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@@ 戦時中・戦場でのほのぼのとした話し 13 @@

990 :名無し三等兵:2019/11/24(日) 19:29:17.00
(続)
1930年12月、陸軍省人事局付勤務となり、人事局課員(補任課)に異動。
1933年10月から1935年12月まで陸大優等生の特典としてアメリカに海外留学している。
八原はアメリカ社会を知るために、下宿先に近所の人たちを呼んで交流したが、
アメリカ社会との交流の中で八原が驚かされたのが、アメリカの大学生が予備役将校訓練課程で大学教育の一環で志願制で高度な軍事教練を受けていることで、日本の大学生の軍事教練が強制的で初歩訓練に過ぎないのとでは大きな差があったことだった。
有事の際にこれらの大学生や卒業生が優秀な将校として軍に編入されるため、常備軍は日本陸軍の半分しか兵力がないアメリカ軍の有事の際の実力を痛感させられた。
また、1年間に渡ってノースカロライナ州ムールトリー要塞で連隊付将校として勤務し、アメリカ陸軍歩兵学校も見学しアメリカ陸軍の戦術に精通している。
日本陸軍は対ソビエトが基本であって、アメリカ軍に対する評価は「拝金主義のアメリカでは将校ですらだらしがない、戦闘が始まればオロオロするだけだ」などと軽侮する傾向があったが、
八原はそのようなアメリカ軽視の見方に対し「アメリカ軍の実力は日本陸軍が考えているような甘いものではないよ」「一番注目しなければばらないのは、彼等が火力を重視していることだ。砲門の数は大差なくても撃つ砲弾の量が違う。
日本の野砲はせいぜい1日10発ぐらいだろうが、アメリカの工業力は日本と段違いで、戦時になると軍需生産力は膨大なものになるからいくらでも撃てる。平時のアメリカを見て、戦時の実力を推察しては国を誤る」と的を射た反論をしていたが、
作戦参謀の主流派閥に属する士官たちは後の日米戦争の敗勢時にすらその見識を否定し続けた。
(なお、戦後、連合国による諜報活動を調査する人々からは、彼ら士官のそうした言動は精神に異常をきたしていたのでなければ、連合国のスパイだったと判断されてもおかしくない行動であると見られている[要出典]。)

しかし、彼のアメリカに対する正しい理解は、後の沖縄戦の指揮に活かされることとなった[9]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8E%9F%E5%8D%9A%E9%80%9A

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