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文学理論 11

1 :吾輩は名無しである:2018/01/08(月) 16:55:55.16 ID:nbWuPJCa.net
文学理論のスレです。
楽しく議論しましょう。
荒らしはスルーで。

前スレ
文学理論 10
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1476495782/

513 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 00:41:04.84 ID:n4U8H1Vj.net
>>511
チャトマンのフィルターというのが、登場人物の領域と語り手の領域を分けるもの
ある意味特権化して、語り手をそれこそ以前の「作者」の地位にしてしまうものではないかと
するとやっぱりそのような語り手を創作する作者が復権してしまう
それはまたジュネットの問題圏から離れるような気がする

514 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 00:50:43.25 ID:9R5+mQH/.net
voiceだのfliterだのreflectorだのrefractorだのfigural mediumだのselfだのfocalizerだの
どれも一長一短なんでリモン=キーナンわかりやすいと思っちゃうのは
まあただたんに知らないだけ無知なだけなんだよね
で、認知物語論では焦点化という用語では認知的な面を反映することができない
(これはリモン=キーナンも言ってるので含む必要があると
他にも共通する意識を持っている二人の考えが叙述されるとき焦点化だとか視点だとかって
用語では捉えることができないとか言うわけ

515 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 00:53:56.77 ID:n4U8H1Vj.net
The intellectual Landscape in the Works of J.M.Coetzeeという本の、「character and Counterfocalisation」という章で
恥辱をバルやジュネットの焦点化を用いて分析するスピヴァクが引用されている
評者はデレク・アトリッジというクッツェーの教え子でもある第一人者
プルーストやカフカの「登場人物」を分析していて、ジュネットのCounterfocalisationについて書かれている
Supivakのいうクッツェーのrelentless focalisationの分析も面白い

516 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 01:04:38.68 ID:9R5+mQH/.net
で理論的に認知面がまるっと欠落するということは
分析ツールとして使えないわけよなかなか
ジョイスやプルーストなんてまさに認知面の作家だけど
プルーストを分析したジュネットの理論ではそこがまるっと抜け落ちちゃうわけ

517 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 01:09:44.20 ID:9R5+mQH/.net
そんなわけで古典的物語論つかえねーと
動的な物語理論体系作ろうぜとなって
動的物語体系論なんてのを作って
視点関連だけでまるっと一冊あったりする…

518 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 01:18:03.05 ID:kT+Jzssq.net
視点の文学理論て大昔からあるじゃん

519 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 01:23:45.06 ID:9R5+mQH/.net
視点やヴィジョンという用語じゃ視覚面が強すぎてつかえねーっていうから
ジュネットは焦点化を導入したんだけど、いやビジョンって視覚だけじゃないじゃん?
チャトマンのフィルター的にも使えるし認知面や可能世界面も取り扱える用語でもあるし
使おうぜとなったりしてるからねえ
まあその手の議論の歴史をたどるだけで疲れる

520 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 01:26:51.75 ID:n4U8H1Vj.net
間違っていたら申し訳ないけれど、チャトマンのフィルターというのは映画におけるnarratorと文学におけるnarrator区別しているよね
I would argue that the narrator, by definition, does not see things in the story world; only characters can do that, because only they occupy that world (see the discussion of "filter" in Chapter 9).
The narrator's task is not to go strolling with the characters but to narrate what happens to them, whether by telling or showing.

映画における語り手に近くて、物語世界と隔絶した存在と言う議論じゃないのかな
What I like about the term "filter" is that it catches the nuance of the choice made by the implied author about which among the character's imaginable experiences would best enhance the narration—
which areas of the story world the implied author wants to illuminate and which to keep obscure.
This is a nuance missed by "point of view," "focalization," and other metaphors.

焦点化という言葉を避けてチャトマンが提出するのはそれがbest enhance the narration/author wants to illuminateであって、
やっぱり小説の技術論、作者の技術論になってしまって「作者」の復権になってしまうと思うんだけれど

521 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 01:31:58.32 ID:9R5+mQH/.net
別に作者の復権にはならんような
語り手だけで十分では?
フィルターのメリットは
語り手が物語の登場人物の意識や知覚を通して語るという方法があるわけだが
それを観察地点にこだわらず意識やイデオロギーや感情といったものを通しているという
意味を上手く捉えることができるからね
焦点化という言葉だとその面が上手く表せない

522 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 01:35:02.35 ID:9R5+mQH/.net
だからリモン=キーナンは
焦点化を拡張して知覚面だのイデオロギー面だの
心理面だのと言って表そうとしたわけだよ
でもそれってフィルターでいいじゃんってなる

523 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 01:50:33.98 ID:n4U8H1Vj.net
チャトマンとジュネットの相違点
"The only focalization logically implied by the 'first-person' narrator," writes Genette, "is focalization through the narrator."
But surely speaking of the narrator as "focalizer" blurs the distinction that Genette himself introduced to clear up traditional confusion between voice and point of view—between "who speaks" and "who sees."
The narrator's comments are not of the same order as a character's perceptions, even if he is reporting what he saw or felt "back then" when he was a character.

これは、チャトマンの扱う小説が映画のディレクターのような作家が主人公を操るタイプの小説と言うことを前提にしているように思う
例えば「大いなる遺産」で少年ピップが大人のような言葉遣いをするとき、登場人物ピップ少年と語っている大人のピップが隔絶している、と言う
「登場人物の」認知なんかをある意味全能の語り手みたいに描写しているわけで、プルーストのように焦点人物外の登場人物の心理を勝手に代弁することのない小説で使えない気がする
語り手に登場人物の心理を推測する特権をこっそり裏口から与えているような・・・

キーマンでもそうなんだけれど、やっぱり作者が統一している世界になる
ハーディやもしかしたらヴァージニア・ウルフなんかには適用がある意味しやすいとは思うのだけど
チャトマン自身、これは大陸のナラトロジーとの違いだと言っているようで、どうも個人的に大陸系のほうが性に合っているらしい

524 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 02:17:42.46 ID:9R5+mQH/.net
いや、まあ作者とかってよりこの手のは自由間接話法や自由間接思考を
どうやって上手く分析ツールで表したらいいのかってところから始まってるから
これは語り手と登場人物の発話や思考が錯綜する技法で
まあ日本では馴染みが浅く使用者もなかなかいなくて翻訳もしづらい技法だった
フローベールの翻訳も最近ようやく芳川さんが上手く訳出してくれたけれど
欧米では結構使われてる、そこの問題意識がないとわかりづらい

525 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 02:18:14.26 ID:n4U8H1Vj.net
ジュネットの欠点とされる作中人物の焦点化を認めない、ということは焦点人物外の登場人物や自然を隠喩として読むことをなるべく控えている、と言うことになる
作者の意図をさぐるのでなく、テクストだけを扱う、という方針
(もちろん、作者の意図が明確に描写に現れる作家もいる)
で、プルーストと言うのはこの語り手外の描写に異常にこだわった作家だったりする
seeやfeelという単語が徹底的に使われている、あくまで語り手の内部の認知について書かれた小説で、ジュネットの分析で「失われた時を求めて」の認知的側面はいささかも失われないと思う
チャトマンの引用するウルフ Jacob's Room
"So of course," wrote Betty Flanders, pressing her heels rather deeper in the sand, "there was nothing for it but to leave."
Slowly welling from the point of her gold nib, pale blue ink dissolved the full stop; for there her pen stuck; her eyes fixed, and tears slowly filled them.

これは外から焦点化しているけれど、語り手の意図を読むなと言うほうが無理で、語り手は明確にペンを砂壺に強く押し付けたり、蒼白なインクが筆だまりをつくったり、語り手は作者として夫人の感情を代弁している
チャトマンはこれをpsychologicalにfilteredされた語り手としている
Then we enter her mind, though the filtration is "psychonarrated"—rendered in the narrator's own words.
The mental content is not conceptual but perceptual.
プルーストやクッツェーはそうではない

526 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 02:21:27.31 ID:9R5+mQH/.net
もちろん昔のチャトマンのフィルターの意義と、今の認知面の反映をし易いという意味では
微妙に意味合いが違うのでその点はチャトマンが言ってることではない

527 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 02:23:34.11 ID:9R5+mQH/.net
というわけでチャトマンを持ってきてくれて悪いが問題意識が違うということを理解してくれ

528 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 02:28:27.03 ID:9R5+mQH/.net
チャトマンもテクストは古いからな今から約五十年ぐらい前か
現在では可能世界、認知世界、物語的自己をどう上手く扱うのか?が問題意識にあるから
焦点化では扱えないということを理解してくれればいい

529 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 02:32:40.17 ID:n4U8H1Vj.net
アウエルバッハが例えばボヴァリイ夫人を引用するにあたり、語り手はエマであるが体験話法でない箇所を指摘している
トストでの生活は明らかにエマの経験の描いているようでありながら話法が異なる
ここでは計画的な要約、フローベールが描写している
プルーストは、フローベールがいかに作者の操作を巧みに行っているかを感嘆する手紙を残している
フローベールは突然焦点化を変える技法が優れていて、だから依然読んだ批評もラモンらの拡張したナラトロジーを利用していた
モーパッサンと違って、フローベールは拡張した英米系のナラトロジーで面白みが増す作家だと思う

530 :吾輩は名無しである:2018/10/22(月) 02:54:36.37 ID:n4U8H1Vj.net
ちなみに同箇所はジュネットも引用している
ジュネットの読解を通したフローベールも当たり前だけど非常に面白い
フローベールやプルーストやスタンダールが "pulverize" descriptionsに腐心した
フローベールは突然の焦点化の変更を確信犯的に行い、プルーストはその戦略を採用しない、しかし共通の問題意識をともなう
この辺りで共通するのがクッツェーの学位論文のテーマのフォード・マドックス・フォードのdistributionという考えで、コンラッドに関わってくる

531 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2018/10/22(月) 08:35:18.80 ID:1qvONjL0.net
>>524
日本の文芸翻訳でも技術の核心部分だな
逆にいうと小説以外の形式では
あまり問題にならない

532 :吾輩は名無しである:2018/10/23(火) 09:03:46.07 ID:AaaoAukG.net
現代の取るに足らないレスも100年後には口承文学として
その例証に捉えられる。

533 :吾輩は名無しである:2018/10/23(火) 23:32:47.05 ID:pS+nwgu2.net
いくつか大陸系のナラトロジー論を紹介しておこう
J. M. Coetzee and the Ethics of Narrative Transgression(2017) Alexandra Effe

この本はドイツのMonika Fludernikのナラトロジー論を用いてクッツェー作品の認知的特性を作品ごとに挙げている
タイトルからもわかる通り名著J. M. Coetzee and the Ethics of Readingに強い影響を受けていて、書くことの倫理、読むことの倫理が逸脱したnarrativeによってどう追及されるかを書いている
特にモダニズムだからこそ書く対象への倫理が問われる(あるいは自らに倫理を課す)クッツェーのポストモダニズムという逆説がある
動物愛護を唱えるコステロ物や、異言(ヘテログロシア)、自伝に加え、教育を扱う「イエスの幼年時代」(死者が記憶を失ってスペイン語世界に転生する?、異常にナラティブ分析を挑発する書物)などにおいても言語/読者との倫理的関係がテーマになっている
英語よりも先に日本語訳とスペイン語が出版された「モラルの話」や精神分析医との対話「Good story」も倫理と教育、認知の背景に「物語論」がある
Unnatural narratology pays particular attention to narratives that do not adhere to our understanding of the world.
Since narratives have the power to change how we think, what is perceived as unnatural changes diachronically in accord with narrative conventions.
In cognitive narratology, such change has been theorized as the cross-influence between narrative and cognitive structures.
Prefiguration is the reader’s understanding of the world and of narrative prior to their encounter with the text, based on everyday experience and narrative conventions.
Configuration is an act of comprehension and reflection through which all elements of a story are related to one another.
Refiguration names the process in which the reader applies their understanding of the text to their understanding of the world, leading to an altered understanding of the world and of narratives.

534 :吾輩は名無しである:2018/10/23(火) 23:34:32.24 ID:pS+nwgu2.net
Cognitive narratology is interested in this process of change and in how narratives are at work in how we think in general.
Instances of metalepsis in Coetzee’s texts provide insights into such processes.
Conversely, theories on the intersection of narrative and mind are a useful framework for analyzing metalepsis in Coetzee’s texts.
Monika Fludernikの Towards a ‘Natural’ Narratologyはこの辺りをきっかけに読んだもので、英米系よりも大陸系、読者の受容論においてもphilologicalな伝統もきちんと踏まえている
In Towards a ‘Natural’ Narratology, Monika Fludernik defines four levels at which cognitive parameters operate in the reading process:
our understanding of how people act and of their motivations based on real-life experience (level I),
mediating frames of how one has access to a story (level II),
generic conventions or conventions in everyday storytelling situations (level III),
and the process of narrativization (level IV).

535 :吾輩は名無しである:2018/10/23(火) 23:39:07.27 ID:pS+nwgu2.net
いわゆるclassical narratologyに対するpostclassical narratologyの特徴は以前書いたように ‘postclassical,’ “point to a broader reconfiguration of the narratological landscape.
The root transformation can be described as a shift from text-centered and formal models to models that are jointly formal and functional—models attentive both to the text and to the context of stories.”
どちらかと言うとテキスト中心から機能的モデルへの移行と言える
前者は読者の知識から読者の受容を考えるのに対し、後者は読者の反応を重視する
多かれ少なかれ、ロックのタブラ・ラサに近づくものとしてDavid Hermannは捉えていて、要するにかなり大陸系と英米系のコミニュケーション理論の違いを引きずっていると言える
さらに、前者はボトム・アップ(細部を積み重ねていく)のに対し後者はトップ・ダウン・シンセシスで統合的なアプローチをとろうとする
だから、具体的な作品の分析はどうしても理論先行
物語論に認知科学を接合することには、ノエル・キャロルの「問題点の列挙」を含めて根強い反発がある
seven possible relationships between cognitive reception theories and narratology:
(1) incompatibility,
(2) unrelated coexistence,
(3) the heuristic use of cognitive theory,
(4) the modular addition and utilization of cognitive theory,
(5) the partial integration of concepts and models from cognitive theory,
(6) a narratology anchored in cognitive theory, and
(7) a narratology which is part of cognitive theory.
おおまかに、2-6の間に収まるというのがJens Eder の意見
empiricな認知科学の知見を理論として物語論に適用した場合、あくまで一般論でしかなく作品ごとの分析はできないという意見は根強い

536 :吾輩は名無しである:2018/10/24(水) 00:01:07.26 ID:DesbYmet.net
narratology and narrtologiesという論文で物語論の中でcognitive narratologyはかなり限定された対象として扱われている
分析哲学や認知科学で扱うには、被験者の知識・経験が非常に大きく作用してしまい、テキストよりもコンテキストを重視し、ダイナミックな読者の経験を扱うことは映画や漫画よりもはるかに遅れている、とされる
近年で独創的な批評として評価されたケープタウン大のCarrol ClarksonによるJ. M. Coetzee: Countervoices(2009)にしてもナラトロジー論としての理解は極めてテキスト中心と言える
ある作家のテキストを丁寧に読もうとしたとき、一見古典的なテキストを丁寧に読む物語論のほうが「ダイナミックな」読解よりも面白いことは多い
Arguments against the Integration of Cognitive Theories
認知理論をどのように物語論に「統合するか」は非常に大きな問題で
統合派の論者として下記のような人々はいるが、あくまでできることは限定しているように思う
Cognitive and Reception–theory–oriented Kinds of (‘Meta’-) Narratology
“Critical Narratology” (Ann Fehn, Ingeborg Hoesterey, Maria Tatar)
‘Psychoanalytic Narrative Theories’ – Peter Brooks, Ross Chambers, Marianne Hirsch
‘Reception-oriented Narrative Theories’ – Wolfgang Iser, Werner Wolf
“Constructivist Narratology” (Ansgar Nünning) – Monika Fludernik, Manfred Jahn
個人的に共感を覚えるのは大陸系の Monika FludernikとAnsgar Nünningになる
前記の7)の立場をとる、物語論に認知科学は不可欠だ、とする立場の論者は必ずしも主流ではないし、異なる分野の知見を統一することには慎重になるべきだ、という意見は根強いのが現状だと思う

537 :吾輩は名無しである:2018/10/24(水) 00:26:06.02 ID:DesbYmet.net
ジュネットの読解は徹頭徹尾プルーストのテキストの特権性を主張する
しかし、認知科学においてはそのような「天才的」書物は扱えない
そのような天才的書物は読むだけで「読者」に特定の反応を導くことを立証できない
単に知識のない読者と研究者の読者では違った反応をする
認知科学ではもっと抽象的な目標を立てなくては「反応」を示すことができない
すると、個々の作品分析にはかなり制限が生まれる上に、取り出すべき「反応」をいかに評価するかという問題が出てくる
ジュネットにとってプルーストの書物は「一回性」のものであり、クッツェーのSingularityについての議論とその批評は「物語論」においてつながる
クッツェー自身批評家としてのテキストを多く残し、英文学教授でもある(Carrol Clarksonは孫弟子)
認知科学を用いたいわゆる「ダイナミックな」物語論で、面白い作品論に出会っていないだけかもしれないが、基本的には作品論と相性が悪いものだとは思う
The future development of both narratology and the usage of the term ‘narratology’ is uncertain, but it will be interesting to watch,
and even more interesting to make attempts to intervene and offer modest proposals for terminological distinctions and for a more precise usage of key terms.
Ansgar Nunnung 「Narratology or Narratologies? 」

538 :吾輩は名無しである:2018/10/24(水) 08:16:22.55 ID:N925CLfE.net
絵画の認知科学の分析とたぶん
事情は一緒だろう

名作の面白さを科学的に説明することは
ある程度できるが
その物差しで鑑賞外で面白い認定はできないからな

539 :吾輩は名無しである:2018/10/24(水) 11:19:59.67 ID:+Muj4dQ6.net
引用にはピリオドがあって、レス文には句点がない。

ま、どうでもいいけど。

540 :吾輩は名無しである:2018/10/24(水) 16:45:30.92 ID:7Evx+2Sw.net
読者反応批評だけじゃないだろ認知物語論は
なんで読者との動的相互性だけ重視してんだ
ばっかみたい

541 :吾輩は名無しである:2018/10/25(木) 00:16:21.16 ID:qG8ELw9D.net
たまたまNegationを扱ったテキスト論
の一分析例を読んだが指摘と理論的枠組みの
落差がすごいな

ただし有名作品の用例を書き換えて比較するという
やり方は悪くないがほんとこんなのどうすんだろ

a passage to indiaでno bathing-steps
on the river frontをno ice-cream stands on the river
だとおかしくなる、というどうでもいい先行研究を
引いてじゃあ何を言いたいのかというと,
読者は前もってある程度インドの知識がないと
表現を読み取れないのだ、と

こんなことなんで認知科学っぽい言葉で説明する必要
あるんだよww
いや理論であっという読み方見せてくれよw

542 :吾輩は名無しである:2018/10/25(木) 00:29:41.82 ID:qG8ELw9D.net
これあれかな
笑い話の分析分類みたいなものを情報構造で
言い換えしたいのか?

543 :吾輩は名無しである:2018/10/26(金) 11:31:42.94 ID:+R6Jwn8W.net
>>541
どの作品に限らず、読者がある程度書かれたものに対する知識がないと、表現は読み取れないよな。
薔薇の花を知らない読者には、赤い薔薇と書かれていてもなんのことだかわからないからね。
当たり前すぎる話だけど、それを敷衍して言語の先験性(構造?)を提唱したのが、ソシュールということかな。

544 :吾輩は名無しである:2018/10/26(金) 11:43:51.73 ID:DkcNEswF.net
談話辞研究でnegationというアプローチは
始めた奴は知らんが非常に鋭い

しかしその場合初めから有名作品に拘泥する必要はゼロ
実際の談話や文から機能を考察して
その後に有名作品がいかに巧みか、という
路線に繋げればいいだけ

545 :吾輩は名無しである:2018/10/26(金) 15:34:07.04 ID:DkcNEswF.net
どっちかというとソシュールよりもオースティンだな

546 :吾輩は名無しである:2018/10/28(日) 03:54:56.52 ID:kY9ftyvL.net
ジュネットの物語論について、ミーケ・バルが反論を呈したのは「80日間世界一周」の主人公とその従僕の関係についてのジュネットの記載からだ
バルが「焦点化する主体」という概念を提示し始めたのはこの英国紳士フォッグとフランス人の新しく従僕となったパスパルトゥーの関係をめぐってだ
パスパルトゥーは雇い入れが決まった当日に、「トランクを用意してくれ。〇時の馬車に乗る。世界を80日でめぐって戻ってくる」と変わり者の主人に言われる
主人はその数時間前に、社交クラブで賭けをして80日で世界をめぐってみせる、と断言した
この主人は冷静沈着、何事にも動じず、感情を表に出さない機械のような登場人物で「80日間世界一周」のロマンスやサスペンスはパスパルトゥが補完する形になっている
このバルの反論について、「小説のしくみ」(東大出版会2017)で菅原克也は「バルの誤解から始まった」としている
"The only focalization logically implied by the 'first-person' narrator," writes Genette, "is focalization through the narrator."
But surely speaking of the narrator as "focalizer" blurs the distinction that Genette himself introduced to clear up traditional confusion between voice and point of view—between "who speaks" and "who sees."
菅原克也はバルの用語法における外的焦点化と内的焦点化の二分法において二つの問題を提示する
・語り手は知覚するか
ジュネットにおいては語ることと知覚することの峻別こそが出発点であったが、バルにおいては語り手も知覚する
三人称の語りで作中人物(フォッグの容貌)や外界の風景が語られるとき、語り手は「知覚している」のか、「あるいは語っているに過ぎない」のか
ジュネットにおいては語り手は知覚するものではない
バルの議論では知覚し、同時に語る、奇妙な審級の存在となっている
さらに、リモン・キーナンはバルの二分法を受け継ぎ、きわめて単純な解釈をする、と記される

547 :吾輩は名無しである:2018/10/28(日) 03:57:00.22 ID:kY9ftyvL.net
リモン・キーナンは語る私は物語世界の外部に、知覚する私に物語世界の内部(内的焦点化を割り当てる)を割り当てる
整合性は持つけれどもしかし、そもそも三位一体論のような複雑さを持つこのような論理は、「語る私と経験する私が同じであるという最も困難な問題」を説明しきれていない

焦点化についての三分法から二分法はやはり重要な喪失を含んでいる
そこで、バルの論文を読んでいくと、その対象は映画であり、「シンドラーのリスト」の場面を「焦点化人物」を導入する根拠としている
しかし、映画と小説を同じ「物語論」で語ってよいのか、という問題は常に存在する
認知ナラトロジー論、可能世界論において、バルの焦点化人物を採用する論者は常に小説と映画、あるいは日常会話に至るまでを同じ領域として扱おうとしている
Genette says: “Unlike the director of a movie, the novelist is not compelled to put his camera somewhere; he has no camera” (Genette 1988:73).
Vice versa, it can be said: Unlike the novelist, the director of a movie is not compelled to talk to the audience; he has no voice.
蓮實重彦のジュネット以降の論者に対する批判も明確に、「小説においては」という限定の中で小説と映画の区別をつけていないことを指摘している
デリダに言わせるまでもなく、テキスト外に小説の現実はない、が哲学者サールの論争が焦点化においても現れる

548 :吾輩は名無しである:2018/10/28(日) 04:14:46.09 ID:kY9ftyvL.net
デリダの「言説は発話者の意図に限定されない」という意見に対し、サールは言語行為論を用いて「発話者の意図」の強調を行った
物語論においても、サールは言語学者として、物語論者によって抽象された「ファーブル」なるものを存在するものとし、さらにそれに「操作」を咥えることによって物語となる、と引用される
しかし、この「物語が最初からある」というある意味穏当な意見を蓮實は徹底的に批判する
とぎれとぎれにしか聞こえない「ボヴァリー夫人」における政治家の演説は草稿からしてもエマとレオンの情事の対立項としてしか残されていない、というテキスト論的傍証はさておき、
小説の特異性を謳うジュネットや蓮實にとってマルセルはプルーストであり、エマはフローベールであり、サールのようにホームズ物はワトソンがホームズの目撃者と語っているふりをして読者にそのような虚構世界に勧誘しているとは言わない
映画においては必ず映し出されない映像が存在するし、そうでない映画は非常に窮屈なものになる
逆に、小説においてはテキスト外に存在する自立したテキストは存在しないことをボヴァリー夫人論で主張し続ける
「内包された読者」や「内包された作者」という審級を認めない蓮實重彦は物語論の中で、ジュネット以降の拡張された「語り手のない小説は存在しうる」というUnspeakable Sentencesのアン・バンフィールドの論理を追っていく
タイトル通り、この分析はsentenceであって、小説ではない、という蓮實は安易に漫画や映画のために拡張された物語論や複数の焦点人物が存在しうるという説をもとにした可能世界論を小説・テキスト世界に「再適用」することを拒絶する

「文」はあらゆる焦点化存在に開かれているが、テキスト的現実において「語り手のない小説」「複数の焦点化主体という審級を認めなくてはならない小説」は必ずしも面白くない
ボヴァリー夫人という複数の焦点化人物を含んでいるように見える作品を作者フローベールやジュネット・蓮實は「ボヴァリー夫人は私(フローベール)である」という前提を共有している

549 :吾輩は名無しである:2018/10/28(日) 04:32:14.99 ID:kY9ftyvL.net
小説の大前提はSFやテレパシーを持つ登場人物でなければ登場人物がほかの登場人物の考えていることは知ることができない
ところが、漫画や映画、ある種のノンフィクションではルールを逸脱して本来知りえない他者の思考・知覚・視点があっさりと描写される
可能世界論は多数のfocalizerが存在し、それぞれ知覚した・イデオロギーによって歪められた・フィルターされた複数の代替的現実を構成する
テキスト依存のTAW(textual alternative world)やTRW(textual real world)は、しかし小説の中の限られた、テレパシー能力者か小説の制限を無視した作品にしか採用することはできない
ジュネットがそもそも知覚できない領域、とした他者の「嘘や誤解によって構成された」可能世界を読者が容認する、という可能世界論の前提は漫画や映画、日常会話と、いわゆる小説的テキストでは成立の要件が異なる


そのような議論の中で、一人の作者なる存在が複数のfocaliserを作ることの倫理的意味は何なのか
ケルテース・イムレという作者の「運命ではなく」という小説と映画版のfatelessnessの重要な違いはまさにここにある
私小説には「焦点化の指標」とされる表現がばら撒かれており、結末でカタルシスを迎えるが、映画では焦点化の指標が徹底的に剥奪される

親切で優しいナチスの親しみの持てる兵士が、護送するユダヤ人たちが声を出さないように機関銃を今にも撃ちそうにつきつけているという描写が映画版でどう再現されることか
空を飛ぶ飛行機に対して「もちろん」主人公は声を上げたりしなかったのだ
ウラジミール・ナボコフの「透明な対象」はSFではないが、意識的にこのような「他者の意識を知覚する侵犯者」を書いたunnatural narratorrogyを駆使して書かれた奇書である
クッツェーであれば「マイケル・K」は禁欲的な描写が突然ルール破りをしてfocaliserが出現する(というか、彼の小説はfocaliserの侵犯と不可能性を書いていないものは存在しないが)

最後にトーマス・ベルンハルトの「石灰工場」は自由間接文体、焦点化、物語内でありながら物語外にとどまり続ける語り手が複数の登場人物の声を模倣し、殺人事件の周縁を回り続け、物語を終わらせない挑発的な小説

550 :吾輩は名無しである:2018/10/28(日) 04:53:15.49 ID:kY9ftyvL.net
「焦点化の指標」は本当に実りのある概念で、作品分析において欠かすことはできない
多くは、作者の不注意、介入であり、しかし禁欲的に表現を構成している作者たちにおいては必ず意味がある
ナボコフがいかに地の文で読者を気付かせずに操ろうとしていることか

その遣り口を模倣する作者はけっこうおもしろい
自覚的に「焦点化の指標」を用いる作者は必ず二回以上のそのような指標をばらまく
単に偶然漏れだたせたような大衆小説やSF小説の破格と異なり、大抵の場合似たような照応する文章が見出せる
数百ページ隔てても照応することを確信できる表現に出逢うと、おそらくさらにその作者に時間を費やしても損はしないと思える

551 :学術:2018/10/28(日) 07:15:44.12 ID:3x3+YqMe.net
テレパシーも値段に換算して高い方がいと思うよ。

552 :学術:2018/10/28(日) 07:16:12.62 ID:3x3+YqMe.net
高い方がいい。

553 :学術:2018/10/28(日) 07:17:35.17 ID:3x3+YqMe.net
人間ずくの文学は面白くないだろうね。

554 :学術:2018/10/28(日) 07:18:28.32 ID:3x3+YqMe.net
誰かの代わりに識字能力があって誰かの代わりに読んで書いているに過ぎない
ということを忘れないように。ほかの種にとっての代わりとなる。

555 :学術:2018/10/28(日) 07:19:06.41 ID:3x3+YqMe.net
人間は人間の仕事をめ一杯するべきです。

556 :学術:2018/10/28(日) 07:20:41.83 ID:3x3+YqMe.net
自分のために生きているわけじゃないんだから発話者がこき使われているんだと
いうからには、発話者の意図でしゃべらないのは当たり前。

557 :吾輩は名無しである:2018/10/28(日) 09:05:31.86 ID:LmFm3t6g.net
映像なら映像実際に撮ってこれがこうこうです
こう撮るとこうなりますってやればいいのに
それを文章の批評でやるからおかしくなる
バカはこういうことに気が付かない

558 :学術:2018/10/28(日) 11:10:44.91 ID:3x3+YqMe.net
言葉か通じない思念がダメだとかでテレパシーになるレア度。

559 :吾輩は名無しである:2018/10/28(日) 11:16:09.25 ID:dxZoP/sf.net
テレパシーだの可能世界だのと言ってる時点で所詮趣味人に過ぎないことに気づこうぜ

560 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 00:06:41.24 ID:S46sx2I/.net
小説だけに適用可能な物語論って意味不明だよな

561 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 00:47:35.69 ID:S46sx2I/.net
結局テクストの自立性なんて神話を守ろうとするために
小説だけが特別にする必要があるってだけで
はすみんもジュネットももはや過去の人なのだ

562 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 01:46:54.14 ID:5ZcN2bOt.net
無価値な作品を取り上げるなら見出すならまだしも散々槍玉に挙げられてきた作品を語るための新たなツール開発に勤しんでるわけでしょ
都心にある築50年のマンションを今風にリノベして少しでも高く売りつけようとする不動産業者みたいな浅ましさ
本人らは当然良いことしているつもりなんだろうけど

563 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 01:58:56.58 ID:S46sx2I/.net
デジタルテクストとかデジタルアーキテクチャとかインターメディアの
兼ね合いでそっち系の理論と接合しようって意識もあるんで
文学だけの特権化を頑張ってしても文学だけしかつかえねーってのは
やっぱり保守化してる

564 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 02:19:54.33 ID:ND2CqL2C.net
それはハードとソフトの違いでしょ
文学だけでしか使えねーじゃなくて、ソフトとして文学内ですら汎用性がない
一部の自称インテリ実際はただのヲタクが自己完結するための暇つぶしにしかなってない
盆栽コンテストみたいなもん

565 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 02:41:38.95 ID:S46sx2I/.net
いや焦点化が使えねえってだけでだから代替案として
別のもんが提示されてるわけで

566 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 02:49:28.57 ID:ND2CqL2C.net
そっち系の理論と接合しようが文学的には使えねーだろw
文学的センスのない奴が文学を使って何か言うためには一役買うだろうけど

567 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 02:55:36.18 ID:S46sx2I/.net
文学的にも使えるだろ
焦点化は文学だけのもんだーと言ってるだけの
アホと違うだけだしな

568 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 10:10:07.57 ID:6cfGe0co.net
テレパシー的語り手も表現できない理論ってどうなの
ラノベにも使えなさそう

569 :吾輩は名無しである:2018/10/29(月) 10:15:33.36 ID:dFVkP3mZ.net
テレパシーなんて簡単じゃん
アホだな

570 :吾輩は名無しである:2018/10/30(火) 08:32:45.95 ID:HAFd5axn.net
ピーターバリーの文学理論取っつきにくくて理解困難。
読んだ人、解説キボンヌ。

571 :吾輩は名無しである:2018/10/30(火) 09:34:24.87 ID:HDtkmTLy.net
基本的にはポストモダンをおちょくってる本

572 :吾輩は名無しである:2018/10/30(火) 13:35:27.42 ID:hYAONWim.net
失時自体がテレパシー的語り手とされてたのにテレパシー扱えないってどうなの

573 :吾輩は名無しである:2018/10/31(水) 11:07:05.36 ID:wq/M6R16.net
>>572
テレパシーも個人の心理現象に過ぎないだろ?

文学的といえばいえるけど。

574 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 02:11:12.34 ID:MyUeYgdN.net
序説(プロレゴメーナ)をきちんとすることは非常に重要で、この言葉はどのような前提をもとに、その前提を共有するひとに向けられている議論かを無視した言葉は無価値と言える
アドルフ・ハルナックというドイツの神学者が天地創造ではなく、三位一体ではなく、宗教感情から始めるとき、見えない聴衆が浮かびあがる
物語論においては「見えるもの」と「見えないもの」を峻別し、「見えるもの」の中に「見えないもの」の指標を探していく
あいまいな「見えないもの」を例えばグレマスの概念の平行四辺形のように浮かび上がらせる方法論であったり、「登場人物」の中で世界観を持った「脇役」と「主筋人物」の「見えない」世界観を再構成する
「見えるもの」を「見えないもの」に構造化していく構造主義と、如何にして「見えないもの」が浮かび上がるかを認知と言う観点から措定する
この「見えないもの」はどれだけ作者によって占有されるのか、逆に読者によって再構成できるのか、は小説技術論、解釈学、さらにコンピュータによる物語創成論のすべてにおいて重要な問題となる

バルトの「明るい部屋」においても、「見えないもの」を観ようとすると必ず「見えるもの」が見失われる
見えたものから必ず「見えないもの」物語を作りながら情報量を削減する認知科学の知見は物語の生成論に強くあらわれる
蓮實重彦の執拗な「ボヴァリー夫人」論における「見えないものに注意を惹きつけられてテキスト的現実を無視する」物語論者への批判は、そのようにテキストを構成するべく改変し続けたフローベールの賞賛という隠れ蓑を纏ってもいる
「序説」においてはどのような差異を提示したうえでの議論なのかを知らなくてはならず、序説が厳密ではなく、方向性と土台を再確認するだけにすぎなくとも、それがもはや最重要なのだ、と「解釈学」において強調されたのは18世紀から19世紀においてだった
最初の章に何を持ってくるかがこの時期に大きく変わっているにもかかわらず、序章に触れない揚げ足取りに近い批評が増える

575 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 02:18:32.96 ID:MyUeYgdN.net
「人間が書けていない」という紋切型がある
物語論において、大きな潮流の二つを分断する「登場人物論」の根底にこの対立がある
「焦点化する登場人物は、複数存在するのか」という問題は「焦点化は作者以外には存在しない」というジュネットや蓮實、バルトを批判する人たちによって建てられた、と言っていい
物語内世界において、他の物語世界内の対象を焦点化する権限を登場人物に移譲するか
「見えないもの」に注目したジュネットの三分類をバル以降の二分類は漂白した、という観点は無視できない
「見えないものの再構成」を前提にした豊かな議論を享受することと、その切り捨てたものを無視することは違う

映画や漫画、口承や演劇においては小説においてよりはるかに権限移譲をしやすい(それは模倣を前提とするということでもある)
アリストテレスに遡り、登場人物は「形容詞の束」なのか、「名指しの対象なのか」という問題系が必ずと言っていいほど出てくるだろう
チャトマンはStory and Discourseで登場人物とは、種々の特性の集合であると述べている
アリストテレスにもすでに見られ、フォルマリズムや構造主義に顕著な、行動や出来事を物語の中心要素とし、登場人物分析に意義を認めない考え方を紹介する
この立場によれば、登場人物は第一義的に行為者として存在し、人格は単なる装飾品にすぎない
登場人物についての考察は物語のなかで果たしている機能を対象にすべきであるとされる
この考え方はジュネット〜バルト〜現代作家に根強く存在し、登場人物は機能にすぎず、テキスト外には存在しない
アリストテレスがギリシア悲劇から受け継いだこのようなある種「機能主義的」な物語論はローマの時代において「ストア派」の唯物論的物語論と対峙せざるを得ない
この記号学においてローマ/アッティカの本質よりも外装を繕う物語論と、アリストテレスからアウグスティヌスに引き継がれる心理主義的な記号学・物語論は厳然として区別される
キケロが同時代のギリシャ語話者によってそのアッティカ・ローマ性を批判されたことはラテン語とギリシャ語世界の温度差を示し、ギリシャ・東方文化を包含したと称するヨーロッパ世界に待ったをかける
心理主義的な記号学の出現という記号学の歴史において反復される対立が物理的な境界条件に一致する格好の(範)例の一つである

576 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 02:23:40.65 ID:MyUeYgdN.net
クッツェーは、綿密に登場人物を構成しているようでありながら、「デイヴィッド・ルーリーが小説外でどんな人物か、わたしは全く感知しません」という
アパルトヘイトが終わったばかりの大学で、白人大学教授として「何年にもわたり、性の問題をうまくやってきた」、というカラードの女性を買春する主人公の性生活はアパルトヘイト廃止で変化したはずである
しかし、テキストに(構想ではあったかもしれないにしろ)書かなかった以上、クッツェーにとって存在していない
チャトマンはこの考え方には同意せず、彼はバルトを引き合いに出しながら、より登場人物を現実世界の人間と類似した存在として分析する態度を擁護する

可能世界意味論、焦点化する複数の物語内登場人物を、ジュネットやバルトから引き剥がすのはこの作中人物を機能でなく「まるで現実の人間のように扱う」という特性である
このことは、強調するだけの価値が大いにある
バルトやジュネットの物語論では、機能としての作中人物を開示するが、彼らの議論では作中人物は「現実の人間」ではなく「作中に書かれた人物」としてしか存在しえない
マリー・ライアンは可能世界を導入し、IT世界につながる文学理論を打ち立てたが、ミーケ・バルと同じ「物語内語り手も知覚する・焦点化する」という登場人物の「現実の人間」扱いを前提としている
ウンベルト・エーコにあっては可能世界は読者の中にしか存在しない
・現実世界(AW)
・テキストによってつくられた世界(TAW)
・読者が現実世界の論理によってテキストによってつくられた世界を構成し続ける世界は常に可変的であり、「開かれている」が例えば007のような小説ではTAWは読者の中の世界と容易に一致する
複雑な読解を要する小説では、読者の中の世界とTAWは一致しない
言い換えれば「開かれた書物」は「閉ざされた読者」にのみ開示されるし、「閉ざされた書物」は万人に「開かれている」

マリー・ライアンは登場人物それぞれの構成する世界を認め、さらに「知識世界」、「義務世界」、「願望世界」、「意図世界」としてそれぞれのずれを分析する
このすべてが現実世界を含むほかの人物と異なる必要はなく、どころか書かれないこともあってよい
この分析も、ある種の物語や漫画、小説において非常に有用なものである

577 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 02:32:33.37 ID:MyUeYgdN.net
登場人物をまるで現実の人間のように「性格の描けている」人物として設定し、時間経過(テキスト内時間)によって変化する人物を取り出して中心人物・背景人物という機能的分類を施すこともできる

いいことづくめのようなこの分析の手段は、その出自からして「登場人物に尊厳を与える」と言う視点を有する
登場人物Aの可能世界において登場人物Bは「知識世界において不十分な知識のB’」、「義務世界においてある行動をとるべき対象B'’」、「願望世界において欲望の対象B'''」、「意図世界において行為を行うB''''」
これらが時間tとともに変化していく(Aにとっての中心的人物)か変化しない(Aにとってのマイナー人物・背景人物)
この分析(分類)で、より面白く読める小説はたくさんある
その限りにおいて、可能世界意味論は非常に有用である
カルナップという哲学者の分析哲学から拡張した論理哲学は、その拡張がどのような条件でなされているかを弁えた条件において、非常に有用である
可能世界意味論のバックグラウンドとなる可能世界に現実世界と同等の権利を与える様相論理学を、マリー・ライアンは運用している
フレーゲが導入した数学的プラトニズムは、明らかに狭い一階の論理学をカテゴリーという二階論理を導入することなく拡張しえた
しかし、カルナップのほんの少し拡張した実在論は激烈な批判にさらされた
可能世界の様相論理学は実在論をもはや唱えないが、しかし実在論の果実だけを貪る
ひとりの登場人物に語り手によって賦与された性質と、他の登場人物によって賦与された性質が大きく異なれば、その登場人物は物語現実世界と信念世界において異なるかたちで存在すると考えることができる
また、非現実的で非論理的な物語世界を持つ作品の場合、その物語現実世界に同一人物の複数の異なるバージョンが同等の存在論的根拠を有して位置づけられることもある
作中人物にどこまで、自分と同じく「物語を解釈する」権利を与えるか、エーコやジュネットや蓮實、そしてクッツェーはここで立ち止まる
他人が世界を認識するさまを描写することは、僭越な越権行為ではないのか
このは数学基礎論の基礎づけをかなりあいまいに残した飛躍を放置している

578 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 02:55:35.70 ID:MyUeYgdN.net
先端研でも研究していた山梨大の小方孝らの物語情報論は上のような問題系を踏まえたうえでの小説生成を研究している
ハイパーテキストなる魅力的な概念に比べて「ハイパーテキスト小説」が一つとしてまともに存在しない現状を嘆いたうえで、歌舞伎のハイパーテキスト性・多義性・融通無碍さを強調する
登場人物同士の可能世界の対立として三島由紀夫の戯曲的小説を読んでみたり、広告の物語性を分析してみたりする
拡張された物語論、彼らに言わせれば「拡張された拡張文学論」なるものを読むことも面白いもの
拡張したことによって失われるものを明確に意識した理論は面白い
「見えるもの」が小説と映画と戯曲と漫画とスポーツ観戦でどう異なるのか
アリストテレスに言わせれば「見えるもの」は三段論法の結論が欠落したものである
トドロフは「有縁化」において象徴の意味論を唱えている
AならばBであり、BはCである
ここにAはCであるというとき、この意味作用は本義なのか転義なのか、象徴なのか
アリストテレスは不当にも語は人の音声に限局し、「ラッパ」などは数が少ない、として退けた
カルナップが論理哲学においてsuperveneという概念を導入したことは結論を持たない三段論法への注目だった
音声でなく語となり、アリストテレスの心理主義的、有縁的記号論がソシュールやヘーゲルによって取って代わられた「見えないこと」の強調された世界で、「見えるものによって」「見えること」にした還元学的世界観には、感情的なだけではない反発はあっていいだろう

579 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 03:56:30.31 ID:MyUeYgdN.net
クッツェーの恥辱をマリー・ライアンに則って読解を試みようとするものはどんなに適用しやすいかに驚くだろう
「知識世界」「義務世界」「願望世界」「意図世界」
全てにおいて主人公と対立する世界があらわれ、さらには主人公の世界も変貌し続ける
主人公の欲望の対象たち、その恋人、その両親、大学の同僚たち、離婚した妻、レズビアンの娘、娘の働く農場の隣人、
その親戚で娘をレイプして主人公に火をつける若者、主人公と娘とレイプした若者をパーティに招く隣人たち、レイプされた娘を第三夫人にしようと申し出る隣人とそれを受け入れる娘、、動物病院の女医
全てにおいて、主人公と異なる信念世界を提示する
ところが、それぞれの世界を掘り下げようとして得られるものは主人公の世界だけで、他の登場人物の世界から主人公は徹底的に拒絶される
主人公が変わっていく、ことはわかるものの世界はなるべく認知がゆがむようにテキストが作られている

テキスト内にちりばめられた情報に基づいて、「2000年代の南アフリカ」的に読もうとしても、そのような寓意的な読みを許さない
アパルトヘイトが終わってもなお有色女性を買い続ける教授の必然の破滅、過剰な復讐と読まれること(現にそう読まれ続ける)を拒む禁欲的なテキストが存在する
テキスト外部に常に誘惑し続ける寓意物語のようでありながら、登場人物に(物語的)尊厳など与えない正しく象徴的な小説

クッツェーはオースターとの対談でスポーツと物語について述べている
野球を見て、「主役になった気になって楽しむ子供」「父親がスポーツのヒーローだったら、という害のない空想を楽しむ子供」
例によってオースターの反応をぶった切るように話題を変えるクッツェーはスポーツに物語を観ることへの強烈な違和感、必死で勝ちたいと思ってしまったことを理由にチェスを一切やめたことを語る
スポーツを観る自分を時間の浪費と断じ、ただ一つ、「自分には決してできないプレイ、特権的な瞬間に出逢うためだけにだらだらと中継を見続けてまう」
スポーツから空想的な物語を構成すること、勝利、英雄と言う物語を空想することへの嫌悪感をぶっきらぼうに提示する

一回限りの体験と、反復される物語
体験を描こうとするギリシア悲劇と同じく主人公の周りに置かれた「可能意味世界たち」は尊厳を奪われてある

580 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 04:15:50.19 ID:utNMKOuS.net
真夜中のサンセット

581 :学術:2018/11/04(日) 07:22:48.03 ID:MLSLOqFt.net
長文お疲れ。

582 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 09:49:12.27 ID:5SzWsjdy.net
むつかしく考えることなかれ。
谷崎潤一郎の『文章読本』を読むことをおススメする。

583 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 10:05:09.19 ID:62Vd3i71.net
言葉が滑って中身がない
もっと項目絞らないと

具体性がないところは
シャシャキと同じ間違いしている

584 :学術:2018/11/04(日) 15:40:45.08 ID:MLSLOqFt.net
見えないものが見えてきてそれが走ってくるのは見たことがある。耄碌というか。

585 :学術:2018/11/04(日) 15:41:07.73 ID:MLSLOqFt.net
神や妖精が見えるかい?

586 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 16:23:23.00 ID:6L9owQO1.net
暇で無職なんだろうな。誰も相手にしてくれないから5chで長文、恥を知れよ。

587 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 16:52:06.31 ID:1kdkkx6O.net
堀江貴文「発達障害ってよ!病気じゃなくて甘え。得意不得意なんて誰にでもある気の持ちよう」
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1541291215/

発達障害はデメリット? ホリエモン×ひろゆきはどう考えているのか

ホリ 
てか、ADHDも「多動力」みたいなポジティブワードにすりゃいいと思う。手前みそだけど、俺の『多動力』って本が出たおかげで、気持ちが楽になったり、活躍の場が広がった人は少なからずいると思うよ。

ひろ だから、ADHDだったらデスクワークとか向かない職種はありそうですけど、それがデメリットにならない業種に就けばいいんじゃないかなと。
だって、スタイルが悪いのにモデルになりたいとかいっても無理じゃないですか。生まれ持った能力などで、できない仕事があるのは一般的なことだと思いますから。

ホリ ってか、得意不得意なんて誰にでもあることでしょ。それをネガティブにとらえる必要はないよね。

ひろ 運動が苦手だとスポーツ選手になれないとか、普通のことですしね

ホリ とりあえずポジティブに考えて、できることをやっていけばいいだけなんだよ。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181103-01074400-playboyz-soci

しねよゴミ発達甘え野郎
おまえらは病気じゃない詐病なんだよ

588 :吾輩は名無しである:2018/11/04(日) 19:18:02.79 ID:62Vd3i71.net
>>574
一度さ、隠れ蓑とかそういう哲学チックな
比喩を使わずに書いてみ

589 :学術:2018/11/05(月) 14:22:58.83 ID:6KjdQ6/8.net
アパート ヘイステ

590 :吾輩は名無しである:2018/11/13(火) 19:30:01.33 ID:pJ3AY2MU.net
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542022362/

591 :吾輩は名無しである:2018/12/31(月) 16:25:58.20 ID:bsIR2OHS.net
文学とは何か。
文学理論とは何か。
文学の理論とは何か。
理論とは何か。
何かとは何か。
あ、しまた。哲学板じゃない。
とするならば、文学板においては、「文学理論」を「文学」として扱えばよいのだろうか?
そもそも「文学」という「学問」は何をするものなのか、「学問」なのか。
「文学」などという「学問」は存在しないのではないか?

592 :吾輩は名無しである:2019/01/03(木) 18:58:09.92 ID:5HiJeNBa.net
夏目漱石からやり直せ
理論と創作両方やってるから

593 :吾輩は名無しである:2019/01/04(金) 09:18:40.52 ID:C5N0f3ej.net
>>592
日本では坪内逍遥以来の伝統かな?

筒井康隆も、理論と創作両方やってると言えないこともない。

594 :吾輩は名無しである:2019/01/17(木) 15:44:07.31 ID:tW3ys4Nq.net
漱石にしろ筒井康隆にしろ、言ってることは欧米の理論家の受け売りだよね(作家だから別にそれでいいけど)
大江健三郎も村上春樹もそんな感じだな

欧米の理論の受け売りじゃない小説理論を持ってた日本人作家だと、三島由紀夫が面白い
あの人は自分が読んだ小説や見た芝居の感動を分析して理論化できる人だ

595 :吾輩は名無しである:2019/01/17(木) 16:48:53.57 ID:rSOrj8r/.net
三島は受け売りだよ
独自性幻想を捨てよ

596 :吾輩は名無しである:2019/01/17(木) 20:30:07.58 ID:pskRbHfS.net
「仮面の告白」はもろに「グラン・モーヌ」だったな

597 :吾輩は名無しである:2019/01/17(木) 20:44:52.99 ID:bC8wuA23.net
まだ星のようなUFOを見てないのか? 世界教師マYトレーヤが現れるぞ!

598 :P :2019/01/17(木) 21:10:59.20 ID:guTThRPp.net
漱石の文学論は誰の受け売りだったと言うの?

599 :吾輩は名無しである:2019/01/18(金) 00:55:27.62 ID:po0avWfF.net
ウィリアム・ジェームズとかハーバート・スペンサーとか

600 :吾輩は名無しである:2019/01/18(金) 09:27:38.30 ID:BiQxxQHL.net
>>599
どこが?

601 :吾輩は名無しである:2019/01/18(金) 09:29:27.60 ID:BiQxxQHL.net
>>596
「仮面の告白」は『晩年』へのオマージュだよ。

602 :吾輩は名無しである:2019/01/18(金) 09:51:22.25 ID:g8OzIyA3.net
連合心理学の成果を使ってるからヒューム亜流!ぐらい雑な意見

603 :吾輩は名無しである:2019/01/18(金) 12:30:35.96 ID:po0avWfF.net
>>600
ウィリアム・ジェームズの影響のほうは特に有名な話らしくて、論文もいくつかあるし、ぐぐったらいろいろ出てくるよ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/137553/1/prospectus13_sasaki_paper.pdf
漱石はイギリス時代にジェームズの元に通ってたんだとか
https://serai.jp/hobby/109882

今見たらウィリアム・ジェームズのWikipediaにまで「夏目漱石も影響を受けていることが知られている」って書いてあるわ

604 :P :2019/01/19(土) 01:32:25.37 ID:ni5eEjBW.net
「影響を受けた」と「受け売り」は全然違うでしょ。

605 :吾輩は名無しである:2019/01/19(土) 22:25:43.91 ID:YP7n29+B.net
>>604
理論的な影響を受けてるといえるのは受け売りの部分があるからなわけで

606 :P :2019/01/19(土) 22:28:19.52 ID:ni5eEjBW.net
>>605
ちょっと何言ってるかわからないですね

607 :吾輩は名無しである:2019/01/19(土) 23:42:57.07 ID:YP7n29+B.net
>>606
逆に言ったほうがわかりやすいか
受け売りの部分がなかったら、理論的な影響を受けてることはわからない
まぁこの話はあんまり面白くないし、これくらいで終わろう

608 :吾輩は名無しである:2019/01/19(土) 23:54:06.11 ID:YP7n29+B.net
そういえば、今年から著作権の保護期間が延びて、著者の死後70年間になったらしいね

過去の文献が電子書籍化されて手に入りやすくなるかと思ったらそんなこともなかったし
絶版本の値段は上がる一方で、だんだん秘伝書じみてきてるなぁ

609 :吾輩は名無しである:2019/01/19(土) 23:58:52.06 ID:CEEH+Q2U.net
>>603
>漱石はイギリス時代にジェームズの元に通ってたんだとか
そんなわけないでしょ、そもそもウィリアム・ジュイムズってアメリカ人だよ?

今から116年前の今日、すなわち明治33年(1900)11月22日、ロンドン留学中の33歳の漱石は、ベーカー・ストリートの西側、グロスター・プレイス55番Aの建物の前に立った。
ロンドン大学のケア教授の紹介で、シェークスピア研究家のウィリアム・ジェームス・クレイグ博士を訪ねてきたのだった。

ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。

別人だよ・・・

610 :P :2019/01/20(日) 22:52:02.51 ID:xmnKFB2V.net
面白いのでage

611 :吾輩は名無しである:2019/01/21(月) 12:04:22.82 ID:PLoH5rb5.net
>>609
だいぶ長い間、ウィリアム・ジェームスとウィリアム・ジェイムズが同じ人だと勘違いしてたよ。ありがとう。

612 :吾輩は名無しである:2019/02/11(月) 09:20:36.75 ID:dK7Vdjgq.net
売れないから翻訳が出ないだけなのか、最近は海外でも特に重要な本がないのか、どっちなの?

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