2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【ネタバレ禁止】無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜 34

787 :風の谷の名無しさん@実況は実況板で :2021/03/05(金) 19:04:13.03 ID:dMhvEWyM0.net
>>773
宗麟はキリシタン大名であり、江戸時代は迫害の時代です。当然評価は辛めになります。
加えて大友家は九州から消滅した前時代の支配者で、江戸時代の九州大名からすれば自分たちの正当化のための批判しやすい。悪人風に書き記しても文句は来ないので。
ですから江戸時代に書かれた宗麟の人物評は真実か史料批判しなければなりません。

「陰徳太平記」には家臣の妻を奪った逸話と、若い娘を領国内外より集めたと宗麟の淫乱ぶりを批判しています。
しかしこの書物は江戸時代の吉川家の文書で、吉川氏は宗麟と博多を巡り争っています。
ところが「豊府記聞」には、政道理にかない国を治めて民を服すと宗麟の政治理念を褒めたたえる文書もあります。
また「フロイス日本史」では、円満な人柄ゆえにほとんど争うこともなく平和に領地を統治したとあります。
フロイスの文書は直に宗麟本人に会った人物が書いたため、史料価値も高いといえます。

一万田親実の妻を宗麟が奪った逸話は前述のように江戸時代の創作の可能性が指摘されており、
しかも戦国時代の文書にこの事件を証明する文書は見つかっていません。
高橋鑑種が謀反に及んだのは別の理由からです。実際親実死亡のあと、宗麟と鑑種は和解しています。

また日向で神社仏閣を破壊したのは宗麟ではなく息子の大友義統です。
「フロイス日本史」には義統の指図であることが記されてあります。

弟の大内義長を見捨てた件も、じつは義長の大内への養子入りは宗麟は反対しており、義長は反対を押し切って大内に行っています。
宗麟としては複雑な思いがあったようです。
この時期、九州では宗麟に対する大規模な謀反が何度も起こり、
常識的に考えて大友軍は海を越えて山陽道に弟義長に援軍を出せる状況ではありませんでした。

宗麟は乱世にあって庶民のための無料の病院や、親のいない孤児のための育児院を建設しました。

病院は建設時だけでなく、毎年の運営資金も援助していたそうです。

フロイス日本史には死に際した宗麟を心配して民衆が集まる様子が記されています。
少なくともこういう逸話が残るほどには愛されていた大名といえるでしょう。

総レス数 1001
225 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200