあり得ない存在のために際限なく「を(折)りあ(合)ひ」を
つけることを求められるならば、それは、あらかじめ徒労
に過ぎないことと分かっていることを一方的に強制されて
いると感じられるようになる。にもかかわらず、一般的に
広く通用している哲学や思想は、明示的にであれ、暗黙裡
にであれ、そのような「『無限』の追求」を理想としている
のである。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 10:40:58.59 ID:KoqPzC2N.net
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」をすべての人々、あるいは世界全体としての
原理原則/倫(=人・侖)理として、あらかじめ定めて、その原理
原則/倫理に従ふように個々の人々を誘導すべきだという考へ方
は、一見、まともで、正しいものであるように見えながら、
それ自体、まったく»Bescheidenheit«を欠いている。

239 :統治者目線で全体のことを考へるようになった蛙:2023/02/27(月) 10:44:25.94 ID:KoqPzC2N.net
>「イソポ、アテナスの人々に述󠄁べたる譬の事」

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 11:13:55.78 ID:KoqPzC2N.net
>この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。

とても意外なことに、これに関連して「獺(カワウソ)」が、語源的に
どのような表現であったかを、連想により導き出すことができる。
なぜなら、「獺(カワウソ)」は、古語では、「かはうそ」ではなく、
「かはをそ」だからである。「かはをそ」が水辺に棲むイタチ科の
動物であることから、「かは」が「かは(河/川)」であることに
疑いの余地はない。では、「をそ」は何かと言へば、「を(居)そ(且)」
である。さらに、「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった
様子であり、したがって、「を(居)そ(且)」は、「ゐ(居)た(立)ち」、
つまり、「イタチ」の別表現であることになる。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 11:15:17.37 ID:KoqPzC2N.net
>Derived characters
咀, , 姐, 狙, 阻, 䏣, 柤, 𤇅, 祖, 租, 粗, 組(组), 蛆, 袓, 䱉, 助, 䢸, 䪶, 宜, 㡹, 査, 𤇙, 䯶, 跙, 徂
(出典 en.wiktionary.org/wiki/且)

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 11:26:53.19 ID:KoqPzC2N.net
日本語の「ゐ(居)る」に対応して、英語の"to be"が本来的に
表現しているのは、「存在」とういよりも、「臨場感」だろう。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 11:31:57.00 ID:KoqPzC2N.net
ただし、あらかじめ非対称な関係がそこにあることを前提としている
ように感じられる「『臨床』哲学」という言葉は、私は好きではない。
「臨床」は"bedside"以外ではあり得ないだろう。

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/27(月) 22:29:15.66 ID:KoqPzC2N.net
臨場性/ライブとしての"being"

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 10:52:43.80 ID:5iWWGne4.net
>「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった様子であり

「立ち上がった様子」を単に"standing"という状態に対応するものと
イメージしてしまうとすれば、この説明を適切に理解していない。
「そ(且)」によって表現されているのは、"standing"ではなく、
"to stand up"であり("to help"に対応する「助」という漢字が、
"to help (stand) up"をイメージさせるものであることを想起して
みるのもいいだろう)、さらには「『そ』び(聳)ゆ」の「そ」に
対応するように"rising up"であり(「阻」がどのような形象文字
としてどのような様態をイメージさせるものであるかを考へて
みるとよい)、その作用が概念化して捉へられた"uprising"である。

ただし、日本語の表現としてこの「そ」の用法は、「且」という
漢字によって縛られるものではなく、この漢字の象形がその様態の
イメージを想起させるのに好都合であるために利用したまでである。
例えば、以前に牛頭天王に関連して、
「曽尸茂梨(そしもり)」⇔「蘇志摩利(そしまり)」の互いに反転した
関係について説明したとき、「曽尸茂梨(そしもり)」は、死体が
うず高く重なる「死屍累々」であり、「蘇志摩利(そしまり)」は、
「復興の志」であるといったような説明をした憶えがあるが、
この場合の「そ(曽/蘇)」も、"rising up"に対応している。
他にも、「蝦夷(えぞ)」、「熊襲(くまそ)」「阿蘇(あそ)山」、
「味噌(みそ)」(てまえ・みそ(三十・一文字/みそ・ひともじ))など
における「そ」の用法がすぐに想起される(「そ/ぞ」は、「増」
や「層」などの漢字に関連付けられる場合も多く見られること
から、「そ(且)」と「そ(曽)」のイメージは複合化している)。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 11:21:13.46 ID:5iWWGne4.net
このような連想による推論のプロセスは、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」は、その都度、暫定的に単位の精度を「都合に
合はせて」定めて、近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へ
を求めることに喩えることができるが、それを何らかの権威によって
たし(確)かなことがあらかじめ保証され根拠に基づく演繹、または
「全体的な結果」として最終的に到達されるはずであると信じ込まれ
た絶対的な予定調和からの逆算のようなものと思ひ違ひをするなら、
推論の根拠がまったく不確かなことや、導き出される近似の
こた(応)への精度(誤差が大きすぎて、まったく使ひものにならない
場合も含めて)に大きなばらつきが生じることに気づいて、
期待を裏切られることになるだろう。しかし、それは、そもそも、
勝手な思ひ違ひである。というのも、私は、他の誰かが私の
推論によって導き出されたこた(応)へをたの(頼)みにしなければ
ならないなどということは、まったく要求していないからだ。
利用するのも、利用しないのも各々の勝手であり、たの(頼)みに
できるかどうかは、その都度、各自が自分で確かめればよいこと
であって、私の知ったことではない。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 11:24:32.28 ID:5iWWGne4.net
誤:近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へを求めることに
正:近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へを求める連分数計算に

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 11:44:43.48 ID:5iWWGne4.net
"a live being"は、意味不明に冗長であるが、
"being alive"は、"being"と"live"の恣意的な切り離しである。

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 13:56:02.72 ID:5iWWGne4.net
>>245
それにしても、「白(シロ)鼬(イタチ)」とも呼ばれる「オコジョ」の
名前の由来を検索しても、何もヒットしないばかりか、その漢字表記さえ
見当たらないのはなぜだろう。「カワウソ(獺)」という名前の「ウソ」は、
もともとは「をそ」であり、「乎曽」と表記されたことが岩波古語辞典
にも記載される。私は、この「をそ」は、「を(居)そ(且) 」であると
説明したが、「そ(曽)」に想定される中国語の中古音は、
"/d͡zəŋ/"または"/t͡səŋ/"であり、「そ(且) 」に想定される中国語の
中古音は、"/t͡sʰiaX/"または"/t͡sɨʌ/"であり、後者の音読みは、
"しゃ/しょ/そ/ぞ"とされている。「そ(且) 」と「力」を組み合は
せて、"to help (stand) up"を表現するものと考へらえる「助」
の音読みは、「じょ」であるが、想定される中国語の中古音は、
"/d͡ʒɨʌH/"であり、想定される発音がこれと近く、やはり助ける
ことを意味するように用ひられた「丞(じょう/しょう)」
(Middle Chinese: /d͡ʑɨŋ/, /d͡ʑɨŋH/)は、「烝」(Middle Chinese:
/t͡ɕɨŋ/, /t͡ɕɨŋH/)に関連して、その語源は、
>From Proto-Sino-Tibetan *s-tjaŋ (“upper part; rise; raise”) (STEDT).
であるとされる(Wiktionary参照)。それだけでなく、「烝」の発音は、
朝鮮語では、"증 (jeung)"として発音され、同じ発音で読まれる漢字
には、他に「曾/増/噌」があり、「烝/증 (jeung)」は、"steam"、
"many"の他に"to rise"を意味するものと解釈されている。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 14:09:17.04 ID:5iWWGne4.net
「貂/鼦」は、日本語としては「てん」と読まれるが、これは、
日本語となった「てん」に「貂/鼦」の漢字を当てたもので、
音読みではない。しかし、このようにみると、「てん」という
日本語の名称そのものが、
>Proto-Sino-Tibetan *s-tjaŋ (“upper part; rise; raise”)
に由来しているように見える。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 17:22:49.21 ID:5iWWGne4.net
それにしても、「小僧が憎い」というのは分からなくもないが、
「僧」は、サンスクリット語の音を漢字で移すために用ひられた
にしても、やはり、「人・曾」で"upright person"をイメージ
させただろうと想像できるが、「心・曾」で「憎む」/"to hate/abhor"
という意味になるのは、少し不思議な感じもする。
やはり「こころ(心)」は、「立たせる」べきものではなく、
「安らか」にさせていた方がよいということだろうかw

252 :禁欲主義的僧侶/なほ(直)き人としての地球市民:2023/02/28(火) 18:02:43.77 ID:5iWWGne4.net
biedermännisch rechtschaffenarch → honest upright
biedermännisch spießbürgerlich pej → bourgeois
biedermännisch contempt. (heuchlerisch) fig → hypocritical
(出典 wordreference.com/deen/biedermännisch)

253 :あなづらはし:2023/02/28(火) 18:09:26.64 ID:5iWWGne4.net
>Herkunft ⓘ
mittelhochdeutsch bider(be) = bieder; brauchbar, nützlich,
althochdeutsch bitherbe = brauchbar, nützlich,
eigentlich = dem Bedürfnis entsprechend<
(出典 duden.de/rechtschreibung/biderb)

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 21:47:47.77 ID:5iWWGne4.net
>>202
>「コナトゥス」/"conatus"の第三者的な「具体化」/"corporation"が、
»das Mitnehmen«としての「み(身)ど(取/獲)り」/「みどり(緑)」
であることになる。 <

これは、書いてみると、とても便利な例であることにあらためて
気づかされる。どのように便利であるかと言ふと、真理条件意味論を
利用して、日本語の「みどり」の表現としての語源的な意味と、
英語の"be-〜"が、表現上、「"be-〜"により修飾される作用の
効果として主体性を再帰的に表出させる働きをする」という
記述の妥当性とが「たが(互)ひ」に実証されるのを示すことが
できるからである。

>'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.

255 :一石二鳥:2023/02/28(火) 21:56:48.95 ID:5iWWGne4.net
>'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.

さて、'the infant is みどり'という文において「みどり」が英語の
どのような表現に対応すると考へたら、この文が"true"/「まこと(真言)」
であるものとして成立するだろうか。そのこた(応)へは、もはや
言ふまでもないだろう。「と(取/獲)る」に対応する英語としてすぐに
思ひ浮かぶのは、"to take"と並んで極めて頻繁に用ひられる動詞で
ある"to get"である。これを"be-〜"で修飾すると"to beget"になる。
これをそのまま活用して、「みどり」≒"begotten"とすると、
>'the infant is begotten' is true if and only if the infant is begotten.
となり、かくして、「みどり」の意味の解釈と"be-〜"の表現上の
用法の説明の妥当性が「たが(互)ひ」に実証されることになる。

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/02/28(火) 22:04:07.29 ID:5iWWGne4.net
>>246
誤:このような連想による推論のプロセスは、
正:このような連想による推論のプロセスとして、

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