はしがき (p5〜p9)邦訳で4p そっけない文章でCoronary thrombosisで死んだH.Hの死(November 16, 1952)などが語られる。 ところどころ普通は使わない単語が入っており、言葉遊びになっているものが多い。 ロリータらしき人物の後日談もこのはしがきに書いてあるが、これも再読しないと分からない。 書き出しは“Lolita, or the Confession of a White Widowed Male” such were the two titles under which the writer of the present note received the strange pages it preambulates. 本文のラストが my Lolita.であることと対応している。(Lolitaで始まり、lolitaで終わる)
H,Hの弁護士であるClarence Choate Clark(CCC)は本文には出てこないが、ロリータの級友名が列挙されるなかにGordon Clarkeがいて、どうやらオナニー狂いのGordonの父親らしいことが分かる。 はしがきの作者ジョンレイジュニアは頭文字だけとるとJRJrになる。H.Hの精神鑑定行ったのは白黒男博士(Blanche Schwarzman) 作者の奇妙な家名(Author’s Bizzare cognomen)はABCとなる(続けて読むとABCは作者自身の発明である) 上の書き出しもwhite widowed, two titles, which writer, pages preambulatesとよく考えると不自然な構文と言い回しで文字を重ねる。 矛盾したカマトトは、paradoxical prude’sでp-p、コップの中の嵐はtempest in a test tubeとT-T-T describes with such despair; that had our demented diarist d-d-d-d tragic tale tendingでt-t-t shadow of this sorry and sordid business s-s-s などなど 4pの中に50近い頭文字の連続が含まれる。
登場人物Vivian Darkbloomはaabdiiklmnoorvv→Vladimir Nabokovのアナグラム。「アーダ」にはNotes to Ada by Vivian Darkbloomがついている 名前だけ、二回くらいしか出てストーリーにほぼ関わらない彼女が事件後に“My Cue,「私の指図」.という自伝を書いた、という一見無意味な一文の意味が変容する。 ロリータ本文とはしがきの両方にこういう言葉遊びをぶち込んだのはH.Hでも編集者JRJrでもなく、「My Cue(私の指図)」であるということ。 Adaは1969年、自伝「記憶よ語れ」は1966年、どちらにもDarkbloomが出てくる。 小説内、作家の回想、別の小説にこっそり出現するこの女性は羅列される固有名の中に忍び込まされている。
第一部一章 (p9) 1ページ以下 有名な書き出し Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: L-l-m-l-f-m-l-m-s-m-s-l-l-t その後もt-t-t-t-t-t-s-d-p-t-t-t、 Lo. Lee. Ta.となる。共感覚者ナボコフにとっては原色の世界が展開される。 0.8ページ程度だが、注釈本では数ページにわたることが多い。 ロリータはスペイン語のドローレスに由来して、意味は悲しみのマリアであり、「Lolita」発表以前にもスペイン語文献にはロリータという人名はそれなりに見つかる、 In a princedom by the sea.海辺の王子たちの王国はポーの「アナベル・リィ」の一節の海辺の王国をもじっている。 noble-winged seraphsも「アナベル・リィ」からの引用 I and my Annabel Lee— With a love that the winged seraphs of Heaven Coveted her and me. アナベル・リイとわが身こそ/もとよりともにうなゐなれど/ 帝郷羽衣の天人だも/ものうらやみのたねなりかし(日夏耿之介訳) Look at this tangle of thorns. L-(a)-t-t-t 明確な色を反映しており、表面上の意味は絡みつく茨のとげであり、自身をアナベルに出会ってしまったことの犠牲者としている 短い文章のほとんどがアナベルを示しているとともに、自分を王子、殉教者として神格化し、murderer for a fancy prose styleとしているあたりたちが悪い。 都合の悪いところになると文学的な修辞をちりばめて責任逃れをしようとする主人公だが、逆に性的な場面になると描写が手が込み始める、と言う意味では読みやすい。
第一部第三章 (p11〜p13) アナベルとの出会い 前章の色を確かめるように、アナベルを思い浮かべるときはlittle ghost in natural colorsを目を閉じて想起する、と色が強調される。 Annabel Leighも混血であるが、英蘭のハーフ。Sybilの友人であり、19世紀後半においては表向き厳格なプロテスタント道徳が支配していた国でもあるため、Leigh夫妻はともに厳格で、H.Hは嫌っている。 Leigh夫人はわざわざ“結婚前はVanessa van Ness”とされるがこれは、例によってVaness Vanessの言葉遊び。 繰り返されるVanessaはJonathan Swiftが始めて発明した名前であり、彼の若い愛人の一人に彼がつけた愛称でもある。 Cadenus and Vanessaという880行の詩を残しているのでそれを調べてみるとその書き出しは THE shepherds and the nymphs were seen、 羊飼いとNymphは召還される Pleading before the Cyprian Queen. 女神ビーナスの前で懇願する The counsel for the fair began 公正なる裁判を Accusing the false creature, man. 過ちの生物、男を糾弾される The brief with weighty crimes was charged 短いけれど重大な犯罪がおかされた どう考えても「Lolita」の構想にこのアナグラムや言葉遊びを好むSwiftは隠れているだろう。Vanessaは愛人Esther Vanhomrighの名前を組み替えている。 Pale FireでもJonathan Swiftが言及される上にヨーロッパアカタテハ(Vanessa atalanta)が頻出していた。 一応、Vanessa atalantaの色はdark brown, red, and black wing patternであり、powderedというLeigh夫人の形容、Leigh氏のbrownというよくわからない形容はここでつながる。 タテハチョウ科はNymphalidae、アカタテハ属がVanessaになる。特に粉の着いたVannesa(Nymphalidae)である夫人は変態を終えた、成長したNymphetであり、だから嫌悪の対象になっている、と考えてみる。 同じ厳格で、年長であるSybilが白蝋のようで粉を吹いていない石女であることとは対照的であり、Loはいずれmetamorphosisを遂げることになる。(妊娠・出産への嫌悪?)
第一部第四・五章 (p13〜p20) 第二章では意味伝達描写(C)が増え、言葉遊び(A)の濃度が薄くなったのと同様、Annabel後は(A)が増える一方(C)の描写が減少する。 この意味伝達描写の不足から目をそらそうと、この章では(A)(B)の描写にあふれている。少女への嗜好を語り、プルーストや精神分析への言及、Annabelとの性交を華麗な言葉遊びや修辞で語るH.Hに抗って(C)で語られるべき情報の再構成を試みた。 年表を書いてみると、1923年から1935年には具体的な時間記述は存在しない。(もちろんAnnabelの死とDoloresの生誕に気づく) ただ、H.Hが技巧を凝らした文章を無視するわけにもいかないので、再度彼の(A)(B)を味読する。 “The Proustian theme in a letter from Keats to Benjamin Bailey”は当時T.S.Eliotが再評価をしていたKeats書簡集を読み直したもの。10編残っているBaileyへの手紙の中に、ImaginationをAdam’s Dreamに比べて語るものがある。 適切な場所で適切な声で歌われた古いメロディを聞いて、初めて聞いたときの歌い手の顔をそれ以上なく美しく思い出す、という感覚と時間と記憶に関わる詩的経験のくだり。
H.Hは痛みと快楽(painとpleasure)を常に感じ、Annabelとの性交時にもeerie expression, half-pleasure, half-painを感じ、闖入者によって離れるときにもacheは彼に残る。生涯彼を悩ませる痛みは彼において快楽と常に一緒に出現する。 Annabelとは、出会う前から同じ夢を見ていた、1919年の6月に、迷子のカナリアが家に迷い込んできた、と語られる。 H.Hが精神分析の分析者になろうとしたことは同時期にロンドンへ移住したKleinらの分析を受けていることになる(資格のためには、自ら分析を受けなくてはならない)。 分析でpeculiar exhaustion, I am so oppressed, doctorとなったことは16-19歳のロンドン時代に既に自分の性的嗜好に向き合わされていることを示す。ロンドンを離れ、パリで「解放され」、Uranist(同性愛者)たちと交流する。 Nympholepsyを体系化していく過程は精神分析のparodyであり、欲望を理論化するすべを精神分析で学んでパリで開放してしまった、とも取れる。 有能な精神分析を受けていたらこの事件はなかったかも、と主張するのはナボコフの強烈な皮肉。 (アメリカでM.Mの自殺により精神分析にけちがつくのは1962年)
いずれLolitaが出現したときにNymphetは語られるが、この時点ではH.HはNymphetに会ってはいない。AnnabelはelfであってNymphetではなく、H.H少年はFoulet(牧神パンの小辞形)でしかない。 何がNymphetではないか、を列挙していく核心は、その美しさにまわりが気づかず、自分も気づいていない、ために無遠慮な視線を投げることが可能になるというところか。 少女を凝視しても罰せられない環境づくり(適切な時間と空間により強化される想像力!)にいそしむH.Hは窃視者では実はない。 だからLolitaの登場はHaze夫人もLo自身も半分裸でいることに無頓着であることにより、完璧なNymphetである。 睡眠薬を飲んでも寝てくれないにも関わらず、「自分から」H.Hを誘惑することで成立してしまう最初のLoとの性交はAnnabelと異なり失望を伴うことになる。 the nymphean evil breathing through every pore すべての「毛穴」から「ニンフとしての悪」が噴出してくる、という性交直前のロリータの描写はショックを受けるほどに変貌した元Nymphetへの嫌悪を示す。
第一部第六章 (p20〜p24)(1935年の4月) 二人の対照的な娼婦について語られる。Madeleine(マグダラのマリアに由来)付近を歩いているときに、short slim girl passed me at a rapid, high-heeled, tripping step。 第一章を思わせるリズミカルな登場をさせた少女は、H.Hと同時にglanced back at the same momentと描写され、価格交渉に移る。100フランで、値切ろうとするが、3年前には学校帰りの彼女を見ていただろう、と思った瞬間値切るのをやめる。 誰もが18歳と答える娼婦にあってMoniqueはおそらく16,7歳であり、80人を超える娼婦の経験の中で最大の悦楽とうずき(gave me a pang of genuine pleasure)を味わえた、と150フランを渡す。 (oh, she had been a nymphet all right!) 無邪気に喜ぶMoniqueに翌日も逢う約束をとりつけ、都合四度買春するが、二度目以降は輝きが急速に失われ、風邪をうつされたこともあり思い出に保存することにする。(登場以外にもLoやAnnabelに対するような描写表現が散見される) 二人目はMoniqueに味を占めてより若い少女をいかがわしい女郎屋(Edith : riches or blessed' + 'war')を探して紹介された少女Marie。 女衒に連れられてみると生気のない、「15歳にはなっているだろう」、椅子にやる気なく座って人形をいじくり、奥には赤子がいる生活感に満ちた部屋のmonstrously plump, sallow, repulsively plain girlに出くわす。 ビデとベッドしかない、他の紳士に会わないよう工夫された部屋、しゃがんだ少年の尻よりも小さな尻、tight-fitting tailored dressは真珠色、会話も弾み、感謝もされ、軽やかなMoniqueとの対比はうんざりするほど。 これでもかと前半で讃えた描写をひっくり返して嫌悪感に満ちた描写。踵を返そうとすると少年や乳児や荒くれ者まであらわれ、Marieの贈り物を握らせようやく解放される。 Moniqueに与えた贈り物(50フランの追加)は感激され、H.Hがついていけないほど軽やかに駆け出すのに対し、indifferent handに押し込む。 16歳以上だがかつてNymphetであった少女とより若くてもNymphetからほど遠い少女を経験して娼婦漁りを断念し、結婚を決意する。(次章で、30歳近いが少女のようなValeriaと結婚することになる。) あまり自信はないが、二人の名Moniqueはmonos(一人)、Marieはアナグラムでarmie(army)。後者は荒くれ者たちとEdithの(裕福な+戦争)に響きあう。
第一部第七章 (p24〜p25)(1935年春以降) 前章で、独身者として娼婦を漁る事への危険を味わったH.Hは、もろもろの利得から結婚をしようとしてみる。別の目的のための隠れ蓑にされる二人の妻(ValeriaとCharlot)。 どちらもNymphetを堂々と凝視できる、という目的であり、結婚の時点では成熟した妻との結婚は直接Nymphetを抱くことが目的ではない。 相手はH.Hのspells of dizziness and tachycardiaを治療してくれた Poland出身の医者の娘Varerila。AnnabelのかけたspellはLoが解いた、と語られたことの反映。 しかしH.Hのspell(米語では発作)を解くことは彼の妄想のようにはうまくいかない。 42歳で心筋梗塞を起こすH.Hは生涯健康(healthy、sound)から距離を置く。しかし快楽でなく健康を象徴する人物もいて、H.Hは彼女らに捨てられ、あるいは自ら捨てることになる。(男性の場合は単に忠告を無視するのだが) Vareriaはラテン語のvalere: "to be healthy"or "to be strong"だが、医者の娘と言うだけでなく"to be healthy"であることは次の章でも明らかになる。
父の遺産として得たわずかばかりの金に加え、my striking if somewhat brutal good looksがあれば女性には困らない、という。 このH.Hの描写で「somewhat」とか「strange」という言葉は要注意。 (typical Nabokovian marker (equivalent to "somehow" or "for some reason"). By wakashima)H.H自身が気づいていないがナボコフがsubtle psychological explanation for the repressionが隠れている。 獣じみたところがある、という小説を通した象徴でもあるが、brutalは後に他の人物の顔の描写に使われ、H.Hの顔面的特徴をほのめかす。 ナボコフは精神分析には攻撃的だが、H.Hは精神分析に傾倒した上にこの後も精神分析に関わる人間であり、精神分析的に読むことを期待する描写をする。 さらに加えて、ナボコフは注釈なしでは意味を持たないような描写を目指す、という点で精神分析的な深読みを要求する、というねじれた関係を持つ。
例によって登場シーンでは魅力的な描写を行うが、初夜の後に描写は反転する。 She looked fluffy and frolicsome, dressed à la gamine, showed a generous amount of smooth leg, knew how to stress the white of a bare instep by the black of a velvet slipper, and pouted, and dimpled, and romped, and dirndled, この浮かれた描写が初夜には孤児院でくすねてきた少女の服を着せて朝まで性交し、染められた髪の根の色や産毛が剛毛になっているのを見て幻滅する。 やせて青白い少女の代わりに、a large, puffy, short-legged, big-breasted and practically brainless babaを得たとするが、無口さだけは気に入っている(相手はそうではないが) みすぼらしいアパートで生活をする日々。隣の食料雑貨店の少女に狂気を呼び起こされるが、Valeriaによりafter all some legal outlets to my fantastic predicamentをえる。 おいしいポトフ(pot-au-feu)と生きたmerkin(ダッチワイフよりオナホールに近い)を求めて結婚し、少女への欲望が抑えきれないときにだけはけ口を求める。不機嫌に黙り込み、困惑させる。 三行半を突きつけられ、タクシー運転手をしているロシアの元大佐に奪われるのも当たり前だと思われる。
第一部第八章 (p25〜p32)(1935年〜1939年) 8章は三つに別れ、Valeriaとの結婚生活/伯父の死と間男の発覚/その後と刑務所の図書館蔵書となる。 間男は、当時パリに大勢居た亡命ロシア人のタクシードライバーで、H.Hよりも5歳近く年上のValeriaよりも更に年上、父親のような年齢。 Loの場合は若い男に奪われる恐怖を抱き続けて自分と同年代の男に奪われる。 Humbert the Terrible deliberated with Humbert the Small whether Humbert Humbert should kill her or her lover, or both, or neither. 二人を殺そうとして、「これまで語っていなかったと思うが、まぁ気にしないでくれ」と学生時代のことを思い出す。級友の自動拳銃を弄繰り回しながら、彼の透き通るような肌を持った妹を陵辱し、自分を撃つ空想を楽しんでいた。 「抑圧」、見たくないことやいい間違い(puns)にこそ本当の無意識が現れる、という精神分析的解釈をナボコフは馬鹿にしている。 これはJames Joyce、Paul Valerey、譲歩をつけながらVirginia Wolfに共通するフロイトへのアンビバレントかつ明確な反対なのだ。ただしそれは作者の無意識を探ることであって、作者によって周到に作り上げられた登場人物の無意識を探ることではない。 事実、H.Hの無意識を掘り返すとナボコフの手のひらにいるかのように、テキスト上に相応する描写が(時に数百ページを隔てて)見つかる。不自然な描写・文・単語には必ず何かが隠れていて発見は尽きることがない。 繰り返せばなぜここまでH.Hが学生時代を語りたがらないのか、買春以外の女性との交流は皆無で、友人の妹を犯す妄想(もちろん自分の痛み、自殺を伴う)でとどまるのか。 例えば故Harold HazeからH.Hに引き継がれた自動拳銃は、We must remember that a pistol is the Freudian symbol of the Ur-father’s central forelimbとされる。
第一部第九章 (p32〜p34)(1939-47年) 離婚の手続きをするために予定されていたアメリカ行きが遅れ、戦争が始まる。さらに肺炎で一冬をリスボンですごす。 NYでは香水の広告の仕事(取り留めのないpseudoliterary)に従事し、さらに数年間フランス文学比較史に一日15時間近く取り組む。図書館の光と不眠症の影に二分された生活(ample light and narrow shade)。 ここでも「Let us skip all that」とし、ある時点でdreadful breakdownが起こって精神病院(sanatorium)に一年以上いることになり、仕事に戻るとすぐに再入院する羽目になる。 病院の、「One of my favorite doctors」の弟がカナダの北極圏の調査に向かうのに同行する。 同行者も精神的な問題を抱えている作業療法のようなもので、幻想的なblankness and boredomにもかかわらず、あるいはそのおかげか健康は取り戻される。エスキモーの少女たちは必ずしも不快な描写をされるわけではないが、欲望はそそられない。 Nymphets do not occur in polar regions.(自然と不毛と人工の対比) 20ヶ月の北極圏での中途半端な仕事を終え、1945年か46年の年報にでっち上げの報告を載せる。 文明社会に戻るや否や再びsanatoriumに逆戻りし、精神分析者たちをだますすべ(古典的な症状と夢をでっちあげること)を覚える。彼らにはfake “primal scenes”をでっち上げ、real sexual predicamentを隠す。 医師のカルテを覗き見すると“potentially homosexual” and “totally impotent.”と書かれている。(さて、これは無意味なのかどうなのか?) 1939年に伯父の死とValeriaの離婚 1940年に肺炎、リスボンからNYへ 1940年〜42年 香水の広告と文学研究を平行して(おそらく)鬱になる(語られない) 1942?〜44年 精神病院に1年入院し、一度退院して再度再入院する 1944-45年 北極圏での奇妙な探検に同行して精神への影響のインタビュー(20ヶ月) 1946-47年 再入院(3度目)精神分析医に対するすべを学ぶ
第一部第十章 (p34〜p40)(1947年5月の終わり) 精神病院から三度目の退院をして郊外に住処を探し、12歳の少女のいる家に下宿しようとしたらその家がたまたま燃えたために、その知り合いの家に案内される、という経過が語られる。 あからさまに興味のなさそうなH.Hにもめげず、無邪気に家を案内する女性についていき、庭へ連れ出された瞬間に理想のnymphetが眼に飛び込んでくる。 再読する際に読み応えのある章で、H.Hの興味のない描写と対照的にHaze夫人の描写さえ軽やかな言葉遊びに満ちており、H.Hが気づかないLoのいる痕跡がテキスト上に散らばされている。 still glistening stone of one plum.果物かごにはまだつやつやしたプラムの芯だけが残されている。(glister、stoneはよい言葉) its complement— a pinkish cozy, coyly covering the toilet lid. トイレのふたまで軽やかに描写(coylyははにかみながら、というnymphet用) H.Hが興味のないHaze夫人にも半分無関心、半分高評価の形容詞を並べて描写される。 the doomed dear(哀れな親しみの持てる人)、shyness and sadness parallel to the parlor we had already admired、stooped without stopping(Loの白い靴下でこれが第一章のLo in the morning, standing four feet ten in one sock) “That was my Lo,” she said, “and these are my lilies.” 一目見て、自制心を出して通り過ぎる。Haze夫人は通り過ぎてからどうでもいいように「さっきのが私のLo」、「そしてこれらが私の百合です」過去形と現在形。 “Yes,” I said, “yes. They are beautiful, beautiful, beautiful!” H.Hの頭の中にはLoのイメージがあるから現在形で。ユリシーズの最後のモリーの独白? (and yes I said yes I will Yes.) 百合の首のような、白く細い少女はnymphetであり、庭に展開された海辺の王国と同時に賛美する。 Louiseという、Loと略されてもおかしくない黒人のメイドも心憎い配置をされている。(Loの部屋、という言葉とLouiseが先に出て、最後にLouiseは家に帰り、Loの部屋はLouiseの部屋でないことが分かる)
前章で、Valeriaが1945年ごろにカリフォルニアで死んだという情報はいつH.Hの耳に入ったのか?結局それを教えたのは「カリフォルニアから来た」医者であり、1945年くらいに死んだ、ということは1946年以降の出来事である。 Review of Anthropologyには載っていない、というがこれは刑務所では手に入らないから逮捕前でなくてはならず、H.Hは北極圏での研究成果をAnnals of Adult Psychophysics報告している。その掲載もgenialな医師から入院中に聞いた。 死んだという情報を聞いてI had my little revengeというほどに影響を与えているこの出来事はいつ復讐(不健康に追いやられた事件からの回復)がなされたか。 すると三度目に突然精神病院から解放される、というのはその離別が健康の喪失(肺炎・憂鬱・不眠・精神障害)であったValeriaの死を知ってtraumaから解放されたことによるのだろう、と思えた。
第一部第十一章 (p40〜p55)1947年5月30日から6月 Haze家に下宿することを決めたH.Hは日記をつけ始める(時間軸が明確になる) 証拠品第二号は黒い合皮の小さな日記帳であり、「5年前」に破壊されたと発現することjから1952年に手記を書いているH.Hはこの日記が少なくとも1年持たずに破棄されることを教えてくれる。 証拠品第一号はすでに第一章で、誤解した単純で高貴な翼をつけた燭天使たちがうらやんだ、つまりAnnabelの記憶を提出している。どちらも現物としては残っておらず、記憶によって描き出す。 日記帳はAnnabelの思い出が繰り返し思い出されたように、最初は鉛筆でたくさんの修正をしながら、二度目はin my smallest, most satanic, handで書き込んだため、記憶は正確であると主張する。 Nymphetの二重性(子供っぽさと野蛮さ)はH.Hを狂わせる。this mixture in my Lolita of tender dreamy childishness and a kind of eerie vulgarityという表現。 この薄気味悪い、というeerieという単語はAnnabelとの性交でH.Hが覚えたdreamy and eerie expression, half-pleasure, half-painを正確に反映する。 堂々とLoを食卓や窓から見ることを可能になったH.Hは「くだらない会話で」邪魔してくるHaze夫人(woman Haze)を罵倒しながらnymphetと交流を深める。 夫人が外出して二人きりになればこれまで経験したことがないくらい幸せだ、といいその夜にはNymphetとともにいることは実は初めてであり、これまで経験したことのないくらいのagonyを覚える。 自分は少女に好かれる、Loが好きな流行歌手や役者に似ている、といわれて有頂天になり、言葉遊びを繰り出し続ける。 私の悲しみに満ちて熱に浮かされた愛しい人、では意味が通じないがmy dolorous and hazy darlingはmy Dolores Hazeであり、何度も反復されるmy Lolitaの変形。翻訳はこういう面白さを切り捨てるしかないのがつらいところ。 その意味で読むと非常に楽しい章ではある。言葉は上滑りしているけれど、その楽しそうな言葉遊びで表面上の意味を超えた浮かれっぷりを表現してしまっている。
第一部第十一章 (p40〜p55) 夢の中でpockmarked Eskimo 天然痘の痕のあるエスキモーが手斧でエメラルドの氷を砕こうとするイメージは美しいし、あぁ、カナダのエスキモーの少女にはあばたがあったからnymphetはいなかったのか、と小さな謎解きもある。 有名な50人のクラスメイトの名前はバラに関わる三人と、一人Irvingを除いてけなされる。 Irving, for whom I am sorry これがユダヤ人の姓であるIrvingへの親近性と憐憫をあらわしている、というのはH.Hに好感をもつ数少ない場面で、この読解は好きだ。 (実際ナボコフの妻と息子はユダヤ人であり、だから二度目の亡命をした) ほかの少年少女への形容はher ripe pimples、blackheads、一見きれいな言葉のように見えて意味は「にきび面の」「黒いにきび」であり、このような描写は同級生に何度も繰り返される。 ここではまだいいものの気に入らなくなると更ににきびを罵倒するバリエーションが増える。(acneという言葉はLoに出来ない、と専用にするからほかの言葉で罵倒) H.Hは少女に好かれる、といいながら自分の男らしさを誇るがなんとなく奥歯に物が挟まったかの表現で、だんだん野獣とかみだらとかが出てくる。 queer accent, and a cesspoolful of rotting monsters(ちょっと奇妙なところのある、汚泥に満ちた腐りつつある怪物)眉毛が男らしい、目つきは、というが頬や皮膚には言及しないH.H。 悲しみ:という言葉は頻出しているが、それはラテン語のdolorが悲しみや痛みだからで、例えばDelectatio morosa. I spend my doleful days in dumps and dolorsはd-d-d-dだけでなくドロレスの言葉遊び、悲しみに満ちた日々dolefulとか言っているが完全に浮かれている。
第一部第十二章 (p55〜p57) 50人の中のクラスメイトAubrey McFate(アイルランド系の名前で運命の息子)がどうも運命の擬人化ではないかと思わせ始める章。 20日ほど、腹部インフルエンザのため学校が集団閉鎖になっている5月30日から経過しており、着実にLoへの接触を増やしている。 湖に行く約束が何度も前章(5月30日から6月20日頃)でされるが、雨だったり、LoがHaze夫人と喧嘩をしたり、でなかなか実現しない。H.Hは三人で湖に行ったとき、忘れ物をしたふりをしてLoと二人きりになる計画を妄想している。 悪意ある運命は、Haze夫人がもう一人Loの友人Mary Rose Hamiltonを連れて行くことを黙っていた、とH.Hが憤るが、このバラの名前を持ち、a dark little beauty in her own rightと描写されnymphet扱いを受ける少女にすれば逆恨みもいいところ。 しかし邪魔者であるはずなのに、この少女は繰り返し高評価を与えられる点でSybilを思わせる。その逆であるのがHaze夫人(ここまで名前すら呼ばれていない)と独身女性であるFahlen女史。 Haze夫人はラムズデイルに来る前にPiskyで一緒だった彼女を呼び、Loの監督役として、自分は仕事に出ることを検討していた。(H.HはおそらくNYに来た直後に「職業婦人」に何らかの形で苦しめられ、精神発作を起こしている) Loの生まれ故郷の中西部Piskyはpixie(妖精)であるとともに蛾、という意味を持ち、Fahlenという姓もフランス語で蛾を示す。蛾はValeriaとの結婚生活が壊れ始めるときにもmoth holeと描写されていた。 (H.Hは蛾と蝶の区別もつかない、とナボコフが発言していることには注意を要するが、もちろんナボコフは区別をする。とりあえず蛾:mothを追っていく) この明確な邪魔者(Loは1944年夏に彼女に厳しくしつけられたことを思い出すたびにかんしゃくを起こす)はH.Hがラムズデイルに到着したその日に腰骨を骨折し、Haze夫人の計画が狂う。 これまで妄想や眼の中でnymphetを楽しんできたH.Hはその鉤爪やknucleを伸ばしたことはなかったが、Loの眼球をなめたり、ジーンズに手を書けたり、すこしずつ、時に性急に身体的接触を行っていく。 それを助けるのは火事や学級閉鎖を起こす“腹部インフルエンザ“であり、「転倒による骨折」であり、交通事故によるHaze夫人の死というnegativeな病気や事故、不幸である。
第一部第十三章 (p57〜p62) Mary Roseが熱を出した、という連絡で湖行きは中止になり、また親子の喧嘩(Hot little Haze とbig cold Haze)。捨て台詞は「教会に行かない」「だったらどうぞ」 Haze夫人を見送り、よそ行きのLoを探すquestを開始するH.H。香水をつけ、絹のガウンを羽織る。 時間:6月の日曜日、場所:陽の射す居間、小道具:雑誌や蓄音機、メキシコの土産物 (メキシコはHaze夫妻の新婚旅行先で、家中にある土産物は故Hazeの思い出の品で、H.HはLoをもうけた故Hazeに感謝する) 教会用の靴は履いていない、日曜用のポーチは蓄音機のそば。長椅子の隣にLoが座って心臓がはね躍る。林檎をもてあそぶLo。H.Hが掠め取って、「差し出した」林檎に齧りつく(H.Hはむしろ齧られる林檎の気分)。 nymphetの特徴である、monkeyish nimblenessで雑誌を奪い取って、砂に半分埋まったミロのビーナスと写る画家の記事を見せてくるが触れているLoの膝や頬にそれどころでない。 ここでも歯が痛くなったと言い訳して、Loとの摩擦(friction)を楽しむ。(邪魔をする人Haze夫人は歯医者を紹介しようとし、その甥がC.Q) ソファに座るH.Hの膝に無作法に足を投げ出すLoを惹きつけるために変形した流行歌を口ずさむ。「Carmen」はsomething, something, those something nights, and the stars, and the cars, and the bars, and the barmen。 H.Hは曖昧に口ずさみ、それを訂正していくLoのハミングを聞きながら、突然、完全な安全、合意の世界にいるような錯覚に陥る(安全な唯我論Lolita had been safely solipsized.) (美しく、平凡でエデンの果実のように赤い)beautiful, banal, Eden-red appleの食べ終えた芯を放り投げるLoの動きにその肢が乗っているH.Hは刺激される。 どうにか絶えようという苦痛のなか、前日に出来たLoのあざをなでさすり、尻に押し付けてH.Hは達する。(barmen, alarmin’, my charmin’, my carmen, ahmen, ahahamen最後のほうは完全に歌詞に合わせてあえいでいる。) 昼食を三人でとろうというHaze夫人からの電話にLoが出ることで快楽は終わり、どうやら気づかれなかったというH.Hは鼻歌を(不正確に)再構成する。 その中に(男根の象徴)銃でカルメンを殺す(メリメでは刺殺)、とある。32口径で女の眼を打ち抜いた、とするがこれは故Haze氏の遺物として後に登場する。
Lolitaに出てくるフランス語について 出版に際して、アメリカではフランス語を減らせないか、との出版社の要請に断固としてナボコフは断ったが、フランス語の言葉遊びやいい間違いなど、注釈もなかった原書を読んでも理解できた読者は少なかっただろう。 彼はアルファベットそれぞれに色を感じる共感覚者であったが、自分のフランス語を見るときにはbrimm:液体があふれ出すイメージを持っていた、という。 このbrimmという単語は小説中にたくさん散らばっていて、重要な役割を果たしている。 H.Hはフランス文学の研究をしていて、小説中に頻出する19世紀の小説・詩(Poe、Keats、Mérimée、Mellville、Ballzac、Verlaine, Byron, Keats, Baudelaire、Doyle、Proust)とは一線を画して16世紀のプレイヤード派フランス詩人が引用される。 中でもピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard, 1524年-1585年)の比重が高いが、彼の詩は引用するとどうなるだろう、といわれながら直接引用はされていない。 いくつか彼の詩を読んでいると、1576年に発表されたLe Amoursの冒頭. Petite Nymphe folâtre, Frolicsome little Nymph, Nymphette que j'idolatre, Nymphet I idolize, Ma mignonne, dont les yeux my sweetheart in whose eyes Logent mon pis et mon mieux: I see my best and my worst, .ニンフェットという言葉はもともとフランスで作られ、その後フランス語からは消えてしまったのがH.H(ナボコフ)が英語に生まれ変わらせた、ということらしい。 何度か出てきたnymphetを形容するfrolic/frolicsomeという最上級の形容詞はここが出典なのだ、と思った。肯定的な形容詞と否定的な形容詞を重ねるH.Hの癖までこの時代の対概念の影響とは言い切れないが、やはり似ている。 フランス最初の文学集団で、ルターのドイツ語聖書と同じように、フランス語の公用語化を宣言した彼らのうちでもロンサールはきわめて衒学的で、同僚の注釈がないと同時代でも理解できない恋愛詩集を書いていた、らしい。 (「改革派詩人が見たフランス宗教戦争」高橋 薫 著から)
第一部第十六章 (p66〜p69)Loの出発した木曜日朝 LoとHaze夫人が出発した後、LoのFrock(少女のガウンの古い表現、H.Hが多用する)やLoの着ていたくしゃくしゃの服などを抱きしめて、毒のある混沌が自分の中に湧き出る。 そこで、Louiseのmaid’s velvety voiceで階下からやわらかく呼ばれ、切手の貼っていない、curiously clean-looking letterをgood Louiseから渡される。 (自分の主人が下宿人に手紙をわざわざ渡す、ということは恋愛ごとだと分かってのことだろう。ここでも閨房の謀を代表する。) H.Hはこの手紙を破いてトイレに流しているので、正確ではない。 しかし、Haze夫人は「you are the love of my life.」「I have loved you from the minute I saw you.」まるでH.HがLoに対して抱いたのと鏡像の様な表現をする。 ここには二つ解釈があり、ひとつはHaze夫人とLoが「姉妹のように見える」という描写からの強調、もうひとつはH.Hの誇張した表現に過ぎない、という見方。 前者はHaze夫人の名前の由来(Doloresという名の少女が出てくる小説に、姉としてCharlotが出てくる)や第二部でどんどんLoがHaze夫人に似ていくことを説明する。 後者は、そもそもH.Hの妄想という異端の解釈になるらしい。 ただし、you would be a criminal− worse than a kidnaper who rapes a childのように、あまりにもそのものの描写もあるから、H.Hの勝手な付け加えが多数あることは間違いない。 おそらく6/20頃で、月末までの家賃12ドルを返金します、というので月に35〜50ドルという「破格の安さ」なのだろう。 覚えている限り、フランス語の間違いも含めて正確だ、というが実際の長さは2倍はあり、「Loの2歳で死んだ弟のこと」「彼をH.Hが好きになっただろうこと」が書いてあったという。 Loの部屋で、皿を持ち、ローブを着たロック歌手の「征服する英雄」の広告(征服された女は出てこない)があり、その顔に「H.H」と書き込みがある。 もうひとつの広告ではDromeをいつも吸っている有名な劇作家が載っている(こちらは似ていない)。 その広告の下にLoの純潔なベッドがある、というがこの劇作家は既に触れられたH.Hに似ているというC.Qであり、C.Qの下に散らかったLoのベッドがある。 Louiseが帰ったことを確かめて、Loのベッドで手紙を読み直す。
第一部第十七章 (p69〜p73)Loの出発した木曜日 昼から夕方 ここで初めてHaze夫人の名前が明かされる(Charlot、harlot:売春窟の主人という解釈は面白いがおそらく小説からの由来)。 手紙を破棄して、自室で考え、Dostoevskian grinが 自分の顔にdistant and terrible sunのように出現するのを感じる。 Loの母親の夫になれば、愛撫は好きなように出来るだろう、と。日に三度毎日抱きしめるだろう。「私は健康になるだろう」。 ここでもValeriaと同じ、「健康にする女」であることが分かってくる。彼女は歯痛に歯科医を紹介し、夜驚症(pavor nocturnus、夜の恐怖)を解決する。 (ここも、私の話はすでにincondite散らかりすぎ、としてスキップされるが、間違いなく精神発作と関わる) H.HはCharlotの食前酒などに、塩化水銀を混入させて殺すことではなく、不眠症で処方された睡眠薬を二人に与え、小さなHazeの方に「無害ないたずら」を仕掛けることを目論む。 red sun of desire and decision(これが人生を豊かにする)が更に高く高く上がる。(この章で、赤い太陽の意味が欲望や陰謀に結び付けられる) どうやら以前つけていた日記journalではこの章の描写よりもはるかに辛辣な記載が連ねてあったらしい(それは後に当のC.Hによって発見される)。 結婚する気持ちを奮い立たせようと、C.Hへの描写は少しだけ控えめ。 彼女はmy Lolita’s big sister、彼女の大きな尻、実った胸、丸々とした膝、the coarse pink skin of her neck(絹や蜜と比べれば粗い皮膚をしたピンク色の首)をあまり現実的に見なければロリータの姉のようにも見える。 そして残りの、残念な全てを除けば彼女は、ハンサムな女性。 Charlotを抱くために高級な酒や食事、ビタミン剤を買ってくる。彼女が帰ってくるのを待ちながら、酒を何杯も飲み、手入れの行き届いていない芝生をうろつくが、芝生にはタンポポと呪われた犬がいる。 犬はラムズデイルに来たときに車に轢かれそうになった犬で、ほかの場面でも事故を暗示する。 太陽から月に変わった(陽が落ちて夕方花が閉じた)タンポポが気に入らず、酔いに任せて芝刈り機を持ち出し始め、向かいの黒人の運転手兼園丁にからかわれる。 彼女の青いセダンが帰ってくるのを庭から眺め、彼女が青白い顔で上っていき、庭のH.HをLoの部屋の窓から見つけるのを確認してLoの部屋に駆け上がる。
婚姻に当たり、宗教と血筋について聞かれる。on that score my mind was openと言ってもいいが、宇宙の精霊を信じている、と答える。 重要なことは、「仮にH.Hの血にトルコ人が混じっていようとも、気にも留めないが、キリスト教の神を信じないなら、私は自殺をする」と神聖な口調で告げ、彼女が「原則の女性」であることを知ったこと。(これを聞いてH.Hは虫唾が走るようなぞっとする印象を受ける) この一節はかなりいろんなことを語っていて、C.Hが気にしているのはユダヤ人かどうかで、H.Hがユダヤ人だったら結婚をしない、と言っているに等しい。中西部のwoman of principle。 この章の最後で善良なJohnが“Of course, too many of the tradespeople here are Italians,” “but on the other hand we are still spared‐”ここで彼の妻は関係ない話題でさえぎる。これも明らかにユダヤ人と言おうとしている。 東部のラムズデイルですら反ユダヤ主義から自由な町ではなく、H.Hは少なくとも周りからユダヤの可能性を疑われている。 第二章でドナウの川の血脈がrushとして混じる、青いドナウ(貴族の血)だけでなくドナウ以東はユダヤ人の多く住んだ土地でもある。
40マイル先のParkingtonで雑貨を営むFarlow夫婦(Johnとその従妹でもある若いJean)は唯一心から親交のある友人で、結婚式にも駆けつけ、またパートタイムの弁護士をしてC.Hについても助けてくれている。 その姪がキャンプに一緒に行っているRosalineであり、Loと学校でよく喧嘩をしている。 このユダヤ蔑視を持つJohn Farlowはmiddle-aged, quiet, quietly athletic, quietly successful dealerとあからさまに奇妙な紹介を受けて登場し、どうathleticなのかは語られない。who got me the cartridges for that Coltと言われても、「あの」Coltはここで初出。 小説でも相当に重要な役割を果たす拳銃は、最初からまるで既に周知のように登場させられる。
Charlotは50日間続いた結婚生活が50年であるかのようにぎっしりと活動をつめこませた、というほど活動的になる。これまで小説を読んでいた彼女はillustrated catalogues and homemaking guidesを片手に家中をかき回し、模様替えを行い続ける。 「プルースト風に言えば、娘を愛する代わりにその母親に若さとエネルギーを与えた」と書かれるように、変貌し、これまでおろそかにしてきたことや、したことのないことをtremendous amount of energyでこなしていく。 このおそろしい勢いで理想的な家に作り変えていく情熱によって、H.Hの日記が見つかる羽目になってしまう。
Jean Farlowはハーレクイン(道化師)風の眼鏡をかけ、二匹のボクサー犬と二つの尖った胸と赤い大きな口を持つ手足の長いgirlで、肖像画や風景画を描く。(Valeriaの章では鉄道が描かれ、キュビスムとあわせ人工的な世界だった) ValeriaはH.Hを描くが、Jeanは可愛らしい姪っ子Rosalineを描く。その年の離れた夫Johnはある日曜日に森の散歩で、銃の使い方を教えてくれる。 RosalineとLoのことについての二人との会話の中で、キャンプにいるLoを想像してあやうく泣き出しそうになる。
ここで、I never saw a healthier woman than sheという一文が出てくる。 Valeriaの名前から、「健康」というキーワードで読んできたがこうして明確に記載されているのに出会うと読みが間違っていなかったということに感動する。 Lolitaを読むことはこういう自分が見つけた物語で読み直したときにそれが作者のたくらみであることを追認できるところにもある、と思う。
第一部第二十二章 (p93〜p97)1947年8月6日 (1/2) 殺害を試みた火曜日からちょうど一週間後、二番目のPhalenから返信が届き、腰骨を折った姉の葬式から帰ってきたばかりだとのこと。Euphemia(悪い言葉を婉曲に表す、という意味)という名前であったことが分かる。 今からでは今年(9月から)は遅いが、1月ならば受け入れるとのこと(H.HにとってLoが帰ってくることを意味し、大朗報、「究極的な太陽の光」である) ラムズデイルに帰ってくるLoに備えてかかりつけ医師(Byron)に睡眠薬を処方してもらう。彼は医学知識の不備と無関心を完璧なbedside mannerと特許をとった処方でごまかしているという、感じのいい男(H.Hにとって医者はいつも感じがいいらしい)。 7月の間、C.Hに対して様々な量の睡眠薬を試して、ラジオを大音量で流したりディルドーを顔に突きつけるように懐中電灯の光を当てても起きないことを確認する。 しかし、押したりつついたりつまんだりしても起きないが、キスをするとパッチリと眼を覚まし蛸のように絡み付いてくる、というからC.Hは夫の変わった愛情表現程度に捉えていたのだろう。 この医師に、それまでC.Hや他の誰も熱心に聞かなかった「精神病院での最後の入院」の事を、H.Hはもらしてしまう。医師の耳がピクリと動いたことにおびえるH.Hは、小説の狂人についての研究をしていた、と取り繕う。 首尾よく最強の睡眠薬と言うviolet-blue capsules banded with dark purpleを手に入れ、浮かれた描写と共にHumbert家に車で戻る。(結局、ラムズデイルにはたくさんのcharmがある、と) Smoothly, almost silkily、 Everything was somehow so right that day. So blue and green.蝉cicadaも鳴いている。正確に3時半で、向かいの看護婦が訪問しているのもいつも通り、吠え掛かる犬もいつも通り、新聞がKennyによって投げ入れられているのもいつも通り。 H.Hがcheerful homecoming callを鳴らすと、Living roomには「初めてあったときに来ていた服」を着たC.Hが何か手紙を書いている。もう一度「暖かく」呼びかけても応えず、手紙を書く手を止めていつもの可愛らしい表情ではなく冷たい表情でゆっくりと向き直る。
“The Haze woman, the big bitch, the old cat, the obnoxious mamma, the- the old stupid Haze is no longer your dupe. She has- she has ・・・” まるでホラーのよう。
第一部第二十五章 (p105〜p109) Ramsdaleとは異なる州にあるキャンプQにC.Hの死が掲載される可能性は少ないが、万が一Dolly Hazeが行き違いにラムズデイルに向かっていることを恐れる。 前章で個人的な嘘によって善良なFarlow夫妻に「LoはH.Hの本当の娘」と言わしめたが、慣習法の世界で合法的に娘にするいかなる手続きも取っていないし、新米アメリカ人にその手続きが取れるかを考えるだけで振るえを抑えられない。 社会・法律・個人の対比がなされ、だからこそLo自身に「本当の娘」「保護者」と認めさせなくてはならない。安易な道としてLoのためにたくさんの贈り物を買い込む。 (賄賂、という言葉が繰り返されてきたことにも気づく) キャンプの女主人に電話をかけ、Loがハイキングに出かけていることを聞き、再び「C.Hが重篤な状態で、入院をしており、Loには重篤であると知らせないで明日の午後に連れ出したい」と嘘をつく。 描写には言葉遊びに加えて天候(雨が降り注ぎ、電話で解決すると晴れ渡る)や色(雨にぬれた銀色)、象徴的な場所(ガソリンスタンド、Parkington、駐車)がちりばめられている。 LoのキャンプQから4時間ほど離れた閑静な町、Bricelandに「魅惑の狩人たち」を電話帳から探し出し、翌日twin bedの部屋の予約を行う。電話ではなく、(恥ずかしそうな、声の振るえをかぎつけられるかもしれないから)電報で文面を苦心して考える。 Humbertとその娘、Humbergとその小さな娘、Hombergと未成熟な娘(スペルミスを装う)。 40個しかないアメジスト(睡眠薬)を試そうか悩むが、Loを40晩味わうことが出来る、その一夜を失うことに耐え切れず、試すことが出来ない(大失敗につながる) 冷笑的になることに疲れたH.Hはmawkish(感傷的)でいさせて欲しい、と記す。 このmawkishな章は、第二章のようにWhat a comic, clumsy, wavering Prince Charming I was!と妖精物語に戻った描写が増える。 Loを喜ばせるために購入している店舗内でrather eerie place where I moved about fish-like, in a glaucous aquariumと再び「eerie(薄気味悪い)」という「H.Hにとっては最高の形容詞」がついていることにもあらわれている。 前出は「Annabelとの性交場面」と「Loの二重性(子供っぽさと野蛮さ)」
第一部第二十六章 (p109)全文 This daily headache in the opaque air of this tombal jail is disturbing, but I must persevere. Have written more than a hundred pages and not got anywhere yet. My calendar is getting confused. That must have been around August 15, 1947. Don’t think I can go on. Heart, head— everything. Lolita, Lolita, Lolita, Lolita, Lolita, Lolita, Lolita, Lolita, Lolita. Repeat till the page is full, printer. 牢獄の中で手記を書いているH.Hの「現在」に戻る。100ページ以上書いてきて、日付があやふやになってきた、頭痛と胸痛、全ての調子が悪いと訴える。このページを印刷する人よ、ページの最後までLolitaで埋めてくれ、という短い文章。 後の心筋梗塞での死に加えて、この日が1947年8月15日の出来事であった(だろう)という非常に貴重な描写を含む。 ただし、実は1947年のカレンダーとあわせると、曜日と日付が一致しない。(わざわざ気象庁の天候を参考に確認してくれ、とH.Hが作中で言明するにもかかわらず) これがNabokovの「誤り」とするか「日付がH.Hの妄想」とするか大きく分かれる。 Ramsdaleのモデル都市は探ることは出来るが、あくまで架空であるため、この天候も意味を成さないということ、日付の矛盾は改版後に日付を別のところに加えたことで起こっていることなどから、ここに企みはないものとして進む。
第一部第二十七章 (p109〜p122)1947年8月14日午前5時半〜21時よりも前 Still in Parkington.で始まる。牢獄の中のH.Hが描写された後、再び25章の描写から始まる。時刻は早朝。この章には時間が重要な役割を果たし、細かい時間(およびそれによってあらわされる距離)が頻出する。 ストーリーとしては中間地点からキャンプQでLoを拾い、Bricelandの宿にたどり着く、という場面であり、Loとの数十日ぶりの再会が語られる。Go to bed, go to bed— for goodness sake, to bed.”Loを寝かせた場面で終わる。 Parkington〜CampQ 109-110 CampQ〜Briceland 110-116 Enchanted Hunter到着〜Loを寝かせる 117-122 これまで読んできた情報が非常に多く出てくる。ナボコフに圧倒される、全文に注釈をつけたくなるような章。 あらゆる描写がすでに作中で言及され、意味を帯びている。そして表面上は穏やかな物語が進行する。 Loに逢うことを焦がれ急いでいるはずのH,Hの速度と宿「E.H」へ急ぐH.Hの速度が大きく異なること 読むべき情報が非常に多い章。