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ワイのポエムを評価してくれ

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/20(火) 01:12:54.26 ID:zKnXRLRV.net
タイトル:長い別れ 作者:(仮名)空澤高紘
いつも別れは突然だ。
誰にも何も言わずにあの人は去っていった。
去っていったあの人の哀しみを夏が来ると思い出す。
残された者は自分の無力を打ちひしがれ、ただ哭くことしか出来ない。
涙は、酷薄な街に、浸透圧の如く流れ出るけど、
乾いた街で雫はライデンフロストのように、霧散していく。
人は忘却を求めるけれど、忘れることができないこともあるんだ。
人の痛みは、心の中で感じなければわからない。
忘れることを求める人は、忘れたいほどの思いを経験したことがない人だ。
夏はいつだって、哀しくて、風鈴の音とともにあの人がまた現れて、逢えることを願う。
夢の中では、いつも子どものまま。
こちらはただ年を取ってしまい、また暑い夏がやって来る。
夏の青空は、どこか物悲しく、雨香が長い別れを思い出させる。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/20(火) 13:27:16.80 ID:6OWisSEj.net
ただ年だけとって心は子どものままの人が書いたポエムですね!

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/24(土) 09:58:10.92 ID:0fVGtUEt.net
電波板みたいだ
そう嫌いではない

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/01(日) 00:52:40.64 ID:ibz4ofYq.net
スターグループって、どうよ?

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/03(日) 21:44:43.60 ID:7Siax4Cw.net
恋人との別れを詠んだポエムでしょうか?
確かに、ライデンフロストや浸透圧など
ありきたりではない語句を使用されているのは
いいのですが…全体的にはそれ(ありきたり)です。

夏が悲しいのは当たり前なので、
例えば風や風鈴さんに感情を含ませる
擬人法などを使ってみてはいかがでしょうか?

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/23(木) 16:50:00.87 ID:5OpkFUJ1.net
お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳独身、元自衛官)についてご存じか。この方は神のような素晴らしい人間性を有しているので覚えていた方がよいぞ

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/24(金) 20:50:04.59 ID:IGKYRFkt.net
⋀⋀
´ᴥ` やばい糞だった。犬散歩してたら糞をもよおしてきたんだが、まぁ、大丈夫
なんて呑気にしてたら糞の圧力がグングン高まってくる、もう限界だ、いや、すで
に限界を超えている。意を決して引き返す。デパートのトイレで糞しよう。
たどり着けるかわからない、がんばって何とかたどり着いた、しかし、完全に限界
を越している、糞漏らしてないのが奇跡なくらいだ。でも、ここで漏らしたら、明日
からこの町歩けなくなる、根性でトイレに向かうが、途中で女子高生とすれちがう、
糞よ出てくんな、女子高生にばれたらキモーー!!って怖がられて警備員が飛んでく
るだろうが。で、ケツを押さえながらトイレにあえぎつつ到着。
信じられないくらい幸運だ、まだ漏れてないぞ。ドアを開けたがそれが最後だった。
いま、犬が俺のケツに鼻をつけてクンカクンカ香りを楽しんでいる。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/09(日) 07:22:46.26 ID:ZC7DMPWY.net
KOMUGI-NOCO37
トンネルキャンプキラー
ブロック推奨

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/20(木) 03:05:03.10 ID:6ZPBVr+s.net
>>1
>人は忘却〜経験したことがない人だ。
はなくて良い

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/20(木) 03:06:08.76 ID:6ZPBVr+s.net
>>7
良い

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/27(日) 11:14:01.02 ID:FyKNpR39.net
お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳独身、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/06(水) 18:06:55 ID:yFxv1saK.net
もう引退したんだからおとなしくしてね
美智子さんも外出しなくてもええよ。
税金使い放題です~

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/14(木) 19:32:30.80 ID:4Hj8TDOx.net
便器の中の水に沈むウンコをしみじみと眺める。
ああ、これが俺の腹の中にいたやつか・・・・
ああ、もしかしたら俺のハラワタもこんなふうなんだろうか。
肉と霊、本当に霊なんてあるのだろうか。
俺が肉に過ぎないのだったら、俺に尊厳はない。
しかし、俺は尊厳があると信じている。
だから、肉体を犠牲にしてでもそれを守ろうとするだろう。
肉体が肉体を犠牲にするなら、肉体でない何かがなくてはならないはずだ。
聖なるもの、それは霊だろう。霊は俺自身なのだ。そして、それを知る者は
もはや一人ではなく、一体である。それは愛である。
愛は神である。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/14(木) 20:35:11.34 ID:zzsdBWx5.net
「霊」は、日本語の古語では、「ち」ですよ。
そう、「いの『ち』」の「ち」
我が身である肉体を犠牲にしてまで何を守るのか。
それは、「ち」の通うものとしての我が身でしょう。
排泄物として排泄されるものの大部分は確かに、我が身としての肉体を
構成していた物質ですが、それはもはや「ち」が通わなくなったので
排泄されるのでしょう。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/14(木) 23:05:12.21 ID:4Hj8TDOx.net
>>14
肉と霊については、キリスト教の立場から書いたものですから、
ちにこだわるものではありません。
ただ、自分のウンコを眺めて、手術で摘出された臓物も同じように
気色の悪い物に過ぎないだろうなと想像したのです。
しかし、日本人の切腹や特攻隊などにみられる名誉や国のために身を
捧げるなどの感性はそれに共通するものがあると思います。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/14(木) 23:21:10.94 ID:4Hj8TDOx.net
シコシコといえば、ラーメンのこしを連想させるなぁ。
シコシコよりシャカシャカとかシュシュシュとかショリショリのほうがリアルだと
思うな。あまりやると痛くなるからほどほどがよい。生き物だから大切に。
無駄に排出されては気の毒というものだ。もとは同じ立場ではなかったのか。
あいつらは心を持っているのだろうか?それとも、俺たちはDNAの情報だったのか。
情報が俺たちなのであれば、あの気持ち悪い発達障害のオッサンは気持ち悪い情報が
容を伴って現れたものなのだ。なら、早く消えてくれ。汚物は実在してはならないのだ。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/15(金) 00:15:08.11 ID:QNVVBGWH.net
命をもつものの体が、その定義からして、まだ排泄されていないもので
構成されている以上、汚物が実在してはならないというのは、
命が存在してはならないというのと同義でしょう。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/15(金) 07:07:58.85 ID:w8FFyd9X.net
公表されていることが事実なら、今回、病院で行われたのは、救命医療ですら
なく、救命医療の形骸化である。病院に到着したのは、心肺機能だけは維持
されている脳機能の回復を期待することのできない脳死状態である可能性
が極めて高い患者でさえなく、既に心肺機能も停止して、脳の活動も認め
ることのできない、つまりは、命がある徴候がどこにも見られない死体である。
輸血は、「救命行為」としてそれを続ける限り、その間は、医師が死亡宣告を
しなくてもよい形式上の口実が得られるという理由で続けられたことになる
ので、事実上、死体に人工的に血を通わせてその血を廃棄していただけ
ということになり、それは医療行為でさえなく、救命行為の意図的な形骸化
であると言わざるを得ない。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/15(金) 08:25:44.22 ID:w8FFyd9X.net
硝酸アンモニウムといえば思い出されるのが、しばらく前に暴発して
多数の犠牲者を出して世界的な大問題となったタカタのエアバッグの
インフレータだ。リコールでは、なぜかフロント・エアバッグの
インフレータだけが対象となり、まったく同じ機構が使われている
にもかかわらず、サイド・エアバッグのインフレータはリコールの
対象とされなかった。したがって、わざわざ危険な爆薬を自分で
調合するまでもなく、タカタのエアバッグが搭載された中古車の
サイド・エアバッグのインフレータをテロリストが入手したなら、
今回の犯人のような技術力さえあれば、簡単に殺傷力のある兵器
を自作できてしまうだろう。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/15(金) 08:53:52.53 ID:w8FFyd9X.net
というか、エアバッグのインフレータそのものが軍事技術の民間転用である。
タカタのインフレータを開発した米国タカタの子会社も、確か、
ロケット推進技術にかかわるロックウェル系の子会社だったものと
記憶している。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 08:06:47.36 ID:NEdF/OeO.net
固有名詞にばかりこだわって、誰々が何々をしたという捉え方しかできない
から、物事の仕組みが分からない。人々の組織化と行動の原理から見れば、
その組織が、カルト、宗教団体、フーリガン、極右/極左集団、テロ組織
など、どのような思想信条を名目として、それを表向きの口実としていた
ところで、その活動実態は、国家内国家の別働部隊に過ぎないだろう。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 08:46:46.65 ID:NEdF/OeO.net
個々の「陰謀」は「事実関係」として糾弾するが、「陰謀論」は許さないって、
個々の試合で行われた「八百長」は糾弾するが、「八百長が全体で組織的に
行われている」と論じるのは許さない、というようなもの。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 09:57:02 ID:NEdF/OeO.net
少しは「論理的」に物事を考えるようにしてみてはどうだろうか。
ロシアを中心とする共産圏は、形の上では米国を中心とする西側諸国との
冷戦に負けて崩壊したわけだが、そのことによってロシアを統治する権力の
継続性が失われたわけではない。同様に、日本は第二次世界大戦で
連合国側に敗れて敗戦国となったわけだが、そのことによって日本を
統治する権力に地殻変動が生じて、中国大陸にまで日本の統治権を
拡大しようとした日本国内の統治権力に継続性が失われたわけではない。
敗戦国として管理下に置かれて、メディアを含めてすべてが強力な
指導を受けることになっただけの話である。例えば、戦時中に日本軍の
落下傘を製造していたタカタは、戦後には米国連邦警察のパトカーの
安全ベルトを製造し、落下傘の製造で得たノウハウを活かして、
エアバッグを開発することになり、軍事技術であるインフレータの製造
は、米国の「子会社」にその開発を委託することになった。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 10:04:24 ID:NEdF/OeO.net
そのような戦後の状況下で、戦前から日本の統治権力の中枢で活動を
つづけている人々に、その活動の名目がなんであれ、日本国外でも
ネットワークを広げる正体のよく分からない非政府の民間組織が急速に
強い影響力を発揮するようになっていることが認められたとしたら、
その組織は、どのような性質のものであると判断することが「論理的」だろうか。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 13:21:32 ID:NEdF/OeO.net
今回の事件は、その衝撃の軽さ(国内株式市場すら無反応だった)において、
「歴史の終焉」(その有名な宣告から約30年遅れで)を人々に告げ、
本当の意味でそれを体感させる出来事となったのだろう。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 16:41:06.46 ID:NEdF/OeO.net
ここでタカタを引き合いに出したのは、別に突飛なことではない。
安倍元首相は、岸信介の孫だが、戦後日本史上最大の債務超過額で
経営破綻し、中国資本+米国資本に吸収合併されたタカタの当時の
社長兼CEOの高田重久は、現在も存続するタカタ財団の高田暁子
の息子、戦後間もない時期に凸版印刷の取締役社長に就任した
山田三郎太の孫である。凸版印刷は、その年には業務として
日本銀行券(要するに紙幣)まで印刷している。

山田家(凸版印刷社長・山田三郎太の家系図) | 閨閥学で
見ることのできる家系の人脈と、
凸版印刷(株)『TOPPAN1985 : 凸版印刷株式会社史』で戦前、
戦中、戦後の凸版印刷の社史を参照してみるといい。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 16:49:15.52 ID:NEdF/OeO.net
ちなみに、暴発事故を起こしたタカタのエアバッグのインフレータを
開発、製造していた米国タカタの子会社は、米国空軍基地としても
使用されていたワシントン州の飛行場に隣接した施設として存在し、
今は、中国資本+米国資本のJoyson社によって運営されている。
この飛行場は、ボーイング社が新型機のテスト飛行に利用してきた
ことが知られ、
>国産ジェットを「1兆円空回り」に終わらせた
と報じられて、結局は凍結されることになった三菱重工による
小型ジェット旅客機「スペースジェット」(SJ、旧MRJ)の開発
のために使用されていた飛行場もそこである。タカタの債務超過額
もだいたい1兆円程度と言われているから、奇遇と言えば奇遇だ。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 00:03:07.52 ID:5BW1NNLW.net
どうしてこんなどうでもいいような情報を検索して収集したのかというと、
私自身がタカタ株で痛い目にあったから。インフレータのリコール騒ぎが
一向に収まらない状況でも、海外のタカタ子会社は何の問題もなく営業
を続けているばかりか、既存の工場拡大のための投資を進め、雇用を拡大
していたので、債務不履行という事態に陥ることはないだろうとタカを
くくっていた。実際、最終的に中国資本+米国資本にタカタの全資産を
譲渡し、債務は業界内で処理するという形で決着がついたので、連鎖
倒産が一件もないばかりか、関連企業に対する債務の不払いすらなく、
記憶に間違いがなければ、社債も補償されたはずだ。権利が一方的に
没収されて損をしたのは個人としてタカタ株を購入した個人投資家だけ
だったはずである。資産を切り売りして、何とか債務を返済しようと
力を尽くして、力及ばず倒産し、企業再建の一環として買収された
ということですらない。投資によって事業を拡大しながら、そのまま
吸収合併されるという、いわば、企業の「発展的解消」である。
まさか空軍基地に隣接する元米国軍需産業の子会社が中国資本に
そのまま売り渡されるとは思っていなかったので、最後まで
株を手放さずに損をしたのは、私個人の歴史的状況の変化に対する
読みがとても浅かったということだが、とてもよい教訓となった。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 00:12:05.28 ID:5BW1NNLW.net
Air Force 2 visits Moses Lake | Columbia Basin Herald
Staff Writer | May 3, 2022 1:20 AM

MOSES LAKE - A C-32A — the military version of the Boeing 757 —
with the tail number 80001 taking off from the Grant County International
Airport during a series of touch-and-go take-off and landings Monday
afternoon. The plane is one of four C-32As used as Air Force Two to
transport the Vice President, First Lady and Secretary of State.
Officials with the Port of Moses Lake would not comment on the plane’s
presence in Moses Lake.

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 07:29:20.82 ID:5BW1NNLW.net
ところで、安倍元首相は岸信介の孫で、岸信介といえば、いわゆる満州人脈
の代表格だが、奇しくも、中国資本Joyson+米国資本Key Safetyによる
タカタ資産の買収劇にも満州人脈が一枚噛んでいる。

>Luo: Taking new job in China for personal reasons.

August 23, 2017 01:00 AM
Key Safety CEO resigns as final Takata deal looms

Luo served as a X-factor in the bid to win Takata, according to
Crain’s Detroit Business, an affiliate of Automotive News. Luo's
family hails from Manchuria, a region in northeast China controlled
by the Japanese until the end of World War II. His father spoke
Japanese and worked on the Japan-owned South Manchuria Railway.

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 11:00:03.64 ID:5BW1NNLW.net
人々は、公共性の維持と支配の関係についてつねに誤った捉え方を
する(ように絶えず誘導されている)。だから、共産主義を理念と
する支配と市場主義を理念とする支配をあたかも対立するもの
であるかのように錯覚してしまうのだ。統治のために掲げられる
理念がどのようなものであれ、支配は、公共性を私物化によって
廃棄することによってではなく、その運用管理において絶えず
有利な立場を保ちつづけることができるように公共性を維持する
ことによって成立する。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 11:07:09.09 ID:5BW1NNLW.net
言い換えるなら、自らが有利に運用管理することのできる公共性を維持する
ように人々につねに貢献させることができなくなれば、支配は崩壊する。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/18(月) 07:34:59.21 ID:VZhPBz5O.net
モノゴトを原理的に考えようとしないということは、
いつでも目の前に意図的にぶら下げられた餌につられ、
立派な服を着せられただけの案山子に怯えるということだ

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/18(月) 09:32:29.76 ID:fBgnzrJB.net
>眠れ早く
誤解してたかもしれない。
これはおまいの切実な願いだともとれる。
誰に向けてか?俺とは限らない。
誰でもいい、聞いてくれ、この願いを・・・・・・
だが、ここでは誰も聞いてくれないだろう。
聞いたふりなら、あるいはするかも知れない。
だが、信用するな。そいつにとって、おまいは何だというのか。
聞いてくださるのは、運命を司る存在に違いない。
そのお方に願うといい。
その願いは聞かれるだろう。だが、そのことを知ることはおまい次第だ。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/18(月) 13:47:56.26 ID:VZhPBz5O.net
市場主義において維持されるべき公共性の最たるものが市場で一般に通用
する通貨であり、それが通用する市場そのものである。「富の独占」という
ことがよく言われるが、自分だけ独占的にいくら金持ちになったところで、
自分がすべての通貨価値(当然、負の通貨価値である負債も含む)を私物化
してしまい、他の誰も通貨を利用しなくなれば、金持ちになることの
意味も消滅することは明らかだろう。そこで、現在、協力に推進されて
いる「キャッシュレス社会」となどのようなものなのか、何をどのように
推進しているのかをよく考えてみることだ。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/18(月) 13:48:29.86 ID:VZhPBz5O.net
協力に推進×
強力に推進〇

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/21(木) 08:19:35.81 ID:SF9f8UmP.net
公共性の維持強化とは、即ち、公共性を通じた支配の維持強化である。
それ故、公共性と支配の関係を原理的に考えるなら、人は他の何人にも
支配されることなく平等であるべきであるとする平等主義の理念と
公共性により大きく貢献することこそが人として正しい、高く評価
されるべき振舞いであるとする道徳/倫理は、本来的に矛盾する。
そして、その矛盾が原理的に生じること自体を各々に否認させる
ようにダブルバインドによって、倦むことなく絶えず繰り返し
導こうとするのが支配のイデオロギーとしての思想である。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/21(木) 09:15:30 ID:SF9f8UmP.net
支配関係において人事的に自らを高く評価してもらえるように積極的に
ダブルバインドの誘導に協力する、あるいは誘導する役割を自らが
買って出るというのは、ごく普通に見られる一般的な態度だが、
そうではなくただ誘導に従うだけの立場で、わざわざ自分から
誘導してもらいたいと願うのは、かなり狂っている。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/22(金) 07:39:51.90 ID:6yYCJwVX.net
支配は、公共性を通じて維持強化されるのだから、大半の人々が公共性の
推進に自ら進んで積極的に協力しようとするなら、人々を支配する関係性も
自ずと全体主義的な傾向を強めることになる。これは、たまたま生じる
といったような現象ではなく、理の当然である。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/22(金) 07:41:08.17 ID:cyGmwCV8.net
公共の敵とは誰のことか。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/22(金) 07:49:46.15 ID:cyGmwCV8.net
漱石の考察は、哲学的に見れば、ようやくその入口に立った程度のもので、
示される認識も極めて浅いものに過ぎないが、少なくともその入口に立つ
ことを可能にする初歩的な認識を示してはいる。

>ただもう一つ御注意までに申し上げて置きたいのは、国家的道徳という
ものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。
元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、道徳心はそんなにありゃ
しません。詐欺をやる。誤魔化しをやる。ペテンに掛ける。滅茶苦茶な
ものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、
よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義
から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなり
ません。<
三好行雄編、『漱石文明論集』、岩波書店、pp.136-37

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/22(金) 08:02:04.79 ID:cyGmwCV8.net
漱石は、帝国大学を卒業し、高等師範学校で教師をし、貴族院書記官長の
長女と結婚し、国費で英国に留学し、新聞社で働いていた経歴の人間なので、
経験もなしに単に想像で「陰謀論」的な認識を示しているわけではない。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/23(土) 08:03:57 ID:K4B573Fb.net
ひとは、自らの自律性を高めるのに役立つ自動性を強化することを望んでいる
のであって、それと引き換えに自らの自律性を犠牲にして自動性を強化する
ことを望んでいるわけではない。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/23(土) 17:20:17.94 ID:K4B573Fb.net
自動化と自律性の関係については、《maîtriser》という行為の観点から
考察することが大切だろう。自動化は、通常、振舞いの《maîtrise》を
容易にするために行われるものと考えられている。インフラ構築の
ためという名目で行われている自動化は、どのような《maîtrise》を
容易にするように推進され、誰にどのように役立っているのか。
人々がそれを支えに生活するインフラ/下部構造の構築の推進は、
それを反転させて見れば、同時に《maîtrise》のためのスープラ/
上部構造の構築でもある。

45 :I'm about to lose control:2022/07/23(土) 19:17:42.98 ID:K4B573Fb.net
《maîtrise》がその反転する相において互いに合致しない、つまり、
《soi-même》/"oneself"として現れないということは、どのようなことだろうか

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/26(火) 13:20:50.72 ID:mzujmJiN.net
去るが如くに来たり、来たるが如くに去る。
如来と如去の合致において自己が現れることに
のり(法/則)/《maîtrise》としての自己がある。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 10:09:05 ID:pgDG357m.net
À chaque fois, on se surprend en s'échappant.

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/15(月) 20:19:24.99 ID:bt+boGi7.net
背中から水虫がでたとか言ったらウソになる。
水虫が足の指の付け根に出たというのも、ウソである。
足に虫を飼っている人は狂人である。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/17(水) 18:39:10.01 ID:h6RUjG9M.net
名前: ボクチン仔犬だよ ◆P10fR708T6
E-mail:
内容:
>統統ー教会の聖本や壺っていくらで買ったの?
聖本などというものはない。一般に聖書と呼ばれる本は置いてあるが誤用している。
壺は売ってるらしいが、俺が買わされたのは5万円くらいの象牙の印鑑3本セット。
占いのおばちゃんにしてやられた。
>あとローンは組めるのかな?
ローンで買わされた。
>教えてくれ売国教会の信徒さん
2daysとか7daysとか、泊まり込みの数日間で洗脳され、騙されて、それとは
知らずに韓国のわけのわからないところに金を吸い取られたりしてるんだろうな、
俺の5万円もそんなやつらの私腹の肥やしになってんだろな、俺の望むところでは
ないが、結果的に売国になったかも知れん。
噂によれば、統一教会は原爆賛成らしい。しかし、これはキリスト教とは相容れない
ものだ。典型的偽キリストと言えよう。

コリント第二の手紙 10章4節
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来するものである。

エフェソス人への手紙 6章12節〜
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものものではない。
・・・・・神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、
正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
その上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者が放つ火の矢
をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の
剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

マタイによる福音書 26章52節
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣
で滅びる。・・・・・」

50 :うかぶおも・かげ/Spiegelbildとしてのイデア:2022/08/18(木) 09:52:44.35 ID:UwI1KSrF.net
おも(面)ふ(覆)ことにおのれ(己)がある
Allez, ça va te changer les idées
おもてに出ればおもひ(=うら)も変わる
おもひ(=うら)とは、面(も)/Spiegelに映し出されたかげである
映し出されるかげが消えれば、おもひ(=うら)も、面(も)/Spiegelも消える

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/18(木) 10:02:54.23 ID:UwI1KSrF.net
自己は、実効性を発揮した反転可能性/キアスムの効果として現出する。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/18(木) 10:23:22.83 ID:UwI1KSrF.net
哲学における《chiasme》についての言説を分かりにくくしているのは、
それを「両義性」/「両価性」/《ambiguïté》/《ambivalence》として
説明する用語法そのものだろう。この用語法の困難がどこにあるかと
言えば、それは、これらの表現における「両」/《ambi-》が、ただちに
双数性としての"2"を想起させてしまうことだ。すると、《chiasme》
は、二つ一組の「二項対立」として捉えられることに回収されるか、
「双方向性」/《double sens》として、あるいは、さらには、
その数を不特定にした不確定の「多義性」/《ambiguïté》として
理解されることになってしまうことである。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/18(木) 10:57:40.06 ID:UwI1KSrF.net
反転可能性としての《chiasme》の重要性は、それが「双方向性」/《double sens》
を示すことにあるのではない。そうではなく、この反転可能性なしには、
そもそも、「方向性」/「意味」/《le sens》そのものが現れることができない
のである。したがって、何らかの「方向性」/「意味」/《le sens》が現れる
限りにおいて、この反転可能性/《chiasme》はつねにすでにそこに
固定されて抑圧されるという形で潜在的に表れている(つまりは、
姿を消して潜んでいる)のである。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/18(木) 11:12:34.78 ID:UwI1KSrF.net
ゲーテは、そのようにして潜んでいる反転可能性/《chiasme》を感じ取れる
ようにする言語表現を好んで用いる作家だが、実は、その反転可能性/
《chiasme》を日常言語において感じ取ることは、ドイツ語においてよりも、
日本語においての方がはるかに容易である。それは、日本語が、
その形成において、そのような反転可能性/《chiasme》を徹底的に
積極的に利用しているからである。

例えば、ゲーテの"Dichtung und Wahrheit"からの次の表現を参照してみる
といい。
>Seitdem jenes leidenschaftliche Mädchen meine Lippen verwünscht
und geheiligt (denn jede Weihe enthält ja beides), hatte ich mich,
abergläubisch genug, in acht genommen, irgend ein Mädchen zu küssen,
weil ich solches auf eine unerhörte geistige Weise zu beschädigen fürchtete.<

Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 9,
Hamburg 1948 ff, S. 449-503.

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/18(木) 11:34:30.28 ID:UwI1KSrF.net
>あの情熱的な少女が私の唇を呪い、聖(きよ)めて(お祓いというものは
すべて二つの面をそなえている)以来、私はひどく迷信的になり、重大な
精神的害をあたえることを恐れて、誰であれ少女にキスをするのを
用心してきた。< ゲーテ、『詩と真実 第三部』、p.19

ここで、ドイツ語の原文における"verwünscht und geheiligt"が、
「呪い、聖(きよ)めて」と訳され、それがここでは「お祓い」
と訳される"Weihe"の二面性であるとされるわけだが、この
「お祓い」/"Weihe"(カトリックの用語では「聖別」、英語では、
"consecration")が、日本語の「いは(祝)ひ」/「いは(斎)ひ」に
相当し、"verwünscht und geheiligt"が呪詛を唱えること、
つまり、「のろ(呪)ふ」ことと、祝詞を唱えること、つまり、
「の(祝)る」ことにそのまま対応しているのを見てとることは
容易だろう。

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/18(木) 11:50:39.24 ID:UwI1KSrF.net
ここで「二面性」とされている反転可能性/《chiasme》は、二つの方向性を
ひとつにまとめて組にしたものなどではなく、「いは(祝)ふ」ことがすなはち、
「いは(斎)ふ」(「忌み慎む」ことを伴う)ことになり、まつ(祭/奉/祀)る
ように「の(祝)る」ことがすなはち、「のろ(呪)ふ」ことになることを
示している。

別の例を挙げると、覆ひを「『さ(去)』る」ことがすなはち、
「『さ(晒)』らす」ことになるのであって、「『さ(去)』る」ことと
「『さ(晒)』らす」ことが別々の方向性としてまず存在して、
それが組み合わされて「さ」によって表現される様態の
反転可能性/《chiasme》がもたらされているわけではない。

57 :ただ(直)そこにいるだけの自己というVorspiegelung:2022/08/19(金) 11:39:42.61 ID:5x8/pwmC.net
自己のただ(正)しさを確信しようとする人は、哲学をすることを忌み嫌う。
なぜなら、哲学をすることは、自らがただ素直(すなほ)にそこにいるだけ
であることに潜む禍(まが)に気づかせてしまうからである。
そして、この禍(まが)は、つねにただ(正)しいおこな(行)ひだけをする
ようにどれほど自らをなほ(直)したところで決して解消することは
できないのである。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 17:48:24.05 ID:5x8/pwmC.net
反転可能性としての《chiasme》についての言説が分かりにくくなること
の大きな要因として、《chiasme》という表現そのものが物象化されて
捉えられてしまうことにある。《chiasme》が単に「キアスム」と
カタカナに移されても、この言葉が何を表現しているのか不明で、
それを説明するのに「交叉」、「絡み合い」などの言葉が用いられる
ことが多いが、カタカナの「キ」に移される《chiasme》の《chi》は、
実のところ、ギリシャ文字の"Χ"を表しているに過ぎない。
したがって、「キアスム」という表現において、この"Χ"が「交叉」や
「絡み合い」を代表するように用いられているとする理解は、
間違いではないが、ここに既に表現の物象化の問題が絡んでいる。

この場合、象形として利用されるギリシャ文字の"Χに過ぎない表現が
物象化されるとはどのようなことだろうか。ここでもやはり、それに
対応する日本語の表現を考えてみると、それがどのような事態であるのか
より容易に理解することができるようになる。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 17:50:34.61 ID:5x8/pwmC.net
誤:捉えられてしまうことにある
正:捉えられてしまうことがある

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 18:07:42.02 ID:5x8/pwmC.net
岩波古語辞典で「あざな(糾)ひ」という項目を参照すると、
>吉凶糾へる縄の如しといふ
という例文が記載されている。

吉凶は糾える縄の如し
(晉の孫楚の「征西官属送於陟陽侯作詩‐吉凶如二糾纆一、憂喜相紛繞」による)
禍福は糾える縄の如し
(「史記‐南越伝」の「因レ禍為レ福、成敗之転、譬若二糾纏一」から)
出典:コトバンク、精選版 日本国語大辞典

「あざな(糾)ふ」という表現そのものは、既に古語として使はれなく
なっているが、現代の日本語においても「吉凶(または禍福)糾へる縄の如し」
は諺として通用するものして残っているだろう。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 18:27:28.83 ID:5x8/pwmC.net
この「吉凶(または禍福)糾(あざな)へる縄の如し」 という諺において、
《chiasme》の《chi》(カタカナの「キ」に移される)として
「交叉」や「絡み合い」を代表するよう象形として利用される
ギリシャ文字の"Χ"に対応する表現を容易に見出すことができる。
それは、「糾(あざな)ふ」という表現において用いられる漢字、
「糾」の右側に構成要素として用いられている「丩」である。
Wiktionaryの英語版で「糾」および「丩」の"Glyph origin"
を参照してみれば、その象形の利用の仕方として「丩」が
《chiasme》の《chi》としてのギリシャ文字の"Χ"に対応する
ことを誰でも直ちに確かめることができるだろう。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 18:33:01.83 ID:5x8/pwmC.net
Definitions
丩 Alternative form of 糾/纠 (jiū, “to entangle; to entwine”).
Pronunciation
Middle Chinese: /kɨu/
(出典:Wiktionary)

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 18:54:06.70 ID:5x8/pwmC.net
ところで、「吉凶(または禍福)糾(あざな)へる縄の如し」という諺を
聞いて、人はどのようなことを思ひ浮かべるだろうか。
《chiasme》を反転可能性において理解しようとする場合、当然、
注意が向けられなければならないのは、「糾(あざな)ひ」の作用の
様態であり、「糾(あざな)はり」の結果としてもたらされた
「縄(なは)」ではないはずである。ところが、多くの人は、
「縄(なは)の如し」の方に意識が集中してしまひ、
「糾(あざな)ひ」の作用の様態を捉えようとすることが疎か
になってしまうのだ。これとまったく同じことが、《chiasme》
において「交叉」や「絡み合い」を代表するように用いられている
と理解されるギリシャ文字の"Χ"についても生じる。
つまり、"Χ"が、"/"と"\"が交互に現れる(潜む)こととして
ではなく、その結果の形象としての"Χ"ばかりに意識が向いて
しまうのである。これが、《chiasme》の理解において生じる
ギリシャ文字"Χ"の物象化である。

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 19:02:20.44 ID:5x8/pwmC.net
しまひ ⇒ しまい

古語のつづりとして「しまひ」でもよいのだが、ここでは別にそれを
強調する意図はないので、現代語のつづりに戻しておく。
つづきは、アクセス規制されなければ、また後で書くことにする。
他の板の場合と同様に、どうせまたいつ永久書込みアクセス禁止に
なるか分からないが。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 19:06:02.95 ID:5x8/pwmC.net
誤:交互に現れる(潜む)こととしてではなく
正:交互に現れる(潜む)こととして理解されるのではなく

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 21:08:59.18 ID:5x8/pwmC.net
"chirality"(カタカナ表記で「キラリティー」として知られる)という
表現がある。カタカナで「キ」に移される"chirality"の"chi"は
やはり、ギリシャ語の"Χ"に対応するので、《chiasme》の《chi》
と共通であるが、"chirality"は、ギリシャ語で手を意味する
"χειρ"を語源とするので、《chiasme》と特に関係があると考えられて
いるわけではない。それでも、反転可能性としての《chiasme》を、
物象化された"Χ"としてではなく、"/"と"\"が交互に現れる(潜む)
こととして見るなら、そのことを"chirality"に関連付けて考察して
みることも面白いのではないかと思う。ただし、私自身、"chirality"
という言葉以上に、それについての論考について何か詳しく知って
いるわけではないので、無駄な混乱を避けるために、ここで
それに深入りするのは控えることにする。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 21:50:12.88 ID:5x8/pwmC.net
>>53
>何らかの「方向性」/「意味」/《le sens》が現れる限りにおいて、
この反転可能性/《chiasme》はつねにすでにそこに固定されて抑圧される
という形で潜在的に表れている(つまりは、姿を消して潜んでいる)のである。<

私は、このように述べた。ところで、私は以前から、日本語において
再帰表現を形成するのに用いられる「〜ふ」について、それが「〜」に
対して反転を働かせることの指示として用いられていることを指摘し、
その反転の作用を説明するのに、「(x/y)^-1=y/xにおいて"^-1"が
反転の作用を働かせるように」という疑似数学的な隠喩を用いてきた。
ここでは、「〜ふ」と切り離して、"^-1"を反転作用を働かせること
の隠喩として用いるなら、《chiasme》においてギリシャ文字"X"
によって表現される「あざな(糾)ひ」の作用を、/=(\)^-1と
\=(/)^-1の相互性として便宜的に説明してみることもできるのでは
ないかと思はれる。私は、ここで別に、演繹的な操作を可能にしよう
として数学記号を隠喩として用いているわけではない。そうではなく、
私が伝へたいのは、/が現出するとき、すなわち、そこには
\が/=(\)^-1という関係で反転可能性として姿を潜め、逆に
\が現出するとき、すなわち、そこには/が\=(/)^-1という
関係で反転可能性として姿を潜めるという相互性である。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
「吉凶(または禍福)糾へる縄の如し」という諺に関連付けて言えば、
「糾(あざな)ひ」の作用の様態において、吉=凶^-1と凶=吉^-1の
相互性、あるいは福=禍^-1と禍=福^-1の相互性として、
二項対立における対立項を、つねにすでに反転可能性として潜伏
させており、さもなければ、吉も凶も、禍も福もそれ自体として
は現出することができないということである。

いくら「な(萎)え」から回復するように「まが(禍)」を「なほ(直)」
しても、「まが(禍)」が反転可能性として潜んでいなければ、
「なほ(直)る」こと自体あり得ず、また逆に、「まが(禍)」に、
それが反転して「なほ(直)る」可能性がないのであれば、
「まが(禍)」自体も存在し得ないと言うこともできるだろう。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/19(金) 22:31:09.35 ID:5x8/pwmC.net
>「定かに思ひ弁(わきまへ)ねども、禍福は糾(アザナヘ)る纏(ナワ)の
如し。人の命は天に係れり」※読本・南総里見八犬伝(1814‐42)二
(出典:コトバンク、精選版 日本国語大辞典)
という感覚は、ディドロの『運命論者ジャックとその主人』にもとても
よく表現されている。「運命論者」と聞くとなにか、物事の成り行きに
ついてあらかじめどのようにか決定されていることそ知っていると
確信している「決定論者」を想像するが、「ジャック」はそのような
人物ではない。そうではなく、現状で表れている吉凶禍福がどうであれ、
いつでもつねにそれが反転する可能性がそこに潜んでいることを
はっきりと自覚している人物である。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/20(土) 10:13:56.83 ID:vqOYrm8e.net
運命論者とは、できることをつねに快く受け入れる者(《celui qui
accepte tout le temps volontiers ce qui est à venir》)のことである。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/20(土) 10:35:43.83 ID:vqOYrm8e.net
日本語において「〜ふ」が働かせるような反転作用に対応するような
関係性は、フランス語の表現においてもその例を見ることができる。
例えば、「しの(凌)ぐ」と「しの(忍)ぶ」の関係に関連して考えて
みると、《soumettre》と《se soumettre (à 〜)》がちょうど
そのような互いに反転する関係にあることが分かる。ところが、
フランス語では、これをただちに、「動詞の作用を自己に働かせる表現」
であるものと解釈して、作用を働かせる自己の存在を前提として
しまうのである。しかし、この反転可能性は、自己が現出する
ための要件であり、まず自己が存在してそれに対して反転が生じる
と考えることは錯誤である。にもかかわらず、西洋の哲学の自己に
関する議論は、そのように自己の存在を前提としたうえで、
どのようにして自己が現出し得るのかをうまく記述しようと
もがきつづける傾向が強い。日本語で哲学をしようとする者は、
その枠組みがもたらす困難を理解しようとする必要はあるにしても、
その枠組みにいつまでも囚われてみせる必要はないはずである。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/22(月) 15:25:05.96 ID:5i6SVt+K.net
次もゲーテの『詩と真実』からの引用である。
>Der Mensch mag seine höhere Bestimmung auf Erden oder im Himmel,
in der Gegenwart oder in der Zukunft suchen, so bleibt er deshalb doch
innerlich einem ewigen Schwanken, von außen einer immer störenden
Einwirkung ausgesetzt, bis er ein für allemal den Entschluß faßt,
zu erklären, das Rechte sei das, was ihm gemäß ist.<
Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 9,
Hamburg 1948 ff, S. 449-503.

ここにおいてもやはり、西洋の思想や哲学は、自己の存在を前提とした
解釈に囚われてしまう傾向が強い。すると、ここにおける»ein für allemal«
("once and for all")は、運を快く受け入れようとする運命論者としての
決意から、何らかの定めを己にふさはしいものと信じ込み、何があろうと
決してその信念を曲げようとしない妄信的な決定論者の頑なな姿勢に
変わってしまう。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/22(月) 15:58:19.97 ID:5i6SVt+K.net
「のり」にあ(合)ふことにおいてみづから(身づ柄/自ら)がある、すなはち、
おのれ(己)の具体性(「からだ(躯)」を具えた性質)が現出するのであって、
自律性とは、あらかじめ存在するものとされる自己をどのようにか
律する(《maîtriser》)ことではない。自己の存在を前提として、
「のり」にみづから(身づ柄/自ら)を合はせようとすることに
おいて現れる《maîtrise》は、自己の「抑制」であり、みづから
(身づ柄/自ら)が「のり」であろうとする(《La loi, c'est moi 》)
ことにおいて表れる《maîtrise》は、他者の「支配」である。
いずれの場合にも、キアスムにおいて反転可能であるはずの
「のり」がその一面性に固定されることによって、自律性は
見失われることになる。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/23(火) 09:13:53.90 ID:W8XvBY8R.net
>「人は神の似姿である」と言われるが、日本語において「かみ(神)」は、
「かがみ(鑑)」を意味する(和語の「かがみ」自体は、「光の像を観るもの」
を意味する)「鑒(Middle Chinese:/kˠamH/)」の流用であり<

日本語では、「考える」こと自体がキアスム的な反転可能性を探ること
を表現している。「考える」の古語は、「かむかふ」であり、
「かむかふ」とは、「かむ(鑒)か(交)ふ」である。だからこそ、
よい「かむ(鑒)か(交)ふ」は、一瞬にして「ひらめく」、すなわち
鏡面に映る光の反転の効果を発揮するのであり、定まらない考えは、
二転三転するのである。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/23(火) 09:32:40.18 ID:W8XvBY8R.net
ひろ‐め・く【×閃く】
[動カ四]《「びろめく」とも》
2 落ち着きなく動き回る。ふらふらする。
「居も定まらず―・きて」〈枕・二八〉

出典 小学館デジタル大辞泉

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/23(火) 09:34:16.12 ID:W8XvBY8R.net
誤:よい「かむ(鑒)か(交)ふ」は、
正:よい「かむ(鑒)か(交)へ」は、

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/23(火) 13:42:57.26 ID:W8XvBY8R.net
自由自在とは、意のままになることであるが、何が意のままになるのか
といえば、キアスム的な反転が意のままになるのである。

78 :ネコに小判:2022/08/24(水) 08:18:12.41 ID:8Igqiefx.net
大多数の人々は、お金を自由につかふことができることを望んでいる
のであって、お金から自由になることを望んでいるのではない。
人以外の他の動植物は、お金を受け取ることも、お金を支払うこともないので、
その振舞ひは、お金(=通貨価値)から完全に自由である。
お金が自由になるということは、必然的にお金をつかはないことも
できることを意味している。さもなければ、自由にお金をつかふこと
にはならない。それは、地球の重力圏内を、自由落下をつづけながら
周回するスペースシャトルの船内で身体が浮遊していることが、
重力から自由であることを意味しても、重力が自由になることを
意味しているのではないのと同様だ。重力が自由になるとは、
思ひのままに浮くことも、沈むこともできることである。

79 :酒はのんでものまれるな:2022/08/24(水) 08:49:40.04 ID:8Igqiefx.net
お金をつかはずにいられない人や酒をのまずにいられない人は、
自由落下をつづける人に重力作用が自由になるわけではないのと
同様に、お金が自由につかへるわけでも、酒が自由にのめるわけ
でもなく、お金や酒に対して、云はば、自由落下状態にある。

通貨経済を基盤として成立する社会においては、政府であれ、
企業であれ、統治権力を行使する側は、デフォルトで、
お金に対して自由落下状態にあり、地球を周回するスペース・シャトル
のように地表に対して回りつづけることで墜落、つまり、
この場合には、統治の崩壊を回避している。政府や企業には、
金をつかはないという選択肢はないので、地表に対して回り
つづけることができなくなれば、金に溺れることになる。
どれほど酔っぱらっても酒をのみつづけるしかなく、さもなければ
酒にのまれてしまうことになるアルコール中毒患者のようなものだ。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/24(水) 09:38:49.42 ID:8Igqiefx.net
勘違いしてはいけない。そのような通貨を基盤とする統治権力が、
金が自由になる人を優遇するように振る舞ふなどということは、
そのように見せかける演出として以外ではあり得ない。そのような
統治体制にとって、金が自由になる人は、そうであること自体において、
自由落下をつづけながらも墜落しないように周回をつづける運動の
波に便乗するフリー・ライダーである。人以外の動植物などの、
そもそも金から自由な存在は、利用できる限りにおいて、実力行使
による支配の対象であるが、金が自由になる存在は、波にのみ込まれて
金に溺れ、自由落下に巻き込まれるようにする必要のあるターゲットである。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/24(水) 11:51:06.42 ID:P5ZJR0au.net
8月にコオロギが鳴いていた。
秋というにはまだ早いというのに。
イガイガ栗の実も落ちていた。
クラゲがゆらゆら泳いでもいた。
あの栗、バフンウニににてんなぁ、バフンウニを
吊るしておいても見分けつかんだろう。
犬の散歩の独り言。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
自由に考えようとする者にとって教養と経験はつねに不足している。
しかし、そのことは、自由に考えることの妨げとはならない。
なぜなら、その不足を感じていないならば、自由に考えることはできないからである。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/25(木) 10:38:31.94 ID:PqoCXlXO.net
>Die Hoffnung, immer vernünftiger zu werden, uns von den äußeren
Dingen, ja von uns selbst immer unabhängiger zu machen,
konnten wir nicht aufgeben. Das Wort Freiheit klingt so schön,
daß man es nicht entbehren könnte, und wenn es einen Irrtum bezeichnete.<

Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 9,
Hamburg 1948 ff, S. 449-503.

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/25(木) 13:55:40.52 ID:PqoCXlXO.net
体制のいかんにかかわらず、統治権力にとって、被統治者自らに
「できる」こと(それが「人を助けることが『できる』』」であれ、
「何もしないことが『できる』」であれ)はすべて、越権行為であり、
フリー・ライド(ただのり)。すべての「できる」を「させて『いただく』
ことができる」に変換する必要がある。被統治者は、「いただく」
からには、それ相応に「お返し」をしなければならない。「お返し」
をしなければならないことは負担だが、それでも、他でもない自分が
「いただく」ことが自分に有利に働くなら、被統治者はこぞって
「させて『いただく』ことができる」ように競い合う。しかし、
「させて『いただく』ことができる」ことが「お返し」の負担しか
もたらさないようになれば、人は誰も「いただく」ことを暗黙裡に
避けるようになる。その結果、被統治者の間で「いただく」ための
競い合いの生じなくなった統治においては、非統治者の各々が
「させていただかないことができる」ことを心から望みながら、
何事も「させられない限りはしない方がよい」という態度に落ち着く
凪が生じる。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/25(木) 13:59:34.80 ID:PqoCXlXO.net
そのような凪が生じることこそが、統治権力にとっての体制の危機である。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 08:07:39.24 ID:77aAPRJa.net
人事評価において試験の点数や学歴などだけでなく履歴における「経験」を
重視するとは、どのようなことだろうか。一般的には、経験とは、何らかの
出来事について第三者としてではなく「身をもって知る」ことを指す。
それ故、交通事故や火災などの事故に遭うのも、強盗や暴行の被害を
受けるのも、地震や津波の災難に遭うのも、借金で首が回らなくなる
のも、家賃が払えなくなってホームレスになるのも経験である。
しかし、無論、そのような経験が人事において特に好評価の対象と
なるわけではない。では、高い評価が与えられる「経験」とはどのような
ものだろうか。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 08:35:24.14 ID:77aAPRJa.net
「ボランティア活動」に参加することは、その活動内容に応じて、プラスに
評価され得る「経験」とみなされる。では、「ボランティア活動」とは
何を指すのか。例えば、この掲示板に書込みをすることは、それを他人の
指示に従ってやっているのでない限り、「自発的/自主的な」活動であり、
「ボランティア活動」とは、他人に強制される義務ではなく、報酬と
引き換えに他人に使われるのではない、「自らの意志による活動」を
意味するのだから、「ボランティア活動」に含まれてもよさそうなもの
だが、それが「自らの意志による活動」であるというだけでは、
「ボランティア活動」の要件を満たさず、また、それが他人の役に立って
いるか否かも関係ない。

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 09:28:22.18 ID:77aAPRJa.net
「ボランティア活動」とは、それが日本語において「奉仕活動」と理解される
とおり、「おつか(仕/使)へさせて『いただく』ことができる活動」に自らが
参加することを意味している。そして、それが何に奉仕するのかと言えば、
それは「慈善事業」、つまり、「善を恩恵として施す事業」に
「おつか(仕/使)へさせて『いただく』」のである。

人事評価において「ボランティア活動」に参加した「経験」、すなわち、
「(慈善事業に)おつか(仕/使)へさせていただいた経験」は、その「経験者」
が、組織からの暗黙の要請(場合によっては、しばしば、半強制的であり得る)
に応じることを強くは忌避しないことを示したということで、マイナス
に評価されるのを回避するのには役立つが、特に大きくプラスに評価される
ということはない。高く評価されるのは、それが、「おつか(仕/使)へさせて
『いただく』経験」であることを認識して、それを「いただいた機会」
として捉えて、その立場から、「おつか(仕/使)へさせて『いただく』こと
ができる活動」に積極的に参加するように他の人々を導くことができる
ことであり、さらに高く評価されるのは、自ら発案して「おつか(仕/使)へ
させて『いただく』ことができる活動」に参加する人々を組織することが
できることである。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 10:12:59.98 ID:77aAPRJa.net
こういうことをきちんと最初から言語化していれば、自らに無用な混乱、
軋轢、葛藤を抱え込むようになるのを避けられる。米国には、
「善行は必ず罰せられる/罰せられない善行はない」という諺があるが、
これには、「自分は善いことをした/しようとしているのに、なぜ
それが嫌がらせされ、妨害され、不利益を被り、嫌な思いをしなければ
ならないのか」という、一般に多くの人が抱くことのある思いが反映され
ている。しかし、この思いには、もともと自らの置かれている立場に
関する誤認がかかわっているのである。

「おつか(仕/使)へさせて『いただく』ことができる」ことに関係なく、
「自らの意志によって善いことをした/しようとしている」なら、むしろ、
組織的に嫌がらせされ、妨害され、不利益を被り、嫌な思いをしなければ
ならないことになるのは当然である。それは、直接に善いことをして
あげた相手にはとても感謝されたとしてもである。なぜなら、
その善行はそのまま、それが明示されたものであれ、暗黙のものであれ、
組織的な「慈善事業(善を恩恵として施す事業)」の運営に対する妨害活動と
なるからだ。したがって、「余計なことばかりしやがって」という反応
を引き起こし、それに応じた対処が行われるだけでなく、今後そのような
ことをする気が起きなくなるようにするために未然の対策も講じられる。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 10:21:11.53 ID:77aAPRJa.net
"do-good‧er"という表現がある。
ロングマン現代英英辞典では、次のように説明されている。
>someone who helps people who are in bad situations, but who
is annoying because their help is not needed
– used to show disapproval<

「おつか(仕/使)へさせて『いただく』ことができる」ことに関係なく、
「自らの意志によって善いことをした/しようとしている」者は、
組織からみれば、つねに「余計なことばかり」して目障りな"do-good‧er"
なのである。「ボランティア活動」は、それが何の役に立つにせよ
(何の役に立たないとしても、さらには人々に実害しかもたらさない
としても)、そのような"do-good‧er"に「おつか(仕/使)へさせて『
いただく』ことができる」立場を弁えさせるための仕組みとして機能し、
そのように運用される。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 10:38:35.65 ID:77aAPRJa.net
>>82
>神が右手に一切の真理を、また左手に真理を探究せんとするただ一つの
熾烈な欲求を握り給い、私にその一[つ]を選べと宣われるならば、たとえ
後者には私を不断にまた永久に迷わすであろうという仰せ言が付け加え
られていようとも、私は神の左手にすがり、「父よ、これを我に与え給え、
至醇なる真理はひとえにあなた様のみのものなれば」と言うであろう。<

レッシング作、篠田英雄訳、『賢者ナータン』、p.229

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 16:47:06.03 ID:77aAPRJa.net
統治は、船の舵とりに喩えられることが多く、その場合、船が水路を
安全に航行して、暗礁に乗り上げて難破するようなことがないことを
確実にすることが、その基本としてイメージされるが、その最も
根本(破綻をきたさないように「均衡を保つ」こととされる)においては、
むしろ、「当面は地表に墜落しないように自由落下状態を無期限に維持し
つづけること」としてイメージする方が妥当である。この基本をきちんと
認識していないと、直面する問題の解決策に関して、多くの無用で、
無効な幻想に囚われるることになる。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 01:16:50.54 ID:Cgo/JUDN.net
誤:るる 正:る

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 15:43:58.08 ID:Cgo/JUDN.net
エンデバー("endeavor"、スピノザ用語では、"conatus"/「コナトゥス」)
と名付けられたスペースシャトルの船長を務めたマーク・E・ケリー本人が、
今では国の統治に直接にかかわる立場にあるというのも、スピノザ的に見て
とても象徴的なことだろう。ちなみに、その妻も、銃撃を受けた事件で
日本でも知られることになった政治家のガブリエル・ギフォーズである。
>アリゾナ州選出連邦下院議員(ピマ郡、ピナル郡、サンタクルス郡)、
同州上院議員及び下院議員を歴任した。民主党指導者会議のメンバー<
(出典:Wikipedia)

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 08:23:18.28 ID:3nVHs9Bj.net
キアスム/《chiasme》は、哲学において用いられる数多くの「概念」の
うちの一つなどでは決してない。それについて反省することなしには、
自己そのもの/"oneself"が現れ得ないのだから、キアスム/《chiasme》
は、哲学をすることの基本である。日本語で考えるなら、そもそも、
「〜のうちの『一つ』」という場合の「ひと」つであること自体、
「匹(Middle Chinese: /pʰiɪt̚/)」、つまり、"matching"の流用なの
だから、「二つが一つ/一つが二つ」というキアスム/《chiasme》の
表れである。キアスム/《chiasme》を、哲学者がその都度の議論に
おいて用いる「概念」と横並びで考えることは、キアスム/《chiasme》
についての反省がまったく働いていない、すなわち、哲学すること
にすらなっていないことになるだろう。

96 :ま(任)けのまにまに/まき(任/牧)ば(場)とは:2022/08/28(日) 08:49:57.86 ID:3nVHs9Bj.net
例えば、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズによって用いられた「ノマド」と
いう概念がある。私は、ドゥルーズの著作は、ほぼ読んだことがない(どのような
ことが書かれているのかを知るためにページをぱらぱらとめくってみた
ことがある程度である)ので、ドゥルーズ本人が「ノマド」について具体的に
どのように論じたのかは知らない。それでも、日本大百科全書(ニッポニカ)
「ノマディズム」の解説を参照すると、英語で表現するなら、それが
"being at liberty"ということについての論考であることが分かる。

>配分された定住地を統(す)べる法の世界は、家畜が自由に遊動する境界なき
空間の次元によって裏打ちされているのである。あらゆる存在者にとって
等しい一義的存在とは、まさにノマド的なノモスだということになる。<

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 09:07:00.58 ID:3nVHs9Bj.net
では、この「ノマド的なノモス」についてキアスム/《chiasme》 的な
反省を働かせてみるとどういうことになるだろうか。

>彼[ドゥルーズ]はさまざまな個物の多様性・特異性を保証する存在の
一義性をノマドの概念によって説明した。ノマドの語源をたどると
古代ギリシア語の動詞「ネモー」に行き着くが、これは「配分する」と
同時に「放牧する」といった意味をもつ。そして前者が「法」という
意味での「ノモス」に関連するのに対して、後者は「牧草地」という
意味での「ノモス」に関連する。< 
(出典:日本大百科全書(ニッポニカ)「ノマディズム」)

「ノモス」は、「牧草地」という意味で用いられるのだから、それを
日本語として「まき(任/牧)ば(場)」(英語では、"concession")と
言い換えたとしても、何の異論もないだろう。では、「まき・ば(場)」
の「まき」とは、どのようなことだろうか。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 09:30:21.59 ID:3nVHs9Bj.net
万葉集の歌を詠んでいると、「まけのまにまに」という表現によく出会う。
「まけのまにまに」とは、無論、「ま(任)けのまにまに」であり、
現代の日本語にすれば、「任(まか)せられるままに」ということになる。
このことから、馬などの家畜を放牧する場曾である「まきば」の
「まき」も、「牧」という漢字が当て字として用いられているものの、
「ま(任)き」であることが分かり、このことは、「ま(任)きば(場)」が、
英語の"a concession"に対応することからも確認できる。
>a grant of land or property especially by a government in return
for services or for a particular use
>a right to undertake and profit by a specified activity
>a lease of a portion of premises for a particular purpose also :
the portion leased or the activities carried on
(出典:MERRIAM-WEBSTER DICTIONARY)

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 09:55:04.56 ID:3nVHs9Bj.net
したがって、「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」は、家畜が
自由に移動すること、つまり、家畜を放牧することができる場所/
"a place at liberty"であると言うことができる。では、「配分する」
を意味する用法に由来するとされる、「『法』という意味での
『ノモス』」の方はどうだろうか。こちらの方も、馴染みのない
古典ギリシア語ではなく、母語とする日本語や、より慣れ親しんだ
英語をメタ言語として用いて考えてみるなら、それがどのような
表現として用いられたのか、容易に類推することができる。

それは、「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」と「法」としての
「ノモス」は、「自由/勝手に〜することができる(場)」と「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」の関係にあるということだ。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 10:01:33.85 ID:3nVHs9Bj.net
このこともまた、日本語の「ま(任)き」に対応する英語の"concession"の
用法を参照してみれば、すぐに確認することができる。

>concession noun (SOMETHING ALLOWED)
something that is allowed or given up, often in order to end
a disagreement, or the act of allowing or giving this<
(出典:Cambridge Dictionary)

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 10:43:32.16 ID:3nVHs9Bj.net
ところで、"concession"には、「ま(負)けを認める」という用法もある。
>the act of admitting defeat
(出典:Cambridge Dictionary)
したがって、単なる語呂合わせではなく、現代語にするなら
「まか(任)せる」行為を表現する「ま(任)き」とは、「ま(負)けを
『認めてあげる』」/「ま(負/任)けをゆるす」ことを意味している。
すると、「ま(任)き」の本来的な「両義性」がただちに感じられるように
なるはずであり、その「両義性」こそが、「ま(任)き」のキアスム的な
反転可能性なのである。

すなわち、「ま(任)き」のキアスム的な反転可能性とは、
「〜することができる自由/勝手」としての「ま(任)き」は、
「〜させていただくゆるし」に反転する潜在性を伴って現出し、
「〜させていただくゆるし」としての「ま(任)き」は、
「〜することができる自由/勝手」に反転する潜在性を伴って
現出し、その反転する様態は、「なは(縄)をあざな(糾)ふが如し」
であると言うことができる。したがって、
>あらゆる存在者にとって等しい一義的存在とは、まさに
ノマド的なノモスだということになる<
と主張するのであれば、その「ノマド的なノモス」とは、
そのいずれかとして現出するが、一義的存在としては、
その両方ではなく、その片方でも、その両方の中間でもない、
「『ま(任)き』のキアスム的な反転可能性としてのノモス」
であるということになるだろう。

102 :まけのまにまに:2022/08/28(日) 10:56:56.04 ID:3nVHs9Bj.net
書き込むスレを間違えたので、こちらにコピペ

480まけのまにまに2022/08/28(日) 10:54:24.13ID:3nVHs9Bj
「ボランティア活動」をするとは、どのようなことか。
また、「ボランティア活動」の「経験」は、どのように人事的に評価されるのか。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 12:21:40.97 ID:3nVHs9Bj.net
誤「〜させていただくゆるし」
正:「〜させていただくことができるゆるし」

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 12:29:52.60 ID:3nVHs9Bj.net
相手のあらゆるすべての「〜することができる自由/勝手」を
相手にとっての「〜させていただくことができるゆるし」に反転させる
ことが統治者の夢であり、その反転させる作用こそが統治者としての働き、
すなわち、みづから(身づ柄/自ら)に統治側としての立場を確保すること
である。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 12:59:12.57 ID:3nVHs9Bj.net
誤:場曾である
正:場所である

106 :免疫系:2022/08/28(日) 17:30:09.54 ID:3nVHs9Bj.net
一方、逆に、「〜させていただくことができるゆるし」があれば、それが
「〜することができる自由/勝手」に反転し得ることは、「庇を貸して
母屋を取られる」という諺に見られるとおりであるが、それは、
他人に何かを「まか(任)せた」ことがあれば、ほとんど誰もが経験により
知っていることだろう。そのような反転が生じるのを未然に防ぐためには、
つねに「ゆるし」を請ふ必要がある状態に相手を追い詰めている必要
がある。しかし、「「〜することができる」という積極性に向かふ
反転を作用させなくても、「〜させていただくことができるゆるし」が
あれば、「〜させていただくこと」だけをそのまま利用して勝手に
振る舞ふという、「寄生」とすら呼べないウイルス的なフリー・ライド
の可能性は、排除することができない。その可能性まで徹底的に
排除しようとするなら、統治しようとする側は、そのための多大な
労力をみづから(身づ柄/自ら)が負担することを強いられることになる。

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 17:53:10.35 ID:3nVHs9Bj.net
決して撲滅することのできない際限なく変異しつづけるウイルスの退散を
祈願するとはどのようなことか

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/29(月) 09:15:49.84 ID:tgBf4lV/.net
>>96-101
「法」を意味するものと解釈される古代ギリシア語の"νόμος"が、
「〜させていただくことのができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」
⇒「法/ノモス」)』」として日本語の古語の「ま(任)き」に対応する
という解釈の妥当性は、その動詞形で「配分する」を意味するように
用いられる"νέμω"と同根語であるとされるドイツ語の動詞»nehmen«
がどのように活用されているかを参照しても容易に確認することができる。
私は、ドゥルーズの著作を読んでいないので、「ノマド的なノモス」について
議論するにあたりドゥルーズがドイツ語の表現に言及しているのかどうかは
知らないが、ドイツ語のこのような派生表現の用法を意味解釈のネットワーク
を(暗黙にではあれ)意識していなかったはずはないだろうと思う。

以下は、Wiktionaryの記載からの引用である。

>genehmigen
1. 許可する、許す
2. (再帰) 状況が何かを可能にして、それを実行する。

>genehmigen
Bedeutungen:
[1] insbesondere von behördlicher Seite erlauben, gestatten,
akzeptieren, bewilligen
[2] umgangssprachlich, scherzhaft, reflexiv: sich erlauben,
etwas zu sich zu nehmen oder allgemein etwas zu genießen
[3] Zivilrecht: nachträglich seine Zustimmung erteilen

Herkunft:
Genehmigen trat an die Stelle des älteren Ausdrucks (für) genehm halten.
Möglicherweise ist es eine aus der Amtssprache stammende Verdeutschung
des französischen Wortes agréer → fr[1] (annehmen, gutheißen, zulassen).

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/29(月) 09:26:05.94 ID:tgBf4lV/.net
誤:〜させていただくことのができる
正:〜させていただくことができる

今さら繰り返すまでもなく、これまでにも絶えず主張してきたことだが、
ある言語における表現の意味の妥当な解釈を導き出すのに、その言語
とは系統的に無関係とされる言語をメタ言語的な記述のために用いる
ことが極めて有効であることが、この場合にもはっきりと示されている
はずである。

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/29(月) 09:28:15.43 ID:tgBf4lV/.net
誤:意味解釈のネットワークを
正:意味解釈のネットワークにおいて

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/29(月) 09:36:59.10 ID:tgBf4lV/.net
>>109
これは、「使いものにならない○○語」の有効活用法ともなっている。
以前にも述べたことだが、私は、フランス語については大学の教養の
授業でだけ、ドイツ語については教育を受けたことも、まともに独習
したこともない。したがって、フランス語やドイツ語についての私の
語学力は、他人からは、実用上、「まったく使いものにならない」
という評価を下されることになるだろう。それでも、その他人に
とっては「まったく使いものにならない」レベルの語学力でも、
私にとっては、見てのとおり、大いに役立つのである。

112 :まか(罷)り通る/まか(罷)りならぬとはどういうことか:2022/08/29(月) 10:23:18.90 ID:tgBf4lV/.net
ワクチン接種証明書とマスク着用が法的に義務付けられれば、
ワクチン接種証明書を所持して、なおかつマスクを着用していなければ、
入店、劇場、映画館、スタジアム、公共施設の利用、公共交通機関の利用、
出入国などがすべて「まか(罷)りならぬ」(法律上、禁止される)ことに
なるわけです。これによって、事実上、日常生活において、
外出することは、「〜させていただくことのができるゆるし」
があることを示せなければ、デフォルトで「まか(罷)りならぬ」という
状況を生むことになる。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/29(月) 10:32:22.06 ID:tgBf4lV/.net
勝手に外出していることが「まか(罷)り通る」のは「ゆるせない」という
状態がデフォとなる。何かの用事があって外出する必要があるなら
(日常生活では、必ずそのような用事が生じる)、「ゆるし」を請ふ
必要がある状態にいつでもデフォで追い込まれることになる。

114 :まき(薪)ひろ(拾)ひ:2022/08/29(月) 17:00:20.29 ID:tgBf4lV/.net
《宋書·武帝紀中》:“先是山湖川澤,皆為豪強所專,小民薪採漁釣,皆責稅直,至是禁斷之。”

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/29(月) 20:17:49.93 ID:tgBf4lV/.net
>864 名前:新型ショーヴィニズム・ウイルス[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 10:42:32.51 0
「宗教評議会が人間はほとんど呼吸をするたびに罪を犯していると宣言したので、
まもなくジュネーヴでは誰ひとり安心していることはできなくなってしまった。」
ツヴァイク全集17、『権力とたたかう良心』、p.83

この著作において、ツヴァイクは、記述する歴史的状況を「権力側による
不寛容とそれに対する良心による抵抗」の問題として捉えているが、
この「不寛容(≒「まか(罷)りならぬ」)」こそ、つねに「ゆるし」を請ふ
必要がある状態に相手側を追い込むための統治の仕組みであり、その
追い込みが機能しなければ、統治体制そのものが、崩壊の危機に晒される
状況にあることの表れである。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/29(月) 20:26:35.29 ID:tgBf4lV/.net
>かれそれより後、いよよ貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め來(く)。
攻めむとする時は、鹽盈つ珠を出して溺らし、それ愁へまをせば、
鹽乾る珠を出して救ひ、かく惚苦(たしな)めたまひし時に、稽首(のみ)白さく、
「僕(あ)は今よ以後(のち)、汝が命の晝夜(よるひる)の守護人(まもりびと)と
なりて仕へまつらむ」とまをしき。かれ今に至るまで、その溺れし時の
種種の態(わざ)、絶えず仕へまつるなり<

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 09:44:04.30 ID:ukisMhF3.net
重要なのは、力による機械的な作用(作用=反作用)をもたらすことではなく、
何かを誘発することによって、その誘発のために要求される作用を上回る
指数関数的な反応を引き起こし、その反応をみづから(身づ柄/自ら)が
利用できるようにすることである。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 09:57:08.53 ID:ukisMhF3.net
働きにあた(与/能/価)ふものとして給(たま)はる「手当」/"allowance"が
「薪水」に相当するとはどのようなことか。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 10:02:19.74 ID:ukisMhF3.net
言語表現には仕組みの働きが反映される。
ただし、その働きは、機械的な力学の原理によるものには限定されない。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 12:13:49.34 ID:ukisMhF3.net
統治するとは、その基本において、「しわざ」によって「しかへし」しようと
する「つとめ」("endeavor"/「コナトゥス」)を「わざと」誘発し、そのよう
にして誘発された「つとめ」を、あらかじめ用意できている「かへしわざ」に
よってみづから(身づ柄/自ら)の「いきほひ」として利用できるようにうまく
誘導することである。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 12:21:16.39 ID:ukisMhF3.net
例えば、どのようにして、植物がもたらす実りを利用できるように、
どのように植物の生育を誘導して栽培しているかを考えてみるといい。
生き延びのために必要である以上に大量の実をつけることは、植物に
とって無意味であるが、栽培手法は、それが生き延びのために必要
または有利であるように植物にわざと錯覚させる。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 13:46:07.51 ID:ukisMhF3.net
>>120
これを「陰謀」/"intrigue"と呼ぶなら、そのような「陰謀」/"intrigue"は、
昆虫や植物でさえ、というより、単細胞生物でさえ、さらに場合によっては、
細胞ですらないウイルスでさえ働かせる基本的な仕掛けであり、人の場合に
限って、それが周縁的に、例外的にしか働いていないとするのは、いかにも
奇妙な考え方である。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 07:55:21.79 ID:+XPrY2Po.net
「ひと(人/一/等)」を統治するという喜劇、或いはホメオスタシスとしての「ひと(人/一/等)」について

>53考える名無しさん2021/04/08(木) 10:24:54.910
498umana commedia2021/02/22(月) 07:57:09.800
– Die Menschheit verwendet schonungslos jeden einzelnen als Material zum
Heizen ihrer großen Maschinen: aber wozu dann die Maschinen, wenn alle
einzelnen (das heißt die Menschheit) nur dazu nützen, sie zu unterhalten?
Maschinen, die sich selbst Zweck sind – ist das die umana commedia?

Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 1, S. 708.
http://www.zeno.org/nid/20009235825

人々を容赦なく消費し尽くし、そこで自らも消耗させられながらも、無目的に
見える人の組織化という人間喜劇において目的を示すのが禁欲主義的僧侶が
担う役割である。それは、「ここでないとき、ここでないところに(即ち、
『ユートピア』に)『みづから(身づ柄/自ら)』がある」ことの「具体的な
実現」を目指すという目標を示すことである。無論、「ここでないとき、
ここでないところ」に「自身がある」というのは矛盾であるが、禁欲主義的
僧侶は、自らの肉体的な実践においてその矛盾した願望に向かう歩みを
体現して見せるのである。<

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 07:57:44.35 ID:+XPrY2Po.net
繰り返そう。
働きにあた(与/能/価)ふものとして給(たま)はる「手当」/"allowance"が
「薪水」に相当するとはどのようなことか。

125 :も(燃/萌)える闘魂w:2022/08/31(水) 08:10:20.92 ID:+XPrY2Po.net
Der Seufzer des Erkennenden. – »Oh über meine Habsucht! In dieser
Seele wohnt keine Selbstlosigkeit – vielmehr ein alles begehrendes
Selbst, welches durch viele Individuen wie durch seine Augen sehen
und wie mit seinen Händen greifen möchte, – ein auch die ganze
Vergangenheit noch zurückholendes Selbst, welches nichts verlieren
will, was ihm überhaupt gehören könnte! Oh über diese Flamme meiner
Habsucht! Oh, daß ich in hundert Wesen wiedergeboren würde!«
– Wer diesen Seufzer nicht aus Erfahrung kennt, kennt auch die
Leidenschaft des Erkennenden nicht.

Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 2, S. 156.

126 :「丸焼き」を捧げるといふ隠喩:[ここ壊れてます] .net
一寸の虫にも五分の魂(たま・し・ひ≒火を玉にしたもの)

人は、火を使う動物であるとされるが、一寸の虫にも五分の「たま(玉)しひ(火)」
があると言われるとおり、昆虫でもその身体において火をつか(使/仕)ふ
(/消費する)だろう。他の動物とは異なり、人に特徴的であると考えられるのは、
火をつか(使/仕)ふことではなく、表出するように外在化させれば、抑への
効かないほのほ(炎)となってみづから(身づ柄/自ら)を焼き尽くすおそれの
ある火を、それでも「わざと」外在化させながらも、ほのほ(炎)をくすぶ(燻)ら
せてうまくあやつ(操)るしわざ(仕業)/しかけ(仕掛け)をもち(用)ひることである。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 16:30:17.78 ID:+XPrY2Po.net
誤:もち(用)ひることである。
正:もち(用)ひてつか(使/仕)ふことである。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
人は、火をつか(使/仕)ふ動物であるというより、火を「てなづ(手懐)ける」
動物である。私は、ハイデガーの著作に関しても、『存在と時間』と
『現象学の根本問題』以外は、あまり読んだことがないので、ハイデガーが、
人が火をつか(使/仕)ふことについてどのように論じているのか知らない、
というより、論じている箇所を目にしていたとしても、ハイデガー独特の
言葉遣いにあまり関心がないので、覚えていないだろう。
いずれにせよ、人が火を「てなづ(手懐)ける」ことについてハイデガーが
まともに考察していたなら、火を「てなづ(手懐)ける」ことによって
象徴される人の「文化」または「技術」について語るのに、
»Zuhandenheit«と»Vorhandenheit« の対比という構図を頼りに
するだけでは、不十分であることにすぐに気づいたはずだろう。

129 :手名椎命:2022/08/31(水) 20:27:37.22 ID:+XPrY2Po.net
火を「てなづ(手懐)ける」 とはどのようなことだろうか。
そもそも、表出するように外在化した火は、単に「目の前に」/»vorhanden«
にあるものではない。では、それが「手頃に」/»zuhanden«/"ready-to-hand"
にあるのかと言えば、それどころではなく、そのような火に手を出せば、
たちまちにやけど(火傷)することになり、むしろ、火は「扱いにくい」もの
として/»unzuhanden«にあるものの代表である。さらに、人は、そのことを
決して忘れたりはしていない。それでも、人は、その「扱いにくい」/
»unzuhanden«にある火を「わざと」おこ(熾)すのである。

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:41:11.87 ID:+XPrY2Po.net
しかし、おこ(熾)した火が「扱いにくい」/»unzuhanden«であるままなら、
火はほのほ(炎)を高く上げて次々に燃え広がり、すべてを焼き尽くして
しまう惧れがある。そこであらかじめ、ほのほ(炎)が大きく上がるのを
抑え込むように火をくすぶ(燻)らせるしかけ(仕掛け)を整えておき、
火を「手頃に」/»zuhanden«に扱うことができるようにするのだ。
それが、火を「てなづ(手懐)ける」ということである。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 21:00:41.58 ID:+XPrY2Po.net
では、火は、目の前に」/»vorhanden«にあるものとしては現れないのか
といえば、そんなことはない。目の前に」/»vorhanden«にあるものとして
現れる火の代表例が、観客として見物する花火/《feu d'artifice》である。
打ち上げ式の花火に限らず、花火を披露するのは、祝祭につきものだが、
花火/《feu d'artifice》がそれを見物する人に何を見せているのかと
言えば、それはまずなによりも先に「火術」/《pyrotechnique》/
"pyrotechnic"である。無論、花火が目の前に」/»vorhanden«にある
ものとして現れるのは、見物客にとってであり、それを仕掛ける人に
とってはやはり、本来的に「扱いにくい」/»unzuhanden«である火を、
「わざ」によって「手頃に」/»zuhanden«に扱うことができるように
していることに変わりない。

132 :Guillaume Apollinaire - Calligrammes:2022/08/31(水) 21:07:21.46 ID:+XPrY2Po.net
Fête
Feu d'artifice en acier
Qu'il est charmant cet éclairage
Artifice d'artificier
Mêler quelque grâce au courage

Deux fusants
Rose éclatement
Comme deux seins que l'on dégrafe
Tendent leurs bouts insolemment
IL SUT AIMER
quelle épitaphe

Un poète dans la forêt
Regarde avec indifférence
Son revolver au cran d'arrêt
Des roses mourir d'espérance

Il songe aux roses de Saadi
Et soudain sa tête se penche
Car une rose lui redit
La molle courbe d'une hanche

L'air est plein d'un terrible alcool
Filtré des étoiles mi-closes
Les obus caressent le mol
Parfum nocturne où tu reposes
Mortification des roses

133 :Feu d'artifice:2022/09/01(木) 00:28:36.33 ID:ZvBlRC5o.net
「火術」/《pyrotechnique》/"pyrotechnic"を提喩として用いるなら、
「技術」全般についても、暫定的に次のような記述が適合するのではないか。

技術とは、もともと「扱いにくい」/»unzuhanden«であるものと感じ
られている事象を「わざと」誘発しながらも、その事象を、あらかじめ
整えられたしかけ(仕掛)により、「手頃に」/»zuhanden«に扱うことが
できるようにして、そのように扱われた事象の効果が「目の前に」/
»vorhanden«にあるもの、即ち、「見事なもの」として現れるように
する「すべ(術)」である。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/01(木) 01:03:24.77 ID:ZvBlRC5o.net
扱いにくいものが手頃であるもののように扱われて目の前にある

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
技術とは、もともと、わざと生じさせる危うさをてなづ(手懐)けて
見事に操ってみせるすべ(術)なので、そのすべ(術)をみづから
(身づ柄/自ら)が操ったこともなく、技術の確かさを間違いないもの
として闇雲に信頼し、そうすることを他人にも要求する者は、
技術の効果の見事さに目を眩まされている。その一方で、
探索なしに技術を開発することも、その確かさを知ることも
不可能であり、探索とは、さ迷って(err)みることにより、
それによってもたらされる効果を知ることである。
さ迷い(erring)の効果(error)をあらかじめ排除した探索など
というものは、原理的にあり得ない。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/02(金) 13:27:04.55 ID:0LR9Iqzp.net
「し(知)る」ことは、啓示である。
ここで、私はなにも、神学的なことを語ろうとしているわけではなく、
「し(知)る」という言葉の意味を、その言語表現どおりに解釈して
示しているだけである。
にもかかわらず、「『し(知)る」ことは、啓示である」という解釈に、
直ちに「すべてを知る神(仏)」を想起してしまうのは、「し(知)ること」
と「し(領)ること」が互いにキアスム的な反転可能性として現れ、
「し(知/領)る」働きの「主体(人であれ、神であれ)」を物象化された
ものとして想定してしまうからである。ところで、「しる」を
「し(知/領)る」と解釈するのは、私独自の主張などではなく、
岩波古語辞典にも見出しとしてそのまま記載されるとおりである。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/02(金) 14:11:24.51 ID:0LR9Iqzp.net
ここで、「し(知)る」ことは、あくまでも「啓示」であって、
「〜をおも(思)ひし(知)る」という表現を考えてみてもすぐに分かるとおり、
「すべてをし(知)る人/神(仏)」と言ったところで、その「人/神(仏)」は、
「し(知)る」働きの主体ではない。

>NATHAN: Das wird sich zeigen.
Ephraim Lessing, "Nathan der Weise", Anaconda, p.61
>ナータン じきに判るよ。
レッシング作、篠田英雄訳、『賢者ナータン』、岩波文庫、p.79

「し(知)る」とは、この»sich zeigen«であり、「しるし(験)の顕現」が
もたらす結果を「知識」として物象化して捉えて、それを「啓示」と
見做すなら、その「啓示」は、神学にではなく、「しるし(験)の顕現」
について現象学として論じる記号論に結び付けられて考えた方がよい。
また、「し(知)る」ことのキアスム的な反転可能性として現れる
「し(領)る」ことが、すぐさま、「し(領)る」行為の主(ぬし)として
の人、神、または仏を想起させるとしても、それを神学の枠組みで
理解しようとすることは、「しるし(標)を示す」行為がもたらす
結果を「領有」として物象化して、その「領有」の主(ぬし)を想定
することに他ならず、本来、不要な限定を暗黙に持ち込むことになり、
やはりむしろ、「しるし(標)を示す」行為をそのまま、行為論として
の記号論に結び付けて考える方が賢明だろう。

138 :似非哲学者の鑑:2022/09/02(金) 14:31:42.50 ID:0LR9Iqzp.net
知識を自らの領有物のように見做すとはどのようなことか

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/02(金) 15:12:51.22 ID:0LR9Iqzp.net
「し(知)る」ことと「し(領)る」ことが互いにキアスム的な反転可能性と
して現れることを直観的に知ることは、難しいことではないはずである。
具体例を示すなら、別に犬の小便でもよいのだが、現代に人が接する犬は、
散歩の時間以外はほとんど屋内で飼われるか、または紐につながれて
生活しているので、小便がその本来のマーキングの役割を果たしていない。
これに対して、森で生活する熊は、木の幹に体をこすりつける習性がある
ことが知られている。これは、木の幹に体の臭いをつけているものと
理解されており、他の熊は、その臭いにより、そこに臭いをつけた熊の
存在を「し(知)る」ことになり、そのように臭いがつけられた木の幹が
広がっている範囲を他の熊が避けるようになるなら、臭いをつけた熊は、
その範囲を「し(領)る」、つまり、自らの領域(テリトリー)とすること
になる。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/02(金) 23:35:42.36 ID:0LR9Iqzp.net
第18巻 4096番歌
作者 大伴家持
題詞 ((賀陸奥國出金詔書歌一首[并短歌])反歌三首)
原文 大伴<乃> 等保追可牟於夜能 於久都奇波 之流久之米多弖 比等能之流倍久
訓読 大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく
かな おほともの とほつかむおやの おくつきは しるくしめたて ひとのしるべく
(万葉集ナビより引用)

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/03(土) 09:51:20.37 ID:iOkJ02ua.net
敢へて神学的なことを言わせてもらうなら、「し(知)る」ことと
「し(領)る」ことのキアスム的な反転可能性に先立って、「し(知/領)る」
働きの主(ぬし)を存在者として想定してしまうような神学的な言説は、
いくら敬虔さと謙虚さを装ったところで、神の名を借りて尊大である
と同時に卑賤なみづから(身づ柄/自ら)の姿勢をもたらさざるを得ない。
そして、神学の言説は、「すべてを知り給ふ神」を「主(ぬし)」として
想定することがもたらすそのような効果を否認することができる
ようにするために自らの言説の解釈の脱構築に向かふが、その取組みは、
シーシュポスが岩を押し上げようとする如くにつねに徒労に終わる。
なぜなら、神学の言説が体系的に紡がれるのは、神の制度宗教化
またはその維持のためであり、こちらは、神を「主(ぬし)」として
想定される存在者の地位に押し下げるからである。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/03(土) 10:17:48.89 ID:iOkJ02ua.net
「すべてを知り給ふ神」を「主(ぬし)」として認めることは、一見すると、
みづから(身づ柄/自ら)に敬虔さと謙虚さを求めるように思える。
それがなぜ、神の名を借りて尊大であると同時に卑賤なみづから(身づ柄/自ら)の
姿勢をもたらさざるを得ないのか。それは、神を「すべてをし(知/領)り給ふ
主(ぬし)」の如き「存在者」として想定することが、必然的に、神を、
よくて「すべてのしろ(「城」/"marked territories")の領主としての王」
のようなものに、悪くすると、「あらゆるものに自分のしるし(「標/徴」
/"mark")を残してまわる(つまり、マーキングをする)犬」のようなものに
喩えることになってしまうからである。すると、そのような神に対して、
みづから(身づ柄/自ら)がいくら敬虔さと謙虚さを装ったところで、
その姿勢は、「すべての城の領主としての王」に仕える「しもべ(僕)」か、
または「あらゆるものに自分の標を残してまわる犬」の「しり(「尻」/
"behind")」の臭いを嗅いでついてまわる「主(ぬし)」としての犬の
後を追う犬(つまりは、「主の犬」である)のようなものに喩えられるもの
となる。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/03(土) 10:21:31.25 ID:iOkJ02ua.net
誤:仕える
正:つか(仕/使)へる

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/03(土) 10:31:29.43 ID:iOkJ02ua.net
誤:ついてまわる「主(ぬし)」としての犬の後を追う犬
正:ついてまわる、「主(ぬし)」としての犬の後を追う犬

繰り返し引用しておく。
万葉集第18巻 4096番歌
>大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく

145 :シーシュポスの岩:2022/09/03(土) 10:46:10.31 ID:iOkJ02ua.net
>神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、
名前無き無なることを理解するであろう< マイスター・エックハルト

>その死後 1329年、エックハルトの命題は異端の宣告を受け、
著作の刊行・配布が禁止された。<
(出典:Wikipedia)

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/03(土) 10:58:16.99 ID:iOkJ02ua.net
いわゆる「否定神学」と呼ばれるものは、神学の言説としては重要であるものの、
記号論としては「筋が悪い」(神学の枠組みから入ることを余儀なくされる点で)。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/04(日) 09:05:47.69 ID:oLbZC0LT.net
「ただ(正)」しさが表現しているのは、手の接触の「た(手)しか(然)さ」
であり、実際に手で触れてみて「確かにそうだ」/"certainly so"という
ことである。したがって、「ただ(正)す」とは、「手なほ(直)しする」
ことに他ならない。
「何か言いたいことでも?」
「いや、ただ...」/"it's just ..."

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/05(月) 04:47:58.67 ID:kAuAxRGG.net
南沙織が早く強く捕まえに来てと歌う
南沙織は十七歳の時、この歌を唄った
そろそろ七十歳
ちょうど十十七がひっくり返るときに、こう想うだろう
七十の婆さんに言われてもなぁ
七才ならこう思うだろう
こっちが捕まっちまうわ

149 :知らぬが仏:2022/09/05(月) 08:50:45.04 ID:D8wmXL9d.net
> ー Wer viel weiß,
Hat viel zu sorgen; und ich habe ja
Mich einer Sorge nur gelobt.

Ephraim Lessing, "Nathan der Weise", Anaconda, p.104

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/05(月) 13:41:43.62 ID:D8wmXL9d.net
私は、哲学的に物事を考えようとするとき、正しいをされることには
ほとんど関心がない。私に専ら関心があるのは、正しいことを知ろうとし、
それを伝へようとすることだけである。しかし、多くの人々は、
私が「正しいとされることを知っていると自負し、それを知らせ
ようとしている」ものと勘違いしてしまう。そして、それが
「正しいとされること」ではないことに後で気づいたとき、
「間違ったことを教へた」、または「それは知らない方がよかった」
と憤慨するのである。なぜなら、なぜなら、世の中では、
「正解」とは、一般に、「正しいとされること」であって、
「正しいこと」(つまり、手で触れるように、実際にしかじかで
あると確かめられることであり、それを知ることが好都合であるか、
不都合であるかは関係ない)ではないからである。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/05(月) 13:56:41.02 ID:D8wmXL9d.net
>正しいことを知ろうとし、それを伝へようとする

このように表現すると、あたかも、まず正しいことを知り、それを
伝へようとするかのように思える。しかし、ただ(正)しさを
たし(確)かめるとはどのようなことであるのかを考えてみれば、
実際のプロセスは、その逆であり、「しかじか(然々)」である
ことが、如実に(しっかりと)伝はることによって、「しかじか(然々)」
であることのただ(正)しさを知る(即ち、そのことを「しるし」として
「しるす」)ことになるのだ。このことには、ヴィルヘルム・フォン
フンボルトも気づいていたが、それをうまく言語化して説明する
ことはできていない。ニーチェは、それを「言語」と「意識」の
問題としてより明確に論じている。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/05(月) 14:06:59.40 ID:D8wmXL9d.net
誤:それを「言語」と「意識」の問題として
正:それを「意識」の問題として

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/05(月) 14:22:06.71 ID:D8wmXL9d.net
Twitterなどのソーシャル・ネットワークの書込みを見渡すと、
「正しいとされること」を教へようとし、「正しいとされること」をする
ように呼びかける発言に満ち溢れている。しかし、「正しいとされること」
の場合とは異なり、「正しいこと」の場合には、そのような呼びかけは
無意味である。というのも、「ただ(正)しいこと」、すなわち、「たし(確)か
にしかじか(然々)であること」に気づいてしまったなら、それを意図的に
無視を決め込むことを含め、自ずとそのことにどのようにか反応せざるを
得ないからである。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/05(月) 15:14:54.37 ID:D8wmXL9d.net
>キアスム/《chiasme》を、哲学者がその都度の議論において用いる
「概念」と横並びで考えることは、キアスム/《chiasme》について
の反省がまったく働いていない、すなわち、哲学することにすら
なっていないことになるだろう。<

私は、このように指摘した。では、このことは、哲学の議論において
最も中心的な重要性を占めてきたと言っても過言ではない、「存在」
という概念の場合にも当てはまるのだろうか。私は、当てはまると
思う。それだけでなく、「存在」についてのキアスム的な反転
可能性を考えるには、やはり、「ある」という日本語から考える
ことの方が、何らかの主体/客体の存在を前提として、その前提の轍
(わだち)から抜け出そうとする西洋の哲学の言語表現を頼みにする
より、はるかに有効だろうと思う。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/05(月) 15:20:06.55 ID:D8wmXL9d.net
まずは、次のように問ふことができるだろう。
「なにかが『あら(顕)は』になるのは、もともと、その『なにか』が『ある』
からなのだろうか。また、その場合、『〜がある』とは、どのような
ことなのだろうか。」

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/05(月) 15:24:02.81 ID:D8wmXL9d.net
誤:無視を決め込む
正:無視することを決め込む

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/06(火) 09:32:26.47 ID:H/flL8Lm.net
次のことを考えてみるといい。

「あら(顕/現)はれ」る限りにおいて、何かが「たしか」に(つまり、
手の接触とぴたりと「あふ」ように)、即ち、"mani(≒た)fest(≒しか))/
»handfest«に「ある」としても、それは、必ずしも「あらはれ」る
とおりに「ある」わけではないと同時に、何かがにどのようにであれ
「ある」限りにおいて、それは、「あら(顕/現)はれ」るようにして
しか「あり」えない。

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/06(火) 09:40:28.29 ID:H/flL8Lm.net
誤:何かがに
正:何かが

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/06(火) 09:51:43.45 ID:H/flL8Lm.net
>捨てる神あれば拾う神あり

時系列的に見れば、まず「捨てる神」が「あり」、次に「拾う神」が「ある」
ということになるだろう。しかし、本当にそうだろうか。「捨てる神」が
まず「ある」のか。そうではなく、「拾ってくれる」者が「あらはれ」る
ことによって初めて、「拾う神」が「ある」ことが「知れ」、「捨てた」
者の「あらはれ」が、「拾う神」が「ある」のを「知る」こととの対比に
おいて、「捨てる神」が「ある」ことを「知る」のではないか。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/06(火) 09:53:34.94 ID:H/flL8Lm.net
誤:「捨てる神」が「ある」ことを「知る」のではないか。
正:「捨てる神」が「ある」こととして「知れ」るのではないか。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/06(火) 10:04:31.91 ID:H/flL8Lm.net
「ある」ことは、「あ(或)る」という表現が意図的に、限定を回避する
ためにつかはれることからも分かるとおり、どのようにも限定しない。
これに対して、「〜『が』ある」の「が」は、"self"を指すように
解釈された「我(が)」の流用であり、発話遂行的な同一性の確立の
ために用いられている。

162 :ただ「ある」がままに「ある」ことの偶然性:2022/09/06(火) 10:16:03.65 ID:H/flL8Lm.net
「たしか」にそうであるとおりに「ある」ことは、いくら「そのようである」
ことが「ただ(正)し」いとしても、というよりむしろ、それが「ただ(正)し」
ければ、「ただ(正)し」いほど、「ある」ことの偶然の「あらは」れでしかない。

163 :水心あれば魚心あり:2022/09/06(火) 13:24:57.50 ID:H/flL8Lm.net
自身に「たしか」に右手が「ある」ことは、その「た(手)なごころ(心)/掌」が
「あひ(相)て(手)」の左手の「たなごころ」にぴたりとあ(合)ふことが、
その相手の右手の「たなごころ」が、相手の相手、すなわち、自身の
左手の「たなごころ」にぴたりとあ(合)ふが如くであることによって
「たしかめ」られる。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/07(水) 08:25:42.04 ID:Y2K66hTY.net
『双数について』でフンボルトがどのように表現していたのか、
この著書が手元にないので、そのまま引用することはできないが、
ここで私が以上に述べてきたことを踏まえて、フンボルトが
そこで言おうとしていたことを私なりの理解に基づいて
表現してみるなら、次のようになるだろう。

何かが「た・しか」("manifest"/»handfest«)にあることの「ただ(正)し」さは、
その何かが「しか(然/如)じか(々)」であることが「たが(互)ひ/た(手)か(交)ひ」に
「た・しか」につた(伝)はることにより「し(知/領)られる」(»sich zeigen«)
ことになる。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/07(水) 08:33:41.56 ID:Y2K66hTY.net
そのようにして「し(知/領)ら」れた「ただ(正)し」さについては、それを
否認しようとするなら、「『しら』ばくれる/『しら』をきる」しかない。

他人に「正しいとされること」を教へること、「正しいとされること」を
するように呼びかけることに熱心な人々は、大抵の場合、そのようにして
「し(知/領)ら」れる「ただ(正)し」さについては、「『しら』ばくれる/
『しら』をきる」ことの達人である。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/07(水) 09:00:14.83 ID:Y2K66hTY.net
>>165
これは、何であれ、その「ただ(正)し」さ不確かであると感じられること
について、そのように「正しいとされること」が守られること、または
促進されることに熱心な人々に「相談」してみれば、誰でもがすぐに
気づくことだろう。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/07(水) 18:53:09.56 ID:iSZALJ1i.net
南沙織が早く強く捕まえに来てと歌う
南沙織は十七歳の時、この歌を唄った
そろそろ七十歳
ちょうど十と七がひっくり返るときに、こう想うだろう
七十の婆さんに言われてもなぁ
七才ならこう思うだろう
こっちが捕まっちまうわ

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
【虫歯】
虫歯が痛いんだが
これが痛い時と痛くなくなる時がある
ほっとくと、穴が拡がって痛みも増す
怠けていると拡がっていく一方だ
カレンダー行くと決めた日に印を付けてみた
その日になって行ってみたが、歯医者が休みだった
神様どうして今日が休みなんでしょうか?
多分、明日に行けということなんですね
今日はわたしも休みです。
なまけものにしては、ちゃんと行こうとしたご褒美でしょう
明日はきっといい日になりますように。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
南 沙織
出生名 内間 明美
別名 シンシア(Cynthia 英語名)・ポーリー(Paule フィリピン人義父の姓)
生誕 1954年7月2日(68歳)
出身地 日本の旗 日本、沖縄県宜野湾市
学歴 上智大学卒業
ジャンル 歌謡曲、J-POP
職業 元歌手、元アイドル
活動期間 1971年 - 1978年
1991年 - 1997年
                  Wiki引用

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/08(木) 10:58:23.14 ID:fnLlfxbi.net
ないものがあるなら、そのあるものがない。
If there is something that is missing, that something is not there.
ないものはないとしても、必ずしも、ありとあらゆるものがあるわけではない。
Even when there is nothing that is missing, that does not necessarily
mean that any and every thing is there.

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/08(木) 11:08:56.10 ID:fnLlfxbi.net
満ちたりてあるとは、どのようなことか。

>※夫木(1310頃)三〇「島のほかも波をさまれるあきつくにに道ある君の恵みをぞ知る〈藤原為相〉」
出典 精選版 日本国語大辞典

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/08(木) 11:38:05.89 ID:fnLlfxbi.net
>「〜『が』ある」の「が」は、"self"を指すように解釈された「我(が)」の
流用であり、発話遂行的な同一性の確立のために用いられている。

「そんなことは見たことも聞いたこともない。いったい誰がそんなことを
言っているのか。」という反応は有り得るだろう。私自身、自分の書込み
以外で誰かがそのようなことを書いているのを見たことがない(他の人が
未だかつて同様の主張をしたことがないかどうかは知らない)。しかし、
これは、例えば、現代のポルトガル語の"mesmo"という表現の用法
(wordreference.comで"mesmo"の様々な用法にどのような英語の
表現が対応しているかを確認してみるといい)、およびそのラテン語
における語源解釈
>from a previous *metipsissīmus, derived from Latin -met
(emphatic suffix) + ipse (“himself”) + -issimus (superlative suffix)
(出典 Wiktionary)
を日本語の「が(我)」の相手(あひ・て)として見れば、自身に右手がある
ことが「たしか」であると実感される場合のように、その「ただ(正)し」さ
を誰でも「たしかめ」ることができるのではないかと私には思える。

無論、それでも、「ポルトガル語の表現(相手の手)と日本語の表現(自分の
手)と何の関係があるのか。両親か祖父母が同じだとでも言うつもりか」
と、すぐにいきり立つ人々は大勢いる。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/08(木) 11:46:03.98 ID:fnLlfxbi.net
>>166
誤:その「ただ(正)し」さ不確か
正:その「ただ(正)し」さが不確か

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/08(木) 12:10:35.81 ID:fnLlfxbi.net
>>167
たしかに、「(ロープなどに)つか(摑)まる」と「(罠などに)つか(捕)まる」は、
互いに反転した関係にあるね。魅力的な異性をつかまえようとして、
それがうまくいったと思ったら、実際につかまったのは自分の方で
あることに気づいたというのも、昔からよくあるテーマだろう。
また、絶望的な状況に置かれて、「一縷の望み」として何か
(人物、宗教、治療法など)にしがみつくようにつかまる場合も、
第三者から見れば、つかまっているのは本人の方だということがよくある。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/08(木) 12:20:17.88 ID:fnLlfxbi.net
「中動態」についての議論に私があまり関心がないのは、それが、
このような反転可能性から目を逸らすように行われるなら、むしろ、
ものごとをよく「かむか(考)へ」ることの妨げとなるからである。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/08(木) 12:32:55.35 ID:fnLlfxbi.net
>>172
俄(Middle Chinese: /ŋɑ/)
suddenly; (very) soon; presently
俄(が/にはか)
(出典 Wiktionary)

英語 ー ポルトガル語
just (a short time before) agora mesmo
(出典 wordreference.com)

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/08(木) 12:41:43.93 ID:fnLlfxbi.net
agora mesmo - Translation into English - examples Portuguese

Ótimo, preciso vender algo agora mesmo.
That sounds great. I need to sell something right away.
(出典 context.reverso.net)

178 :What have I done to deserve this?:2022/09/10(土) 09:04:49.34 ID:zzkls2h9.net
現代思想における贈与と交換についての堂々巡りも、キアスム的な
反転可能性よりも先に贈与または交換という行為の主体を前提と
してしまうことに起因していると言っても過言ではないだろう。
この場合も、日本語でかむか(考)へるなら容易に抜けれるはずの、
西洋の思想言語のわだち(轍)にわざわざはまってみせることが
なら(慣/習)はしとなっている。そのことに気づくには、次の
日本語の表現を考えてみるといい。

>「あたふ」ことが「う(受/享/承)け」ることに「あたふ」

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/10(土) 09:23:05.68 ID:zzkls2h9.net
「『あたふ』ことが『うけ』ることに『あたふ』」なら、
「『あたふ』ことが『うけ』ることは『等価』だから、
それは『交換』であって、『贈与』ではない。真の『贈与』とは?」と
いった類の下らない言説を延々と繰り返しているのが、現代思想における
贈与と交換についての議論の主流だろう。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/10(土) 09:26:35.60 ID:zzkls2h9.net
誤:抜けれるはずの
正:抜けられるはずの

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/10(土) 09:35:29.79 ID:zzkls2h9.net
>>157
>»Alles, was der Mensch zu leisten unternimmt, es werde nun
durch Tat oder Wort oder sonst hervorgebracht, muß aus sämtlichen
vereinigten Kräften entspringen; alles Vereinzelte ist verwerflich.«
Eine herrliche Maxime! aber schwer zu befolgen. Von Leben und Kunst
mag sie freilich gelten; bei jeder Überlieferung durchs Wort hingegen,
die nicht gerade poetisch ist, findet sich eine große Schwierigkeit:
denn das Wort muß sich ablösen, es muß sich vereinzeln,
um etwas zu sagen, zu bedeuten. Der Mensch, indem er spricht,
muß für den Augenblick einseitig werden; es gibt keine Mitteilung,
keine Lehre ohne Sonderung.

Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 10,
Hamburg 1948 ff, S. 503-556.

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/10(土) 10:49:05.27 ID:zzkls2h9.net
>>179
>「『あたふ』ことが『うけ』ることは『等価』だから、
それは『交換』であって、『贈与』ではない。真の『贈与』とは?」<

この理路では、「『うけ』るにまったく『あたふ』ことをしたわけ
でもないのに『あたへ」られているものごとこそが『真の贈与』」で
あるということになり、その「真の贈与」の代表が「生きている」こと、
またそれを物象化した「生」であるという言説が導き出される。
これにより、「どのようにか『あたふ』からこそ、どのように
であれ『あたふ』ように生きている」のではなく、「生」は、何の
引き換えもなしに、つまり、「無償の愛」/"charity"により、生きる
もの、即ち、「生を『うけ』た」ものすべてに「あたへ」られている
ということになる。さらに、その「無償の愛」/"charity"を「あたへ」
る「主体」が「主」であるとされる。これが、そのまま統治の
イデオロギーとして機能することを見てとることは容易だろう。

183 :自律的に生きるとは:2022/09/10(土) 11:02:56.85 ID:zzkls2h9.net
どのようにであれ、みづから(身づ柄/自ら)が「あた(能/与/価/当)ふ」ように
生きて/いのちを「う(受/享/承)け」て「い(居)る」ことを「しる(知/領)る」。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/10(土) 17:33:40.23 ID:zzkls2h9.net
誤:「い(居)る」
正:「ゐ(居)る」

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/10(土) 18:41:21.23 ID:zzkls2h9.net
>>182
誤:「『あたふ』ことが『うけ』ることは『等価』だから
正:「『あたふ』ことが『うけ』ることとは『等価』だから

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/10(土) 18:46:32.54 ID:zzkls2h9.net
それにしても、なぜこれほどまで頻繁にブラウザがフリーズと強制終了を
繰り返すのか?世の中いろいろわけの分からないことが多すぎる。

187 :存在の手応へ(作用/反作用):[ここ壊れてます] .net
あひ(相)て(手)があら(顕/現)はれるのは、「あたふ」ことに「うけ」ることが
「たしか」に「あたふ」ことによってであり、そのことに先立ってあひ(相)て(手)
が「あらかじめ」そこにある/ゐるわけではない。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
「あらかじ(豫⇔予象)め」

189 :たは(/あ)ひないたはごと:2022/09/11(日) 11:54:34.02 ID:YIApiWt7.net
>「あたふ」ことが「う(受/享/承)け」ることに「あたふ」

「一瞥をあた(与)ふ」、「一顧だにあたひ(値)しない」とはどのようなことか。
「あたふ」ことが「うけ」ることに「あたひ」するかどうかを考えて
みるには、例えば、ドイツ語の表現における»gelten«、»gelten lassen«、
および»Das Geld«との対比で考えてみることが役に立つだろう。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/11(日) 12:19:26.42 ID:YIApiWt7.net
誤:»Das Geld«
正:»das Geld«

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 07:43:58.08 ID:UkbjeM5y.net
【das Geld】
ゲルトはお金、だからお金出すでOK
レジで出すのはカードかお金
女はお金、男は体
狙った獲物が食い違う
互いにそれが愛だと勘違い
カネの切れ目が縁の切れ目
なぜか円と縁は同じ読み
愛は勘違い
みんな刷り込まれた習性だとは気付いていない
そうして皆はあれやこれやジタバタしたあげくに死んでいく
あーつまらない
これが原罪というものか

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 07:58:32.88 ID:UkbjeM5y.net
【gelten】
ゲルテンはgaltenすなわちエデンの園を暗示しているのだろう
エデンの園はユーフラテス河の畔にあった
今はどこにあるのか?
どこにもない、どこにもある
イエスは言った。
神の国はあなた方のただなかにあると
イエスは葡萄の木、彼を通してのみ救いと真理はやってくる
イエスは真なる葡萄の木である命の木
イエスに繋がっている枝は枯れない
だから永遠に生きる

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
【イエスは詩人なのか】
イエスの言葉は詩のような美しさがある。
だが、詩人は嘘つきだが、イエスはそうではない。

イエスは人々にこのように話しかけるのだ
「心の貧しい人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
  その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
  その人たちは地を受け継ぐ。
 義に餓え渇く人々は、幸いである、
  その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
  その人たちは憐みを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
  その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
  その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。」

194 :負け犬のオーボエ:2022/09/12(月) 08:48:33.88 ID:hfI82gyZ.net
試練を「あた(与)ふ」。
「う(受)け」た試練に「あた(能/価)ふ」なら、
試験に「う(受)か」る。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 09:01:34.00 ID:hfI82gyZ.net
>>179
誤:『あたふ』ことが『うけ』ることは『等価』だから
正:『あたふ』ことが『うけ』ることと『等価』だから

最初の誤記を>>182でそのまま引用して、それをいいかげんに
訂正したので、ボタンの掛け違いのようになおさら分かりにくくなった
ので、元に戻って訂正。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 09:16:58.86 ID:UkbjeM5y.net
【試練】
悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない。
木は、それぞれ、その結ぶ木によって分かる。
とイエスは言う。
ペテロに対して「あなたでさえ、私を三度知らないと言うだろう」
その通りになって、ペテロは激しく泣いた。
そして立ち直り、その死により神の栄光を示した。
かつてイエスはペテロに言った「そうではなく、七十七回まで許しなさい」
ペテロは実を結んで、その罪が許されたのだ。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 09:36:24.91 ID:UkbjeM5y.net
【等価】
質量はエネルギーと等価である。
相対性理論で導かれる結論。
E=mc^2
神は真空の揺らぎから宇宙を創造されたのだろう。
神は言われた。
光あれ!
そのようになった。神は光を良いとされた。
イエスは言われた。
わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、
わたしは光として世に来た。
イエスは光のイメージで語られた。
Cは光の速さ。
光と質量とエネルギーの不思議な関係。
物理学者は言う「神なんていないよ」

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 11:51:06.99 ID:hfI82gyZ.net
>>194
「あたふ」とはまずなによりも、「う(受)く」に「あたふ」ことである。

このことから、「『う(受)』く」の「う」は、「う(浮)く」の場合も
そうであるように、「膚/肤」のような「界面」を表現している。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 12:14:29.48 ID:UkbjeM5y.net
【とはまずなによりも】
とは、まず、何よりも
句読点がないと、「なまずよりも」と読み間違いやすい。
なまずよりもうなぎのほうがたぶんうまいだろう

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 17:16:05.69 ID:hfI82gyZ.net
確かにそうかもしれないが、落書きなので、自分が読むときにも
分かりにくくなるのでなければ、それほど気にしていない。

ところで、『坂部恵集』を図書館で借りてきてページをめくってみた。
私にも関心のありそうな主題を扱ってはいるのだが、どうも、
私には、この人の論述は、日本語について思想哲学的なことを
日本語で書いているが、それを西洋の思想哲学の枠組みでやっている
ようにしか感じられない。そのことは、この人の日本語についての
論述が、新仮名遣いでも完全に可能であり、旧仮名遣いを用いる
必要性に迫られていないことにはっきりと表れていると私には
思える。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 17:19:19.59 ID:hfI82gyZ.net
ところが、日常的な言語表現の手法だけに注目してみれば、日本語でも
旧仮名遣いを用いた方がむしろ、西洋の主要な言語における表現との
対応関係も、より明確に意識されるのである。

202 :勘違ひ:2022/09/12(月) 17:46:32.82 ID:hfI82gyZ.net
まったく無関係のことを、唐突に言はせてもらうが、
その結果が人為によってはっきりと左右されることについて、
それが私にとって有利に働こうと、不利に働こうと、
そんなことに恐れ入ってみせる趣味は、私にはないのだ

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 18:07:12.22 ID:UkbjeM5y.net
【木は、それぞれ、その結ぶ木によって分かる。】
正しくは「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」
木によって分かるのは神のみである。
神はその人物が誰であるかを知っておられる。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
【趣味】
趣味は主義に置き換えられる。
または関心。
前者は思考に、後者は感情による。
趣味は自由に選んでよいが、真理は選択によらず、必然の法則なのだ。
イエスは言う
「わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに
何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

205 :絵空事:[ここ壊れてます] .net
「そら(空)」を見上げることができる。
飛行機に乗れば、「そら(空)」から地上を見下ろすこともできる。
「そら(空)」を絵に描くこともできるだろう。
では、「そら(空)」はどこに「ある」のか。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 10:15:10.36 ID:4mn3IvkK.net
ルーフウインドウという名のガラスの天井

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 13:07:56.47 ID:4mn3IvkK.net
>>189
»Vergeltung«≒「『あだ』うち」である。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 22:14:54.21 ID:ieCGIuIi.net
いのちをうけるのにあたふようにからだをそなへてゐるのがいきることである

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 22:38:52.50 ID:ieCGIuIi.net
日本語の「ひと(人/一)」が中国語としては「匹(Middle Chinese: /pʰiɪt̚/)」
として使われることになった表現を流用したものであることは、既に
繰り返ししてきた。また、それに関連して、「ぴたり/ぴったり」という
表現も同じ語源であることも指摘した。ところで、ここでさらにもっと
より明確に意識されてよいことは、「匹(Middle Chinese: /pʰiɪt̚/)」と
いう表現が、英語の"to fit"ともよく似ていることである。


to match; to be equal
match; equal; opponent
(出典 Wiktionary)

fit (adj.)
"suited to the circumstances, proper," mid-15c., of unknown origin,
perhaps from Middle English noun fit "an adversary of equal power"
(mid-13c.)[,...]
(出典 Online Etymology Dictionary)

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 23:02:36.06 ID:ieCGIuIi.net
>いのちをうけるのにあたふようにからだをそなへてゐるのがいきることである

このように表現すると、私が言葉遊びによって「あたふ」といふ表現に奇妙に
こだわっているように思えるかもしれないが、それにははっきりとした理由が
ある。それは、生物学の記述を含め、通常の生きることについての言説に
おいて用いられる「適応」/"adaptation"という表現の用法が、私には好ましく
感じられないことである。どう好ましく感じられないのかといえば、それは、
「適応」/"adaptation"は、所与の環境に対するものとして捉えられ(例えば、
そのことは、この表現がドイツ語では、»Anpassung«と訳されることにも
反映されている)、方向性があらかじめ限定されてしまうことである。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 23:19:57.09 ID:ieCGIuIi.net
ここで私が問題にしているのは、なにか思想/倫理的なことではなく、
記述としての適切さである。生きることは、「所与」/"a given"とされる
環境に適応することであるという見方からもたらされるのが、
環境に対する「適応」/「不適応」という判断だろう。しかし、では、
その環境が「所与」/"a given"、すなわち、つねにすでに「あたへ」ら
れているという見方は、どこから出てくるのか。むしろ、
「生きて『ゐ』る」という事実は、それ自体が「あたふ」こと、すなわち、
「適合」/《adéquation》ではないのか。

adequate (adj.)
1610s, "equal to what is needed or desired, sufficient," from
Latin adaequatus "equalized," past participle of adaequare
"to make equal to, to level with," from ad "to" (see ad-) + aequare
"make level," from aequus "equal, even" (see equal (adj.)).
The sense is of being "equal to what is required."
(出典 Online Etymology Dictionary)

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 23:33:37.57 ID:ieCGIuIi.net
日本語で「数ならぬ身」という表現は、「『みづから(身づ柄/自ら)』が
『(〜に)あたは」ない』」感覚を伝へようとするものである。

「あたふ」の名詞化の「あたひ(値/価)」が数えることと結びついている
ことは言うまでもないが、日本語の「あたふ」という表現が、私には、
とても便利に感じられるのは、それが、進化論における生命のあり方
から、思想哲学における生命論(例えば、ニーチェの「力への意志」)、
政治経済思想・哲学における贈与論/交換論まで、無理なく共通した
言葉の用法で忠実な記述を可能にするように思えるからである。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/14(水) 07:11:25.89 ID:4M0wpwaQ.net
いのちをうけるのにあたふようにからだをそなへてゐるなら、かぞふにあたひする

214 :Aushalten(Nachhaltigkeit des Inhalts):2022/09/14(水) 08:24:34.60 ID:4M0wpwaQ.net
oder 《la soutenable gravité d'un être》

「う(受)く」に「あたふ」ことにおいて「うち(内)」が「あら(顕/現)は」れる。

古語において「うち(内)」ともともと対比させられていた表現は、
(岩波古語辞典によれば)「おもて(表)」ではなく、「うへ(上)」である。

215 :The Unbearable Lightness of Being:2022/09/14(水) 08:47:37.18 ID:4M0wpwaQ.net
>いのちをうけるのにあたふようにからだをそなへてゐるなら、かぞふにあたひする

「かぞふにあたひしないもの」、つまり、「かず(数)ならぬもの」の喩えとして
よく用いられるのが「すな(砂)」であるが、「すな(砂)」は、しっかりと握って
いようとしても手をすり抜けて流れ出し、風に飛ばされてしまう。

逆に、「いのちをうけるのにあたふもの」として「うち(内)」が「あら(顕/現)は」
れてくるようにする作用が、「う(生/産む)む」/"to bear"と表現される。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/14(水) 09:07:27.26 ID:4M0wpwaQ.net
専門家は、「言葉遊び」をきら(嫌)ふ。では、何が「言葉遊び」なのか。
それは、「しかじか」であることが如実に伝はらない言葉を、
「し(知/領)られる」(»sich zeigen«)こととは無関係にもてあそぶことだろう。

>何かが「た・しか」("manifest"/»handfest«)にあることの「ただ(正)し」さは、
その何かが「しか(然/如)じか(々)」であることが「たが(互)ひ/た(手)か(交)ひ」に
「た・しか」につた(伝)はることにより「し(知/領)られる」(»sich zeigen«)
ことになる。<

したがって、「言葉遊び」を批判するのであれば、実際にやってみせる/
やらせてみることによって、つまり「手ほどき」によって相手にどのように
することが「よい」のかを「伝へる」か、それができないのであれば、
やはり、「言葉遊び」とは感じられない、「しかじか」であることが
如実に伝はる、代わりとなる言語表現を提案するのでなければ、その
批判は、生産的であるとは言えないだろう。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/14(水) 09:17:37.22 ID:4M0wpwaQ.net
>>214
誤:Nachhaltigkeit des Inhalts
正:die Nachhaltigkeit des Inhalts

ここはきちんと定冠詞をつけといた方がよさそうですね。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/14(水) 09:23:47.73 ID:4M0wpwaQ.net
専門家がよく「し(知/領)って」いるのだから、自分が「し(知/領)ら」ない
ことについては、すべて専門家に「まかせ」ておけばよいのだという態度
を他人に強要することほど無責任なことはないだろう。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/14(水) 11:40:28.87 ID:4M0wpwaQ.net
誤:古語において「うち(内)」ともともと対比させられていた表現は、
(岩波古語辞典によれば)「おもて(表)」ではなく、「うへ(上)」である。

これは誤りであったので取り消しておく。現代語の「おもて(表)」に
対応するように用いられた「うへ(上)」と対比されたのは、
岩波古語辞典によれば、「うち(内)」ではなく、「うら(裏)」である。
ただし、「うち(内)」に、表面を意味するように用いられた
「うへ(上)」を対比させることも、捉え方としてはそれほど間違った
ものではないだろうと私は思っている。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/15(木) 13:11:54.49 ID:d4E2eaxe.net
誤:「う(生/産む)む」 正:「う(生/産)む」

>「う(受)く」に「あたふ」ことにおいて「うち(内)」が「あら(顕/現)は」れる。

要素還元主義の奇妙さというのは、次のようなことだろう。

う(受)くにあたふ」ことにおいて「うち(内)」があら(顕/現)はれ、
その「うち(内)」を分けたものが「内訳(うちわけ)」であるはずなのに、
「うち(内)」全体が「内訳(うちわけ)」から構成されているので、
「うち(内)」をそな(具)へた、つまり、内容を有するいかなる存在に
ついても、その全体は、部分要素として「内訳(うちわけ)」から成り、
その「内訳(うちわけ)」の方が全体に先立ってあるはずだ、とする
倒錯した物事の見方。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/15(木) 16:50:52.67 ID:d4E2eaxe.net
誤:う(受)くにあたふ」ことに
正:う(受)くにあたふことに

222 :Ich bin fassunglos!:2022/09/16(金) 00:46:15.08 ID:vN7QzNXm.net
>「う(受)く」に「あたふ」ことにおいて「うち(内)」が「あら(顕/現)は」れる。

このように指摘するとき、私は、何か独特の思想のようなものを表明している
つもりはまったくない。例えば、ここで逆に、「う(受)く」に「あたはない」とは、
どのような事態なのかを考えてみるといい。

>fassungslos
Bedeutungen:
aus dem inneren Gleichgewicht gebracht
(出典 Wiktionary) (「うち」と「そと」の関係に留意しよう) 

>Traductions de „fassungslos“ dans le dictionnaire allemand » français
fassungslos ⇔ décontenancé(e)  (出典 fr.pons.com)

>décontenancer
Troubler quelqu’un en lui faisant perdre contenance. 
>contenance
Capacité ou étendue superficielle.  (出典 Wiktionnaire)

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/16(金) 00:53:59.85 ID:vN7QzNXm.net
>Verfassung
Etymology
From Middle High German vervaʒʒunge, by surface analysis, verfassen +&#8206; -ung.
Noun
constitution
condition, state
(government, law) constitution
writing, composition, drafting

>fassen
Verb
to gird, to surround, to confine into a form
to grasp, to catch
Synonyms: greifen, packen
to seize, to capture
Synonym: ergreifen
(reflexive) to compose oneself (to calm, to free from agitation)
Synonym: beruhigen
(intransitive, usually negative) to accept, to believe (a misfortune)
(上記すべて出典 Wiktionary)

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/16(金) 01:02:37.06 ID:vN7QzNXm.net
>constitute (v.)
mid-15c., "to enter into the formation of as a necessary part,"
from Latin constitutus (出典 Online Etymology Dictionary)

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/16(金) 07:05:06.38 ID:qx4ffNPQ.net
「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)は」なければ、「うち(内)」はなく、
したがって、互酬性/"reciprocity"も成立し得ない。

私にとても奇妙に思えるのは、これほど自明で、上に例を挙げた西洋の日常言語
における言語表現にもはっきりと示され見てとれることを、ここにおける
私の落書きの以外のどこにも書かれているのを目にしたことがなく(別に
どこにも存在しないとは言っていない)、誰もメタ言語的に明示的に指摘して
いるようには見えないことだ。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/16(金) 10:21:42.26 ID:qx4ffNPQ.net
贈与を互酬性/"reciprocity"から切り離して、「純粋贈与」を
交換とは無縁のものとし、「無償で与えられるものごと」
とそれに対する「お陰様」という「感謝」/《reconnaissance》/
"gratitude/gratefulness"との関係として捉えなおさせることは、
一見、「無限の愛の尊さ」を説くように見えながら、それが、
「あたふ」ことの方向性をあらかじ(豫)め不可逆的なものに
(すなわち、「あたふ」から「あたへられた」に)変えてしまう
ことにおいて、私には、イデオロギー的に極めて文字通り「陰湿」な
ものに見える。また、事実、「無限の愛の尊さ」を道徳として
諭す言説が、歴史上、繰返し、政治経済的に好都合なイデオロギー
として「陰湿」につか(使/仕)はれてきたことにも疑いの余地は
ないだろうと私は思う。

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/16(金) 11:47:20.70 ID:qx4ffNPQ.net
>>222
誤:Ich bin fassunglos!
正:Ich bin fassungslos!

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/16(金) 13:33:56.78 ID:qx4ffNPQ.net
英語にも、「『う(受/享/承)く』に『あた(能/与/価/当)は』ない」ことに
そのまま対応する表現がある。その英語の表現は、「『う(受/享/承)く』に
『あた(能/与/価/当)は』ない」ことが、「"capacity"を超える」ことに
相当することを理解したなら、すぐに思い浮かぶ。
それは、"be in over one’s head"である。

>In over one’s head is a phrase that is understood to have
originated with the idea of literally being in water that is too deep,
first seen as an English phrase in the 1600s.

Examples
“You should have recognized you were in over your head …
you should have reached out for help.” (The Journal Times)<
(出典 grammarist.com)

>in over one's head, to be
To be swamped (with debts, work, responsibilities, and so forth).<
(出典 idioms.thefreedictionary.com)

229 :「しほみつたま」としての事務処理の洪水:2022/09/16(金) 13:49:42.55 ID:qx4ffNPQ.net
>「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)は」なければ、「うち(内)」はなく、
したがって、互酬性/"reciprocity"も成立し得ない。<

このことから、相手が「領域」/"domain"の「うち(内)」において
「主(あるじ/ぬし)」として振る舞ふようになることを未然に防ごうとする
なら、相手が常に「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)はない」
("capacity"を超えた)状態におかれているように保つのが重要である
ことが分かる。

>かれそれより後、いよよ貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め來(く)。
攻めむとする時は、鹽盈つ珠を出して溺らし、それ愁へまをせば、
鹽乾る珠を出して救ひ、かく惚苦(たしな)めたまひし時に、[...]
(出典 古事記/上卷)

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/16(金) 13:56:12.62 ID:qx4ffNPQ.net
このようにきちんと読めば、『古事記』の神話的な記述も、単なる
「お話」などではなく、現代社会でも十分に通用する「知恵」を伝へて
いることを見てとることができるだろう。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/16(金) 19:32:36.89 ID:qx4ffNPQ.net
"be in over one’s head"という表現は、
>To be swamped (with debts, work, responsibilities, and so forth).
という説明からも分かるとおり、"debts, work, responsibilities,
and so forth"をう(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふ「うち(内)」で
ある"one's own capacity"が既にあら(顕/現)はれていることを前提としている。
にもかかわらず、なぜ私にこの表現が面白く感じられるのかと言えば、
それは、この表現が「うち(内)」/"in"が反転する感覚を「みづから
(身づ柄/自ら)」のものとしてうまく伝へているからである。
どのような反転かと言えば、それは、"one's own capacity"が
「みづから(身づ柄/自ら)」の「うち(内)」としてあら(顕/現)はれる
のに対して、その"capacity"を超えたとたん、「うち(内)」に入って
いる/"in over one's head"は、「みづから(身づ柄/自ら)」の方で
あることになり、そのことによって、「みづから(身づ柄/自ら)」に
あったはずの「うち(内)」/"capacity"が見失われるという関係である。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 00:07:04.59 ID:L4zgzAtg.net
「うち(内)」に入っているの/"in over one's head"であるのは、

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 07:49:22.52 ID:ENsFC1wB.net
最後の晩餐を「主(あるじ)す」るのは誰か

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 08:57:18.05 ID:ENsFC1wB.net
主婦("prima donna"「あたふ」立場)から
専業主婦/"house wife"(「あたへ」られた立場)へ

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 09:01:31.33 ID:ENsFC1wB.net
madam
c. 1300, formal term of address to a lady (a woman of rank or authority,
or the mistress of a household), from Old French ma dame, literally
"my lady," from Latin mea domina (see Donna, and compare madonna).
(出典 Online Etymology Dictionary)

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 09:23:35.11 ID:ENsFC1wB.net
「専業・主婦」、「主婦・業」という表現の生成は、語誌的にどのような
「ブリコラージュ」なのか

精選版 日本国語大辞典「主婦」の解説
しゅ‐ふ【主婦】
〘名〙 一家の主人の妻。また、一家の主人である女性。女主人。
[語誌](1)明治時代には、中流家庭あるいは商家や下宿で、家政の采配を
振るう立場にある女性をいった。この場合、必ずしも自身が家事労働に
携わるわけではなかった。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 09:36:51.98 ID:ENsFC1wB.net
マイノリティ、ポストコロニアル、ジェンダーと生業(なりはひ)と世帯形成
について具体的に考察するのに、文学ばかりでなく、具体的な社会調査の
研究を読んでみるのも悪くないだろう。例えば、現在の日本でもその
出身者の子孫が少なからず暮らしているであろうマイノリティを扱った
実地調査の研究として泉靖一の『済州島』はなかなか面白い(ただし、
明らかに奇妙な明言されない外的な制約が課せられていることも感じられ、
そのこと自体、「ポストコロニアル」の状況と深く関連しているだろう)。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 10:42:28.46 ID:ENsFC1wB.net
>>231
"be in over one’s head"に対応するものとして日本語には、「あっぷあっぷ」
という表現がある。ただし、「あっぷあっぷ」は、"be in over one’s head"
とは異なり他人の状況を形容する表現としては、あまり用ひられることがない。

あっぷあっぷ
精選版 日本国語大辞典「あっぷあっぷ」の解説
〘副〙 水に溺れて苦しむさまを表わす語。あぶあぶ。転じて、
困難に苦しむさまにもいう。
※滑稽本・旧観帖(1805‐09)三「ばばはさかさに川へ釣(つる)され、
頭(かしら)は水中に入て水をくらひ、あっぷあっぷとするを」

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 13:05:12.34 ID:ENsFC1wB.net
>>234-236
現代の日本語において「主夫」という表現が、"house husband"を意味する
ように用いられ得ることは、言語表現の進化のプロセスを示す好例である。
「主夫」という言葉だけを孤立させてみれば、その構成要素からは、
ドイツ語の»Hauptmann«に対応している。
>ハウプトマン(Hauptmann, Hauptman)は、ドイツ語圏の姓。
英語のキャプテンとおおよそ同義で、原義ではハウプトが「頭」「主な」、
マンが「人」をそれぞれ意味する。< (出典 Wikipedia)

したがって、「主夫」が"house husband"を意味するというのは、
この言葉を単独で解釈しようとしたのでは、いかにも奇妙なことに見える。
それでも、日本語を母語とする人々がこの言葉を難なく"house husband"を
意味するように理解できることは、「主夫」が、「専業主婦」の省略形
であるものと理解されるようになった「主婦」に対応した表現である
ものとすぐに認識されるからである。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 13:12:29.40 ID:ENsFC1wB.net
ところが、"house wife"を意味するように用いられるようになった
「専業主婦」の省略形である「主婦」そのものが、もともとは、
"house wife"にではなく、"Madam"に対応する表現であり、
それが、"house wife"を意味するようになったのは、職業を尋ねる
質問に対する答えとして用意された「主婦」が、「主婦・業」
と解釈されて、そこから、「『主婦・業』を専門とする者」としての
「専業主婦」という表現が生成されたためだ。さらに、この
「専業主婦」が省略されて"house wife"という意味で用いられる
「主婦」という言葉の用法がもたらされ、「主夫」という表現が
これと対を成すものとして認識される。これが、"house husband"
を意味する「主夫」という表現の生成のプロセスである。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 14:38:53.67 ID:ENsFC1wB.net
逆に見れば、時代が変わって、文献などに特定の表現が孤立して残り、
その表現の意味の解釈が困難になるのは、このような意味生成の
プロセスが見失われるからである。したがって、妥当な意味解釈
を追求するなら、できる限り多くの用例を見出して、可能な意味
生成のプロセスを推測することになる。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 15:43:23.35 ID:ENsFC1wB.net
>>240
また、このような意味生成プロセスが「畳み込まれた」/"collapsed"ものが、
通常、「なら(慣)はし」または「習慣」と呼ばれることも分かるだろう。
「なら(慣)はし」を身に付けているには、それを「展開する」、つまり、
言語表現として説明できる必要はまったくない。それを畳み込まれた状態
のまま都合よく「つか(使/仕)ふ」ことができる限り、何の支障も生じない
からである。ところで、例えば、本来、本人が自らを「主婦」/"Madam"
と称することは変であり、そのことは、「主婦」の「主」に相当する
"Madam"の「M」が「主」に対するみづから(身づ柄/自ら)である「僕」
を指し示し、「主婦」/"Madam"が敬称であることからも分かる。
したがって、それが明示的に、つまり「展開されて」意識されないと
しても、「なら(慣)はし」/「習慣」には、相互性が畳み込まれている
のである。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/17(土) 16:25:36.43 ID:ENsFC1wB.net
誤:「M」が
正:「Ma」が

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
「互酬性」/"reciprocity"は、たが(互/手交)ひのあつか(扱)ひ/もてなし
において「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふ」ことを示そうとする
(「し(知/領)らす」/»sich zeigen«)「駆け引き」として機能する。
このことは、「無償の贈与」が「めぐ(恵/巡)まれる」ものとされる
「喜捨」/"charity"の場合であろうと、「駆け引き」の結果として
「たが(互/手交)ひの均衡」がもたらされるものとする前提が先取り
される「商取引」の場合であろうと、同じことである。

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 10:12:50.63 ID:i4HF8h+9.net
ジェンダーに関する「常套句」として最近は耳にすることが少なくなったが、
「包容力のある男性」というのは、そのような評価基準によって評価される
「男性」の側から見れば、「権力を握った男性/権力の手先として働く男性」
と同義である。なぜなら、この場合の「包容力」も「う(受/享/承)くに
あた(能/与/価/当)ふ」ことを示す(「し(知/領)らす」/»sich zeigen«)
ことのでる"capacity"のことであり、統治の仕組みから見れば、
「権力を握った男性/権力の手先として働く男性」以外は、そのような
「包容力」/"capacity"を示す(「し(知/領)らす」/»sich zeigen«)
ことができない状態に保つこと、すなわち、絶えず繰り返し
"be in over one's head"/「あっぷあっぷ」の状態に保つことが
必要とされるので、「包容力のある男性」は、原理的に
「権力を握った男性/権力の手先として働く男性」以外ではあり得ない
からである。これは、「包容力のある男性」に表向きの社会的な、
つまり、制度上の地位があるか否かとは関係ない。なぜなら、
統治の仕組みでは、表向きの制度的な地位に縛られない方が、
他人を誘導するのに好都合である場合の方が多いからである。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 10:41:37.46 ID:i4HF8h+9.net
誤:ことのでる"capacity"
正:ことのできる"capacity"

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 13:27:29.53 ID:i4HF8h+9.net
統治は、「こ(請)ひねが(願)ふ」("please/pray, 〜")必要があるように
しむ(仕向)けることによってその方向性を確立しているのだから、
「自己満足」/"complacency"をもたらす自足が生じるのを
きら(嫌)ふのは当然のことである。

248 :C'est bidon!:2022/09/19(月) 11:05:57.27 ID:HVJeReV6.net
>「う(受)く」に「あたふ」ことにおいて「うち(内)」が「あら(顕/現)は」れる。

「うち(内)」を具体性のある場所と見るなら、(うち(内/家))とは、
「う(受)く」に「あたふ」ことの物象化であると言うこともできる。
だから、試験に「う(受)かる」ことによって入学したり、入社したりする。
そのような場所に部外者が立ち入る場合にも、「う(受)け(つ)付け」を通る。
しかし、入学試験や入社試験に「う(受)かった」場合でも、学校や会社が
経営破綻しており、「う(受)く」に「あたは」ないなら、実際に
入学手続きや、入社手続きをしてみたところで、そこに入ることのできる
「うち(内)」はもはやない。結婚をしてみたところで、共同で入居する
「うち(家)」がいつまでも見つからなければ、「どこでもあなたの
いるところが私の『うち(家)』だ」と恋愛ドラマのようなセリフを
言ってみたところで、現実にはなかなか厳しいものがあるだろう。

>well I never had a place
that I could call my very own
but that's all right my love
'cause you're my home.<
Billy Joel - You Are My Home

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/19(月) 11:33:40.06 ID:HVJeReV6.net
私は、なにについて議論するにしても、このような地点まで立ち戻って
互いの理解を確かめることから始めようとする。それは、私は、
そうすることこそが哲学的に考え直すための要件であると思っているからだ。
しかし、このような理解の確認を求めると、それだけで激怒する人々が、
学問の世界にも少なからずいる。しかも、それらの人々は、
私が求めている確認とは、まったく逆の主張を私がしようとしている、
または、現実とは異なることを「事実」として認めるように求めている
という、私にはなかなか意味不明な非難を激しくぶつけてきて、
反省を迫るのである。そこで、私は大抵の場合、なにをどう反省
したらよいのか戸惑うのだが、その戸惑いが「反省する姿勢の欠如」
と映って、怒りの火に油を注ぐことになるらしい。別に、私には
意図的に炎上させようという気はさらさらないのだが。

250 :プロメーテウス:2022/09/19(月) 17:55:24.26 ID:HVJeReV6.net
人が「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)ふもの」/"δῶρον"「すべて」/"Παν"が
その「うち(内)」に入っている「うつは(器)」、それがパンドーラー/"Πανδώρα"である。

日本大百科全書(ニッポニカ)「パンドラ」の解説
>パンドラとは、「神々からすべての贈り物を与えられた女」の意とも、
「すべての神々からの人間への贈り物」の意とも解釈される。<

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/19(月) 18:34:36.03 ID:HVJeReV6.net
ミネルヴァ:
あなたの憎悪は間違ってますわ、
神々には持続と力と
叡知と愛の籤が当たったのですよ。

プロメテウス:
だが、彼らだけが
それらを独り占めにするといったものじゃない。
私だって、彼らのように持続しているんです。
われわれは皆、永遠なんだ。
私は、自分のはじまりは憶えていないが
終わりの使命だって持っちゃいない。
終わりなんて、見えるものじゃありません。
だから私は在るんです、このとおり在るんですから。

ゲーテ、『ゲーテ全集4 戯曲』、「プロメテウス」、pp.182-183

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/19(月) 19:11:29.24 ID:HVJeReV6.net
プロメテウス:
[...]
私が自ら進んで召使となり、
彼らが厳粛にものものしく、私の肩にのせた重荷を運ぶなんてことができますか。
いかな仕事であれ、彼らの命ずるままに私はやりとげたではありませんか。
それも、私がこう信じたからなんです、
彼らは過ぎ去った過去、やって来る未来を現存在の中に見出しているのだ、と。
また、彼らの指図はそもそもの始源に発した私利私欲なき叡知なのだ、と

ミネルヴァ:
あなたは、自分が自由に値する存在たらんとして、仕えたのでしたね。

ゲーテ、『ゲーテ全集4 戯曲』、「プロメテウス」、p.182

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/19(月) 19:17:20.09 ID:HVJeReV6.net
プロメテウス:
そこでおまえは心に感じるだろう、
まだおまえの知らない喜びや悲しみがいっぱいあるのだということを。

パンドラ:
ほんとうだわ!ほんとうだわ!私の胸はいつも憧れでいっぱい、
ああ何を憧れているのかしら、でもやっぱりすべてを憧れているのね。

プロメテウス:
すべてが充たされる瞬間があるのだよ、
われわれが憧れ、夢に見、願い、怖れたすべてが充たされる瞬間が。
いとしい娘よ、それが死なのだ。

ゲーテ、『ゲーテ全集4 戯曲』、「プロメテウス」、p.188

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 00:20:00.33 ID:jlnLRkdN.net
>>253
ここで、ゲーテが、プロメテウスとパンドラのセリフを借りて表現している
ことは、ゲーテという「人物と思想」を研究しなければ、それを理解するのが
難しいようなことではないだろう。

パンドラという「うつは(器)」は、いつも「憧れ」でいっぱいになって
いる。何を憧れているのかと問ふなら、それは「すべてを!」である。
つまり、パンドラという名前を踏まえるなら、その「憧れ」は、
「人が『う(受/享/承)く』に『あた(能/与/価/当)ふもの』/
"δῶρον"『すべて」/"Παν"を!」と言い換えることができるはずである。

ところで、ここで、日本語の「〜を!」の用法について、私自身が以前に
指摘したことを引用することにする。

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 00:24:24.42 ID:rUy4v2P+.net
502考える名無しさん2022/05/08(日) 00:12:22.950
>「を(終)ふ」が、「空虚」を示すように用いられる「を」を再帰表現を
形成する「〜ふ」によって「ひっくり返す」ことによって、
「満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現であるものと明確に解釈することができる<

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 00:39:08.42 ID:rUy4v2P+.net
さて、では、プロメテウスがパンドラに「をし(教)へ」る、
「われわれが憧れ、夢に見、願い、怖れたすべてが充たされる瞬間」とは、
どのようなものだろうか。これもまた、パンドラという名前を踏まえるなら、
次のように表現することができるはずである。

「人が『う(受/享/承)く』に『あた(能/与/価/当)ふもの』/"δῶρον"
『すべて』/"Παν"を『を(終)ふ』」

ここにおいて、「〜『すべて』/"Παν"を!」」という「憧れ」が
表現する「空虚」が充たされて「満腔(≒"fullness of the entirety"/
"completion")」がもたらされることになる。
「人が『う(受/享/承)く』に『あた(能/与/価/当)ふもの』/"δῶρον"
『すべて』/"Παν"を『を(終)ふ』」のだから、それが、「人が生きる
に『あたふ』ことのすべて」であるとともに、「死」が訪れる
瞬間でもあることになるだろう。

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 00:49:49.20 ID:rUy4v2P+.net
398考える名無しさん2022/04/24(日) 13:05:28.820
>>263
ところで、その序文の「初春令月 氣淑風和」からら元号「令和」が考案されたと
言われる万葉集の以下の歌における「乎倍米(をへめ)」という表現について、
私は長い間、どう解釈することが適切なのか判断がつかずにいた。

https://manyoshu-japan.com/12763/
万葉集 第5巻 815番
>武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎<岐>都々 多努之岐乎倍米[大貳紀卿]
>正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ[大貳紀卿]
>むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ

しかし、今では、>>263に示したとおり、「を(終)ふ」が、「空虚」を示す
ように用いられる「を」を再帰表現を形成する「〜ふ」によって「ひっくり返す」
ことによって、「満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現であるものと明確に解釈することができることが分かり、
この「乎倍米(をへめ)」は、やはり「終(を)へめ」と理解され、「楽しき『終へめ』」
という句は、「楽しさを『満喫しよう』」と現代語訳することが妥当であるもの
と考えている。

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 09:13:49.95 ID:ISsfnJ2/.net
>>238
同様であると「かむか(考)へ」られる状況も、それを表現するのに用いられる
言葉によって異なる捉え方がされ、選択された言語表現に応じた捉え方が
伝はることになる。

英語の"be in over one’s head"と日本語の「あっぷあっぷ」の場合も、それに
よって表現される状況は同様であると考えることができるが、それぞれ
捉え方が異なる。"be in over one’s head"は、「頭まで水に浸かっている」状況
としては、「あっぷあっぷ」が表現するものと同様であるが、それが自身
についての記述である場合でも、そのように「頭まで水に浸かっている」
みづから(身づ柄/自ら)を、云はば、「離人症」的に外から見ている捉え方
をしており、「頭まで水に浸かっている」状況は、そのように捉えられた
ものとして伝はる。これに対して、「あっぷあっぷ」の方は、
「頭まで水に浸かっている」状況で「息継ぎもままならない身体的な
苦しさ」として捉えられて、この表現を用いることによって伝はるのは、
そのような苦しさの感覚である。

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 09:30:56.87 ID:ISsfnJ2/.net
英語の"be in over one’s head"と日本語の「あっぷあっぷ」のいずれの
場合も、その「頭まで水に浸かっている」状況は、既に説明したとおり、
みづから(身づ柄/自ら)が「う(受)くにあたふ」こととしての「うち(内)」
を超えることによって生じたものであると見なすことができ、その状況
が生じることには、事象がみづから(身づ柄/自ら)の「うち(内)」に
収まっている状況から、「うち(内)」を超え出て溢れた事象の
「うち(内)」に、今度は、みづから(身づ柄/自ら)が深く入り込んで
いるという反転がともなっている。にもかかわらず、この反転の
作用そのものは、英語の"be in over one’s head"の場合にも、
日本語の「あっぷあっぷ」の場合にも、明示的に表現されている
わけではないので、そのことについて考えてみるまでは、しばしば、
完全に忘れられている。

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 10:07:10.17 ID:ISsfnJ2/.net
ところが、ここで、英語の"be in over one’s head"と日本語の「あっぷあっぷ」
に対応するものとしてフランス語の《être débordé》という表現を考えてみると、
《Je suis débordé》と表現する場合、事象が「う(受)くにあたふ『うち(内)』」で
ある容量を超えて溢れ出て、今度は、その溢れた事象の「うち(内)」に
みづから(身づ柄/自ら)が置かれている、という移行による反転がはっきりする。

さらにここで、パソコンのバッファ・オーバーフローを隠喩として用いてみる
こともできるだろう。バッファが溢れるとコンピュータの制御がままならなく
なるが、それを利用した「バッファ・オーバーフロー攻撃」は、パソコンの
制御を乗っ取るための常套手段である。この場合、バッファを「みづから
(身づ柄/自ら)」に喩えることができ、バッファよりも大きなサイズのデータ
によって、バッファは、英語であれば、"be in over one’s head"、日本語
であれば、「あっぷあっぷ」、フランス語であれば、《être débordé》と
形容することができるような状態に置かれることになる。

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 10:14:54.28 ID:ISsfnJ2/.net
みづから(身づ柄/自ら)が、ほとんどつねに"be in over one’s head"、
「あっぷあっぷ」、《être débordé》と形容することができるような状態に
置かれるということは、バッファ・オーバーフロー攻撃を介した
不正操作によって乗っ取られたパソコンとして動作しているような
ものではないのか。

262 :内実の汪溢:[ここ壊れてます] .net
日本語で存在者としての「人(ひと)」について哲学的に考えるのに
ハイデガーが用ひた»In-der-Welt-Sein«(世界−内−存在)のような
表現を新たに造語する必要はない。なぜなら、「あた(辺)り(
»Umgebung«)にゐ(居)る」のが普通の「人(ひと)」の在り方であり、
「あた(辺)り(»Umgebung«)にゐ(居)る」ことが、即ち、
「いのちをう(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふものとして
ゐ(居)る」ことを意味しているからである。

環境保護についての言説は、「みづから(身づ柄/自ら)が、
いのちをう(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふものとして
ゐ(居)る」かどうか(»aushalten«/»die Nachhaltigkeit des Inhalts«
の実現可能性)を問題とする意識を反転させたものとして成立している。

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
誤:反転させたものとして
正:キアスム的に反転させたものとして

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
>「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)ふ」ことにおいて
「うち(内)」が「あら(顕/現)は」れる。<

このように表現してみたところで、一般の人々からであれ、何らかの
学問分野を専門とする人々からであれ、返ってくる反応は、大抵の場合、
「何を意味不明なことを言っているのか」という無関心か、あるいは、
なんとか関心を引いて理解してもらったとしても、「何をわざわざ
そんな分かり切ったことを言っているのか」という、無駄なことに
時間を無駄にさせられたことに対する苛立ちだろう。しかし、
少なくとも私にとっては、これは、真に哲学的に考えるためには
決して避けて通ることのできない死活的("vital")と言えるほどの
重要性をもつ問ひに対する答えであり、その問ひとは、
「『うち(内)』と『そと(外)』が対比されるとはどのようなことか」
というものである。

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
「うち(内)」と「そと(外)」は、一般には「うち(内)」と「そと(外)」の対比として、
対立する関係において既に存在するものとして捉えられている。その場合、
その「うち(内)」と「そと(外)」の関係は、身体感覚と結び付いているが、
その身体感覚による根拠付けには、「みづから(身づ柄/自ら)」の存在が
暗黙の前提とされている。ところが、「みづから(身づ柄/自ら)」という
表現を見ると、「み」が既に「うち(内)」を代表し、「から」が
「そと(外)」を代表していることが明らかである。これでは、
「うち(内)」と「そと(外)」の対比を説明するのに、「うち(内)」と
「そと(外)」の対比を前提としていることにしかならないだろう。
しかし、より根源的に見れば、「うち(内)」と「そと(外)」もやはり、
キアスム的な反転関係にある。それは、次のように表現することができる。

「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)ふ」ことにおいて「うち(内)」が
「あら(顕/現)は」れ、それが、「みづから(身づ柄/自ら)」の「うち(内)」
でもある。ところが、その「うち(内)」の否定、つまり、
「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)は」ないことにおいては、
それが反転して、「あた(能/与/価/当)は」ないことの「うち(内)」にある
ことが「あら(顕/現)は」れ、それが、「みづから(身づ柄/自ら)」の
「そと(外)」でもある。にもかかわらず、その「そと(外)」は、
その「うち(内)」に「みづから(身づ柄/自ら)」がある「うち(内)」
として「あら(顕/現)は」れている。

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふもの」として「みづから(身づ柄/自ら)」が
実現しているなら、つまり、「みづから(身づ柄/自ら)」に「内実」があるなら、
その「みづから(身づ柄/自ら)」を取り巻く「あた(辺)り」/»Umgebung«、
即ち、「環境」は、「めぐ(恵/巡)み」としてある。しかし、その「内実」を
「ないがし(蔑)ろ」にするように物象化された「そと(外)」は、もはや、
「みづから(身づ柄/自ら)」を取り巻く「あた(辺)り」/»Umgebung«
であるという性質を失う。

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
>114いゐゑゆ2020/11/15(日) 21:34:46.310
>「ゐど(井戸)」の「ゐ」には、「ゐ(居)」と共通で、
>「外に出るようとする動きを抑える」作用のイメージが結び付いているようだ。

「ゐど」の「ゐ」に対応する漢字は、本来、「井 ピンインjǐng」ではなく、
「围(圍)ピンインwéi」( 囲(新字体))だろう。この漢字は、「取り囲んで
外に出られないようにする」イメージを表している。<

日本語の「ゐ」とフランス語の《déborder》は、互いを反転させた関係に
あると言うことができるだろう。

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/22(木) 09:50:54.92 ID:VKgFWdWA.net
天(あめ)

↑「うはむ(上向)き」、↓「うつむき」
う(表面/化)            うつ・す↓  うつそみ(うつされた身)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー うつつ≒現実
地(つち) or 水(みず)

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/22(木) 10:04:45.72 ID:VKgFWdWA.net
>>264
誤:答え
正:応へ

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/22(木) 11:19:26.75 ID:VKgFWdWA.net
誤:水(みず)  正:水(みづ)

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/22(木) 23:27:11.90 ID:uY3eKe2V.net
「哲学などしてなんの役に立つのか」といった類のことを言う人は多い。
しかし、他の人にとってどうであるかは知らないが、私にとっては、
明らかに「思考の節約」に多いに役立つ。例えば、日本語において
「助詞」とされる「が」の用法について、その文法的な説明を参照
すると、その用例がこと細かに分類され、さらにいろいろな文法
用語を交えて複雑な説明がされている。ところが、その用法を
哲学的に考えて説明しようとするなら、私であれば、以前から
指摘してきたとおり、「『が』は、その基本として、発話
遂行的に同一性を確立するように用いられる」と言うだろう。
要するに、英語の"two times two equals four"の"equals"
に対応する「ににん『が』し」(2×2=4)の「が」である。
また、ドイツ語を例にとるなら、
»Sie verlangte von ihm, den Abwasch zu machen, egal, wie müde er war.«
(出典  WordReference.com)
という文例において»egal«に対応する「どんなに疲れていよう『が』」
の「が」であると言ってもいい。

このようなまとめ方による「思考の節約」は、哲学的に考えてメタ言語的に
記述しようとすることによってしかもたらされないだろう。そして、
少なくとも私にとって、このような「思考の節約術」は、いちいち
日本語の文法用語とそれを用いた複雑な説明を習おうとすることと
比べて、日本語を理解するのにも、それに対応する諸外国語を
理解するのにもはるかに便利に役立つのである(それは、たとえ、
他人がその説明を「不適切」であると判断するとしてもである)。

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/23(金) 08:21:40.33 ID:OIHWebo6.net
ところで、「『我(が)』が強い」とか、「『我(が)』を通す」という
表現がある。この場合の「我(が)」は、「自己主張」と言い換える
こともできるだろう。では、「自己主張」とはどのようなことか
と問へば、それはやはり、「〜がどうであろう『が』」という
「発話遂行的な同一性の確立」である。

したがって、「我(が)が強い」や「我(が)がを通す」という
表現もまた、「『発話遂行的な同一性の確立』が強引である」こと、
「『発話遂行的な同一性の確立』をあくまでも貫く」こと
として説明することができる。ところが、この場合、『我(が)』
は、「和製漢語」であって、中国語の「我」の用法とは異なる
ものの、それに関連した表現を日本語として流用したものである
ことが明白である。このことからも、日本語は、その中核において
さえ、中国語の表現のピジン言語的な流用により成立している
ことが分かる。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
誤:「我(が)がを通す」
正:「我(が)を通す」

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/23(金) 11:11:00.38 ID:OIHWebo6.net
ところで、私は、以前にも述べたが、私がその教育を受けたことも、
自分でまともに学習したこともない外国語であるドイツ語で書かれた
原書に目を通すのに辞書を引くことをほとんどしない。したがって、
そこに書かれていることの大部分は、私にはよく分からないことが
とても多い。しかし、これを習慣にすることには、意外な効果がある。
それは、ドイツ語の表現を眺めていると、辞書の記載とは無関係の
日本語の表現が自然と思ひ浮かぶことだ。そして、そのようにして
思ひ浮かぶ日本語の表現は、それを想起させたドイツ語の表現と
どのようにか対応していると考えられることが判明する。

例えば、»ausgezeichnet«というドイツ語の表現を目にすると、
「おもしろい」という日本語が思ひ浮かぶ。そこで、日本語の
古語の「おもしろし」とはどのような表現だろうかと考えてみると、
ただちに、「おも・しろ・し」と分けることができることが
意識され、そのように分けたそれぞれの要素にドイツ語を
対応させると、「おも(»aus«)・しろ(»zeichen«)・し(»lassend«)」
ということになる。
私は、ドイツ語の辞書を所持していないので、ネットで»ausgezeichnet«を
検索してみると、
>ausgezeichnet
プログレッシブ 独和辞典の解説
(⇒aus|zeichnen)[過分][形] ((英)excellent) 抜群の,すばらしい
ausgezeichnet Deutsch sprechen\みごとにドイツ語を話す.<
という記載があり、ここには、「おもしろい」という表現は出てこない。
しかし、岩波古語辞典で「おもしろし」を引くと、
>文芸・装飾その他に対する知的感興を一般にあらわすように
用いられたことが説明され、
>「調べ殊なる手二つ三つおもしろき大曲どもの」
という文例が引用されている。この場合の「おもしろき」の用法は、
ドイツ語の»ausgezeichnet«に対応していと考えて問題ないだろう
と私は思ふ。

このような「自由連想とその確認」を習慣とすると、日本語の表現と
外国語の表現を効率的に、つまり、「意識的な思考を節約しながら」
身に付けるのに、意外と大いに役立つのである。

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/24(土) 12:02:17.38 ID:ZbzFklue.net
また規制のようですね。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/24(土) 12:17:07.54 ID:ZbzFklue.net
「我『が』国」、「君『が』代」などに見られる、所属や所有を表現する
とされる「が」の用法も、「発話遂行的に同一性を確立する」用法として
難なく説明することができる。例えば、囲碁やオセロ・ゲームなどで
「『君が黒』で、『僕が白』だね」と言った場合や、飲食店に複数人
で入ってビールを注文して、1人だけ酒が飲めないのでウーロン茶と
注文したとして、それが運ばれてきたときに、「『君がウーロン茶』
だね」と言って渡す場合を考えてみるといい。

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/24(土) 21:42:10.03 ID:aAg/Zv+d.net
まあ予想していたことではあるが、この板も規制でほとんど書込みができなくなってきたな。

278 :Ich bin fassungslos!:2022/09/24(土) 21:53:03.63 ID:aAg/Zv+d.net
せっかく「パンドーラー」/"Πανδώρα"が「うつは(器)」/»Gefäß«である
とは、どのようなことなのかを論じようと思っていたのにとても残念だ。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/24(土) 21:56:02.09 ID:aAg/Zv+d.net
Und du, Pandora,
Heiliges Gefäß der Gaben alle,
Die ergötzlich sind
Unter dem weiten Himmel,
Auf der unendlichen Erde,
(出典 Prometheus , Johann Wolfgang von Goethe)

Der Glaube sei ein heiliges Gefäß, in welches ein jeder sein Gefühl,
seinen Verstand, seine Einbildungskraft, so gut als er vermöge,
zu opfern bereit stehe.
(出典 Aus meinem Leben. Dichtung und Wahrheit, Vierzehntes Buch)

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/24(土) 22:58:09.74 ID:reCvi5w3.net
そして、パンドラ、贈り物の聖なる器、広い天の下で楽しいすべての人
、無限の地球で、(出典プロメテウス、ヨハンヴォルフガングフォンゲーテ)

信仰は、誰もが彼の感情、
彼の心、


彼の想像力

犠牲にする準備ができている神聖な器です。
(出典私の人生から。詩と真実、第十四巻)

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/25(日) 00:09:19.68 ID:ZUwOz+o5.net
思い浮かんだことをメモ帳に書き記すように書いているが、原文をコピペ
してきたり、キー入力の変換できない文字や記号をコピペしたり、
新仮名遣いでしか入力されない表記を旧仮名遣いに換えたり、いろいろ
面倒な手間をかけて書いているのに、「書き込む」ボタンを押した時点
でそれがすべて規制で無駄になる場合がとても多くなれば、たまに
書き込むことができても、実質的に言論統制されているのと同じ。

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/25(日) 10:32:43.96 ID:ONU1jqPR.net
人生が「いっときの夢」に過ぎないとした場合でも、どうせ夢に過ぎないのなら、
いつ終わるとも知れない地獄の責め苦に苛まれつづける「悪夢」と、
思ってもみなかったような幸運にめぐり逢い、さまざまな想いが叶う
「楽しい夢」のどちらでもよい、というような人はまずいない。
いずれにせよ、ふと気づいたら、死ぬ間際の年老いた「我と我が身」しか
残されていないとしても、「もっと見つづけていたかった」と感じる
「楽しい夢」から残念ながら目が覚めるのと、「ああ夢だったのか、目が覚めて
よかった」と「悪夢」から解放されて安堵するのとどちらかを選ぶことができる
としたなら、前者より後者の方が望ましいと思う人はいないはずである。

にもかかわらず、「浦島太郎」の説話で人々に伝わるのは、「人生のとき」が
「楽しい夢」のように煙とともに一瞬にして跡形もなく消え去ってしまう
「虚しさ」と「悲しみ」の感覚だろう。それはなぜなのか。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/25(日) 11:01:36.36 ID:ONU1jqPR.net
それは、その「楽しい夢」のように過ごした「とき」の「持続可能性」/
»Nachhaltigkeit«の欠如によるものだろう。身分制社会においては、
その「持続可能性」/»Nachhaltigkeit«は、みづから(身づ柄/自ら)の
獲得された地位を安定させ、それを永続させる「世継ぎ」を確実に
残すことしてイメージされる。したがって、翻って考えるなら、
現代の環境保護において提唱される「持続可能性」/»Nachhaltigkeit«
も、『君が代』の斉唱のようなもの、すなわち、『君が代』の
「君」に「大切な命」を代入したものと見なすこともできる。
ここで鍵となるのは、「大切な命」の「大切な」であり、哲学的に
考えるなら、当然、「誰にとって、どのように『大切』」であるのか
が問はれることになる。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/25(日) 15:15:34.87 ID:ONU1jqPR.net
"パンドラ"と"ゲーテ"と"希望"で検索していたら、
次にような引用がヒットした。

ゲーテのことば - 4 ページ - Google ブック検索結果
J.W.v.ゲーテ, &#8206;長谷川弘子 · 2021 · &#8206;Fiction
それは,最高の意味でのパンドラ,つまり忍耐である.
( 1829 年 4 月:手紙の下書きが書かれた全紙にゲーテ自筆で記入)

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/25(日) 15:23:48.65 ID:ONU1jqPR.net
ゲーテが、「パンドーラー」/"Πανδώρα"を「つまり忍耐である」と
捉えていることに注目されるが、なぜそのような捉え方をするのかは、
ゲーテが「パンドーラー」/"Πανδώρα"を»Heiliges Gefäß der Gaben alle«
と呼んでいることと切り離して考えることはできないだろう。

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/25(日) 15:45:30.96 ID:ONU1jqPR.net
>>250で私は、
>人が「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)ふもの」/"δῶρον"
「すべて」/"Παν"がその「うち(内)」に入っている「うつは(器)」、
それがパンドーラー/"Πανδώρα"である。<
と指摘した。確かに私は、ゲーテの著作のいくつかを読んではいるが、
上の記述に達した議論の筋道は、>>284に引用した検索結果として
「パンドラ,つまり忍耐である」というゲーテの表現がヒットしたこと
とはまったく独立である。

にもかかわらず、ここで、上の記述を、
>人が「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)ふもの」/"δῶρον"
「すべて」/"Παν"がその「うち(内)」に入る「うつは(器)」、
それが「忍耐」である<
と言い換えても、まったく問題ないだろう。ここにおける言語表現の
解釈が、互いに系統的には無関係とされる日本語と印欧諸語の言語
をまたいでいるにもかかわらずである。これは、とても面白いこと
ではないだろうか。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 09:07:17.55 ID:r4nPnyio.net
人が「う(受/享/承)く」に「あた(能/与/価/当)ふもの」/"δῶρον"
「すべて」/"Παν"がその「うち(内)」に入る「うつは(器)」、
「パンドーラー」がなぜ、「つまり忍耐である」されるのか、
また、なぜ「パンドーラー」と「信仰」がともに「聖なるうつは(器)」
/»heiliges Gefäß«とされるのかと言えば、それは、
「パンドーラー」/"Πανδώρα"が、万葉集の歌に見られる日本語の
古語で言い換えるとすれば、「いはひ(斎)へ(瓮)」だからだろう
と私は思う。

万葉集 第20巻 4331番
>大君の 命のまにま 大夫の 心を持ちて あり廻り 事し終らば つつまはず
帰り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて 白栲の 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて
長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは<
(出典 万葉集ナビ)

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 09:16:35.10 ID:r4nPnyio.net
Glaube, Liebe, Hoffnung fühlten einst in ruhiger, geselliger Stunde
einen plastischen Trieb in ihrer Natur; sie befleißigten sich zusammen
und schufen ein liebliches Gebild, eine Pandora im höhern Sinne: die Geduld.

Johann Wolfgang von Goethe

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 09:50:01.87 ID:r4nPnyio.net
「瓮」は、「かめ」(「か(醸)む」作用を働かせることに留意しよう)に
当てられる「甕」の異体字とされるが、「瓮」、「甕」は、「吹v
とともに、「 酒を入れる器」とされる「もたひ」という表現にも
当てられる。

>精選版 日本国語大辞典「瓮・甕・吹vの解説
もたい もたひ【瓮・甕・吹z
〘名〙 酒を入れる器。もたえ。
※書紀(720)推古二五年六月(岩崎本室町時代訓)
「出雲国言さく、神戸の郡に瓜有り大きさ缶(モタヒ)(〈別訓〉ほとき)の如し」<

この場合、「もたひ」が意味しているのは、英語にすれば、そのまま
"container"であり、「もたひ」が「もつ」+「ふ」と分解される
再帰表現の名詞形であることに疑いの余地はないだろう。また、
ここで、「もつ」は、"container"の"-tain"に、つまり、
>+ tenere "to hold" (出典 Online Etymology Dictionary)
に対応し、それを「忍耐」に関連付けるなら、フランス語の《tenir》
やドイツ語の»dulden«という表現が直ちに想起されることになる。

290 :容量オーバー、堪忍袋の緒が切れる:2022/09/26(月) 10:15:24.90 ID:r4nPnyio.net
péter les plombs

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 11:02:51.09 ID:r4nPnyio.net
819しま(島)のしじま(沈黙)2021/10/25(月) 09:28:00.480
「いは(祝/斎)ふ」のような表現の用法を見ると、中国語の表現を流用する
ピジン言語を基礎とする日本語が、中国語の表現を利用しつづけながらも、
中国語から「独立した言語」として成立するのに、もともとは、やはり
中国語の表現、「復/覆(Middle Chinese: /bɨuH/, /pʰɨuH/)」の流用に
由来すると思はれる「〜ふ」のメタ言語的な活用がかなり中心的な役割
を果たしたのではないかと考へられる。というのも、「〜ふ」は、
再帰表現を形成すると形容することができるものの、「〜(をひっくり返す)」
という極めて漠然としたメタ言語的な指示であるに過ぎず、その
「ひっくり返す」ことは、場合により、「(〜を)自らの作用と見なす」こと、
「(〜を)繰り返す」こと、「(〜を)裏返す」ことなどの、それぞれ
異なる指示として解釈され、「いは(祝/斎)ふ」の例にみられるとおり、
「〜ふ」の一つの解釈におけるメタ言語的な指示の与えられた表現に、
さらに「〜ふ」の別の解釈におけるメタ言語的な指示が追加されて、
「〜」において同一の発音が特定のイメージを想起させるように用い
られていても、その特定のイメージが「ひっくり返されて」活用される
だけでなく、複合的に「ひっくり返されて」、その「ひっくり返し」の
曖昧さ/両義性を伴いながら使われることになるからだ。

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 11:45:39.28 ID:r4nPnyio.net
日本語で哲学するのに「〜ふ」という再帰表現に注目することの大切さは、
いくら強調しても強調しすぎることにはならないだろう。それは、
「〜ふ」が、「日本語」が中国語の表現を大々的に流用しながら、
それを独立した「日本語」として形成するのに中心的な役割を果たして
いることによる。「〜ふ」がそれほどまでに重要なのは、それが単に
再帰表現を形成するからという理由によるのではない。「〜ふ」は、
それを切り離して見るなら、「『〜』をひっくりかえす」という
指示に過ぎない。にもかかわらず、というより、だからこそ「〜ふ」
が「日本語」を「日本語」として形成することに中心的に寄与する
ほどの重要性を帯びるのは、それが基本形として、「キアスム的な
反転可能性をともなふ作用の様態を表す発音の要素」である「〜」
に対して「『〜』をひっくりかえす」という指示として用ひられる
からである。すると、その「ひっくりかえし」がどのような効果を
もたらすのかには様々な解釈の可能性が生じることになる。
「「キアスム的な反転可能性をともなふ要素」を「ひっくりかえす」
ことは、必ずしもその要素を「キアスム的に反転させる」
(例えば、「を!」によって表される「空虚」が、「を(終)ふ」に
よって「満腔」にキアスム的に反転させられるように)ことを意味
しない。そうではなく、その指示は、作用を「繰り返す」こと、
作用が「返るようにする」こと、作用を「交互に働かせる」こと
としても解釈されることが可能であり、「キアスム的に反転させる」
ことは、中心的な重要性を帯びるとはいへ、その解釈の可能性の
うちの一つなのである。しかも、「〜ふ」を用いた表現は、
その重複的な用法も含め、複合的に用いられて、言語表現の
やりとりが「かけひき」として行はれるので、表現において
「ひっくりかへし」が「どのように畳み込まれているのか」を
知ることが、日本語で「かむか(考)へる」ことの鍵となるのである。

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/27(火) 08:20:20.51 ID:Qg0KjDHf.net
>676心身問題2018/12/05(水) 21:39:07.700
心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
                         ― 紫式部

例えば、「『おも(想)ひ』とは『うらはら(裏腹)』に、厳しい現実を
『おも(思)ひ』『し(知)ら』される」ことを日本語の表現として
「かむ(考)かへ」てみることも、とても「面白い」こと
(「おも(»aus«)・しろ(»zeichen«)・し(»lassend«)」という意味でも)
ではないだろうか。

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/27(火) 08:36:15.78 ID:Qg0KjDHf.net
「おも(想)ひ」の「おも」は、「おも(面)・て(手)/表」という表現の
「おも(面)」と共通で、目の当たりにする「面(おも/も)」を表現し、
「外面(そとづら/がいめん)」を表していると言い換えてもいいだろう。
「おも・ひ」の「ひ」は、「ふ(復/覆)」の活用形であり、その
「おも」を「ひっくりかえす」ことを指示している。したがって、
「おも(想)ひ」は、「内面」であると言うことができる。
「うらはら(裏腹)」の「うら(裏)」は、古語では、「うへ(上)」(現代語の
「表面」に対応する)と対比される表現として用いられるとともに、
「人の目に触れない『こころ(心)』」の言い換えとしても用いられた。
したがって、「『おも(想)ひ』とは『うらはら(裏腹)』」という
表現は、「『外面』を『ひっくりかえした』もの」としての「内面」
である「おも(想)ひ」を「うらぎ(裏切)る」("to double-cross")ように
展開する「「表の裏の裏」の広がり」ということになるだろう。

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/27(火) 08:37:16.98 ID:Qg0KjDHf.net
誤:「「表の裏の裏」の広がり」
正:「『表の裏の裏』のひろ(広)がり」

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/27(火) 08:44:48.51 ID:Qg0KjDHf.net
さらに、「『おも(思)ひ』『し(知)ら』す」という表現において、
「おも(思)ひ」は、既に説明したとおりであり、「し(知)ら』す」は、
これも、「おもしろし」という表現に関連して示したとおり、
ドイツ語を記述のためのメタ言語として用いるなら、
「し(知)ら(»zeichen«)・す(»lasse«)」を表現するものと理解される
表現である。したがって、「おもひ・しらす」は、「『表の裏』として
示されるようにする」ことを表現しているものと解釈することができる。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/27(火) 08:58:36.99 ID:Qg0KjDHf.net
以上のことを踏まえて、「『おも(想)ひ』とは『うらはら(裏腹)』に、
厳しい現実を『おも(思)ひ』『し(知)ら』される」という表現を全体として
「かむか(考)へ」てみると、「『おも・ひ』とは「うら」であることを
「おも・ひ」「しら」される」のであるから、「表の裏の裏であることを
表の裏として示される」ことになるという、とても「おもしろい」
(おも(»aus«)・しろ(»zeichen«)・し(»lassend«)関係を見てとること
ができる。

このように見てくると、紫式部の
>心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
という歌が、言語表現として、いかに巧みで優れたものであるかを
あらためて確認させられる。

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/27(火) 10:21:13.62 ID:Qg0KjDHf.net
>>296
誤:す(»lasse«) 正:す(»lassen«)

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/28(水) 09:29:51.86 ID:LD5mjXM8.net
>ダイモーン(ギリシア語: δαίμων - daimōn; ラテン語:dæmon, daemon [...])
ヘーシオドス『神統記』では、パエトーンはダイモーンに変じて目に見えない
存在となるが、パンドーラーが解き放った人類の災いはダイモーンではなく
ケールであるとされている。またヘーシオドスは、ゼウスの思し召しによって
黄金時代の人々がダイモーンに変えられ、善意をもって死すべき人間たちに
役立つべく守護神の役割を果たすようになった様を描いている。<
(出典 Wikipedia)

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/28(水) 09:51:02.07 ID:LD5mjXM8.net
「ダイモーン/鬼神」とは、日本語で考えるなら、「『いは(祝/斎)ふ』べき
ものごとのキアスム的な反転可能性の物象化」だろう。

ゲーテやニーチェの作品を読むと、西洋の伝統的な思想の枠組みを与へられて、
そこで哲学をしようとするなら、その取組みは必然的に、神学によって
物象化された「ダイモーン/鬼神」の脱構築に向かふという性質を帯びざる
を得ないのだろうということを印象付けられる。ここで面白いのは、
ゲーテ自身は、哲学をしようと考えているわけではなく、その関心は、
みづから(身づ柄/自ら)を縛る条件として与へられているキリスト教神学
の教義から自身を解き放とうとすることに向けられていることである。
しかし、そのことがまさしく、ゲーテを、キリスト教神学から見れば
異端的な「ダイモーン/鬼神」の捉え方(依然として物象化されたまま
であるとはいへ)に向かわせることになる。

いずれにしても、日本語で哲学をしようとするなら、「ダイモーン/鬼神」
を物象化する西洋の神学的な枠組みにわざわざ、まずは囚われて見せて、
そこから抜け出そうともがくことは、本来、不要なはずだろう。
ニーチェのドイツ語の言語表現が、あたかも最初から日本語で書かれて
いるかのような奇妙な「既視感」を覚えさせるのは、その脱構築の
結果が、そもそも、日本語では日常言語の表現としてそのまま
通用しているからではないかと私は思ふ。

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/28(水) 09:52:04.50 ID:LD5mjXM8.net
誤:向かわせることになる
正:向かはせることになる

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/28(水) 14:36:54.59 ID:LD5mjXM8.net
>>274-297
誤:しろ(»zeichen«)
正:しろ(»zeichnen«)

しょっちゅう混乱して間違える。

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/28(水) 15:40:14.99 ID:LD5mjXM8.net
万葉集 第20巻 4509番

>延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも
>はふくずの たえずしのはむ おほきみの めししのへには しめゆふべしも

「しめゆふ」の「ゆふ」は、「ゆゆしき」ことにならないようにする、
解き放たれる(溢れてとめどなく流れ出る/「沃/い/yi」の抑制されない
様態でもある)「ゆ」の反転を作用させるものとして「〜ふ」が用いられ
ていることを見てとることができる。

304 :Il Gattopardo:2022/09/29(木) 08:58:25.17 ID:Jm3VFkON.net
メルロ−ポンティの言葉を借りるなら、「歴史は、けっして自白しない」。
(『政治と弁証法』、みすず書房、p.186)
歴史は、い(云)ひつた(伝)へられる出来事が、どのようにかた(語/型)ら
れるべきかをしめ(示)しあ(合)はせる制度としてある。言い換えるなら、
歴史とは、伝へられるものごとをどのように「いは(祝/斎)ふ」べきか
を人々に対して「し(知/領)ら」せるための「しめ(標)ゆ(結)ひ」である。

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/29(木) 09:17:51.10 ID:Jm3VFkON.net
したがって、「国葬」を「批判/批評」する人々もそのような「しめ(標)ゆ(結)ひ」
に大々的に貢献している。

306 :ま(任)けのまにまに:2022/09/29(木) 11:43:37.43 ID:Jm3VFkON.net
>それは、「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」と「法」としての
「ノモス」は、「自由/勝手に〜することができる(場)」と「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」の関係にあるということだ。 <

>>96-101で論じたこの「ノマド的なノモス」についてのキアスム的な
反転可能性は、次のようなドイツ語の表現を見ると、日本語でも
ドイツ語でもまったく同様に表現されることが分かる。

>MARINELLI. Erst heute – soll es geschehen. Und nur geschehenen
Dingen ist nicht zu raten. – Nach einer kurzen Überlegung.
Wollen Sie mir freie Hand lassen, Prinz? Wollen Sie alles genehmigen,
was ich tue?

DER PRINZ. Alles, Marinelli, alles, was diesen Streich abwenden kann.<

Gotthold Ephraim Lessing: Werke. Band 2, München 1970 ff., S. 136-141.

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/29(木) 15:48:10.03 ID:Jm3VFkON.net
ゲーテと「ダイモーン的なもの」/»das Dämonische«を主題として論じて
いる本がないか検索すると、ゲーテを中心として扱ったものではないが、
シュテファン・ツヴァイクの『デーモンとの闘争 ヘルダーリン・クライスト・
ニーチェ』という著作がヒットしたので、図書館で借りてきた。

序論しか読んでいないが、「デーモン」とのかかわりにおいて、一方の側
(「デーモン的な力」に従ふ僕の側)にヘルダーリン、クライスト、ニーチェが
置かれ、他方の側(「デーモン的な力」を支配する主の側)にゲーテが置かれて
対比されている。この二面的な対比の仕方は、いかにも西洋の神学をその
基盤とする思想の伝統的な枠組みに則したものであるが、それを日本語で
言い換えるとすれば、ヘルダーリン、クライスト、ニーチェの「ダイモーン/
鬼神的な力」に対するかかわりが、それを「祝(いは)ふ」ものであるのに
対して、ゲーテのそれに対するかかわりは、それを「斎(いは)ふ」もの
であると言い換えることができ、このように言い換えてみれば、それが
ただちにキアスム的に反転可能であることに気づかざるを得ないだろう。

308 :歴史というしめ(標)ゆ(結)ひ:2022/09/30(金) 08:39:13.70 ID:FgZRrOlg.net
歴史が自白することは決してない。
「え(得)もい(云)はれぬことについては、これを『かたり』つ(継)ぎ、いは(祝/斎)ふべし。」

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/30(金) 10:07:24.29 ID:FgZRrOlg.net
万葉集 第3巻 414番
足日木能 石根許其思美 菅根乎 引者難三等 標耳曽結焉
あしひきの岩根こごしみ菅の根を引かばかたみと標のみぞ結ふ

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/30(金) 19:42:18.05 ID:FgZRrOlg.net
万葉集 第2巻 213番
>大鳥 羽易山尓 汝戀 妹座等 人云者 石根割見而
奈積来之 好雲叙無 宇都曽臣 念之妹我 灰而座者
>大鳥の 羽がひの山に 汝が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて
なづみ来し よけくもぞなき うつそみと 思ひし妹が 灰にてませば

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/30(金) 23:19:12.11 ID:qfMQbQfr.net
「万葉ナビ」からのコピペで、このサイトも、それ以外でこの歌がヒット
するサイトもほとんどが「妹はいますと」と表記しているが、
「妹はゐますと」だろう。この違いはとても重要だ。

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/01(土) 08:48:42.60 ID:lh6tRSea.net
>>228-231
>228名無しさん@お腹いっぱい。2022/09/16(金) 13:33:56.78ID:qx4ffNPQ
英語にも、「『う(受/享/承)く』に『あた(能/与/価/当)は』ない」ことに
そのまま対応する表現がある。その英語の表現は、「『う(受/享/承)く』に
『あた(能/与/価/当)は』ない」ことが、「"capacity"を超える」ことに
相当することを理解したなら、すぐに思い浮かぶ。
それは、"be in over one’s head"である。<

これに関して思い出されれるのは、『地中海の感興』だっただろうか、
ポール・ヴァレリーが海で泳いでいるときに波にのまれたときの体験
について語っていたことである。また、ルソーの『孤独の散歩者の夢想』
の事故のエピソードについてラクー=ラバルトが読解しながら論じて
いた(いずれの著作だったか憶えていない)こともこれに関連して想起される。
これらの体験に反映されているのは、「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふ」
ことに「うつくしさ」を覚えるという感覚ではないかと私には思へるが、
いずれの本も手元にないので、それらの体験が具体的にどのように表現されて
いたのか、近いうちに確認してみることにしよう。

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/01(土) 10:41:48.33 ID:lh6tRSea.net
「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふ」感覚は、神学を「磐根(いはね)」と
する西洋の思想の伝統の枠組みでは、それが肯定的に評価される場合には、
「純粋な贈与/恵み」である「恩寵」として「あたへ」られるという方向性
を伴って解釈されるか、さもなければ、神秘主義的/否定神学的な「融合」
と解釈され、その「融合」にキアスム的な反転の感性が伴うなら、それは
異端と宣告されることになるだろう。このような枠組みにおいては、
ニーチェの「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふ」感覚を取り戻そう
とする試みも、あたかもそれが、「恩寵」を拒絶して「主体の意志」
を強調しようとする「主体主義」であるかのようにひどく歪曲されて
理解されることになる。これは、「ダイモーン的なもの」/
»das Dämonische«が、神学の枠組みでは、その存在の様態を
そのままに保つことが許されず、「デーモン」に変わってしまう
ことにも対応しているだろう。

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/01(土) 10:46:21.00 ID:lh6tRSea.net
Paul Valéry « Le Cimetière marin »

Comme le fruit se fond en jouissance,
Comme en délice il change son absence
Dans une bouche où sa forme se meurt,
Je hume ici ma future fumée,
Et le ciel chante à l’âme consumée
Le changement des rives en rumeurs.

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/01(土) 13:09:03.94 ID:lh6tRSea.net
ツヴァイクの『デーモンとの闘争 ヘルダーリン・クライスト・ニーチェ』は、
まだ「ヘルダーリン」について詠み始めたばかりだが、ページをめくってみると、
ニーチェとの対比でゲーテについて次のよう書かれている。

>[...]ゲーテはひとつの固定した中心のまわりに、あたかも樹木が内部に
かくれた髄のまわりに年々年輪を重ね、外側へ外側へと皮殻を破りながら、
いよいよ固く、いよいよどっしりと、いよいよ高く、いよいよ展望を広め
てゆくさまながらに、その生活を広げていくのである。< p.354

このゲーテのイメージを日本語で考えてやはり隠喩として表現したとしたなら、
「標結(しめゆ)ふ神(かむ)さびた、古(いにしへ)より生(い)き永(なが)らふ大木」
のようなものになるのではないだろうか。

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/01(土) 17:03:41.28 ID:lh6tRSea.net
誤:詠み始めた 正:読み始めた

317 :歴史というしめ(標)ゆ(結)ひ:2022/10/02(日) 09:27:17.39 ID:kpxVsXAU.net
>歴史が自白することは決してない。
「え(得)もい(云)はれぬことについては、これを『かたり』つ(継)ぎ、
いは(祝/斎)ふべし。」<

Regarding things for which any elocution is not adequate,
one must hold them in honor, speaking figuratively about them
for generations to come.

318 :英作文の勉強:2022/10/02(日) 09:33:23.13 ID:kpxVsXAU.net
日本語を母語とする私が専ら日本語で考えた文をほぼそのまま英語に直訳
しただけだが、そのことによって英語が不自然になり、意味不明なものと
なっているだろうか。私は、英語を母語としているわけではないので、
自分ではよく判断がつかない。

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
Ich glaube, dass die ursprüngliche Existenz spontan ist
Beginnen Sie mit einfacher Verzerrung
Einfache Verzerrungen bei jedem Schritt und an jedem Ort der Welt
Wenn es interagiert, wird es zur ersten komplexen Physik, und wenn die erste komplexe Physik interagiert, wird es zu komplexerer Physik.
So wurde an jedem Schritt und Ort zuerst ein körperloses Wesen geboren.
Es ist so weit gewachsen, dass es andere Wesen erschaffen kann.
Ein Wesen mit einem Körper erscheint
Gott erscheint
Die Samen von Lebewesen, einschließlich Menschen, wurden in die Urerde gesät

Was?

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/02(日) 19:00:17.72 ID:N0uEK3ga.net
また地元の図書館から本を借りてきた。
そのうちの1冊は、最後に貸し出されたのは38年前(それ以降に
貸し出されていれば、まだコンピュータで管理されていなかったはずなので、
紙の記録に残っているはず)、もう1冊は、67年前に図書館が購入して以来、
誰も借りた形跡がない。

321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/03(月) 09:11:38.39 ID:jT7xEY6B.net
レッシングは、その名前が言及されることは多いものの、思想哲学系の
の言説において本格的に論じられることのとても少ない作家だが、
ゲーテからも、ニーチェからも賞賛されるとおり、その作品は、時代
を超えてとても優れたものである。セリフによって心の動きを伝へ、
それを登場人物の間でうまく仕組むことにおいて、これほど優れた
技を見せる作家はなかなかいない。それでも、その作品について
論じようとするなら、それはドイツ演劇論という極めてマイナーな
分野に属するものと見なされることになり、その作品から「思想」
や「哲学」だけを抽出しようとしても、抽象的な言葉によって
まとめられた形では、ごく「ありふれたもの」となってしまうので、
思想哲学系の言説の俎上にのせられることがとても少ないのだろう。
しかし、このことに反映されているのは、レッシングの作品が今では
もう古びて平凡なものとなってしまったなどということではなく、
むしろ、思想哲学系の言説において用いられている言語表現の
技法の貧困である。

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/03(月) 20:00:50.41 ID:jT7xEY6B.net
>>321
たとえば、『エミーリア・ガロッティ』のあらすじは次のサイト、
>レッシング『エミーリア・ガロッティ』 - 書評 - SYUGO.COM
に記載されるとおりで、とても単純なものだが、以下に引用する
場面の会話において、現代では一般に「スピンドクター」と呼ばれる
ような情報操作の専門家の手法をとても簡潔に、見事に描き出して
みせる。

Marinelli. Sie wissen, gnädiger Herr, wie sehr ich den Grafen
Appiani liebte, wie sehr unser beider Seelen ineinander verwebt schienen -
Odoardo. Das wissen Sie, Prinz? So wissen Sie es wahrlich allein.
Marinelli. Von ihm selbst zu seinem Rächer bestellet -
Odoardo. Sie?
Marinelli. Fragen Sie nur Ihre Gemahlin. Marinelli, der Name Marinelli
war das letzte Wort des sterbenden Grafen, und in einem Tone!
in einem Tone! - Daß er mir nie aus dem Gehöre komme,
dieser schreckliche Ton, wenn ich nicht alles anwende,
daß seine Mörder entdeckt und bestraft werden!
Der Prinz. Rechnen Sie auf meine kräftigste Mitwirkung.

323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/03(月) 20:37:52.38 ID:jT7xEY6B.net
エミーリアの婚約者であるアッピアーニ伯は、二人の婚礼を阻止することを
公爵から任された侍従マリネルリの策略によって殺されることになったわけ
だが、アッピアーニ伯が死際にマリネルリの名前を呼ぶのを耳にした
エミーリアの母親は、名前を呼ぶ声の調子から、アッピアーニ伯が
マリネルリをその策略の首謀者であると名指ししたのだと悟る。
マリネルリと対面することになったエミーリアの母親は、その「声の
調子」を糾弾の根拠として、マリネルリを卑劣な人殺しとして激しく
罵る。ところが、上に引用した場面では、マリネルリは、その
糾弾の根拠自体をそのまま、臆面もなく、アッピアーニ伯が自分に
仇討ちを任せたことの証明であり、エミーリアの母親本人が
その証人であるとエミーリアの父親に告げるのである。

324 :古典という教養:2022/10/04(火) 07:41:02.75 ID:UUv7vhJL.net
>>321-323
レッシングによって書かれたこの劇を、例えば、『古事記』の「曾婆訶理
(そばかり)」のエピソードと対比してみれば、権力中枢の側(そば)で生き残る
とはどのようなことであるとイメージされてきたのかを、よりよく理解できる
のではないだろうか。そして、現代にまで伝はって残された『万葉集』の
ような古典の歌集も、すべて権力中枢の側(そば)で編纂されてきたことを
踏まえたうでで、その歌を解釈しながら鑑賞することが大切なのではないか
と私は思ふ。

470トロッコ問題(倫理の授業)2022/08/25(木) 09:23:39.32ID:PqoCXlXO
さて、曾婆訶理は、あらかじめこの結論を知っていたとしたら、
どのようにすることが最善だったのでしょう?

>曾婆訶理、吾が爲に大き功あれども、既に己が君を殺せし、これ義ならず。
然れどもその功を賽(むく)いぬは、信(まこと)無しと謂いつべし。
既にその信(まこと)を行はば、還りてその情(こころ)に惶(かしこ)けれ。
故、その功を報(むく)ゆれども、その正身を滅してむとおもほしき。<
『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 07:47:06.04 ID:UUv7vhJL.net
モンテーニュもプルタルコスの『対比列伝』を好んだ。

326 :古典という教養:2022/10/04(火) 08:33:52.70 ID:UUv7vhJL.net
ソクラテスになら(倣)ふなら、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
ものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとすること」が、
「エロース」というダイモーンの働きだろう。

重層性のない「いは(祝/斎)ひ」は、「お誕生日おめでとうございます!」
というインターネット・サイトの自動表示のように軽薄でつまらない。

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
古代ギリシアの哲学は、言語系統的に日本語とは無縁の古代ギリシア語で
書き残されているので、日本語で考えたのではそれをよく理解することは
できないと思ひ込むのは先入観に固執することにしかならないだろう。

例えば、プラトンの『饗宴』の翻訳を日本語で読んでいると(私には、
古代ギリシア語が読めず、現状でも、よく知らないまま日常的に
利用している他の言語の数が多すぎるので、古代ギリシア語の原文に
目を通すことは控えている)、アルキビアデスが宴会の場に入って
きて、宴会の主催者であるアガトンとソクラテスの頭に勝利の標
(しるし)である「リボン」を結ぶ場面が出てくる。その行為を表現
する古代ギリシア語の言葉がどのようなものであるか私は知らないが、
その行為を日本語で表現するなら、それはまさしくそのまま
「しめ(標)ゆ(結)ひ」となるだろう。

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 11:14:57.75 ID:UUv7vhJL.net
アルキビアデスは、ソクラテスの「本当の姿」、つまり正体を明かすと
称して話し始めるが、その締め括りとして次のように述べる。
>このような人たちを、この人はだまし、自分が彼らを愛していると
思い込ませる。しかし、やがて、愛する者の仮面を脱ぎ捨て、自分
のほうが愛される少年になってしまうのだ。<
プラトン、中澤務訳、『饗宴』、光文社、pp.187-88

この言葉から、(プラトンにおける)アルキビアデスによれば、
ソクラテスの正体とは、「『エロース』と呼ばれるダイモーン/鬼神の働き
の人格化」にほかならないことを見てとることができる。さらに、
その働きを前述したとおりに日本語で言い換えるなら、「ソクラテス」
という人格は、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふものをみづから
(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとする働き」を体現する者
ということになるだろう。

329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 11:26:58.54 ID:UUv7vhJL.net
したがって、ソクラテスを賛美する「アルキビアデスの話」は、
「エロース」というダイモーン/鬼神の働きを言祝ぐ/のろ(祝/呪)ふ
「いは(祝/斎)ひ」の言葉であり、「ソクラテス」の正体を人々に
し(知/領)らしめるべく顕現させようとする発話行為そのものが、
即ち、その正体を秘すべく封じ込める「しめ(標)ゆ(結)ひ」となる。

330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 11:33:39.75 ID:UUv7vhJL.net
プラトンの古代ギリシア語の表現の日本語訳を勝手に日本語の古語に置き換えて
理解しようとする私の解釈は、原文が伝へようとしていることを大きく歪曲
するものだろうか。私自身にはよく判断がつかない。

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/05(水) 09:15:35.87 ID:y9Kpctl7.net
>「ソクラテス」という人格は、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
ものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとする働き」を
体現する者ということになるだろう。 <

「ソークラテース/Σωκράτης」という名前そのものは、「保つ力」を意味して
いるものと解釈される。
>This name derives from the Ancient Greek name “Sōkrátēs (Σωκράτης)”,
composed of two elements: “sôs (σῶς) sṓizō (σῴζω)” (save, saving,
keep safe, rescue, unharmed, redeem) plus “krátos &#8206;(κρᾰ́τος)”
(might, strength, dominion, power).< (出典 name-doctor.com)

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/05(水) 10:22:32.31 ID:y9Kpctl7.net
ツヴァイクの『デーモンとの闘争 ヘルダーリン・クライスト・ニーチェ』
の「ヘルダーリン」を読み終えた。見事な訳業でツヴァイクの批評の魅力
を伝えており、こういう技にはできる限り(といっても、私にできることは
極めて限られているが)見倣いたいと思う。

ツヴァイクの本文の書き出しは、次の詩の引用から始まる。
>― 地上は夜となって 冷え
人の魂は苦難にさいなまれやつれ果てるであろう もしときおり
善良な神々がこのような青年たちを地上に送って
人間の萎えゆく生にまた活力を与えてくれることがなければ。
ー 『エムペードクレスの死』< 同書、p.31

ツヴァイクによれば、『エムペードクレスの死』は、最初は
『ソクラテスの死』として構想されたとのことである。また、
ヘルダーリンは、家庭教師として雇われた家の自分の雇用主の妻を
「神によってわたしとつながったきょうだい」(p.111)として理想化
して詩に歌い、「ディオティーマ」と名づけている。「ディオティーマ」
とは、プラトンの『饗宴』でソクラテスに「エロースの働き」について
教えた賢者とされる女性の名前である。

最後にツヴァイクの批評は、次のように、やはりヘルダーリンの詩の
引用によって締めくくられる。
>そして死と生があわさって、人間を形成する運命となり、かつて彼が
予言者の願いをこめて告知したことのある真の詩人の終焉を、実現する、
ー 「わたしたちが抑えることのできなかった焔を、
私たちは、焔に焼かれながらつぐなうのだ。」< 同書、p.185

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/05(水) 15:22:39.52 ID:y9Kpctl7.net
ところで、ハイデガーの哲学の歩みにおいてもヘルダーリンの詩はとても
重要な役割を果たしていると考えられるが、ツヴァイクの批評からは、
ヘルダーリンの詩作には、プラトンの『饗宴』における「エロース」の
体現者としてのソクラテスが決定的とも言えるような影響力を発揮して
いると考えられるだろう(私自身は、ヘルダーリンの詩は読んでいない)。
では、ハイデガーは、そのことをどのように扱っているのだろうか。
ハイデガーがヘルダーリンの詩について書いた文章は、随分前に
読んだことがあるが、その論述の内容については、今は何も覚えていない。

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
ニーチェの「ツァラトゥストラ」も、言うまでもなくプラトンの「ソクラテス」
を踏まえている。「ソクラテス」をプラトンの言説から分離して「人格」として
独立させることは、哲学を人格カルトに変換する初めの一歩である。

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/05(水) 22:43:20.62 ID:pVaWNY3C.net
こうして見てくると、学問制度としての「哲学」には、とても奇妙な
バイアスがかかっていることにあらためて気づかされる。そのバイアスとは、
一方で「哲学」は、古代ギリシアで発祥したものとされ、その意味では、
その「哲学」は、当然のことながら、非キリスト教世界のものであり、
古代ギリシアの人々の日常的な感性をその基盤としていて、キリスト教
世界から見れば、あきらかに「異教世界の思想」という性質を強く帯びて
いたにもかかわらず、他方で、それが西洋の学問制度としては、
キリスト教神学との複合体となった伝統として引き継がれ、最終的には、
キリスト教神学から独立をはかるという形で成立したため、
陰に陽にキリスト教神学と結び付いたままであるか、またはキリスト教
神学をどのようにか脱しようとするという形で、もしくは脱したと宣言
できるという仕方で、未だにそれを引きずったままである思索ばかりが、
正統な「哲学」とされるようになっていることである。しかしながら、
無論、その場合、古代ギリシアの「哲学」を「哲学」ではなかったことに
することはできないので、さもなければ「異教世界の思想」とされる
ような古代ギリシアの人々の物事の見方と結び付いた思索は、特権的に
「哲学」とされることになる。

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/05(水) 23:07:33.07 ID:pVaWNY3C.net
ところが、キリスト教神学から見て「『異教世界の思想』とされるような
古代ギリシアの人々の物事の見方」は、やはりキリスト教とは無関係の
他の地域の人々の物事の見方と比べて、原理的には、何ら特権的な地位を
有するものではなく、それどころか、実際、言語表現に見られる物事
の捉え方や、儀礼などに反映される「世界観」がそうであるように、
互いによく類似していることがしばしばあることに気づかざるを得ない。

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/05(水) 23:14:28.82 ID:pVaWNY3C.net
>「ダイモーン/鬼神」とは、日本語で考えるなら、「『いは(祝/斎)ふ』べき
ものごとのキアスム的な反転可能性の物象化」だろう。<

私は、このように指摘したが、キリスト教神学の世界観の縛りを解いたなら、
そのような「ダイモーン/鬼神」が姿を現すことになるのは、むしろ、
自然なことであると言える。

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/06(木) 09:28:09.65 ID:R2Ficvbp.net
>>335
その結果、思索する者が「『哲学』をしていると認められようとするなら」、
この奇妙なバイアスに寄り添ふ姿勢をみせるように努めることを余儀なく
される。現代の「人権思想」に寄り添って「哲学」することは、一見する
とそのようなバイアスとは無縁であるかのように錯覚するが、ニーチェが
見抜いたとおり、人々の統治イデオロギーとして一般的に用いられている
「宗教」からの独立を宣言する「人権思想」とは、その由来からして、
「統治イデオロギーとしてのキリスト教神学のステルス化」である。

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/07(金) 10:16:50.47 ID:D3a+T8Cc.net
>思索する者が「『哲学』をしていると認められようとするなら」、
この奇妙なバイアスに寄り添ふ姿勢をみせるように努めることを余儀なく
される。<

暗黙に働いているこのような制約に対して、自らの思索が、これまでの
思想・哲学の延長として理解されることを拒絶して、それよりはむしろ、
「異教世界の思想」と見なされることを歓迎するという意図的に挑発的な
姿勢を明確に示してみせたのがニーチェだろう。「ディオニュソス」、
「ツァラトゥストラ」、「アンチクリスト」といった、ニーチェが
掲げる標語はいずれも、そのような姿勢の自己宣告であると言うことが
できる。

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/07(金) 10:38:18.45 ID:D3a+T8Cc.net
にもかかわらず、その著作を、学問制度としての「哲学」がその岩根とする
バイアスは温存しながら、「哲学」として解釈して読み解いてみせるという
のは、キリスト教神学が、「異教世界の思想」を、それがキリスト教神学を
解体するように働かない限りで「寛容」により取り込みつづけるようなもので、
ニーチェからすれば、そのような試みは、レッシングの『エミーリア・
ガロッティ』の登場人物、公爵の侍従マリネルリが得意とする、現代語で
表現するなら、「スピンドクター」の「スピン」のようなものだろう。

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/07(金) 12:48:02.08 ID:D3a+T8Cc.net
>ー 「わたしたちが抑えることのできなかった焔を、
私たちは、焔に焼かれながらつぐなうのだ。」<

萌(も)えに燃ゆ

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/07(金) 15:52:27.60 ID:D3a+T8Cc.net
>「ソクラテス」という人格は、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
ものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとする働き」を
体現する者ということになるだろう。 <

プラトンの『饗宴』を読むときに、ソクラテスだけがエロースの働きについて
の真実を指摘していると考えるのは誤りである。饗宴に集ひ、順にエロース
を称賛する各自が、エロースの働きがもたらす優れた効果を適切に表現しよう
としているのである。「『エロース』とは、『う(受/享/承)けつ(継)ぐに
あた(能/与/価/当)ふものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)み
だ(出)そうとする働き』」であるという私の言い換えを前提として想定して、
例えば、最初の発言者であるパイドロスの話を読んでみるといい。

>じっさい、どれほどの臆病者であっても、そのうちにエロスが宿れば、
この神が彼を勇敢にしてくれます。彼は、極めて勇敢に生まれついた者と
同じくらい勇敢になれるのです。ホメロスの言葉に、「神が英雄たちの
ある者に、〈力を吹き込む〉」とありますが、まさにこれこそ、エロス
が愛するものたちに与えてくださることなのです。< pp.42-3

ここで「勇敢」とは、英語で言い換えるなら(私には古代ギリシア語は
分からないので)、"valor"であり、これは、日本語の「勇敢」の「敢」が、
「あ(敢)へて」に当てられるとおり、「(う(受)く)にあた(能/与/価/当)ふ」
ことを表現しており、それがエロースが愛するものたちに「あた(与)ふ」
ものなのである。私には、原文を読む能力はないものの、同様の解釈が
ドイツ語でも成立することが、ドイツ語の翻訳を参照しても分かる。
>das verleiht Eros von sich aus dem Liebenden als Geschenk.
Platon, "Symposion", Reclam, p.27

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
>「ソークラテース/Σωκράτης」という名前そのものは、「保つ力」を
意味しているものと解釈される。

このような発言をすると、普通は、そんなものは単なる「言葉遊び」に過ぎ
ないという反応が返ってくるのが普通だが、「名は態を表す」(「体」と
しなかったのは「わざと」である)という考え方は、時代と地域を超えて
あるものなので、「ソクラテス」を特定の個人と見るのではなく、
「エロースの働き」(私の言い換えでは、「う(受/享/承)けつ(継)ぐに
あた(能/与/価/当)ふものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、
う(生)みだ(出)そうとする働き」)を体現する者として見るなら、
「ソクラテス」という名前について自由連想を働かせてみることも
まったく無意味ではないだろうと私は思う。このことは、特に、
『饗宴』の「アルキビアデスの話」における「ソクラテス」の
「本当の姿」の描写が、歴史上、実在した個人の人格を記述する
ものとは、私にはとても思えないので、なおさらである。

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 10:08:51.66 ID:99Xr3je+.net
「ソークラテース/Σωκράτης」という名前は、「保全(Σω)力(κράτης)」と
直訳することができる。この「保全」は、現代でも「環境保全」という
表現においてよく耳にする表現であり、そのことは私も最初から承知している。
しかし、その「保全」という表現を避けて、とりあえずまずは、「保つ」
という、より漠然とした言い方をしたのは、「保全」という表現が、
まず「全(体)」がそこにあり、それを「保つ」というイメージを想起させて
しまうからである。このことは、「ソクラテス」が「エロースの働きの
体現者」であることを考えるなら、適切ではない。しかし、「保つ」と
だけ言っても、漠然としている。では何を「保つ」と考えることが適切
なのかと言えば、それは「健全性」である。「環境保全」という表現が、
「保たれるべ『全体的な環境/環境の全体』」を想起させるのに対して、
「健全な環境を保つ」、「環境の健全性を保つ」と表現したなら、
あらかじめ変わらないものとしてある「全体」を前提として想定する
必要がない。

345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 10:25:11.86 ID:99Xr3je+.net
このように「ソークラテース/Σωκράτης」の「ソー(Σω)」を、
「健全性を保つ」ことを表現していると見なすとき、別に私は何ら独自の
解釈を自分の趣味に合わせて強引にこじつけているわけではない。
私は、古代ギリシャ語を知らないので、検索した結果としての語源解釈
を提示するだけだが、「ソークラテース/Σωκράτης」の「ソー(Σω)」は、
"σώφρων"の"σώ"でもあり、こちらは形容詞として用いられる表現であり、
英語に訳すと、
1. Of sound mind: sane
2. moderate, prudent, sensible, reasonable
3. self-controlled, temperate, chaste, sober
に相当するとされ、「ソー(Σω)」を日本語にするなら「健全性を保つ」
ことを表現しているとする解釈の「健全さ」を確かめることができる。

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 11:01:06.10 ID:99Xr3je+.net
さて、次に、ほとんどの人には突飛に思われるだろうことを言うが、私の
自由連想では、「ソークラテース/Σωκράτης」という名前そのものが
「いは(祝/斎)ひ」を思わせる。このことは、『饗宴』において、
アルキビアデスでアガトンとソクラテスにリボンを結ぶ(私は、その
行為を勝手に日本語で「しめ(標)ゆ(結)ひ」として理解した)場面が
出てくることと無関係ではないだろう。だが、やはり時代と地域を
超えて、「名前を呼ぶことが不吉な事態をもたらす」という考え方が
あるので、「ソークラテース/Σωκράτης」に限らず、どのような名前
であれ、「いは(祝/斎)ひ」と結び付いている(聖人と同じ名前を付けて、
「名前の日」を「いは(祝)ふ」習慣や、「諱(いみな)」(私は、この表現の
本来の発音は、「いみ・な」ではなく、「ゐみ・な」だったはずだろうと
思っている)を用いる伝統を考えてみるといい)ということもできる。
しかし、「いは(祝/斎)ひ」を怠ることや、それに背くことによって
もたらされるおそ(惧)れのある「不吉な事態」とはどのようなこと
だろうか。それは、やはり、「ソー(Σω)」/「健全性を保つ」 ように
振る舞ふのを怠る、またはそれに背くことによって、「健全性が
そこ(損)なはれる」ことではないだろうか。すると、連想はふたたび、
「ソー(Σω)」/「健全性を保つ」とはどのようなことか、それは
「いは(祝/斎)ひ」と結び付いているのではないか、という考えに戻る。

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 11:13:41.70 ID:99Xr3je+.net
誤:アルキビアデスでアガトンとソクラテスに
正:アルキビアデスがアガトンとソクラテスに

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 11:37:36.07 ID:99Xr3je+.net
さらに自由連想を進めると、「ソークラテース/Σωκράτης」の「ソー(Σω)」
が、「健全性を保つ」ことを表現し、それが「健全な環境を保つ」、
「環境の健全性を保つ」こととも結びつくため、私には、フランス語の
《assainissement》という言葉が思ひ浮かぶ。これも無理のないこと
である。なぜなら、この言葉は、《assainir》という動詞の名詞化であり、
《assainir》は、語源的には、《a- +&#8206; sain +&#8206; -ir》と分解され、このうち、
《sain》は、ラテン語の"sanus"に由来し、この言葉が「健全性」を
表現することからも明白なとおり、ラテン語の"sanus"は、
「ソークラテース/Σωκράτης」の名前に「ソー(Σω)」として現れる
古代ギリシア語の"σῶς"に対応すると考えられるからである(出典 Wiktionary)。

ところで、フランス語の《assainissement》は、日本語にすると、
「清潔/清浄にすること」、「浄化」、「健全化」などを意味している。
つまりは、古語の日本語で表現するなら、「お浄(きよ)め」である。
ここまでくると、「ソークラテース/Σωκράτης」/「健全性を保つ力」
という名前に「いは(祝/斎)ひ」を連想することは自然である、
というよりも、連想しないことに方に無理がある(例えば、キリスト教
神学によってそのような「縛り」が働くことによる)のではないか
とすら私には思へる。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 11:54:27.42 ID:99Xr3je+.net
ちょっと落ち着いて書き込む時間がなくなったので、メモだけ残しておこう。
「保全」という考え方(例えば、「環境保全」)が、「保全」を損なうように
作用するもの(例えば、ウイルス)を悪とし、「保全」(健康な体)を善とする
二元論的な発想との親近性を帯びている対して、「健全性を保つ」という
考え方は、「『いは(祝/斎)ひ』における『きよ(浄)め』と『けが(穢)れ』
のキアスム的な反転可能性」を想起させる「異教世界の思想」(無論、
これは、キリスト教神学から見た名指しである)との親近性を帯びている。

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 13:50:10.53 ID:99Xr3je+.net
「きよ(浄)め」と「けが(穢)れ」を対比させる異教世界的な考え方
こそ、キリスト教神学から見れば、光と闇を原理的に対立させながら、
その両方を信仰の対象とする二元論に見えるだろう。しかし、
統治イデオロギーとしてのキリスト教神学は、その教義がいかに
精妙なものであろうとも、その運用において極めて二元論的
であり、自らの二元論的な性格を覆い隠すためにこそ、「異教」や
「異端」を二元論的な性格のものと見なして批判するという
倒錯によって特徴づけられている。

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 14:08:49.75 ID:99Xr3je+.net
確かに、白(しろ)/"translucency"によって代表される「きよ(清)ら」
であることは、日の光に結びついており、黒(くろ)/"darkness"に
よって代表される「けが(穢)れ/きたな(穢)さ」は、闇の暗さに結び
ついている。では、そのような考え方は、物事にはっきりと「白黒
をつけ」て善と悪を両極として対立させて分離する二元論なのかと
いえば、まったくそんなことはない。このことは、「けが(穢)れ」
とはどのような状態のことであり、「きよ(浄)め」とはどのような
作用なのかを考えてみるなら、容易に分かる。

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 14:49:41.12 ID:99Xr3je+.net
「けが(穢)れ」ているとはどのような状態かと言えば、それはまずなによりも、
「作物ができない」状態、「産出する力が失われた」状態のことである。
それは、「きよ(清)ら」な日の光が失われた「きたな(穢)き」/
"extremely dark"状態であると言い換えてもいい。では、どのような
ことによってそのような状態がもたらされるのかと言えば、それは、
日の光が隠れてしまうこと、失われたままであることが続くことで
あることは間違いないが(素戔男尊の神話的エピソードを参照してみるといい)、
それだけではなく、「産み出す」ことそのものなのだ。
ここに「きよ(浄)め」と「けが(穢)れ」のキアスム的反転がある。
「きよ(清)ら」でなければ、「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふもの」
をみづから(身づ柄/自ら)が「産み出す」ことはできないが、まさに
その「産み出す」ことによってみづから(身づ柄/自ら)が「けが(穢)れ」、
「けが(穢)らはし」くなるのである。この反転する関係を西洋の近代の
思想家/哲学者のなかで誰よりも明確にはっきりと意識して表現したのは、
やはりニーチェだろう。また、「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふもの」
を「産み出す」ことと、それによってもたらされる「けが(穢)らはしさ」
の関係を象徴的に表現するのが、『日本書紀』の「保食神(うけもちのかみ)」
のエピソードである。「保食神」は、「うけもちのかみ」と読まれるが、
「食」は、「を(食)す」に当てられた漢字でもあり、この「神(かみ)」
(というよりむしろ、「ダイモーン/鬼神」と見た方が適切だろう)について
の記述は、プラトンの『饗宴』における「エロースの働き」の記述と
ほとんど何の重なりもないものの、「保食神」を「『〜を!』を保つ神」と
見做すなら、「エロースの働き」と似ていないこともない。

353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 14:58:58.51 ID:99Xr3je+.net
>>349
誤:親近性を帯びている対して
正:親近性を帯びているのに対して

354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/08(土) 17:20:52.70 ID:99Xr3je+.net
>>344
誤:「保たれるべ『全体的な環境/環境の全体』」
正:「保たれるべき『全体的な環境/環境の全体』」

355 :た(堪)へ/た(絶)えかねるエロースの働き:2022/10/09(日) 08:50:25.74 ID:V/2M0LRm.net
>>287
「エロースの働き」とは、「〜を!」を保つ/「玉(たま)の緒(を)」を
つなぎとめる力を発揮することであり、その「保持力」/"capacity"
を物象化して表象するなら、やはりそれは、「いは(斎)ひへ(瓮)」
であることになるだろう。

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
>>288
ゲーテのことば - 4 ページ - Google ブック検索結果
J.W.v.ゲーテ, &#8206;長谷川弘子 · 2021 · &#8206;Fiction
それは,最高の意味でのパンドラ,つまり忍耐である.
( 1829 年 4 月:手紙の下書きが書かれた全紙にゲーテ自筆で記入)

ここで>>288の»die Geduld«は、「忍耐」と訳されているが、
それは、日本語で考えるなら、「堪忍(かんにん)」でもある。

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/09(日) 10:58:22.79 ID:V/2M0LRm.net
このような隠喩を用いて考えるときに、まず「うつは(器)」が存在して、
その「全体の容量」が"capacity"としてあるものとイメージするのは誤りである。
そうではなく、のろ(呪)ひのような忍耐の経験を堪忍により取り込んで、
それをいは(斎/祝)ふべきめぐ(恵)みに反転させてしまうことにおいて、
「うつは(器)」がその具体性において現れるのである。それを「魔術的」
と呼ぶなら、生きることは、本来、「魔術的」なのである。
ちょうど、「光や酸素の無い海底や湖底の泥の中に棲息」(Wikipedia:
アスガルド古細菌 )していた、嫌気性の古細菌から、太陽の光や酸素を
恵みとして活用する真核生物が進化したと考えられているように。

358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/09(日) 11:10:19.05 ID:V/2M0LRm.net
神(かみ)の働きを代表するものと考えられる「発酵」の作用を
働かせること、つまり、「かも(醸)す」ことが、「呼吸」とは
対極にあると考えられるのは、とても面白いことではないだろうか。

>発酵の対極にある呼吸
発酵は酸素を必要としない、嫌気的な代謝だといえます。
これに対して酸素を必要とする好気的な代謝というものがあります。
特に酸素を使ってエネルギーを獲得する手段のことを“呼吸”といいます。

同じエネルギーを獲得するための代謝であっても酸素の必要性の有無に
応じて発酵と呼吸という2種類の方法に区別されているということです。<
(引用元:nagiswine.com/fermentation-04/)

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/09(日) 11:17:21.66 ID:V/2M0LRm.net
392考える名無しさん2020/09/04(金) 13:30:10.470
自分につか(仕/使)へるもの(生物であれ、無生物であれ)が増えることが、
環境の改善であって、つか(仕/使)へるものが減ること、
あるいはつか(仕/使)へないもの(≒ゴミ)が増えて、
つか(仕/使)へるものにアクセスするのが困難になることが環境の悪化。
環境を悪化させる「有害物質」、「有害生物」というのは自分に
つか(仕/使)へるかどうかを基準とした分類に過ぎないわけで、
その基準抜きに「有害物質」、「有害生物」などというものは存在しないのです。
だから、不特定の全体にとっての「環境問題」というのも存在し得ない。

394考える名無しさん2020/09/04(金) 15:19:41.510
穀物や果物などの糖分を有益な酒に変える「発酵(醸すこと)」は、
「よ(良/善)き」ことであり、神(カミ)の働きであるが、
つか(仕/使)へない生物がその同じ穀物や果物などを自らの栄養源として利用して、
排泄物(ウンチ)にしたり、その一部を利用して腐らせてしまう「腐敗」は、
「あ(悪)しき」ことであり、神(カミ)に反する働きである(だから、「聖人」の遺体は腐敗しないとされる)。
ただし、排泄物も発酵させれば、肥料としてつか(仕/使)へるようになり、
作物を育てるのに大いに役立つ。だから、排泄物を発酵させるのも神の働きである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/発酵
>微生物が発酵食品など人間に有益な有機物を生成する過程全般を指し、
>有益でないものを生成する過程である腐敗とは区別される。

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
>>342
>じっさい、どれほどの臆病者であっても、そのうちにエロスが宿れば、
この神が彼を勇敢にしてくれます。< pp.42-3

ここでプラトン、中澤務訳、『饗宴』で「勇敢」と日本語に訳されている語は、
Reclam文庫のドイツ語訳(p.27)では、»Tüchtigkeit«と訳されており、
古代ギリシア語の原語は、"ἀρετή(aretḗ)"であることが分かる。

>Das antike griechische Wort Arete (auch Aretä, altgriechisch ἀρετή aretḗ)
bezeichnet allgemein die Vortrefflichkeit einer Person oder
die hervorragende Qualität und den hohen Wert einer Sache.
Bei Personen ist Tüchtigkeit gemeint, insbesondere im militärischen Sinn
(Tapferkeit, Heldentum). < (出典:jpedia.wiki/blog/de/Arete)

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/09(日) 20:11:06.55 ID:V/2M0LRm.net
ところで、»Tüchtigkeit«を日本語サイトで検索してみると、
ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説として、
>Tüchtigkeit [女] (―/) 能力, 力量; 適性.
がヒットするが、その語源は、ドイツ語の»taugen«という動詞に関係して
いると考えられており、こちらの語の語源説明には、次のような記載が見られる。
>Semantic evolution: "to produce, to give milk" > "to be useful,
to be fitting, to avail". (出典 Wiktionary)

これを見ると、»Tüchtigkeit«、»taugen«のいずれにもやはり、日本語で
表現するなら、「(〜することに)あた(能)ふ」という感覚が表れている
ことが分かる。実際、»Taugenichts«という罵りに使はれる言葉が
表現しているのは、日本語にするなら、「(何もすることが)できない奴/
能無し/役立たず/でく(木偶)の坊」ということになる。
また、»Taugenichts«に表れている感覚はちょうど、日本語の古語の
「あたらを(可惜)し」(現代語では、「勿体ない」と表現される)を反転
させたものであると言うことができる。なぜなら、「あたらをし」が、
「そのようなことに当てるのがを(惜)しい」という感覚を表現するのに
対して、»Taugenichts«は、「何にも適合するように当てようがない」
という感覚を伝へているからである。

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/09(日) 20:19:07.28 ID:V/2M0LRm.net
>»Du Taugenichts! da sonnst du dich schon wieder und dehnst
und reckst dir die Knochen müde und läßt mich alle Arbeit allein tun.
Ich kann dich hier nicht länger füttern. Der Frühling ist vor der Tür,
geh auch einmal hinaus in die Welt und erwirb dir selber dein Brot.«<

Joseph von Eichendorff, "Aus dem Leben eines Taugenichts"

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/09(日) 20:49:18.34 ID:V/2M0LRm.net
»Taugenichts«/「木偶の坊」のような罵りの言葉を自分に向けられることは
不快であり、その発話行為は、明白に相手の気持ちを傷つけることを意図して
行われる。だからといって、そのような表現を言葉遣ひから社会的に排除
してゆこうとすることには大きな問題がある。それは、人の気持ちを意図的に
傷つけようとする侮蔑の言葉を吐く権利も言論の自由として守られるべき
だから、といったような理由によるものではない。そうではなく、表現
を抑制することそのものが、人の評価を統制管理によって方向づけられた
ものにして、問題を暗黙裡に救い難く深刻化するからである。

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
人を侮蔑する言語表現を社会的に排除したところで、人を否定的に評価する
ことが抑制されるわけではない。それどころか、むしろ代わりに、「客観的な
基準」が導入されて、それにより数値評価が行われて、評価結果によって
正当化された差別が大手を振って行われるようになるだけの話だ。
否定的に評価される当人にとって、「使えない奴」と罵られるよりも、
「貢献度0」、「達成度0」といった評価を与えられる方が有利になり、
不快に感じなくて済むなどということはない。「使えない」と言われた
ところで、自分では「使えないのではなく、仕えないのだ」と考え直す
ことができるし。「何もできない奴だ」とダメ出しされたところで、
「『何もできない』のではなく、『何もしないことができる』のだ」と
開き直ることもできる。これに対して、「客観的な基準」による
評価は、それを受ける限り、それに服することを一方的に強いるのである。

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
「客観的な基準」による評価も、人に対して侮蔑の言葉を吐くことと同様に
恣意的に運用され、恣意的に運用することに支障が生じれば、
その「客観的な基準」の範囲外の評価が恣意的に運用されるだけの話である。

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 00:12:55.50 ID:b9NKuFRV.net
「何もしないことができる」ことは、とても大切である。

>457考える名無しさん2020/05/08(金) 08:15:10.540
「『公的善は、ひとが裏切り、嘘をつき、殺戮することを要請して
いる(...)』、とモンテーニュは言っていた。彼は公的人間を、
何もしないか犯罪者であるかの二者択一において描いている。
『どんな薬があるのか。どんな薬もない。両極端のあいだで本当
に困っているなら、そうしなければならなかったし、それを
しても後悔の念を抱かず、それをしたことが負担にもならない
なら、それは彼の意識が悪しき状態にある証拠だ。』このように、
モンテーニュはすでにして政治家を不幸な意識たらしめていた。
われらが批判者たちはこれらすべてのことについては何も知ろう
とは欲しない。彼らに必要なのは、潔白なる意識を有した自由
であり、重大な帰結を伴うことなき率直な発言なのである。」
M.メルロ=ポンティ、『ヒューマニズムとテロル』、p.31<

367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 00:41:09.39 ID:b9NKuFRV.net
>>360
>中澤務訳、『饗宴』で「勇敢」と日本語に訳されている語は、
Reclam文庫のドイツ語訳(p.27)では、»Tüchtigkeit«と訳されており、
古代ギリシア語の原語は、"ἀρετή(aretḗ)"であることが分かる。<

»Tüchtigkeit«は、言うまでもなく、形容詞として用いられる»tüchtigkeit«
の名詞形である。ここで、»tüchtigkeit«とは逆の意味の表現を検索して
みると、その結果は、次のとおりである:
>faul, unmotiviert, lahm
(出典 was-ist-das-gegenteil-von.de/tüchtig)

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 00:43:13.53 ID:b9NKuFRV.net
ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
faul
❶ 腐った, 腐敗した.
❷ 怠惰な, だらけた.
❸ ⸨話⸩ いかがわしい, うさんくさい, 怪しげな.

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
lahm
❶ (手・足・体の)麻痺(まひ)した, 不随の, 不自由な.
❷ ⸨話⸩ (疲労で)しびれた, 萎えた, へとへとの.
❸ ⸨話⸩ 退屈な; だらけた.

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 00:58:19.57 ID:b9NKuFRV.net
>>348
「ソークラテース/Σωκράτης」/「健全性を保つ力」⇒
「『きよ(浄)め』られた『いは(祝/斎)ひ』」⇒「生長/発酵」
⇒「けが(穢)れ」⇒「な(萎)え/腐敗」という自由連想は、私には
極めて自然なものに思えるが、どうだろうか。

このような連想に対して、なぜ私の「個人的な人格や性格」を問題に
しなければならないのか、私には意味不明である。

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
誤:形容詞として用いられる»tüchtigkeit«の名詞形である。ここで、»tüchtigkeit«
正:形容詞として用いられる»tüchtig«の名詞形である。ここで、»tüchtig«

371 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
>微生物が発酵食品など人間に有益な有機物を生成する過程全般を指し、
>有益でないものを生成する過程である腐敗とは区別される。

さて、人の場合はどうだろう。私が「有益でないもの」ばかりを
生成しているのは、私が「腐っている」からなのだろうか。

372 :地獄の入り口のすぐ近く(辺獄)に佇んでいるのは誰か:2022/10/10(月) 09:24:29.62 ID:b9NKuFRV.net
人は、どのようにして、生きながらにして「腐る」のだろうか。
何かが腐敗していることを知らせるものの代表として知られるのが、
硫化水素の臭いである。

>801考える名無しさん2021/10/23(土) 14:19:12.340
>かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば
ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん
(能「俊寛」)<

「いは(祝/斎)ふ」という表現を用いることに本来的に伴う「曖昧さ/両義性」
を忘れてしまうと、「いは(祝/斎)ふ」を「硫黄」と掛けたこの歌の技巧の
巧みさも、単に歌に詠まれている土地の特性に合わせた掛詞として解釈
されてしまい、十分に理解されないのではないかと思う。

802ゐと源石2021/10/23(土) 21:27:51.450
"Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."
「えもい(云)はれぬことにつきては、これをいは(祝/斎)ふべし。」<

373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 10:21:35.20 ID:b9NKuFRV.net
>>372
引用したのは私自身の書込みで、その日付を見ると、書き込んだのは、
わずか1年前のことにすぎないのに、私自身の「腐敗」(「発酵」であった
としたらよいのだが)(「自業自得」とも言う)がよほど急速に進んで
いるのか、今とほぼ変わらないことを言っているにもかかわらず、
ずっと何年も前のことであるように思へる。

374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 10:46:32.78 ID:b9NKuFRV.net
「何もしないことができる」ことに、のろ(呪)ひのような忍耐の
経験を堪忍により取り込んで、それをいは(斎/祝)ふべきめぐ(恵)み
に反転させる軸が現出する。

375 :地獄の入り口のすぐ近く(辺獄)に佇んでいるのは誰か:2022/10/10(月) 10:50:42.92 ID:b9NKuFRV.net
そのことを理解するには、「かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)」に
みづから(身づ柄/自ら)佇んでいる様子を想像してみるといい。

376 :統治イデオロギー/キリスト教神学のステルス化とは:2022/10/10(月) 13:45:40.89 ID:b9NKuFRV.net
プラトンの『饗宴』でReclam文庫のドイツ語訳と光文社、中澤務の
日本語訳では、対応する箇所の原文の解釈が大きく違っているように
思えるのですが、古代ギリシア語どころか、ドイツ語もよく分からない
私の勘違い、または気のせいでしょうか。

>Wenn es die Aufgabe der Seherkunst ist, die beiden Formen des
Eros zu beaufsichtigen und zu heilen, ist es wiederum die Seherkunst,
die Freundschaft zwischen Göttern und Menschen dadurch schafft,
dass sie das, was bei den Menschen zur Liebe gehört, kennt, sowie
es sich auf göttliches Recht und Frömmigkeit bezieht.<
Platon, "Symposion", Reclam, p.53

>また、占いの仕事とは、このような点に関して、エロスに支配された
人々を監視し、癒すことにある。すなわち、占いも、神々と人々の間に
友愛を作り出してくれるものなのだ。なぜなら、占いは、人間界での
エロスに関わる事象のうち、宗教的正義や敬虔に関わる事柄をよく
知っているからである。<
プラトン、中澤務訳、『饗宴』、光文社、pp.74-5

377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 13:57:16.53 ID:b9NKuFRV.net
これに続く箇所では、その違い(私の気のせいかもしれないが)に対応する
ように、さらに深刻な原文の解釈の違いが生じているように見えるのですが、
これも私のとんでもない勘違いなのだろうか。書評で検索しても、
それに触れるものは一つも見当たらないので私はとても不安ですw

378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 14:02:57.91 ID:b9NKuFRV.net
>>375
誤:みづから(身づ柄/自ら)佇んでいる
正:みづから(身づ柄/自ら)が佇んでいる

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 19:15:08.97 ID:hD9IVqnI.net
独り言

朝、ようつべ見たんだわ。
そしたら女がカーテン越しに服脱いで裸のシルエットさらしてんだよね。
なぜだろ?
俺は職場でセクハラにならなないよう、神経すりへらしてるというのに。
女って、ハダカさらしたい欲望でももってんのか?
それは矛盾だろ、とんでもねえ、矛盾だ。
なら、なんで俺がこんなに神経すり減らしてんだよ?
外人の着るドレスはあたしのオッパイこんなですと言わんばかりだ。
ふざけんじゃねえぜ。そんならすっぽんぽんで歩けよ、この。
どう考えてもおかしい、カネになるからとしてもだ。
何がしたいんだ、おめえら。
くーだらねえ、細かいこと俺に要求すな。
見えたら見えたで、そりゃあ、あるものがあり、ないものがない、それだけだ。
創世記にもあるだろ、それが堕落の始まりだ。
罪があるから隠すんだよ、隠す必要がないのは無原罪。
だから、俺は・・・・・・・・見せろや、くそ女ども。

380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 23:38:37.52 ID:b9NKuFRV.net
Ἀρετή e virtus al femminile. La gravidanza e il parto nell'arte ...
R Salmaso 著 · 2020

>Il parto per le donne, così come il campo di battaglia per
gli uomini, era considerato dunque una prova in cui mostrare
il proprio valore. Insomma, una dimostrazione della propria
ἀρετή o, per dirlo alla latina, la propria virtus. Ecco quindi
che le donne morte per mettere al mondo un nuovo cittadino
e magari futuro imperatore, magistrato, generale, avvocato,
filosofo, letterato diventano le eroine del loro tempo e le artefici
del potere generativo femminile. Del resto «solo il corpo femminile
possiede la capacità di sdoppiarsi e mettere al mondo mantenendo
la propria unità».<

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/10(月) 23:42:05.22 ID:b9NKuFRV.net
大切なことなので、もう一度言いますね。

>「ソクラテス」という人格は、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
ものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとする働き」を
体現する者ということになるだろう。 <

382 :論より証拠:2022/10/10(月) 23:44:50.31 ID:b9NKuFRV.net
私には、日本語は、西洋の言語と比べて、哲学をするのに向かない
言語だと主張する人々の論拠がさっぱり理解できないのですよ。

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/11(火) 07:55:18.71 ID:s8bSOJoN.net
日本語はロリ的に論を進めるのには余計なものやあいまいさがあって向かないんだよ。
あ、ロリ的ではなく、論理的にな。
むしろロリ的には向いてるな。

384 :反人文学としての人文学:2022/10/11(火) 08:35:42.84 ID:qyqwgxZz.net
いずれにせよ、「哲学」(に限らず、制度的な「学問」)を専門とする
人々から見れば、私のような者は、地獄の入り口にすぐ近くで調子に
乗って踊っている愚か者に過ぎないので、いい加減なところで妥協
して言葉を濁すのはやめておこう。

「哲学」において議論の対象とされ、日本語では一般的には「徳」と
訳されてきた古代ギリシア語の"ἀρετή(aretḗ)"は、日本語訳の場合
と同様に、諸外国の言語においても、この表現が用いられる文脈に
応じて様々に訳し分けられており、この言葉が基本的にどのような
ことを表現しているのか容易には捉えることができないものとされて
いる。このことは、日本語の場合で、"ἀρετή(aretḗ)"⇔「徳(とく)」
という対応関係を想定しても、「徳(とく)」がどのようなことを
表現しているのかはっきりしないことを見ても分かる。しかし、
その不明瞭さは、古代ギリシア語の"ἀρετή(aretḗ)"が、現代の
諸言語の表現では容易に理解することのできない、特殊な物事の
捉え方を表現していることに起因するわけではない。実のところ、
古代ギリシア語の"ἀρετή(aretḗ)"が、その基本的な用法において、
どのようなことを表現しているのかは、現代の日本語の言葉にも
そのまま簡単にうつすことができる。それは、「すこやかさ」
(したがって、「健全さ」、「丈夫さ」と言い換えることもできる)
である。

385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/11(火) 08:36:50.76 ID:qyqwgxZz.net
誤:地獄の入り口にすぐ近く
正:地獄の入り口のすぐ近く

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/11(火) 09:06:15.31 ID:qyqwgxZz.net
「エロースの働き」(「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
ものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうと
する働き」)が、"ἀρετή(aretḗ)"/「すこやかさ(健全さ)」をもたらす。

したがって、「エロースの働き」を体現する者である"Σωκράτης"/
「ソークラテース」は、その名前からして、「Σω/ソー(健全性を保つ)・
κράτης/クラテス(力)」なのだから、「『う(受/享/承)けつ(継)ぐに
あた(能/与/価/当)ふもの』≒"ἀρετή(aretḗ)"/『すこやかさ(健全さ)』
を保つ力」の「権化(すなはち、姿形として顕現させるもの)」である
ということもできる。

387 :反人文学としての人文学:2022/10/11(火) 09:20:19.94 ID:qyqwgxZz.net
では、なぜこれほど容易に「すなほ(素直)に」理解できるはずのことが、
「哲学」においては、不明瞭で複雑さを極めるようになるのかといえば、
それは、そもそも、「人文学」が、本来的に「反人文学」として運用され
ているからであり、制度としての「哲学」も由来からしてそのように
運用される「人文学」に属しており、「伝統」からの独立を宣言する
新規の「哲学」も、そのような運用上の規範を「ステルス化」するもの
に過ぎないからである。

388 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
>古代ギリシア語の"ἀρετή(aretḗ)"が、その基本的な用法において、
どのようなことを表現しているのかは、現代の日本語の言葉にも
そのまま簡単にうつすことができる。それは、「すこやかさ」
(したがって、「健全さ」、「丈夫さ」と言い換えることもできる)
である。<

「哲学」がなぜこの程度のことすら明確に表現することができないか
と言えばそれは、ニーチェが見抜いたとおり、また、フィヒテも
そのことに気づいていたとおり、ステルス化された統治イデオロギー
としてのキリスト教神学が、「すこやかさ」を、統治を脅かす危険
(「たけだけ(丈々/猛々)しさ」)の徴候と見なしているからであり、
その「道徳」が、人々が「すこやかに生きることができる」ようにする
ことなどではなく、「すこやかに生きようとする」人々を「な(萎)え」
させること、「委縮/恐縮させる」ことを暗黙の目的としているからである。

389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/11(火) 10:00:40.51 ID:qyqwgxZz.net
ニーチェにとっては、哲学するといういとなみそのものが、「な(萎)え」
からの»Genesung«(本居宣長の表現では、「なほび」となるだろう)
のプロセスである。

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 00:29:33.27 ID:pGipdJF3.net
古代ギリシア語の"ἀρετή"が、他の言語においてどのように解釈
されているのかを検索していて、ヒットした論文に次のものがある。
>PAVEL NÝVLT, "ΑΡΕΤΗ OF A REVOLUTIONARY", EIRENE XLIX, 2013, 33–47
私自身、論文の中に出てくる説明のための表現を一部分参照しただけで、
論文に目を通したわけではないが、トゥキュディデスの著作において
使われてている"ἀρετή"の解釈が検討されていることが分かる。
例えば、p.37には、次のような記載が見られる。
>Restraint (cf. THUC. II,45,2, concerning women);
Honesty and justice (cf. THUC. III,10,1 [bis], IV,63,2, 81,2
and 86,5, V,105,4, VI,54,5, and perhaps VII,86,5);
Generosity and selflessness (and reputation for it;
cf. THUC. I,33,2, 69,1 and 123,1 [pl.], II,40,4, IV,19,2–3);
Nobility (cf. THUC. I,37,2 and 5);
Consistency, a sense of duty, courage and willingness to
self-sacrifice. I would tentatively suggest that the last four
qualities mentioned are the most prominent element of
ἀρετή in Thuc. VIII,68,1, being ingredients of the determination
to face consequences of one’s efforts in face of mortal danger.<

> THUC. I,2,4, διὰ γὰρ ἀρετὴν γῆς, where fertility is obviously meant,
should discourage us from trying to find a single modern word that
would fit all contexts.<

391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 00:59:04.18 ID:pGipdJF3.net
ここで著者は、"ἀρετή"の解釈として適当な英語の表現の候補を示したうえで、
さらに、"ἀρετή"は、文脈によっては"fertility"も意味するので、すべての
事例に当てはまる1つの言語表現を現代語において見出そうとすることには
無理があるだろうということを注において指摘している。しかし、
このことは、"ἀρετή"が「古代の言語表現」であることに起因する問題
ではない。まったく同様の問題は、現代語のある言語の表現を別の言語に
翻訳しようとしても生じるのであり、それは、例えば、「すこやか」、
「健全」といった現代の日本語で普通に通用する表現を翻訳しようと
しても生じる。その一方で、"fertility"と訳すことが適切と考えられる
文脈における"ἀρετή"の用法も、「作物が『すこやか』に育つ土地」、
「健全な土地」と理解しても何ら大きな問題は生じないだろうと思われる。
それぞれの文脈において"ἀρετή"の訳語と適合すると思われる
"fertility"、"nobility"、"honesty and justice"を並べて、これらが
互いにどのように関係しているのかという形で問われれれば、
一瞬、戸惑うかもしれないが、例えば、「健全なアドバイス」
という日本語を考えて、その「健全」に相当する英語が"sound"
や"sensible"であり、ポルトガル語で考えるなら、"valioso"になる
だろうことを想起して、それが「価値がある」こと、「貴重である」
こと、すなわち、「う(受)くにあた(能)ふ」ことを意味することに
思い至るなら、解釈に何ら困難も混乱も生じないばかりか、"ἀρετή"
をポルトガル語で解釈するのに"valioso"が適合するだろうこと、
さらには、古代ギリシア語に限定されない多言語間の対応関係を
メタ言語的に捉えることも可能になる。

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 01:07:34.83 ID:pGipdJF3.net
>sound advice (sensible recommendation) conselho valioso<
(出典 wordreference.com/pten/valioso)
>Que tem grandes merecimentos; que tem valimento.
(出典 dicionario.priberam.org/valioso)
>valioso
❶ 価値の高い,高価な joia valiosa|高価な宝石.
❷ 貴重な uma valiosa lição|貴重な教訓.
(出典 プログレッシブ ポルトガル語辞典)

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 01:24:45.12 ID:pGipdJF3.net
「う(受)くにあた(能)ふ」とはどのようなことかを考えるには、
英語の"It's an honor"や"honorable"という表現も合わせて想起して
みれば、それが「徳(とく)」とどのように関係するのかも
よりよく理解できるようになるだろう。

394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 01:40:21.18 ID:pGipdJF3.net
ちなみに、今年、私は例外的に本を買いまくっているが、それでも
今年これまでに購入した本は19冊に過ぎず、購入金額の合計は
約1万2千円である。電子書籍や電子論文は、検索でヒットした
箇所を参照することはあっても、読むことはしていない。
それ以外で読む本は、地元の自治体の図書館を利用させてもらっている。

395 :保食神(ウケモチノカミ)と月夜見尊(ツクヨミノミコト):2022/10/12(水) 09:03:10.06 ID:pGipdJF3.net
以上に検討してきたことを踏まえれば、これがどのような話なのか、
どのようなことをつた(伝)へているのか、無理なく分かるだろうと私は思ふ。

>天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。
天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。
月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、
海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、
それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせる
とは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、
もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに
別れて出るようになったのである。

天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。
保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲
陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、
天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを
田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に
記された最初の季節である。 <
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/保食神)

396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 09:23:31.87 ID:pGipdJF3.net
「う(受)くにあた(能)ふ」ものは、きよ(浄)らで、貴重であり、
それを「う(受)く」のは、尊重される("to be honored")こと、
「たふと(尊)ひ」("honorable")とされることである。
逆に、「う(受)くにあた(能)はない」ものは、けが(穢)らはしく、
卑賤であり、それを「う(受)く」のは、侮辱される
("to be dishonored")こと、「いや(卑/賤)し」("despicable")と
されることである。

397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 09:50:16.01 ID:pGipdJF3.net
無論、このような物事の捉え方が、身分制度に基づいて組織化された人々
の考え方と深く結びついていることは言うまでもない。では、すべての
人々に適用されるべきものとして一般化された民主主義制度の下では、
身分制度を正当化するような考え方は、否定されるべきものなのだから、
このような物事の捉え方も、その正当性を否認しなければならないの
だろうか。しかし、いくら民主主義的な手続きに則って皆で決めた
ところで、そのような否認には、土台、無理がある。なぜなら、
その捉え方は、コモンセンスとして人々に通用するものであり、だから
こそ身分制度に先立つものとして、身分制度を正当化する基礎の理屈
として活用されているのであり、その捉え方が身分制度によって支え
られているわけではないからだ。したがって、身分制度を法的に廃止し、
身分制度は、好ましくないものであると皆で合意するように誓約を
とりつけたところで、その捉え方が消失するなどということはない。

398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 10:03:22.61 ID:pGipdJF3.net
キリスト教神学は、そのことがよく分かっているからこそ、「たふと(尊)ひ」
/「いや(卑/賤)し」という対比の関係を人々に否認させようとするのではなく、
それを、「神(かみ)」の名の下で逆転させてみせるのである。そして、
統治イデオロギーとしてのキリスト教神学はまさに、この逆転を活用する
ことにおいて、「異教世界的な考え方」では、もともと、キアスム的に
反転可能なものとして捉えられていた「たふと(尊)ひ」/「いや(卑/賤)し」
の対比を、二元論的な対立に変換するのである。しかも、その変換は、
「異教世界的な考え方」の方を今度は、二元論的であると非難しつづ
けるという発話遂行的な倒錯に依拠している。

399 :給料日が待ち遠しい(嘘です):2022/10/12(水) 10:28:59.35 ID:pGipdJF3.net
>>395-398
保食神(ウケモチノカミ)と月夜見尊(ツクヨミノミコト)の話が、どのような
ことを伝へているのかは、「たふと(尊)し」≒「きよ(浄)し」/
「いや(卑/賤)し」 ≒「けが(穢)らはし」の対比を「異教世界の考え方」
に則してキアスム的に反転可能なものとして捉えたなら、
保食神(ウケモチノカミ)、月夜見尊(ツクヨミノミコト)という名前が
どのようなことを表しているのかを考えてみるだけですぐに明らかになる。

保食神(ウケモチノカミ)は、人々が「う(受)くにあた(能/与/価)ふ」ものを、
みづから(身づ柄/自ら)が保ち、吐き出す存在であると理解して何の
問題もないだろう。その一方で、月夜見(ツクヨミ)が、「月夜を見る」
行為(月という天体の「天体観測」である)を表すことであり、それが
同時に「月を読む」行為、すなわち、「月の満ち欠けの周期を読む」
行為であることも、古代の人々が太陰暦を使っていたことから、
自然に理解されるはずである。ところで、保食神(ウケモチノカミ)が
「う(受)くにあた(能/与/価)ふ」ものすべて「吐き出す」とどうなる
だろうか。当然、「う(受)くにあた(能/与/価)ふ」ものは、
「つ(尽)き」る。それは、「不浄」なこと、「けが(穢)らはし」い
ことである。では、月夜見(ツクヨミ)が、保食神(ウケモチノカミ)
を斬るのはなぜだろうか。それは、「つひたち(朔日)」という表現が
どのようなことを意味しているかを考えて見れば、直ちに分かる
はずである。なぜなら、「つひたち(朔日)」は、「つき(月)た(立)ち」
の日であると同時に、「つ(尽)きた(断)ち」の日でもあるのだから。

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 10:39:36.54 ID:pGipdJF3.net
月末のような「つひ(終/費/潰)え」

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/12(水) 11:00:22.03 ID:pGipdJF3.net
ステルス化した統治イデオロギーとしてのキリスト教神学の「終末」は、
むしろ、「週末」のようなものとして、孤立した「個人」を訪れることに
なるのではないか。

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 09:54:52.30 ID:FfYM220+.net
>>285-289
「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふ」ことに関連して、ゲーテも
それを利用した「聖なる器」という表現を参照した。「聖なる器」
が「底知れぬ」ものであったとしても、これはやはり、
「う(受/享/承)くにあた(能/与/価/当)ふ」ことに先立って
「うつは(器)」があるものと想定する物象化による表現に
他ならず、そのような物象化によってもたらされる概念が
「器量/度量」/"capacity/tolerance"であり、それを発揮して
見せることが"ἀρετή"/「すこやかさ/健全性」の表れなのである。
>>390に引用した論文で、トゥキュディデスの著作において
使われてている"ἀρετή"の様々な用法に対応するものとして
列挙される英語の表現を見たが、そのいずれも、そのような
「器量/度量」/"capacity/tolerance"として理解することができるだろう。
また、『饗宴』の日本語訳で"ἀρετή"の訳語として当てられて
いることを見た「勇気」も、より具体的に分かりやすく
言い換えるなら、「器量/度量」/"capacity/tolerance"を
身体の部分によって代表させる「度胸」ということになる。

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 10:08:42.43 ID:FfYM220+.net
したがって、プラトンが『饗宴』の登場人物の言葉を通してをし(教)へよう
とする「エロースの働き」も、「うつは(器)」という物象化を介して
見るなら、「『器量/度量』/"capacity/tolerance"をみづから
(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとする働き」と
言い換えることもでき、これは、物象化した見方からすれば、
「うつは(器)の再生/"regeneration"」として見えるはずである。

404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 10:22:31.28 ID:FfYM220+.net
さて、「エロースの働き」、即ち、「『器量/度量』/"capacity/tolerance"
をみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとする働き」が、
"ἀρετή"/「すこやかさ(健全さ)」をもたらし、それが、
「うつは(器)の再生/"regeneration"」として見えるとするなら、
その再生される「うつは(器)」の「器量/度量」/"capacity/tolerance"
は、再生前の「うつは(器)」のものとまったく変わらないことが
望ましいのか、それともより小さくなることが望ましいのか、
あるいはより大きくなることが望ましいのか。
プラトンが人々に「徳(とく)」/"ἀρετή"を追求するように説いて
いるとすれば、それはどのような「徳(とく)」/"ἀρετή"なのか。

405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 11:09:27.70 ID:FfYM220+.net
「徳(とく)」/"ἀρετή"という抽象概念として単独で提示されると、あたかも
プラトンが教へる「徳(とく)」も、キリスト教神学が人々に説き聞かせる
「徳(とく)」も同じものであるように思える。しかし、ソクラテスという
「エロースの働き」を体現する者を代表例として見れば明らかなとおり、
プラトンにとって、「器量/度量」/"capacity/tolerance"は(したがって、
当然、「度胸」も)より大きい方が望ましく、何らかの行ひによって
それがより小さくなってしまうなら、をれは「エロースの働き」を
妨げる「悪しき行ひ」ということになるはずである。
では、それが統治イデオロギーとしてステルス化されていようと、
いまいと、キリスト教神学が説教する「徳(とく)」の場合はどうだろうか。
キリスト教神学が、人々に追求することを求める「徳(とく)」(例えば、
「内省」/《recueillement》によって)は、みづから(身づ柄/自ら)
の「器量/度量」/"capacity/tolerance"(当然、「度胸」も含む)を
より大きくすることを人々に促すものだろうか。ここでは、
キリストみづから(身づ柄/自ら)の行ひとキリスト教神学が
人々に説教する「徳(とく)」をはっきりと分けて考える必要がある
(キリスト自身はむしろ、ソクラテスに似ているとして、ニーチェが
そうしたように)。なぜなら、プラトンの言説においては、ソクラテスは、
理想としての代表例の役割を果たしているのに対して、キリストは、
少なくとも、キリスト教神学においては(キリストの言動そのもの
においてではなく)、キリスト教徒/キリスト者がそのようになること
ができることを理想とする代表例などではなく、人々の「身代わり」
だからである。

406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 11:27:13.34 ID:FfYM220+.net
キリスト教神学が説教する「徳(とく)」が、人々にみづから(身づ柄/自ら)
の「器量/度量」/"capacity/tolerance"(当然、「度胸」も含む)がいかに
小さく卑小なものであるかを自覚させるものであるとすれば、それは、
その自覚によって、その「器量/度量」/"capacity/tolerance"をキリスト
のように(ソクラテスのようにと言い換えてもいい)に大きくすることを
促すためなどではなく、それが、「神(かみ)」のものとくらべて無限に
小さいことを繰り返し、絶えず確認させ、「度を過ぎた振舞い」をする
ことがないように自戒させるためではないのか。

407 :全権を握った人民:2022/10/13(木) 11:36:04.03 ID:FfYM220+.net
また、落ち着いて書き込む時間がなくなってきたので、メモだけ残しておく。

統一的な統治の確立とは、「ま(任)け」により行使することが許される
裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")の一元化された階層的な
組織化である。

408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 13:24:37.30 ID:FfYM220+.net
さしあたり、これについて言おうと思ってまだ残していることは、
それほど多くない。というのも、私が言いたいことは、上で述べたこと
を踏まえて、人々の組織化、つまり、社会について考えるなら自明だからだ。
しかし、それをわざわざ言葉にして書き記そうとするような人もまずいない。
書いたところで、誰にも歓迎されないことが自明だからである。
その代わりに、制度的な「哲学」や「べき論」/イデオロギーとしての
思想の言説が、洪水のように垂れ流される。

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 13:37:15.27 ID:FfYM220+.net
「百姓は、生かさぬように、殺さぬように」というのは、よく耳にしてきた
言葉だが、検索してみると、実際にそのようには表現はしておらず、
「百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道也」という
言葉があるそうだ。しかし、いずれにしても、この言葉は、統治の
基本的な考え方をよく表している。それは、人々が勝手に自身の
「器量/度量」/"capacity/tolerance"を拡大させてしまうのを許す
ことがないように、少しでも余裕を見せるなら、それを注意深く
奪わなければならないということである。これを逆向きに、
被統治者の側から見れば、少しでも余裕を見せたなら、ただちに
それを厳しく戒められて、つねに「委縮/恐縮」しているように
罰せられるということである。

410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 13:50:07.05 ID:FfYM220+.net
キリスト教神学は、いくら宗教権力と政治権力が並立する二重構造のなかで
成立したとはいえ、やはり全体を一元的に組織的に統合しようとする統治に
都合がいいからこそ、制度化され、伝統化されて、統治イデオロギーと
して利用されてきたのだ。したがって、キリスト教神学が人々に説教する
「道徳」が統治に便利であるとしても、同じ役割を果たすなら、その
「道徳」は別にキリスト教に依拠しなくてもいいし、「神(かみ)」が
政治権力の正当性の根拠でなくなるなら、「神(かみ)」を「人類」に、
さらには「地球の生命」に置き換えたところで、一向に構わないのである。

411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 14:08:19.00 ID:FfYM220+.net
>統一的な統治の確立とは、「ま(任)け」により行使することが許される
裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")の一元化された階層的な
組織化である。<

統一的な統治下で、人々が、「ま(任)け」により行使するのを許される
ことなく、「勝手に」裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")を
発揮したらどのようなことになるだろうか。自分の土地でできた作物、
自分で製作した製品、自分で身に付けた技能によるサービスを、
「上から」監督されることなく、税金を納めることもなく勝手に
取引きしたなら、それは「闇取引き」という犯罪行為になるし、
「ま(任)け」により行使するのを許された権限についても、
事前にであれ、事後にであれ、その行使が承認されるものである
ことの確認をとらずに、自身の「器量/度量」/"capacity/tolerance"
として行使したなら、「汚職」ということになるだろう。

412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 14:16:24.58 ID:FfYM220+.net
その一方で、そのような統治の仕組みのなかで、自分がなにかをしようと
したなら、みづから(身づ柄/自ら)の「上の側で」権限を握る人に
裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")を発揮してもらわなければ、
なにひとつ物事を進めることができないことも、人々は、実際の経験
を通じて、痛いほど思い知らされている。すると、金銭的な報酬
によってであれ、人脈的なつながりによってであれ、それが
「罰せられるべき行為」として咎められることなく、「上の側で」
権限を握る人に裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")を
発揮してもらうことのできる人物が、「有能で役に立つ人間」である
ことになる。

413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/13(木) 14:51:36.50 ID:FfYM220+.net
このような状況は、一見すると、統治の仕組みの「腐敗」のように思える
が、そうではなく、一元化を志向する(その一元化が「神(かみ)」に基づく
のであれ、「主権者の民意」に基づくのであれ)統治の基本的な働きに
よってもたらされるものである。そのように「上の側で」権限を握る人に
よって発揮される裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")により、
自らが不利な状況に置かれていると感じる人々は、その権限の行使の
ありかたを、当然、「腐敗」、「不正」と見なして非難する。
しかし、自身の側も、なんとか生活できるようにしようとするなら、
そのように発揮される裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")に
頼る他なく、そのために手をつくして、何らかの便宜をはかってもらう
ことになる。それをせずにどん底に追い込まれる者は、無能な愚か者
とされるしかないからだ。そして、これは、統治の仕組みから
「腐敗を一掃する」ことによって解決されるような問題ではない。
というのも、「腐敗を一掃する」という名目で実際に実施され得るのは、
「下の側」にいる人々の裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")
を徹底的に奪って管理し、相互監視させる全体主義にしかなり得ない
からだ。しかも、全体主義が徹底されたところで、「上の側で」権限を
握る人によって発揮される裁量権(「器量/度量」/"capacity/tolerance")
に頼らなければならない度合は、大きくこそなれ、小さくなることはない
からである。

414 :生きることの多様性とは:2022/10/13(木) 15:04:46.60 ID:FfYM220+.net
何らかの「徳(とく)」が説かれているとき、それが互いの「器量/度量」
/"capacity/tolerance"をより大きくするように働きかけるものなのか、
それとも逆に互いの「器量/度量」/"capacity/tolerance"を委縮させる
ものなのかに注目すれば、表面上、掲げられた思想の向きにかかわらず、
それが統治に関してどのような立場をとるものなのかが明らかになる。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 08:37:26.17 ID:TywbjuDU.net
図書館で借りたシュテファン・ツヴァイクの『デーモンとの闘争
 ヘルダーリン・クライスト・ニーチェ』を読み終えた。
私は、既に指摘したとおり、「ダイモーン/鬼神」を「デーモン」に
変えてしまうツヴァイクの読みの枠組みそのものに同意しないが、
「ニーチェ」を読むと、私がこれまでに、別の経路から(主として
日本語の古語の表現を検討することによって)到達することになった
のとほぼ同様の表現が、ツヴァイクの表現にも頻繁に用いられている
ことに気づかされる。それは、ニーチェの言説の哲学的な読み方に
ついてツヴァイクと私では大きな違いがある、というより、ツヴァイクは、
あくまでもニーチェの人生とその著作を批評することに専念しており、
私の方は、ニーチェの言説を自分で哲学的に思索するのに役立てる
ことしか考えていないにもかかわらずである。無論、これは、
ツヴァイクの方が1世紀近く前にこの本を書いていて、共通で読んだ
著作を批評の対象としているので、私の方が知らないうちに
間接的に言語表現上で大きな影響を受けていると考えることはできる。
しかし、ツヴァイクの批評において私の目をひく表現の多くは、
ツヴァイク独特のものではなく、日本のものを含む古典に見られる
ものなので、やはり、それは、事象の捉え方をうまく人に伝えようと
することを徹底して追及するなら、時と場所の違いを超えて、
自ずと互いのコモンセンスに近づくことの反映だろうと思ふ。

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 10:51:36.85 ID:TywbjuDU.net
プラトンの『饗宴』において、「ソークラテース/Σωκράτης」/
「健全性を保つ力」を、「『エロース』と呼ばれるダイモーン/鬼神の働き」
を体現する者と見なすなら、ソークラテースを招待する「饗宴」の主催者
である「アガトーン/Ἀγάθων」はその名前から自然に、
「アガトダイモーン/Ἀγαθοδαίμων」の化身であると見られることになる
だろう。
>アガトダイモーン [...]は、ギリシア神話において、ブドウ畑と穀物畑
そして幸運と健康と知識の神であった。名はギリシア語で「善き霊」を
意味する。彼を讃えるために毎食の度に純粋なワインを注ぎ飲む風習が
あった。幸運の女神テュケーとは夫婦である。[...]
後に幸運(特に家族によい飲食物)を司る一般的な「ダイモーン」
として作り替えられた。< (出典 Wikipedia)

ちなみに、幸運の女神テュケーの「テュケー」という名前は、
上に引用した『饗宴』のドイツ語訳で"ἀρετή"(私が、日本語で
「すこやかさ/健全性/度胸/丈夫さ/器量のよさ/徳(とく)」など
とする)の訳語として当てられている»Tüchtigkeit«と語源的に
共通であると考えられている。このような一連の関連性に
古代ギリシア語に精通した専門家が気づかないはずはないだろう。
私のように、古代ギリシア語はおろか、ドイツ語すらよく知らない
人間でも気づくのだから。

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 11:10:14.76 ID:TywbjuDU.net
>イエスと弟子たちも招かれたガリラヤのカナでの婚礼でイエスは
六つの水がめに入った水をぶどう酒に変える(カナの婚礼)。
<ヨハネ 2:1>< (出典 Wikipedia)

「水をぶどう酒に変える」というのは、キリスト教神学における
「善悪」を考えるうえで極めて象徴的だ。日本語の場合にも、
「か(醸)む」こと、「かも(醸)す」こと、つまり、「発酵させる」
ことが「神(かみ)/甕(かめ)」の働きであることからも分かる
とおり、「ぶどうの搾り汁をぶどう酒に変える」働き、つまり、
アルコール発酵させることが「ダイモーン/鬼神」の「善き働き」
の現れであるはずであり、そうではなく、腐敗させてしまう、
または完全に酸っぱくて飲めなくしてしまうなら、それは
「悪しき働き」の現れとされるはずである。しかも、
「生きた論理」においては、「ぶどうの搾り汁」が「ぶどう酒」
に変わるのではなく、酢、つまり、「ワイン・ビネガー」に
変わってしまったとしても、それを「善きもの」として利用
できるなら、それはまた「ダイモーン/鬼神」の「善き働き」と
なるだろう。これに対して、キリスト教神学における「悪」
とは、「ぶどう酒」に水を混ぜる量を増やしていくようなこと
であり、その「悪」を自戒することが「善」である。
キリスト教神学から見て「異教世界の考え」とされる「善悪」
とキリスト教神学の「善悪」のどちらが本来の意味で「二元論的」
だろうか。

418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 11:15:10.14 ID:TywbjuDU.net
ここにも、「善」を「悪」から守る「保全性」という考え方と、
「善」と「悪」がつねにキアスム的反転の可能性をともなって
作用している「すこやかさ/健全性を保つ」という考え方の対比
を見てとることができるだろう。

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 11:29:42.98 ID:TywbjuDU.net
>自分の生まれたところではなしに[...]、自分が生んでゆくところ、
己みずからが分娩をなすところこそ、ニーチェにとって精神人の住まう
べき場所なのである。「父住うところ、また家郷なり」 − とは、
自分が生み出されたところではなく、「私が父であり、私が生み出す
ところこそ、私の故郷である」という意味なのである。<
ツヴァイク、『デーモンとの闘争 ヘルダーリン・クライスト・ニーチェ』
P.370

420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 11:42:24.53 ID:TywbjuDU.net
>しかも、この途方もない充実さにもかかわらず、そこには何ら
苦労や努力のあとが見られない ― 創作はとうに、行為であり
仕事であることを止め、たんになすがまま(レッセ・フェール)
であり、より高い力のおもむくがままのものになっているのだ。
精神に全身を揺すられたこの人は、ただ視線をあげさえすればよい。
あの遠くを見とおす、「遥かに思索する」目をあげさえすればよい
のだ。< 同書、p.396

>456考える名無しさん2022/01/05(水) 09:32:28.950
>天地(あめつちの分かれし時ゆ神(かむ)さびて
高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を
出典万葉集 三一七 <

421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 11:51:19.75 ID:TywbjuDU.net
>684考える名無しさん2021/10/07(木) 12:01:55.780
「駿河(するが)なる富士(ふじ)」、
「『する』が『なる』不死」、すなわち、「『する』=『なる』不死」、
多くの人は、この「『する』が『なる』」を、「『な(為)せ』ば『な(成)る』」
と読み違えてしまう。だから、「富士」と「茄子」を夢見ることになるのだ。
しかし、「『する』が『なる』」は、「『なせ』ば『なる』」ではない。
「する」とは、《laisser faire》であり、「なる」とは、《se faire》である。
つまり、「『する』=『なる』」とは、"《laisser faire》=《se faire》"
であり、それが「不死」なのである。それを「『なせ』ば『なる』」
と読み違えると、"《laisser se faire》=《se faire》"という思ひ違いが
生じて、「『な(成)る』ことがないのは『な(為)す」ことをしないからだ」
という無理な考え方をするようになる。<

>740駿河なる富士/「『する』=『なる』不死」2021/10/11(月) 11:30:29.020
「なるべく『して』なる」とき、その「する」作用は、
人為ではなく、自然の働きである。<

457する=なる2022/01/05(水) 09:36:57.450
»Wille zur Macht«/"to do what you can"/「駿河なる富士の高嶺を」

>35駿河なる富士の高嶺2021/11/15(月) 12:06:54.850
[...]
ニーチェは、一見したところ、「『駿河なる富士の高嶺』を望む」ことを
否定的に評価しているように見える。なぜなら、
「山頂に雪をいただき、地底に灼熱をひめた山脈への眺望などもたずに、
おまえは生きるのだ」(『愉しい学問』、講談社学術文庫、p.286)と
はっきりと宣告しているからである。しかし、本当にそうだろうか。
次の文においてニーチェが表現していることを日本語でよく考えてみるといい。

Indem wir tun, lassen wir.
Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 2, S. 179.
http://www.zeno.org/nid/20009253556

"Indem wir tun, lassen wir"は、そう誤解されて解釈されやすい
ように「為せば成る」ことではなく、「駿河なる」こと、すなわち、
「『する』=『なる』」ことではないだろうか。その表現が、
ドイツ語の文法に従うことによって、日本語の表現が裏返った
かのように表現されるにしても、である。<

422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 13:57:14.91 ID:TywbjuDU.net
>事実、彼の精神的更新にあたってはつねに何かが死滅し、内部組織
の何かが引き裂かれるのである。[...] つねに精神の全容器が
新しい霊感の炎のために、見分けがつかぬまでに焼き尽くされ、
炭化される。ニーチェの変転には、いつの場合も死の痙攣と生みの
痙攣とがあるのだ。< 同書、p.357

>ゲーテはつねに己れの運命の主でありたいと欲するのであり、
どんなことがらからも彼はそれらに許す範囲のものだけしか受取ろう
とはしないのである(これに対して、ニーチェ、ヘルダーリン、
クライストといった濫費家は、どんな印象にも分割できない全霊
をもって没入し、その印象に分割されてふたたび流れとなり焔
となって熔けることによろこびを感じるのである)。< 同書、p.367

423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 14:13:14.67 ID:TywbjuDU.net
この著作でツヴァイクは、一方で、その都度、自らのすべて賭して
表現しようとするニーチェ、ヘルダーリン、クライストの自己破滅的
とも見える振舞いと、他方で、様々な経験にさらされながらも、
つねに自身を大切に守って成長し、老成していくゲーテを対比し、
その違いを「デーモン」に対するそれぞれの側の生まれつきの
資質に起因するものとしている。しかし、私は、そのような
「資質」を、一般的な意味で理解される「個人」に生まれつき
備わった性格のようなものと理解する限りで、ツヴァイクの捉え方
にはまったく同意しない。

424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 14:30:09.42 ID:TywbjuDU.net
ゲーテは若い頃に、戯曲、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を
自費出版して、それが評判になるという意味では、成功を収める
ものの、それによって金銭的な報酬が手に入ったわけではなく、
また、評価され、人気となったのは、この作品が扱った素材であり、
作家としての表現の能力ではなかったと冷静に判断している。
しかし、それが実質的に何の見返りもない空虚な形だけの成功で
あったとしても、それで挫けることはない。そもそも、その
作品が何ら金銭的な報酬をもたらさなくても、それによって
生活が困難になるように追い詰められる心配などなく、
それを出版できるか否かに自分の人生を賭ける必要など最初から
ないからである。

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 14:56:27.66 ID:TywbjuDU.net
ゲーテの自伝を読むと、ゲーテがいかに経済的にも、社会的にも
恵まれた環境で自己形成をすることができたのかがはっきりと分かる。
育った家庭は裕福で、家系の人脈は社会的に大きな影響力のあるもの
であり、ゲーテが心配しなければならなかったのは、孤立して困窮する
ことなどではなく、そのように恵まれたゲーテの社会的な資質を
利用しようとして近づいてくる人々に都合よく騙されて、無用な
トラブルに巻き込まれないようにすることの方だったのだ。逆に、
ゲーテ個人に何らかの助力をしたとすれば、それは、力のある
人々に対して恩義を売ることができたことになり、その見返りに
何らかの便宜を図ってもらうことが期待できる。ゲーテは、
それまでの全人生を賭けて作品を書いて、世の中で評価して
もらうことを期待しなくても、社会的に十分に比較優位な立場で
生活していけるように与えられた条件が整っているのである。

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/15(土) 15:02:54.88 ID:TywbjuDU.net
それが逆に、自分の特別な才能を信じて、出版した作品の大きな成功を
期待して、それにすべての時間と精力を注ぎこみ、その結果として、
出版できる当てもなく、なんとか出版できたとしても何の反応もなく、
それによって借金ばかりが残り、生活困難になり、周囲からは蔑まれる
としたらどうだろうか。ゲーテの「個人」としての「生まれつきの資質」
がどうであったにせよ、自身を大切に守りながら成長して、老成する
などということにはならなかっただろうと私は思ふ。

427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 09:10:40.03 ID:BsblUQ23.net
ネズミさんは逃げれなかった。
眠るような安らかな表情でお亡くなりになられておられました。
で、ゴミ袋に納棺いたしました。
後は、焼却されてどっかに埋葬されるでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
無責任な祈りだが。
俺はネズミも心があるのだから、恐怖は人間と同じだと思う。
恐怖で呼吸が荒くなって腹がせわしなく動いているのが見えた。
なんとかこの不運な状況から逃れようと絶望的な努力を続けた揚げ句
力尽き、おそらくストレスも重なり死を迎えたのだ。
ウクライナとロシアが殺し合いをしている。
人間の尊厳がこれほど破壊されているのに俺は悲しまない。
ネズミでさえ、こうなのだから人間ならどれほど野蛮なのだろう。
想像できない、というより考えたくない。
現実だと思えない。
俺が戦場にいたなら、それどころではなく、敵をぶっ殺すか逃げるかだ。
やはり何も考えない、思わない。

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 09:50:02.27 ID:IArs8RhA.net
>[...]いかなる統治体制にも、単に卑賤であるばかりか、悪徳な
職務が必要とされる。それらの悪徳は、そこにしかるべき場所を
見出して、われわれ人間社会における縫い目として活用される
― あたかも毒が、人間の健康の維持に使われるように」<
モンテーニュ「エセー6」p.13 宮下志朗訳

以前から指摘しているとおり、哲学(無論、この場合の哲学とは、
学問として制度化された「哲学」ではなく、哲学すること)とは、
「解毒剤」をみづから(身づ柄/自ら)に働かせることであり、
そもそも、みづから(身づ柄/自ら)に毒が回って、その作用が
みづからの心身に重大な悪影響をもたらすことを恐れている
のでないなら、哲学をする必要などないのである。哲学をする
必要性を感じることは、「みづから(身づ柄/自ら)をすく(救)へ
/"Save yourself!"」という「みづから(身づ柄/自ら)」への
自身の呼びかけを聴くことに他ならない。したがって、
「哲学をすることは何の役に立つのか」が疑問に感じられる
ような人々には、そのこと自体によって、そもそも、哲学
することは必要ないのである。

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 09:50:56.29 ID:IArs8RhA.net
誤:使われるように」 正:使われるように

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 10:29:10.54 ID:IArs8RhA.net
キリスト教神学の現実の運用(ただし、それに限定されない)によって
代表される統治イデオロギーが人々に発する基本メッセージは、
"We will be safe and sound/be saved (if not in this world,
at least in the world to come/Hereafter) if each one of us
do as we are told."である。

しかし、統治体制の保全のために用いられる毒がみづからの
心身に回って、その悪影響が強まる一方であるなら、誰でも
そのことに気づく。しかし、それでも、"to do as we are told"
が「自己犠牲を徳として受け入れる」ことであるなら、
統治イデオロギーを「ただ(正)し」いものとする限りで、
皆/"each one of us"が、それを受け入れることになり、
「自己犠牲を払うのを厭はない」ことを美徳として賞賛する
のである。ここにニーチェが鋭く指摘した、自己犠牲を
美徳とすることのパラドックスが生じる。自らに作用する
毒の悪影響がますます強まる一方であることが分かっている
なら、その美徳を自身のものとして生きることはできない。
したがって、皆/"each one of us"が、「他者が自己犠牲
を払うのを厭はない」ことを美徳として賞賛することで
一致するのである。すると、実際に生じる状況は、
皆/"each one of us"が、他者に自己犠牲を美徳として
求め、その犠牲の上に立って自身は生き残りをはかる
ように競争することになり、しかも、その状況を自覚
していることを口に出すことは憚られるようになる
のである。

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 10:41:26.31 ID:IArs8RhA.net
大多数の人々は、統治イデオロギーが人々に強制するこの「ゲームの規則」
を黙って受け入れるのであり、大勢がそれを分かっていながら、我慢して
口に出すことをせずにいるのに、それをわざわざ明示してみせて、得意
になっているような愚か者は、余計なことを口に出すことを控えるように
させるために痛い目に遭はされる。

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 11:37:16.44 ID:IArs8RhA.net
ツヴァイクは、前掲の『デーモンとの闘争 ヘルダーリン・クライスト・
ニーチェ』において、ヘルダーリンとニーチェに共通する人格的な特徴
として、その「純粋さ」を挙げている。この「純粋さ」とは、私に
言はせれば、実は、統治イデオロギーが制度的な訓練を通して暗黙に
をし(教)へる「ゲームの規則」を、大多数の人々がそうするように
「ゲームの規則」として黙って受け入れることを拒絶して、明示的に
提唱される「自己犠牲の美徳」を、他者の賞賛すべき行為としてでは
なく、みづから(身づ柄/自ら)のものとして「真に受けて」引き受け
ようとしてしまうことを意味している。

他の大勢の人々が「ゲームの規則」に忠実に競い合ふなかで、
そのような美徳を真に受けて生きられるわけがないので、みづから
(身づ柄/自ら)の行ひをただ(正)そうとすればするほど、心身の
「なやみ」(現代語の「悩み」ではなく、日本語の古語の用法で
理解する方が適切である)が深刻化するのは当然のことだ。
あくまでも「なやみ」つづけるなら、それによってもたらされる
「な(萎)え」によって「いのち」がつ(尽)きることになり、その
限界まで追い詰められることにより、それでも生きようとして
反転が生じる。それが、ニーチェにとって哲学をすることであり、
「けが(穢)れをきよ(浄)める」ようにな(萎)えからの快癒に、
「すこやかさ」に向かふことである。したがって、ニーチェが
発する基本メッセージも、哲学することの必要性の場合と同様に、
「みづから(身づ柄/自ら)をすく(救)へ/「すこやか」であれ」/
"Save yourself!/Be safe and sound!"という自身への呼びかけ
を聴くことに他ならない(あくまでも「純粋さ」を捨てようとし
なかったヘルダーリンには、それを詩の表現として生きる以外に
選択は残されていないことになる。だからこそ、その代表作が、
『ソクラテスの死』として構想されて最終的にたどり着いた
『エムペードクレスの死』なのだろう)。

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 11:48:11.55 ID:IArs8RhA.net
「ソークラテース/Σωκράτης」/「すこやかさ/健全性を保つ
("be safe and sound"/《être sain et sauf》)力」が体現する
"ἀρετή"/「徳(とく)」とは、「心身のすこやかさ」に他ならない
だろう。

434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 13:19:55.23 ID:BsblUQ23.net
>哲学すること)とは、「解毒剤」をみづから(身づ柄/自ら)に働かせること
それなら科学が一番の解毒剤だ。
科学は迷信を駆逐する。

435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 14:10:28.71 ID:IArs8RhA.net
統治は、「すこやかさ」をたわ(撓)める(ま「曲」げる)働きをする。
したがって、「すこやか」であろうとする側から見れば、
統治は、まがまが(禍々)しい力として現れる。
しかし、このことは、統治が一方的にあ(悪)しき力の働きである
ことを意味するわけではない。それどころか、
統治のまがまが(禍々)しい力により、みずから(身づ柄/自ら)が
「すこやか」であろうとすることを阻害する別の「すこやか」で
あろうとする力を撓めるなら、そこことによってみずから
(身づ柄/自ら)が「すこやか」であろうとすることが助長される。
まさに「禍福は糾える縄の如し」である。

ダイモーン/鬼神の働きの「善悪」もそのようなものである。
穀物や果物などの有用な植物がよく育って豊かな収穫が
できることや、「か(醸)む」作用(発酵)によって酒が造ら
れることは、ダイモーン/鬼神の「善き働き」であり、
有害な生物がはびこり、有用な植物が萎えたり、枯れたり
してしまうことや、保存している食料が腐敗してしまう
ことは、ダイモーン/鬼神の「悪しき働き」であるが、このことは、
「善きダイモーン/鬼神」と「悪しきダイモーン/鬼神」が二元的に
まったく別々に存在していることを意味するわけではない。
そうではなく、「発酵」と「腐敗」の区別が、その作用によって
もたらされる結果が人にとって有用であるか否かに依ることから
も分かるとおり、みづから(身づ柄/自ら)が「すこやかさを保つ」
のに資する働きをするのが「ダイモーン/鬼神の善い働き」であり、
それを損なう働きをするのが「ダイモーン/鬼神の悪しき働き」
なのである。

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 14:19:18.50 ID:IArs8RhA.net
ところが、「水がめに入った水をぶどう酒に変える」ようなキリスト教神学
の神(かみ)の奇蹟は、「発酵/腐敗」のようなキアスム的に反転可能な
「善悪」というよりも「禍福」(すこやかさが保たれることが福であり、
損なわれることが禍である、福をもたらすのが善きことであり、
禍をもたらすのが悪しきことである)をもたらすダイモーン/鬼神の
働きを排除して、(段階/スペクトラム化された)善悪二元論によって
「ダイモーン/鬼神」を「デーモン」に貶めるのである。

437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 14:35:31.12 ID:IArs8RhA.net
>心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
                     ― 紫式部
身(み)に心(こころ)がかな(適/敵)ひ、かな(適/敵)はないようなことを
思ひし(知/領)らされるようなことがなく、思ひを(知/領)らしむこと
ができるなら、それは、「す(為)るが(=)な(成)る」ままである
ことになり、「心身のすこやかさ」としての「徳(とく)」/"ἀρετή"
が実現されていることになるだろう。

「ソークラテース/Σωκράτης」/「(心身の)すこやかさ保つ力」
をみづから(身づ柄/自ら)が体現することを理想とすることにおいて、
プラトンもニーチェも紫式部もそう大きく違わないように私には
思へる。

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 14:42:03.00 ID:IArs8RhA.net
>まさに「禍福は糾える縄の如し」である。

コロナ禍を福に転じているのは誰か。

439 :名無しさん@お腹いっぱい。:[ここ壊れてます] .net
以上に検討してきたことをまとめて、
>「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふものとして『心身の
すこやかさ』をみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そう
とすること」が「いは(祝/斎)ふ」べきエロースの働きであり、その働き
が生み出すのが「徳(とく)」/"ἀρετή"である。<
プラトンの『饗宴』における「をし(教)へ」であるものと理解すると、
その「をし(教)へ」は、「ご健康とご多幸をお祈りいたします」という
挨拶とたいして変わりないものであるように思へる。では、なぜ
そのような誰にとっても当たり前であるように思へることをわざわざ
「かむか(考)へ」つづけて、繰り返し言葉として表現しようとする
ことが哲学することに求められるのだろうか。そこにこそ重大な
問題がある。私がその問ひに端的に応えるとしたなら、それは、
「生きている限り統治にを(終)はりがないように哲学にもを(終)はり
はないのだ」と言うことになるだろう。

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/17(月) 10:37:21.71 ID:6NUqEJzH.net
服毒を強制されながらも、毒が心身に回ってみづから(身づ柄/自ら)の
いのち(命)がつ(尽)きることを回避しようとするなら、解毒剤として
作用するものを服用しつづける必要がある。

近年では、「毒親」という表現を目にすることがよくあるが、
「毒親」とは、その振舞ひが、自分の子供に毒のように作用
する、つまり、子供の「心身のすこやかさ」を「そこ(損)なふ」
ように働きかける親のことだろう。しかし、「毒親」は単独で
個人として毒として作用するわけではない。もしそうであった
としたら、「毒親」をもった子供は、親元を離れるだけで問題が
解決する。だが、その毒は、親元を離れたときの世間、つまり、
学校や企業やその他の他人を含めた人間関係のなかにおかれた
親子関係において作用しているのである。したがって、その毒
を無効化しようとするなら、その毒がどのような性質のものである
のかを見極める必要がある。親はその毒をどのように生成して
いるのだろうか。その毒は、フグ毒のようにそれを自身に蓄積
する本人には無害っで子供にだけ作用しているのだろうか。
「毒親」とされる親みづから(身づ柄/自ら)の「心身のすこやかさ」
が「そこ(損)なは」れるように親自身にどのようにか毒が回って
いるのではないか。

441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/17(月) 10:40:30.75 ID:6NUqEJzH.net
誤:プラトンの『饗宴』における「をし(教)へ」であるものと
正:プラトンの『饗宴』における「をし(教)へ」をそのようなもの
であるものと

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/17(月) 10:46:22.69 ID:6NUqEJzH.net
毒親から自由になって世帯として独立して生きようと思って結婚したら、
今度は、毒夫/毒妻につかまったというのは、世間ではよくある話だろう。

443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/17(月) 10:57:01.40 ID:6NUqEJzH.net
誤:無害っで 正:無害で

444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/17(月) 11:03:00.34 ID:6NUqEJzH.net
>コロナ禍を福に転じているのは誰か。

ちなみに、私自身は、コロナ禍を福に転じることができないので、
コロナ禍を福に転じている者に私が寄生できたとすれば、それは、
私自身にとっては「善いこと」であると思っている。
それでこそ、「禍福は糾える縄の如し」である。

445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/17(月) 16:50:25.69 ID:6NUqEJzH.net
"Ἔρως"/「エロース」とは、日本語の古語で表現するなら「玉(たま)の緒(を)」
である。嘘だと思うなら、「万葉集ナビ」のサイトで「たまのを」を検索して、
ヒットする全件の歌において逐一、「たまのを」という表現がどのように
用いられているかを確認し、それを、プラトンの『饗宴』において称賛
される"Ἔρως"/「エロース」と比べてみるといい。最初にヒットするのは
次の歌である。

万葉集 第20巻 4493番歌
>始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎
>初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒
>はつはるの はつねのけふの たまばはき てにとるからに ゆらくたまのを

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 07:21:44.88 ID:bGGUnIk4.net
"Ἔρως"/「エロース」に対応する日本語の古語の表現が「玉(たま)の緒(を)」
であるとする理解には、表現上の解釈の点からも、何の無理もない。

『饗宴』においてソークラテースはアガトーンに"Ἔρως"/「エロース」は、
「何かのἜρως"/「エロース」であるのか否か」を問ひかけ、これは、
「親が何かの親であるのか否か」を問ふのと同様であることを明らかに
したうえで、Ἔρως"/『エロース』とは、「親」が必然的に「子」に
対する「親」であるように、Ἔρως"/「エロース」も何かに対する
Ἔρως"/『エロース』であることをアガトーンに認めさせている。
ソークラテースはさらに問ひをつづけて、結局、Ἔρως"/「エロース」
とは、美しく、良いものを求めるという性質を備へたものであり、
それを求めている以上、美しく、良いというのは、Ἔρως"/「エロース」
の属性ではないとすることにアガトーンの同意を得ており、また、
このことは、ソークラテース自身、ディオティーマに教へられたこと
であるとしている(「ディオティーマ」は、詩人のヘルダーリンが
ソークラテースを意識して、自分の理解者であるした女性につけた
渾名でもあることを思い起こそう)。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 07:30:45.58 ID:bGGUnIk4.net
さて、「「玉(たま)の緒(を)」」であるが、日本語の古語において、
この表現における「玉(たま)」が「御霊(みたま)/魂(たましひ)」を
代表するものと理解されたことに疑ひの余地はない。では、その
「御霊(みたま)/魂(たましひ)」の「たま」とは何かと言えば、
やはり「玉(たま)」であり、それは「玉(たま)のようにうつ
(美)しく、たふと(尊)く、きよ(浄/清)らで、よ(良)いもの」を
代表する隠喩であり、「魂(たましひ)」も、「玉(たま)と化した火」
に他ならない。

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 07:46:43.11 ID:bGGUnIk4.net
では、「玉(たま)の緒(を)」の「緒(を)」は何なのかと言えば、それは、
「玉(たま)『をつなぎ留めようとするもの』(すなはち、『緒(を)』)」
であり、この「緒(を)」は、さそいかけに応じるように求める「〜を!」
(フランス語を用いるなら、《regrettant》や《manquant》という
状況が生じることを表現する「を(惜)し」の「を」)でもある。
したがって、「玉(たま)の緒(を)」が表現しているのは、
「玉のごと(如)く「うつ(美)しく、たふと(尊)く、きよ(浄/清)らで、
よ(良)いものをつなぎ留めようとする意を象徴する「を(緒)」
であることになる。これを、『饗宴』においてディオティーマの
をし(教)へとしてソークラテースが開示するἜρως"/「エロース」
についての真実と比べてみるといい。

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 07:53:38.28 ID:bGGUnIk4.net
万葉集 第13巻 3255番

>従古 言續来口 戀為者 不安物登 玉緒之 継而者雖云
處女等之 心乎胡粉 其将知 因之無者 夏麻引 命<方>貯
借薦之 心文小竹荷 人不知 本名曽戀流 氣之緒丹四天

>古ゆ 言ひ継ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒の 継ぎては言へど
娘子らが 心を知らに そを知らむ よしのなければ 夏麻引く 命かたまけ
刈り薦の 心もしのに 人知れず もとなぞ恋ふる 息の緒にして

(出典 万葉集ナビ)

450 :何がうた(歌/詩)に詠まれるのか:2022/10/18(火) 08:04:37.15 ID:bGGUnIk4.net
「を」を『』で強調して、古今集「仮名序」を以下に引用する。

>やまと歌は、人の心『を』種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふこと『を』
見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声『を』聞けば、生きとし生けるもの
いづれか歌『を』詠まざりける。
力『を』も入れずして天地『を』動かし、目に見えぬ鬼神『を』もあはれと思はせ、
男女の仲『を』も和らげ、猛き武士の心『を』も慰むるは、歌なり。

この歌、天地の開け始まりける時より出で来にけり。
しかあれども 、世に伝はることは、ひさかたの天にしては下照姫に始まり、
あらかねの地にしては素盞嗚尊よりぞ起こりける。<

451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 09:05:49.24 ID:bGGUnIk4.net
前掲のツヴァイクの著作から「ヘルダーリン」についての記述を引用
しよう(混乱を避けるため、ヘルダーリンの詩の言葉は、引用元には
ない「」で囲む)。

>神々が、詩人を必要とするのである。そして同様に人間も
「生のうま酒 英雄の
霊を たくわえる
聖なる器」
である詩人を必要とする。詩人のうちに両者が ― 上のものと
下のものとが、合流する。詩人は不協和音を解決して、必然的な
和音をつくり、共同精神をつくる。というのは、
「共同の精神のもろもろの思考は
しずかに終わりつつ詩人の魂のうちにある」
からである。< pp.71-72

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 09:14:50.14 ID:bGGUnIk4.net
kotobank.jp/word/玉の小櫛-562853
>源氏(1001‐14頃)若菜上
「さしながらむかしを今に伝ふればたまのをくしぞかみさびにける」<

「たま(玉)のをくし(小櫛)」という表現にも「たまのを」が隠されて
いることに留意しよう。「たまのを」が隠されていることに気づい
たなら、「くし(櫛)」という表現にも「くす・む」という場合の
「くす」が重なって感じられるはずである。

453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 09:29:35.07 ID:bGGUnIk4.net
>>446
私は最初、ディオティーマの言葉を『饗宴』の日本語訳からそのまま
引用ようかと思っていたが、やめることにした。Reclam文庫の
ドイツ語訳からなら引用したいと感じるが(ここに書き写す作業が
面倒なのでやらない)、日本語訳の表現では、そのような気にならない。
それは、ドイツ語訳の方が日本語訳よりも古代ギリシア語の原文に解釈が
忠実であるといったような判断によるものではない。単純に、私には
ドイツ語の初歩的な能力しかないにもかかわらず、ドイツ語訳の方が、
母語の日本語訳よりも分かりやすいと感じられるのである。ここに
日本語で哲学することのとても大きな問題がある。しかし、その
問題の核心は、日本語がドイツ語と比べて、哲学をするのに向かない
言語であるといったようなことではない。

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 09:46:05.67 ID:bGGUnIk4.net
思想哲学の専門家からよく聞かれることのある「日本語は哲学するのに
向かない言語である」という主張には、かなりの倒錯がある。
なぜなら、そのような人々は、しばしば、そう主張する本人が、
「日本語を哲学するのに向かない言語にする」ことに日々、熱心に
励んでいるからである。これと類似した問題が、日本の教育では
文法が疎かにされていると嘆く人々にも見られるので、それを
例にとると分かりやすい。英語を教えるのに、学生が「主語」
や「目的語」といったごく基本的な文法用語すら身に付けていない
という嘆きを聞くことがある。では問ふが、「主語」、「目的語」
という表現は、英語の"subject"、"object"という表現に対応して
いるのか。ここで仮に、"subject"、"object"という英語の言語
表現に「主語」、「目的語」という日本語の言語表現がうまく
対応していない、英語を使用する場合に"subject"、"object"が
それぞれ想起させるものを、「主語」、「目的語」という表現
が、日本語を使用する場合に想起させないとしたなら、それを
英語の用法を説明するメタ言語として用いたところで、教へて
もらう側が、その表現をどのように役立てればよいのか、それが
役に立つのかよく分からないという状況が生じるのは、当たり前の
ことではないだろうか。

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 10:01:29.41 ID:bGGUnIk4.net
日本では、西洋から思想哲学を学問として輸入するに際して、それまで
漢語を教養としてきたという歴史的な経緯から、日本語として馴染みが
ないと感じられる西洋の表現を和製の漢語に移すことによって日本語に
取り込もうとしてきた。その後、現在に至るまで、原語の発音を日本語
の発音に移そうとするだけのカタカナ語を大量に利用することになった
が、それでも、カタカナ語を日本語として取り込もうとする場合、
やはり、和製漢語が便利に利用されることになる。

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 10:21:09.17 ID:bGGUnIk4.net
ところで、日本語において漢語はどのように用いられる表現だろうか。
漢語はまずなによりもそれが「漢字」による表現である以上、
視覚情報であることを基本とする。例えば、漢語の発音として
「せい」という言葉だけを耳にしても、それが「生」なのか、
「静」なのか、「聖」なのか、「制」なのか、あるいは
「成」なのかさっぱり不明である。しかし、その漢字を
視覚情報として見れば、同じ発音で読まれる言葉がどのような
意図で用いられているのか一目瞭然となる。ただし、そのよう
に使われる漢字は、既に象形文字としての漢字の生成とは
切り離されて、慣用により身に付けられているだけである。
つまり、思想哲学を専門として、その考え方を西洋の言語から
輸入する人々が、西洋の言語の表現を漢語として日本語に
移しかえるとき、そのように言葉の発音が想起させるものとも、
視覚的な象形としての生成からも切り離された表現に
熱心に置き換えていることになる。

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 10:38:27.11 ID:bGGUnIk4.net
さて、ここで、日本語におけるひらがなによる表現と漢字による
表現の関係を考えてみよう。「きよ(聖)しこのよる(夜)」と
「聖夜(せいや)」において、「きよ(聖)し」と「聖(せい)」が
想起させるものは同一だろうか。この「きよ(聖)し」と
「聖(せい)」は、よく知られた歌としてはいずれも英語の"holy"
に対応させられているだろう。

すでに指摘したとおり、「せい」という漢字の読みの発音だけ
からでは、それが何を表現しているのかさっぱり不明であるのに
対して、「きよし」という発音からは、それに関連する「きよら」、
「きよめ」、「きよらか」といった表現が想起され、また「きよめ」
から「けがれをきよめる」ことが連想される。

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 10:48:08.27 ID:bGGUnIk4.net
ここで、「きよし」が対応させられている英語の"holy"について、どの
ように語源的に説明されているか参照してみよう。

>from PIE *kailo- "whole, uninjured" (see health).
Adopted at conversion for Latin sanctus.

>The primary (pre-Christian) meaning is not possible to determine,
but probably it was "that must be preserved whole or intact,
that cannot be transgressed or violated," and connected with
Old English hal (see health) and Old High German heil "health,
happiness, good luck" (source of the German salutation Heil).
Holy water was in Old English.<
(出典 etymonline.com/search?q=holy)

実際、"holy"の発音自体、"whole"を自然に想起させ、それによって
想起させられていたと考えられるイメージは、上で繰り返し検討してきた
「ソークラテース」の「ソー」に対応する古代ギリシア語によって
想起されたものとも極めて近いことが分かる。

459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 11:05:19.21 ID:bGGUnIk4.net
このように比較してみると、何が日本語を哲学に向かない言語であると
思はせることになっているのか明らかだろう。"holy night"を
「きよ(浄)きよる(夜)」ではなく、「聖夜(せいや)」に変えてしまった
のでは、哲学をすることは成り立たないのである。その一方で、
「きよ(浄)め」が「し(標)めゆ(結)ひ」による「いは(祝/斎)ひ」と
結び付き、それが「けが(穢)れ」と裏返しの関係にあることは日本語
においても、西洋の言語の言語表現の場合と同様に簡単に理解する
ことができる。ドイツ語にせよ、英語にせよ、古代ギリシア語にせよ、
言語表現は、発音による想起を徹底的に活用しているのである。
にもかかわらず、西洋の思想哲学の表現を専門家が日本語に
移そうとするとき、日本語としての言葉の発音による想起よりも、
象形としての生成と切り離された、慣用による視覚情報としての
漢語の「概念」に移すことの優先するのだ。しかも、それを
説明するに用いられる日常言語が、やはり発音による想起と
表記を対応させようとする旧仮名遣ひではなく、その対応を
完全に混乱させ、発音の文法的な働きさえ隠蔽してしまう
新仮名遣ひの規範に則るものであれば、日本語が哲学をするのに
まったく向かない言語となることは言うまでもない。

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/18(火) 11:14:25.44 ID:bGGUnIk4.net
「玉の小櫛」をキーワードにして検索してみるといい。「たまのをくし」
ではなく、「たまのおぐし」とかながふられている。すると、どうなる
だろうか、「たまのお」では意味を成さないので、「たま」と「お」が
無関係のものとされ、「お」は、「小櫛」の「小」の読みとされる
ように解釈が限定される。すると、「おぐし」の「くし」も、せいぜい
髪に刺す飾りであるものと理解され、「くす」という動詞としての解釈
の可能性が失われる。新仮名遣ひは、このような変更を日本語の使用全体
に規範として全面化するものであり、その結果、日本語の言語表現は、
「たまのを」も「いきのを」も感じられないものになる。そのような
日本語の用法をただ(正)しいものと受け入れるなら、どのようにして
「すこやかさを保つ力」をみづから(身づ柄/自ら)が体現することを
もと(求)めつづける哲学をすることができるだろうか。

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/19(水) 16:59:36.11 ID:PJ3If4eV.net
猿飛佐助はサルではない。
また、トンビでもない。
猿飛佐助は時代劇の登場人物である。
実際にそういう人物が歴史上実在したかは知らぬ。
そんな事はどうでもいいのだ。
ただ、この名前を付けたやつはどうかしている。
なぜなら、飛ぶというなら、鳥かコウモリなのだが、
猿は飛ばない。
せいぜい跳ねる程度である。
だから、猿トンビ佐助ならいいのではと思うのだ。
だが、イヌワシは実在するが、サルトンビは実在しない。
実在にこだわるのは、そこに意味がある。
実意材しないものは錯誤か虚偽である。
虚偽すなわち、ウソつきのだましのテクニックは、
まず、自分からだませだ。
そういうやつは、いい加減な奴で、相手にしてはならない。
関わるとろくなことにならない。

462 :Fair is foul, and foul is fair:2022/10/20(木) 14:19:00.74 ID:nWbhXkPD.net
>多明物(読み)タメツモノ
デジタル大辞泉「多明物」の解説
ため‐つ‐もの【多▽明物/多▽米都物/▽味物】
1 味のよい食べ物。うまいもの。
「鼻口また尻より、種々(くさぐさ)の多明物(ためつもの)を取り出して」〈記・上〉
2 大嘗会のとき、臣下に賜る酒・食べ物の総称。
「献ずるところの―」〈貞観儀式・四〉<

さて、「ためつもの」とは、どのような表現だろうか。
「もの」に「物」という漢字が当てられていることは、現代の日本語と同様だが、
「ためつ」に当てられた「多明」は、「ため」という発音に対する「当て字」
として漢字を用いていることは確かだろうが、その発音を代表させることが
できるという理由だけでそれらの漢字が選択されているわけではないだろう。
鼻口また尻よりいだ(出)される「もの」は、現代の日本語でもそうであるように、
通常は、「くそ」と呼ばれるのではないか。「くそ」のようにいだ(出)される
「もの」が「くさぐさのためつもの(多明物)」であるとはどのようなことか。

ちなみに、古代ギリシア語で「徳(とく)」を代表するとされる"ἀρετή"
(私が日本語の「すこやかさ/健全性」に対応するとする解釈を示した)は、
ときとして、「悪(あく)」を代表するとされる"κακότης"と対比されるとの
ことであるが(出典 kosmossociety.chs.harvard.edu/core-vocab-arete/)、
"κακότης"の語源は、「排泄する」ことに求められるのではないかとも考え
られている。
>possibly connected with Proto-Indo-European root *kakka- (“to defecate”)
(出典 en.wiktionary.org/wiki/κακότης#Ancient_Greek)

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 14:36:44.09 ID:nWbhXkPD.net
万葉集 第16巻 3832番
>枳 蕀原苅除曽氣 倉将立 屎遠麻礼 櫛造刀自
>からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自
>からたちと うばらかりそけ くらたてむ くそとほくまれ くしつくるとじ
(出典 万葉集ナビ)

この歌では、「くそ」と「くし」が並べられており、したがって、
「くそ」−「くす」−「くし」が関連付けられて想起されていたことが分かる。
ところで、シェイクスピアの劇のセリフ、"Fair is foul, and foul is fair"は、
「きれいは汚い、汚いはきれい」と訳されているのをよく見かけるが、
日本語の「くそ」は、"foul"であるものに相当するだろう。その一方で、
"fair"は、見た目において、"dusky"と対比されるものと考えられており、
"dusky"は、日本語の「くすんだ」に対応するので、「くそ」も
「くすみ」に関連付けられていることが考えられることになる。
さらに、現代語の「きれい」に対応する日本語の古語は、「きよ(浄)ら」
であり、"Fair is foul, and foul is fair"は、日本語の古語で考えるなら、
「きよ(浄)らはけが(穢)れ、けが(穢)れはきよ(浄)ら」というキアスム的な
反転可能性を表現しているとも見ることができるだろう。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 14:46:33.83 ID:nWbhXkPD.net
このように見ると、上に引用した
>「鼻口また尻より、種々(くさぐさ)の多明物(ためつもの)を取り出して」〈記・上〉
において、「ためつもの」の「ためつ」に、"fair"に相当すると考えることも
できる「多明」という漢字がてられていること自体、
"Fair is foul, and foul is fair"に相当する物事の捉え方を表現していると解釈
することができ、ここで「ためつ」に当てるのに適切な漢字として「多明」を
選択する行為にこそ、「かむか(考)へ」がめぐらされている、つまり、
哲学の働きがあるということができる。

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 15:24:35.83 ID:nWbhXkPD.net
プラトンの『饗宴』と『ソクラテスの弁明』を読んで私が読み取るのは
(ただし、私はあまりプラトンの著作を読んでいない)、それと日本語で
簡潔に表現するなら、次のことである。

>いかなる統治体制も、「すこやかさを保つ力」が体制への服従なしに
公(おほやけ)に示されるのをゆる(許)すことはできないが、人々が、
「たま(玉)のを(緒)」の働きを体現する「すこやかさを保つ力」を
失ってしまふなら、うつしよ(現世)における生(せい)は、い(生)きる
/いのち(命)をう(受/承/享)くにあた(能/与/価/当)はない。

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 15:25:21.00 ID:nWbhXkPD.net
誤:それと日本語で 正:それを日本語で

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 19:05:15.67 ID:nWbhXkPD.net
>>450
うかつにも、とても重要な「を」を『』で強調することを忘れていた。
それは、
>素盞嗚尊よりぞ起こりける
という箇所の「『スサ・ノ・ヲ」の『を』である。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 19:06:14.61 ID:nWbhXkPD.net
誤:「『スサ・ノ・ヲ」の『を』である
正:「スサ・ノ・ヲ」の『を』である

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 20:28:25.17 ID:nWbhXkPD.net
>>467
こうして、「(歌は)あらかねのつち(≒「地上」)にしてはスサ・ノ・『ヲ』
・の・みこと(御言)よりぞおこりける」におけると音読していれば、
聞き逃すはずのない「を」も、漢字表記で読むと、そのまますぐに
馴染みのある固有名詞として直ちに認識されて読み飛ばしてしまう。
しかし、歌の起源が「スサ・ノ・『ヲ』の・みこと」にあるとする
この認識は、決して軽視できるようなものではないだろう。

「スサノヲ」は、その神話的なエピソードにおいてつねに
「けが(穢)れ」と接触するような関係において描かれている。
「スサ」という発音が想起させるイメージも、英語を用いる
なら"desolation"に近いものであると考えられる(例えば、
古語の「すさまじ」という表現の用法について考えてみる
といい)。

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 20:39:59.99 ID:nWbhXkPD.net
では、なぜそのようにイメージされる「スサ・ノ・『ヲ』が歌の起源と
関連付けられるのだろうか。私の想像では、この「歌の起源」は、
ちょうど、『ソクラテスの弁明』における、ソクラテスを死刑に
すると、つまり、哲学を終わらせると生じるものとソクラテス本人が
予言する事態に裏返った形で対応しているのではないかと思われる。
言い換えるなら、「歌の起源以前」≒「哲学の終焉後」という対応関係
である。

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 20:48:06.56 ID:nWbhXkPD.net
プラトン、納富信留訳、『ソクラテスの弁明』から引用する。

>では、言いましょう。私を死刑にした人々よ、あなた方は私の死刑の
後すぐに仕返しを受けることになるでしょう。[...] 今、あなた方は、
人生を吟味に晒すことから解放されるものと思ってこんなことをして
しまったのですが、私の予言では、あなた方にはまったく正反対の結果
が生じることでしょう。
 あなた方を吟味する者は、ずっと多くなるのです。彼らを今まで
私が抑えてきたのですが、あなた方は気づいていなかっただけです。
彼らは年が若い分それだけ厳しいので、あなた方はより一層苛立た
されることでしょう。< p.98

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 20:52:38.88 ID:nWbhXkPD.net
ただし、>>470に私が示した解釈は、引用元の訳者の対応箇所の解説に
おいて示される解釈とは真逆である。

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 21:01:45.75 ID:nWbhXkPD.net
なぜここまで解釈の食い違いが生じるのかと言えば、それは、私が
この訳者とも、ニーチェとさえも異なり、「ソークラテース」を
歴史上の個人であるとも、プラトンの創作上の個人としての人格で
あるとも認識しておらず、「スサノヲ」についての語りがそうである
ように、アレゴリーのようなものとして理解しているからだろう。

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/20(木) 21:15:42.37 ID:nWbhXkPD.net
創作上の人物であれば、それを個人としての人格と見なさないというのは、
別に奇妙な読み方ではないだろう。ゲーテも自分の作品の登場人物が
実際に誰をモデルにしたものなのかという読者の熱心な質問には、
さんざん悩まされ、心底辟易させられたと嘆いている。

475 :Wie man mit dem Hammer philosophiert:2022/10/21(金) 08:27:44.59 ID:1Wvm7J8u.net
>あらかねの地(つち)にしては素盞嗚尊(すさのをのみこと)よりぞ起こりける

「あらかねの地(つち)にしては」という言葉が何を表現しているのか
分かりづらいが、検索すると、「つち(土/地)」の発音に「つち(槌)」の
発音が重なるので、「つち(地/槌)」にかかる「枕詞」として
「あらかね(粗金)の」が用いられていると説明されている。

>学研全訳古語辞典
あらかね−の 【粗金の】
分類枕詞
「あらかね」を槌(つち)で鍛えることから「つち(土・地)」にかかる。
出典古今集 仮名序
「あらかねのつちにしては」
[訳] 地上にあっては。<

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/21(金) 08:38:04.47 ID:1Wvm7J8u.net
ところで、学校制度における国語教育では、「枕詞」は「決まり文句」
であり、その表現の意味を解釈するように試験で求められることは
決してないので、そのかかり方を暗記すればよく、その意味について
考える必要はないと教へられることが一般的である。少なくとも
私は、学校の国語の授業でそのように教へられた。しかし、
>あらかねの地(つち)にしては素盞嗚尊(すさのをのみこと)よりぞ起こりける
という表現を読んで、「あらかねの地(つち)にしては」という表現を
単に「地上においては」で置き換えてしまへば、この記述は、単に
「歌は素盞嗚尊を起源とする」という意味不明の「伝承/いひつた(言伝)へ」
となってしまう。そのような「置換え」による解釈は妥当なものなのか。

477 :Wie man mit dem Hammer philosophiert:2022/10/21(金) 09:08:55.72 ID:1Wvm7J8u.net
>あらかねの地(つち)にしては素盞嗚尊(すさのをのみこと)よりぞ起こりける
という表現において「つち」が、「土/地」を表すと同時に「槌」/»Hammer«
も表していることを知るなら、「あらかねのつち」という表現は、
自然と「あら(粗/荒)かね(金)をつち(槌)で鍛えるごと(如)き地上/現世
(うつしよ)」というイメージが想起され、それが、ときに「すさ(荒)び」
をもたらすことのある「あら(荒)ぶる神」である「スサノヲのみこと」の
イメージと直ちに結びつくはずだろう。すると、この記述全体は、
>あら(粗/荒)かね(金)をつち(槌)で鍛えるごと(如)き地上/現世
(うつしよ)においては、歌は、「『すさ(荒)』の『を』の
み(御)こと(言)」により起こる
と読まれることになる。また、さらにその前には、
>猛き武士の心『を』も慰むるは、歌なり
と述べられていることも忘れてはならないだろう。

さて、私が、「ソークラテース/すこやかさを保つ力」の死刑
執行後、すなはち、「哲学の終焉後」に生じるものと予言される
人々の状況を、「スサノヲ」により歌が起こる前、すなはち、
「歌の起源以前」に人々が置かれていたと想定される状況に
対応するものと解釈することは、偶々、思ひついたにすぎない
無理な「こじつけ」だろうか。

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/21(金) 09:24:13.75 ID:1Wvm7J8u.net
さて、「枕詞」は暗記されるべきもので、それを解釈してもまったく
「評価されない」ことを、当然のこととして受け入れるように人に
をし(教)へる学校の国語教育は、人が言葉を言語表現として理解する
技能を身に付け、磨くことを本当に目的としているのだろうか。

479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/21(金) 09:43:21.32 ID:1Wvm7J8u.net
『ソクラテスの弁明』においてソークラテースみづから(身づ柄/自ら)が
人々に伝へることは、私の解釈によれば、訳者により解説されるもの
よりもはるかに悲観的であると同時に、根本的に楽観的である。
それは、
>人は、みづから(身づ柄/自ら)がソークラテース/「すこやかさを保つ力」
として生き延びることは決して公(おほやけ)に許されることはないが、
人みづから(身づ柄/自ら)がソークラテース/「すこやかさを保つ力」として
生きることを放棄するなら、そもそも、この世にいのち(命/息の力)を
う(受/承/享)くにあた(能/与/価/当)はない。<
ということだ。

480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/21(金) 11:29:48.41 ID:1Wvm7J8u.net
>あらかねの地(つち)にしては素盞嗚尊(すさのをのみこと)よりぞ起こりける

>あら(粗/荒)かね(金)をつち(槌)で鍛えるごと(如)き地上/現世
(うつしよ)においては、歌は、「『すさ(荒)』の『を』の
み(御)こと(言)」により起こる<

このような言語表現の解釈は、日本語においてのみ通用する特殊な
ものなのだろうか。「『すさ(荒)』の『を』のみ(御)こと(言)」
というような読みは、日本語における「言葉遊び」としてしか理解
され得ないものなのだろうか。それについて「かむか(考)へる」には、
これを、ヘルダーリン、クライスト、ニーチェについて語る
ツヴァイクの次のドイツ語の表現と比較してみるといい。

>Etwas Außermenschliches wirkt in ihnen, eine Gewalt
über der eigenen Gewalt, der sie sich vollkommen verfallen
fühlen: Sie gehorchen nicht (schreckhaft erkennen sie es
in den wenigen wachen Minuten ihres Ich) dem eigenen
Willen, sondern sind Hörige, sind (in zwiefachen Sinne
des Worts) Besessene einer höheren Macht,
der dämonischen.<
Stefan Zweig, "Der Kampf mit dem Dämon", p.11

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/21(金) 11:33:16.20 ID:1Wvm7J8u.net
このような解釈により、日本語の古語の理解とドイツ語の学習が同時に
促進されるとすれば、これは極めて「効率の良い学習法」であるように
私には思えるのだが、どうだろう。

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/21(金) 11:47:15.95 ID:1Wvm7J8u.net
私は、ドイツ語学習の教育を受けたことが一切なく、私のドイツ語の
運用能力もごく初歩的なものでしかないので、私の言葉を真に受ける
必要はないが、引用した対応箇所の日本語訳は、私が他人にお勧め
できるようなものではまったくない。このツヴァイクの著書は
3人の訳者によって日本語に訳されており、ドイツ語の原文との
比較検討をしたわけではないが、「ヘルダーリン」の章の訳者の
日本語は、見事なものであると感じられる。それ以外の訳者の
訳については、私にはよく分からない。

483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/21(金) 12:00:45.00 ID:1Wvm7J8u.net
>彼らはより高い力、デーモニッシュな力の奴隷であり、その力に
取り憑かれた狂乱者なのである< p.12
という訳は、「差別表現」がどうのという問題とはまったく無関係に、
ドイツ語の原文に対応する日本語訳として適切だろうか。

484 :日本語のすがた:2022/10/22(土) 09:30:49.29 ID:aMTb14CR.net
万葉集 第20巻 4491番
>於保吉宇美能 美奈曽己布可久 於毛比都々 毛婢伎奈良之思 須我波良能佐刀
>大き海の水底深く思ひつつ裳引き平しし菅原の里
>おほきうみの みなそこふかく おもひつつ もびきならしし すがはらのさと
(出典 万葉集ナビ)

485 :gereinigt sein、すがすが(清々)し:2022/10/22(土) 10:51:16.30 ID:aMTb14CR.net
>毛婢伎(もびき)・奈良之(なら(均)し)思(し)・
須我(すが)波良(はら(祓/拂/掃))能(の)佐刀(さと)<

486 :『カタルモイ』(浄(きよ)め):2022/10/22(土) 10:55:28.28 ID:aMTb14CR.net
日本大百科全書(ニッポニカ)「エンペドクレス」の解説
エンペドクレス Empedoklēs
(前493ころ―前433ころ)

>古代ギリシアの哲学者。シチリア島の町アクラガスの名門に生まれ、
政治家や奇跡家や医師としての活躍も伝えられる。
『ペリ・フュセオース』(自然について)、『カタルモイ』(浄(きよ)め)
とよばれる六脚韻を踏む2著作があるが、残存するのは断片だけである。<

>彼の死についてはいろいろ伝えられるが、エトナ山の噴火口へ投身
自殺したという伝承がとりわけ有名である。<

487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/22(土) 10:59:10.71 ID:aMTb14CR.net
例えば、現代の日本語で考えた場合でも、「浄化槽」という言葉を
聞くとき、人が想起するのは、「きれい」なことだろうか、
「きたない」ことだろうか。

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/22(土) 11:57:39.04 ID:aMTb14CR.net
>>480
こういう手がかりが得られたときには、それをすぐに解釈に応用してみる
ことで、それが役に立つものであるのか否かを確かめることができる。
この場合には、この手がかりが、「ヤマタノヲロチ」(「八俣遠呂智」と
表記されるのだから、本来、「オロチ」ではなく、「ヲロチ」と読まれた
はずである)の伝説を解釈するのにも大いに役立つことが分かるはずである。

『日本書紀』の記述(出典 Wikipediaの要約)から「八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)」
のエピソードに出てくる主要な「固有名」を抜粋すると、それは次のような
ものである。「簸(ひ)の川」「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)」、
「奇稲田姫(くしいなだひめ)」、「脚摩乳(あしなづち)」、
「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)」、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」、
「(出雲の)C地(すが)」

489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/22(土) 12:42:28.61 ID:aMTb14CR.net
さらに、このエピソードでは、最終的に「ヤマタ・ノ・『ヲ』ロ・チ」の
「尾(ヲ)」を割り裂いて見ると、そこから「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」が
出てきて、「素戔嗚尊はこの剣を天神(あまつかみ)に献上する」(Wikipedia)
のである。

素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を歌の起源とする古今集「仮名序」の記述の
解釈から得られた手がかりを応用して、引用した「固有名」とエピソードの
構成を見るなら、このエピソードが多重のアレゴリーとして成立しているのを
見ることは容易だろう。そのアレゴリーのうちの1つは、言うまでもなく、
武装勢力にとって重要な武器として用いられる鉄の剣を造る製鉄技術であり、
「あし(脚)・な・づち(槌)」、「て(手)・な・づち(槌)」という名前にはっきり
と読み取ることができる。「奇稲田姫(くしいなだひめ)」の「くし」は、
「奇(く)す」という表現であり、物象化されて「くし(櫛)」に変えられて
しまうが、この姫が、「あし・な・づち(槌)」、「て・な・づち(槌)」の
末娘であることから考えれば、その名前は、「あらかね(粗金)をつち(槌)に
よって鍛えること」によって生じる「かな(金)・くそ(屎)」の「くそ」にも
関連していると考えることができる。また、「くし(櫛)」の名前も
「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)」なのだから、その「くそ」が「ゆゆ(忌々)しき」
ことを生じないように「つつ(慎)まし」くさせられることも連想される。
この連想は、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」という名前によっても強化
されるだろう。なぜなら、ここで「草(くさ)」が表現しているのは、
「卑賤なもの」であり、それを「な(薙)ぐ」のが「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」
であり、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)は、その剣を天神(あまつかみ)に
献上して、自らと「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)」が結ばれたことをいは(祝/斎)ふ
宮を「(出雲の)C地(すが)」に建てるからである。

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/22(土) 16:46:06.52 ID:7am020fA.net
YOUTUBEで貞子がナタで切りつけられて井戸に転落して死ぬ場面を
見たが、気味悪いからぶっ殺してしまえという殺人者の方がホラーで
あるように思われる。そして、貞子の幽霊を気持ち悪い快感を持つ観
客の心理のほうがよほど現実世界に実在するホラーでなかろうか。
はたして貞子に同情の念をいだく観客がどれほどいるだろうか。
この映画をホラー映画として制作した作者もホラーである。
必殺仕置人はホラーだろうか?
殺しの技は確かにちょっとホラーっぽい。
映画関係者にはヤー系が多いと聞く。
だから、映画の存在自体がホラーであるかも知れぬ。
そういえば、映画館は観客が一人もいないところで、映写機だけが空しく
映しているのはやはりホラーのたたりであろう。
ガラガラの映画館。特に邦画はつまらん。
邦画がつまらんのは、制作者のセンスの無さとヤー系がやってるからだろう。
映画館の経営者もパンチパーマのおっさんで、あれ系っぽかったしな。

491 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/23(日) 00:06:30.93 ID:i2OKi+qe.net
>>489
検索してみると、私の自由連想によるイメージの関連付けが、万葉集の歌人の
ものとそう大きく異なるものではないことが確認できた。

万葉集 第19巻 4263番
梳毛見自 屋中毛波可自 久左麻久良 多婢由久伎美乎 伊波布等毛比C
櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思ひて
くしもみじ やぬちもはかじ くさまくら たびゆくきみを いはふともひて
(出典 万葉集ナビ)
注:「C」という表記は、「氐」の代用のようである。

492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/23(日) 11:29:39.20 ID:i2OKi+qe.net
万葉集 第11巻 2684番
笠無登 人尓者言<手> 雨乍見 留之君我 容儀志所念
笠なしと人には言ひて雨障み留まりし君が姿し思ほゆ
かさなしと ひとにはいひて あまつつみ とまりしきみが すがたしおもほゆ
(出典 万葉集ナビ)

「すがた」とはどのような表現だろうか。「容儀」、「光儀」、「姿」
という漢語において表現されると、それは、「見かけ」を表している
ように思えるが、「すがた」は、「見かけ」ではない。
例えば、「もの(物)の(怪)」が、すがたを隠していて、そのすがた
が見えないとしても、そこにすがたがないわけではない。
なぜなら、それがすがたを消したとしたなら、それはもはやそこ
にはをらず、単にそのすがたが目に見えないということではない
からである。また、「すがた」は、「すがたかたち」と並べられる
ように「かたち」と同じではない。岩波古語辞典では、「すがた」
は、「す・がた」の「す」は、「すなほ(素直)」の「す」と同じ
で、「かた」は、「型」であると解釈しているが、万葉仮名で、
「すがた」に当てられている漢字は、「須我多」であり、「我多」
が「型」であると確定されるわけではない。「すがたかたち」を
「みめかたち」と言い換えるなら、「すがた」は「みめ」に
置き換えられていることになるが、既に見たとおり、「見た目」
と「すがた」は同じではない。

日本の「哲学」では、さんざん「存在論」が議論されてきたにも
かかわらず、そこで「すがた」が、まったくといっていいほど
検討されていないことは、とても奇妙なことではないだろうか。
「ソークラテースの真の『すがた』」と言えば、それは、
"Sokrates as [Sokrates] really is"ということだろう。ところで、
「しかすが」という古語は、"letting it be certain"/"as certain as it is"
ということであり、「しか・す・が」の「が」は同一性を表現している。
また、「すがすが(清々)し」という表現が、»gereinigt sein«という
感覚に対応するように、「すが」は、「浄められていること」/
»Reinheit«との同一性(「我(が)」の流用によって表現される)を表して
いるだろう。

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/23(日) 11:47:42.06 ID:i2OKi+qe.net
「すがた」に当てられている万葉仮名の「須我多」にみられる「須我(すが)」
は、植物名の「菅(すが)」にも当てられている。それが読まれた歌の一例
は、次のとおりである。ここで想起されるイメージもやはり、
「浄められていること」/»Reinheit«との同一性であるように私には
感じられるが、どうだろう。

万葉集 第20巻 4454番
高山乃 伊波保尓於布流 須我乃根能 祢母許呂其呂尓 布里於久白雪
高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪
たかやまの いはほにおふる すがのねの ねもころごろに ふりおくしらゆき

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/23(日) 12:01:18.69 ID:i2OKi+qe.net
>笠なしと人には言ひて雨障み留まりし

「人に嘘をつく」のが「汚い」ことであるとするなら、
「不純」な「異性交遊」ですねw

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/23(日) 12:08:48.78 ID:i2OKi+qe.net
「不健全性的行為」という表現もあるようだ。

>不健全性的行為については、性的行為の結果に対して十分に責任を
取ることが難しいとも予見される年少者が、適切でない場面において
性交などを行うことについて、少年保護の観点から補導を行うという
趣旨であるとの見解もある。< (出典 Wikipedia)

この記述では、公的に責任をとることができないことが「不健全」
であるとされていることになる。「徳(とく)」/"ἀρετή"について
考えるのに参考になるだろう。

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/24(月) 09:44:20.65 ID:1Dor1yhy.net
「須我(すが)」という万葉仮名が当てられて植物名の「菅(すが)」として
歌に詠まれた表現は、「浄められていること」/»Reinheit«との同一性を
想起させるものだろうという推論を示したが、このことは、「菅原道真」
を通じてよく知られる「菅原(すがはら)氏」の由来を調べてみると
すぐに確かめることができた。Wikipediaには次のように記載される。

>菅原氏の前身は、天穂日命の子孫で、野見宿禰を家祖とし、
葬送を職掌としている土師氏である。<

ここで、「野見宿禰(のみのすくね)」の「野(の)」とは、疑いの余地も
なく、「野辺(のべ)送り」の「の」であり、これが、中国語の
「壟/陵」の語頭の発音を"n"に移した流用であり、
>中国語としての表現:壟/陵/楼/樓/髏/顱 ⇒ 日本語としての表現:
"surmounting(およびそれを反転させたsubduing)"の作用としての
「の(野/埜)」 <であることは以前に指摘した。

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/24(月) 10:03:51.47 ID:1Dor1yhy.net
やはりWikipediaで「野見宿禰(のみのすくね)」の項目を参照すると、
>垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)(『日本書紀』では
「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに
蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた
大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、
以後垂仁天皇に仕えた。<
と記載される。

これについても、私は、
>「すもう」の古語は、「すまひ」であり、「すまひ」≒"settling down"、
つまり、「鎮/沈静化」を意味している<ことを以前から繰り返ししてき
している。名詞化された「すまひ」の動詞形は、「すまふ」であり、
これは、言うまでもなく、「『す(澄)』む」の再帰形であり、この
「す(澄)」によって想起されるのは、「浄められていること」/
»Reinheit«との同一性を想起させる「須我(すが)」の「須(す)」に
よって想起される同様のイメージである。

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/24(月) 10:14:06.14 ID:1Dor1yhy.net
繰り返そう。

490gereinigt sein、すがすが(清々)し2022/10/22(土) 10:51:16.30ID:aMTb14CR
>毛婢伎(もびき)・奈良之(なら(均)し)思(し)・
須我(すが)波良(はら(祓/拂/掃))能(の)佐刀(さと)<

499 :禍福は糾える縄の如し:2022/10/24(月) 10:23:55.62 ID:1Dor1yhy.net
>205考える名無しさん2020/12/21(月) 07:36:12.780
「牛頭」はなにか持って回った解釈をしなくても容易に分かるとおり、
「殺生」を代表するメトニミーであり、「曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)」は、
現代語として普通に通用する表現にするなら「死屍累々」ということになる。<

須我(すが)波良(はら(祓/拂/掃))と曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)には、
キアスム的な反転可能性があると見ることもできるだろう。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/24(月) 19:07:56.92 ID:1Dor1yhy.net
>>497
このように見ると、「すまひ(相撲)」と"purgatory"は互いに似ている
ことに気づく。
>from Old French purgatore, purgatoire and directly from
Medieval Latin purgatorium (St. Bernard, early 12c.), in Latin,
"means of cleansing," noun use of neuter of purgatorius (adj.)
"purging, cleansing," from purgat-, past-participle stem
of Latin purgare "to cleanse, purify" (see purge (v.)).<
(出典 Online Etymology Dictionary)

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/24(月) 19:15:58.07 ID:1Dor1yhy.net
何が類似に気づきにくくしているのかと言えば、それはやはり、
キリスト教神学の教義だろう。例えば、「すまひ(相撲)」を奉納する
ことの意味を、仏教の経典の教へに沿ふように解釈しなおそうとした
とすれば、どういうことになるかを想像してみるといい。

502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/25(火) 09:56:36.06 ID:9sCxB5Ts.net
「須我乃根能 祢母許呂其呂尓/菅の根のねもころごろに/すがのねの ねもころごろに」
という語句に見られる「すがのねの・ねもころ」というのは、その可能な解釈の
多重性から、とてもおもしろい表現だ。特に、その解釈の多重性を、
「すまひ(相撲)」と"purgatory"が互いに似ていることと併せて考へることは、
興味深いだろう。そのうち、考へがうまく整理がついたなら、それについて
書き込もうと思ふ。

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/25(火) 10:26:21.27 ID:9sCxB5Ts.net
「 祢母許呂/ねもころ」の「許呂/ころ」が、現代の日本語でも擬態語
として用いられる「コロコロ」における「コロ」と共通するイメージを
想起させることは間違いなく、そのことは、「許呂其呂/ころごろ」
という「ころ」の反復にも反映されており、「許呂/ころ」が想起
させる中心的なイメージ、つまり、その「こ・ころ(心)」は、英語で
表現するなら、"round about"である。このことは、「こ・ころ(心)」
が、万葉仮名表記では、「己許呂/こ・ころ」または「許己呂/こ・ころ」
であることからも分かる。「『こ』ころ」の「こ」に当てられるのが
「己」であろうと、「許」であろうと、この(すなはち、「『こ』の」)
「こ」は、英語にするなら、"here"や"this"と表現される、指示詞と
して用いられる「こ」と同じ表現であり、「こ・ころ(心)」が
表現しているのは、その「こ」を「同心円」的に包み込むような
様態("round about here/this")である。

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/25(火) 10:43:07.78 ID:9sCxB5Ts.net
さらに、現代の日本語の擬態語において、「くるくる」と「ころころ」の
対比を考へてみれば分かるとおり、「こ・ろ」の「こ」も、「く・る」
の「く」が求心的な様態を表現するのをちょうど、ひっくり返すように
すること(ただし、この「ひっくり返す」というのは、「逆にする」
というより、数学に喩えるなら、-1乗にすること、つまり、"^-1"に
よって表されるような操作である)によってもたらされる同心的な様態
を表現しており、したがって、「こ・ころ(心)」における「ころ」
の「こ」も、包み込まれる側の指示詞としての「こ」と同じものである
ということもできる。

これを応用してみれば、例えば、「今日この頃(ごろ)」という表現に
おける「ころ(頃)」も「こ・ころ(心)」の「ころ」と共通であり、
「今日このごろ」は、英語にそのままするなら、
"round about these days"ということになる。

505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/25(火) 10:55:40.71 ID:9sCxB5Ts.net
>「こ・ころ(心)」における「ころ」の「こ」も、包み込まれる
側の指示詞としての「こ」と同じものであるということもできる。<

したがって、「こ・ころ(心)」をタマネギのように外側から剥いていけば、
その都度、新たに「こ・ころ(心)」が「芯(しん)」として現れてくる
ことはあるとしても、その「芯(しん)」が究極的な「核(かく)」/"core"
として現出することは決してないと言うことができる。しかし、そのこと
をもって、「『こ・ころ(心)』の中心は『空(から)/空虚』なのだから、
もともと「こ・ころ(心)」などない」と論じることは、空(から)/空虚、
つまり、「なにもないこと」があらかじめ存在することを前提として、
論理を逆立ちさせた暴論である。

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/25(火) 11:05:37.04 ID:9sCxB5Ts.net
「ころ」の応用例として興味深いのが、「ころも(衣)」であり、この表現
は、おそらく、「くる(包)む」という働きを、ひっくり返して見たものと
してもイメージされている。「ころ・も」の「も」が多重に解釈可能である
にしても、「ころ・も」の「ころ」もやはり、英語にするなら、
"round about"に相当し、この場合の「ころ」は、"round about (the body)"
というイメージを想起させる。興味深いというのは、「ころも」に当てられる
万葉仮名の代表的なものとして、「許呂母」や「許呂毛」であり、
「祢母許呂/ねもころ」の「母許呂/もころ」は、そのアナグラムとなるからだ。

507 :禍福は糾える縄の如し:2022/10/25(火) 11:53:19.58 ID:9sCxB5Ts.net
>No hay mal que por bien no venga
Significado: Este refrán transmite una visión optimista
de la realidad, pues indica que de una contrariedad
se puede extraer algo bueno, que una contrariedad
puede tener resultados favorables.

Marcador de uso: Muy usado

Fuentes: Fuente oral <

(出典 cvc.cervantes.es/lengua/refranero/ficha.aspx?Par=59187&Lng=0)

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/25(火) 11:59:04.99 ID:9sCxB5Ts.net
>「こ・ころ(心)」が表現しているのは、その「こ」を「同心円」的に
包み込むような様態("round about here/this")である。 <

「た(手)・な・ごころ(心)/掌」という表現を考へてみるといい。
また、「手(て)頃(ごろ)な」も、"being round about in hand"を
表現しているだろう。

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/25(火) 16:54:29.60 ID:9sCxB5Ts.net
>>482
>ドイツ語の原文との比較検討をしたわけではないが、「ヘルダーリン」
の章の訳者の日本語は、見事なものであると感じられる。<

このように述べて、確かに訳者の日本語の文章力もドイツ語の理解力も、
私とは比べものにならないほど優れているのだが、それでもツヴァイクの
原文に目を通すると、直ちにドイツ語原文の方がはるかに表現力が豊か
であり、なおかつその表現法において日本語に近いと感じざるを得ない。
ドイツ語の原文の表現が日本語的であると感じられるのに対して、
日本語の訳文の方が返って「間接的」であると感じられるのである。
したがって、ここにある問題は、単にドイツ語の読解力と日本語の
文章力だけにかかわるものではない。

510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/25(火) 23:18:27.89 ID:9sCxB5Ts.net
誤:許呂母」や「許呂毛」であり
正:許呂母」や「許呂毛」があり

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/26(水) 09:14:19.93 ID:fNrvebDT.net
>このように見ると、「すまひ(相撲)」と"purgatory"は互いに似ている
ことに気づく。<

したがって、古代ギリシア語で「すまひ(相撲)」について考えるなら、
それは"κάθαρσις"/「カタルシス」を作用させる闘技であることになる
だろう。現代の相撲の競技規則に照らしても、もっともよく"κάθαρσις"/
「カタルシス」を作用させた者が横綱として認定される、つまり、
「し(標)めゆ(結)ひ」をされることになる。このことは、プラトンの
『饗宴』で、悲劇詩人であるアガトーン/Ἀγάθωνの「最初の悲劇の
優勝(紀元前416年)を祝して催された饗宴」(出典:Wikipedia)
にやってきたアルキビアデス/"Ἀλκιβιάδης"("the one who is strong
in battle",name-doctor.com/name-alkibiades-meaning-of-alkibiades)
が、まずそのアガトーン/Ἀγάθωνに勝者の標(しるし)としてリボンを
ゆ(結)ひ、その後、そこにソークラテース/Σωκράτης/(私の解釈では、
「すこやかさを保つ力」)もいることに気づいて、アガトーン/Ἀγάθωνに
結ったリボンの一部を解いて、ソークラテース/Σωκράτηςにも標め
結ふことにするエピソードと併せて考えても面白い。

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/26(水) 09:28:17.68 ID:fNrvebDT.net
アリストテレスとカタルシスで検索したら、次の論考がヒットした。
ざっと目を通しただけだが、参考になる。

アリストテレス『詩学』カタルシス再考
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp › gengo0046000950
PDF
古澤ゆう子 著

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/26(水) 14:28:10.65 ID:fNrvebDT.net
>煉獄(れんごく、ラテン語: Purgatorium)とは、カトリック教会の教義で、
この世のいのちの終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの
期間。< (出典 Wikipedia)

私は、「すまひ(相撲)」と"purgatory"は互いに似ていると指摘したが、
ここに引用したようなキリスト教神学の教義における「煉獄」の捉え方
では、そのどこが「すまひ(相撲)」と似ているのかさっぱり分からない
だろう。プラトンの哲学においても死語に魂が浄化される「煉獄」と
同様の考え方が見られるというが、いずれにしても、そのように
「きよ(浄)め」が現世と死後の世界で二重化されて、その「きよ(浄)め」
が「すまひ(相撲)」におけるものとも、古代ギリシアの悲劇が現世の
人々にもたらすものともまるで無関係であるように見えるように
なることこそが、制度宗教/統治イデオロギーとして用いられる
キリスト教神学の教義が生み出す効果である。

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/26(水) 14:58:45.27 ID:fNrvebDT.net
考えてみるといい。神々の住む天つ国においては「きよ(浄)め」は、
本来的に必要ない。「きよ(浄)め」るまでもなく、「けが(穢)れ」
なきことが、天つ国が天つ国である基本要件である。また逆に、
根の国(死者が赴くところ)では、「きよ(浄)め」は問題とならない。
なぜなら、「けが(穢)れ」たものを排除しようとしても、もはや
他に行き場所はないからである。したがって、「きよ(浄)め」/
の作用("cleansing/purification/purging")を働かせる場所が
「すまひ」と呼ばれるべきものとして、それを"purgatory"
と言い換えたとしたなら、その「すまひ」/"purgatory"は、必然的に
この世、現世(うつしよ)、つち(土/地)に足の着いた場所という
ことになる。さらに、人々は、天つ国の神の子孫ではないの
だから、死後に天つ国に迎え入れられることもない。
そのことを前提とするなら、きよ(浄)めによってもたらされる
はずの「すがすがしさ」そのものがキアスム的な反転可能性
を帯びていることが、如実に感じられるはずである。無論、
天つ国の神の子孫とされる統治者が死んだ場合、それは
「かむあが(神上)る」と表現されるのだから、表向きは、
天に召されるものとされるが、諱(いみな)を見ても、
そこには表向きとは異なる意識が強く働いていたことが
はっきりと感じられる。

515 :ベタイン:2022/10/26(水) 15:03:42.26 ID:K3KviU7SG
https://transpersonal.jp/

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/26(水) 17:56:51.62 ID:fNrvebDT.net
きよ(浄)めの作用を働かせることには、偶々にではなく、必然的に
不穏さがつきまとふのである。統合に向かう統治のイデオロギーは、
そのことに対する感性の働きを麻痺させようとする。

517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 09:56:07.75 ID:4eMjzmIX.net
「すまひ(捔力/相撲)」の行事を執り行ふことによって作用させられる
"κάθαρσις"/「カタルシス」がもたらすものとされるのは、明らかに
象徴的な「平定による安定状態」であり、ドイツ語を用いて表現する
なら、それは、»ausgleichen«とされる状態である。

プログレッシブ 独和辞典の解説
(⇒aus|gleichen)[過分] [形]
❶ (性格・天候などが)安定した,円満な;安定した,むらのない;
(収入などが)バランスのとれた.
❷ 〔スポーツ〕 互角の.

しかし、「すまひ(捔力/相撲)」においては、その「平定による安定状態」
が実効力/»Gewalt«を行使した結果としてもたらされたものである
こと、その結果として「平定による安定状態」にある場所に建つ
「み(御)・や(屋)しろ/社」の周辺が、「きよ(浄)め」られた領域として
「しろしめされ/標め結はれ」て「いは(斎/祝)は」れたとしても、
そのこと自体に「不穏さ」が必然的につきまとふことが暗黙に
表裏一体のこととして意識されている。そのことは、「野見(のみ)宿禰」
の「野見(のみ)」、つまり、「(死者の安らふ)陵を見る」ことを
示す氏名が、「菅原」に、つまり、須我(すが)波良(はら(祓/拂/掃))
に変えられても、忘れ去られることはない。

518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 10:18:02.83 ID:4eMjzmIX.net
「すまひ(捔力/相撲)」において「『しこ』を踏む」とは、「つち(土/地)を
踏みしめる行為」である。「しこ」は、「しか(然)り」という場合の「しか」
と同様に「し(如)く」の活用形であり、「しか」は、現代語の
「た・しか/確か」や古語の「しか(然)・す(為)・が・に」という表現の
場合と同様に、英語にするなら、"certain"である。したがって、
「しか(然)り」は、"That is certain"に相当するような表現として
用いられているわけだが、これは、「し(如)く」が、ドイツ語にする
なら、»gleichen«に相当し、「しか」が、»ausgleichend«に相当
するような活用として使はれているからであり、すると、「しこ」
はやはり、»ausgleichen«とされる、つち(土/地)が力強く踏みしめ
られることによって均された、「平定による安定状態」を表して
いることになる。

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 10:26:18.08 ID:4eMjzmIX.net
ところで、死後に「きよ(浄)らな魂(たましひ)」が存在するという
捉え方、つまり、裏を返せば、死後に「魂(たましひ)」が
「きよ(浄)らでない」状態において存在し得るという捉え方そのものが、
既に、現世(うつしよ)と死後の世界における「きよ(浄)め」の二重化
であると言うことができ、この二重化は、統治イデオロギーと深く
結び付いている。

520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 11:03:21.88 ID:4eMjzmIX.net
統治イデオロギーの役割は、統治のための実力行使の正当化、つまり、
その「ただ(正)し」さを人々に「た・しか・め」させることにあり、
それは、とりもなおさず、「平定による安定状態」を「公正な均しさ」
として認めさせることにある。

キリスト教神学の教義が統治イデオロギーとして役に立つのは、
現世における「平定による安定状態」が、「公正な均しさ」を実現して
いるようにも、それに向かっているようにも人々の目には見えない
としても、その合致が死後には実現されると人々に説いて教へ、
現世における「平定による安定状態」を忍耐によって受け入れ
させるように導くことにある。「公正な均しさ」に向かうような
方向性を既に現世において人々に模範として示して見せるのが、
ニーチェの言うところの「禁欲主義的僧侶」の役割であるが、
その役割を「純粋に」現世において実現しようとするなら、
みづから(身づ柄/自ら)が絶対的な自己犠牲を求められることになり、
「僧侶」としての身分のみならず、自身の生命すら保つことができない。

その不可能なことを「ギリシア世界への回帰」として「純粋に」
求めつづけたことにおいて、ヘルダーリンの思想は、キリスト教
神学の「禁欲主義的僧侶」の立場をその基礎とするものであり、
その「純粋さ」ゆえに、ニーチェの哲学的な思考と比べても、
「ギリシア世界への回帰」の追求として中途半端である。

521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 11:12:53.01 ID:4eMjzmIX.net
これに関連して、ツヴァイクの『デーモンとの闘争 ヘルダーリン・クライスト・
ニーチェ』から参考になるツヴァイクの論述を原文から引用しようと思ったが、
当該の箇所について、原文と日本語訳を見比べると、訳の元として用いた版の
原文に相違があるのではないかと思われるほど、訳文が原文に対応していない
ように私には思われ、私自身が訳文を提示するだけの能力はないので、引用
するのはやめておく。引用しようと思っていたのは、「ヘルダーリン」に
ついて書かれた"Der Mythus der Dichtung"と題された章における文章である。

522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 11:17:40.35 ID:4eMjzmIX.net
>>517-518
誤:»ausgleichen«
正:»ausgeglichen«

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 11:31:09.60 ID:4eMjzmIX.net
>統治イデオロギーの役割は、統治のための実力行使の正当化、つまり、
その「ただ(正)し」さを人々に「た・しか・め」させることにあり、
それは、とりもなおさず、「平定による安定状態」を「公正な均しさ」
として認めさせることにある。<

だからこそ、「公正な均しさ」として提示される「平定による安定状態」
/「»ausgeglichen« とされる状態」に対して「喩」/»Gleichnis«を
自由自在に働かせようとする行為である、哲学すること、すなはち、
「かむか(考)へ」を巡らせることは、統治しようと力を行使する側に
とっては、つねに「まがまが(禍々)し」い働きをするのである。

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 15:30:36.81 ID:4eMjzmIX.net
日本語の言語表現から見れば、「『こころ(心)』などというものは存在しない」
ことを他人に納得させようと説得している人は、自分はいまそこで何も書き込ん
でいないことを掲示板で必死になって他人を納得させようとしているようなものだ。

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/27(木) 15:50:39.57 ID:4eMjzmIX.net
>その合致が死後には実現されると人々に説いて教へ

ここで「死後」は、社会の世俗化を考慮に入れるなら、別に
制度宗教によって想定される"the hereafter"である必要はなく、
"in future generations"であっても構はないことに留意しよう。

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 11:21:19.67 ID:UsQG1U6w.net
「ゆ(斎/喩)つつまぐし(櫛)」としての国語/日本語教育

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 13:29:54.11 ID:UsQG1U6w.net
>>509
>原文に目を通すると、直ちにドイツ語原文の方がはるかに表現力が豊か
であり、なおかつその表現法において日本語に近いと感じざるを得ない。
ドイツ語の原文の表現が日本語的であると感じられるのに対して、
日本語の訳文の方が返って「間接的」であると感じられるのである。<

このようなことを言うと、ドイツ語をまともに学習したこともない
初心者が、ドイツ語の原文を見てそのように感じることはあり得ない。
そのようか感覚が生じるとすれば、ドイツ語の表現がよく理解できない
ために自分のよく知っている母語の日本語に引き付けて解釈すること
によって生じる錯覚に過ぎない、と思われるかもしれない。
しかしそれでも、私はそのようには思わないし、それが私という
個人に限定される独自の感覚によるものだとも考えていない。
というのも、私は、表現は、まず伝はるものであり、その後に
理解されるものだと考えているからである。

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 14:00:27.12 ID:UsQG1U6w.net
具体例を見てみよう。原文はやはり前出のツヴァイクの著作からの引用である。

>Aber diese kurze Spanne ist erfüllt mit Unendlichkeit: Hyperion
und Empedokles, die Gedichite sind gerettet und uns damit höchster
Dreiklang des Genius. Dann stürzt er nieder ins Dunkel. Nichts lassen
ihn die Götter ganza vollenden. Aber ihn selbst lassen sie vollendet
sein.< p.104

>だが、この短い時間には無限のものが詰まっている。『ヒューペリオン』
と『エムペードクレス』と後期の詩が、どうにか出来上がり、それで
精神の崇高な三和音がわたしたちにも残されることになったのである。
やがてヘルダーリンは、精神の闇に落ち込む。神々は彼に何ひとつ
完全な作品を作らせない。しかし彼その人を、神々は完全なものに
するのである。< p.122

私は、私の引用した原文と訳文が元とした版の原文が完全に一致している
のかどうかは知らないし、原文と訳文の相違として指摘され得るような
箇所を検討しようと思っているわけでもない。ここでは、それは、
どうでもよいことである。私が具体例として考えているのは、
ドイツ語の原文に見られる»ist erfüllt mit Unendlichkeit«、
»lassen ihn die Götter ganza vollenden«、»ihn selbst lassen
sie vollendet sein«という表現が、どのように私に伝はり、
その伝はり方を私がどのように理解するかである。

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 14:33:51.12 ID:UsQG1U6w.net
まず、»ist erfüllt mit Unendlichkeit«は、訳文では、「無限のもの
が詰まっている」とされている。ここで、「無限のもの」と
「詰まって」という言葉を、誰でも容易に別の言葉で置き換える
ことができるだろうが、いずれにせよ、特に不適切と思われるような
訳し方をしているわけではない。にもかかわらず、この訳文は、
私には、その表現の伝はり方において、日本語的な感覚をたより
にしていても、ドイツ語の原文よりもずっと「間接的」である
と感じられる。「限りなきもので満ちている」とでも言い換えたなら、
まだ、訳文としての伝わり方としては、私にはよりしっくりきた
かもしれないが、これも既に訳文としての理解の提示であって、
ドイツ語の原文からより直接的に私に想起された「日本語的な
伝はり方」ではない。

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 14:54:15.54 ID:UsQG1U6w.net
では、»ist erfüllt mit Unendlichkeit«というドイツ語の表現に私が
どのような日本語の表現を直接に想起したのかと言えば、それは、
次の万葉集の歌、
万葉集 第5巻 815番
>武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎<岐>都々 多努之岐乎倍米[大貳紀卿]
>正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ[大貳紀卿]
>むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ
(出典 万葉集ナビ)
であり、この歌で用いられている「〜を(終)へめ」という表現である。

531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 15:29:36.49 ID:UsQG1U6w.net
一見すると、「〜を(終)へめ」は、明白に「を(終)ふ」ことを表現して
いるのだから、ドイツ語の表現に含まれる»Unendlichkeit«とは真逆
であるように思える。しかし、現代の元旦の歌でも
「終わりなき世のめでたさを」と歌われることからも分かるとおり、
「楽しき終へめ」を「楽しいことを終えよう」とすることは奇妙であり、
解釈として成立せず、「楽しいことの『限りを尽くそう』」を意味して
いるものと理解され、「を(終)ふ」そのものは、
>「空虚」を示すように用いられる「を」を再帰表現を形成する
「〜ふ」によって「ひっくり返す」ことによって、「満腔(≒
"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現であるものと明確に解釈することができる<
(出典 書込みの自己引用)
したがって、「楽しき終へめ」は、»mit Spaß erfüllen«
といったような表現であることになる。

532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 15:42:56.94 ID:UsQG1U6w.net
すると、「楽しき終へめ」が想起させるのは、「楽しさ」にまず何らかの
限界が想定されて、「楽しさ」がその限界まで満たされるというイメージで
はなく、むしろ、「尽きることのない楽しみで満たされる」というイメージ
であり、これが、ドイツ語の原文における»ist erfüllt mit Unendlichkeit«
に関連して私により直接的に連想されるものである。

533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 16:25:57.11 ID:UsQG1U6w.net
後につづく»vollenden«という動詞を用いたドイツ語原文の表現も同様に、
上述のように理解された日本語の「を(終)ふ」という表現を直接的に
想起させる。こちらも、ごく自然なことである。なぜなら、
»vollenden«は、語源解釈においては、»voll・enden«と分けられ、
»voll«は、英語の"fill"/"filled"に対応して、「満ちた」ことを表し、
»enden«は、英語の"to end"に対応して、「を(終)へる」ことを表す
からである。

訳文では、»Nichts lassen ihn die Götter ganza vollenden«は、
「神々は彼に何ひとつ完全な作品を作らせない」とされ、
»ihn selbst lassen sie vollendet sein«は、「彼その人を、
神々は完全なものにする」とされているので、»vollenden lassen«
は、「完全なものにする」、つまり、「完成させる」と解釈される
訳文となっているが、より直接的に日本語として想起されるのは、
「満ちるようにを(終)はらせる」ことであり、その一方が、
「神々はヘルダーリンに、いかなるものごとも満ちるように
を(終)へる/完成することはさせない」ことを表現していると
すれば、他方は、「ヘルダーリン自身を、神々は完全にを(終)は
らせる」ことを表現していることが「日本語的に」伝はってくる。

534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 17:03:23.20 ID:UsQG1U6w.net
断っておくが、私は、以上のようなことをドイツ語の表現を研究すること
によって提示しているわけではなく、あくまでも、ドイツ語の表現が
どのような日本語の表現を私に想起させるのかに基づいて展開している。
したがって、解釈の妥当性については、私は他人に対して責任を負う気
は一切ない。私自身には、そのような解釈が適合するように感じられる
というだけのことだ。このような外国語の原文の解釈の仕方は、外国語
学習者が教へられるものとは大きく異なり、私個人に特異なものである
と思われるかもしれないが、そこで働いている思考のプロセスそのものは、
別に私個人に限定されるようなものではないだろう。ただ、ほとんどの
人は、伝わるか、伝わらないか、誤った理解をしていないかどうかだけ
に気を配って、わざわざそれをメタ言語的に、しかもそれを同一言語内
ではなく、別々の言語の間で記述しようと試みるような無駄なこと(その
意義を否定されることはあっても、誰にも評価されることがないという
意味で)はしないだけの話である。

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/28(金) 17:35:08.07 ID:UsQG1U6w.net
他人には特異な解釈法に見えたとしても、それは私にとってはごく自然な
ものである。連想は、別々のものをなんとか関連付けようとする努力など
ではなく、勝手に浮かんでくるものだからである。やはり上述の
ツヴァイクの著作において»Linienreinheit«という表現を目にして、
「すぐ」に浮かんできたのは、「菅(すが)」という表現だった。
何らかの根拠がまずあって思い浮かぶのではなく、先に連想が生じて、
どのように連想が生じたのか、必要があれば、後から考へるのである。
この場合、連想に関連しているのは、「すぐ」、「菅(すが)」、
「すぎ(杉)」のような「直線的で干渉がない」イメージだろう。

そのような連想が役に立つ/有効なものであるかどうかは、差し当たり
不明であるとしても、関連付けとして記憶に勝手に残り、それが
役立ちそうな場合には、仮説のネットワークが勝手に形成され、
有効性が確認される事例に多く遭遇すれば、仮説のネットワーク
は強化され、そうでなければ、忘れ去られる。

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 07:25:22.12 ID:0py/E9DG.net
>>528
ここで、»ist erfüllt mit Unendlichkeit«という表現は、ツヴァイク自身に
よっても、明らかに、日本語の「を(終)ふ」に対応するもの
として理解されるドイツ語の»vollenden«という動詞のメタ言語的な
理解にかかわるものとして意識的に用いられている。このことは、
明確に示すことができる。

537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 07:36:40.06 ID:0py/E9DG.net
>>448で私は、「を(終)ふ」という表現にも用いられている「を」
について、次のように説明した。

>では、「玉(たま)の緒(を)」の「緒(を)」は何なのかと言えば、それは、
「玉(たま)『をつなぎ留めようとするもの』(すなはち、『緒(を)』)」
であり、この「緒(を)」は、さそいかけに応じるように求める「〜を!」
(フランス語を用いるなら、《regrettant》や《manquant》という
状況が生じることを表現する「を(惜)し」の「を」)でもある。 <

「を(終)ふ」は、「を」が「空虚」や「欠落」を示すこと、それが
その「空虚」や「欠落」により《regrettant》や《manquant》
とされる状況が生じていることの指し示しを、「〜ふ」によって
「ひっくり返す」表現である。これとまったく同様のメタ言語的
な理解が、次に引用するツヴァイクの表現においても、別の手法
を用いてはっきりとメタ言語的に示されている。

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 08:06:28.90 ID:0py/E9DG.net
>Marmorner Bau, mit klingenden Säulen steht Empedokles wie
ein griechischer Tempel in unsererm Bereich, unvollendet zum
Scheine, ein Torso, und doch eine vollkommene Vollendung.<
同書、p.123

>プログレッシブ 独和辞典の解説
Torso
❶ 〔美術〕 トルソー(胴体のみの彫像).
❷ 未完成の作品.<

ここで、»ein Torso«は、「未完成の作品」を象徴するものとして
用いられている表現だが、直接的には「トルソー」そのもの、
つまり、「頭・腕・脚が『欠落している』胴体」であり、
その「欠落」により《manquant》とされる状況が生じている
ことの隠喩である。それでも、それが»eine vollkommene Vollendung«
であると言っているのだから、この「ひっくり返し」は、
ちょうど、日本語の「を(終)ふ」という表現に働いているのと同じ
関係性の論理を、別の手法で示していることになるだろう。

539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 08:18:42.06 ID:0py/E9DG.net
しかし、これこそがとても重要なことだが、このような日本語と、
日本語とは別の言語における表現上の対応関係は、日本語において
新仮名遣ひを標準として規範化して、「を(終)ふ」を「お(終)う」
に書き換えることによって、完全に見失われることになる。
つまり、新仮名遣ひの規範化は、日本語の日本語としての表現の
生成をその中核から蝕んでいるだけでなく、日本語を母語とする者
が別の言語を身に付けようとすることも、日本語以外の別の言語を
母語とするものが日本語を身に付けようとすることも、根本的に
阻害しているのである。さらに、「〜ふ」によるメタ言語的な
「ひっくり返し」が日本語の表現のネットワークにおいて機能
しなくなることは、日本語で「かむか(考)へる」のを停止させる
ことになっていると言っても過言ではない。

540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 09:50:43.80 ID:0py/E9DG.net
生きる限りにおいて、「を」(「息の緒」、「玉のを」)は、»unendlichkeit«
であるが、その»Unendlichkeit«が意味するのは、「無限」ではなく、
「無限定」であり、それは「あくが(憧)れ」(古語としての「あく・か(離)れ」)
であると言い換えることもできる。しかし、「平定による安定性」を
「公正な均しさ」であると信じ込ませようとする統治イデオロギーは、
その「あくがれ」を、「無限に満たされることを求める不可能な要求」
であり、「病的に肥大化した欲求」、つまり、「抑制されなければならない
『あく(悪)』」であると人々にをし(教)へさと(諭)そうと努める。
統治イデオロギーの言説におけるこの誤認は、過失によって生じたもの
ではなく、意図的なものであり、したがって、いくら人々がその誤解を
解いて統治側の認識を正そうとしたところで、統治しようとする側が
それを訂正することは決してない。ゆえに、人々が「すこやかさを保つ力」
をみづから(身づ柄/自ら)が現世において体現しようとする限り、
つねにその誤認に基づく抑圧との矛盾に向き合はざるを得ない
(だからこそ、統治イデオロギーは、宗教によって説かれる
「死後」において実現されるとされる理想の世界への「あくがれ」を
利用しようとする)。

541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 09:51:47.10 ID:0py/E9DG.net
>>540
誤:»unendlichkeit« 正:»unendlich«

542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 11:00:28.38 ID:0py/E9DG.net
統治イデオロギーの理想とするところは、統治側、すなはち、「『を(治)』す」側
の呼びかけの「を」に完全に対応する「を」によって応じることにより、
みづから(身づ柄/自ら)が生きることが恩寵として実現していると人々が
認識するようになることであり、「『を(治)』す」側の呼びかけの「を」に
完全に対応することが理想とされる「を」が、「ま・すら・『を』(大丈夫)」
の「を」である(その意味で、「『を・を』しさ」は、戦場における「度量」
と解釈される古代ギリシア語の"ἀρετή"/「徳(とく)」に対応するものと
考へることもできる)。しかし、万葉集の歌においてさえ、
「ま・すら・『を』(大丈夫)」の「を」は、「『を(治)』す」側の呼びかけ
の「を」に理想的に合致す「べき」ものとして詠まれているのであって、
その呼応関係が「否応なし」であることがにじみ出ている。そして、
「いき(息)のを(緒)」や「たま(玉)のを(緒)」は、
「ま・すら・『を』(大丈夫)」の「を」とは対照的に、た(絶)えること
によって限定されることになる「いと(絲)『を(惜)』しさ」として、
「な(己/汝)」に代表されるような関係性において詠まれているのである。

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 11:12:28.99 ID:0py/E9DG.net
近代のドイツ文学が、古代ギリシアの世界を理想像としたのとは異なり、
万葉集が読まれた時代の古代における人々の生活が理想を実現していた
などと夢想する人は、現代の日本で暮らす人々のなかにはまずいないだろう。
その一方で、統治イデオロギーにおいて「『を(治)』す」側として
呼びかけの「を」を発する統治側が、日本政府であるとされるにせよ、
民主主義の主権者であるとされるにせよ、世界の民主的な政府の間の
合意であるとされるにせよ、人類あるいは地球環境や地球の生命である
とされるにせよ、
>「『を(治)』す」側の呼びかけの「を」に完全に対応する「を」によって
応じることにより、みづから(身づ柄/自ら)が生きることが恩寵として
実現していると人々が認識するようになること<
が、統治における理想とされていることは変わらない。

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 11:26:17.83 ID:0py/E9DG.net
大きく変わっているのは、「な(己/汝)」に代表されるような身近な関係性に
おいて大切なものとされていた、「いと(絲)『を(惜)』しさ」を表現する
「いき(息)のを(緒)」や「たま(玉)のを(緒)」の評価の方である。

「いと(絲)『を(惜)』しさ」は、身内や身内になることが望まれる関係性
において表現されるものであるが、それが「『を(治)』す」側の呼びかけ
の「を」とは矛盾するものであることを示すこと自体が、公の場から
排除されるようになっているのだ。そのような矛盾を指し示すことは、
ただちに「保守主義」、「伝統主義」、「家父長制」、「身内優先主義」、
「縁故主義」など、人々の公益に反する私的利益の追求として批判の的
とされることになる。

545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 11:30:18.46 ID:0py/E9DG.net
無論、私も、万葉集の詠まれた古代の生活を理想化して、そのような世界
への回帰を呼びかけようとしているわけではない。しかし、統治イデオロギー
が理想とする呼応関係に合致することだけが、人々にとって正しいこと
であるとされるなら、統治側がどのような存在者として想定されるにせよ、
その統治体制は、必然的に全体主義に向かふことにならざるを得ないだろう
と私は思う。

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/29(土) 12:32:33.09 ID:0py/E9DG.net
統治体制が、「『を(治)』す」側の呼びかけの「を」とは矛盾して、
身内や身内になることが望まれる関係性において表現される
「いと(絲)『を(惜)』しさ」を蔑ろにする全体主義に向かったとして、
そのことが、「身内優先主義」や「縁故主義」を解消して、
全体主義的な平等が実現されるなどと思うのは大間違いである。
「身内優先主義」や「縁故主義」は暗黙化されて、統治権力の
関係性に応じて、下側からの配慮が求められるようになるだけだ。

無論、統治権力の上層における「身内優先主義」や「縁故主義」が
「発覚して」、それが「腐敗」として糾弾されることはある
だろう。しかし、そのようなことが生じるのは、上層における
権力闘争の結果としてであり、下側からの批判によってではない。
むしろ、そのような「腐敗」の糾弾は、統治権力の関係性に
応じた暗黙の「身内優先主義」や「縁故主義」を安定的に維持する
のに役立つように用いられる。

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/30(日) 16:48:24.13 ID:wZJHcjap.net
上のレスで言及してきたツヴァイクの著作はやはり、版の違いにより、
日本語訳が元にしたものとは、原文そのものに大きな違いがある。
私には、私が参照しているAnaconda(出版社名)の原文の方が、
日本語訳が元にしている版のものより優れていると感じられる。
私が教育関係者だったら(あり得ない想定だが)、これを新たに
翻訳させて、高校生向けの推薦図書にするだろう(そういう不届き
なことばかりを考えているから、誰にもまともに相手にされない)。

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/30(日) 16:56:52.34 ID:wZJHcjap.net
ツヴァイクによるヘルダーリンの詩作についての叙述の締め括りを
読んで、私が想起する日本語の表現は、「春日(かすが/はるひ)」
である。私が、「春日(かすが/はるひ)」という表現をどのように
捉えているかについて、後で書き込もうと思ふ。

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/30(日) 23:51:27.08 ID:wZJHcjap.net
万葉集 第10巻 1913番
見渡者 春日之野邊 立霞 見巻之欲 君之容儀香
見わたせば春日の野辺に立つ霞見まくの欲しき君が姿か
みわたせば かすがののへに たつかすみ みまくのほしき きみがすがたか
(出典 万葉集ナビ)

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/31(月) 09:58:42.11 ID:riNRyizG.net
以下は、「春日」と表記して、なぜ「かすが」と読まれるのかを説明している。

春日(読み)かすが
精選版 日本国語大辞典「春日」の解説
(「春日」の表記は、「かすが」の枕詞「はるひ(春日)」をあてたもの)
[一] 大和国春日郷のこと。現在の奈良市の中心部にあたる。
※書紀(720)武烈即位前・歌謡「はるひ 箇須我(カスガ)を過ぎ」
はる‐ひ【春日】
[1] 〘名〙 春の日。また、春の日の昼間。《季・春》
※万葉(8C後)五・八一八「春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや波流比(ハルヒ)暮らさむ」
[2] 枕 春の日がかすむ意で、「かすむ」と同音を含む地名「春日(かすが)」にかかる。はるひの。はるひを。
※書紀(720)武烈即位前・歌謡「播屡比(ハルヒ) 春日(かすが)を過ぎ」
[補注]地名「かすが」に「春日」の文字をあてるのは、「あすか」に「飛鳥」をあてるのと同様、この枕詞から転じたもの。

551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/31(月) 13:33:56.78 ID:riNRyizG.net
「春日(かすが/はるひ)」 について書こうと思っていたが、伝へようとすることが
あまりうまくまとまりそうにないのでやめておく。書こうと思っていたのは、
「春日(かすが/はるひ)」という表現が用いられる場合の、「見渡す見晴らし」
と「かすみ」の関係についてである。「春(はる)」は、「かすみ」に関連付けて
読まれる場合が多い。「かすみ」そのものの作用は、すがたかたちをおぼろげ
にするものであり、見えにくくするものであり、「春日(かすが)」という
表現が「かすみ」と併せて詠まれれば、当然、そのような作用が想起される。
しかし、そのことは、「春日(かすが)」が、必ずしもそのような作用を想起
させることは意味しない。「かすみ」も、「朝霞」であったり、あしびきの山
や野辺といった遠景に「たなびく」ものであったりして、時空間的に限定
されている場合も多く、「見渡す見晴らし」が失われることを必ずしも
イメージさせるものではなく、むしろ、そのような時空間的な広がりを
感じさせるように効果的に表現として用いられている、といったような
ことである。また、「春日」は、「はるひ」と読まれるとされる場合でも、
「すが(菅)のね(根)」と併せて詠まれれば、「か『すが』」という読みが
意識されることになり、上に引用した歌では、「春日(かすが)」の「すが」
は、「すがた」の「すが」と重ねられている。この場合、「か・すが」の
「すが」が想起させるイメージは、「かすみ」のイメージとは矛盾する
ことになる。

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/31(月) 20:12:39.89 ID:riNRyizG.net
次の歌は、「を(緒)」と「た(絶)え」と「ゆゆ(忌々)し」の関係が
簡潔に表現されていて例文として便利なので、忘備録として書き込んでおく。

万葉集 第4巻 515番
獨宿而 絶西紐緒 忌見跡 世武為便不知 哭耳之曽泣
ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみと為むすべ知らに音のみしぞ泣く
ひとりねて たえにしひもを ゆゆしみと せむすべしらに ねのみしぞなく
(出典 万葉集ナビ)

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/31(月) 20:28:07.59 ID:riNRyizG.net
次の歌の表現は、春の日差しが穏やかであることが「うらうら」、
「うららか」などと表現されることと関連しているものと思われ、
興味深い。

万葉集 第14巻 3504番歌
波流敝左久 布治能宇良葉乃 宇良夜須尓 左奴流夜曽奈伎 兒呂乎之毛倍婆
春へ咲く藤の末葉のうら安にさ寝る夜ぞなき子ろをし思へば
はるへさく ふぢのうらばの うらやすに さぬるよぞなき ころをしもへば

554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/01(火) 00:08:27.35 ID:YmVT5kUA.net
>「藤裏葉」(ふじのうらば)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。
第33帖。巻名は内大臣が詠んだ和歌
「春日さす藤の裏葉のうらとけて君し思はば我も頼まむ」に因む。<

こちらの歌は、はっきりと「春日さす」という表現が、「うら〜うら」に
関連付けられているので、私の解釈にはそれなりに妥当性があったことが
確かめられる。

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/01(火) 09:56:54.77 ID:YmVT5kUA.net
このようにして検索結果として提示することについて、私は、あらかじめ
知っているわけではない。しかし、それにかかわることを何も知らなければ、
検索することがないだろうし、まったく同じ検索結果が表示されていた
としても、それに関心をもつこともない。したがって、検索するとは、
自分に関心のあることと関係しそうなことを機械的に拾い出して、
さらに、そのようにして自動的に提示される結果について、それが
自分の関心をさらに脹らませるような働きをするかどうかに応じて
選別して選び出す行為であると言うことができる。逆に、検索結果
が、自分の関心を萎ませるようなものであったなら、その関心の
持ち方は、有効性がないものとして忘れ去られることになるだろう。

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/01(火) 10:19:49.07 ID:YmVT5kUA.net
私にとって、検索する行為は、自分が知識を蓄積することの代替
でもなければ、自分が既に蓄積した知識を、互いに整合する既存の
パズルの断片のように組み合わせるために利用する手段でもない。
そもそも、私は、記憶力が著しく弱いので(だから、そのことついて
同じような自覚の強いモンテーニュに親近感を抱く)、私には、
組み合わせるべき知識の蓄積などない。私は、自分に価値がある
ように感じられる材料に対する関心に応じて、それが具体的に
どう役に立つのかを、事例を探し出すことによって確かめようと
しているのだろう。言い換えるなら、私にとっては、検索する
行為そのものが、"Ἔρως"/「エロース」というダイモーンの
働きかけ、つまり、「う(受/享/承)けつ(継)ぐに
あた(能/与/価/当)ふものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、
う(生)みだ(出)そうとすること」によるものであると言うこと
ができるだろう。

557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/01(火) 10:40:26.21 ID:YmVT5kUA.net
"Ἔρως"/「エロース」というダイモーンの働きかけ、つまり、
「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふものをみづから
(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとすること」により、
検索して、その結果を取捨選択により提示する。

ここで、その行為を"conception for generation to come"など
と言い換えるなら、その言い換えは、ただちに、ドゥルーズの
考え方としてよく目にすることのある、「哲学とは概念
(コンセプト)を創造すること/《création de concepts》だ」
という私にはよく分からないもの(私は、ドゥルーズの著作自体
をほとんど読んだことがないので、この哲学の定義についてどう理
解すべきなのか知らない)に沿って解釈されるものとなってしまうだろう。

558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/01(火) 10:55:04.17 ID:YmVT5kUA.net
しかし、私にとって大切なのは、「概念を創造すること」/
《création de concepts》などではない。私にとっての問題は、
懐疑に対応する適切な概念を創造して、疑念を解消することではなく、
ソークラテース流に言うなら、「すこやかさを保つ力」をみづから
(身づ柄/自ら)が具体化することである。ドゥルーズ自身がそれを
どのように説明したにせよ、「哲学とは、『概念を創造すること』/
《création de concepts》」などという表現による捉え方では、
哲学すること(というより、実際には、それは既に「哲学すること」
ではなく、「哲学学」だろう)は、「概念」/《concepts》と呼ばれる
ものを「死産する」ことにしかならないのではないかと私には
感じられる。

559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/01(火) 11:10:01.12 ID:YmVT5kUA.net
私が何かについて「懐疑する」、つまり、みづから(身づ柄/自ら)に
「疑念」をやど(宿)すとすれば、そのように「懐妊された『疑念』」は、
それにうまく対応する「概念」を創造することによって解消される
べきものではなく、いのち(命)をう(受/享/承)けつ(継)ぐに
あた(能/与/価/当)ふ("viable"な)ものとして産み出され、
その後も生長をつづける「み(身)・ど(獲)り・ご(児)」となること
が望まれるものである。

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/01(火) 11:26:51.24 ID:YmVT5kUA.net
繰り返そう。

>328名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/04(火) 11:14:57.75ID:UUv7vhJL
アルキビアデスは、ソクラテスの「本当の姿」、つまり正体を明かすと
称して話し始めるが、その締め括りとして次のように述べる。
>このような人たちを、この人はだまし、自分が彼らを愛していると
思い込ませる。しかし、やがて、愛する者の仮面を脱ぎ捨て、自分
のほうが愛される少年になってしまうのだ。<
プラトン、中澤務訳、『饗宴』、光文社、pp.187-88

この言葉から、(プラトンにおける)アルキビアデスによれば、
ソクラテスの正体とは、「『エロース』と呼ばれるダイモーン/鬼神の働き
の人格化」にほかならないことを見てとることができる。さらに、
その働きを前述したとおりに日本語で言い換えるなら、「ソクラテス」
という人格は、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふものをみづから
(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうとする働き」を体現する者
ということになるだろう。<

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/01(火) 12:05:40.83 ID:YmVT5kUA.net
誤:その行為を"conception for generation to come"
正:その行為を"conception for generations to come"

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/02(水) 18:20:00.61 ID:FVpPdSoI.net
「たま(玉)のを(緒)」の「た(絶)え」ることが「を(惜)し」とされる
感覚は、古典の多くの歌において詠まれている。しかし、その感覚を
人がしっかりと理解できるように(したがって、メタ言語的に)説明
できる、日本語を母語とする人文学系の専門家はどれだけいるだろう。

日本の古典の研究を専門とする日本語/国語学者ですら、「これは
日本の古代に独特の物事の捉え方や感覚を伝える表現で、現代の
日本語では(ましてや、西洋の言語では)うまく説明することが
難しい」などと言い出しかねないのが現状ではないだろうか。
試しに、「たま(玉)のを(緒)」という表現が一般的にどのように
説明されてるのか、辞典による記述をネットで検索して確認してみるといい。
そこに記載されていることを読んで、その「を(惜)し」とされる
感覚がよく分かったと感じられる人はどれだけいるだろう。
少なくとも私には、その記述がどのような説明になっているのかすら
よく分からない。ところが、この表現は、本来、専門家による説明
を必要とするどころか、日本語を母語とする一般人に限らず、
人であれば、誰でもが分かるはずの感覚を伝えている。

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/02(水) 18:30:37.41 ID:FVpPdSoI.net
「たま(玉)のを(緒)」の「たま(玉)」とは、既に指摘したとおり、
「うつ(美)しく、たふと(尊)く、きよ(浄/清)らで、よ(良)いもの」の
提喩であり、「を(緒)」は、つなぎ留める作用をするものの提喩で
あるとともに、さそひ求める呼びかけの声としての「〜を!」
でもある。その「を(緒)」が「た(絶)え」ることによって生じる
「を(惜)し」という感覚は、日本語を母語とする者だけでなく、
他の言語を母語とする人によっても、さらに、場合によっては、
人の言語を理解しない動物によってすら、共有されるものだろう。

564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/02(水) 18:49:35.54 ID:FVpPdSoI.net
万葉集 第19巻 4214番
>真鏡 見礼杼母不飽 珠緒之 惜盛尓 立霧之
失去如久 置露之 消去之如
玉藻成 靡許伊臥 逝水之 留不得常
>まそ鏡 見れども飽かず 玉の緒の 惜しき盛りに 立つ霧の
失せぬるごとく 置く露の 消ぬるがごとく
玉藻なす 靡き臥い伏し 行く水の 留めかねつと
(出典 万葉集ナビ)

565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/03(木) 10:57:20.08 ID:RIBzFaq6.net
>»ist erfüllt mit Unendlichkeit«

»Unendlichkeit«とは、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
もの」であり、生きることにおいて»eine vollkommene Vollendung«
とは、それをみづから(身づ柄/自ら)に宿して、産み出すことである。

566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/03(木) 11:55:40.69 ID:RIBzFaq6.net
>>538>>562-564
>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「トルソ」の解説
トルソ
torso
彫刻用語。ギリシア語のテュルソスに由来するイタリア語で,
人間の「胴体」を意味する。美術においては,ギリシア,
ローマの遺跡から発掘された,頭部,両腕,両脚の失われた古代遺品の彫像,
あるいは最初から独自の美を認めそのように完成された彫刻をさす。
後者は 19世紀に入ってから制作されるようになった。<

古典の和歌において詠まれる「たま(玉)のを(緒)」とは、»ein Torso«である。

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/03(木) 12:17:23.46 ID:RIBzFaq6.net
本来、誰にでもよく伝はるはずの「たま(玉)のを(緒)」という表現が、
それを専門家が解説すると、なにかよく分からないものになる理由は、
はっきりしている。それは、「〜とは何か」と問ひ、それに応える
明確な定義を提示しようとすることの不毛さにある。

「『たま(玉)のを(緒)』とは何か」と問ふなら、それが何であるのか
については、そもそも何の不明さもない。「たま(玉)」は「たま(玉)」
であり、「を(緒)」は「を(緒)」である。そこで、その問ひに沿って
より詳細に説明しようとするなら、古代の「たま(玉)」は、その素材
として石やガラスから造られていたとか、「を(緒)」は、「ひも(紐)」
と言い換えてもよく、その「ひも(紐)」の素材としてどのような繊維が
用いられたとかを、博学的に知識として集めて、それをまとめたもの
を示すことになるだろう。しかし、それで「たま(玉)のを(緒)」に
ついてどのようなことが分かったことになるのだろうか。
「を(緒)」が「ひも(紐)」であることは確かなので、
別に旧仮名遣ひで「を」と表記しなくても、新仮名遣ひに準拠して
「お(緒)」と表記してもよい、あるいはそうした方がよいという
ことだろうか(事実上、「国語教育」はそれを実践として規範化している)。

568 :Para de falar besteiras:2022/11/03(木) 13:44:25.07 ID:RIBzFaq6.net
では、問ひを変えてみよう。どのように変えるのかと言えば、
「『たま(玉)のを(緒)』とは何か」と問ふ代わりに、
「『たま(玉)のを(緒)』であるとはどのようなことか」と問ふのである。
そのように問ふことは、「たま(玉)のを(緒)」が「喩(ゆ)」として
どのように捉えられるのかを考へることに他ならない。
すると、「『たま(玉)のを(緒)』とは、»ein Torso«である」という、
一見すると誰にでも奇妙に思はれるであろう指摘の意図もはっきりするだろう。

この指摘が意図しているのは、もはや言うまでもなく、
「『たま(玉)のを(緒)』であるとはどのようなことか」と問ふなら、
私のひとつの応えは、「それは、»ein Torso«/『トルソ』 のようである」
ということだ。

569 :Para de falar besteiras:2022/11/03(木) 13:55:02.82 ID:RIBzFaq6.net
ここで再び注意しよう。それは、
>「それは、»ein Torso«/『トルソ』 のようである」
という応えに対して、「»ein Torso«とは何か」と問ふこともやはり不毛
である、という以上に、これはすでにそうであると指摘したことなのだから、
同じ過ちを繰り返すのは愚かである。問はれるべきは、
「»ein Torso«であるとはどのようなことか」なのであるから、
これもやはり、»ein Torso«が「喩(ゆ)」としてどのように捉えられる
のかを考へることに他ならず、したがって、
>「『たま(玉)のを(緒)』とは、»ein Torso«である」
という表現はその形式において、「ゆ(喩)のゆ(喩)」、すなはち、
「メタゆ(喩)」であることになる。

570 :Para de falar besteiras:2022/11/03(木) 14:20:51.68 ID:RIBzFaq6.net
>「『たま(玉)のを(緒)』とは、»ein Torso«である」

このような発言に対する専門家(無論、人文学系の専門家も含む)の反応は、
決まり切っている。「たま(玉)のを(緒)」が»ein Torso«であるわけはない
ので、「意味不明」であるとして無視し、あるいは発言の撤回を要求し、
あくまでもその正しさを主張するなら、「たま(玉)のを(緒)」と
»ein Torso«がそれそれ「何であるか」をまず最初に明確に定義してから、
その間の関係を明示しろと要求するのだ。しかし、「メタゆ(喩)」
について説明する以前に、「ゆ(喩)」そのものが、物象化された対象
としては明白に異なる事物を互いに同様であるものとして並べて
提示して、どのように考えればそれらが同様であると見なされ得るのか
に気づかせる表現手法なのだから、並べられたそれぞれの物象化された
対象が「何であるのか」を定義しなければ、その間の関係について
考へることは許されないとするのは、その言葉の本来の意味において
「ナンセンス」である。

571 :Para de falar besteiras:2022/11/03(木) 14:40:22.22 ID:RIBzFaq6.net
何事について検討する場合にも、「ゆ(喩)」を徹底的に排除して、
検討すべき対象の要素についてそれぞれ「何であるか」をまず最初に
明確に定義することが正しいとする権威ある専門家の人々は、
所謂、「藁人形論法」を常套手段として用いる。例えば、
>「『たま(玉)のを(緒)』とは、»ein Torso«である」
と発言したとすると、それに対して、発言者は、「『たま(玉)』が、
彫刻された大理石のトルソと同様に、不透明の白い大理石で造られて
いたと主張している」と勝手に結論を引き出して、その結論に
発言の妥当性が依拠しているものとすることを当然の
前提/藁人形として、そのようにして自分たちで作った藁人形に
発言者の名札をつけ、五寸釘を打ちつけて呪ふのである。

572 :Para de falar besteiras:2022/11/03(木) 14:51:32.41 ID:RIBzFaq6.net
さらに、自分の名札がつけられた藁人形が五寸釘を打ちつけられて呪はれた
発言者は、自分が呪はれることになった「理由を自分でよく考えて、反省の
態度を公にすること」が要求され、そうして反省の機会を与えてもたった
にもかかわらず、その藁人形が自分には何の関係もないものとして無視
するような者は、不遜で性格に大きな歪みのある人間として処罰または
排除の対象となってしかるべきものとされるのである。

573 :Para de falar besteiras:2022/11/03(木) 15:31:58.34 ID:RIBzFaq6.net
このような「藁人形論法」による批判は、分野にかかわらず常套手段として
用いられるものなので、その手法をよく理解しておくことは、問題の
解決にはつながらないとしても、無用な精神的な負荷を軽減する役に
立つだろう。

ところで、この「藁人形論法」によって、「ゆ(喩)」が用いられること
を徹底的に排除して、物事が明確に定義されてある「正常な状態」を
保守することに貢献している自負する人々は、確かに「正常な状態」
が揺らぐことになるのを防いでいるわけだが、その「正常な状態」
とは、「既存の平定された安定性」に他ならない。しかも、
「ゆ(斎/由/喩)つつまぐし(櫛)」という表現が如実に理解され得る
日本語の古語の用法の世界においては、その「つつまぐし(櫛)」を
挿して、「ゆゆ(忌々)し」きことが生じないようにつつし(慎)み、
「ゆ(斎/由/喩)」を「いは(祝/斎)ふ」ことによって「平常の安定性」
が保たれているという自覚がまだ生きているのに対して、
「藁人形論法」を常套手段として用いる人々は、自分たちで作った
藁人形に他人の名札を付けて、五寸釘を打ちつけて呪ふことで、
自分たちが正義を守っていると信じているのである。だから、
そのような人々がいずれ、自分たちの作った藁人形と一緒に、
自分の名札どころか、自身が五寸釘で打ちつけられたとしても、
それは、他人にとっては喜劇でこそあれ、悲劇ではなく、自業自得と
いうものだろう。

574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/03(木) 16:12:34.75 ID:RIBzFaq6.net
発言が、どのような立場によるものであれ、何らかの既存の定義に
沿ったものであることを確かめることができるときにだけ安心して
満足する人々を相手に論述することほど不毛なことはない。
便所の壁の落書きと言われる匿名の掲示板でも、書込みに対して
ときには「草が生える」ことがあるだけ、まだましだろう。

575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/03(木) 18:44:13.22 ID:6bTYfJibE
http://uresinamida.html.xdomain.jp/uresii/

576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/04(金) 13:23:24.95 ID:Rtu8sg5z.net
「『ゆ(斎/由/喩)つつまぐし(櫛)』を挿して、『ゆゆ(忌々)し』きことが
生じないようにつつし(慎)み、『ゆ(斎/由/喩)』を『いは(祝/斎)ふ』こと
によって『平常の安定性』が保たれている」という捉え方に対応する
表現は、言及してきたツヴァイクの著作においても見ることができる。

そんな日本語の古語の用法を反映するような表現が、日本語とはまったく
無関係に20世紀に書かれたドイツ語の著作に見られるなどということは
あり得ない、と思うだろうか。しかし、「ニーチェ」のついて書かれた
章の次に引用する箇所では、ニーチェが年齢を重ねるごとに老成する
どころか、若返る(むしろ、日本語の古語で「をちかへる」と表現した
方が適切だろう)ことが、まさしく「ゆゆ(由々)し」きこととして捉え
られている。のみならず、そのことは、ニーチェが社会関係から
みづから(身づ柄/自ら)を解き放つこと、つまり、「ゆ(斎/由/喩)つつ
まぐし(櫛)」を抜いて、「ゆ(斎/由/喩)」を「いは(祝/斎)ふ社(やしろ)」
とは無縁となるにつれて生じるものとして記述されているのである。

577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/04(金) 13:26:38.15 ID:Rtu8sg5z.net
>Kaum hat er sich wo eingewachsen, so »krümmt und bricht sich
die Haut«: schließlich kommt er seinem eigenen Leben gar nicht
mehr nach mit seinem Sich-selbst-Erleben, und die Veränderungen
geraten allmählich in ein kinematographisches Tempo, wo das Bild
ständig zittert und verflirrt. Gerade die ihn am nächsten zu kennen
meinen, die Freunde seiner früheren Lebensalter, von denen fast
alle festgenagelt sitzen in ihrer Wissenschaft, ihrer Meinung,
ihrem System, staunen ihn immer fremder von Begegnung zu
Begegnung an. Erschreckt sehen sie in seinem immer mehr
verjugendlichten geistigen Gesicht neue Züge, die auf nichts
Früheres zurückdeuten; und ihm selbst, dem immerzu Verwandelten,
kommt es geradezu gespenstig vor, wenn er seinen eigenen Titel hört,
wenn er mit jenem »Professor Friedrich Nietzsche in Basel«,
dem Philologen, »verwechselt« wird, mit diesem greisen und
weisen Mann, der er selbst einmal vor zwanzig Jahren gewesen
zu sein sich nur mühsam erinnert!<
(出典 projekt-gutenberg.org/zweig/kampfdae/chap034.html)

578 :ソークラテースから公共の安全と衛生へ:2022/11/08(火) 10:54:51.76 ID:a9SEH4Ex.net
エロース、つまり、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/与/価/当)ふ
ものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、う(生)みだ(出)そうと
する働き」を体現する者が「ソークラテース」であり、「ソークラテース」が、
「すこやかさを保つ力」の権化であるとすると、その思索の歩みにおいて
長い間、なやみつづけた(この場合、「なやみ」は、日本語の古語の意味で
理解されるべきである)末に健康/すこやかさ/»Gesundheit«をふたたび見出した
ニーチェも、結局のところ、「ソークラテース」を再発見したに過ぎないと
見ることもできる。

しかし、ニーチェがいくら、それによって健康が回復されたことのめでたさ
を強調したところで、「『ソークラテース』の再発見」は、人が抱えるなやみ
や問題の最終的な解消にも、解決にもならない。それどころか、ふたたび
見出された「ソークラテース」もやはり(というより、何度、再発見されたところで)、
『ソクラテスの弁明』において示されるとおり、公共の健全性(安全および衛生)を
守るために死刑の宣告を下されるほかない。それでも、このことは、ソークラテース
みづからが自己の弁明として主張するとおり、そう悲観すべきことでもない。
なぜなら、いくらソークラテースの死刑を実行したところで、統治の維持に終はりが
ないように、「ソークラテース」も何度でも再び見出され、その弁明を引き継ぐ者は
その都度、必ず現れるからである。

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/08(火) 11:13:17.47 ID:a9SEH4Ex.net
ここで私が述べていることが意味不明であると感じるなら、そのような人は、
いくら長年、哲学者の著作を研究していようと、いくら哲学の分野で論文や
著作を公表していようと、ラテン語や古典ギリシア語に精通していようと
いまいと、哲学学を研究しているのであり、哲学をしているのではない
と私は思ふ。無論、私がそう思ふだけなので、それは私の勝手である。

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/08(火) 11:18:43.76 ID:a9SEH4Ex.net
誤:死刑を実行
正:死刑を執行

581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/09(水) 08:53:54.72 ID:C6cRXeYw.net
「たま(玉)のを(緒)」が、»ein Torso«であるとするなら、
「ソークラテース」/"Σωκράτης"/「すこやかさ/健全性を保つ
("be safe and sound"/《être sain et sauf》)力」は、
「なほびのみたま(直毘霊)」である。

582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/09(水) 23:44:54.93 ID:C6cRXeYw.net
大陸側では中国語を形成することになったのと共通する表現を
大々的に流用しながらも、中国語の規範にはまったく従はない
別系統の独立した言語として日本語を形成するのに、それ自体、
「復/覆」を流用したものと考へられる「〜ふ」という形の
再帰表現の形成が、中心的に重要な役割を果たしたものと
推測されることは、これまでにも繰り返し述べてきた。

では、日本語とは無関係とされるインド・ヨーロッパ語族
において、これに対応するような表現法は存在するだろうか。
再帰表現を形成するということでは、例えば、ドイツ語では、
»sich 動詞語幹-en«のように再帰代名詞を用いた表現法が
とられるが、日本語の「〜ふ」の用法は、動作が自らに働く
ことを表す場合に限定されず、「〜ふ」が働かせる
「ひっくりかえし」の作用の解釈に依存してはるかに
自由自在である。それでも、それがどのように解釈されるに
せよ、「ひっくりかえし」を作用させる「ふ」という要素
だけを、その「文法的機能」を無視して、孤立させて見るなら、
「表現」としてそれが対応しているのは、ドイツ語の場合
であれば、»um«である。

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 00:03:56.97 ID:34pJUk/M.net
なぜここで「文法的機能」を無視する必要があるのかと言えば、
例えば、具体的に»umkippen«、»umbringen«、»umwenden«
といった動詞を考えてみるといい。
»umkippen«からは、「ころ・ぶ」こと、»umbringen«からは、
「ころ・す」こと、»umwenden«からは、「くるっと・むきかはる」
ことがすぐに日本語として想起されるが、確かに、»um«によって
「ひっくりかえし」の作用が表現されているものの、それに
対応しているのは、「〜ふ」という「文法的機能」ではなく、
「ころ・ぶ」、「ころ・す」の「ころ」、「くるっと・むきかはる」
の「くるっと」の方である。

584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 00:15:42.02 ID:34pJUk/M.net
それでも、「ひっくりかえし」を作用させる「ふ」という要素
だけを、その「文法的機能」を無視して、孤立させて見る限り
においては、ドイツ語の»um«は確かに、「復/覆」を流用である
と考えられる日本語の「ふ」にうまく対応している。
>Prefix
um- (separable or inseparable)
round, round about
repeatedly, over again, re-
in another way
to the ground, down, over<
(出典 Wiktionary)

ところで、»um«は、語源的には"*umbi"として再構築され、
これは、例えば、英語の"ambiguity"という表現に見られる"ambi"と
同根であると考えられている。

つづきは、また明日。

585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 00:17:39.32 ID:34pJUk/M.net
あ、午前零時をまは(回)っているので、本日また後で

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 00:21:44.18 ID:34pJUk/M.net
ひとことだけ付け加へておくと、「〜ふ」の「文法的機能」といふ
言い方は不本意で、より正確には、「ひっくりかへし」を指示する
「メタ言語的機能」である。

587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 00:25:47.26 ID:34pJUk/M.net
「くるっと・むきかはる」 なら、»sich umwenden«だね。

588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 10:04:21.12 ID:34pJUk/M.net
日本語において「〜ふ」という形の再帰表現を形成するのに用ひられる、
「復/覆」の流用と考へられる「ふ」も、それがメタ言語的に使はれて
いることを無視して、孤立した表現要素として見るなら、ドイツ語の
»um«に対応すると考えられ、この»um«が、語源的には"*umbi"として
再構築され、英語の"ambiguity"に見られる"ambi-"と同根であるとされる
というところまで昨日から今日に変はる「ころ(頃)(つまり、"turning"
である)」に書き込んだ。ところで、"ambiguity"は、「曖昧さ」、
「両義性」などと訳されるが、その「さだまらない」感じを表現している
のが"ambi-"であり、「両義性」と訳される場合の「両」も、「ふたつ
『ともに』」の「ともに」という感覚ではなく、「両生類」/"amphibian"
の「両」が、水に入ったり水から出たりして生活する「どっちつかず」
の感じを表現するような「さだまりのなさ」を伝へるものである
("amphibian"の"amphi-"も、語源的に"ambi-"と同根である)が、
ここまで見てくると、あることに気づかざるを得ないだろう。
それは、ドイツ語では»um«として多用され、英語では、"ambi-"
や"amphi-"として現れる要素に想定される「印欧祖語」の用法の
解釈そのものに相当な「さだまらなさ」があるのである。
そして、この「さだまらなさ」は、「〜ふ」のメタ言語的な
用法の「さだまりのなさ」と同様に、"turn"/「ひっくりかへし」
の「さだまりのなさ」であると言ふことができる。

589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 10:22:33.59 ID:34pJUk/M.net
昨日は、午前零時をちょうどまは(回)った「ころ(頃)」に、本日、
書き込むつもりでいながら、「つづきは、また明日」と誤って書いて
しまったが、「午前零時」も、さだまりのない両義性を帯びている。
「午前零時」は、暦の上では、確かに「本日」であり、「昨夜」
ではない。しかし、昨晩からの連続性においては「終点」として
意識され、そこから1秒であれ、1分であれ過ぎるまでは、まだ
日付が変はった「始点」としては意識されないのだ。言い換える
なら、まだ「つ(竟/終)ひた(立/断)ち/朔日/一日」の「一(いち)」
が立っておらず、「つ(竟/終)ひ」が断たれていないという感覚
である。

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 10:41:52.80 ID:34pJUk/M.net
午前零時を1秒であれ、1分であれ過ぎると、日付が変はったこと、
つまり、前日のひと「まは(回)り」/"turn"が完全に(「一周」/
"full turn"として)終はって、本日の新たな「まは(回)り」/"turn"が
始まったことが感じられる。ドイツ語の»um«にも、英語で"ambi-"や
"amphi-"として現れる要素にも、ちょうどこの感覚と対応するように
使はれる用法が見られる。それが、ドイツ語の»Umwelt«(「環境」、
即ち、「まは(周)りの世界」)の»um«であり、英語の"ambient"
(周囲)の"ambi-"であり、"amphitheater"(円形劇場)の"amphi-"
である。

591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 10:59:17.51 ID:34pJUk/M.net
この場合には、ドイツ語の»um«、英語に見られる"ambi-"および
"amphi-"のいずれも、日本語の表現としては「まは(周)り」に対応
していることになる。「まは(周)り」は、「まは(回)る」の名詞化で
あるが、「まは(回)る」は、「ま・ふ」ことを単に「作用」として
ではなく、「〜る」によって「活動/動作」として表現するものであり、
「ま・ふ」は、言ふまでもなく、「〜ふ」による再帰表現であるが、
この場合もやはり、»um«、"ambi-"、"amphi-"が対応しているのは、
"circling"/"full circle"「ま・ふ」の「ま」(つまり、「ま・る(丸/円/全)、
「ま・り(鞠)」」、「ま・(巻)く」、「ま・(撒)く」の「ま」)の方で
あって、「〜ふ」の方ではない。

592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 11:01:25.30 ID:34pJUk/M.net
誤:"circling"/"full circle"「ま・ふ」
正:"circling"/"full circle"、「ま・ふ」

より具体的には、この「ま」は、「球体」である「ま(目)」でもあるだろう。

593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 12:13:33.60 ID:34pJUk/M.net
私は、言語学の研究者でもなく、英語、フランス語、ドイツ語などに
おける表現法についても、自分が接したことのある表現から推察する
だけで、特に知識があるわけではなく、ましてや、インド・ヨーロッパ語族
に分類される数多くの言語における表現法についてはまるで知らない
ので、一般的な結論を導き出すことはできないが、上に見た例では、
日本語の「〜ふ」に対応する表現要素は、それが"turn"/「復/覆」の
諸相にかかわるように様々に用いられることにおいて、「〜ふ」の
用法の多様性と似通っていながらも、メタ言語的な指示としては
用いられていないことにおいて、「〜ふ」の使はれ方とは明らかに
異なっている。言い換えるなら、以上に見てきた印欧諸語の表現法
の例では、"turn"/「復/覆」の諸相は、様々に利用されながらも、
その諸相の「さだまりのなさ」が、自由自在に関係性を変化させる
ように積極的に活用されてはいないのである。

594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/10(木) 15:51:42.62 ID:Wa6pwpe2.net
犬が散歩に連れてけと騒がしいです。
休ませろ、もちつけ、そのうち連れてでてやるから。
何も心配することなく、のんびり犬と散歩する・・・・・それが幸せってこと。
犬はそれを俺に伝えたくて、訴えてんだな。
来い、こら、こっち来て丸くなっておとなしく寝てろ、気が向いた頃
散歩に連れてやるから。
へそ天してやがらぁ、こいつ。

595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 13:26:16.60 ID:/3OvkmsW.net
かわいそうに。犬は散歩して歩き回らないと、便をうまく排泄することができないのだ。
散歩を我慢させているのは、用を足すのを我慢させているのと同じ。

596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 16:33:26.21 ID:/3OvkmsW.net
日本語で哲学をするのに、「〜ふ」という形の再帰表現の生成について
考へることがとても重要に思はれるのは、単にその多用が日本語を
中国語とは別系統の言語として独立させることに中心的な役割を果たした
のだろうと推察されることだけによるのではない。「〜ふ」という形の
表現が、例えば、「い・は・ふ(祝/斎ふ)」に見られるように多重化される
までに多用されるようになった主な要因としては、そもそも、大陸側では、
他方で中国語として規範化されて形成された表現のピジン言語的な
流用において、人々の間で互いに通用する「持ち札」として使へる
表現がかなり限られていたことがあるのだろうと私は思ふ。
したがって、「〜ふ」の徹底的な利用は、「持ち札」として通用する
限られた表現をなんとか意図が伝はるように流用しようとする「苦し紛れ
の策」として生じたのだろうと考へられる。

597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 16:57:42.75 ID:/3OvkmsW.net
そして、普通に考へれば、限られた「持ち札」としての表現のそのように
操作の対象としようとすることは、表現に「ぎこちなさ」をもたらすはず
だろう。ところが、これぞまさしく「禍を転じて福と為す」と言ふべき
ことで、当初は「苦し紛れの策」であったと思はれる「〜ふ」の多用に
よって意図を互いに伝へようと工夫を重ねることは、驚くほど効率的な
表現法を見出すことにつながったのである。これは、似非数学的な隠喩を
用ひるなら、それまで数学において乗法しか知らなかった人々が、
指数関数による表現法を見出したようなものではないかと私には思へる
(ただし、私は、数学は知らないし、苦手である)。

598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 17:18:12.34 ID:/3OvkmsW.net
例えば、表(おもて)を表現する「持ち札」として「も」と書かれた札
はあるが、裏(うら)を表現する「うら」と書かれた札は「持ち札」には入って
ないとする。しかし、汎用できる「正」と「反」という札は持っている。
すると、これらの札しか持っていない場合に、それでも自分が相手に、
表(おもて)ではなく、裏(うら)を意図していることを伝へようとする場合、
誰でもすぐに思ひつく簡単な手段が、「反」と「も」を組み合わせる
ことであり、その組み合わせを「反・も」もしくは「も・反」のように
用ひることだろう。そして、これは、「も」を「反」によって特徴づけ
ようとする、云はば、「乗法」的な表現方法である。しかし、日本語を
形成することになった人々が見出したのは、このような、ありふれた
表現法ではない。

599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 17:38:48.94 ID:/3OvkmsW.net
では、「反」と「も」を組み合わせることによって「も」を「反」で
特徴づけようとするような「乗法」的な手法の代わりに、どのような
手法を用いれば、これらの「持ち札」だけを用いて、自分が表(おもて)
ではなく、裏(うら)を意図していることを相手に伝へることができる
だろうか。またしても、すぐに誰でも考へつくことは、「も」と書か
れていて表(おもて)を意図することを相手に伝へる札を、その場で
ひっくり返してみせることだろう。そして、実際、日本語で「うら」
と言い換えられる「(お)も・ひ」という表現は、そのような
ひっくり返しを指示する「〜ふ」による表現の名詞化として生成され
ている。しかし、「も」の札をその場でひっくり返して見せて、
自分が裏(うら)を意図していることを伝へるだけでは、その表現法に
汎用性があるとは言へない。

600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 17:56:19.66 ID:/3OvkmsW.net
では、どうするのか。それはやはり、「持ち札」である「反」を用ひる
ことである。しかし、それは、「反」と「も」の札を「反」・「も」
もしくは「も」・「反」のように横並びにして「も」を「反」によって
「乗法」的に特徴づけようとするのではなく、「反」の札を「も」の
札の斜め上に置いて、そのことにより、「反」を、「も」を特徴づける
札としてではなく、汎用的な「ひっくり返す」という指示として用ひる
ことである。すると、この表現法によって伝へられることになる裏(うら)
は、「反・も」もしくは「も・反」のように表(おもて)と対比される
二項対立的な、もしくは双極的な項と見なされるのではなく、
「も」が示され、さらにそれをひっくり返す指示が与へられること
によって、現に示されている表(おもて)である「(お)も」の
「ひっくり返し」として現状では見えないようになっている「(お)もひ」
としての裏(うら)であることになる。

601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 18:08:28.28 ID:/3OvkmsW.net
この表現法が「指数関数」に喩えられるように感じられるのは、この
ひっくり返しの指示には、そのような汎用性があるからである。
例えば、逸(そ)れることを表現する「持ち札」として「そ」がある
場合、同様に「そ」の札の斜め上に「反」を置いて、それをひっくり返し
の指示として用ひると、逸(そ)れることがひっくり返されて、
そ(沿/添)ふことを表現できることになる。

ただし、「〜ふ」によって伝へられるこのひっくり返しの指示は、
そのひっくり返しの操作がどのように解釈されるかに、もともと、
「さだまりのなさ」があることは、既に指摘したとおりである。
それでも、日本語は、その「さだまりのなさ」を操作性の自由自在さ
として積極的に活用することによって形成されているのであり、
そのことが、日本語を、中国語と共通する表現を大々的に
流用しながらも、中国語を形成する規範にまったく沿はない
自律的な言語にしているのである。

602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 18:12:22.22 ID:/3OvkmsW.net
にもかかわらず、「〜ふ」そのものが、「復/覆」の流用であると考へ
られるだから、まさしく「禍福は糾える縄の如し」である。

603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 18:18:52.46 ID:/3OvkmsW.net
ちなみに、「〜ふ」がメタ言語的なひっくり返しの指示として用いられて
いるというのは、私独自の勝手な説明であるが、「(お)もふ」の「〜ふ」
が「覆」であり、「も」は「面」であるという解釈は、岩波古語辞典
にもそのとおりに記載されている。

604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 18:25:38.04 ID:/3OvkmsW.net
ただ、私には、「思ふ」の「〜ふ」だけを、その他の表現における「〜ふ」
とは異なる特別な表現であると考へるべき理由が思ひつかないだけのこと
である。

605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 19:54:09.11 ID:RUPvbn+U.net
164poem2022/11/11(金) 01:34:00.65ID:ux5FZmhX
自分の妄想だけど
電子単体、陽子単体のビームなら、ビームが作る磁場は(磁場が中性微子、中性子の力ならそちら、4つの複合なら4つ)観測者の速度に影響されて、例えばビームと等速なら磁場が零だと思う。
導線の場合は電子と陽子(またら中性微子と中性子)があり、逆向きに動く(陽子は固定されてるが電子は動くから正孔が動いてるように見える)から、観測者の速度に依存しなくなる。プラマイで打ち消されて観測者のそれらへの相対速度はどんな時も零になり、磁場は固定された陽子と電子の速度差、つまり正孔と電子の速度差でどんな速度の観測者にも一定になる

606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 20:12:34.14 ID:RUPvbn+U.net
>散歩を我慢させているのは、用を足すのを我慢させているのと同じ。
知らなんだ。
俺んちの犬はパピヨンで、連れて出るとたいてい「かわいい」と言われています。
うらめしそうにウ〜とかぬかすので、今から散歩に連れて行くことにします。

607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/11(金) 23:26:49.70 ID:/3OvkmsW.net
>>597
誤:「持ち札」としての表現のそのように
正:「持ち札」としての表現をそのように

608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 09:57:33.39 ID:h1jvfl3E.net
>>596-604
ここで誤解しないように注意しよう。私は、「〜ふ」によって指示される
ような表現をひっくり返す操作が、日本語の話者にしか理解することが
できないなどということを言っているのではない。もし、そうだとすれば、
そもそも、そのような表現法が人々の間で通用することはなく、したがって、
日本語が日本語として形成されることもなかっただろう。実際、現状に
対してひっくり返しが作用する可能性は、誰でもが経験を通じてよく
知っていることであり、その認識そのものは、母語として話す言語の
違いにかかわらず、表現され得るものである。例えば、次の表現
を再び見てみよう。
>>507禍福は糾える縄の如し2022/10/25(火) 11:53:19.58ID:9sCxB5Ts
>No hay mal que por bien no venga

これは、直訳するなら、「よ(善)きことのためにやって来ないような
あ(悪)しきことはない」とでもすることができるだろう。したがって、
この表現は、表向きに訪れたのは「あ(悪)しきこと」であるが、
それがひっくり返って「よ(善)きこと」となり得るという認識を
表現している。

609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 10:15:03.81 ID:h1jvfl3E.net
しかし、そのようにひっくり返る可能性が認識されているとしても、
「あ(悪)しきこと」はやはり、「よ(善)きこと」と双極の関係にある
二項対立として示されているのであり、表向きの「あ(悪)しきこと」
の現れがただちに裏の「よ(善)きこと」を暗示し、ひるがへって、
表向きの「よ(善)きこと」の表れがただちに裏の「あ(悪)しきこと」
を暗示するものとして、その関係性の「さだまりのなさ」が、
言語使用の慣行として組み込まれて示されているわけではない。

610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 10:45:52.75 ID:h1jvfl3E.net
英語でも、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」が「『表裏一体』である」
という捉え方は、容易に表現することができる。それが、
"two sides of the same coin"という言い方である。しかし、この場合も、
といふより、この場合には、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」の
双極的な対立はさらに強調されることになり、むしろ、それは、
二項対立として固定されることになる。硬貨を回転させながら投げて、
表が出るか、裏が出るかにより、どちらにするかを決める「コイン・トス」
について考えてみるといい。硬貨の表を選択しても、硬貨の裏を選択
しても、その選択は自分にとって「裏目に出る」可能性があり、
そうなるかどうかは「運(うん)」に任されているものと認識される。

すると、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」が「『表裏一体』である」
とするなら、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」は、硬貨の表と裏
のように対比される二項対立として存在し、その二つを「ともに」
一体化する「二面性」/"two sides"として存在するのが硬貨であり、
さらに表が出るか、裏が出るかを決めるものとして「運(うん)」が
存在することになる。したがって、存在するものは、「よ(善)きこと」、
「あ(悪)しきこと」、「二面性としての全体」、「運(うん)」に
それぞれ分かれることになる。「よ(善)きこと」は、「二面性」
の一方として現れているのだから、その裏面に「あ(悪)しきこと」
を「とも」なってをり、「あ(悪)しきこと」は、その裏面に
「よ(善)きこと」を「とも」なっているという、存在するもの
についての二項対立的な認識が示されることになる。

611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 10:54:51.08 ID:h1jvfl3E.net
そして、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」の「二面的」な捉え方に
おいては、表が出るか、裏が出るかの「運(うん)」の「さだまりのなさ」
は、つねに「不安」であり、「さだまりのなさ」を感じさせられること
そのものが「不吉」なのである。

612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 11:15:46.88 ID:h1jvfl3E.net
では、日本語の表現においては、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」の
関係性は、どのように捉えられているだろうか。それは、「よ(善)し」、
「あ(悪)し」という表現を検討してみるだけですぐに分かる。

「よ(善)し」は、「『よ(寄)り』を生じる」ことを表現しているのに
対して、「あ(悪)し」は、「『あ(散)か(離)れ』を生じる」ことを
表現している。「あ(悪)し」の「あ」は、「こ・れ」、「そ・れ」、
「あ・れ」において指示詞として用いられる「あ」と同じもので
あり、だから、「あ(在/或)る」ことは、英語を用いるなら、
"vagary"として「"vague"にある」ことを表現し、古語の「歩(あり)き」
は、そのまま、"vagrant"に対応する。そして、これが、日本語の
「〜ふ」の用法の驚くべき効率の良さなのだが、その「あ」を
「〜ふ」というメタ言語的な指示によってひっくり返すと、
「あ(合/会/遭/逢/遇)ふ」になる。

>vagrant (n.)
mid-15c., "person who lacks regular employment, one without
fixed abode, a tramp," probably from Anglo-French vageraunt,
also wacrant, walcrant, which is said in many sources to be
a noun use of the past participle of Old French walcrer
"to wander," from Frankish (Germanic) *walken, from the same
source as Old Norse valka "wander" and English walk (v.).<
(出典 etymonline.com/search?q=vagrant)

613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 11:29:32.49 ID:h1jvfl3E.net
「犬も歩けば棒に当たる」
>(原義)犬がふらふら出歩くと、棒で殴られるような災難に遭ったりする。
じっとしていれば良いのに、余計な行動を起こすべきでないとの戒め<
(出典 ウィクショナリー日本語版)

ここで、「棒にあ(当)たる」は、酷い目に「あ(遭)ふ」こととして説明され
ているが、もとの表現は、「あ(遭)ふ」ではなく、「あ(当)たる」である
ことに注意しよう。「あ・ふ」は、基本的には、「あ(悪)しきこと」に
「あ・ふ」こととしてではなく、それ自体が「よ(善)きこと」として
捉えられ、その否定、つまり、「あ・は・ない」ことの方が、そのまま
「あ(悪)しきこと」として捉えられる。これは、「よ(善)し」が
「『よ(寄)り』を生じる」ことを表現していることを思ひ起こすなら、
当たり前と言へば、当たり前のことである。

614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 11:40:39.85 ID:h1jvfl3E.net
しかし、これを見るだけでも、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」が
『表裏一体』である」として、硬貨の両面のように「二面的」であり、
その表と裏の二極的な現れが「運(うん)」によってつねに不安にさら
されているといふような神経症的な捉え方と比べて、
「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」の「さだまりのなさ」が、
はるかに自然に受け入れられていると感じられるのではないだろうか。

615 :たまのをを:2022/11/12(土) 11:44:24.42 ID:h1jvfl3E.net
万葉集 第4巻 763番
>玉緒乎 沫緒二搓而 結有者 在手後二毛 不相在目八方
>玉の緒を沫緒に搓りて結べらばありて後にも逢はざらめやも
>たまのをを あわをによりて むすべらば ありてのちにも あはざらめやも
(出典 万葉集ナビ)

616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 11:56:16.57 ID:h1jvfl3E.net
日本語では、哲学をすることができないとか、日本語では、「存在」に
ついて哲学的に考察されることがなかったとか主張してきた人は多く
いるが、私には、むしろ、「哲学」(私に言はせれば、「哲学学」である)
における「存在」の「概念」についての議論、「存在論」について
語られる「哲学」の言語表現の方が却って、衣(ころも)もまとふこと
なく甲冑を身につけようとしているかのように、自分の「肌にあはない」
と感じられる。

617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 13:16:26.25 ID:h1jvfl3E.net
ちなみに私がこの板に書き込むのは、自分が詩人であるとか、詩作を
しているとか思っているからではなく、単に、哲学板を含む学問板への
書込みが、どういうわけかは知らないが、永久アクセス禁止処分に
なっているという理由による。私のような考えが、制度的な学問から
は相手にされないことに何の不思議もないが、なぜ、詩文学板への
書込みは許されても、哲学を含む他の学問板への書込みは許されない
のか、私にはまったくの謎である。私のような書込みは、一般には
「ポエム」と評されることになるので、このような掲示板でさえ、
「ポエム」の名目で書き込むことは許せても、「学問」の名目で
書き込むことは許せないということだろうか。いずれにせよ、
ほとんど独り言を書き込んでいるだけなので、私にとって
名目などどうでもいい。

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/12(土) 14:45:36.74 ID:h1jvfl3E.net
>硬貨を回転させながら投げて、表が出るか、裏が出るかにより、
どちらにするかを決める「コイン・トス」について考えてみるといい。
硬貨の表を選択しても、硬貨の裏を選択しても、その選択は自分に
とって「裏目に出る」可能性があり、そうなるかどうかは「運(うん)」に
任されているものと認識される。<

この「運(うん)」を司るとされるのが「テュケー(Τύχη)」であり、
「テュケー(Τύχη)」は、プラトンの『饗宴』において「ソークラテース」
を宴会に招待する悲劇詩人「アガトーン」の名前が想起させる
「アガトダイモーン(Ἀγαθοδαίμων)」(「善き霊」を意味する)の妻
であるとされる。ちなみに、記号論で知られるCh.S. Peirceは、
この「テュケー(Τύχη)」から、"Tychism"という表現を造語して
用ひているが、Peirce本人以外にこの表現を使ふ人はまずいないので、
一般には通用していない。

>テュケー(古希: Τύχη, Tȳchē)は、ギリシア神話における都市の
財産と繁栄、そしてその運命を司る中心的な女神であった。
その名は「運」を意味するギリシャ語で、ローマ神話の
フォルトゥーナに対応する。
>ゴルディアヌス3世のコインの裏に刻まれたテュケー。<
>ガンダーラのギリシャ仏教美術ではハーリティー(鬼子母神)と密接に関連する。<
(出典 Wikipedia)

619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/13(日) 11:57:20.30 ID:bhwblaaa.net
より抽象的な「い(言)ひまは(回)し」をつか(使)ふことによって
説明するなら、日本語の「〜ふ」といふ表現法は、「〜」により
何らかの事象がどのようにか示されれば、そのことに必然的に
ともな(伴)ふものとして暗示される、そのひっくり返しとして
のキアスム的反転を積極的に活用するものであると説明する
ことができるだろう。「〜ふ」という表現法がメタ言語的な
指示として活用する性質を、「両義性」、「両価性」、
「二面性」などと呼ぶのではなく、「キアスム的反転」と呼ぶ
ことの方が「ふさは(相応)し」いことは、「つき(月)かは
(交/替/変)り」/「つひたち/朔日/一日」を表象するものと
考へられる鬼神である「ツクヨミ」と、年(とし)のかは
(交/替/変)る月(つき)である「1月を司る神」とされる
双面の(したがって、「両義性」、「両価性」、「二面性」
を表象する)神、"Janus"/「ヤーヌス」を比べてみれば、
よりはっきりするだろう。

つづきは、また後で。

620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/13(日) 13:20:49.31 ID:bhwblaaa.net
年(とし)のかは(交/替/変)る月(つき)である「1月を司る神」とされる
"Janus"/「ヤーヌス」のすがた(姿)は、はっきりと双面神として
表象されている。"Janus"/「ヤーヌス」が双面神として表象される
のは、この神が、日本語で表現するなら、「ゆ(行)くとし(年)」と
「く(来)るとし(年)」の「さかひ(境)」に立つものとされるからだろう。
したがって、この神は、年(とし)の「かは(交/替/変)る」月(つき)
である1月を「両義性」、「両価性」、「二面性」として「一体化」し
て表象していると言ふことができる。したがって、"Janus"/「ヤーヌス」
の双面のすがた(姿)に表れているのは、"ambiguity"、"ambivalence"、
"duality"などの性質であると言ふことはできても、キアスム的な反転
であると言ふことはできない。

621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/13(日) 13:31:53.53 ID:bhwblaaa.net
これに対して、「ツクヨミ」のすたが(姿)は、まるではっきりしない。
「ツクヨミ」が「月読(命)」と表記されるなら、「月を読む」という
行為が想起され、「月夜見(尊)」と表記されるなら、「月夜を見る」
という行為が想起されて、いずれにしても、月夜に関係付けられるだけ
である。その一方でよく知られているのが、『日本書紀』において、
「ツクヨミ」が「ウケモチノカミ(保食神)」を斬り殺すエピソードである。

>保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、
腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを
全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な
食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、
この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。<
(出典 Wikipedia)

622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/13(日) 13:46:04.80 ID:bhwblaaa.net
このエピソードを古代ギリシア的に解釈するなら、カコダイモーン、
つまり、「悪しき(κακος)鬼神(δαίμων)」に見えた(ここで、
「悪しき(κακος)」は、語源的に「排泄する」行為を表現していた
のではないかと考えられていることを思ひ起こそう)
「ウケモチノカミ(保食神)」を「ツクヨミ」が斬り殺してみたら、
実は、それはエウダイモーン/アガトダイモーン、つまり、
「善き鬼神」だったというような話だろう。

623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/13(日) 13:57:59.05 ID:bhwblaaa.net
「ツクヨミ」が「ウケモチノカミ(保食神)」を斬り殺すこのエピソードが、
どのようにキアスム的な反転を表現しているのかについては、>>399
で既に詳しく説明したので繰り返さない。ここでは、「つき(月)かは
(交/替/変)り」が、「つひたち」、つまり、「つひ(終/尽)た(断)ち」
として捉えられていることを思ひかへすだけで十分である。

624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/13(日) 14:27:16.05 ID:bhwblaaa.net
「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」を「両義性」、「両価性」、
「二面性」として一体化して表象する捉え方においては、
賭けが「裏目に出る」ことがないように、すなわち、
「あ(悪)しきこと」が表面化しないように、賭けに勝ち
つづける「運(うん)のよさ」(「ツキ」が落ちないこと
と言ひ換へてもいい)が望まれることになるだろう。
また、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」の双極的な
対立、二項対立的に相互排除する捉え方を解消しようとする
としても、「よ(善)きこと」と「あ(悪)しきこと」は、
全体として見れば、一体化した「連続性」としてつながって
いるという物象化された考え方が示されることになる。

625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/13(日) 14:40:22.78 ID:bhwblaaa.net
しかし、「ツクヨミ」が「ウケモチノカミ(保食神)」を斬り殺す
「つひ(終/尽)た(断)ち」 のキアスム的反転において、大切なのは、
その斬り殺す行為が、「よ(善)きこと」であるか、「あ(悪)しきこと」
であるかでも、「ウケモチノカミ(保食神)」が、「悪しき鬼神」であるか、
「善き鬼神」であるかでもない。重要なのは、賭けに勝ちつづける
「運(うん)のよさ」(「ツキ」が落ちないこと)でもなく、「かひ(効)」
(キアスム的な反転を意識するなら、ギリシア文字の"Χ"を想起しても
いいだろう)があるかないかであり、これは、おこな(行)はれたことが
どのようなことであれ、その「かひ(効)」があったなら、それは
「よ(善)きこと」であり、その「かひ(効)」がなかったなら、それは
「あ(悪)しきこと」であったとするプラグマティックな判断である。

626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/14(月) 13:22:15.85 ID:xVqpo/DJ.net
>古典の和歌において詠まれる「たま(玉)のを(緒)」とは、»ein Torso«である。

前レスで言及してきた著作において、シュテファン・ツヴァイクは、
「ヘルダーリン」についての章においてだけでなく、
「ハインリヒ・フォン・クライスト」について記述する章においても
ふたたび"ein Torso"という表現を用いている。ここで、"ein Torso"を
そのまま「たま(玉)のを(緒)」に置き換えてみると、"ein Torso"という
表現が想起させる感覚が「たま(玉)のを(緒)」によって、また
「たま(玉)のを(緒)」という表現が想起させる感覚が"ein Torso"によって
よりうまく把握できるようになるだろうと私は思ふ。

>So endet Kleistens erster ungeheurer Ansprung. Mit
einem Riß wollte er sein ganzes Inneres, den Dämon,
nach außen reißen; aber er zerreißt sich bloß die Brust,
und in seinen blutenden Händen bleibt ein Torso, freilich
einer der herrlichsten, die je ein Dichter geschaffen.
Nichts vollendet er als – symbolisch genug – jene Szene
des Willenstrotzes Guiskards, wie er sein Leiden,
seine Schwächen ehern überwindet, aber Byzanz ist
nicht erreicht, das Werk nicht vollendet. Doch schon
dieser Kampf um die Tragödie ist eine heroische Tragödie.
Nur wer die ganze Hölle in sich trug, konnte so um Gott
ringen, wie es Kleist mit diesem Werke wider sich selber getan hat.<
(出典 projekt-gutenberg.org/zweig/kampfdae/chap022.html)

627 :偽善者と独善者の共演とは:2022/11/15(火) 09:46:38.14 ID:ukm58HF4.net
哲学的に考へるとは、統治によって誘導されるとおりに偽善と独善の
間で揺れ動く両価性/"ambivalence"をみづから(身づ柄/自ら)が生きる
ように閉じ込められることの拒絶であり、その両価性/"ambivalence"
を絶えず、キアスム的反転における「効(かひ)」に変換して、両価性/
"ambivalence"に囚われることがもたらす二価的な対立を解消して
しまふことである。

628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/15(火) 10:00:09.94 ID:ukm58HF4.net
「生き『がひ』」とは、生きることと引換へに「かひ」がある
ことではない。「すこやかさを保つことができる」ことが
「『かひ』があるように生きている」ことであり、それが
「生き『がひ』」なのである。そして、「すこやかさを保つ
ことができる」とは、「う(受/享/承)けつ(継)ぐにあた(能/
与/価/当)ふものをみづから(身づ柄/自ら)にやど(宿)し、
う(生)みだ(出)そうとする働き」を体現することに他ならない。

629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/15(火) 10:23:15.36 ID:ukm58HF4.net
「かひ(効)」があることが「よ(善)きこと」であり、「かひ(効)」が
ないことが「あ(悪)しきこと」であるとするなら、その「よ(善)きこと」/
「あ(悪)しきこと」の対比は、善悪についての全体(それをどのような
全体と考へるにせよ)としての絶対主義でも、全体として相対主義でもなく、
現世(うつしよ)に「ある」(「あり(歩)く」という派生形において英語の
"vagrant"、"walk"、さらには印欧祖語として想定され語根、
"*wel-"(to turn, revolve)に対応させて考へることができる)ことに
おいてみづから(身づ柄/自ら)が「あふ」(語呂合はせをするなら、英語の
古語の"hap")ことになるのがどのようなことであれ、その出来事と
うまく「あふ」ように折り合ひをつけてゆこうとする、その都度の
判断によるものである。

630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/15(火) 10:28:17.28 ID:ukm58HF4.net
誤:想定され語根
正:想定される語根

631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/15(火) 10:41:18.52 ID:ukm58HF4.net
偽善者と独善者の共演においてその中間の中庸な立場などというものは
あり得ない。哲学的に考へようとするなら、そもそも、そのような
共演にわざわざ首を突っ込んで両者の間で議論に加はろうとすること
自体が愚かである。

632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/15(火) 10:52:00.91 ID:ukm58HF4.net
ここで、「かひ(効)」があることを、全体にとって「よ(善)きこと」
であるとし、「かひ(効)」がないことを、全体にとって「あ(悪)しきこと」
であるとしたなら、その判断はただちに、独善か偽善に陥らざるを
得ないことに留意しよう。

633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/16(水) 08:53:05.90 ID:535p07g7.net
「しあは(幸)せ」/《bonheur》とは、「めぐ(巡)りあは(遇)せが
よ(善)きこと」(ここで「めぐり」とは、古語の「あり(歩)き」のように
"vagrant"に「ある」ことであることを想起しよう)であり、
「ふ(不)しあは(幸)せ」/《malheur》とは、「めぐ(巡)りあは(遇)せ
があ(悪)しきこと」であるが、その「めぐ(巡)り」そのものは、
あらかじめ確率空間として規定されるものではなく、不特定であり、
「めぐ(巡)りあは(遇)せ」をうまく活用できるかどうか、つまり、
みづから(身づ柄/自ら)がすこやかさを保つためにそれをうまく用ひ
ることが「できるかどうかに『より』」、それが「よ(善)きめぐ(巡)り
あは(遇)せ」であったのか、または「あ(悪)しきめぐ(巡)り
あは(遇)せ」であったのかを知ることになるのである。

634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/16(水) 08:58:23.70 ID:535p07g7.net
Maldita hora en que te conocí!

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/16(水) 09:34:59.13 ID:535p07g7.net
¡Dichosos los ojos que te ven!

636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/18(金) 15:02:44.29 ID:+ksezoak.net
>I take this evanescence and lubricity of all objects, which lets
them slip through our fingers then when we clutch hardest,
to be the most unhandsome part of our condition.
Nature does not like to be observed, and likes that we should
be her fools and playmates. We may have the sphere for our
cricket-ball, but not a berry for our philosophy. Direct strokes
she never gave us power to make; all our blows glance,
all our hits are accidents. Our relations to each other are
oblique and casual.<
Ralph Waldo Emerson, "Selected Essays, Lectures, and Poems", p.232

637 :似非数学的隠喩:2022/11/19(土) 15:16:49.01 ID:PSTpmfqK.net
「かむか(考)へさせる」とは、「意識」とされる底に対して複素指数函数の
指数を変化させるような効果を及ぼす働きかけをすることだろうか?

638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/19(土) 15:22:40.35 ID:PSTpmfqK.net
>Something is wanting to science, until it has been humanized.
The table of logarithms is one thing, and its vital play, in botany,
music, optics, and architecture, another. There are advancements
to numbers, anatomy, architecture, astronomy, little suspected
at first, when, by union with intellect and will, they ascend into
the life, and reappear in conversation, character, and politics. <
Ralph Waldo Emerson, 前掲書, p.273

639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/19(土) 15:24:56.44 ID:PSTpmfqK.net
>All that respects the individual is temporary and prospective,
like the individual himself, who is ascending out of his limits,
into a catholic existence. We have never come at the true
and best benefit of any genius, so long as we believe him
an original force. In the moment when he ceases to help
us as a cause, he begins to help us more as an effect.
Then he appears as an exponent of a vaster mind and will.
The opaque self becomes transparent with the light of the First Cause.

Yet, within the limits of human education and agency, we may say,
great men exist that there may be greater men. The destiny of
organized nature is amelioration, and who can tell its limits?
It is for man to tame the chaos; on every side, whilst he lives,
to scatter the seeds of science and of song, that climate, corn,
animals, men, may be milder, and the germs of love and benefit
may be multiplied. <
Ralph Waldo Emerson, 前掲書, p.286

640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/19(土) 15:40:42.42 ID:PSTpmfqK.net
エマソンの言語表現は私にとってはとても読みづらい。
メタ言語的に捉え直して言いたいことを明確化しようとするよりも、
曲がりくねり、方向を急に変換させながらも、同じ言語レベルで
別の表現を試みることをつづけるからだ。好んで読みたい文体では
ないのだが、他の「思想家」にはなかなか見られない鋭い感覚が
働いていて、一筋縄で解釈することができず、思想的に分類して
済ませるわけにはいかない。

641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/19(土) 19:45:07.03 ID:PSTpmfqK.net
文系ではありながら、もともと文学に関心があったわけではないので
ずっと避けてきたけど、レッシング、ゲーテ、ニーチェあたりを
ある程度、集中的に読んでみると、結局、シェイクスピアの作品
もきちんと読む必要があるという結論に導かれる。それだけで
相当な時間がかかりそうだ。とても、古典ギリシア語の学習に
手を出すことができるような余裕はなさそう。

642 :recto/verso:2022/11/20(日) 20:27:44.87 ID:jzn2xJHz.net
「ただ」あることの「ただ(正)しさ」は、
「かへ(反)し」の「かへ(反)し」として「たし(確)かめ」られることである。

これを似非数学的な隠喩を用ひて表現するなら、
Χ=((Χ)^(-1))^(-1)=(1/Χ)^(-1)=Χ
のような操作であると言ふことができるだろう。

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/20(日) 20:41:11.69 ID:jzn2xJHz.net
これに関して「表裏一体」といったような表現を用いると、既に指摘した
とおり、すぐに硬貨の裏表のようなイメージが想起されることになり、
すると、「表」と「裏」とそれを一体化する「硬貨」がそれぞれ存在する
といったような捉え方が生じて、これにより、「正」/"recto"と
「反」/"verso"が双極的な二項対立として物象化されて表象される
ことになる。しかし、印欧語族の言語を用ひる人々の間でさえ、
「正」/"recto"と「反」/"verso"は、必ずしもそのように双極的な
二項対立として捉えられているわけではなく、
>「ただ」あることの「ただ(正)しさ」は、「かへ(反)し」の
「かへ(反)し」として「たし(確)かめ」られる<
という感覚は、単に日本語の「言葉遊び」としてだけでなく、
充分に通用するものだろうと私には思へる。

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/20(日) 20:49:54.28 ID:jzn2xJHz.net
図書館で大黒俊二、『声と文字』という本を借りてきた。まだ読み始めた
ばかりで、今、私は、その内容について何かを述べようというわけでは
ないが、同書のp.33に「ヴェローナの詩歌」(八世紀末−九世紀初)として
次のような詩が引用されている。

se pareba boves alba pratalia araba
et albo versoio teneba et egro semen seminaba
牛を駆って白い草地を耕していた。
白い犂をとって黒い種をまいていた。

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/20(日) 21:13:00.48 ID:jzn2xJHz.net
ここで注目されるのは、「白い犂」と訳されている"albo versoio"という
表現における「犂」/"versoio"である。これが、「正」/"recto"と
「反」/"verso"の"verso"と直接に関係するのは明らかだろう。
なぜなら、「犂」とは、農耕のために「つち(土/地)」を「かへ(反)す」
ための道具に他ならないからだ。したがって、"versoio"を直訳する
なら「かへし(道具)」となるはずであり、このことは、英語で
"versoio"に対応する表現である"plow"/「プラウ」についての
Wikipediaの項目を参照してみれば、より明確にイメージすることが
できるだろう。さらに以下のファイルで示される図において、
ja.wikipedia.org/wiki/プラウ#/media/ファイル:Aratura_g1.jpg
「つち(土/地)」を「かへ(反)す」道具である"versoio"によって
「かへ(反)されたつち(土/地)」の様態が示されるが、
すると、「つち(土/地)」が耕起されずに「ただ」そのままである
様態、即ち、「つち(土/地)」として(「畑」としてではなく)
「ただ(正)しい」様態にある「つち(土/地)」は、その
「かへ(反)し」の「かへ(反)し」としてイメージされるはずである。

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/20(日) 21:20:01.89 ID:jzn2xJHz.net
私には、「犂」/"versoio"の作用である「かへ(反)し」を、同一表面上の
「方向転換」にか(変)へてしまう以下の語源説明は、とても「うさん臭い」
ものに感じられる。たとえ、実際にそのような「方向転換」の隠喩として
"verse"という表現が用ひられている例が確認できるとしてもである。

>verse (n.)
late Old English (replacing Old English fers, an early West Germanic
borrowing directly from Latin), "line or section of a psalm or canticle,"
later "line of poetry" (late 14c.), from Anglo-French and Old French
vers "line of verse; rhyme, song," from Latin versus "a line, row,
line of verse, line of writing," from PIE root *wer- (2) "to turn,
bend." The metaphor is of plowing, of "turning" from one line to
another (vertere = "to turn") as a plowman does.<
(出典 Online Etymology Dictionary)

647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/21(月) 09:24:08.46 ID:/BqWFM+I.net
ここで、岩波古語辞典で「たがや(耕)し」を引いてみると、「たがや(耕)し」
という項目はなく、そのか(代)はりに「たがへ(耕)し」という項目があり、
>《タガヤシの古形。田返しの意》田畑を掘り起こす。たがやす。
と説明され、さらに
>「耕・田皮(二文字の組合せで示すが一文字)、タカヘス」(名義抄)。
「耕、タガエス」(和訓押韻)
と気さ入れていて、現代の日本語の「たがや(耕)す」という表現は、
語源的に考えれば、「た・かへ(反)す」という表現に関係するはずだという
私の推量が裏付けられる。

648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/21(月) 09:51:50.97 ID:/BqWFM+I.net
この場合も、私は、日本語の古語の「耕、タカヘス」(名義抄)もしくは
「耕、タガエス」(和訓押韻) という表現をあらかじめ知っていたわけではなく、
また、図書館で借りてきた本に「ヴェローナの詩歌」として引用される
ラテン語の歌を見るまで、"versoio"が農耕具としての「犂」を指すこと
も知らず、また、この本で"versoio"が「つち(土/地)」を「かへ(反)す道具」
であるといったような説明がなされているわけでもない。

しかし、この歌を目にしてただちに私は、農耕具としての「犂」を指す
この"versoio"が、「ただ(正)しさ」/"recto"とその「かへ(反)し」/
"verso"の関係における「かへ(反)し」/"verso"の方に対応することから、
"versoio"/「犂」が「つち(土/地)」を「かへ(反)す道具」であることを
想起して、日本語の「たがや(耕)す」という表現も、「た・かへ(反)す」
という解釈に結びついているはずだと推論した。そして、そのことが、
辞書を引くことによってすぐに確かめられたのである。すると、
引用される「ヴェローナの詩歌」における"araba"/「耕していた」
という表現も、自然と、そのように「つち(土/地)」を「かへ(反)す」
作用としてイメージされることになる。これが、知識を積み重ねること
ではなく、哲学することの効用である。このような連想が思ひ浮かぶ
ことに私は何の力も使っていないので、実際に眠っている
間にさえ、勝手に連想のネットワークが形成されるのである。

そんな連想が働くことが何の役に立つのかと言はれるかもしれないが、
今から千年以上も前に知らない土地で知らない人々によって知らない
言語で書き残された詩歌の表現が、労もなく自分にも如実に伝はって
くるように感じられたなら、それだけでも大きな効用ではないだろうか。

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/21(月) 09:55:08.86 ID:/BqWFM+I.net
それだけでなく、これによって得られる「ただ(正)しさ」/"recto"と
その「かへ(反)し」/"verso"の関係のイメージは、みづから(身づ柄/自ら)
が「ただ(正)しさ」/"recto"を日常的にどのように捉えているのかを
省察するのに大いに役立つのではないかと私には思へる。

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/21(月) 10:08:53.31 ID:/BqWFM+I.net
「たがや(耕)す」ことが、「つち(土/地)」を切り開き、掘り返すことにより、
みづから(身づ柄/自ら)も泥まみれになってしまうような「ふるま(振舞)ひ」
であったとしても、「たがや(耕)す」ことを放棄して、地面を大切に守って
撫でまわすように地表上で方向転換を繰り返すだけの「教養」は、
いくらそれに時間と労力を費やしたところで、不毛なものとならざるを
得ないのではないか。

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/21(月) 10:35:49.08 ID:/BqWFM+I.net
誤:「耕、タガエス」(和訓押韻)
正:「耕、タガヘス」(和訓押韻)

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/21(月) 10:37:19.26 ID:/BqWFM+I.net
自動的/機械的に誤記に誘導する仮名遣ひの規範化というのは
いかがなものかと思はざるを得ない。

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/21(月) 23:04:15.89 ID:CQNLwfut.net
犬の散歩してる時、牛丼屋の横を通ったんだが、値段見たらこりゃ高いわ
と思った。牛丼といやあ、安い早いというイメージだったんだが。
スーパーでステーキ用の牛肉が750円で売ってた。
牛丼に盛られた牛育なんてこれの5分の一もありゃしない。
だが、牛丼が食いたくなった、でも止めよう、金がもったいない。
そこでコンビニに行き、日本酒とつまみに何か買おうと思う。
これも無駄遣いになる。
なら、何を買うべきだろう?
おれは、どちらかといえば酒が飲みたい。
酒は百薬の長というが、あれはウソで体のためには何の養分にもならせん上に
脳味噌には良くないだろうことは知っている。
知ってはいるが、脳が偽の安息を酒に求めるいるのだ。
毒にならない程度なら、いいだろう。
第一、毒になるほど飲めないし、金もない。
恐らく。人は安息を求めて生きてるんだろう。
死んだら苦痛もなくなるが、安息もない。
それが真実。
もし、愛の心があるなら、死んでも生きる。
イエスはそのように教えていると思われる。

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 08:00:36.51 ID:qn3k4K8U.net
意識とは、映画館のスクリーンと観客が合体したようなもので
自作自演の自給自足、需要と供給が一体になった矛盾がこの実数
世界では存在しえずに虚数世界に逃亡し、肉体と精神の矛盾を
解決した肉体と精神の存在の間にある複素数の世界をもたらした
宇宙の神秘がブラックホールとホワイトホールがワームホールで
繋がったアリジゴクがエレガントなカゲロウに変わる不思議。

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 10:14:11.56 ID:nfBZkYoP.net
>「耕・田皮(二文字の組合せで示すが一文字)、タカヘス」(名義抄)。

ここで「た・かへ(反)す」という表現に当てられている、「田」と
「皮」を組み合わせて構成された和製漢字がどの程度、通用したもの
であるのか私はまったく知らないが、このような漢字をあらたに
創り出すことに働いた「理性」の働きは、容易に推察することが
でき、興味深いだけでなく、日本語の表現をメタ言語的に
記述するための重要な手がかりを与へている。

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 10:32:15.14 ID:nfBZkYoP.net
まず、「た・かへ(反)す」が、「田(た)反(かえす)」のように二文字の
漢字としてではなく、「田・皮」という構成の新たに創作された一文字の
漢字として表現されたことは、「た・かへ(反)す」が、
「田(た)」・かへ(反)すという、「田(た)」の存在を前提として、
その「田(た)」を「かへ(反)す」行為として捉へられたわけではなく、
「たかへす」行為そのものとして意識されたことを反映している。

では、象形文字としての漢字として、この「たかへす」行為に相当する
和製ではない漢字としては、どのようなものが考えられるのかを
検索してみると、すぐに「畦」に行き当たる。「畦」は、日本語に
おける用法では、「あぜ」に当てられる漢字であるが、その古い
用法について、Wiktionaryには、以下のとおり記載されている。
1. (obsolete) A unit of surface area, equal to 25 or 50 mu (畝/亩 (mǔ))
2. (obsolete) to divide a field into sections and cultivate

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 10:48:26.19 ID:nfBZkYoP.net
この古い用法を見ると、「畦」という漢字が、その象形として、土地を、
正方形の区画への分割として表象される「田」として耕作するように
「土」を積み重ねる「行為」を表現しており、その「行為」が農耕地
をつくることとして捉えられていることが分かる。ところが、
「あぜ」としての「畦」は、やはりWiktionaryの記述を引用すると、
2. ridge-bordered rectangular section of land in a field
を表現しており、同じ「畦」という漢字が、既に耕作された農耕地
として認識されている「田」を高く囲むように積み重ねられた「土」
を表象するように用いられていることが分かる。つまり、
これは、元は農耕地を作る「行為」を表現するように用いられた
「畦」が、その行為の結果としての「農耕地が物象化されて」捉へ
られるようになることでもたらされる用法の変化であると見る
ことができる。

658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 10:49:23.91 ID:nfBZkYoP.net
誤:2. (obsolete) to divide a field into sections and cultivate
正:3. (obsolete) to divide a field into sections and cultivate

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 11:00:10.59 ID:nfBZkYoP.net
ところで、「畦」という漢字が、そのような用法の変化をゆるす要因
は、それだけではない。日本語の「た(田)・かへ(反)す」という表現
においては、それがひとまとまりの行為として捉えられているにしても、
そこに「かへ(反)す」作用が働くことがはっきりと認められるのに
対して、「畦」が象形として示しているのは、「土」が積み重なる
作用だけである。そこにこそ、「た(田)・かへ(反)す」という日本語
を漢字一文字で表象するのに、「田・皮」という新たな漢字を創作
する必要性が感じられることになる「理由」があり、その「理由」
に応へようとすることに「理性」の働きがあると言へる。しかし、
では、なぜ「かへ(反)す」作用を表現するのに「皮」という漢字を
当てたのだろうか。この選択は、奇妙に見える。

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 11:09:02.37 ID:nfBZkYoP.net
ここで「か・へ・す」の「へ」と「か・は(皮)」の「は」が、同じ
「は」行の発音なので、特段、考へもなしに適当に「皮」という
漢字を当てたのだろうと言って済ませようとするのは、極めて
考へが浅い。問はれなければならないのは、「かへ(反)す」、
および「か・は(皮)」というのは、日本語としてそれぞれ
どのような表現なのかということである。

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 11:30:36.73 ID:nfBZkYoP.net
「た(田)・かへ(反)す」における「かへ(反)す」がどのような表現として
用いられているのかは明白である。例えば、単純にフランス語で対応する
表現を参照すると、
>retourner la terre|土地を耕す
(retourner プログレッシブ 仏和辞典 第2版の解説)
ということになるが、既に見たとおり、"versoio"/「犂」が
「つち(土/地)」を「かへ(反)す道具」であることを想起するなら、
フランス語の《verser》の用法は、それを引き継いでいる。
>➏ 〔乗り物など〕をひっくり返す,横倒しにする.
>➊ 転覆する,ひっくり返る.
La voiture a versé dans le fossé.|車は溝に突っ込んでひっくり返った.
(verser プログレッシブ 仏和辞典 第2版の解説)

これを利用するなら、「た(田)・かへ(反)す」における「かへ(反)す」は、
直訳すると、《laisser verser》(「か・へ」に対応するのか《verser》
であr、「〜す」に対応するのが《laisser》である) ということになる。

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 11:47:40.84 ID:nfBZkYoP.net
ところが、日本語の「か・へ・す」の「か・へ」は、「か・ふ」という
再帰表現の活用形であり、「〜ふ」は、「〜」を「ひっくりかへす」
ことを示すメタ言語的な指示である。では、「か」はどのようなことを
表現しているのかと言へば、以前から私が指摘するとおり(私以外にその
ような指摘をする人を見かけたことはないが)、
>「か」は、反射的な作用を表すように用いられ、「明日香(あすか)」の
「香(か)」であれ、血を吸う「蚊(か)」であれ、表現しているのは、軽く
触れて離れる様態、英語にするなら、"touch and go"だろう<
ということになり、
>例えば、"touch and go"をウェブ検索してみると、
小学館 プログレッシブ英和中辞典に記載される説明として、以下が示されている。
1 〈船が〉水底に軽く触れて進む
2 (問題などに)少し触れて次に移る
3 かろうじて切り抜ける<

したがって、「か・ふ」とは、「"touch and go"の作用を『ひっくりかへす』」
ことを伝へる表現であり、この場合、「ひっくりかへす」という指示は、
相互性を表現するために用いられているものと解釈でき、つまり、
「か(交/替)・ふ」とは、「『た・が・(互)ひ』に"touch and go"を行ふ」こと
を表現していることになる。

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 12:08:50.03 ID:nfBZkYoP.net
さて、では、「か・は(皮)」という表現はどうなのか。「か・ふ」とは
無関係なのか。「か・は(皮)」を物象化されたモノとして見るなら、
それが「か(交/替)・ふ」と何の関係があるのかさっぱり分からない
ことになる。しかし、身を「かは(躱)す」という表現における
「か・は・す」が「か(交/替)・ふ」と無関係であると考へる人は
まずいないし、実際、一般にもこれらは語源的に共通であると考へられ
ている。すると、身を「かは(躱)す」の「か・は・す」も、挨拶を
「か(交)はす」の「か・は・す」も同じ表現であるということになり
そうだが、「かは(躱)す」と「か(交)はす」は明らかに用法が異なる。
その相違が何に由来するのかと言へば、それは、発音としては同じ、
「〜ふ」の活用形である「か・は」の「は」、つまり、「ひっくりかへす」
というメタ言語的指示の解釈の違いである。「か(交)はす」の「は」
が「か(交/替)・ふ」の場合と同様に「相互性」を表現するように用ひ
られているのに対して、「かは(躱)す」の「は」は、「か」/
"touch and go"の作用が、「自己に及ぶ性質」のものであることを
表現するように用ひられているのだ。すると、「か・は(皮)」とは、
表皮としての皮膚によって代表されるように、「自己に及ぶ性質
を帯びた"touch and go"の作用」の名詞化であることになる。

664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/22(火) 12:29:05.86 ID:nfBZkYoP.net
ここで、「た(田)・かへ(反)す」という表現に戻ることにしよう。

>「た(田)・かへ(反)す」という日本語を漢字一文字で表象するのに、
「田・皮」という新たな漢字を創作する必要性が感じられることになる
「理由」があり、その「理由」に応へようとすることに「理性」の働き
があると言へる<

「かへ(反)す」作用を伝へるのに「皮」という漢字を利用したことは、
一見したところ、奇妙に思へるが、「か・は(皮)」の「は」が、
「か・へ(反)」の「へ」と共通して、再帰表現を形成するための
「〜ふ」の活用形であることを巧みに利用している。ただし、
「か・は(皮)」の「は」は、本来、作用が「自己に及ぶ性質」を
表現するものなので、「か・へ(反)」の「へ」の用法とは異なる。
それでも、「田・反」という構成であったとすれば、既に
前提として存在する「た(田)」を「かへ(反/返)す」というイメージ
が想起されやすいのに対して、「田(た)・皮(かへす)」という
構成の表現は、一文字の漢字の構成要素として「皮」を「かへす」
と読ませることにより、「か・へ(反)す」のが「田(た)」ではなく、
「田(た)」の「表皮」であることをうまく伝へようとする掛詞と
なっていると見ることができる。

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/23(水) 07:55:40.69 ID:620UyWwC.net
>>644
誤:egro semen
正:negro semen

666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/23(水) 11:16:38.47 ID:SmrR3Zya.net
>「ただ」あることの「ただ(正)しさ」は、
「かへ(反)し」の「かへ(反)し」として「たし(確)かめ」られることである。<

>「つち(土/地)」が耕起されずに「ただ」そのままである
様態、即ち、「つち(土/地)」として(「畑」としてではなく)
「ただ(正)しい」様態にある「つち(土/地)」は、その
「かへ(反)し」の「かへ(反)し」としてイメージされるはずである。<

「たがや(耕)す」の古語である「た・かへす」の語源的な解釈を論じる
までもなく、フランス語では、「たがや(耕)す」は、そのまま
>retourner la terre|土地を耕す
(retourner プログレッシブ 仏和辞典 第2版の解説)
と表現され、ここに自己引用としてふたたび示すことは、多くの人々に
とっては、「分かり切ったこと」だろう。ところで、私が何かを考へて
いるように、あるいはぼうっと何も考へていないように見えるとき
に思ひを巡らせている(つもりになっている)のは、ほとんどの場合、
そのようなことばかりである。したがって、他人から評価するなら、
私は、何を考へているのかを明確に表明するように求められても、
「分かり切ったこと」を言ふばかりなので、「何も考へていない」
ということになり、しかも、その「何も考へていない」間、
「ぼうっと」しているだけなので、「何もしていない」ということ
になる。そして、実際、そのような「分かり切ったこと」を伝へ
ようとする発言そのものを自分で削除するように、また自粛
するように求められることが常である(この掲示板においてさえ、
「学問板」への書込みアクセスは永久禁止になっている)。

667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/23(水) 12:16:07.42 ID:SmrR3Zya.net
確かにこのように「分かり切ったこと」をわざわざ示されても、それが
だれにどう役に立つのか皆目不明だろう。しかし、それが、誰にとって、
どう役に立つのか分からないことであるからといって、必ずしも、
それが、世の中の現実に対処するのにどうでもよいことになるわけではなく、
むしろ、私には、ほとんどの人がその「分かり切ったこと」について、
「どうでもよい」という態度を示すことができることの方が不思議に
感じられる。

例えば、企業活動における債務と債権関係は、会計上、厳密な数量として
「表裏一体」の関係にあるはずだろう。その表裏一体の債務/債権関係
において、債務不履行になったのに債権回収の見込みには変化がない
ということはあり得ない。ところで、企業の株式に投資する個人に
とって、株式を購入することは、賭博場でルーレットのテーブルに
賭け金を置くことに喩えられるような行為だろうか、それとも
土地の状態を見て育てるための栽培植物を植えることに喩えら
れるような行為だろうか。企業が自らの活動の成果として公表し、
それに基づいて人々が投資判断をする、債務/債権関係を根幹と
する決算は、賭博場の胴元によって管理されるルーレット
のようなものだろうか、それとも植物の生育が確保されるはずの
土地のようなものだろうか。

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/23(水) 13:25:07.58 ID:SmrR3Zya.net
私は、ここで現実が「どうあるべきか」という「べき論」を述べたい
という気持ちはさらさらない。私に関心があるのは、現実をどのよう
に捉へることが妥当であると考へられるのかだけである。

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/23(水) 16:04:29.74 ID:SmrR3Zya.net
>それに基づいて人々が投資判断をする、債務/債権関係を根幹と
する決算は、賭博場の胴元によって管理されるルーレット
のようなものだろうか、それとも植物の生育が確保されるはずの
土地のようなものだろうか。<

金融市場に関して、この隠喩は、実は「二者択一」ではない。
そこにこそ、金融市場に一般の個人の投資をうまく誘い込む鍵がある。

670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/23(水) 16:05:27.32 ID:SmrR3Zya.net
誤:誘い込む
正:誘ひ込む

671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/23(水) 16:18:00.44 ID:SmrR3Zya.net
なにがどのように「ひっくりかへる」のかを見ることは、とても面白い。
このことは、個人として金融市場に投資する場合においても当てはまる。

672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/25(金) 09:42:31.94 ID:pkJ+8VLF.net
私のように、企業活動の実状について何の特別な情報アクセス権もない
一般の個人が金融市場に自己資金を投資する場合、その資金を、
長期で栽培して成長させる植物のように安定した地面に植えたつもりが、
知らぬ間にその地面がひっくりかえされて大規模な耕地にされ、
自分が投資した資金は、その耕地の養分にされてしまうような
ことになる場合が少なくない。

673 :ツェョギ:2022/11/25(金) 11:30:44.99 ID:pkJ+8VLF.net
以下は自己引用

845花咲か名無しさん2022/06/15(水) 07:48:57.60ID:9+HSSvLH
しとしと雨の降るなか庭の隠元豆の支柱にささがにのきれいな巣が
かかっていたけど、どこにも姿がない。昔の人なら、こんなささいな
ことでもすぐに歌に詠んだのだろう。

ちなみに、「ささがに」とは、蜘蛛の形容から転じて、蜘蛛(ドイツ語で
Spinne)そのものを指すようになった言葉で、「ささ」は、「ささいな」の
「ささ」と同じで、「かに」は、「蟹(かに)」と共通して、「か(懸/架)け渡す」
(ドイツ語でspannen)ことを表す「か(兼)ぬ」から派生し、「かな(悲)し」
もその応用。

846花咲か名無しさん2022/06/15(水) 07:51:31.69ID:9+HSSvLH
後拾遺(1086)雑三・一〇〇三「思ひやる我が衣手はささがにのくもらぬ空に雨のみぞ降る〈東三条院〉」

(1346‐49頃)恋四・一三一八「絶えねばと思ふも悲しささがにのいとはれながらかかるちぎりは〈藤原為家〉」

674 :ツェョギ:2022/11/25(金) 11:44:42.98 ID:pkJ+8VLF.net
以下は、ゲーテの戯曲、『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の台詞からの
引用であるが、このドイツ語の表現法を見ると、日本語の古語における
「いと(絲))を(惜)し」や「ささがにの」(一般的には、古典の和歌の解釈に
おいても、単に「枕詞」として扱われる)という表現における「喩」の
表現法が、特に難しい説明を要することもなく、如実に伝はるであろう
ことが分かる。こういう具体例を丁寧に拾ひ上げていくことは、
日本語をより深く理解するためにも、日本語以外の他の言語を
より身近に感じられるようにするためにも、とても大切だろうと
私は思ふ。

>Ja denn! Weislingen. Gebt euch die Hände. Und so sprech
ich Amen. Mein Freund und Bruder! Ich danke dir Schwester
du kannst mehr als Hanf spinnen, du hast einen Faden gedreht
diesen Paradiesvogel zu fesseln.<
(出典 projekt-gutenberg.org/goethe/gottfrie/chap001.html)

675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/25(金) 11:52:31.71 ID:pkJ+8VLF.net
このゲーテの戯曲は、森鴎外が翻訳しているが、その翻訳が収められて
いる本を、そうとは知らずに見たとき、「ツツヨギ」と印刷され
た文字の並びだけが目に入ってきたので、最初は、なんのことか
さっぱり分からなかった。

676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/25(金) 12:16:21.38 ID:pkJ+8VLF.net
このように私はほとんどいつも、一般に(つまり、組織的に/制度的に/
常識として)考へなくてもよい、もしくは考へる必要がない、または
(ただの時間の浪費となるから)考へない方がよいとされることばかり
をもっぱら考へているので、誰からも相手にされず、評価されることも
ないのである。そのことは自覚しているので、私自身はまったく
構はないのだが、それを、人々の間にいながらやろうとすると、
(私にとっては不当と感じられる仕方で)非難され、それだけでなく、
人格まで否定されることになる。

677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/25(金) 13:25:56.40 ID:pkJ+8VLF.net
確かに、私が、一般に(つまり、組織的に/制度的に/常識として)
考へなくてもよい、もしくは考へる必要がない、または(ただの
時間の浪費となるから)考へない方がよいとされることばかりを
もっぱら考へているのが、私の人格がひどくゆが(歪)んでいる
ことに起因する可能性は、十分にあるだろう。しかし、そうで
あったとしても、その私の人格の歪みが、私の推論によって
導き出される結論にどのように関係するのか、私にはさっぱり
分からない。実際に、私の人格の歪みが結論に反映されている
というのなら、私はそのことにまったく気づいていないので、
それをはっきりと提示してもらえれば、私はむしろ感謝するだろう。
だが、私の推論とは無関係に、私の名札をつけた呪ひの藁人形を
作っていくら釘を打ちつけられたところで、私は、そのような
行為をする人々に対して完全に無関心になるか、侮蔑の念を
懐くようになるだけである。

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/26(土) 09:54:26.42 ID:1axUbazo.net
「か」が、表現しているのは、
>軽く触れて離れる様態、英語にするなら、"touch and go"だろう<

「ば(化)けのかは(皮)がはがれる」という言ひ方があるが、
日本語の「かは(皮)」と英語の"cover"は、発音も、それによって
想起されるイメージも類似していておもしろい。

「かり(仮)に」という場合にも、同様に"touch and go"に相当する
ように作用のイメージが働いているはずだと思はれるが、
「かり(仮)に」の「か」の発音は、中国語の「假(Middle Chinese: /kˠaX/)」
と共通していおり、この漢字は、中国語では、日本語の「か(借)り」に
対応するように用いられるようである。もしかり(仮)に、このような
表現を「漢語」または「外来語」として「やまとことば」から徹底的
に除外していったなら、「やまとことば」としていったい何が残る
ことになるのか、一度、よく「かむか(考)へて」みるといい。

679 :おも(面)ひ(復/覆)[い](出)で、おもひこみ、おもひちがひ:2022/11/26(土) 10:13:13.73 ID:1axUbazo.net
>>674
ここに引用した台詞のつづきも、ここで論じたこととは無関係に、
哲学的にとてもおもしろい。

>Was fehlt dir. Ich –! bin ganz glücklich; was ich nur in Träumen hoffte,
seh ich und bin wie träumend. Ah! nun ist mein Traum aus. Ich träumt
heute Nacht ich gab dir meine rechte eiserne Hand, und Du hieltest mich
so fest, daß sie aus den Armschienen ging wie abgebrochen.
Ich erschrak und wachte drüber auf. Ich hätte nur fortträumen sollen,
da würd ich gesehen haben, wie du mir eine neue lebendige
Hand ansetztest.<

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/26(土) 10:22:27.71 ID:1axUbazo.net
日本語には、「正夢(まさゆめ)」という表現がある。

>選版 日本国語大辞典「正夢」の解説
[1] 〘名〙 事実と一致する夢。将来、それが事実となる夢。<

>デジタル大辞泉「正夢」の解説
事実と一致する夢。将来、それが現実になる夢。⇔逆夢。<

さて、ここでゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンが見た夢は、
「正夢(まさゆめ)」だろうか。「夢から『目を覚ます』」とは
どのようなことか。ゲッツは、いつ「夢から『目を覚ます』」こと
になったのか。

681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/26(土) 10:36:39.04 ID:1axUbazo.net
これは、かつては親友だったのに敵方に回っていたヴァイスリンゲンが
ゲッツに捕らえられ、その間にヴァイスリンゲンが改心してゲッツとの
昔のよしみを取り戻し、ヴァイスリンゲンがゲッツの妹のマリアとの
結婚を申し入れた場面でのゲッツの台詞である。ゲッツは、その結婚の
申し入れの前夜に夢を見て、その夢についてヴァイスリンゲンに語って
いるのだが、この台詞からは、ゲッツが、その夢が正夢(まさゆめ)と
なったと感じていることが伝はってくる。

682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/26(土) 10:58:07.10 ID:1axUbazo.net
ゲッツは、戦場で右腕を失って、鉄製の義手をつけているのだが、
自分がヴァイスリンゲンとその鉄の右手で握手すると、ヴァイスリンゲン
がその手をあまりにも強く握りしめたため、鉄の腕が付け根のところ
から外れてしまい、その瞬間に驚いて夢から目が覚めたのである。
これがなぜゲッツにとって「正夢(まさゆめ)」と感じられているのか
と言へば、それは、ヴァイスリンゲンが実際にゲッツの手を取って、
これからは二人の間に永遠の友情と信頼がつづくことを誓っただけ
でなく、ゲッツの妹マリアと婚約して、ゲッツにとって、今後は、
義手の鉄製の腕ではなく、ヴァイスリンゲンこそが、自分の失われた
右腕の代わり、「生きた右腕」となることが実現したものと感じた
からである。だから、ゲッツは、鉄の義手が外れたところで夢から
目を覚ますことなく、そのまま夢を見つづけていたなら、
ヴァイスリンゲンが自分に「生きた腕」を付けてくれる様子を見る
ことになっただろう、つまり、今目が覚めて見ているのは、その
夢のつづきのような現実であるとヴァイスリンゲンに語っているのだ。

683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/26(土) 11:07:10.71 ID:1axUbazo.net
ところが、ゲッツにとって「正夢(まさゆめ)」となったと感じられた
現実となった「夢のつづき」は、まさしく「夢のつづき」に過ぎなかった
ことをゲッツはその後、おもひ知らされることになる。なぜなら、
ヴァイスリンゲンは、ゲッツとの誓いも、ゲッツの妹マリアとの
婚約も「ないがしろ」にして、再びゲッツの敵方と手を組み、
別の女性と一緒になってゲッツの友情と信頼を裏切るからである。
したがって、その現実をはっきりと認めざるを得なくなった時点で、
ゲッツは、現実となったはずの「夢のつづき」から再び
「目を覚まされる」ことになる。

684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/26(土) 11:18:01.95 ID:1axUbazo.net
>おも(面)ひ(復/覆)[い](出)で、おもひこみ、おもひちがひ

これらの日本語の表現を並べるときに私が「おもひ浮かべる」のは、
当然のことながら、「お・も(面)・ふ(復/覆)」という古語における
「も(面)」と、「ふ(復/覆)」による「も(面)」の「ひっくりかえし」
であるが、同時にその働きの物象化、即ち、「内実」として保持される
ものとされる「お・も(面)・ひ(復/覆)」であり、さらに、この働きと
その内実の関係について私が想起するドイツ語の表現が、
>◆et4 für sich4 behalten\…を(自分用に)とっておく;
…を胸にしまっておく,秘密にする.<
(behalten プログレッシブ 独和辞典の解説)
である。

685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/26(土) 11:29:19.36 ID:1axUbazo.net
さて、ここで
>ゲッツは、現実となったはずの「夢のつづき」から再び
「目を覚まされる」ことになる<
のだから、その現実と見えたものは、ゲッツの「おも(思)ひこ(込)み」に
過ぎなかったことになるだろう。すると、その「おも(思)ひこ(込)み」
としての「現実」は、ゲッツ自身の「お・も(面)・ひ(復/覆)」という
「内実」であったことになり、本当の現実は、その内実とは
「うらはら(裏腹)」であった、つまり、ゲッツは「おも(思)ひちが(違)ひ」
をしていたことになる。

すると、ただちに哲学的な問ひが生じるはずである。
それは、「本当の現実は、お・も(面)・ひ(復/覆)とはうらはら(裏腹)にある」
とするなら、その現実はどのように「保たれている」のか。

686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/26(土) 11:30:55.89 ID:1axUbazo.net
コピペにより無用な注の数字が入ってしまったので訂正。

誤:>◆et4 für sich4 behalten\…を(自分用に)とっておく;
…を胸にしまっておく,秘密にする.<
正:>◆et für sich behalten\…を(自分用に)とっておく;
…を胸にしまっておく,秘密にする.<

687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/27(日) 10:11:44.58 ID:t0dvDdKN.net
私は、ゲーテがその言語表現において用ひる喩にとても感心させられる
ことが多い。それらの喩は、おそらく、ゲーテ独自のものというより、
ゲーテ自身も、その豊かな古典の教養から拾ひ上げてきたものだろうと
思はれる。私は、ゲーテの詩的な言語表現に強い魅力を感じるが、
その一方で、ゲーテの戯曲における台詞が、その人格の心の動きを
描き出すものとして優れているとは思っていない。ツヴァイクの
評するとおり、私にも、ゲーテの表現法は、同心円的であると感じ
られる。さまざまな人格を、各自の台詞によって表現しても、
伝はってくるのは、むしろ、それらの人格を観察する作者の側の
思ひなのである。したがって、ゲーテの作品に登場する人物には、
ゲーテが観察もしくは研究の対象とした「実在性」のある人物
のモデルが存在すると読者に感じさせることになる。だから、
ゲーテは、自分が創作した人物について、読者からそのモデル
が誰なのかをしつこく尋ねられることになり、記述する人物に
ついての知識が事実とは異なると指摘する人々を相手にしなけ
ればならなくなる。

688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/27(日) 10:35:33.76 ID:t0dvDdKN.net
これと好対照なのがレッシングだ。レッシングの戯曲に登場する人物
は、徹頭徹尾、「架空」であるとしか感じさせない。物語は、
いかにも「作り話」であり、その構成は、喜劇であれ、悲劇であれ、
いかにも「できすぎている」。理想化された人格の台詞には、
その人格のモデルとなった人物の「実在性」を感じさせるものは
何もない。にもかかわらず、というより、この場合、だからこそ
と言ふべきなのだろうが、台詞の「はしばし(端々)」に、架空に
想定された人格の心の動きが現れ、人々の間で成立している
「折り合ひ」としての現実が巧みに描き出される。

689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/27(日) 10:49:17.45 ID:t0dvDdKN.net
レッシングは、「折り合ひ」としての現実が「予定調和的に理想として
実現される」ことを願っていると見ることもできるだろう。

690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/27(日) 11:05:32.48 ID:t0dvDdKN.net
ソークラテースやニーチェに倣って、「人の病理学としてのプラグマティズム」
という捉え方は、在り得るだろうと思ふ。

人が生きることにともなふやまひ(病)を究極的にいや(癒)す治療法は存在
しない。生きている限り、つねに満ち足りていることはあり得ず、
人は「かひ(効験)」をた(絶)えず求めずにはいられない。なぜなら、
「かひ(効験)」を求めることと、生きようとすることは同義だからである。

691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/27(日) 11:39:12.92 ID:t0dvDdKN.net
人として生きるようとすることそのものが「やまひ(病)」として
の「なやみ」を深めることになる。というのも、人として生きようと
することにおける人々の組織化そのものが、「かひ(効験)」を求める
ことを、「かひ(効験)」のない無限ループに入り込むように誘導
するからである。

例えば、人々の関係が市場として組織化されることによっていかに、
「かひ(効験)」を求めることが、通貨手段によって物品やサービスを
商品として「か(買)ひ」求めることに変換されるかを考へてみると
いい。するとただちに、「かひ(効験)」があるように願ふことは、
「か(買)ひ」求めるための通貨を手に入れることを願ふ「拝金主義」
に変換される。そこで、いくら金を手に入れるために働いたところで、
生活のために借金が増えるばかりであれば、苦労しても「何の
かひ(効験)もない」と感じさせられる。ところが、逆に、いくら
大量に金が手に入ったとしても、必要以上に大量に物品やサービスを
商品として「か(買)ひ」求めることができるようになるだけで、
不要な物品やサービスを「か(買)ふ」ことが「かひ(効験)のある」
こととして実感されるわけではない。

692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/27(日) 11:54:05.61 ID:t0dvDdKN.net
さらに、金がなくても、あってもいずれにしても「かひ(効験)がない」
と感じられるなら、それでも、人は「かひ(効験)」を求めずにはいられ
ないのだから、人々は、制度的な宗教や倫理によって、「来世に」
または「次世代に」「かひ(効験)」の実現を求めるように誘導される。

693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/27(日) 12:03:12.48 ID:t0dvDdKN.net
ところで、生きることによって次第になやみが深まる一方である
とすれば、それはそもそも、自身の「かひ(効験)」の求め方にその
病因があるのではないかと疑ってみる必要があるだろう。

694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/27(日) 12:13:53.29 ID:t0dvDdKN.net
誤:人として生きるようと
正:人として生きようと

695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/28(月) 09:36:38.41 ID:LzhMDzgO.net
人はなぜ日本語で哲学をすることを忌避するのか。
それは、それが「ゆゆ(由々/忌々)しき」こととされることを
心得るよう、陰に陽に思ひ知らされているからだろう。

696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/28(月) 09:54:12.72 ID:LzhMDzgO.net
日本語は、哲学をするのにとても好都合な言語であると私は思ふ。
それは、私自身が日本語を母語とするといふ理由によるだけではなく、
日本語の表現法を探ってみれば、それが既に徹底的にピジン言語的な
表現の使ひ回しにより、メタ言語として利用するのに好適である
ように鍛え上げられていること気づくからである。

例えば、「デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの
格言である」(Wikipedia)とされる、
「汝自らを知れ(なんじみずからをしれ)」/ "γνῶθι σεαυτόν"
といふ表現について日本語で考へてみよう(あらかじめ留意して
もらひたいが、ここで私は、この格言が古代ギリシア語の格言として
古代ギリシアにおいてどのように解釈されたかを論じようという
わけではない)。

697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/28(月) 10:28:55.84 ID:LzhMDzgO.net
「汝自らを知れ(なんじみずからをしれ)」と訳される"γνῶθι σεαυτόν"は、
それを日本語の古語を用ひるなら、ただちに「な(己/汝)をし(知)れ」と
言い換へることができる。というのも、「な(己/汝)」は、己(な)の相手
である汝(な)を指すようにも、汝(な)の相手である己(な)を指すようにも
用ひられ得るからである。

さらに、「〜をし(知)れ」という表現について見ると、「し(知)る」は、
「『しるし(験)』を顕現させる」作用(ドイツ語の»sich zeigen«に対応
する)として、しめ(標)た(立)てること、もしくはしめ(標)ゆ(結)ふこと
で(即ち、しめなは(注連縄)により)或る領域を「いは(祝/斎)ふ」べきも
のとして「し(領)る」ことも意味し、そのような領域としてしめ(標)
されるのが「しま(島)」である。したがって、「な(己/汝)をし(知)れ」
は、「な(己/汝)をし(知/領)れ」というみこと(御言/命)になるので、
なんら特別な解釈を加へることなく、自然に
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)を『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』べし」
という格言であるものと理解される。

698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/28(月) 10:44:52.72 ID:LzhMDzgO.net
ところで、
>かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば
ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん
(能「俊寛」)<
という歌について、以前に私は、
"If this sulphuric island consists of holding in honor the Holy Spirit
then prayers will become three pillars of mountains as well
/it will also become mountains where prayers will be fulfilled"
という直訳を示した。別に私はこの訳が優れていると思っているわけ
ではなく、そのように訳してみることが、この歌についての私自身の
理解を深めるのに役立つと感じられたので、訳を試みただけの話である。
ここで、この歌を、
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)を『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』べし」
として理解される格言と並べてみるならば、日本語で哲学しようとする
ことが「汝自らを知れ(なんじみずからをしれ)」/ "γνῶθι σεαυτόν"
と促す限りにおいて、それだけで「ゆゆ(由々/忌々)しき」ことと
なることがただちに感じられるだろう。

699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/28(月) 10:56:00.40 ID:LzhMDzgO.net
しかし、ここでさらに大切なのは、
「汝自らを知れ(なんじみずからをしれ)」/ "γνῶθι σεαυτόν"を、
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)を『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』べし」
という「みこと(御言/命)」と解釈しなおしたところで、日本語で哲学をするなら、
ニーチェの哲学的な言説がしばしばそのように誤解されるように、
「各自が孤立した『しま(島)』として生きよ」というような理解はもたらされ
ないことである。

700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/28(月) 11:10:26.97 ID:LzhMDzgO.net
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)をいは(祝/斎)ふ」ことは、確かに
「ゆゆ(由々/忌々)しき」ことだろう。しかし、ここで問はなければ
ならないのは、それが、どのようにして「ゆゆ(由々/忌々)しき」
こととされるのかである。

「な(己/汝)」は、己(な)の相手である汝(な)を指すようにも、
汝(な)の相手である己(な)を指すようにも用ひられ得るのだから、
「な(己/汝)」を「しま(島)」として「いは(祝/斎)ふ」ことが、
各自を「孤島」のように分離することにはなり得ない。

701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/28(月) 11:26:42.10 ID:LzhMDzgO.net
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)をいは(祝/斎)ふ」ことが
「ゆゆ(由々/忌々)しき」 こととされるのは、それが、
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)」の「自由」を「し(知/領)ろう」
とすることになるからであり、そうすることが「ゆゆ(由々/忌々)しき」
こととされるのは、何らかの、「あらかじめ存在するものとして前提と
される全体」の視点からである。

しかし、「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)の自由をし(知/領)る」
とは、いったいどのようなことだろうか。「自由をし(知/領)る」
ことについて、人々は、それを「ゆゆ(由々/忌々)しき」こととして
自戒するようには、あらかじめ絶えず誘導され、根本的に誤解して
いるのではないか。

702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/28(月) 11:57:17.20 ID:LzhMDzgO.net
そもそも、「自由をし(知/領)る」とは、何らかのあらかじめ存在するもの
として前提とされる「包括的な全体」から各自が何かを容認されること、
何かをすることができる許可を与へられることではない。
「自由をし(知/領)る」とは、己々が互いの「放置」/"neglect"をみづから
(身づ柄/自ら)に有利に活用するすべ(術)を知り、己々によるその活用を、
互いの放任(勝手にさせること、ま(負)けてやること、まか(任)せること)
として認め合ふ可能性を探りつづけることである。一般に、「利他的行為」、
「共生」、「協力関係」などとされる事象も、そのようなプロセスの
効果の有利性の相互認知である。それがすべて原理的に
「ゆゆ(由々/忌々)しき」ことに見えるとすれば、「包括的な全体」
によって明示的にあらかじめ容認されること、許可されることなしに
己々が「自由をし(知/領)る」ことは、全体の統治の安定を危うくするもの
であるとする全体主義的な治安維持を最優先する立場をとるからに
他ならない。

703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/29(火) 23:08:22.46 ID:xV1nInat.net
「レッセフェール/自由放任主義」はなぜ、どのように「いかがわしい」のか。

704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/30(水) 10:26:00.64 ID:0rAn138y.net
生きることの「なまなま(生々)しさ」が、どのように隠蔽され、
見失はれるのかは、「みどり(緑)」という表現の用法を考へてみると
よく分かる。

万葉集 第10巻 2177番
>春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞
>春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも
(出典 万葉集ナビ)

705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/30(水) 10:50:54.55 ID:0rAn138y.net
草木が「も(萌)える」ことが「みどり(緑)」となって立ち現れるが、
「も(萌)え」とは、英語で表現するなら、"to bud"、"to burgeon"、
"to bulge"などに対応し、したがって、「みどり(緑)」が表現して
いるのも、単に視覚的に認識される色彩の分類ではなく、
「ち(乳/血/力)」を「の(呑)み」こ(込)んで、「み(身)」を獲得する
こと、「み(身)と(取/獲)り」でもある。このような関係性は、
「みどりご(児)」という表現が、万葉集の歌において
「みどり(弥騰里)ご(兒)の(能) ち(知)こふ(許布)が(我)ごとく(其登久)」
(第18巻 4122番)と詠まれている例を見ても確認できる。

706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/30(水) 11:19:25.00 ID:0rAn138y.net
確かに、草木の「『みどり(緑)』が『も(萌)える』こと」は、その
草木が「しぼ(萎)みか(枯)れゆく(之保美可礼由苦)」こととは対比される。
しかし、生きることの「なまなま(生々)しさ」を忘れないように
しようとするなら、ここで見失ってはならないのは、
「み(身)ど(取)り」と「しぼ(萎)みか(枯)れゆくこと」は、
一方だけを残して、他方を消し去ることができるような関係には
なく、「み(身)ど(取)り」の働きそのものが、「ち(乳/血/力)」を
「の(呑)まれる」側の「しぼ(萎)みか(枯)れゆくこと」になる
効果をもたらすことである。「い(息)のち(力)/(命)」を「う(生)む」
ことが「ひるがへって」すなはち、「う(生)む」側の「み(身)」に
「けが(穢)れ/け(日)が(離)れ」を生じることである理由もそこにある。

707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/30(水) 11:29:50.86 ID:0rAn138y.net
「しぼ(萎)みか(枯)れゆくこと」や「けが(穢)れる」ことを隠蔽するだけ
でなく(人目に触れないようにすることが望ましいことが自然である
としても)、そもそも生じないことであるかのように忘れ去ろうとする
ことにより、「みどり」は、「みどり(弥騰里)ご(兒)」の「み(身)ど(取)り」
としてではなく、草木が「も(萌)える」ことによって立ち現れるもの
としてですらなく、生きているか否かにさえ関係のない、単に
視覚的に認識される色の分類としての「緑(みどり)」となり、
それと同時に「みどり・ご(児)」という表現も奇異に感じられるように
なって、生きることの「なまなま(生々)しさ」も見失われるのだ。

708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/11/30(水) 11:33:08.69 ID:0rAn138y.net
ニーチェが求めたのも、
「みどり(弥騰里)ご(兒)の(能) ち(知)こふ(許布)が(我)ごとく(其登久)」
哲学することではないのか。

709 :生成:2022/11/30(水) 15:48:09.18 ID:0rAn138y.net
gebären/entbehren

710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/01(木) 10:09:40.41 ID:jHNhJhy4.net
「み(身)ど(取)り/(緑)」という表現も、西洋の主要な言語と比べた場合でも、
日本語が哲学するのにいかに好適な言語であるのかをはっきりと例証するの
に役立つ。

「み(身)ど(取)り/(緑)」は、英語を利用して直訳するなら
"flesh(み)-taking(とり)"となるのだから、確かにそれに対応する英語
の表現も簡単に思ひつく。それは、例えば、"plump"である。
>plump adjective
having a pleasantly soft, rounded body or shape:
・a child with plump rosy cheeks
(出典 /dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/plump)

711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/01(木) 10:33:14.08 ID:jHNhJhy4.net
しかし、英語の"plump"が表現しているのは、「み(身)ど(取)り/(緑)
の場合と違って、"flesh(み)-taking(とり)"の結果であって、
その作用ではない。したがって、"plump"を、それと対比される
表現として"skinny", "slender", "meager"などと並べてみても、
それによって明示されるのは対立関係であって、"plump"という
結果を効果としてもたらす作用ではない。言い換へるなら、
そのような対比によって表現されるのは、対立した結果として
の状態であって、例えば、身(み)の細い吸血性のヒルが、
血(ち)を吸うことによって丸々と膨れ上がる様子を目(ま)の
当たりにするような「なまなま(生々)しさ」ではないのである。

712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/01(木) 11:04:20.11 ID:jHNhJhy4.net
"plump"が表現するのが、"flesh(み)-taking(とり)"の結果であって、
「み(身)ど(取)り/(緑)」の作用の様態を表現するには適さないとしても、
それ対応する様態によりうまく適合するものと解釈することができる
英語の表現もすぐに見出すことはできる。

例えば、植物の「み(身)ど(取)り/(緑)」について、その
"flesh(み)-taking(とり)"の作用を考へてみるなら、水を
やると見る見るうちにその「身(み)」が膨れ上がる様子を
観察することのできる「多肉植物」(「葉、茎または根の内部の柔組織
(じゅうそしき) に水を貯蔵している植物の総称である」、出典 Wikipedia)
を思ひ浮かべることができるが、「多肉植物」は、英語では、
"succulent plant"であり、ここで「多肉」に対応する"succulent"
は、それを作用として解釈するなら、日本語の「み(身)ど(取)り/(緑)」
にかなりうまく対応していると言ふことができる。

>succulent (adj.)
c. 1600, from French succulent (16c.), from Latin succulentus
"having juice, juicy," from succus "juice, sap;" related to sugere
"to suck," and possibly cognate with Old English socian "to soak,"
sucan "to suck" (see sup (v.2)). The noun meaning "plant with
juicy tissues" is from 1825.<
(出典 etymonline.com/search?q=succulent)

713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/01(木) 11:27:05.18 ID:jHNhJhy4.net
「多肉植物」の「多肉」に対応する"succulent" をその作用、即ち、
"to suck"/(吸ふ)から解釈するなら、「み(身)ど(取)り・ご(児)」は、
「ち(乳)の(呑)みご(児)」でもあるのだから(万葉集の歌で
「みどり・ご」の「みどり」に当てられた「弥(⇔瀰 (“full;
overflowing; deep; expansive; full; etc.”))騰(to soar; to rise)
里(one's birth, parentage, origins)(英訳の出典は、Wiktionary)」
を思ひ起こそう)、連想により、この「多肉」の性質を表現する
"succulent"も、"sucker"、すなわち、「ち(乳)の(呑)みご(児)」に
関連付けられることになるだろう。

>sucker (n.)
"young mammal before it is weaned," late 14c.,
agent noun from suck. <
(出典 etymonline.com/search?q=sucker)

714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/01(木) 11:52:09.48 ID:jHNhJhy4.net
すると、「みどり・ご(児)」の「みどり」であろうと、草木が萌えること
による「みどり」であろうと、その"flesh(み)-taking(とり)"の作用に
対応する様態を、英語の表現を用ひてもやはり難なく説明できるのだから、
別にそのような表現は、日本語が、西洋の主要な言語と比べて、特に
哲学するのに好適な言語であることをはっきりさせる例示にはならない
ではないか、と思はれるかもしれない。だが、本当にそうだろうか。

ここで、「みどり」と、それに対応するものとして示した"succulent"
の用法を比べてみるといい。どちらが、メタ言語的な記述のネットワーク
を有効に広げるのにより容易に役立つだろうか。私には、
"flesh(み)-taking(とり)"としての「みどり」の方が、捉え方として、
"succulent"より、既にメタ言語的な汎用性がずっと高いように
感じられる。それは、"to suck"/「吸ふ/呑む」という動作がその直接
の結果としてもたらし得る「しぼ(萎)みか(枯)れゆく」との関係性を
考慮に入れてさえもそうである。

715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/01(木) 12:16:18.98 ID:jHNhJhy4.net
英語の"succulent"が一般に表現しているのは、"to suck"/「吸ふ/呑む」と
いう動作の結果として「身(み)」が「み(満)ちている」様態であって、
せいぜい、そのことによって"to suck"/「吸ふ/呑む」作用が示唆される
だけであり、それが見た目にも表れているものとしては捉へられていない。
これに対して、"flesh(み)-taking(とり)"としての「みどり」は、
それが「色(いろ)」としても認識されるか否かという以前に、現象として
捉へられており、「みどり・ご(児)」の「みどり」/"flesh(み)-taking(とり)"
であれ、草木の萌える「みどり」/"flesh(み)-taking(とり)"であれ、
その作用は即ち、「『ち』をこ(請)ふ」ものであり、それがみ(満)たされ
ないことが即ち、「しぼ(萎)みか(枯)れゆく」ことになるものと認識
されている。さらに、「み・どり」の「み」は、万葉仮名で「弥(⇔瀰
(“full;overflowing; deep; expansive; full; etc.”)」が当てられている
ことにも表れているとおり、それ自体が「満ちる」作用の現れとして
捉へられており、そこには植物の「み」と人の「み」をあらかじめ
分離してしまうような分類法は含意されていない(これに対して、
生身の人に対してその"flesh"/「み(身)」を"succulent"と表現したなら、
ただしに、その人を「物象化」しようとしているという非難が生じるだろう)。

716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/01(木) 13:11:25.49 ID:jHNhJhy4.net
日本語の「みどり」が表現する「生きること」の「なまなま(生々)しさ」
は、現代の社会で一般化している「公衆衛生」で「清潔さを保つ」ことに
ついての考へ方を反省するのにも役立つだろう。環境保護を政治的な主張
として掲げる団体が、自らの名称に、日本語にするなら色としての
「みどり」に対応する言葉を用いることがよくあるが、その「みどり」
の捉へ方は、「けが(穢)れ」を、「前時代的」なもの、あらかじめ
封じ込められるべきものとして、隠蔽し、排除するものではないのか。
だが、日本語の「みどり」という捉え方が示しているのは、
一方の"flesh(み)-taking(とり)"そのものが、他方で「しぼ(萎)み
か(枯)れゆく」こと、したがって、「けが(穢)れ」を生じることを
必然的にともなふことであり、「みどり」の作用を促すために
「けが(穢)れを祓う」ように行はれる「きよ(浄)め」や「みそぎ」は、
「公衆衛生」で「清潔さを保つ」ことにおいて一般的にそう考へられ
るように、殺菌や滅菌によって「けが(穢)れ」が生じる可能性を
あらかじめ排除しようとすることではない。実際、「公衆衛生」
においてさえ、「清潔さを保つ」ために「けが(穢)れ」が生じる
可能性をあらかじめ徹底して排除しようとするなら、人の腸内まで
完全に滅菌することになり、「みどり」の作用を促すどころか、
人が生きることができなくなるだろう。

717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/01(木) 20:03:01.54 ID:jHNhJhy4.net
>「五月雨を集めて早し最上川」 芭蕉

>Sein Ansehn nimmt zu wie ein Strom, der nur einmal ein paar Bäche
gefressen hat, die übrigen folgen von selbst.<
Johann Wolfgang Goethe, "Götz von Berlichingen"
Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 4,
Hamburg 1948 ff, S. 144-157.

718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/02(金) 11:28:30.72 ID:z9AgRt79.net
西洋の主要な言語と比べて、日本語で哲学することの有用性を知る
には、次のような比較をしてみることも役に立つだろう。

>>697
>「な(己/汝)をし(知)れ」は、「な(己/汝)をし(知/領)れ」という
みこと(御言/命)になるので、なんら特別な解釈を加へることなく、自然に
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)を『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』べし」
という格言であるものと理解される。<

>Every man finds a sanction for his simplest claims and deeds,
in decisions of his own mind, which he calls Truth and Holiness.<
Ralph Waldo Emerson, "Selected Essays, Lectures, and Poems", p.261

>sanction (n.)
1560s, "a law or decree," from Latin sanctionem (nominative sanctio)
"act of decreeing or ordaining," also "a decree, an ordinance, a law,"
noun of action from past-participle stem of sancire "to decree, confirm,
ratify, make sacred" (see saint (n.)).<
(出典 etymonline.com/search?q=sanction)

719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/02(金) 11:32:11.69 ID:z9AgRt79.net
この場合、「『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』」ことに、
エマソンの表現における"finds a sanction for 〜"が対応している
ことを容易に見てとることができる。

720 :プラグマティズムの格率(良師):2022/12/03(土) 12:12:31.86 ID:xtcc2Py2.net
万葉集 第3巻 338番
>験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師
>験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし
>しるしなき ものをおもはずは ひとつきの にごれるさけを のむべくあるらし
(出典 万葉集ナビ)

721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/03(土) 22:40:59.68 ID:b/S5uKBT.net
>Yet absolute right is the first governor; or, every government is
an impure theocracy.<
Ralph Waldo Emerson, "Selected Essays, Lectures, and Poems", p.261

エマソンのこのような明確な認識に私は「いさぎよ(潔)さ」を感じるのだが、
その一方で、その思想的な言説は、いかにも中途半端で、なかなかの曲者である。
これは、否定的な評価として言っているのでも、肯定的な評価として言っている
のでもない。

722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/03(土) 23:20:31.40 ID:b/S5uKBT.net
なぜ、エマソンの思想的な言説が私には、「中途半端で曲者である」と
感じられるのか。それは、例えば、"every government is an impure theocracy"
という断言は、統治がそのようでしかあり得ないことについて、エマソン自身に
とっても否定的な評価を含意しているので、そのことの明確な自覚を示すことは、
「いさぎよ(潔)さ」を感じさせる。では、その「いさぎよ(潔)い」姿勢から
エマソンの思想的な言説はどこに向かうのか。その方向性は、宗教の説教と
しても、理想主義を説く思想としても、哲学の探求としても、政治政策の
ための演説としても、明らかに中途半端であるが、しかし、その中途半端さ
は、エマソンの言説においては、それが否定的に評価されるべき理由とは
ならないのである。なぜなら、エマソンは明らかに表現の「折衷」を
追い求めているからである。

723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/03(土) 23:47:03.20 ID:b/S5uKBT.net
エマソンにとって、"an impure theocracy"は否定的な評価であり、
そのような統治の状態は改良が望まれるものである。しかし、そこで、
理想として、"an impure theocracy"の代わりに"a pure theocracy"であれ、
"a pure democracy"であれ、「純粋な統治体制」を人々が目指すべき目標
として掲げたとしたなら、私は、エマソンの言説を独善的な、または
偽善的な理想主義に過ぎないものとして、まともに相手にするまでも
ないと考へただろう。エマソンの言説が「曲者」である理由は、一見、
その説教的なスタイルが、理念として掲げられる理想に向かうように
促すように見えながら、そこで追求されている「折衷」がそのような
単純なものではないことにある。エマソンの特徴的な言語表現は、
それがプラグマティズムとの親和性を示すことにおいて、
キリスト教神学的であるよりも、むしろ、「日本語的」であると
私には思へる。

724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/04(日) 00:17:26.06 ID:fOQ07gC4.net
これについていくつか書き込もうと思ふことがあるのだが、今はあまり
時間がとれないので、ひとつだけ簡単なメモを残しておこう。
それは、エマソンの用ひる"expiation"という表現についてである
("Our talent is a sort of expiation")。

統治が"an impure theocracy"として「けが(穢)れた」状態にある
ことによって求められることになるのは、「負い目」が「債務」/
»Schuld«として返済されるべきこと、またはあがな(贖)はれるべき
ことではなく、"expiation"であり、それは、日本語の表現にする
なら、「気がす(済/澄)まないことの解消」であり、
「気のす(済/澄)むようにする」ことである。

725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/04(日) 00:51:59.73 ID:fOQ07gC4.net
「気のす(済/澄)むようにする」といふのは、「な(己/汝)みづから
(身づ柄/自ら)を『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』」ように
「『すまひ』を求める」ことではあっても、住宅ローンの返済
を迫るように、または抵当権を行使するように
「あながちに」/「(わが主君の)まけのまにまに」、
ちから(力)まか(任)せにふるまふこと/強制力を発揮する
ことではない。

726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/04(日) 00:56:57.33 ID:fOQ07gC4.net
より簡潔に表現するなら、「気のす(済/澄)むようにする」とは、
「わがままにふるまふ」ことではない。

727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/04(日) 09:34:55.58 ID:fOQ07gC4.net
>"Our talent is a sort of expiation."
Ralph Waldo Emerson

ここでエマソンが表現しているのは、「才能を発揮することそのものが
"expiation"である」ということであり、それは、主権者(その「主権」
が「天上」にあるとされるのであれ、「人々」にあるとされるのであれ)
に自らが生まれつき負ふ「債務」の「返済」や「あがな(贖)ひ」ではない。

「自らの才能を発揮する」とは、「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)が
気のす(済/澄)むようにふるまふ」ことであるが、それは、
「わが(主君のみことの)ま(に)まに/あながちに力をふるふ」、つまり、
「ちから(力)まか(任)せにふるまふ」ことなどではなく、
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)がすまふ」ようにすること、
「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)の『すまひ』を求める」ことである。
しかし、これを、英語の場合のように"find a niche"と言い換へるなら、
それは、「すまひ」を固定化し、物象化することになってしまふ。
また、そこに「個のために」または「全体のために」
と付け加へるなら、「な(己/汝)みづから(身づ柄/自ら)がすまふ」
ようにすることは、"expiation"となる/「『すまひ』を求める」
ことになるどころか、たちどころに、「独善的」または「偽善的」
な支配の追求に変はってしまふことになる。

728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/04(日) 09:48:20.23 ID:fOQ07gC4.net
ニーチェは、エマソンを高く評価したが、一般的によく見られる、
ニーチェの主張の誤読(それを独善的な、または全体主義的な
支配の追求の正当化とみなす類の)もそこに根ざしている。

>sie brachte alles Leiden unter die Perspektive der Schuld...
http://www.zeno.org/nid/20009256032

>その解釈は、あらゆる苦悩を負い目の遠近法の下に引きずりこんだ。
『ニーチェ全集11』、ちくま学芸文庫、p.383

729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/04(日) 10:05:25.53 ID:fOQ07gC4.net
ここで大切なもの/「いは(祝/斎)ふ」べきものとされているのは、
「を(治)す君(きみ)」のみことをかしこ(畏)み、まけ(任/負/牧)の
まにまにつか(使/仕)へる(したがって、強制力を発揮する)
「ますらを(大丈夫)」の(まさに、その「ま(任/負/牧)け」において
「あなが(勝)ち」なる)「ををしさ」ではなく、「な(己/汝)」の
「いと(絲)を(惜)しさ」であり、「たま(玉/魂)のを(緒)」である。

730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/04(日) 10:12:28.97 ID:fOQ07gC4.net
万葉集 第20巻 4331番
>おほきみの みことのまにま ますらをの こころをもちて ありめぐり
ことしをはらば つつまはず かへりきませと
いはひへを とこへにすゑて しろたへの そでをりかへし
ぬばたまの くろかみしきて ながきけを まちかもこひむ はしきつまらは<
(出典 万葉集ナビ)

731 :ソークラテース/なほびのみたま:2022/12/05(月) 08:09:22.56 ID:4KisbTh3.net
哲学するとは、な(己/汝)のすこやかさをそこな(損)ふ("be prejudicial to")
ものにあらが(抗)はふとするこころみであって、どのようにすれば
おのれ(己)/わたくし(私)/ぼく(僕)/われは(妾/童)がおほやけ(公/大宅)に
よくつか(仕/使)へることができるかをかむが(考)へようとすることではない。

732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/05(月) 17:46:24.90 ID:4KisbTh3.net
>>731
多くの宗教、思想、哲学の言説は、この2つのまったく別々のことを
綯ひ交ぜにするから、さまざまな混乱が生じる。

733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/05(月) 20:35:51.36 ID:4KisbTh3.net
哲学することにおいて求められるのは、「むく(報)ひ」ではなく、
「かひ(効験)」であって、この場合、「かひ(効験)」とは、
な(己/汝)のすこやかさをそこな(損)ふ("be prejudicial to")
ものにあらが(抗)ふことができること、したが(従)はずに
す(済)むことそのものである。

「むく(報)ひ/報酬)」を期待して、あるいは「むく(報)ひ/報復)」
を恐れて、「かひ(効験)」を求めるのをみずから(身づ柄/自ら)放棄する
ことを、一般に、「たましひ(魂)を売り渡す」と言ふ。

734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/05(月) 20:47:15.48 ID:4KisbTh3.net
>どのようにすればおのれ(己)/わたくし(私)/ぼく(僕)/われは(妾/童)が
おほやけ(公/大宅)によくつか(仕/使)へることができるかをかむが(考)へ
ようとする<

その場合には、「むく(報)ひ/報酬)」があることが、よくつか(仕/使)へ
たことが認められたことになって、「かひ(効験)」があったことになり、
「むく(報)はれない」ことがすなはち、「かひ(効験)」のないことになる。

735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/05(月) 21:00:03.27 ID:4KisbTh3.net
ぬばたま(玉/魂)の くろ(黒)かみ(髪/神)し(敷/如)きて
な(己/汝)が(我)きけ(毛/日/気)を ま(待)ちかもこ(請)ひむ

736 :神の僕 :2022/12/05(月) 21:16:58.17 ID:q+KO5Ers.net
物理板のキチガイと遊んでたら、ダークマターは矛盾の実在だとぬかしやがる。
実はYoutubeで俺は見ただけのうろ覚えだったんだが、矛盾が実在するわけが
ないから反論したら、話にならんとか書き込んで、キレやがった。
おまけに、俺の立てたスレは書き込み禁止、俺も物理板書き込み禁止になっち
まいやがった。こんなことあっていいだろうか、まともな主張をすると5ちゃんでは
迫害される。ここは魔の巣だとしてもだ、やってはいかんだろ、ふざけんな。

737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/06(火) 13:29:52.46 ID:IpwySFdE.net
それ相応の「むく(報)ひ」があることの期待または恐れにより、
「たましひ(魂)を売り渡す」ように他人に要求して、それに
従はせることで自分の評価が高まった、または保たれたと
感じるような人々は、その本人が既に自分のたましひ(魂)を
売り渡していて、そのような評価体系においてしか自らの
価値を確認することができないのである。したがって、その
ような人々にとっては、哲学しようとするような者は、
そのことだけで途方もなく不遜であることになる。

738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/06(火) 14:06:03.53 ID:IpwySFdE.net
そんなことをしても、報復の恐れがあるだけで、何の報酬も期待できない
ことは初めから明らかなのだから、わざわざ敢へてそんなことをする
のは、それでも、報復を恐れずに済む/報酬を期待できると思ひ込んで
いる愚かさの表れ/自分の力を過信する思ひ上がりに見えるのだろう。

739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/07(水) 22:34:34.10 ID:1HnWUg3W.net
英語の"expiation"を日本語に直訳したらどのような表現になるだろうか
と考えていたら、それにぴったりの「こた(応)へ」というわけではない
ものの、そのことに関連して、万葉集に詠まれる(通常は、「枕詞」と
して扱われる)「すが(菅)のね(根)の」という表現がどのように用ひられ
ているのか、はっきりと分かるようになった。この表現については、
以前に次のように書き込んだことがある。

>507名無しさん@お腹いっぱい。2022/10/25(火) 09:56:36.06ID:9sCxB5Ts
「須我乃根能 祢母許呂其呂尓/菅の根のねもころごろに/すがのねの
ねもころごろに」という語句に見られる「すがのねの・ねもころ」
というのは、その可能な解釈の多重性から、とてもおもしろい表現だ。
特に、その解釈の多重性を、「すまひ(相撲)」と"purgatory"が互いに
似ていることと併せて考へることは、興味深いだろう。そのうち、
考へがうまく整理がついたなら、それについて書き込もうと思ふ。<

740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/07(水) 22:41:20.34 ID:1HnWUg3W.net
上のレスで私は、エマソンの言説に見られる"expiation"という英語の
表現の用法を、日本語の「気のす(済/澄)むようにすること」に相当する
ものとして説明した。Online Etymology Dictionaryによる"expiation"
の語源説明は、以下のとおりである。

>expiation (n.)
"act of making satisfaction or reparation for an offense, atonement,
reparation," early 15c., expiacioun, from Latin expiationem
(nominative expiatio) "satisfaction, atonement," noun of action
from past-participle stem of expiare "make amends for, atone for;
purge by sacrifice, make good," from ex- "completely"
(see ex-) + piare "propitiate, appease," from pius "faithful,
loyal, devout" (see pious).<
(出典 www.etymonline.com/search?q=expiation)

741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/07(水) 22:53:50.24 ID:1HnWUg3W.net
なぜ"expiation"が、万葉集に詠まれた「すが(菅)のね(根)の」という
表現を想起させるのかといへば、それは、次のような連想によるものである。
"expiation"≒「気のす(済/澄)むようにすること」⇒
「気がは(晴)れる」⇒「すがすが(清々)しい」⇒「すが(菅)」
⇒「すが(菅)のね(根)の」

742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/07(水) 23:06:56.41 ID:1HnWUg3W.net
さて、「気のす(済/澄)むようにすること」から自由連想で「すが(菅)」
までイメージの関連性を導き出すのはいいとしても、では、「ね(根)の」
は、一体どこから唐突に出てきたのかと言はれそうだが、この連想に
おいて最も重要なのはそこである。英語の"expiation"について考へて
いて、はっきりと気付くことになったのは、「すが(菅)の『ね(根)』の」
の「ね(根)」が明らかに、「ね(禰)ぎ(宜)」の「ね(禰/祢)」(したがって、
その再帰表現である「『ね』が(願)・ふ」の「ね」でもある)を
イメージさせるように用いられていることであり、この「ね(禰/祢)」
は、引用した"expiation"の語源説明における
>+ piare "propitiate, appease," from pius "faithful, loyal, devout"
(see pious).<
と対応関係にあると考へることができるのである。

743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/07(水) 23:35:24.86 ID:1HnWUg3W.net
ただし、「すが(菅)の『ね(根)』の」の「ね(禰)ぎ(宜)」に対して
"to propitiate"、"to appease"といった表現は、それほどうまく
対応しているわけではなく、この場合、より好適であると私に
思はれる英語の表現は、"to entreat"である。したがって、この
解釈によれば、「すが(菅)の『ね(根)』の」という表現において、
「すが(菅)」が想起させるのは、「ま(真)っす(直)ぐに妨げの
ない」イメージであるので、現代の日本語でそれに近い表現を
考えるなら、例えば、「一途な/ひた(直)む(向)きな/一心の
『ね』がい」といったようなものとなるだろう。

「すが(菅)の『ね(根)』の」の「ね(禰)」が"to entreat"に対応
すると考へることの妥当性は、次のように確かめることもできる。
それは、「すが(菅)の『ね(根)』の〜」と詠まれる歌の多くの
事例において、「〜」に来るのが「ねもころ」(現代の日本語の
「懇(ねんご)ろ」に引き継がれる)であることである。
ここで、"entreat"がどのように現代の中国語において漢字で
表現されているかをWiktionaryで確認してみると、以下のとおり
>entreat 1. 恳求、2. 乞求、3. 待遇、4. 哀求
であるが、「恳求」の「恳」は「懇」を簡略化した表記である。

744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/07(水) 23:40:00.79 ID:1HnWUg3W.net
さらに、「すがのねの・ねもころ」という表現が面白いのは、
「すがのねの」の「すが」が、私が現代語で「一途な/
ひた(直)む(向)きな/一心の 」に対応させたとおり、直線的、
単方向的なイメージを想起させるのに対して、「ね・もころ」
の「もころ」の方は、絡み合ったり、丸くなったりした
イメージを想起させることであり、この組み合わせが意図的
であると思はれることである。

745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/07(水) 23:46:57.36 ID:1HnWUg3W.net
云はば、「すが」の「純粋さ」が、その効果として「一方的」もの
となってしまうことを「も・ころ」の作用によって避けようとして
いるのである。

746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/08(木) 09:56:19.42 ID:9tVqiCSl.net
entreat (v.)
>c. 1400, "to enter into negotiations," especially "discuss or arrange
peace terms;" also "to treat (someone) in a certain way," from
Anglo-French entretier, Old French entraiter "to treat,"
from en- "make" (see en- (1)) + traiter "to treat" (see treat (v.)).
Meaning "to beseech, implore, plead with (someone)" is from
early 15c.; meaning "to plead for (someone)" is from mid-15c.
Related: Entreated; entreating.<
(出典 www.etymonline.com/search?q=entreat)

747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/08(木) 10:08:32.80 ID:9tVqiCSl.net
>足日木能 石根許其思美 菅根乎 引者難三等 標耳曽結焉
>あしひきの岩根こごしみ菅の根を引かばかたみと標のみぞ結ふ
>あしひきの いはねこごしみ すがのねを ひかばかたみと しめのみぞゆふ
(出典 万葉集ナビ)

ところで、「ねぎ(禰宜)」の「ね」に当てられ、万葉仮名として一般に
「ね」の発音を表記するのに用いられている「禰/祢」という漢字には、
「かたしろ(形代)」という表現にも当てられて用いられているとのことで
(出典 Wiktionary)、上の歌に詠まれた「かたみ」は、そのことと無関係
ではないだろう。「万葉集ナビ」は万葉集の歌を網羅するだけでなく、
優れた検索機能が提供されているので、とても便利に利用させてもらって
いるが、上の歌の現代語訳を含め、提示される歌の解釈は、私には
まったく的外れであると感じられる場合がとても多い。

748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 10:14:50.40 ID:l8Bd+AMV.net
「須我乃根能 祢母許呂其呂尓/菅の根のねもころごろに/すがのねの
ねもころごろに」という表現が、私にどのようなイメージを想起さ
せるのかをまとめておこう。

"expiation"を日本語で表現しようとすると、「気のす(済/澄)む
ようにすること」に対応すると考へることができるが、それは
即ち、「す(済/澄)まひの『ね(禰/祢)ぎ(宜)ごと』」でもある。
この「すまひのねぎごと(である)」ことに対応する表現として
万葉集に詠まれているのが「須我乃根能/菅の根の/すがのねの」
であり、この表現は、多くの事例で、「祢母許呂(其呂)尓/
ねもこ(懇/勤)ろ(ころ)に/ね・も・ころ(ころ)に」を修飾する
ように用ひられているが、この「ね・も・ころ(ころ)に」の
「ころ」は、「こころ(心)」の「ころ」と共通するとともに、
「こ(凝)る」という動詞とも共通し、「求心的」な作用を伝へる
ものである。したがって、「ね・も・ころ(ころ)」は、英語
の"to entreat"に対応するものとして提示した中国語の漢字
表現の「懇求」にそのまま対応することになる。

以上をまとめると、「須我乃根能 祢母許呂其呂尓/菅の根の
ねもころごろに/すがのねのねもころごろに」という表現は、
「す(済/澄)まひのねぎ(禰/祢宜)ごととして懇求して」という
イメージを伝へているものと考へることができる。

749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 10:22:09.65 ID:l8Bd+AMV.net
さらに留意すべきことがある。それは、「須我乃根能 祢母許呂其呂尓/
菅の根のねもころごろに/すがのねのねもころごろに」という語句に
おいて、確かに、「須我乃根能/すがのねの/菅の根の」は、
「祢母許呂(其呂)/ねもころ(ごろ)/ねもころごろ」を修飾しているが、
この場合、先行する句は、後続の句を単に限定として特徴づける
ように用ひられているわけではなく、表現として対照的な対比にも
あるということである。

750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 10:24:19.89 ID:l8Bd+AMV.net
誤:対比にも
正:対比関係にも

751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 10:58:24.32 ID:l8Bd+AMV.net
説明しよう。「祢母許呂/ねもころ/ねもころ」が表現しているのは
「懇求」であり、それは確かに「ね(禰/祢)ぎ」でもあるが、その
方向性を見るなら、それが「かな(叶)ふ」ことを求める「ねが(願)ひ」
であり、「ね(禰/祢)ぎ」の効果が「心に向かふことを求める」こと
において、再帰的な「求心性」を伝へている。しかし、すると、
その「ね(禰/祢)ぎ」は、その再帰性において、「己の心の一方的な
もと(求)め/自己中心性」をも伝へることになってしまう。

そこにこそ、「祢母許呂/ねもころ/ねもころ」を「須我乃根能/
すがのねの/菅の根の」、即ち、「す(済/澄)まひのねぎ(禰/祢宜)
ごととして」で修飾する必要性が生じるのである。
いくら「ひたむきな/ひたすらの『ねが(願)ひ』」であっても、
それが「自己中心的な要求」として捉へられてしまっては、
「ね(禰/祢)ぎ」/"entreatment"とはならない。その「もと(求)め」
が「す(済/澄)まひ」を「ねが(願)ふ」ものであればこそ、
「ひたむきな懇求」が「ね(禰/祢)ぎ」/"entreatment"となるのである。

752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 11:02:46.44 ID:l8Bd+AMV.net
万葉集 第13巻 3284番

>菅根之 根毛一伏三向凝呂尓 吾念有 妹尓緑而者 言之禁毛 無在乞常
齊戸乎 石相穿居 竹珠乎 無間貫垂 天地之 神祇乎曽吾祈 甚毛為便無見

>菅の根の ねもころごろに 我が思へる 妹によりては 言の忌みも なくありこそと
斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉を 間なく貫き垂れ 天地の 神をぞ我が祷む いたもすべなみ

>すがのねの ねもころごろに あがおもへる いもによりては ことのいみも なくありこそと
いはひへを いはひほりすゑ たかたまを まなくぬきたれ あめつちの かみをぞわがのむ いたもすべなみ
(出典 万葉集ナビ)

753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 11:24:35.23 ID:l8Bd+AMV.net
万葉集 第20巻 4484番
>佐久波奈波 宇都呂布等伎安里 安之比奇乃 夜麻須我乃祢之 奈我久波安利家里
>咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり
>さくはなは うつろふときあり あしひきの やますがのねし ながくはありけり

ところで、この歌の「奈我久波安利家里/長くはありけり/ながくはありけり」
に「な(己/汝)が苦(く)はありけり」を聞き取ってしまうのは、私の空耳だろうか。

754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 14:29:03.89 ID:l8Bd+AMV.net
>之路多<倍>乃 阿我許呂毛弖乎 登里母知弖 伊波敝和我勢古 多太尓安布末R尓
>白栲の我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまでに
>しろたへの あがころもでを とりもちて いはへわがせこ ただにあふまでに

「白栲の/しろたへの」は、「袖(そで)」にかかることが多いことからも
ただちに想起されるとおり、「別れと再会」のイメージに関連して
用いられることが多い。「袖(そで)」が明示される場合には、
その袖の布が濡れた場合に「ぴたりと合ひ」、乾けばその布が
「別れる」具体的なイメージが利用されるが、「袖(そで)」を
「を(折)りかへ(返)す」ことなど、それ以外にも、その基本的な
イメージの応用が見られる。

755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 14:48:25.81 ID:l8Bd+AMV.net
万葉集 第17巻 3993番
>うらぐはし 布勢の水海に 海人船に ま楫掻い貫き 白栲の 袖振り返し
あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き
さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉の時に
春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと
かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや <

一見すると、この歌に詠まれる「乎布(をふ)の崎(さき)」は、ただの地名
に思はれるかもしれないが、この「乎布(をふ)」は、「梅を招きつつ楽しき
『終(を)へ』め」の「終(を)へ」と同じ表現であり、
>「空虚」を示すように用いられる「を」を再帰表現を形成する
「〜ふ」によって「ひっくり返す」ことによって、「満腔(≒
"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」<
ことを意味している。したがって、「白栲の 袖振り返し」も、
「袖の別れ」を「振り返す」ことにより、何度でも再会する
ことを表現していると解釈することができるだろう。

756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/09(金) 14:56:49.44 ID:l8Bd+AMV.net
万葉集 第20巻 4331番
>事し終らば つつまはず 帰り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて
白栲の 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ <

さて、では、この歌で「白栲の 袖折り返し」と並べられた
「ぬばたまの 黒髪」は、どのような表現だろうか(私には既に
明らかであるように感じられるのだが)。

757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/11(日) 19:36:55.74 ID:bDfgMG6U.net
「ぬばたまの黒髪」の「ぬばたまの」は、現代の日本語では死語となっている
が、現代の日本語の話者にも容易に理解できる表現だろうと私には思へる。
さらに言はせてもらえば、その理解を困難にしているのは、実は、
国語学によるこの表現の解説の方である。「ぬばたま」の「ぬば」には、
「野干」、「夜干」、「射干」などの表記が当てられることがあり、
漢字が発音とどう対応しているのか一瞬とまどふが、これらは、
>元々インドにおいてジャッカル(この名称も元は梵語に由来する。
特にユーラシアに分布しているのはキンイロジャッカル)を指して
いた<梵語を漢字表記に写したものである(出典 Wikipedia)。

ただし、万葉集の歌に詠まれた「ぬばたまの」という表現において
は、「ぬば」に「野干/夜干」という表記が当てられている事例に
おいても、特にジャッカルやキツネのような動物のイメージの
想起が利用されているわけではない。

758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/11(日) 19:45:05.41 ID:bDfgMG6U.net
精選版 日本国語大辞典「射干玉(ぬばたまの)の」の解説を参照すると、
いろいろと詳しく事例が記載され、
>枕 ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した語にかかる。
中古以降は「むばたまの」という形で使われることが多い。<
と説明されるものの、語源については、
>「ぬば」は元来は黒い色を表わす語であったと考える説とが有力である。
としたうえで
>「沼→泥→黒」
という、語源説明としてかなり根拠のあいまいな連想を示しているだけである。

759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/11(日) 19:53:46.27 ID:bDfgMG6U.net
「ぬば」が元来は黒い色を表わす語であったとしたなら、
「ぬばたまの黒髪」は、「『黒いたま(玉/魂)』の黒髪」となるが、
そのような解釈では、上に引用した歌でも意味を成さず、さらには、
「ぬばたまの」が「夜」や「夕」や「夢」にかかる事例では、
まったく意味不明だろう。

760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/11(日) 20:14:41.22 ID:bDfgMG6U.net
私に言はせれば、「ぬばたまの」の「ぬば」の「ぬ」は、
「ぬ(脱)く」の「ぬ」に他ならず、「ぬ・ば」は、それ自体としては
表現として古語にも残されていない「ぬ・ぶ」という「ぬ」の作用
の再帰表現の活用形であり、「ぬばたまの」とは、「たま(魂)が
自ずと[身体から]脱け出す」ことを表現している。
だから、「ぬばたまの夢」であれば、たま(魂)が自ずと[身体
から]脱け出して、夢であ(逢)ふことになるのであり、「ぬばたま
の黒髪」や「ぬばたまの夜」では、「黒髪」や「夜」が
「たま(魂)に自ずと[身体から]脱け出させる」ように作用
するのである。ここで私は、現代の日本語の標準の表記に
適合するように「ぬけ」に「脱け」という漢字を当てているが、
「脱」の音読みが「だつ」であることからも分かるとおり、
「脱」は、この「ぬ」に当てるのに最適の表記ではない。
この「ぬ」の発音は、私に言わせれば、「漏(Middle Chinese:
/ləuH/)」("to escape")(出典 Wiktionary)の語頭の"l"の発音を
日本語の形成過程で"n"に移したものである。

761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/11(日) 20:37:00.93 ID:bDfgMG6U.net
ここまでは、私にとっては既に分かり切ったことで、既に以前にも関連した
説明を書き込んでいるので、特に面白いことではない。私に興味深く
思われるのは、引用した万葉集 第20巻 4331番における「ぬばたまの」
の用法である。
>事し終らば つつまはず 帰り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて
白栲の 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ <

「魂を売り渡す」という表現が日本語として用ひられるようになった
経緯について私は何も知らないが、いずれにしても、それは、
望ましくない行為、悪しき行為であると認識されているはずである。
ところが、「ぬばたまの」が、私の提示する解釈のとおり、
「たま(魂)が自ずと[身体から]脱け出す」ことを表現しているとして、
そのことは、必然的に「危ういこと」であるとされているとしても、
「悪しきこと」とはされていない。それどころか、この歌の事例では、
望まれることですらある。これは、ちょうど、魅了されることや、
あこがれることが、「危ういこと」であるとしても、否定的に
捉えられるようなことではないのと同様だろう。

さて、ここで哲学的な問ひかけである。「魂を売り渡す」ことは、
それがどのような条件に基づくにせよ、自分の意志による行為だろう。
これに対して、「たま(魂)が自ずと脱け出すこと」は、自分の
意志とは無関係に生じる出来事である。なぜ、前者が決まって
悪しきこととされるのに、後者は、危ういこととはされても、
悪しきこととはされないのか。

762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/11(日) 20:52:25.81 ID:bDfgMG6U.net
ところが、その一方で、世の中には、「魂を売り渡す」ように他人を
説得することにはとても熱心で、それを自らの善行として自負しながら、
他人の「たま(魂)が自ずと脱け出す」ことは、危険極まりないこと
として絶えず警戒していて、そのようなことは絶対に許せないという
人々が大勢いるように私には感じられる。

763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/11(日) 21:01:41.29 ID:bDfgMG6U.net
しかし、一般には、エクスタシーなどを含む薬物乱用に陥る危険が高い
のはむしろ、「魂を売り渡して」しまったと感じている人々の方ではないのか。

764 :みどりの(≒"succulent")勾玉:2022/12/12(月) 13:01:03.45 ID:43eghqUw.net
ja.wikipedia.org/wiki/ヒスイ製勾玉#/media/ファイル:ヒスイ勾玉レプリカ20180819.jpg

765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/12(月) 21:41:54.61 ID:43eghqUw.net
「ヒスイ製勾玉」を目にしたとき、現代の人であれば、一般に、
「勾玉が緑がかった石で作られている」と考へるだろう。しかし、
思ふに、この捉え方は正しくない。おそらく、勾玉を用ひていた
古代の人々にとっては、「勾玉が緑がかった石で作られている」
のではなく、「『みどり(の作用)』を表象するもの」として
勾玉が作られているのだ。

766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/13(火) 13:00:03.85 ID:xYVcW6it.net
洋風の勾玉?
gettyimages.co.jp/detail/写真/mistletoe-bunch-ロイヤリティフリーイメージ/183541767

767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/13(火) 17:45:01.34 ID:xYVcW6it.net
>古代の人々にとっては、「勾玉が緑がかった石で作られている」
のではなく、「『みどり(の作用)』を表象するもの」として
勾玉が作られているのだ。<

ここで、勾玉が「緑色の石」で作られていることは、勾玉が
「み(≒"flesh")どり(≒"taking")/(≒"succulent")の作用」を表象
するために作られていることとして捉へ直されることになるわけ
だが、そのことによって、「み(≒"flesh")どり(≒"taking")/
(≒"succulent")」と色彩としての「緑」の関係が失われる
わけではないことに注意しよう。そうではなく、「緑色」
は、「みどりの作用」が働いていることを「指し示す表れ」
/"an indication"として認識されることになるのだ。しかし、
それは、それでも、「みどりの作用」が働いていることの
「指し示す表れ」/"an indication"に過ぎないのだから、
それが見えないからといって、「みどりの作用」が働いて
いないことにはならない。

768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/14(水) 08:43:51.88 ID:LmIO8Zcg.net
mistletoe/ヤドリギ/槲寄生
>セイヨウヤドリギは、クリスマスには宿り木を飾ったり、宿り木の下で
キスをすることが許されるという風習がある。(Wikipedia)
kiss
>Old English cyssan [...], from *kuss-, probably ultimately
imitative of the sound. (Online Etymology Dictionary)

勾玉/まがたま

>勾(Middle Chinese: /kəu/)
>Synonyms 吸 (xī)、吸引 (xīyǐn)、招引 (zhāoyǐn)、
誘惑/诱惑 (yòuhuò)< (Wiktionary)

勾引
>近義詞:勸誘,勾串,勾搭,勾結,引誘,蠱惑,誘惑
>基本釋義: [seduce;induce]∶引誘人做不好的事
架不住壞人的勾引  [entice]∶引人上鉤使之聽任擺布
[fascinate;attract;draw]∶吸引<
www.chinesewords.org/dict/48836-175.html

769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/14(水) 15:53:30.28 ID:JEicwMXk.net
「み(≒"flesh")どり(≒"taking")/(≒"succulent")の作用」を表現して
いたはずの「みどり」という言葉が専ら、色彩としての「緑」を
表すものとして認識されるようになる変化は、記号論的には、
容易に説明がつく。それは、色彩としての「緑」が、
「みどりの作用」が働いていることの表れとして認識され、
色彩としての「緑」がその作用の「指標」/"index"として
用ひられるようになることである。そして、色彩としての
「緑」が、「みどりの作用」が働いていることの「指標」
/"index"として認められるならば、現に「みどりの作用」が
働いていないことが互いに分かっていても、色彩としての
「緑」を、その「に(似)せ(/偽)」の「指標」/"index"として
意図的に示すこと、即ち、「合図(/記号)」/"sign"として示す
ことが、「みどりの作用」が働くことの「表象」/"symbol"として
つか(仕/使)へるようになる。

このプロセスが、生物に一般的に見られる「擬態」を想起さ
せることには、誰でもすぐに気づくだろう。言語は、
一般に、恣意的なな「表象」/"symbol"としての『合図(/記号)』/
"sign"の体系であると考えられているが、進化的に見れば、
以前から指摘しているとおり、「身体から切り離された相互的な
擬態」を発達させたものである。

770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/14(水) 17:26:23.91 ID:JEicwMXk.net
色彩としての「緑」が目に見えて現れることに「みどりの作用」
が働いているのを見てとることは、何ら迷信を示すものではない
だろう。「みどりの作用」が「緑色」と必然的に結び付けられて
いないのならなおさらのことである。色彩としての「緑」が現れて
くるように見える素材を利用して「みどりの作用」の働きを表現する
工作をすることも、それによって作られた工作品が、その模倣により
「みどりの作用」を促す力を実際に発揮すると堅く信じているので
なければ、望ましいと感じられる理想を具象化して示そうとしている
だけで、迷信の表れであるとは言えない。それを迷信と呼ぶなら、
現代でも、例えば、「緑の党」をそのように名付ける行為も、
その宣伝に緑色を多用することも、迷信の表れであると言うことが
できることになるはずである。ではなぜ、勾玉やヤドリギ
の装飾は、「異教的」であり、「呪術的」であると感じられる
ことになるのか。現代における「迷信」と「宗教的信仰」と
「科学技術」の関係の一般的な認識には、統治イデオロギー
を介して、ある根本的な捩れが働いている。

771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/14(水) 17:49:12.21 ID:JEicwMXk.net
「かひ(効験)」のあることを「ねが(願)ふ」。これは、人にとって、
といふより、誰にとっても、ごく普通のことである。では、「ねが(願)ふ」
とはどのようなことか。「ねが(願)ひ」は、「ねぎ(禰宜)」の再帰形
であるが、それがどのようなことであれ、自分自身で何かできることを
すれば、その「かひ(効験)」があることがあらかじめ分かっているのなら、
「かひ(効験)」があるようにするには、ただそのできることをすれば
よいだけであって、そもそも、「ねが(願)ふ」必要性そのものが生じない。

772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/14(水) 18:07:56.05 ID:JEicwMXk.net
ところで、勾玉やヤドリギの装飾が、人に「異教的」であり、「呪術的」で
あると感じられるとき、勾玉やヤドリギを飾る行為により人に伝はっている
のは、「ねぎ(禰宜)」でも、「ねが(願)ひ」でもない。

773 :為便乎無見(すべをなみ):2022/12/14(水) 23:08:13.90 ID:JEicwMXk.net
万葉集 第2巻 207番
>言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる
千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に
我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ
妹が名呼びて 袖ぞ振りつる<

774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/14(水) 23:45:05.26 ID:JEicwMXk.net
ねが(願)ひがかなふように神仏(霊的な存在)に祈り、
ねが(願)ひがかなへば、感謝の意を伝へるものを捧げる、
これは、古今東西を問はず、一般によく見られる行為だろう。
現世における「かひ(効験)」を神に求めることを教義の上では
否定する制度的なキリスト教の信仰の世界においてさえ、
実際には、「聖人」や「聖母」に対する信仰が、
そのようなものとして実践されている。

775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/15(木) 00:23:58.15 ID:ynv+xHWe.net
>すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる

では、離ればなれになっていて、逢ひたくても逢へない人の
「名を呼んで、袖を振る」のは、どのような行為であると考へられる
だろうか。「袖の布が分かれる」ことが人の別れを表象するものとされ、
「袖の布が濡れてぴたりと合ふ」ことが人が合ふことを表象するものと
されるのだから、「袖を振る」ことによって「袖の布が合う」ように
する行為は、「再会がもたらされること」を表象するものであり、
この場合、明らかに「名を呼ぶ相手との再会をねが(願)ふ」行為である。
しかし、その「ねが(願)ひ」は、それをかなへてくれる「かひ(効験)」
をもたらす神仏(霊的な存在)への祈りとして行はれているわけではない。
では、これは、「名を呼んで、袖を振る」行為そのものが、再会を
実現する「かひ(効験)」をもたらすと信じられている「呪術」として
行はれているのだろうか。だが、もし、「名を呼んで、袖を振る」
ことがそのような効果を発揮するとその本人が信じているのであれば、
いくら他人からはそれが「迷信」であるとされたところで、その
本人にとっては、再会を実現するために「呪術」という「すべ(術)」
があることになるはずだろう。ところが、この場合、本人は、
再会するための「すべ(術)を知らない」こと、自身にはその
「すべ(術)がない」ことをはっきりと自覚している。

776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/15(木) 00:57:55.25 ID:ynv+xHWe.net
古代の人々が、現代の自分たちとは大きく異なる「呪術的な迷信」
を単純に信じていたと思ふとすれば、それは、そこで生きている人々
の間で実際に働いていたプラグマティックな(つまり、効験があるか
否かを基準とする)感性を見縊ることになるだろう。現代の人々に
「呪術的」に見える多くの行為は、それが大いに効果を発揮すると
頑迷に信じられたから行はれたのではなく、現実的に自分自身に
できることとして「かひ(効験)」をもたらすことが何もないと
自覚されたからこそ、"make-believe"として認識されながら、
行はれたのである。

万葉集 第3巻 460番
>生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば 頼めりし
人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り 春日野を
そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隠りましぬれ
言はむすべ 為むすべ知らに たもとほり ただひとりして
白栲の 衣袖干さず 嘆きつつ 我が泣く涙<

777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/15(木) 08:40:44.23 ID:ynv+xHWe.net
精選版 日本国語大辞典「袖振り合うも他生の縁」の解説
袖振り合うも他生の縁(そでふりあうもたしょうのえん)
>道を行く時、見知らぬ人と袖が触れ合う程度のことも前世からの因縁に
よるとの意。どんな小さな事、ちょっとした人との交渉も偶然に起こるの
ではなく、すべて深い宿縁によって起こるのだということ<

万葉集に詠まれている歌に照らしてみれば、この解釈は、好意的に
見ても、「袖を振る」ことの意味が見失われた後の、誤解に基づく
再解釈であり、その再解釈が意図的であるなら、改竄である。

そもそも、元の表現は、「袖振り合うも他生の縁」ではなく、
「そで(袖)ふ(振)り、あ(逢)ふも他生の縁」と詠まれるべき
ものだろう。「袖振り合う」と読むと、意味不明な表現となって
しまうからこそ、「袖振り合う」が、「袖触れ合う」、「袖擦りあう」
などと読みかえられたうえで、解釈されるのだ。
「そで(袖)ふ(振)り」が「再会をもたらす」行為であると
されるからこそ、初めて逢う誰かと知り合ひになることも、
「前世」において「現世」とはそれぞれ別の存在者として
ではあるが、既に出会っていた人/存在者との「再会」」である
ものとされ、それが「他生の縁」と呼ばれるのである。

778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/15(木) 09:17:59.87 ID:ynv+xHWe.net
人々が現世利益(即ち、現世における「かひ(効験)」)を求めて
神仏(霊的な存在)を「たの(頼)む」、つまり、「た(手)よ(依)り」に
するのは、ごく普通のことである。なぜなら、畏れ敬ふことによって
そのような「かひ(効験)」をもたらすものこそが、神仏(霊的な存在)
であるとされるからだ。「た(手)よ(依)り」にできる神仏(霊的な存在)
すら見当たらず、自分自身になにもできる「すべ(術)」がないことに
はっきりと気付いたなら、それでも、人は、自分が求める「かひ(効験)」
と類似したものをもたらしているように見える事象を「作り事」として
でも模倣しようとする。これは、その「作り事」が「気慰め」に過ぎない
としても、「迷信」や「呪術」を信じていることの表れというより、
徹底的に現実の「かひ(効験)」を求めるプラグマティックな姿勢の
反映である。

ところが、この、現世における「かひ(効験)」の現れを求める人々
のプラグマティックな姿勢は、制度宗教にとっても、それを
統治イデオロギーとして積極的に利用しようとする統治権力に
とっても極めて都合が悪い。なぜなら、その姿勢は、人々を
教へ導こうとする側が、実際、どれだけの「かひ(効験)」を
もたらしているとそれぞれの人に感じられるかにより、教へ導か
れるべき人々の側から、絶えず「成果主義的」に評価されること
になってしまうからである。統治イデオロギーとしての制度宗教
が「現世利益」を求める姿勢を「迷信」や「呪術」として蔑み、
「来世/永遠の至福」を求めることこそを真のあるべき信仰の姿勢
とするように教へ諭す理由もそこにある。それでも、人々は、
自分自身にとっての「利益」の追求を断念するわけではなく、
実質的に、「現世利益の追求の『無限先送り』」に誘導されるだけ
のことだ。

779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/15(木) 09:37:24.64 ID:ynv+xHWe.net
制度宗教における神仏を信仰しても、「現世利益の追求の『無限先送り』」
に誘導されるだけであることに気づいたなら、人々は、現世において
自分たちに「かひ(効験)」をもたらしてくれるものを、制度宗教の枠組み
を外れて、神仏の代替として「たの(頼)む」ことになる。それが、
キリスト教においては、「聖人」や「聖母」に対する信仰として実践
され、「占ひ」、「迷信」、「呪術」とされる類のものを頼りにする
人々も決して減ることはない。ただし、そのような「頑迷さ」は、
「かひ(効験)」を追求する姿勢の反映であるので、求めている
「かひ(効験)」をもたらしてくれるなら、それは、「呪術的な行為」
と見なされるようなものを頼りにすることである必要はなく、
「科学技術」に対する信頼によって全面的にとって代わられても
構わないのである。そして、上で指摘した統治イデオロギーを
介した「捩れ」は、そこでこそ生じる。なぜなら、現代の社会
において統治イデオロギーとして主として機能しているのは、
多くの国々において制度宗教であるよりも、科学技術的な
専門家集団の知見だからである。

780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/16(金) 00:47:10.36 ID:AoiZq9Sm.net
万葉集 第1巻 51番
>采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く

781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/16(金) 10:00:39.97 ID:AoiZq9Sm.net
>>780
この歌の句で検索すると、この歌は、一般に
>釆女(うねめ)の袖(そで)を揺らしていた明日香の風も、
都を遠くにし(藤原宮に移ってしまったため)、空しく吹いている<
(出典 art-tags.net/manyo/one/m0051.html)
といったような感覚を詠んだものであると解釈されているようである。
しかし、この解釈は、「袖吹きかへす」を単に思ひ出の情景として
捉へており、私見では、誤読である。

782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/16(金) 10:08:45.79 ID:AoiZq9Sm.net
「 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」と
詠まれる風は、なぜ「いたづらに」吹いているとされるのか。
ここでも、哲学的に考へてみることは役に立つ。

>645recto/verso2022/11/20(日) 20:27:44.87ID:jzn2xJHz
「ただ」あることの「ただ(正)しさ」は、
「かへ(反)し」の「かへ(反)し」として「たし(確)かめ」られることである。

これを似非数学的な隠喩を用ひて表現するなら、
Χ=((Χ)^(-1))^(-1)=(1/Χ)^(-1)=Χ
のような操作であると言ふことができるだろう。 <

783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/16(金) 10:33:53.17 ID:AoiZq9Sm.net
この歌は、明日香から藤原に都(みやこ)が遷都して、即ち、
「うつ(遷)り『かは(変)』って」しまった後に、そのことについて
詠まれたもので、当然、明日香からの風が采女の「袖を吹き『かへす』」
ことは、その風が「『かへ(反)し』の『かへ(反)し』」を作用させよう
として吹いていること、つまり、都(みやこ)をふたたび明日香に
「かへ(反)す」ことを働きかけていることを想起させる。
しかし、もう、都(みやこ)は、藤原に遷ってしまっており、
いくら袖を吹き「かへし」てみたところで、明日香が元のとおり
に都(みやこ)であることに戻ることはない。だから、明日香から
の風は、「 都を遠み」、采女の「袖を『いたづらに』吹きかへしている」
のである。「『吹きかへす袖もないのに』いたづらに吹いている」のではない。

784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/16(金) 10:54:34.65 ID:AoiZq9Sm.net
「そんなことが分かったところで、一体、何の役に立つのか」と思ふような
人は、そもそも、他人が言葉で伝へようとする感覚など分かろうとする気
などさらさらないのであり、単に、他人に自分の意に沿ふようにさせられる
ならそれでよいと考へているのである。それは、他者の感覚を分有する
必要性はないとする、共通感覚を認めることの拒絶であり、自分が相手に
ねが(願)ふ必要性の排除である。しかし、その結果としてもたらされるのは、
自己と他者の互いの徹底した孤立であり、その孤立状況における働きかけ
は、いくら集団が大きくなったところで、互いに何かを「ねが(願)ふ」
ことではなく、誘因と拒否反応を利用して相手をうまく誘導すること/
相手にうまく誘導されることだけである。

785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/16(金) 18:00:41.12 ID:AoiZq9Sm.net
自分でも読みにくいので、訂正

誤:明日香に「かへ(反)す」ことを働きかけている
正:明日香に「かへ(反)す」ように働きかけている

誤:他人に自分の意に沿ふように
正:他人を自分の意に沿ふように

786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/16(金) 23:03:33.28 ID:AoiZq9Sm.net
>>784
この「それが何の役に立つのか」という疑問が他者から自分に向けて
実際に発せられるとき、大抵の場合、その意味はより複雑であり、
それは、「そんなことをしていると自分の身のためにならないぞ」
という親切な忠告の婉曲な言い換えである。その疑問に対して、
「別に役に立たなくてもいいじゃないか」という反応で、自らの
振舞ひを改めないと、様々な想定外の仕方で罰を受けることになる。
大多数の人々は賢いので、「それが何の役に立つのか」と指摘された
時点で自粛し、多少、鈍くても、罰を受けると、罰せられた理由を
自分で考えて反省するように迫られるので、しっかりと自主的に
反省して、同じ過ちを繰り返さないようになる。いくら繰り返し
罰せられても反省せずに同じ過ちを繰り返す愚か者は、当然のこと
ながら、世間的な言い方をすれば、「人生を棒に振る」。
だが、罰せられて、反省を迫られることで更生してしまう程度の
賢い人は、本当の意味で哲学する必要性には迫られていないのであり、
まさにそのことにおいて、より幸せな人生を歩んでいると言えるだろう。

787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/17(土) 10:06:54.19 ID:EsHLBCBF.net
>>780-781
この歌の一般に通用している解釈の妥当性を支える根拠は、
この歌の言語表現そのものにはどこにも見当たらないことに留意しよう。
それどころか、言語の通常の用法に照らすなら、この歌の言語表現は、
この「権威ある」解釈の妥当性をことごとく否定するものである。
しかも、この解釈は、万葉集で極めて多くの歌で隠喩として効果的に
用ひられ、この歌においても中心的な役割をしている表現である「袖」を、
単に情景として扱って、言語表現としては無視している。

788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/17(土) 11:11:23.37 ID:EsHLBCBF.net
「明日香風」という表現の解釈ひとつをとってみても、言語表現の解釈の
常識から大きくかけ離れている。「浜風」と言えば、確かに「浜辺」に
場所に特有の風だろう。では、この「権威ある」解釈によれば、
「明日香」で吹いているものとされる「明日香風」は、「明日香」と
いう地に特有の風なのか。しかし、「南風」、「北風」は言うまでもなく、
「海風」、「陸風」、「親分(おやぶん)風(かぜ)」まで、「風(かぜ)」は
その吹いて来る方角によって示されるのが一般的であり、
「海(うみ)風(かぜ)」は、海上で吹いている風ではない。
そもそも、この歌の「権威ある」解釈に従って、現に「明日香」という
場所に居て風が吹いているのなら、ただの「風(かぜ)」であって、
それを「明日香風」とは呼ばないだろう。「明日香方面から吹いて来る」
から「明日香風」と呼ばれると考えるのが普通である。いくら西洋に
特徴的な建築スタイルであっても、それが「洋風(ようふう)建築」と
呼ばれるのは、西洋から来たものとして認識されるからであって、
西洋にいながらにして「洋風建築」と認識されるわけではない。
しかも、「都を遠み」という言葉によって方向性ははっきりと
示されており、なおかつ、いくら「遠み」と表現されたところで、
昔の都である「明日香」と新たな都である「藤原」は、実際の
距離では数キロメートルしか離れておらず、「明日香」の地に
特有に吹くが、「藤原」では吹かない風などというものは、
ビル風のような特殊な風でなければ、あり得ないだろう。

789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/17(土) 11:31:42.80 ID:EsHLBCBF.net
さらに、「袖吹きかへす」という表現は、明白に、「今、風が袖を吹き
返している」ことを伝へていて、それが過去の事象であることを示す
言葉や、風によって「吹き返される袖が今はない」ことを示唆する
言葉は、この歌の句のどこにも見当たらない。つまり、この「権威ある」
一般に通用している歌の解釈は、言語表現の一般的な常識を無視し、
万葉集において特徴的な「隠」を無視し、普通は「文法的な矛盾」と
して指摘されることすら「気にする必要はない」とする、無理に
無理を重ねた上で成立している。その解釈の妥当性を支えるもの
として、それが「権威あるもの」とされることと、したがって、
それを今さら変更することは人事的に都合が悪いということを
除けば、何か他に残るものがあるのか、大いに疑問に思はざるを得ない。

790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/17(土) 11:48:29.27 ID:EsHLBCBF.net
ご用向きを伺って、注文通りの解釈を言説として提示することは、
スピン・ドクターの仕事である。御用聞きとしての仕事に専念する
ことと、哲学的に思索することは、同時には両立しない。
よほど器用な才能のある人であれば、その表裏を使ひ分けることが
できるかもしれないが。

791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/17(土) 12:00:13.71 ID:EsHLBCBF.net
誤:特徴的な「隠」を無視し
正:特徴的な「喩」を無視し

「喩」と書き込もうとして、「ゆ」ではすぐに変換してくれないから、
「いんゆ(隠喩)」と入力して、「隠」を消そうと思っていたら、
間違って「喩」の方を消してしまった。

792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/17(土) 13:24:55.63 ID:EsHLBCBF.net
私は、スピン・ドクターではないが、賃金を支払ってもらう仕事に
ついては、私も御用聞きの役割に専念しようとすることは変わらない。
人は、組織的な分業においては、注文が、注文する側にとって
合理的であるか否かにかかわらず、御用聞きの役割に徹すること
を求められる。洋菓子店の店員であれば、客の注文通りに
間違えずにケーキを売ることが求められるのであって、
その客が糖尿病を患っていて、それを食べることがその客本人
の命にかかわるとしても知ったことではない。同じことは、
受験指導をする教師と受験の準備をする生徒についても言える。
教師の役割は、試験する側が正解とする答えを生徒が答案として
提出することができるようにすることであって、それとは
無関係に妥当な答えを見出すように促すことではない。
学校教育は、生徒を教師が客として扱ってサービスを提供する
ものではなく、御用聞きである教師が、生徒も御用聞きとして
の能力を発揮できるようになるように訓練するものである。

793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/17(土) 13:35:34.10 ID:EsHLBCBF.net
ただ、ここで忘れるべきでないのは、教へ導く側が、教え導かれる側に
御用聞きとしての有能さを競い合ふことを求め、教え導かれる側が
それに自主的に応じるなら、そのような組織化は全体として、必然的に
全体主義に向かうことである。哲学しようとする者にとって、その
状況が救い難いものに感じられるのは、他の誰もそのことに気づか
ないことではなく、ほとんど誰もがそのことに気づきながら、
まったくそれに抵抗しないばかりか、全体主義に向かうその傾向の
なかで、いかに自分の優位を確保することができるかだけに汲々と
していることである。

794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/17(土) 13:40:01.57 ID:EsHLBCBF.net
>>788
誤:「浜辺」に場所に
正:「浜辺」とされる場所に

795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/18(日) 10:59:19.72 ID:yAdwCTnz.net
哲学することの果たす役目、言い換へるなら、哲学をすることによって
求められる「かひ(効験)」とはどのようなものだろうか。それは、
上で考察した歌の解釈の事例を用ひても説明することができる。

私にとって、哲学することは、食事でパンを食べるか、米を
食べるかを選ぶといったような、選択肢の問題ではない。
例えば、上に引用した万葉集の歌の妥当な解釈を知ろうとして、
一般には通用するものの、私にはまるで整合性が欠けている
ようにしか見えない、「権威ある」解釈を示された場合、それが
私には「もつ(縺)れ」に感じられ、私自身がそれに絡まって
身動きがとれなくなってしまうのである。だから、私は、
自分が再び動けるようになるように、その「もつ(縺)れ」に
自分がどのように絡まっているのかを確かめて、そこから
脱け出そうとする。無論、万葉集の歌の事例というのは一例
であって、同様のことが他のあらゆる事例に関して当てはまる。
そのように縺れに絡まった状態から脱しようとすることが、
私にとっては哲学することであり、それは、私自身が自由に
動けるようにするには必要とされることであって、さもなければ
身動きがとれない状態を耐え忍ぶほかないことになる。

しかし、これは、その同じ事象がそもそも「もつ(縺)れ」で
あるとはまるで感じられず、一般に通用するものを
そのまま一般に通用するものとして、その受渡しをする
ことだけに専念している人々から見れば、とても非効率な
ことであり、何にそんなに拘っているのか意味不明だろう。
注文は、別に何か複雑に考える必要もなく、注文通りに
処理すればそれで済むのだから。

796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/18(日) 11:18:26.36 ID:yAdwCTnz.net
したがって、一般に、「もつ(縺)れ」がどのように縺れているのか
を解いて明らかにして、自分自身がその絡まりから脱してみせた
ところで、それが自分にとっては、哲学することの「かひ(効験)」を
示すことになったとしても、誰にも感謝されない。「もつ(縺)れ」
など認識せずに、そのまま注文どおりに受渡しをすればいいと
感じている人々にとっては、自分たちには無関係に無駄で無意味な
ことをしているに過ぎない。さらに悪いことには、「もつ(縺)れ」
は、意図的に仕掛けられて、そこに絡まるような個々人を選別して
排除するためのフィルターの役割をするように利用されている
可能性があるので、わざわざその「もつ(縺)れ」を解いて、
そこからどのようにすれば脱することができるかを実演して
みせるような者は、フィルターの選別機能を無効化する「余計な
まね」ばかりする邪魔者として罰せられることさえ考えられる。

797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/18(日) 11:49:54.11 ID:yAdwCTnz.net
それゆえ、私にとって、哲学することの果たす役目、哲学をすること
によって求められる「かひ(効験)」は、私自身が絡まってしまうこと
になる「もつ(縺)れ」が、どのようにもつれているのかを解き明かして、
そこから自分自身が脱して見せることまでであって、それを見て
どうするのかは、人それぞれの勝手であり、哲学するために
まずは「もつ(縺)れ」に絡みとられなければならないとか、
「もつ(縺)れ」に絡まっているなら、それを脱しなければならない
とか、真似をして「もつ(縺)れ」を解いてみせて、罰せられる
危険を冒してでも、そのフィルターとしての機能を無効化しなけれ
ばならないとか呼びかけることは、哲学することの果たすべき
役目であるとは、私は考へていない。その一方で、「もつ(縺)れ」
を「もつ(縺)れ」と認識しない人々は、「無駄で無意味なこと」に
時間と労力をまったく費やすことをせず、まさにそのことに
よって、私のように無駄で非効率なことばかりをやっている
愚か者に対して、既定で有利性を確保しているのだから、
私自身が「もつ(縺)れ」を解いて、その絡まりから脱することに
よってそのようの人々に対して優位性を得ることができたとしても、
それは「ぬ(抜)けが(駆)け」として非難されるべき筋合いのもの
ではない。無論、「もつ(縺)れ」をフィルターとして利用しようと
する側は、それを「寄生行為」と見なして罰しようとするだろうが。

798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/18(日) 13:11:01.10 ID:yAdwCTnz.net
誤:そのようの人々
正:そのような人々

799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/20(火) 10:08:15.89 ID:mwBqKOJd.net
「を(終)ふ」は、既に繰り返し指摘していたとおり、
>「空虚」を示すように用いられる「を」を再帰表現を
形成する「〜ふ」によって「ひっくり返す」ことによって、
「満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")をもたらす」
ことを意味する表現である<
が、「かへ(反)し」の「かへ(反)し」という操作を念頭に置くと、
次の万葉集の歌に詠まれた、一見、単なる地名に指しているように
見える「を(乎)ふ(布)の(能)うら(浦)」という表現も、
「『満腔(≒"fullness of the entirety"/"completion")を
もたらす』ことの『うら/ひっくり返し』」を意識したものである
ことがはっきりと分かる。ただし、この場合、「『かへ(反)し』」の
『かへ(反)し』」によって想起させようとしているのは、「満腔」
をひっくり返した、元の「空虚」ではなく、「をふのさき」、つまり、
「『を(終)ふ=満腔』の先」という表現の場合と同様の「飽くことの
ない理想の再生」である。ただし、その「理想の再生」は、
キリスト教の場合のように「来世」という「彼岸」に求められて
いるわけではない。

万葉集 第19巻 4187番
>思ふどち ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひを 見明らめ 心遣らむと
布勢の海に 小舟つら並め ま櫂掛け い漕ぎ廻れば
乎布の浦に 霞たなびき 垂姫に 藤波咲て 浜清く 白波騒き しくしくに
恋はまされど 今日のみに 飽き足らめやも
かくしこそ いや年のはに 春花の 茂き盛りに 秋の葉の もみたむ時に
あり通ひ 見つつ偲はめ この布勢の海を<
(出典 万葉集ナビ)

800 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/20(火) 10:09:54.12 ID:mwBqKOJd.net
万葉集 第18巻 4037番
乎敷乃佐吉 許藝多母等保里 比祢毛須尓 美等母安久倍伎 宇良尓安良奈久尓
[一云 伎美我等波須母]

乎布の崎漕ぎた廻りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに
[一云 君が問はすも]

801 :い(生)きるすべ(術)としての哲学/Philosophy as art of living:2022/12/20(火) 10:46:29.31 ID:mwBqKOJd.net
>哲学をすることによって求められる「かひ(効験)」は、私自身が
絡まってしまうことになる「もつ(縺)れ」が、どのようにもつれて
いるのかを解き明かして、そこから自分自身が脱して見せること<
であると説明したが、このことは、私にとって、哲学することが、
「もつ(縺)れ」を完全にほど(解)いて、それを解消してしまおうと
することを意味するわけではない。あくまでも、私みづから
(身づ柄/自ら)が、「もつ(縺)れ」に絡めとられて動けなくなる
ようなことがないように、その都度、「もつ(縺)れ方」を見極め
ながら、その「もつ(縺)れ」を自分がうまく利用できるように
しようとするだけのことだ。

いくら「もつ(縺)れ」をうまく脱しようとしたところで、
生きている限り、「もつ(縺)れ」を完全に免れた状態に至ること
など決してない。そのことは、「な(己/汝)みづからをし(知/領)れ」
というみこと(御言/命)が、日本語で考へるなら、「な(己/汝)みづから
(身づ柄/自ら)を『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』べし」という
格言として理解され、その「な(己/汝)みづから」も、何の絡み合ひ
もない純粋な状態の現れであるどころか、「みづから」が「な(己/汝)」
の「いと(絲)を(惜)しさ」により「な(綯)はれ」てある「な(己/汝)」/
《entrelacement》/»Verflechtung«であること、即ち、云はば、
「絡まりの原初」であることからもはっきりしている。

802 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/20(火) 11:15:27.68 ID:mwBqKOJd.net
万葉集の歌に詠まれる「すが(菅)のね(根/祢)」という表現は、漢語も
利用するなら、「至誠のねが(願)ひ」と言い換えることができる
だろう。そして、「すが(菅)のね(根/祢)」だけであれば、その
「ねが(願)ひ」は、「いのち(命)を(終)ふまで求められる至誠」を
想起させる。しかし、「を(終)ふのさき(先)」、「を(終)ふのうら(裏)」
が理想として示すのは、「いのち(命)をを(終)へた後の来世/彼岸に
おける救済」ではない。飽くことなく求められているのは、
「『な(己/汝)』の『いと(絲)を(惜)しさ』により『な(綯)はれ』て
あること」であり、またそれが、「すが(菅)のね(根/祢)の
『ねもこ(懇)ろ・ころ』」として表現される「生きることの至情」
でもある。

803 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/20(火) 11:45:59.58 ID:mwBqKOJd.net
ところで、また似非数学的なことを言はせてもらえば、
日本語の「(〜する)つもり」の「つもり」は、指数関数的な表現である
ように思へる。行為としての「つもり」そのものは単に累進的だが、
「つもり」の効果としてもたらされる結果の方は、「そんな『つもり』
じゃなかったのに」という場合のように「つもり」を指数とする指数関数の
結果のように「つもり」との関係において認識される。

804 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/20(火) 11:50:13.43 ID:mwBqKOJd.net
万葉集の歌を解釈するときにも、そこにおける句において用ひられる
言語表現や発音が、どういう「つもり」で使はれているのかに
注目することが、その歌にどのような効果が認められているのか
を知るのに大切ではないだろうか。

805 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/20(火) 11:57:25.51 ID:mwBqKOJd.net
万葉集 第13巻 3255番
>従古 言續来口 戀為者 不安物登 玉緒之 継而者雖云
處女等之 心乎胡粉 其将知 因之無者 夏麻引 命<方>貯
借薦之 心文小竹荷 人不知 本名曽戀流 氣之緒丹四天

>古ゆ 言ひ継ぎけらく 恋すれば 苦しきものと 玉の緒の 継ぎては言へど
娘子らが 心を知らに そを知らむ よしのなければ 夏麻引く 命かたまけ
刈り薦の 心もしのに 人知れず もとなぞ恋ふる 息の緒にして

万葉集 第20巻 4484番
>佐久波奈波 宇都呂布等伎安里 安之比奇乃 夜麻須我乃祢之 奈我久波安利家里

>咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり
さくはなは うつろふときあり あしひきの やますがのねし ながくはありけり
(出典 万葉集ナビ)

806 :dust to dust:2022/12/22(木) 10:37:36.46 ID:a/z7IFsE.net
「塵も積もれば山となる」
物象化による解釈の問題は、「塵」と「山」にしか注目することがなく、
「つも(積)り」を無視することだ。入念に「塵」のひとつひとつを
確認して、数え、正確に「山」の高さや周囲長を測定すれば、
それらの「塵」と「山」については、詳しく知ることができる
だろう。しかし、そのとき、その「山をなす」のが「塵」の
「つ(積)もり」であることを無視したなら、その詳しい知識は、
いったいどのような役に立つというのだろうか。

一つ一つの塵にばかり目が行って、いつのまにかそれらが
「つ(積)もりにつ(積)もって」山となっていることに急に
気づき、その意外な大きさに驚くこともあるだろう。
しかし、それは、「そこに山がある」ことに驚いているの
ではなく、それまで無視していた「つ(積)もり」が
「山となって現れた」ことに初めて気づいたことの意外性
なのだ。

807 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 10:57:36.87 ID:a/z7IFsE.net
自分のした行為の結果について、「そんな『つもり』では
なかったのに」という場合も同様である。自分は、自分の意中のこと
を何かをしている「つもり」になっている。しかし、出来事は、
いつでも、そんな「つもり」を超えて現出する。そこで、
その出来事が好ましくないものであったとき、自分がその結果の
責任を負はされるのを回避するために、「そんな『つもり』では
なかった」と言い訳して、出来事の現出と自分の「つもり」の
因果関係を否定しようとする。しかし、逆に、出来事が予想を
超えて、あるいは想定外に好ましいものであったとき、
「自分さえその『つもり』になれば、また同様のことが出来る
かもしれない」という期待が生じる。ただし、出来事は、
必ずしもその期待に応えてくれるわけではない。では、
「また同様のことが出来る」ためには、何が足りないのか。

808 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 11:24:44.23 ID:a/z7IFsE.net
好ましくない結果について、「そんな『つもり』ではなかった」と言い訳する
とき、無視しているのは、自分の意中にはなかったものの、自分の意中の
「つもり」と相俟ってその結果をもたらすことになった「つ(積)もり」
であるように(例えば、自分の歩行が雪崩を引き起こした場合の雪の
『つ(積)もり』を想像してみるといい)、好ましくない結果を出来事として
再現しようとする場合にも、自分がその「つもり」になって同様のことを
しようとしているのに、それが出来ないとすれば、足りないのはやはり、
以前にその結果がもたらされたときに自分の意中の「つもり」と相俟って
その結果をもたらすことになった「つ(積)もり」である。その足りない
「つ(積)もり」を見極めることができ、それを再び自分が利用すること
ができるなら、以前と同様の好ましい結果を得ることができる見込みも
高まる(好ましくない結果を繰り返すのを避けようとする場合も同様
である)。それが、経験を通じて学ぶということだろう。

809 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 11:44:45.51 ID:a/z7IFsE.net
万葉集 第1巻 28番
>春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
>春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山
>はるすぎて なつきたるらし しろたへの ころもほしたり あめのかぐやま

これは、持統天皇が詠んだとされる有名な歌で、そこに詠まれた情景が
どのようなものであるのかいろいろ解釈があるようであるが、私には、
そこで用ひられている句からは、詠み人自らが「かむあ(神上)がる」
天孫の視点を借りて、別れを詠んだものであるように感じられる。
その場合、「しろたへのころも」は、それまで涙に濡れていた
「白栲の衣」であるとともに、空に「『しろ(白)』くよこ(横)『たは』」
る雲の隠喩であると解釈されることになるだろう。そして、
「夏来るらし(なつきたるらし)」の「な」は、「己(な)」の掛詞である。

810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 11:54:12.55 ID:a/z7IFsE.net
万葉集 第19巻 4180番
>春過而 夏来向者 足桧木乃 山呼等余米 左夜中尓 鳴霍公鳥 始音乎
聞婆奈都可之 菖蒲 花橘乎 貫交 可頭良久麻<泥>尓
里響 喧渡礼騰母 尚之努波由

>春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を
聞けばなつかし あやめぐさ 花橘を 貫き交へ かづらくまでに
里響め 鳴き渡れども なほし偲はゆ

>はるすぎて 『な』つきむかへば あしひきの やまよびとよめ さよなかに なくほととぎす
はつこゑを きけば『な』つかし あやめぐさ は『な』たちば『な』を ぬきまじへ かづらくまでに
さととよめ なきわたれども 『な』ほししのはゆ

例えば、これは、大伴家持が詠んだ歌とされるが、この歌で繰り返し用ひられる
「な」の発音、特に『』で示した「な」について、それが「己/汝(な)」の掛詞
と認識されることを作者が意識しなかったとは、私には到底思へない。

811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 12:05:08.47 ID:a/z7IFsE.net
己とその親密な相手としての汝を指し示す「な(己/汝)」、
空虚を指し示す呼応の声である「を」、および
再帰表現を形成する「は・ひ・『ふ』・へ・ほ」
の用法を意識するだけで、万葉集の歌の解釈には根本的な変化が生じる
だろうと私は思っている。

812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 15:37:30.57 ID:a/z7IFsE.net
ニーチェの著作のドイツ語原文を眺めていたら、ここで説明したのと
まったく同じ隠喩を用ひていることに気づいた。

>>644
>se pareba boves alba pratalia araba
et albo versoio teneba et negro semen seminaba
牛を駆って白い草地を耕していた。
白い犂をとって黒い種をまいていた。<

>>648
>この歌を目にしてただちに私は、農耕具としての「犂」を指す
この"versoio"が、「ただ(正)しさ」/"recto"とその「かへ(反)し」/
"verso"の関係における「かへ(反)し」/"verso"の方に対応することから、
"versoio"/「犂」が「つち(土/地)」を「かへ(反)す道具」であることを
想起して、日本語の「たがや(耕)す」という表現も、「た・かへ(反)す」
という解釈に結びついているはずだと推論した。そして、そのことが、
辞書を引くことによってすぐに確かめられたのである。すると、
引用される「ヴェローナの詩歌」における"araba"/「耕していた」
という表現も、自然と、そのように「つち(土/地)」を「かへ(反)す」
作用としてイメージされることになる。<

813 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 15:45:33.62 ID:a/z7IFsE.net
>Die guten Menschen jeder Zeit sind die, welche die alten
Gedanken in die Tiefe graben und mit ihnen Frucht tragen,
die Ackerbauer des Geistes. Aber jenes Land wird endlich
ausgenützt, und immer wieder muß die Pflugschar des Bösen kommen.<

Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft"
4. Das Arterhaltende
(出典 zeno.org/nid/20009250522)

このようにして仮説のネットワークは、事前の知識もなしに勝手につながり、
広がってゆくのである。

814 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 15:50:10.12 ID:a/z7IFsE.net
この場合も、ニーチェのドイツ語の表現が、日本語を想起させるという
私の感覚もそれなりに根拠のあるものであることが確かめられたことになる。

815 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/22(木) 22:25:21.54 ID:a/z7IFsE.net
大事なところで書き間違えているから、文意が分かりにくくなってしまった。

>>808
誤:好ましくない結果を出来事として再現しようとする場合にも
正:好ましい結果を出来事として再現しようとする場合にも

816 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 09:54:26.06 ID:TKUpvIFk.net
>「か」は、反射的な作用を表すように用いられ、「明日香(あすか)」の
「香(か)」であれ、血を吸う「蚊(か)」であれ、表現しているのは、
軽く触れて離れる様態、英語にするなら、"touch and go"だろう<

日本語の「か」の発音の用法について、以前からこのように述べてきた。
このことの妥当性は、例えば、万葉集の次のような歌を見ても確かめる
ことができる。(以下、出典 万葉集ナビ)

万葉集 第11巻 2642番
燈之 陰尓蚊蛾欲布 虚蝉之 妹蛾咲状思 面影尓所見
燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ
ともしびの かげにかがよふ うつせみの いもがゑまひし おもかげにみゆ

万葉集 第6巻 951番
見渡者 近物可良 石隠 加我欲布珠乎 不取不巳
見わたせば近きものから岩隠りかがよふ玉を取らずはやまじ
みわたせば ちかきものから いはがくり かがよふたまを とらずはやまじ

817 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 10:13:05.96 ID:TKUpvIFk.net
無論、引用した最初の歌で用ひられる「蚊蛾欲布(かがよふ)」という
表記における「蚊(か)」は、「蛾(が)」がその後に続くことから、
意図的に昆虫の「蚊(か)」を想起させるように使はれている。
しかし、他の歌において、「蚊(か)」が疑問詞の「か」に
当てられている場合など、昆虫としての「蚊(か)」を想起させる
意図とは無関係であるように見える事例もある。だが、そこで、
後者の、この疑問詞の「か」に当てられた「蚊(か)」は、
たまたま発音が重なっていたので、臨時の間に合はせのために
使っただけだと結論付けるのは正しくなく、ひるがへって、
「蚊蛾欲布(かがよふ)」の「蚊(か)」も、専ら、昆虫としての
「蚊(か)」を想起させる意図で使はれているとするのも
正しくない。ここで問はれなければならないのは、「かがよふ」
の「か」と昆虫の「か(蚊)」と疑問詞として用いられる「〜か」
には、どのような共通性があると考へられるかである。
言ふまでもなく、その問ひに対する私の応へが、既に示した
とおり、「軽く触れて離れる様態、英語にするなら、
"touch and go"」である。

818 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 10:29:50.18 ID:TKUpvIFk.net
「か」の発音を表記するのに用ひられた万葉仮名には、「蚊」の他にも、
「加」もあれば、「可」もあれば、「日」もあり、「か」の発音に
「蚊」の漢字を選んで当てた人が、これらの漢字を知らなかったなど
ということはあり得ない。それでも、「か」に「蚊」を当てることを
選べば、それに伴って物象化された存在者としての昆虫の「蚊」の
イメージが想起されてしまうとおり、代わりに「加」、「可」、「日」、
その他の漢字を「か」に当てるために選択したところで、やはり、
それぞれの漢字の用法に伴うイメージ(特に「可」の場合では、漢語
としての機能)の想起が生じてしまうことになるだろう。
漢字による言葉の発音の表記に、そのようにして意図せずに付随して
しまうイメージの想起を回避することができるように、「ひらがな」が
開発されたわけだが、それとともに、漢字による表記は、専ら、
その漢字を選択することによって想起される特定の物象化された
イメージを伝へるために用いられることになった。

819 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 10:46:05.41 ID:TKUpvIFk.net
ここで生じる反転を見逃すと、万葉集の歌で、例えば、疑問詞の「か」
を表記するのに、なぜわざわざ「蚊」という漢字が選択されている事例
が見られるのか、その理由がさっぱり不明となってしまうだろう。
それは、昆虫の「蚊」が日本語ではなぜ、「か」と呼ばれるのか不明
になることと軌を一にしている。しかし、「蚊」が「か」と呼ばれる
のは、そもそも、その動きの様態が「軽く触れて離れる様態、英語に
するなら、"touch and go"」を特徴とするものとイメージされたから
であり、疑問詞の「か」に「蚊」の漢字が当てられるのも、昆虫と
して物象化された存在者を想起させるためではなく、疑問詞の働き
がそのような「軽く触れて離れる様態」としてイメージされて捉え
られたからだろう。日本語として用ひられる「可」が、中国語の
漢字として使はれる用法および発音と共通しているとしても、
日本語の「か」は、「可」の漢字が当てられる場合も含めて、
そのようにメタ言語的に捉えかへされているのであり、「蚊」
の漢字は、その「メタ言語的な捉えかへしがもたらす様態
のイメージ」の「トークン」/"token"(これは、記号論で用ひ
られる用語である)として利用されているのだ。

820 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 11:42:35.53 ID:TKUpvIFk.net
以上とはまったく関係のない話だが、この頃、観ているブラジル・
ポルトガル語のTVドラマで、"xucra"という形容詞が使はれる場面が
頻繁に出てきて、意味は文脈から容易に理解できたのだが、ラテン語
系統の表現でないことはすぐに推測されたので、どういう表現か検索
してみた。すると、なんとケチュア語からの借用語であるとされて
いるらしい。ラテン・アメリカのスペイン語に"chucaro/a"という
形容詞があり、「(動物が)飼い慣らされていない」という意味で
用ひられていて、これに対応するポルトガル語である。
しかし、"xucro/a"という表現が用ひられるのは、ブラジルでは、
特にミナスジェライス州とリオグランデ・ド・スル州であるとされ、
これがとても不思議に思へる。というのも、この両州は、ブラジルの
東海岸地域にあるからだ。確かにリオグランデ・ド・スル州の
方は、スペイン語が用いられるパラグアイ、ウルグアイと国境を
接しているが、これらの国々の原住民の言語はケチュア語ではなく、
ケチュア語は主として南米大陸の西側のアンデス山脈を中心とした
原住民の言語である。この表現がブラジルの東海岸に近い地域で
使はれるようになったのは、ラテンアメリカのスペイン語を介して
だろうと思うが、それにしても、この形容詞に対応するような
表現は、ラテン語系の言語でも容易に思ひつくので、なぜ、
現地の住民の言葉でも、アフリカ奴隷のもたらした語彙でもなく、
なぜケチュア語の表現が借用されることになったのか、どうも
その流れが、私にはまったく見えない。

>Xucro es el animal que no ha sido domesticado ,
el que todavía es salvaje.
El término forma parte del lenguaje del hombre rural,
utilizado principalmente en regiones con una fuerte presencia rural,
como los estados de Rio Grande Sul y Minas Gerais.<
(出典 conceptodefinicion.net/xucro/)

821 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 11:56:54.26 ID:TKUpvIFk.net
私は、すぐにそういう「どうでもいいこと」がとても気になってしまう
たち(性質)だから、いつも邪魔者扱いされて、嫌がられるのだろうが、
私にしてみれば、そのように不思議に思へることに説明の必要性を
まったく感じないことの方が、「分からない」のだ。だが、世間では
一般に、そういう性格のことを「分からず屋」と呼ぶのだろう。

822 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 15:44:37.26 ID:TKUpvIFk.net
私の自己認識では、私ほど日常的に詳細に自分の考へを、その結論だけ
でなく、どのように考へを巡らせたかまで含めて、何の見返りもなく
ただ垂れ流している人間は滅多にいないと思っているのだが(実際、
ソーシャル・メディアで日常的に発言している多くは、自分の意見
を表明しているだけか、自著の宣伝や、自分の社会的な地位の保持
に寄与する活動をしているか、あるいは広告収入という見返りのある
活動をしているだろう)、それでも、「何を考えているのか分からない」
というのであれば、私には、何をどう考えてほしいのか意味不明である。
だいたい、「何かをどのようにか要望されるように考える」などという
ことは、「考へる」ことですらないだろう。

823 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 23:04:23.22 ID:TKUpvIFk.net
英語には、"You can't have your cake and eat it"という、比較的
使われることの多い諺がある。英語においても、あまり明快な表現
であるとは感じられないが(したがって、この諺の表現の論理性に
ケチをつける英語を母語とする人も多い)、「ケーキを食べて
しまいながら、そのケーキをとっておくことはできない」といった
ようなことを意味しているものと一般に理解される。したがって、
一般には、「二者択一でどちらかを選ぶしかなく、どちらかを
選んだなら、選ばなかった方の選択肢は諦めるしかない」ことを
納得させるための喩えとして用いられる。したがって、「べき論」
の好きな人々は、この諺を、「二者択一でどちらかを選ばなければ
ならないなら、どちらを選ぶかきっぱりと決めるべきだ」という
教へとして理解するのではないだろうか。しかし、ここで興味深い
事実がある。それは、日本語を母語としているか否かにかかわらず、
人には普通、誰にでも「を(惜)し」という感覚もあり、自分自身に
無理を強いるのでない限り、人はその「を(惜)し」という感覚も
大切にしているということである。そして、その「を(惜)し」と
いう感覚は、二者択一のうちいずれを選んでも生じるのであるから、
本来的に割り切れず、いずれにしてもキアスム的に反転して
現れるのである。

824 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 23:20:03.52 ID:TKUpvIFk.net
「キアスム的に反転して現れる」というのは、ケーキの喩えをそのまま
利用して説明するなら、ケーキをまだとっておくことを選択した場合
には、「せっかくケーキが自分のものとして目の前にあるのに、
それを食べられないのは『を(惜)しい』」という感覚が生じ、逆に
ケーキを今、食べることを選択した場合には、「せっかくの大切な
ケーキが自分のものとしてあったのに、それを食べてしまって
もうなくなってしまったのが『を(惜)しい』」という感覚が生じる
可能性がある、ということだ。そして、「べき論」が否定しようと
するのは、その「を(惜)しい」という感覚に積極的な価値を認める
ことである。

825 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 23:31:42.90 ID:TKUpvIFk.net
ケーキの喩えでは、ケーキは食事として必要不可欠なものではないので、
いずれにしても「自制心を働かせるべきだ」という思ひが暗黙の前提
としてあるので、このいずれの場合の「を(惜)し」にも積極的な価値
を認めることは、単に幼稚であるように感じられるかもしれない。
実際、そのような幼稚を自覚させるためにケーキが喩えに用ひられて
いると考へることもできるだろう。では、個人の資産管理を目的
とする株式市場などへの金融投資の場合にはどうだろうか。

826 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/23(金) 23:52:05.57 ID:TKUpvIFk.net
老後のために年金だけでは資金が不足する見込みが高いので、
個人も銀行預金などで貯蓄するだけでなく、株式市場に積極的に
投資して資産運用をして資産を増やすようにした方がよい、という
呼びかけを最近、よく耳にする。確かに、今の銀行預金の金利では、
物価上昇に大きく負けるので、個人が銀行口座に自分の金融資産
を預金しているだけでは、年月の経過につれてどんどんその資産
価値が損なはれることになる。今、現状で株式や債券に投資する
だけの余裕資金がある個人にとっては、それは、「を(惜)しい」
と感じられることだろう。物価上昇に対する預金の実質的な
目減りによって、将来、老後に生活するための資金が不足する
ことが確実であると思へるなら、なおさらのことである。

827 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 00:06:16.06 ID:BTM64QLH.net
では、その余裕資金を株式市場に投資した場合にはどうだろうか。
買った銘柄の株価が買値より大きく値上がりし、預金金利を大きく
上回る配当利率で毎年、確実に配当金が入ってくるなら、当然、
「を(惜)しい」という感覚は生じない。しかし、現実の投資では、
なかなかそううまくは行かない。買った銘柄の株価が暴落し、
無配当、または含み損には到底、及ばない低配当のまま長年、
株価が低迷をつづけることや、さらに悪いことには、企業が
経営破綻して、投資した資金が失はれてしまうことも決して
珍しくない。すると、リスクを伴う株式市場なんかに投資
しなければ、こんなことにはならなかったし、預金の目減り
の方がはるかにましだったということで、投資によって
損なはれた資産価値が「を(惜)しまれる」ことになる。

828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 00:23:58.55 ID:BTM64QLH.net
しかし、さらに面白いのは、「を(惜)し」という感覚は、資産運用に
それなりに成功していたとしても生じることだ。それは、例えば、
買った銘柄の株価が上昇し、それなりに配当があっても、別の
銘柄に投資していれば、もっと値上がりして、高配当が得られた
のにという場合にも生じるし、まだ投資に回せる余裕資金がある
のに、それを手元に残していたために、株価の上昇や配当収入を
得る機会を損ねたという場合にも生じるし、また逆に、手元の
余裕資金をすべて投資してしまったために、買った銘柄の株価
が多少は上昇し、配当収入も得られているものの、もはや
いくら絶好の投資機会に見える相場の動きが訪れても、投資
できる資金が手元にないのが「を(惜)しい」という感覚としても
生じる。つまり、いずれの選択をしようと、「を(惜)しい」という
感覚が生じることは避けられないのであり、また、その感覚は、
それが割り切れないものであるからといって、無視された方が
よいものであるわけでもないのだ。なぜなら、この、いずれに
しても生じる「を(惜)し」という感覚は、さまざまな選択をとる
ときにバランスをとる積極的な役割を担っているからである。

829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 00:37:38.67 ID:BTM64QLH.net
これは別に資産運用に限ったことではない。ここに書込みをすること
についても同じである。こんなことを長々と書き込むことに時間と労力
を無駄につぎ込んでいなければ、それをもっとはるかに有意義なことに
使ふことができたはずだという思ひが「を(惜)しさ」として生じ、
逆に、せっかく何か思ひついて考へていたのに、そのときにそれを
メモとして書き込まなかったばかりに、何をどう考へていたのか
忘れてしまったという思ひも「を(惜)しさ」として生じる。
大切なのは、「を(惜)しさ」が生じないようにあらかじめ用心する
ことではなく、特定の「を(惜)しさ」に固執して囚はれないように
することである。

830 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 11:01:21.14 ID:BTM64QLH.net
与へられた状況に応じてどのように振る舞ふことを選択するにせよ、
いずれにしても「を(惜)し」という感覚は生じる。その感覚に
いつまでも固執することによって、その後の振る舞ひの選択の
自由度が大きく制約されることになり、しかも、そのことによって
生じる様々な別の「を(惜)しさ」を自覚することができなくなって
しまうことを、一般に、「未練がましい」と言う。

しかし、「を(惜)しさ」は、特定の選択をした結果なのだから、
もはや仕方のないものとして速やかに忘れ去られるべきものである
わけない。「を(惜)しさ」は、それを「おぼ(覚)へる」ことが望まし
くないものであるであるどころか、むしろ、それを「おぼ(覚)へる」
のを大切にすることこそが、生態系を形成して、保ちつづける基礎
であるとすら言い換へることができる。

ここで、「を(惜)しさをおぼ(覚)へるのを大切にすること」を「節約」
もしくは「経済」などと言い換へるならば、それを思想として応用する
ことも可能になるだろう。しかし、そのような言い換へによって
議論がより高尚になるなどと錯覚してしまうと、哲学は、たちまちに
思想に堕することになり、より根本的な思索の方が、多くの暗黙の
前提に囚われた応用によって制約を受けることになる。

831 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 11:02:18.34 ID:BTM64QLH.net
誤:忘れ去られるべきものであるわけない。
正:忘れ去られるべきものであるわけではない。

832 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 11:19:21.45 ID:BTM64QLH.net
具体的に簡単な例を考えてみよう。
鳥その他の動物が、いま食べるわけでもない餌を蓄えるのは何のため
だろうか。せっかく今、餌が見つかるのに、それを現状で
消費しないとしても、放置しておけば無くなって、利用できなく
なってしまうことを、「を(惜)しさ」として「身をもって知っている」
からだろう。そこで、餌を見つけて、それを蓄える。しかし、
蓄えるといっても、ただ一ヶ所に集めておくだけでは、他の個体に
奪はれてしまう。だから、そのような「を(惜)しい」ことにならない
ように、他の個体に見つからないように餌を隠すのである。

833 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 11:39:54.36 ID:BTM64QLH.net
ところで、人は、古代から、蜜蜂が巣に貯えるために集めてくる蜂蜜を、
貴重な食料として探し求めて、消費してきた。蜜蜂が自分たちのために
せっかく集めて巣に貯えた餌を横取りして奪ってしまうのである。
森の中で移動しながら、狩猟採集と焼き畑で生活しているのであれば、
移動先の周辺でその都度、蜂蜜を得るために蜜蜂の巣を探すことになり、
見つかった蜜蜂の巣は、蜂蜜を消費するためにその都度、壊される。

だが、農業で定住するようになると、そのようにして、居住地域の周辺
見つかった蜜蜂の巣を、蜂蜜の消費のためにその都度、壊していると、
新たな蜜蜂の巣は、付近ではますます見つけることが困難になる。
せっかく蜜蜂が、巣に蜂蜜を貯えて、それを横取りできるのに、
巣そのものをその都度、壊してしまうのは、「を(惜)しい」。だから、
人工の巣を作って、そこに蜜蜂が住み着くように工夫し、蜂蜜を
消費するたびに巣を壊して蜜蜂を追い払ってしまう必要なしに、
蜜蜂が花の蜜を集めてくる習性だけを利用できるように工夫する。

牧畜に関しても同様である。そのようにして、農耕に使える動物は、
畑を耕したり、重い荷物を運ぶための力として利用されるようになり、
牧畜で育てる動物が、農耕でせっかく栽培している植物を荒らして
しまい、「を(惜)しい」思ひをすることがないように、農耕するには
向かないが、勝手に動物の餌になる植物が育っていて、利用せずに
放置しておくのは「を(惜)しい」野山が、放牧地として利用される
ことになる。

834 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 11:55:31.03 ID:BTM64QLH.net
私が、こういう類の当たり前のことを言いつづけると、なぜか激怒し、
そのようなことを「敢へて」述べようとする私の個人的な人格も
含め、私のことを叱責せずにいられない人々を、私は長年、相手に
してきた。私には、なぜ、このような私にはごく当たり前のこと
に思へる発言に対して、そのように怒りを覚えるのか、それに
私の人格がどう関係するのか、長いこと、まったく理解不能だった。
しかし、今から振り返ってみれば、そのような人々には、
「塵も積もれば山となる」 という諺の、「塵」と「山」しか
目に入らないのではないかと思へる。

一方で、私が指摘することの一つ一つが、誰でもが知っている
当たり前のことなので、それが、つまらない「塵」をわざわざ
示しているようにしか感じられず、他方で、誰の目にもそこに
あることが明らかな「山」が「そこにある」ことも、誰も
否定しようと思ひつくことすらない事実なので、私が
「塵も積もれば山となる」ことに注意を向けようとしているのに、
私が、一方で、「何の意味もない塵ばかりわざわざ見せる」ことに
腹を立て、他方で、私が、「そこに山があるという誰にでも
明白な事実を否定しようとしている」という、私にとっては
意味不明な非難を向けて、それを私の人格の歪みの根拠として
いるのではないかと思へる。

835 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 12:10:04.59 ID:BTM64QLH.net
ニーチェは、哲学する者のことを、
»die gebornen geschwornen eifersüchtigen Freunde der Einsamkeit«
と呼んだが、この場合の»Eifersucht«は、日本語で考へるなら、
「『わび/さび』を『を(惜)しむ』」気持ちでもあるだろう。

836 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/24(土) 13:19:10.56 ID:BdoQ1GNH.net
【東京都教育委員会】 ファイザーの執行役員を起用
://mevius.5ch.net/test/read.cgi/baby/1662167092/l50
https://o.5ch.net/202h8.png

837 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/25(日) 11:05:09.81 ID:9RY6cGdv.net
「『わび/さび』を『を(惜)しむ』」気持ちは、
「『わび/さび』が生じるのを『を(惜)しむ』」気持ちと、
「『わび/さび』が消えるのを『を(惜)しむ』」気持ちのいずれでもあり得るが、
同時にその両方であることはなく、
また、排他的にそのいずれかであることもない。

838 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/25(日) 18:14:51.20 ID:9RY6cGdv.net
万葉集の表記法には、疑問詞の「〜か」に「蚊」を当てている場合が
見られるなど、現代の日本語とは漢字の用法が大きく異なるため、
現代の日本語の表記に慣れた人から見れば、奇妙な当て字ばかりして
いるような印象を受ける場合が少なくなくないが、それでも、
「か」の発音に「蚊」が当てられている事例について上に説明した
とおり、何も考へずに場当たり的に発音に当てる漢字を選択して
いるわけではない。それどころか、むしろ、現代の日本語の表記
における漢字の当て字(漢字の「訓読み」は、いずれにしても当て字
である)よりもずっと合理的で汎用性の高い表記さえ見られる。
そのような事例が、例えば、現代の日本語では、「躓く」と表記
される「つまづく」に当てられた「爪(つま)衝(づく)」である。
これについて、また後で説明する。

839 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/25(日) 22:17:44.26 ID:9RY6cGdv.net
万葉集 第7巻 1191番
>妹門 出入乃河之 瀬速見 吾馬爪衝 家思良下
>妹が門出入の川の瀬を早み我が馬つまづく家思ふらしも
(万葉集ナビ)

この歌では、現代の日本語では「躓く」と表記されることに
なっている「つまづく」という表現に「爪衝」という漢字を当てているが、
この表記は、「爪(つま)衝(づ)く」と送り仮名さえ振れば、「爪(つま)」も、
「衝(つ)く」もそのまま現代の日本語としても通用しているのだから、
単に現代の日本語では標準として認められていないというだけで、極めて
適切な表現解釈を反映していることが誰の目にも明らかだろう。
馬の場合は、脚先が「ひづめ」で覆われているので、
「爪(つめ)」を障害物に「衝(つ)く」ことになるが、人の場合では、
「爪先(つまさき)」を「衝(つ)く」ことになるという違いがあるだけだ。

840 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/25(日) 22:44:59.42 ID:9RY6cGdv.net
ここで「衝」の漢字をWiktionaryで確認してみると、想定される
中国語としての中古音は、"Middle Chinese: /t͡ɕʰɨoŋ/"であり、
この発音は、現代の日本語では「つ(突)く」と表記される場合の用法も
含めて(例えば、万葉集 第19巻 4218番の「鮪衝(しびつく)」の事例)、
そのまま日本語の「『つ(衝/突)』く」の発音として流用されている
可能性が高いだろう。

さらに注目されるのは、「衝」が「衝突」という表現に用ひられること
を考へてみればすぐに分かるとおり、ドイツ語であれば、»stoßen«
という動詞にそのまま対応していることである。例えば、
»sich den Zeh an etw stoßen«という表現がいかに、日本語の
「爪(つま)衝(づ)く」に似ているかを考へてみても、このことは
すぐに納得がいくのではないだろうか。
(参考 dict.cc/?s=sich+den+Zeh+an+etw+stoßen)
また、発音と語源は»stoßen«とは異なるものの、「つ(衝/突)く」
という意味で用いられる場合に英語でそれに対応する"shove"の
語源的な説明の記述も、「つ(衝/突)く」という表現をメタ言語的に
うまく記述するための参考になるだろう。
>"push along by direct, continuous strength; attempt to move
by pushing," Middle English shouven, from Old English scufan,
sceofan "push away, thrust, push with violence"<
(出典 etymonline.com/search?q=shove)

841 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/25(日) 22:56:10.00 ID:9RY6cGdv.net
また、万葉集の「衝」の用法には、「氣(いき)衝(づき)」というのもあり、
この表現は、すぐに分かるとおり、「息(いき)衝(づ)き」と書き換へる
ことができ、現代の日本語では、「ため息をついて」と表現されるだろう。

万葉集 第2巻 210番
夜者裳(よるはも) 氣衝明之(いきづきあかし) 嘆友(なげけども)
(万葉集ナビ参照)

842 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/25(日) 23:14:51.70 ID:9RY6cGdv.net
ここでさらに面白いのは、日本語の古語の「『つ(衝/突)』き」に
(したがって、中国語としての「衝(/t͡ɕʰɨoŋ/)」にも)ドイツ語の»stoßen«
の用法がうまく対応するだけでなく(例えば、»den Atem aus|stoßen«
\息を吐き出す、出典 プログレッシブ 独和辞典)、その発音まで
互いに似ていることである。

そこで、Wiktionaryで»stoßen«の語源説明を参照すると、印欧祖語
として想定されている形は、"*(s)tew- (“to push, hit”)"である。
en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/(s)tewd-

この想定される発音と用法から、「息(いき)」に関連してすぐに連想される
のが、フランス語で「咳をする」ことを意味する《tousser》という動詞
であるが、こちらの語源説明を辿ってみると、ラテン語の"tussis"
を経由して、思った通りやはり、印欧祖語として同一の語源が想定されている。
>From Proto-Italic *tussis, from Proto-Indo-European *tud-ti-s (“cough”),
from *(s)tewd-, from *(s)tew- (“to push, hit”).<
en.wiktionary.org/wiki/tussis#Latin

843 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/25(日) 23:19:22.12 ID:9RY6cGdv.net
説明が長くなったが、以上のことから、現代の日本語の「躓く」という
表記と比べても、万葉集の歌に見られる「『爪(つま)衝(づ)』く」という
表記が、いかに合理的で、汎用性が高い(英語、ドイツ語、フランス語、
ラテン語などにおける表現と容易に関連付けることができるという意味で)
か明白だろう。

844 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/26(月) 09:39:22.21 ID:fa17dXH/.net
『エルピス —希望、あるいは災い—』というテレビ・ドラマの最終話が
今日、放送されるそうだ。哲学をするのに、西洋の主要な言語と比べて、
日本語がいかに好都合な言葉であるかは、このような例を利用しても
簡単に説明することができる。

このドラマの題名となっている「エルピス」とは、ギリシャ語の
"ἐλπίς"であるが、これは神からの贈り物である「パンドーラーの甕」を
開けたとき、あらゆる災厄が飛び出してきたが、その甕に最後に
残っていたのが"ἐλπίς"であるとされ、一般に「希望」を意味する
ものと解釈されることが多いが、表現としては「期待されるもの」
を意味して、何が期待されるのかはっきりしないため、「災厄」
であると解釈されることもある。

そこで、この"ἐλπίς"に対応する日本語の古語の表現はどのような
ものになるだろうかと考へてみると、それを、万葉集の歌に
おいて探すなら、「氣之緒(いきのを)」になるだろうと私は思ふ。

845 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/26(月) 09:58:17.76 ID:fa17dXH/.net
なぜそのようなことが言えるのだろうか。
「氣之緒(いきのを)」の「緒(を)」は、既に繰り返し説明するとおり、
「〜を」という用法に見られる「空虚/欠如」を指し示す「を」を
物象化して、何かをつなぎとめるための「緒(を)」に代表させる
隠喩であり、この「を」は、さそ(誘)ひの呼びかけとしても、
それに対する応答としても用いられ、さらに「を(惜)し」の「を」
としても用ひられる。また、この「を」が「〜を」として、
ニーチェの、「力への意志」と訳されることの多い»Wille zur Macht«
という表現における»Wille«に、つまり、「意」に対応することも
既に指摘した。哲学をするのに日本語の「を」がとても好都合
なのは、それが「緒(を)」として物象化されて頻繁に用ひられて
きたにしても、その物象化された表現の方が「を」の用法に
先立つと感じられるようにはならないことだ。これに対して、
»Wille«であれば、ただちにそちらの方が、誰か(主体)の
何か(客体)に対する「意志」として先にあるかのように
感じられてしまい、どのような立場をとるにせよ、その感覚に
基づいて議論が進められることになってしまうだろう。

846 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/26(月) 10:06:48.12 ID:fa17dXH/.net
さて、「氣之緒(いきのを)」の「緒(を)」にドイツ語の»Wille«が対応する
ことを踏まえたうえで、»Wille«の語源説明をWiktionaryで参照してみよう。
すると、次のとおり記載されている。
>Etymology
From Middle High German wille, from Old High German willo,
from Proto-West Germanic *willjō, from Proto-Germanic
*wiljô (“desire, will”), from Proto-Indo-European
*welh₁- (“to choose, wish”). <
en.wiktionary.org/wiki/Wille

この語源説明で用ひられる"desire"、"wish"などの訳語からも、»Wille«
がもともと表現していたと想定される感覚が、「〜を」とうまく対応して
いることが確認できるはずである。さらに、ここで、印欧祖語としては、
>*welh₁- (“to choose, wish”).
という形が想定されていることに注目しよう。

847 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/26(月) 10:20:01.98 ID:fa17dXH/.net
そこで、この印欧祖語として想定される"*welh₁-"からどのような表現が
派生したと考へられているかを参照すると、次のように記載される。
>*welh₁-p-
Ancient Greek: *ϝέλπω (*wélpō)
Ancient Greek: ἔλπω (élpō)
Old Latin: *volupe
Latin: volup<
en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/welh₁-

>Shortened from Old Latin *volupe, from Proto-Indo-European
*welh₁p-, from *welh₁- [whence volō and Ancient Greek ἔλπω (élpō)]. <
en.wiktionary.org/wiki/volup#Latin

つまり、これが「エルピス」/"ἐλπίς"の想定される語源であり、
それが"object of hope"を指すとされることもやはり、
日本語の「〜を」が欠如している「対象/対象の様態」を指し示すのに
使はれることとうまく対応していると言へるだろう。

848 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/26(月) 10:27:07.13 ID:fa17dXH/.net
>738名無しさん@お腹いっぱい。2022/12/05(月) 21:00:03.27ID:4KisbTh3
ぬばたま(玉/魂)の くろ(黒)かみ(髪/神)し(敷/如)きて
な(己/汝)が(我)きけ(毛/日/気)を ま(待)ちかもこ(請)ひむ <

したがって、「エルピス」/"ἐλπίς"が「希望」と解釈されるなら、
この歌における「長き/な(己/汝)が(我)き『け(毛/日/気)を』」の
「け(毛/日/気)を」も「希望」を表現していることが理解できるはずである。
では、逆に「災厄」とは、どのようなことだろうか。

849 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/26(月) 10:34:48.50 ID:fa17dXH/.net
それは、「氣之緒(いきのを)」が乱れることに他ならない。

万葉集 第13巻 3272番
>我が家すら『を』 草枕 旅寝のごとく 思ふそら 苦しきもの『を』 嘆くそら
過ぐしえぬもの『を』 天雲の ゆくらゆくらに 葦垣の 思ひ乱れて
『乱れ麻(を)』の 『を・け』『を』なみと 我が恋ふる 千重の一重も
人知れず もとなや恋ひむ 『氣之緒/息(いき)の緒(を)』にして<
(万葉集ナビ参照)

850 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/26(月) 14:04:19.66 ID:fa17dXH/.net
>「長き/な(己/汝)が(我)き『け(毛/日/気)を』」

「け(毛/日/気)」が短くなること/薄れること/失せることが、
「け(毛/日/気)・か(離)れ」、つまり、「穢(けがれ」)れである。

851 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/26(月) 14:17:43.73 ID:fa17dXH/.net
誤:「穢(けがれ」)れ
正:「穢(けが)れ」

852 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 11:32:09.92 ID:4ZJKXyhw.net
万葉集 第20巻 4331番
>大君の 命のまにま 大夫の 心を持ちて あり廻り 事し終らば つつまはず
帰り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて 白栲の 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて
長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは<
(出典 万葉集ナビ)

ここで、「なが(長)きけ(日)を ま(待)ちかもこ(恋)ひむ」として表現
される「希望」は、この歌を詠む己(な)の汝(な)である妻らが、
「いはいへ(斎瓮)を とこ(床)へ(辺)にに(据)ゑ」、「しろ(白)
たへ(栲)の そで(袖)」を「を(折)りかへ(返)す」ことによって
いの(祈)られていることに注目しよう。この場合も、「そで(袖)」
は、「な(己/汝)」の別れと再会の隠喩として利用されている。
そのように見ると、「しろ(白)たへ(栲)の そで(袖)」は、
「希望」であるものと解釈される「エルピス」/"ἐλπίς"が最後
まで残った「パンドーラーの甕の縁」に似ているといふことも
できるだろう。

853 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 11:37:00.96 ID:4ZJKXyhw.net
以下は、「エルピス」についてのネットで検索してヒットした、
ヘシオドス、松平千秋訳、『仕事の日』、岩波文庫からの対応する
箇所の引用である。

>それまでに地上に住む人間の種族は,
あらゆる煩(わずら)いを免れ,苦しい労働もなく,
人間に死をもたらす病苦も知らず暮らしておった.
[人間は苦労をすればたちまち老いこんでしまうものであるからな]
ところが女はその手で甕(かめ)の大蓋(ぶた)をあけて,
甕の中身をまき散らし,人間にさまざまな苦難を招いてしまった.
そこにはひとりエルピス(希望)のみが,堅牢無比の住居の中,
甕の縁の下側に残って,外には飛び出さなかった.<

854 :<由>奈由奈波 氣左倍絶而:2022/12/27(火) 11:43:21.64 ID:4ZJKXyhw.net
万葉集 第9巻 1740番
>常世に至り 海神の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり
ふたり入り居て 老いもせず 死にもせずして 長き世に ありけるものを
世間の 愚か人の 我妹子に 告りて語らく しましくは 家に帰りて
父母に 事も告らひ 明日のごと 我れは来なむと 言ひければ
妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば
この櫛笥 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を
住吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど
里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年の間に
垣もなく 家失せめやと この箱を 開きて見てば もとのごと
家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて
常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび
足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし
肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは
息さへ絶えて 後つひに 命死にける<
(出典 万葉集ナビ)

855 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 16:00:04.82 ID:4ZJKXyhw.net
一般に西洋の思想や哲学における言葉の使ひ方には、何らかの事象に
ついて考へるとき、まずは事象を物象化された概念として扱ふことを
優先し、さもなければ、物事を理性的に考へようとしているという
自覚すら薄れてしまうという、根本的で重大な欠陥がある。
それゆえ、絶えず物象化を頼りにしながらも、物象化されて捉へ
られた事象を専ら仮託として利用しようとする、典型的に万葉集の
歌に見られるような言葉遣ひは、単に情動を伝へようとするもので
あり、そこには何も哲学的な考察や探索は、働いていないように
思へてしまうのだ。そのような西洋の思想や哲学の欠陥に自覚的
であり、物象化された事象の捉へ方を意識的に批判していたニーチェ
でさえ、自らの思索を提示しようとする言葉遣ひにおいて、その
欠点を免れていない。

856 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 16:20:58.75 ID:4ZJKXyhw.net
例えば、ニーチェは、"Die fröhliche Wissenschaft"の
"Wille und Willigkeit"と題された考察において、『古事記』の
イザナギとイザナミが誘ひ合ふエピソードで表現されているような
男女の関係性について述べている。西洋の思想や哲学において
そのような関係性について考察しようとすると、表現において既に
最初から"Wille"と"Willigkeit"(英語を用ひるなら、"will"と
"willingness"と言い換へることができるだろう)が別々の概念として
存在することになってしまうのだ。ところが、『古事記』において、
先に誘ふべき側が男性であるとされ、その誘ひに応じるべき側が
女性であるものとされるにしても、この"Wille"と"Willigkeit"は、
日本語においては、いずれも「〜を」である。先に「〜を」と
呼びかけた側が、"Wille"を表明したものとされ、それに「を」
と応へた側が、"Willigkeit"を表明したものとされるに過ぎない。
しかも、この場合、呼びかけの「〜を」は、何らかの「欠如」
に対して相手の注意を向けることにおいて、応への「を」を
誘ひ出しているのであり、「〜を」が指し示す「欠如」に
ついては、いずれの側のものであると言ふこともできない。

857 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 16:40:49.08 ID:4ZJKXyhw.net
例えば、>>852の「長き日『を』 待ちかも恋ひむ」の「〜を」が
誰の「を」であるのかを考へてみるといい。待っているのは、
「妻ら」であるのだから、そのように見るなら、この歌の詠み人の
「妻ら」の「〜を」/"Wille"であり、この歌は、その「〜を」/"Wille"
に応へる「を」/"Willigkeit"を表明するように詠まれていると
言ふことができるだろう。しかし、この場合、「妻ら」が
「待ちかも恋ひむ」と詠む本人自身、自らが「妻ら」のもとに
一刻も早く帰りたいという心をみづから(身づ柄/自ら)の「〜を」
/"Wille"として表現し、「妻ら」が待っていることを、それに
応へる「を」/"Willigkeit"としても捉へているのではないか。

858 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 16:52:39.25 ID:4ZJKXyhw.net
「な(己/汝)」の「いと(絲)を(惜)しさ」とは、さそ(誘)ひの「を」と
こた(応)への「を」が、キアスム的な反転可能性として、
言ひ換へるなら、"Wille"と"Willigkeit"がたが(互)ひの「かへし」
として、「な(己/汝)」の「を」/"Wille"を「こ(請)ふ」ように
現れることである。

859 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 17:20:21.14 ID:4ZJKXyhw.net
ニーチェの唱えた「永劫回帰」という捉へ方がとても分かりにくい
ものとなっており、それが、「天命」がどのようなものであれ、
その天命のま(に)まに生きようと自ら進んで決意する「をを(雄々)しさ」/
「まるらを(大丈夫/益荒男)ぶり」のようなものとして理解されて
しまいがちであり、ニーチェ自身の言説も、言語表現の形式に
誘導されて、そのような誤解を招くのに大いに寄与していることも、
ニーチェ自身、免れていない西洋の思想や哲学における言葉の使ひ方
の根本的な欠陥の典型的な現れだろうと私は思ふ。

860 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 17:21:17.70 ID:4ZJKXyhw.net
誤:「まるらを(大丈夫/益荒男)ぶり」
正:「ますらを(大丈夫/益荒男)ぶり」

861 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 18:13:27.76 ID:4ZJKXyhw.net
「をを(雄々)しさ」/「ますらを(大丈夫/益荒男)ぶり」とは、
国を「き(聞)こし・を(治)す」「天の命(みこと)」の呼びかけの
「〜を」/"Wille"のま(に)まにおも(面)む(向)くこた(応)への
「を」/"Willigkeit"のあり方であり、その「を」/"Willigkeit"を
「みづから(身づ柄/自ら)」の「〜を」/"Wille"として捉へ返すこと
により、その捉へ返しが、「天の命(みこと)」に「みづから(身づ柄/自ら)
が進んでしたが(従)うこと」/"Gehorsam"として認められることである。

これによって生じるのは、さそ(誘)ひの「を」"Wille"とこた(応)への
「を」"Willigkeit"のキアスム的な反転ではなく、「天の命(みこと)」
である「〜を」/"Wille"に一方的に「服従するように」/"hörig"
に振る舞ふことである。「運命」をあるがままに自分の意志に
沿ふものとして受け入れることを理想としたニーチェの唱えた
「永劫回帰」も、いくらそのように理解されることがニーチェに
とって不本意であったとしても、言語表現の形式上の困難から、
容易にそのようなものとして誤解されてしまうことになる。

862 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/27(火) 18:29:39.18 ID:4ZJKXyhw.net
たったこれだけのことを書き込むのにやたらに時間がかかっていると、
我ながら、他のもっとましなことに使へるはずの時間を随分、
無駄にしている感が強いが、かといって、さっさと書き終へられる
わけでもなく、書いておかないと、なにをどう考へていたのか
すぐに忘れてしまうので、仕方がない。

863 :直毘(なほび)神:2022/12/28(水) 10:02:29.54 ID:TqBNk7Ye.net
Vademecum – Vadetecum

Es lockt dich meine Art und Sprach,
Du folgest mir, du gehst mir nach?
Geh nur dir selber treulich nach: –
So folgst du mir – gemach! gemach!

Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft"
(出典 zeno.org/nid/20009249915)

864 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 10:19:09.76 ID:TqBNk7Ye.net
私は、他人に対する何らかの「教(をし)へ」のつもりで書込みを
しているのではない。私の書込みは、つねに、その都度の
「こころ(試)み/心観」である。だから、その「こころ(試)み/心観」
を目にして、そこに何か(それが失敗の実例であれ)なら(習)ふべき
ものを見出すかどうかは、各自の勝手であり、私の知ったことではない。
それを「教(をし)へ」と勘違いして、後になって、間違ったことを
「教(をし)へ」られたと悔やんだとしても、それは私のせいではない。

865 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 11:37:37.22 ID:TqBNk7Ye.net
近頃は、世帯の縮小にともなって本人や身内の身の回りの世話をするのに
世帯外の人手によるサービスに頼る機会が社会的に増えていることから、
「ケア」についての議論を目にすることが多くなっている。
ハイデガーが自らの存在論における重要な概念として用ひた»Sorge«
という表現が、そのような文脈で言及されているのも見かけること
も多い。私自身は、ハイデガーの存在論において»Sorge«(「気遣い」、
「気配り」などと訳されることが多い)という概念がどのように論じ
られているかについて詳しいわけでも、それを援用する思想に興味が
あるわけでもないので(というより、私は、「思想」と呼ばれるような
ものに基本的にほとんど関心がない)、「ケア」についての思想的な
議論については、特に目を通すことをしていない。私自身の「関心」
(»Sorge«と言ひ換へてもいいのかもしれないが)は、他のところにある。

866 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 11:52:27.14 ID:TqBNk7Ye.net
"Heideger & Sorge"をキーワードとしてフランス語サイトをGoogle検索
すると、フランス語版Wikipediaの"Lexique de Martin Heidegger"という
項目名のサイトがヒットした。このサイトで確認してみると、
ハイデガーの»Sorge« には、フランス語では、一般に《Souci》もしくは
《Souciance》という訳語が当てられていることが分かる。
《Souci》と《Souciance》は語源を同じくする表現であり、
ラテン語の"sollicitus"に遡ることができるとされ、逆にこの"sollicitus"
から派生した表現としては、フランス語の《solliciter》(「〘文〙
そそのかす、ひきつける」クラウン仏和辞典)や英語の"solicit"が
すぐに思ひ浮かぶ。

867 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 11:54:22.29 ID:TqBNk7Ye.net
誤:"Heideger & Sorge"
正:"Heidegger & Sorge"

868 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 14:04:22.05 ID:TqBNk7Ye.net
»Sorge«自体の語源は、Wiktionaryの記載によると、以下のとおりである。
>From Middle High German sorge (“sorrow; worry; care”), from
Old High German sorga, sworga (“sorrow; worry”), from Proto-West
Germanic *sorgu, from Proto-Germanic *surgō, ultimately
from Proto-Indo-European *swergʰ- (“watch over, worry; be ill, suffer”). <

ハイデガーは、自らが概念として用ひる言葉の語源的なつながりにも
拘りが強かったので、ハイデガーの哲学的概念を応用するというの
であれば、それを語源的にまったく別の表現に言い換えて議論する
のでは問題があるかもしれないが、私の関心は、そのようなことに
あるのでもない。私が考へているのは、これについて検討することが、
日本語の「を」を用ひた表現が伝へようとする関係性をメタ言語的
に説明するのに役立つだろうということである。

869 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 14:18:28.08 ID:TqBNk7Ye.net
»Sorge«の訳語として用ひられる《souci》および《souciance》、
ならびにその語源としてのラテン語の"sollicitus"、そこから派生した
フランス語の《solliciter》および英語の"solicit"について考へてみる
と、例えば、《solliciter》が、「請願する」と訳されるとおり、
「〜の『を』/»Wille»を『こ(請)ふ』」表現となっていることが
分かり、文語として残る「そそのかす」、「ひきつける」などと
訳される用法から、《sollicitant l'attention de 〜》として、
日本語の古語の「『を』かし」に対応させることができることも
分かる。

870 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 14:37:41.17 ID:TqBNk7Ye.net
しかし、同じフランス語でも、»Sorge«にやはり対応するものと考へる
ことができる言葉として、《souci》、《souciance》、および《solliciter》
とは語源的に別の表現もすぐに思ひ浮かぶ。それは、《soin》である。
こちらの表現の方は、語源的に英語の"sooth"にもつながっている
とされ、それについて、Wiktionaryには以下のとおり記載される。

>From Middle French soin, from Old French soing (“care”), from
Frankish *sunnija (“worry, care, concern”), from Proto-Germanic *sunjō,
*sunþijō (“truth, care, responsibility”), derived from Proto-Indo-European
*h₁sónts (“being, true”), from *h₁es- (“to be”). Cognate with
Old High German sunna, sunne (“truth, need, necessity, apology,
justification”), Old Norse syn (“denial”), Gothic 𐍃𐌿𐌽𐌾𐌰 (sunja, “truth”).<

見てのとおり、《soin》は、"care"に対応するような用法だけでなく、
"to be"や"truth"に対応するとされる用法などにもつながっていると
考えられ、ゲルマン語語源であるとされているので、ハイデガーもそれに
ついて何らかの議論をしているのかもしれないが、私はよく知らない
(というか、読んでいたとしても憶えていない)。また、そのような
多様な用法と、現代のフランス語ととしても一般的に用いられる
《soin》がどのような関係にあるのかも、私にはよく分からない。
しかし、この、一般的に用いられるフランス語の《soin》にまつはる
一連の表現は、日本語の「を」を用いる表現によって伝へられる
関係性を説明するのにも、とても好都合であるように思へる。

871 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 15:16:01.30 ID:TqBNk7Ye.net
万葉集 第19巻 4254番
>神ながら 我が大君の 天の下 治めたまへば もののふの
八十伴の男を 撫でたまひ 整へたまひ 食す国も 四方の人をも
あぶさはず 恵みたまへば< (万葉集ナビ)

例えば、「を(治/食)す」(大)君のま(任)けのまにまにに「つか(仕)へ」
ることが「ますら(大丈)を(夫)」の「つと(務)め」だが、この
歌に見てとることができるとおり、(大)君の役割は、「撫でたまひ」、
「整へたまひ」、「恵みたまふ」こととされ、それが人を「をさ(治)める」
ことであり、それをひとことでフランス語を用ひて言ひ表すなら
《soigner》と表現することができるだろう。しかし、ここで面白い
のは、国を「を(治/食)す」(大)君とますらを(大丈夫)の関係性は、
明らかに「君(きみ)」と「僕(ぼく)」(つまり、"servant"である)の
関係から発展したものであることである。ただし、形式上、
「(大)君(きみ)」が「僕(ぼく)」である「ますらを(大丈夫)」に
何かをまか(任)せる(《demander》←"dē- +&#8206; mandō (“I entrust”).")
ように「命/御言(みこと)」を発すること/「を(治/食)す」ことは、
「(大)君(きみ)」みづから(身づ柄/自ら)の「〜を」、すなはち、
満たされるべき欠如/必要性、つまり、《besoin》を示すこと
ではない。「(大)君(きみ)」は、あくまでも、「〜を」としてある
「《soin》の欠如」を示して、それに気づかせる、つまり、それに
気を配らせるだけなのだ。

872 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 15:31:39.36 ID:TqBNk7Ye.net
「(大)君(きみ)」によって示される「《soin》の欠如」を《besoin》として
認めて、みづから(身づ柄/自ら)が「任されたつとめ(務)め」、すなはち、
《besogne》として進んで引き受ける(»Willigkeit«を伝へる)こた(応)へ
の「を」を発するのは「僕(ぼく)」(つまり、"servant")である
「ますらを(大丈夫)」の役割であり、その「任されたつとめ(務)め」/
《besogne》をみづから(身づ柄/自ら)の「意志」/»Wille«/「〜を」
に沿ふものとして捉え返すことが、「ますら『を』」の
「『を・を』しさ」とされるのである。

873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 15:58:35.58 ID:TqBNk7Ye.net
同じ「を」を使っていても、「を(治/食)す」と「(例えば、梅を)をく」
では、伝へられる関係性が大きく異なる。「をく」には、「招く」
という漢字が当てられることになっているが、この当て字は、却って
「をく」という表現がどのような関係性を伝へているのかを分かり
にくくする。「をく」が表現しているのは、「梅ををく」のように
「われ(我)」が「あなた(貴方)」の「〜を」をさそ(誘)ふ関係性、
あるいは、「をかし」のように「あなた(貴方)」にさそ(誘)はれて、
「われ(我)」に「〜を」が生じる関係性である。したがって、
「をく」という表現は、フランス語を用ひて説明するなら、
《Ne sentez-vous pas le besoin de 〜》と呼びかける行為に相当
する。さらに、これを応用して、相手に意図的に《besoin》を
感じさせるように仕掛ける行為が、「を(誘)び(引)く」、「をとり(囮)」
などと表現される。

874 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 16:18:31.17 ID:TqBNk7Ye.net
これに対して、「『な(己/汝)』の『いと(絲)を(惜)しさ』」は、
やはり同じ「を」を用ひながら、「を(治/食)す」関係性からも、
「をく」関係性からも説明することは困難である。なぜなら、
この「いと(絲)を(惜)しさ」の「〜を」は、「な(己)」と
「な(汝)」のいずれのものでもあり得ながら、同時にその
両方のものであるわけではなく、排他的にいずれかその一方
のものであるわけでもないからだ。それが、私がこの場合
の「〜を」を、»Wille«としての「を」と»Willigkeit«として
の「を」のキアスム的な反転可能性の現れとして説明した
理由である。「〜を」が指し示す「《soin》の欠如」は、
「な(己)」と「な(汝)」のいずれのものでもありながら、
そのいずれにも排他的に帰せられるものではない。
それは、《soignant》/ 《soigné》の関係性がキアスム的な
反転可能性において現れるのを求めることが、「『な(己/汝)』
の『いと(絲)を(惜)しさ』」だからである。

875 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/28(水) 16:31:13.86 ID:TqBNk7Ye.net
ひとまずは言ひたいことを言ひ終へ、書込みにあまりにも時間を費やし
過ぎているので、年末年始のいはひ(斎)として書込みを控えることにしよう。

876 :Besorgung:2022/12/30(金) 09:43:21.52 ID:gUna+fLn.net
「気にかかること」/"ἐλπίς"/»Besorgnis«に「気を配ることが
『できる』」のが、「こころ(心)が『よく』働いている」こと、
すなはち、「こころよ(快)い」ことであり、「こころ(心)」の
そのような働きが見えることが、「のぞ(望)みがある」といふことである。

877 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/30(金) 13:01:22.03 ID:gUna+fLn.net
「エルピス」/"ἐλπίς"を、日本語として「どうなるのか気にかかること」
として捉へるなら、西洋の言語におけるこの言葉の一般的な
訳語のように"hope"と"anxiety"の二項対立におけるいずれで
あるかを決めようとする必要性はなくなり、古代ギリシア語において
そうであったと考へられるとおり、そのいずれでもあり得る様態
において理解することができる。

878 :運命論者:2022/12/30(金) 15:42:30.81 ID:gUna+fLn.net
八卦よい、残った!
八卦のうちいずれかの卦がよいのではない。
八卦はいずれでもよく、残った卦がよい卦なのである。

879 :今年の穢れを祓ふ:2022/12/31(土) 08:11:58.24 ID:PzOMdcMW.net
学問制度としての「哲学」には、哲学するためには致命的な欠陥となる
根本的な思ひ違ひがある。それは、哲学するとは、正しい考へを概念
として固めることであると思ひ込んでいることだ。しかし、
哲学は、堅信のためのカテキズムではない。哲学するのに本当に
大切なのは、気にかかることに気をくばることができるように、
つまり、心がとどこほりなくよく働くようにするために、つねに
うまく考へを巡らせることである。

880 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/12/31(土) 08:16:05.04 ID:PzOMdcMW.net
Gedanken. – Gedanken sind die Schatten unsrer Empfindungen
– immer dunkler, leerer, einfacher als diese.

Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft", Drittes Buch, 179. Gedanken
(zeno.org/nid/20009252290)

881 :玉響昨夕見物:2023/01/01(日) 10:17:10.66 ID:HnkRZ2BP.net
万葉集 第12巻 2956番
未玉之 年月兼而 烏玉乃 夢尓所見 君之容儀者
あらたまの年月かねてぬばたまの夢に見えけり君が姿は
あらたまの としつきかねて ぬばたまの いめにみえけり きみがすがたは
(出典 万葉集ナビ)

882 :許己呂之遊氣婆:2023/01/01(日) 21:16:16.69 ID:HnkRZ2BP.net
万葉集 第12巻 2956番
安之比奇能 夜麻伎敝奈里C 等保家騰母 許己呂之遊氣婆 伊米尓美要家里
あしひきの山きへなりて遠けども心し行けば夢に見えけり
あしひきの やまきへなりて とほけども こころしゆけば いめにみえけり
(出典 万葉集ナビ)

883 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/01(日) 21:17:48.21 ID:HnkRZ2BP.net
>>882
誤:万葉集 第12巻 2956番
正:万葉集 第17巻 3981番

884 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/01(日) 21:22:09.79 ID:HnkRZ2BP.net
玉響(たまゆら) ⇔ 烏玉乃(ぬばたまの) ⇔ 許己呂之遊氣婆(こころしゆけば)

885 :由良久(ゆらく)多麻(たま)能(の)乎(を):2023/01/02(月) 10:16:24.13 ID:kACGd37I.net
万葉集 第20巻 4493番
始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎
初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒
はつはるの はつねのけふの たまばはき てにとるからに ゆらくたまのを

886 :由良久(ゆらく)多麻(たま)能(の)乎(を):2023/01/02(月) 10:16:53.61 ID:kACGd37I.net
万葉集 第20巻 4493番
始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎
初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒
はつはるの はつねのけふの たまばはき てにとるからに ゆらくたまのを
(出典 万葉集ナビ)

887 :氣乃緒(を)尓 念師君乎(を):2023/01/02(月) 10:36:06.10 ID:kACGd37I.net
万葉集 第4巻 644番
今者吾羽 和備曽四二結類 氣乃緒尓 念師君乎 縦左<久>思者
今は我はわびぞしにける息の緒に思ひし君をゆるさく思へば
いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば
(出典 万葉集なび)

>縦左<久>/ゆる(縦)さく

en.wiktionary.org/wiki/縱#Chinese

Definitions
1. loose; relaxed
2. to shoot an arrow
3. to send out; to deliver; to issue
4. to let go; to set free; to set loose; to give free rein to

888 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/02(月) 11:43:46.34 ID:kACGd37I.net
概念化するとは、どのようなことだろうか。
概念化されたものが「概念」であり、概念とは、「おのごろじま(自凝島)」である。
何についてであれ何かについて考へ、考へた一連のことを都合よく
扱へるようにしようとするなら、そのようにしてまとめられた考は、
自ずと凝り固まって「おのごろじま(自凝島)」となる。
つまり、概念化するとは、「おのごろじま(自凝島)」が形成される
ようにすることである。生きていれば、概念は勝手に形成されるもの
であり、ひとたび形成された概念は、ただそのまま放置しておくと、
それを中心とする凝り固まりが肥大化して、うまく考へを巡らせる
ことに対して、血流のなかでできた血栓が血の巡りを妨げるのと
同じような作用をすることになる。哲学することに求められる
役割とは、血の流れをよくすることであって、血栓の中心となる
「おのごろじま(自凝島)」の形成を促進することではない。

889 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/02(月) 12:57:48.22 ID:kACGd37I.net
>Der Seufzer des Erkennenden. – »Oh über meine Habsucht!
In dieser Seele wohnt keine Selbstlosigkeit – vielmehr ein alles
begehrendes Selbst, welches durch viele Individuen wie durch
seine Augen sehen und wie mit seinen Händen greifen möchte,
– ein auch die ganze Vergangenheit noch zurückholendes Selbst,
welches nichts verlieren will, was ihm überhaupt gehören könnte!
Oh über diese Flamme meiner Habsucht! Oh, daß ich in hundert
Wesen wiedergeboren würde!« – Wer diesen Seufzer nicht aus
Erfahrung kennt, kennt auch die Leidenschaft des Erkennenden nicht.<

Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft"
(zeno.org/nid/20009252991)

890 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/02(月) 13:18:38.54 ID:kACGd37I.net
>>886-887
日本語の表現において用ひられる「を」は、ドイツ語を用ひて概念化
するなら、»Wille«であることになるだろう。そして、そのように
概念化してみることは、実際に「役に立つ」。しかし、それは、
日本語のさまざまな表現に使はれている「を」を、»Wille«という
概念で置き換えることが、それらの表現の解釈に役立つのでは
なく、「を」がどのように»Wille«という概念に凝り固まることに
なるのかを見ることにより、逆に»Wille«の概念の方が流動化して、
日本語のさまざまな表現における「を」として現れて、それが
流れのなかで働く様子を知ることになるからである。

891 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/02(月) 13:45:14.78 ID:kACGd37I.net
概念化することが、うまく考へを巡らせることをいかに妨げるかは、
上で検討した日本語の「みどり」という表現の例ひとつをとって
みても明らかだろう。「みどり」は、現代の日本語では、草木の
葉など、生きた植物に代表的に見られる色としての「緑」として
凝り固まって概念化されている。そして、その概念化が、うまく
考へを巡らせることをいかに妨げるかは、「みどりご」がなぜ
「みどりご」と呼ばれるのかが不明になり、「みどり」が
"succulent plant"/「多肉植物」の"succulent"にかなりうまく
対応していることにまったく気づけなくなってしまうことにも
よく表れている。そうなってしまえば、既成概念として用ひ
られる色としての「緑」をいかに厳密に、詳細に定義してみた
ところで、その定義が対象とする範囲内でしか考へは巡らなく
なるのである。

892 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/02(月) 14:14:03.22 ID:kACGd37I.net
同様に「緒(を)」を物象化された「緒(を)」として概念化すると、
「多麻(たま)能(の)乎(を)」の「乎(を)」は、単に「緒(を)」の
発音を表記するための「当て字」に過ぎないものとされるだけ
でなく、表記法を「正規化」して「玉の緒」と書き換えたところで、
それが何を表現しているのか意味不詳となり、その意味不詳と
なりながらも多くの歌に詠み込まれたその句を「枕詞」という
概念を作って整理してみても、「決まり文句」として解釈される
必要がないもの、つまり、それについては考へを巡らせなくても
よいものとして処理されることになるだけなのだ。
そうなってから、ふたたび「緒(を)」について考へを巡らせる
なら、「緒(を)」は「名詞」であり、感嘆詞として「乎(を)」、
呼応の声としての「乎(を)」、「をち・こち」に現れる
指示詞としての「を」、それぞれ無関係のものとして扱われる
「を(招)く」および「を(食)す」の動詞語幹としての「を」、
形容詞として用ひられる「をかし」の「を」とは、たまたま
発音が重なっているだけで、無関係であることになる。
これはまさしく、概念化が血栓のように流れをとどこほらせて、
考へがうまく巡らなくなり、心をよく働かせることができなく
なって、感性の麻痺が生じていることの症状の現れだろう。
そして、いくらそのような概念化に基づいて、文法的に
厳密で詳細な定義に力を注いだところで、感性の麻痺の
症状は、改善されるどころか、そんなことは対処療法に
すらならない。それが治療法として有効であると信じる
なら、むしろ、誤診断として有害であり、症状の悪化を
さらに進行させることになるだろう。

893 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/02(月) 14:23:55.38 ID:kACGd37I.net
万葉集の日本語の表現において、例えば、「緒(を)」は、「〜を」を、
「湯」は、「ゆ」を、「蚊」や「香」は、「か」を名詞化するように
用ひられているが、それらはいずれも、それぞれ、「〜を」、「ゆ」、
「か」の概念化ではない。そうではなく、「〜を」、「ゆ」、「か」が
それぞれ「どのよう」であることなのかを、その名詞化された具体的な
代表例を「仮託」として、言い換へるなら、トークン/"token"として
用ひることで示しているのである。

894 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/02(月) 15:26:49.80 ID:kACGd37I.net
文法が表現に先立つという考へ方は狂っている。
例えば、日本語の「ゆ」は、明らかに漢語としては「由」として
用ひられる表現の流用だが、「湯(ゆ)」として名詞的に用いられれば、
名詞に分類され、「〜ゆ」(経由/従(〜から))として用ひられれば、
助詞と分類され、「ゆ(行)く」として用いられれば、動詞語幹として
分類され、「絶(た)ゆ」のように用いられれば、助動詞として分類
され得ることになるだろう。また「湯(ゆ)水の如く」という表現に
おける「湯(ゆ)」の用法は、おそらく、名詞的なものではなく、
英語の"loose"に対応するような形容詞的なものだろう。表現に
先立って「ゆ」の文法的な分類があるのではない。

895 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/03(火) 10:44:33.54 ID:MIWJQEoI.net
哲学するとは、謂ふなれば、「な(汝/己)」が生きることそのものが
生じさせることになる「のろ(呪)ひ」をと(解/梳/溶)こうとする
「いの(祈)り」である。

「な(汝/己)」は、「『しま(島)』として『いは(祝/斎)ふ』べき」
ものとして現れるとしても、概念化された「な(汝/己)」、
すなはち、「おのごろじま(自凝島)」としてあつか(扱)はれる
「な(汝/己)」は、既に「な(汝/己)」ではない。「な(汝/己)」は、
その「いと(絲)を(惜)しさ」に仮託されるが、その「いと(絲)を(惜)しさ」
をし(強)ひて概念化するとしたなら、それは「のろ(呪)ひ」でもあり、
その「のろ(呪)ひ」を(解/梳/溶)こうとする「いの(祈)り」でもあるが、
同時にその両方であることはなく、排他的にそのいずれか一方であること
もないものということになる。

896 :禰宜(ネギ)坊主:2023/01/03(火) 11:18:25.02 ID:MIWJQEoI.net
>かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば
ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん
(能「俊寛」)<

「かみ(神)をいは(祝/斎)ふ」のが「しま(島)」であるとしても、
「おのごろじま(自凝島)」として概念化された「な(汝/己)」は、
「いおう(硫黄)がしま(島))」のごと(如)き「のろ(呪)ひ」として現れる。
哲学するとは、「な(汝/己)」が「ゆくらゆくら(由久良々々々)」に
こころ(心)よ(良)(/快)くあることをねが(願)ひ、そのねが(願)ひ
をかなへようと、その都度、その「のろ(呪)ひ」をと(解/梳/溶)こうと
する 「いの(祈)り」をこころ(試/心観)みることである。

897 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/03(火) 11:42:01.89 ID:MIWJQEoI.net
>Sanctus Januarius

Der du mit dem Flammenspeere
Meiner Seele Eis zerteilt,
Daß sie brausend nun zum Meere
Ihrer höchsten Hoffnung eilt:
Heller stets und stets gesunder,
Frei im liebevollsten Muß: –
Also preist sie deine Wunder,
Schönster Januarius!

Genua, im Januar 1882 <

Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft", Viertes Buch
(zeno.org/nid/20009253262)

898 :許保里和多礼流 宇須伎許己呂乎:2023/01/03(火) 23:13:40.19 ID:MIWJQEoI.net
万葉集 第20巻 4478番
佐保河波尓 許保里和多礼流 宇須良婢乃 宇須伎許己呂乎 和我於毛波奈久尓
佐保川に凍りわたれる薄ら氷の薄き心を我が思はなくに
さほがはに こほりわたれる うすらびの うすきこころを わがおもはなくに
(出典 万葉集ナビ)

899 :等騰己保里(とどこほり):2023/01/03(火) 23:29:14.10 ID:MIWJQEoI.net
万葉集 第20巻 4398番
>伊埿多知(出で立ち)加弖尓(かてに) 等騰己保里(とどこほり)
(出典 万葉集ナビ)

900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/03(火) 23:31:40.54 ID:MIWJQEoI.net
>Meiner Seele Eis

901 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 10:15:45.27 ID:ZX63lOld.net
>概念とは、「おのごろじま(自凝島)」である。
何についてであれ何かについて考へ、考へた一連のことを都合よく
扱へるようにしようとするなら、そのようにしてまとめられた考は、
自ずと凝り固まって「おのごろじま(自凝島)」となる。<

一神教の「神」も概念である。いくら神学が「『神』は、いかなる
属性によって規定されるものではないので、『神』を概念として
規定することはできない」といった類の論証をしてみせたところで、
「(天)主」として人々が祈りを捧げる一神教の「神」も、「疱瘡神」
などと同じように、やはり人々によって概念化されていることに
変わりない。違いは、「疱瘡神」であれば、「疱瘡」という特定
の属性に関連付けられた概念として形成されているのに対して、
一神教の「神」は、人々のどのような思ひであれ取り込むことの
できる概念、すなはち、"a catch-all concept"となっていると
いうだけのことである。

902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 10:27:19.12 ID:ZX63lOld.net
ゲーテは、あるキリスト教宗派の集会に参加させてもらっているとき、
次第に自分が、その集会に参加する他の人々によって真のキリスト教徒
とは見なされていないことに気づいた体験について自伝で語っている。
その場合もやはり、「神」の属性がその宗派の人々によって積極的に
規定されているということではなく、ゲーテが「神」について懐いて
いた思ひとそれを反映する言動が、その宗派の人々によって認められ
得る「神」の概念とは明らかに異なっていたということであり、
その宗派の人々にしてみれば、自分たちが「神」について特定の概念
を規定しているのではなく、ゲーテの方が「神」について「異端の考へ
に固執している」ことになるだろう。

903 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 10:40:08.08 ID:ZX63lOld.net
"a catch-all concept"となった「神」の概念の「効用」とはどのような
ものだろうか。「人々のどのような思ひであれ取り込むことができる」
という"catch-all"の性質については、「うらな(占)ひ」も「神」も
同じことであるが、「うらな(占)ひ」が場当たり的に目先の「運」の
はこびを知ろうとする思ひに動機づけられているのに対して、「神」
は、思ひ悩んでいることについて、なんらかの「福音」をもたらして
くれることを期待されている。したがって、"a catch-all concept"と
なった「神」は、その期待が保たれる限りにおいて「効用」を発揮
するのであって、その「福音」が単に「死後の至福の約束」という
形での「無限先送り」であると認識されてしまえば、その「効用」
を失ってしまう。そして、実際、多くの人々にとって、「神」は、
期待できるような「福音」をもたらす存在であると認められなく
なって久しいだろう。

904 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 10:59:16.22 ID:ZX63lOld.net
それでも、"a catch-all concept"として用いられる概念の「効用」そのものは、
失われたわけではまったくない。例えば、「環境」、「気候変動」、「経済」、
「効率」、「健康」、「安全保障」、「感染防止」、「将来の世代」などの
概念について考へてみるといい。これらの概念は、それによってどのような
ことが具体的に意図されているのかがはっきりしないままで、頻繁に使はれる
ことによって、人々のさまざまな思ひを取り込むようにしながら、肥大化
している。一昔前か、ふた昔前か、ドイツの言語学者とされる人物が、
言説の批判として「プラスチック・ワード」というのを提唱したことが
あったが(提唱する趣旨そのものは、その簡単な要約を見ただけでも、
あまりにも「愚にもつかない」ものだったので、その著作に目を通す
こともしていないが)、これらの肥大化した概念は、極めて可塑性の高い
表現としてとても便利に自由自在に組み合わさながら用ひられている。

905 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 11:08:19.03 ID:ZX63lOld.net
例えば、「環境への脅威」とされる空気中の温暖化ガスの濃度の上昇に
ついて、私自身は、それが日本のメディアで触れられることもない
最初期からその話題が専門家によって解説されているのを耳にすること
があったが、そこで強調されていたのは、エネルギー消費者である
個人の取組みは、この問題に対処するのには無意味で、国際的な
二酸化炭素排出の規制の枠組みを税制などによって整備することと、
原子力発電などの温暖化ガスを排出しないクリーンなエネルギー生産
を推進することが必要であると説明されていた。そのときに私が
もっとも違和感を覚えたのは、個人の取組みには実質的に意味がない
とされていたことだった。

906 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 11:33:04.98 ID:ZX63lOld.net
「環境」が皆(すなはち、個々人によってではなく)によって保護される
べきものとされるとき、その「環境」とは、「善なる神」の「善」の
ようなものである。確かに、それを破壊してもよい、あるいは破壊した
方がよいなどと主張する個人がいれば、そのような個人は、皆によって
批判され、それでも態度を改めないのであれば、罰せられてしかるべき
であると「皆が同意する」だろうが、その保護されるべき「環境」は、
人々それぞれのさまざまな思ひを取り込むことのできる
"a catch-all concept"であり、「皆にとって」の実質的な内容がない。
「そんなことはない、地球温暖化ガス濃度の上昇を防止することが
その実質的な内容だ」という反論があるかもしれないが、それは
ほとんどの人々にとっては、「専門家」とされる人々による、
自分たちにはなんだかよく分からない測定基準による定義であり、
保護されるべき「環境」という概念の実質的な内容ではない。
これは、病気の原因とされる細菌やウイルスへの「感染防止」に
ついても同じことが言える。人の腸内に細菌が常駐していること
から見ても、細菌やウイルスに感染していない人など存在しない
だろう。それを感染と呼ぶか、共生と呼ぶかは、「病気」とされる
症状が生じるか否かの違いであって、同じ細菌やウイルスに感染
していても、「健康」に生活することに何の支障も生じない人
にとっては、その細菌やウイルスは病原菌でも、病原ウイルスでもない。
高齢者になって何らかの死因で命が失われるときには、それを病気
とするなら、それまでは共生していた病原ウイルスも、病状を悪化
させる病原菌や病原ウイルスとして作用するのではないか(私には、
「専門知識」がないのでよく知らない)。

907 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 11:56:24.37 ID:ZX63lOld.net
私は、言説の批判としての「プラスチック・ワード」という名指しの
提唱を「愚にもつかないもの」であると言ったが、実は、この名指しと
"a catch-all concept"として用いられる概念の「効用」の有効利用は、
手に手を取り合っている。どういうことだろうか。

それは、「プラスチック・ワード」という名指しの提唱が、
"a catch-all concept"として用いられる概念の詳細な分類と定義
を「専門家」に委ねられるべきものとすることにある。これに
より、例えば、皆が「環境への脅威」を意識し、「感染防止」の
ために日々、積極的に協力すべきであるとされながら、
なにをどのようにすることが「良い」ことなのかは、個々人が
考えるようなことではなく、それは、すべて「専門家」の見解
による定義次第である。したがって、「環境」を保護することは、
「空気中の炭素濃度の上昇を抑えること」となり、そのために
役立つことが「良い」こととされる。原子力発電は、福島の
事故以来、大きく流れが変わって、世界的にも、環境への大きな
脅威となると認識されるようになったが、炭素濃度の上昇の抑制
の方が優先されるということで、再び流れが変わりつつある
ようにみえる。私は、個人的にはこれについて賛成反対の意見
をもっていない。環境への脅威と見なされるように大きく流れが
変わった原子力発電も、炭素を固定する革新的な技術でも開発
されて、そのためのクリーンなエネルギー源とされることになれば、
今度は、環境保護のための切り札とされるようになることすら
ないとは言えないだろう。

908 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 13:57:52.56 ID:ZX63lOld.net
"a catch-all concept"として用いられる概念を、与えられたものと
される状況に応じて都合よく定義して、その定義に合わせて厳格に
操作させようとするのは、スピンドクターの仕事であって、
哲学の役割ではない。哲学することの役割はむしろ、よく定義され、
厳格に操作すべきものとされる概念を流用して、既定の概念として
凝り固まった考へを流動化させることにある。

909 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 17:16:03.80 ID:ZX63lOld.net
>Ernst nehmen. – Der Intellekt ist bei den allermeisten eine schwerfällige,
finstere und knarrende Maschine, welche übel in Gang zu bringen ist:
sie nennen es »die Sache ernst nehmen«, wenn sie mit dieser Maschine
arbeiten und gut denken wollen – oh wie lästig muß ihnen das Gut-Denken
sein! Die liebliche Bestie Mensch verliert jedesmal, wie es scheint,
die gute Laune, wenn sie gut denkt: sie wird »ernst«! Und
»wo Lachen und Fröhlichkeit ist, da taugt das Denken nichts«
– so lautet das Vorurteil dieser ernsten Bestie gegen alle
»fröhliche Wissenschaft«. – Wohlan! Zeigen wir, daß es ein Vorurteil ist!

Friedrich Nietzsch, "Die fröhliche Wissenschaft", 327. Ernst nehmen
(zeno.org/nid/20009253785)

910 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 17:35:18.19 ID:ZX63lOld.net
ニーチェの代表的な著作のひとつとされる"Die fröhliche Wissenschaft"には、
それぞれ別の題名が付けられた少なくとも3つの日本語訳がある。
『悦ばしき知識』、『喜ばしき知恵』、『愉しい学問』である。

私自身は、ドイツ語を誰かに教へてもらったこともなく、自分でまともに
学習したこともないので、私のドイツ語の能力は、それぞれの訳者の
能力の足元にも及ばないだけでなく、これらの翻訳も飛ばし読みした
程度に過ぎないので、よく分からないドイツ語の原文を見た印象から、
目に留まった箇所を引用して、適当なことを言っているだけである。
しかし、これらの翻訳は、その題名からして、この著作を分かりにくく
しているのではないかと私には思へる。それは、これらの題名が
「知識」であれ、「知恵」であれ、「学問」であれ、そのようなもの
として想定される概念を優先しているからだ。だが、ニーチェは、
この著作において、「よろこ(悦/喜)ばしき」または「愉しい」
ものとされる何らかの「知識」、「知恵」、または「学問」を提示
しようとしているわけではないだろう。そうではなく、ニーチェが
伝へようとしているのは、「知ることのよろこ(悦/喜)ばしさ/愉しさ」
ではないのか。そのことが分からないなら、この著作のどこに
「よろこ(悦/喜)ばしき」または「愉しい」とされる「知識」、
「知恵」、または「学問」が開示されているのか、無益に
探し求めることになるのではないかと私は思ふ。

911 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/04(水) 22:22:30.53 ID:ZX63lOld.net
これはだいぶ以前に別の板のスレで同じことを指摘したと記憶しているが
(私の記憶違いでなければという条件付きで)
「初春のお慶びを申し上げます」と挨拶するとき、
新たに春を迎えることがよろ(喜/悦)ばしいのであって、
迎える春に「よろ(喜/悦)ばしい春」と「よろ(喜/悦)ばしくない春」が
あるわけではない。ニーチェの"Die fröhliche Wissenschaft"の場合にも、
それと同じことだろうと私は思ふ。

912 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/05(木) 09:12:00.46 ID:E+LpeXvw.net
>Ainsi, « de la façon la plus essentielle, [les banquets] sont liés à la parole,
à la sage conversation, à la joyeuse vérité » (Bakhtine 1970, p. 281).
Le banquet égalise les conditions et les propos, donnant à chacun le même rôle :
entretenir discussions et rires, « propos libres et bouffonneries » (p. 281).<
(erudit.org/en/journals/cine/1900-v1-n1-cine0540/1015189ar/)

913 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/05(木) 13:22:23.44 ID:E+LpeXvw.net
「環境を守ろう」という主張と「皆の健康を守ろう」という主張は、
それぞれ、互いをひっくりかえした関係にあり、その主張の原理的な
いかがはしさは、「皆」というのが誰のことなのかを考へてみれば分かる。
自分の健康を害することをするのを他人から禁止されることに反対する
人はいても、自分の健康を守ることに積極的に反対する人は誰もいない。
しかし、皆の健康を守るために「良い」とされることが、即ち、
自分の健康を守るために「良い」ことであることではない。
自分の健康を守るために「良い」ことは、あくまでもその効能に
よって示されるのであり、自分の体調が良好に保たれることが
自分の健康を守るために「良い」ことであって、例えば、牛乳を
飲むことが皆の健康を守るために「良い」とされたとしても、
自分の消化器が乳糖不耐症であれば、皆の健康を守るために
「良い」とされることをすることによって慢性の体調不良となる。

914 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/05(木) 13:38:34.98 ID:E+LpeXvw.net
環境を守るために「良い」とされることをすることの合理性も、
皆の健康を守るために「良い」とされることをすることの合理性
と同様のものである。例えば、新薬の治験を実施することは、
その薬の効果や副作用がまだ十分に確かめられていないので、
皆の健康を守るために合理的であるが、そのことは、その治験
に参加する個人が自分の健康を守るために「良い」ことをする
ことの合理性とは、はっきりと異なる。

915 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/05(木) 13:40:59.17 ID:E+LpeXvw.net
専門家が合理的であると判断することに従っていれば、自分の健康を
守るための合理性が保証されるわけではなく、それどころか、専門家
の判断は、それとは無関係であることも十分にあり得る。

916 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/05(木) 13:44:16.24 ID:E+LpeXvw.net
このことは、専門家の判断による会社の「合理化」の企業全体にとっての
合理性が、その合理性のために解雇される個人にとっての合理性とは明らかに
異なるという例を考えてみれば、もっと分かりやすいかもしれない。

917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/06(金) 09:40:05.93 ID:IQ9N4Qro.net
「環境を守る」、「皆の健康を守る」ことを唱える思想は、
その「合理性」とされる根拠そのものがが「隠れ優生学」ではないのか
問はれる必要があるだろう。

918 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/06(金) 09:46:38.09 ID:IQ9N4Qro.net
アヒルは、「もう空を飛べない」のか、「まだ空を飛べないのか」。
飼育される「環境」とのかかわりで言えば、そんなことは「どうでもいい」
というのがアヒルが「空を飛ばない」ことの「合理性」だろう。

919 :たまゆらのまほら/freie Geist par excellence:2023/01/06(金) 11:10:23.58 ID:IQ9N4Qro.net
>Der Glaube ist immer dort am meisten begehrt, am dringlichsten nötig,
wo es an Willen fehlt: denn der Wille ist, als Affekt des Befehls,
das entscheidende Abzeichen der Selbstherrlichkeit und Kraft.
Das heißt, je weniger einer zu befehlen weiß, um so dringlicher
begehrt er nach einem, der befiehlt, streng befiehlt, nach einem Gott,
Fürsten, Stand, Arzt, Beichtvater, Dogma, Partei-Gewissen.<

Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft",
347. Die Gläubigen und ihr Bedürfnis nach Glauben
(zeno.org/nid/20009253998)

私は、上の書込みで、
>日本語の表現において用ひられる「を」は、ドイツ語を用ひて概念化
するなら、»Wille«であることになるだろう<
と指摘したが、ここに一部だけをその引用した"347"におけるニーチェ
の論述を読むとき、»Wille«およびそれに関連する表現に、逆に
日本語の「〜を」がどのように対応するかを考へてみることは、
ニーチェがどのようなことを伝へようとしているのかを理解するのに
大いに役立つだろうと私には思へる。

920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/06(金) 11:31:46.18 ID:IQ9N4Qro.net
いくら私のドイツ語の能力が初歩程度のものにすぎないとはいえ、
このような日本語の表現とニーチェのドイツ語の表現との対応関係は、
ニーチェの著作の日本語訳を読んでも私には感じ取れないのだ。
私は別に、出版されている日本語訳が誤訳をしていると言いたい
のではない。ただそれは、『悦ばしき知識』、『喜ばしき知恵』、
『愉しい学問』という日本語訳の題名に、原題とは異なり、
「知ることのよろこ(悦/喜)ばしさ」または「知ることの愉しさ」が
感じられなくなってしまうのと同じことである。

921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/07(土) 10:35:28.22 ID:V/NeTkPY.net
>>710-716
ニーチェのドイツ語の表現は、あたかもニーチェが、私にとっては、
まともに勉強したことのない外国語に過ぎないドイツ語ではなく、
最初から日本語で書いているかのような感覚を私に生じさせることが
よくある。これは、私は、ニーチェの著作の翻訳は、『善悪の彼岸 
道徳の系譜』(ちくま学術文庫)の1冊しか所有していないので、
ニーチェのドイツ語原文と日本語訳の対応関係について詳しく
検討したこともないが、日本語訳を読んで、そのような表現の
「身近さ」を感じることはない。しかし、そのような「身近さ」
が訳文から感じられない理由は、訳が不適切であるからというより、
ニーチェのドイツ語の表現により伝はる心の動きを、それに「直に
対応するものとして」私に身近に伝へる日本語の表現は、「通常の」
訳文として認められる現代の日本語の表現の語彙にはうまく対応
しないからである。具体的にその例を見てみよう。

922 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/07(土) 10:41:37.21 ID:V/NeTkPY.net
>>710-716で日本語の「みどり」という言葉が、表現として「どのよう」
であることを伝へるものであると考へられるかを検討した。そのために
引用した万葉集の歌における表現は、次のとおりである。

万葉集 第18巻 4122番
>安米布良受 日能可左奈礼婆 宇恵之田毛 麻吉之波多氣毛
安佐其登尓 之保美可礼由苦 曽乎見礼婆 許己呂乎伊多美
弥騰里兒能 知許布我其登久 安麻都美豆 安布藝弖曽麻都

>雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も 蒔きし畑も
朝ごとに しぼみ枯れゆく そを見れば 心を痛み
みどり子の 乳乞ふがごとく 天つ水 仰ぎてぞ待つ
(万葉集ナビ)

923 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/07(土) 11:02:16.31 ID:V/NeTkPY.net
次は、ニーチェの"Die fröhliche Wissenschaft", 371. Wir Unverständlichen,
(zeno.org/nid/20009254234)からのニーチェの記述における表現の引用である。

>Frühjahre noch, wir werden immer jünger, zukünftiger, höher,
stärker, wir treiben unsre Wurzeln immer mächtiger in die Tiefe
– ins Böse, – während wir zugleich den Himmel immer liebevoller,
immer breiter umarmen und sein Licht immer durstiger mit
allen unsren Zweigen und Blättern in uns hineinsaugen.
Wir wachsen wie Bäume – das ist schwer zu verstehen,
wie alles Leben! – nicht an einer Stelle, sondern überall,
nicht in einer Richtung, sondern ebenso hinauf, hinaus wie
hinein und hinunter – unsre Kraft treibt zugleich in Stamm,
Ästen und Wurzeln, es steht uns gar nicht mehr frei,
irgend etwas einzeln zu tun, irgend etwas Einzelnes noch zu sein...<

この場合、ここで私が最も注目するのは、言ふまでもなく、
"immer durstiger mit allen unsren Zweigen und Blättern in uns hineinsaugen"
という箇所における»hineinsaugen«である。この表現は、明らかに日本語の
万葉集の歌で引用した「(乳乞ふ)みどり子」の「みどり」の作用を
キアスム的に反転させて表現として「直に」日本語の「みどり」に対応している
だろう。私は、その対応関係を錯覚であるとも、私という個人に特有の感覚
による「個人的な印象」に過ぎないものであるとも思はない。
この事例から見てとることができるとおり、ニーチェのドイツ語の表現は、
しばしば、とても「日本語的」(ただし、それは、その表現法が「日本語」
に特に限定されることを意味するわけではなく、日本語の表現において
は「意識的に」捉へることが容易であることを意味しているに過ぎない)
なのである。

924 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/07(土) 11:03:05.96 ID:V/NeTkPY.net
誤:キアスム的に反転させて表現として
正:キアスム的に反転させた表現として

925 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/07(土) 11:14:54.90 ID:V/NeTkPY.net
ニーチェが多くの言葉を費やして伝へようとしている関係性が、
日本語では、「弥騰里(みどり)兒(ご)」の「みどり」のひとことで
言い表されて伝へられてしまうことを考へれば、日本語の表現法が
いかに「効率的」なものであるかが理解できるはずである。

926 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/08(日) 09:54:47.67 ID:xR33eEmL.net
ニーチェの「永劫回帰」が何らかの決意の表明であるとするなら、
その決意を日本語で適切に表現しようとすれば、「八卦よい、残った!」
になるのではないかと思う。「みづから(身づ柄/自ら)が残る」
ことが「す(澄/済/棲/住)まひ/角力」であり、それは、
結果として»Einsiedler«/「ひとりす(澄/済/棲/住)まひ/角力」/
「独り相撲」となることも恐れないということだ。ただし、
それは、そうなることを»das Ziel«/「目的」として追求すること
とははっきりと異なる。

927 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/08(日) 11:00:28.75 ID:xR33eEmL.net
「のぞ(望/臨)み」とは、ニーチェにとっては、みづから(身づ柄/自ら)が
あざな(糾)へるなは(縄)の如く、キアスム的反転を体現するものとして
ある(「糾」の漢字の右側の「丩」は、「キアスム」の"χ"に対応する
ことを思ひ起こそう)ことを受け入れることだろう。

この「受け入れ」の様態は、「能動態」と呼べるものでも、「受動態」
と呼べるものでも、「中動態」として都合よく概念化して済ませられる
ものでもない。キアスム的反転を体現することそのものが、
その都度、「みづから(身づ柄/自ら)に固執することなく」、
「みづから(身づ柄/自ら)を捨てる」/"abandon oneself to 〜"
ことを要求するので、その限りにおいて、それを「献身的」/
「捨て身の」姿勢と見ることはできるだろう。しかし、その姿勢は、
何らかの高貴な「他なるもの」(それが「君」であれ、「主」であれ、
「天命」であれ)に一方的に「みづから(身づ柄/自ら)を捧げる」
ことを意味するものではない。それが何であれ、何かを
「することができる」こと、「することが『よりよ(良)く』でき
るようになる」こと、「『する』(が/我/=)『なる』」(「駿河なる
富士/不死の高嶺を」)が、それをキアスム的に反転させて見る
ならば、 すなはち、「す(捨)てお(置)く」/»lassen«ことにも
なっているのだ。そして、その「す(捨)てお(置)く」/»lassen«こと
が、「す(捨)てお(置)き」/"abandonment"の「わ(侘)び」、
「さ(寂)び」、さらには「すさまじさ」(『枕草子』の「すさまじきもの」
の「すさまじ」である)を必然的に「みづから(身づ柄/自ら)」にもたらす。

そのことをはっきりと認識しながらも、「『する』(が/我/=)『なる』」
ことをこころ(心)よ(/快)くみづから(身づ柄/自ら)が体現するもの
として受け入れようとすること、それがニーチェにとっての「のぞ(望/臨)み」
だろう。そのことを理解するには、例えば、そのような視点から
ニーチェの"Indem wir tun, lassen wir"と題された文を読んでみるといい。
Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft",
304. Indem wir tun, lassen wir
(zeno.org/nid/20009253556)

928 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/08(日) 11:44:07.79 ID:xR33eEmL.net
»Der Wille Zur Macht«という表現によってニーチェが何らかの「理想」を
目標として示しているとしたなら、その目標は、よくそのようなものとして
誤解されるように「『ますらを(大丈夫/益荒男)』の『をを(乎/雄々)しさ』」
を体現することなどではなく、みづから(身づ柄/自ら)が「由良久多麻能乎
(ゆらくたまのを)」としてあることだろうと私は思ふ。

929 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/09(月) 09:08:23.97 ID:T8W+AWNd.net
»Sanctus Januarius«とは、「ゆきむかふ としの『を』」、「あらたまの としの『を』」である。

万葉集 第4巻 587番
吾形見 々管之努波世 荒珠 年之緒長 吾毛将思
我が形見見つつ偲はせあらたまの年の緒長く我れも偲はむ

万葉集 第3巻 460番
敷栲の 家をも作り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを
生ける者 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば
頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間に 佐保川を 朝川渡り
春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕闇と 隠りましぬれ
(出典 万葉集ナビ)

930 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/09(月) 12:14:19.68 ID:T8W+AWNd.net
ニーチェのドイツ語の表現が、しばしば、日本語の表現を「ぢか(直)に」
想起させるような感覚をもたらし、対応するものとして想起される表現が、
現代の日本語としてそのまま日常的に通用するものであるというより、
むしろ、万葉集の歌の言語表現に代表されるような和歌に典型的に見られ
るようなものであることには、明白な理由があると私は思ふ。

それは、ニーチェの哲学的な思索が、自らの考へを概念としてうまく
まとめることによって分類整理しようとするものなどではなく、まず
なによりも、「こころ(心)の動き」としての»Affekt«を徹底的に観察し、
あらゆる「喩」を駆使して記述描写し、自らの観察を言葉として
表現して伝へようとする「こころ(試)み/心観」であるからだ。
この場合に観察される「こころ(心)の動き」について、「それは
誰のこころ(心)なのか」という問ひを先に立てることは誤りである。
なぜなら、「こころ(心)の動き」が観察されることが、存在者として
想定されるいかなる「主体」の存在にも先立つからである。

そして、そのように存在者として想定されるいかなる「主体」の
存在にも先立つ「こころ(心)の動き」としての»Affekt«を言葉に
して表現して伝へることが、万葉集の歌詠みに代表される、
和歌を詠むこと効験として求められている作用なのである。

931 :過去レスの自己引用:2023/01/09(月) 12:17:10.57 ID:T8W+AWNd.net
838考える名無しさん2021/12/17(金) 10:00:09.640
>>830-831
»Kammer«は、"chamber music"が「室内楽」であるように「内部空間の響き」
を感じさせる表現でしょう。詩人が»Kammerdiener«であるとするニーチェの
言葉の選択には、詩人は、言葉という「内部空間の響き」に仕へる者である
という感覚が働いているのかもしれません。実際、他の箇所でニーチェが
詩について述べていることから、ニーチェは、詩を詠むことは、言葉の
韻律によって神に働きかけようとする行為、さらには神に対して強制力さえ
働かせようとする行為に起源が求められると考えていたことが分かります
(ニーチェ、『喜ばしき知恵』、pp.157-161、「八四 詩の起源について」)。

839考える名無しさん2021/12/17(金) 10:07:50.190
古今集仮名序
力をも入れずして天地(あめつち)を動かし
目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ
男女(をとこをむな)のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり

840考える名無しさん2021/12/17(金) 10:16:44.380
この思索は自然と、「詩の起源について」⇒「言語の起源について」
⇒「意識の起源について」という歩みを辿ることになるでしょう。

932 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/09(月) 12:40:15.12 ID:T8W+AWNd.net
なご・す【和】
〘他サ四〙 やわらげる。なごやかにする。おだやかにする。また、従わせる。
※大観本謡曲・梅(1765頃)「歌の道直なればこそ鬼神をも、和しむくなれ」
(出典 精選版 日本国語大辞典)

この場合、「鬼神」とは、古代ギリシア語における「ダイモーン」/"δαίμων"に
相当する存在者であり、それがどのような「存在者」であるのかを問ふなら、
それが「善き」ものであるとされるにせよ、「悪しき」ものであるとされる
にせよ、「いち(著)しろき『効験』の人格化」であることになるだろう。
ここで、一神教の神との対比において「鬼神」/「ダイモーン」/"δαίμων"
を何らかの「霊(れい)」として再解釈することは、人格化された存在者
として認識される「鬼神」/「ダイモーン」/"δαίμων"を、さらに物象化して
貶めることに他ならない。そのように物象化によって貶められた
「鬼神」/「ダイモーン」/"δαίμων"が、再び人格化されて戻ってくる
とき、それは「幽霊」/《des revenants》として人々にその姿を見せる
ことになるだろう。

933 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/09(月) 12:45:50.49 ID:T8W+AWNd.net
これは、このスレの>>300の書込みで既に指摘したことでもある。

934 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/09(月) 14:34:28.82 ID:T8W+AWNd.net
>>673-674
上の書込みで次のように指摘した。

>このドイツ語の表現法を見ると、日本語の古語における
「いと(絲))を(惜)し」や「ささがにの」(一般的には、古典の和歌の解釈に
おいても、単に「枕詞」として扱われる)という表現における「喩」の
表現法が、特に難しい説明を要することもなく、如実に伝はるであろう
ことが分かる。<

これはなにも古典的な文学におけるドイツ語の表現に限定されること
ではない。別の言語の現代のアイドル歌手の歌詞においても、
愛する相手を待ち望む自らを、巣を張る蜘蛛に喩えたり、
「な(汝/己)のいと(絲)を(惜)しさ」をまさしくそれに対応
するような喩によって表現する歌詞を容易に見出すことができる。
Un Poco de Amor ― Shakira
>Y aquí voy tejiendo redecillas
Para ver si puedo atraparte
Y aquí estoy colando la masilla
En medio de este trópico mortal
Todo por un poco de amor<
(genius.com/Shakira-un-poco-de-amor-lyrics)

Antologia ― Shakira
>Porque todo el tiempo que pase junto a ti
Dejó tejido su hilo dentro de mí<
[...]
>Pero olvidaste una final instrucción
Porque aún no sé cómo vivir sin tu amor<
(genius.com/Shakira-antologia-en-vivo-lyrics)

935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/10(火) 09:23:58.54 ID:NoeWSdE5.net
いまここにある「われ(我)」は、つね(常)にすで(既)に、
みづから(身づ柄/自ら)の「な(名/汝/己)ご(凝)り」である。

万葉集 第4巻 533番
難波方 塩干之名凝 飽左右二 人之見兒乎 吾四乏毛
難波潟潮干のなごり飽くまでに人の見る子を我れし羨しも
なにはがた しほひのなごり あくまでに ひとのみるこを われしともしも
(出典 万葉集ナビ)

936 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/10(火) 11:41:07.68 ID:NoeWSdE5.net
>>818-819
>漢字による言葉の発音の表記に、そのようにして意図せずに付随して
しまうイメージの想起を回避することができるように、「ひらがな」が
開発されたわけだが、それとともに、漢字による表記は、専ら、
その漢字を選択することによって想起される特定の物象化された
イメージを伝へるために用いられることになった。<

現代の日本語では、「ひらがな」が「漢字」と組み合わされて用ひられる
ことが標準となっているので、そのことにより生じた「ひらがな」と
「漢字」の間の役割分担に十分に意識的でないと、漢字だけを用いて
表記された万葉集の歌の表現を解釈するのに、そこで用ひられている
漢字が現在の用法と共通であるように見える場合、直ちに、それらの
漢字が物象化された概念を表現しているものとして認識されて、
漢字によって表記された表現が「どのよう」であることを伝へようと
しているのかに気を配ることを忘れて、表現の解釈を大きく歪める
ことになる。

例えば、「 五月蠅奈周(さばへなす)」とはどのような表現だろうか。
「五月蠅なす」で検索すると、「精選版 日本国語大辞典「五月蠅なす」の解説」
がヒットするが、この解説では、「五月蠅なす」という表現は専ら、
「騒がしい」、「煩わしい」などの否定的な評価と結び付けられて説明されている。

937 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/10(火) 11:55:25.01 ID:NoeWSdE5.net
「五月蠅奈周(さばへなす)」という表記は、万葉集 第5巻 897番のもの
だが、これは自分の子供たちの様子を描写するために用ひられている表現
であり、上に引用した解説では単に、「騒ぐ」「荒ぶ」などにかかる
枕詞とされている。しかし、この場合、「五月蠅奈周(さばへなす)」という
表現は、否定的な評価のイメージを想起させるために用ひられているわけ
ではないはずである。このことは、万葉集において「五月蝿」という表現が
見られるもう1つの歌を見ても明らかだろう。

万葉集 第3巻 478番
大夫之 心振起 劔刀 腰尓取佩 梓弓 靭取負而
天地与 弥遠長尓 万代尓 如此毛欲得跡 憑有之 皇子乃御門乃
五月蝿成 驟驂舎人者 白栲尓 <服>取著而 常有之 咲比振麻比
弥日異 更經<見>者 悲<呂>可聞

ますらをの こころふりおこし つるぎたち こしにとりはき あづさゆみ ゆきとりおひて
あめつちと いやとほながに よろづよに かくしもがもと たのめりし みこのみかどの
さばへなす さわくとねりは しろたへに ころもとりきて つねなりし ゑまひふるまひ
いやひけに かはらふみれば かなしきろか
(万葉集ナビ)

938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/10(火) 12:13:11.95 ID:NoeWSdE5.net
「さばへなす」の「さばへ」には、「五月蠅」という漢字が当てられているが、
「蠅」という漢字は、現代の日本語における「蠅(ハエ)」がそうであるように
否定的な評価をイメージさせる目的で用ひられているのではなく、
「さ(五月)『ばへ(蠅)』」は、その発音が、聴覚的なイメージを想起させる
ように用ひられているのである。「どのよう」な聴覚的イメージかと
言へば、それは、「水泡(みあわ)が沸き立つ音」のような聴覚的イメージ
であり、スペイン語であれば、"burbujear"に、英語であれば、"to bubble"
に対応する。万葉集 第3巻 478番の「皇子乃御門乃 五月蝿成 驟驂舎人」
/「みこのみかどの さばへなす さわくとねり」という表現は、
万葉集ナビの現代語訳では、「その御殿に騒がしい蝿のように
にぎにぎしく仕えてきた舎人たち」とされているが、現代の日本語において
考へるのであれば、むしろ、「バブル時代」を思ひ起こして「沸き立つ
バブルのように」といったようなイメージで捉へることの方が適切だろう。

939 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/10(火) 12:23:57.06 ID:NoeWSdE5.net
>豊葦原の水穂の國は、晝(ひる)は五月蠅(さばへ)なす水沸(みなわ)き、
夜は火瓮(ほべ)なす光る神在り、岩根・木の立ち、水沫(あをみなわ)も
事問(ことと)ひて、荒ぶる國なり。<
青木紀元編、『祝詞 [延喜式祝詞] 本文と訓本』、p.140

940 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/11(水) 13:41:08.42 ID:gMPZezgU.net
>「な(汝/己)のいと(絲)を(惜)しさ」をまさしくそれに対応
するような喩によって表現する歌詞<

>Porque todo el tiempo que pase junto a ti
Dejó tejido su hilo dentro de mí<

「な(汝/己)のいと(絲)を(惜)しさ」⇒
「な(汝/己)のいと(糸・糸)を(心・昔)しさ」⇔
「昔」⇔"todo el tiempo que pase"
「な(汝/己)」⇔"junto a ti"
「いと(絲)」⇒「いと(糸・糸)」⇔"su hilo dejado tejido"
「心」⇔"dentro de mí"

941 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/11(水) 23:24:41.43 ID:gMPZezgU.net
「ますらを(大丈夫/益荒男)の『をを』しさ」とは、「うら」をかへすなら、
つまり、その「こころ(心)のうち」を観るなら、「木(こ)の暗(くれ)の
繁(しげ)き思(おも)ひ」であり、その様態を一言で表現するなら、
「鬱然」/»Trübsal«である。そのことを感じ取ることができないなら、
その「『をを』しさ」と対比される「な(汝/己)のいと(絲)を(惜)しさ」が、
どのようにして互いに「無理」な関係性として現れるのかをうまく捉へる
ことができない。その結果、「な(汝/己)のいと(絲)を(惜)しさ」を
「倫理」の基礎に据えようとするような思想は、むしろ、隠密に
「『をを』しさ」を絶対的に正当化するものとなる。

万葉集 第19巻 4214番
>天地の 初めの時ゆ うつそみの 八十伴の男は 大君に まつろふものと
定まれる 官にしあれば 大君の 命畏み 鄙離る 国を治むと あしひきの 山川へだて

万葉集 第20巻 4398番
>大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 大夫の 心振り起し 取り装ひ
門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取り付き
平らけく 我れは斎はむ ま幸くて 早帰り来と 真袖もち 涙を拭ひ むせひつつ
言問ひすれば 群鳥の 出で立ちかてに とどこほり

万葉集 第20巻 4465番
>隠さはぬ 明き心を すめらへに 極め尽して 仕へくる 祖の官と 言立てて
授けたまへる 子孫の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて
聞く人の 鏡にせむを 惜しき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて
空言も 祖の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫の伴

万葉集 第19巻 4187番
>思ふどち ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひを 見明らめ 心遣らむと

942 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/11(水) 23:26:39.31 ID:gMPZezgU.net
誤:どのようにして互いに「無理」な関係性として
正:どのようにして「『をを』しさ」と互いに「無理」な関係性として

943 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/12(木) 00:02:16.88 ID:kWCdhqy+.net
万葉集の歌に詠まれたものとは時代も地域も社会も大きく異なるが、
レッシングが免官になった軍人とその婚約者を主人公にして描いた
喜劇、『ミンナ・フォン・バルンヘルム』は、万葉集の歌を解釈する
のにも案外、参考になる。

944 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/12(木) 09:22:10.11 ID:kWCdhqy+.net
「ぬばたまの黒/夜/夢」≒
《les ténèbres/la nuit/le rêve, cette échappatoire pour l'âme》

945 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/12(木) 10:00:21.28 ID:kWCdhqy+.net
「菅の根の ねもころ」をどのようにして「ひるがへ」させて
「菅の根」のニヒリズム的な「倫理」にループさせる(云はば、
メビウスの帯を形成させる)かが、統治イデオロギーの課題である。

万葉集 第13巻 3291番
み吉野の 真木立つ山に 青く生ふる 山菅の根の ねもころに
我が思ふ君は 大君の 任けのまにまに [或本云 大君の 命かしこみ]
鄙離る 国治めにと [或本云 天離る 鄙治めにと]

万葉集 第11巻 2758番
菅根之 懃妹尓 戀西 益卜<男>心 不所念鳧
菅の根のねもころ妹に恋ふるにし大夫心思ほえぬかも
すがのねの ねもころいもに こふるにし ますらをごころ おもほえぬかも

946 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/12(木) 12:16:48.30 ID:kWCdhqy+.net
O Mensch! Gib acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief—,
Aus tiefem Traum bin ich erwacht:—
Die Welt ist tief,
Und tiefer als der Tag gedacht.
Tief ist ihr Weh—,
Lust—tiefer noch als Herzeleid:
Weh spricht: Vergeh!
Doch alle Lust will Ewigkeit—,
—will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

(出典 en.wikipedia.org/wiki/Zarathustra's_roundelay)

947 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/12(木) 15:58:59.70 ID:kWCdhqy+.net
誤:「ひるがへ」させて
正:「ひるがへ」らせて

948 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/13(金) 10:50:19.08 ID:X3mnrIoI.net
「いの(祈)る」行為の根底にあるのは、「われ(我)」が「な(汝/己)」
の無事を「いは(斎)ふ」こと、または「な(汝/己)」が「われ(我)」の
無事を「いは(斎)ふ」ことであり、その効験をもたらす作用が神とされる、
ということである。これは、現代の英語でも慣用句となっている
"keep one's fingers crossed"と表現されるジェスチャが何を表現して
いるのかを考えてみてもすぐに分かることのはずであるが、それが
「意味不明」になる、またはキリスト教の神への信仰心/"piety"を
示す行為として再解釈されるのは、「いの(祈)る」行為が、統治
イデオロギーとして利用される制度宗教においてニヒリズム的に
再編されるためである。身内の無事を「いは(斎)ふ」ように
「斎瓮を斎ひ掘り据ゑ」る行為は、はるかに大がかりではあるものの、
「いの(祈)る」行為として、その根底において"crossed fingers"の
ジェスチャと共通している。

万葉集 第20巻 4398番
>大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど 大夫の 心振り起し 取り装ひ 門出をすれば
たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取り付き 平らけく 我れは斎はむ
ま幸くて 早帰り来と 真袖もち 涙を拭ひ むせひつつ 言問ひすれば<

万葉集 第13巻 3288番
>大船の 思ひ頼みて さな葛 いや遠長く 我が思へる 君によりては
言の故も なくありこそと 木綿たすき 肩に取り懸け 斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ
天地の 神にぞ我が祷む いたもすべなみ
(出典 万葉集ナビ)

949 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/13(金) 10:55:34.53 ID:X3mnrIoI.net
以下は、Wikipediaの"Crossed fingers"の項目からの引用である。

>To cross one's fingers is a hand gesture commonly used
to wish for luck. Occasionally it is interpreted as an attempt
to implore God for protection. The gesture is referred to by
the common expressions "cross your fingers", "keep your fingers
crossed", or just "fingers crossed". The act of crossing one's fingers
originates in pre-Christian Western Europe from the pagan belief
that a cross symbolizes perfect unity.<

>In German-speaking countries and also Sweden and Latvia
the gesture is a sign of lying. Instead, wishing for luck is gestured
by holding thumbs. The same gesture is used in many Slavic countries
such as Poland, the Czech Republic, Slovakia, Bulgaria and ex-Yugoslav
republics. In South Africa, Afrikaans speakers also have the related
phrase "duim vashou" meaning "holding thumbs tightly". <

950 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/13(金) 11:42:29.77 ID:X3mnrIoI.net
万葉集で詠まれている歌の多くには、「な(汝/己)のいと(絲)を(惜)しさ」
と「(大君の任けのまにまに仕へることを務めとする)ますらを(大丈夫)の
こころ(心)」の間の「葛藤」を見ることができる。しかし、
統治イデオロギーとしての制度宗教を補完するものとして発展して
きた制度的な学問としての「哲学」は、そのような「葛藤」の如実な
表現に哲学的な思索の跡を認識することができず。それを素朴な
「心情の吐露」としてしか受けとめることができない。
なぜなら、制度的な学問としての「哲学」にとって、「葛藤」とは、
英語であれば"conflict"に対応するもの、つまり、回避されるべき、
もしくは解消されるべき、あるいは少なくとも、最終的には完全に
解消されることが望まれる「対立」に過ぎないからだ。
しかし、万葉集の歌に詠まれる「さな葛(かづら)」という表現が、
否定的な評価で用ひられてはいないことからも明らかなとおり、
歌に明らかに「葛藤」が示されているとしても、その「葛藤」は、
"conflict"/「対立」とは異なり、「うつつ(/現実)」において
解消することができるものとしても、完全に解消されることが
望ましいものとしても捉へられてはいない。だからこそ、歌は、
理想において「うつつ(/現実)」を「ぬ(漏)け出す『たま(魂)』」の
働きとして、その「さそ(誘)ひ」の魅力と危うさに対して
極めて自覚的に詠まれているのである。

951 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/13(金) 22:28:17.25 ID:X3mnrIoI.net
誤:できず。それを
正:できず、それを

952 :新型コロナ(ボレアリス株):2023/01/14(土) 13:40:43.32 ID:KJuqmf8V.net
「な(汝/己)のいと(絲)を(惜)しさ」と「(大君の任けのまにまに仕へる
ことを務めとする)ますらを(大丈夫)のこころ(心)」の間でどのように
してメビウスの帯の如く捩れたループを形成して、統治技法として
活用することができるかについては、「アリアドネ―の糸」を導き
の手がかりとして考へてみることも面白いのではないか。

>One year, the sacrificial party included Theseus, the son of
King Aegeus, who volunteered to kill the Minotaur.
Ariadne fell in love with him at first sight and provided him
a sword and ball of thread (ο Μίτος της Αριάδνης, "Ariadne's string")
so that he could retrace his way out of the labyrinth of the Minotaur.<
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Ariadne)

953 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/15(日) 00:12:27.96 ID:LIpu+gAG.net
万葉集 第4巻 644番
今者吾羽 和備曽四二結類 氣乃緒尓 念師君乎 縦左<久>思者
今は我はわびぞしにける息の緒に思ひし君をゆるさく思へば
いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば
(出典 万葉集ナビ)

954 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/15(日) 08:44:07.07 ID:LIpu+gAG.net
そのときそこに忽然と現れるのがなぜディオニューソスなのか

955 :世継ぎ:2023/01/15(日) 08:54:50.59 ID:LIpu+gAG.net
上の話とは無関係だが、日本語と印欧諸語の間で発音がどのように
類似したイメージで使はれているか探ってみることはなかなか面白い。

この「よ(世)」の春

>Proto-Indo-European *yóh₁r̥ (“year, spring”).
(en.wiktionary.org/wiki/year)

956 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/15(日) 10:25:38.67 ID:LIpu+gAG.net
>Ariadne fell in love with him at first sight and provided him
a sword and ball of thread (ο Μίτος της Αριάδνης, "Ariadne's string")
so that he could retrace his way out of the labyrinth of the Minotaur.<

万葉集 第20巻 4347番
伊閇尓之弖 古非都々安良受波 奈我波氣流 多知尓奈里弖母 伊波非弖之加母
家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも
いへにして こひつつあらずは ながはける たちになりても いはひてしかも
(出典 万葉集ナビ)

この歌からは、「いは(斎)ふ」という言葉が、どのようなイメージで用ひ
られた表現であったのかがよく分かる。

957 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/15(日) 10:39:46.03 ID:LIpu+gAG.net
ところで、"アドリアネ & ディオニュソス"をキーワードにして検索すると、
次のニーチェの言葉の引用がヒットした。ニーチェは、自らの思索との
関連において"アドリアネー"をどのようなアレゴリーとして理解したのだろうか。

>わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!
……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。
そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。
(ニーチェ『この人を見よ』)<

958 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/15(日) 11:00:37.21 ID:LIpu+gAG.net
Dionysos:
Sei klug, Ariadne!...
Du hast kleine Ohren, du hast meine Ohren:
steck ein kluges Wort hinein! –
Muß man sich nicht erst hassen, wenn man sich lieben soll?...
Ich bin dein Labyrinth...

Nietzsche, Friedrich, "Dionysos-Dithyramben", Klage der Ariadne
(出典 zeno.org/nid/20009257241)

959 :Dionysos gegen den Gekreuzigten:2023/01/15(日) 14:32:47.66 ID:LIpu+gAG.net
>>923
>immer durstiger mit allen unsren Zweigen und Blättern in uns
hineinsaugen<
"Die fröhliche Wissenschaft", 371. Wir Unverständlichen,
(zeno.org/nid/20009254234)

>Alles, was bisher »Wahrheit« hieß, ist als die schädlichste,
tückischste, unterirdischste Form der Lüge erkannt;
der heilige Vorwand, die Menschheit zu »verbessern«, als die List,
das Leben selbst auszusaugen, blutarm zu machen.
Moral als Vampyrismus...<
"Ecce Homo", Warum ich ein Schicksal bin 8,
(zeno.org/nid/20009257063)

ニーチェにとって「みどり」と「道徳」は互いに逆数の関係にある、
すなはち、
(みどり)^(-1)=道徳、(道徳)^(-1)=みどり
の関係にあることをはっきりと見てとることができる。

960 :世間之道/虚蝉乃代乃人跡成事:2023/01/15(日) 15:43:17.59 ID:LIpu+gAG.net
万葉集 第5巻 904番
>比等々奈理伊弖天 安志家口毛 与家久母見武登
大船乃 於毛比多能無尓 於毛波奴尓
横風乃 <尓布敷可尓> 覆来礼婆 世武須便乃 多杼伎乎之良尓

>人と成り出でて 悪しけくも 吉けくも見むと
大船の 思ひ頼むに 思はぬに
邪しま風の にふふかに 覆ひ来れば 為むすべの たどきを知らに

万葉集 第9巻 1785番
>人跡成 事者難乎 和久良婆 成吾身者
死毛生毛 <公>之随意常 念乍 有之間尓 虚蝉乃 代人有者
大王之 御命恐美 天離 夷治尓登 朝鳥之 朝立為管
群鳥之 群立行者 留居而 吾者将戀奈 不見久有者

>人となる ことはかたきを わくらばに なれる我が身は
死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ ありし間に うつせみの 世の人なれば
大君の 命畏み 天離る 鄙治めにと 朝鳥の 朝立ちしつつ
群鳥の 群立ち行かば 留まり居て 我れは恋ひむな 見ず久ならば

961 :新型コロナ(ボレアリス株)、或いは明後日の神話:2023/01/16(月) 07:50:33.76 ID:kuKcPeDh.net
私は、反ワクチン派などではないが、それでも、
新型コロナ(王冠)をボレアリス株として極北に収束させることのできる
ディオニュソスは、ワクチンでも、製薬会社でもないだろうと思ふ。

962 :等己与(とこよ)能(の)久尓(くに)の天乙女:2023/01/16(月) 22:10:10.82 ID:kuKcPeDh.net
「『を(終)ふ』のさき(崎/先)」、「『を(終)ふ』のうら(浦/裏)」、
すなわち、「任務を『を(終)ふ』こと」/"mission accomplished"の後には、
どこで誰が待っているのか?

万葉集 第5巻 865番
伎弥乎麻都 々々良乃于良能 越等賣良波 等己与能久尓能 阿麻越等賣可<忘>
きみをまつ まつらのうらの をとめらは とこよのくにの あまをとめかも
(出典 万葉集ナビ)

963 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/16(月) 22:49:11.72 ID:kuKcPeDh.net
日本語の「世/代(よ)」は、竹の節と節の間も「よ」と呼ばれて、
「世/代(よ)」と語源的に共通であると推察されることからもはっきり
と分かるとおり、基本的に"temporal"であり、たま(魂)かぎ(限)る
「うつしよ(現世)」のことである。「等己与(とこよ)」の、つまり、
自己同一的なものとして与えられている抽象的な時空間がまず
想定されているわけではなく、また「うつしよ(世/代)」は、必然的に
みづから(身づ柄/自ら)の「いき(息/生)のを(緒)」、
「たま(玉/魂)のを(緒)」と結び付いているので、つねに状況的であり、
時間と空間が別々に分かれて捉へられることもない。
さらに、「『を(終)ふ』のさき(崎/先)」、「『を(終)ふ』のうら(浦/裏)」
として理想化される「等己与(とこよ)」も、自己同一的なものとされて
はいるものの、時の移ろひを失った永遠無限の時空間としてイメージ
されているのではなく、いくらめぐ(廻)っても飽くことのない時空間
的な回遊としてイメージされている。

temporal (adj.)
late 14c., "worldly, secular;" also "terrestrial, earthly; temporary,
lasting only for a time," from Old French temporal "earthly,"
and directly from Latin temporalis "of time, denoting time;
but for a time, temporary," from tempus (genitive temporis)
"time, season, moment, proper time or season," from Proto-Italic
*tempos- "stretch, measure," which according to de Vaan is from
PIE *temp-os "stretched," from root *ten- "to stretch," the notion
being "stretch of time." Related: Temporally.
(出典 etymonline.com/search?q=temporal)

964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/17(火) 11:05:53.85 ID:WeyBF3V+.net
>「国恩を報ぜん事を思ふて心を尽せば、世人(セジン)称して山師といふ」
(出典 精選版 日本国語大辞典)

965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 09:54:51.05 ID:ITU/0V7K.net
ところで、昔、犬を飼っていたが、犬も睡眠中に寝言を言うことがある。
といっても、唸ったり、吠えるような声を出すだけのことだが、
それでも、犬も夢を見ていることが分かる。私自身は、子供の頃は、
夢を見ることがよくあり、空を浮遊しているような夢がとても多かった。
自分の意志で飛んでいるのではなく、勝手に体が空に浮遊している夢である。
では、犬も夢を見ているとき、空を飛ぶ夢を見ることがあるのだろうか。
これは、私にはよく分からない。他方、仮に他の動物、例えば、コウモリとか
鳥とかも睡眠中に夢を見るとすれば、コウモリや鳥が見る夢が
空に浮いたり、空を飛ぶ夢ではないだろうことは、間違いないだろうと
私には思へる。

966 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 10:02:31.07 ID:ITU/0V7K.net
なぜそう思へるのかと言へば、それは、夢、すなはち、出来事に向けら
る意識が低下している間の思考の働きもやはり、身体的な感覚と
切り離されてはいないからである。睡眠中に浮遊しているような
夢を見るのは、寝ている間は横になっていて、目が覚めているとき
の姿勢とは異なり、足に体重がかかっていないからだといったよう
なことをどこかでニーチェが指摘していたが、これは、そのとおり
だろうと私も思ふ。犬が空中を浮遊しているような夢を見るかどうか
は分からないが、仮にコウモリや鳥が夢を見るとしても、その
睡眠中の姿勢が、浮遊しているような身体的な錯覚を生じさせる
とは考えられない。むしろ、錯覚を生じるとすれば、地上に落下する
ような感覚ではないだろうか。

967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 11:22:16.07 ID:ITU/0V7K.net
なぜ突然、こんなことを言い出したのかと言ふと、それは、日本語の
古語であれ、その他の言語であれ、言葉を表現として如実に伝はる
ためには、その表現が、共通する身体感覚と結びついているものと
前提とすることができることがとても大切だからである。
言葉の機械学習や機械翻訳などが話題とされるとき、しばしば、
そのことがまったく見落とされているように私には思へる。

968 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 11:23:38.10 ID:ITU/0V7K.net
誤:言葉を表現として如実に伝はる
正:言葉が表現として如実に伝はる

969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 12:02:51.58 ID:ITU/0V7K.net
万葉集 第17巻 3981番
>安之比奇能 夜麻伎敝奈里C 等保家騰母 許己呂之遊氣婆 伊米尓美要家里
>あしひきの やまきへなりて とほけども こころしゆけば いめにみえけり
(出典 万葉集ナビ)

現代の日本語における「夢(ゆめ)」は、古語では、「ゆめ」ではなく、
「いめ」である。岩波古語辞典では、「いめ」は「寝(い)目(め)」である
と説明されるが、以前から指摘するとおり、この「い」は、それが後に「ゆ」
に変化したことからも明白なとおり、発音上の区別は存在しなかったに
してもやはり、""i"ではなく"yi"(したがって、"yu"に移行しうる)として
イメージされただろうと考えられ、例えば、「ぬばたまの『夜の夢/
用流能伊昧)』にを継ぎて見えこそ」(万葉集 第5巻 807番)と詠まれるとき、
「ぬばたま」、すなはち、「たま(魂)が自ずとぬけ出す」ことは、
「夜(よる)」の「よ」/"yo"、「夢(いめ)」の「い」/"yi"の発音が想起
させる作用の様態と結び付けられてイメージされているだろうと思ふ。

と、ここまでが前置きで、ここで本題にしようと思っているのは、
「な(汝/己)のいと(絲)を(惜)しさ」に対応する表現がその歌詞に
見られるとして上に引用した、コロンビア出身の人気歌手、Shakira
のヒット曲、"Antologia"に用ひられている別の表現、
>Despegaste del cemento mis zapatos
Para escapar los dos volando un rato<
についてである。
また後で続きを書き込むことにする。

970 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 14:07:08.32 ID:ITU/0V7K.net
>Despegaste del cemento mis zapatos
Para escapar los dos volando un rato<
という言葉は、こひ(恋)する本人から見た表現であって、
その同じ状態を第三者が冷ややかに評価して日本語として言葉にするなら、
「束の間のこひ(恋)にうつつをぬかしている」ということになるだろう。

なぜそうなるのか、説明しよう。
まず断っておくが、"zapatos"と"rato"は、歌詞において先行する句である
"olfato"と"gatos"と韻を踏んでいるが、ここで私は、そのような詩の技法
について述べるつもりはまったくない。ここに引用した句を単純に辞書的な
意味から直訳すると、
「あなたは私の靴をセメント/コンクリートからはがした
少しの間、ふたりで飛び立ってぬけだすために」といったようなものとなる。
辞書的な意味から言って、日本語のカタカナ語として定着している「セメント」
の場合と同様に"cemento"は「接合材」であるが、それが「固まった状態」
のコンクリートでもあり、「接合」の作用に対しては、"despegar"を「はがす」
と理解することが適切であるものの、"despegar"は、自動詞としては
「離陸する」ことを意味するように用ひられるので、そのイメージが
「飛ぶ」ことを意味する"volar"によって喚起される。ここで、その逆の表現
を日本語で考へてみると、「地に足をつける」という表現がただちに
思ひ起こされるが、同時に私には、英語の"boots on the ground"という
、少なくとも私にはなかなか嫌な命令的な響きの感じられる表現も
想起される。"boots on the ground!"というのは、要するに、
机上の議論/空論はもういいからとにかく、「実働部隊となる兵士を
現地に派遣しろ」という指示である。

971 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 14:16:54.01 ID:ITU/0V7K.net
>その同じ状態を第三者が冷ややかに評価して日本語として言葉に
するなら、「束の間のこひ(恋)にうつつをぬかしている」という
ことになるだろう。<

ここで「うつつ(現)をぬかす」の「うつつ(現)」は、「うつ」は、
「うつしよ(現世)」の「うつ」であるが、これは、「うつ伏せ」
という表現にも見られるとおり、地表のような「表層についた様態」
を表現し、「つ」が繰り返されるのは、その「ついた状態」の
継続性を伝へるためである。したがって、「うつつ」は地に足を
つけている現実的な/現世のあり方であるが、「〜をぬかす」
が表現しているのは、ちょうど、スペイン語の歌詞の"escapar"
に対応するように、また「ぬばたま」の「『ぬ(漏)』ば」に
対応するように、そのあり方を「ぬ(漏)ける」ことを意味する。

972 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 14:25:00.16 ID:ITU/0V7K.net
と、ここまでは、今回は、スペイン語の歌詞に対応させてはいるものの、
実は以前にも別のところに書き込んで説明してきたことの繰り返しに
過ぎず、私自身にとっては特に面白いところはない。興味深く感じられる
のは、この歌詞に見られる"Despegar del cemento"という表現と
日本語の古語の「こひ(恋)」の対応関係の可能性を考えてみることだ。
万葉集の多くの歌において、「こひ」は、「古(こ)非(ひ)」と表記
される。既に見てきたとおり、現在の日本語の用法から見れば、単なる
発音表記のためのご都合主義的な当て字に見える万葉仮名の表記法も、
これらの漢字を選択し、優先的に用ひた人々にとっては、表現上、
それなりの妥当性が感じられていたはずである。

973 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 14:45:36.36 ID:ITU/0V7K.net
「頑固おやじ」と言えば、「古い考えに凝り固まった年配の男性」を
思い描くが、Wiktionaryの記載によれば、中国語としての漢字の
中古音としても、「古」と「固」と「故」は同じであるとされ、
「古」は、「固」や「故」の代替の表記としても用ひられたとされる。
「非」が漢字の用法として否定の作用を想起させることは自明なので、
「こひ(古非)」という表記が「こひ(固非)」をイメージさせた可能性
を考へてみるなら、"Despegar del cemento"という表現が想起させる
イメージと対応させてみることも、面白いのではないかと私には
思へる。

万葉集 第14巻 3475番
古非都追母 乎良牟等須礼杼 遊布麻夜万 可久礼之伎美乎 於母比可祢都母
恋ひつつも居らむとすれど遊布麻山隠れし君を思ひかねつも
こひつつも をらむとすれど ゆふまやま かくれしきみを おもひかねつも

万葉集 第14巻 3568番
於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎
後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを
おくれゐて こひばくるしも あさがりの きみがゆみにも ならましものを
(出典 万葉集ナビ)

974 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 15:04:11.16 ID:ITU/0V7K.net
ここで私は何も、古語の「こひ(古非)」という表現についての私の提示
する解釈が妥当である可能性が高いというようなことを主張するつもり
はない。私が言ひたいのは、言葉が表現としてどのようなことを伝へよう
としているのかを理解しようとすることは、まさしくその言葉が
どのような表現なのかを問ふ試行錯誤と切り離せないといふことであり、
また、その「どのよう」であるかを問ふためには、共通するものとして
前提にすることができる身体感覚を探ることが欠かせないといふこと
である。私には、機械学習や機械翻訳がそのような試行錯誤によって
言葉を「表現」として「身につける」ことができるようになるとは
思へない。

975 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 15:24:57.77 ID:ITU/0V7K.net
>古語の「こひ(古非)」という表現についての私の提示する解釈が妥当
である可能性が高いというようなことを主張するつもりはない。<

妥当である可能性がどの程度あるか不明であっても、そのような仮説
を念頭にひとつひとつの歌がどのようなことを伝へようとしているのか
解釈を試みるのと、何の仮説もなくただ「古非(こひ)」を現代語の
「恋」に機械的に置き替えて(またそれ以外の表現についても同様に
処理して)、現代語として意味が通るように歌を理解しようとするの
では、感じられるものがまったく異なる。

976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 16:41:50.89 ID:ITU/0V7K.net
日本語の古語の「こ」については、「こひ(恋)」の「こ」の発音が甲類の「こ」
に分類され、「こ(乞/請)ひ」の「こ」の発音が乙類の「こ」に分類されて、
一般に、甲類/乙類の「こ」の間で用法に何らかの機能的な区別があったで
あろうことが知られており、「来」の漢字そのものが乙類の「こ」として
用ひられていることから、現代語の「く(来)る」、「き(来)た」、
「こ(来)い」の「こ」に対応するイメージを乙類の「こ」が担っていた
ことは明らかだが、甲類の「こ」については、私にはその機能な用法の
イメージがまだよく分からない。ただ、歌の詠み手により、甲類/乙類
の「こ」の区別が明確に意識されたかどうかにもかなり違いがある
可能性は考へられるだろうと思ふ。

977 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 20:43:24.34 ID:ITU/0V7K.net
「こひ(恋)」には、「古非」の他に「孤悲」、「故非」、「古比」などの
表記もあり、このなかで「孤悲(こひ)」の表記は、そのイメージが
現代の日本語としても分かりやすいが、「こひ」という表現そのものは、
語源的に考へればやはり、甲類の「こ」によって表現される何らかの
作用の様態の「〜ふ」による再帰形だろうと私は思ふ。ただ、
その甲類の「こ」が表現していたであろう作用の様態が私には、
まだどのようなものであったのかよく分からない。
「こひ(恋)」は、その表記が「古非」であろうと、「孤悲」であろうと、
「故非」であろうと、基本的に「しげ(繁)き」ものとされ、気持ち
というよりも、波や風のように「絶え間なく」作用する動的なもの
として捉へられていたようである。そのことからは、「戀」の漢字
の「䜌」が「乱れ」を表現していることと相俟って、英語の
"tumult"や"turmoil"が私には想起されるが、そのような連想が働く
というだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。

978 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 20:47:50.38 ID:ITU/0V7K.net
そのような連想からは、次のような歌詞も想起される。

Dónde estás, corazón - Shakira

>¿Dónde estás, corazón? Ven regresa por mí
que la vida se me vuelve en ocho si no estás aquí. <

979 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/18(水) 20:56:27.89 ID:ITU/0V7K.net
昔、私がこの歌手のファンだと勘違いした人がいたが、私はこの歌手の
このアルバムの曲と歌詞と歌手としての声の使い方の技巧を高く評価
しているだけで、歌手に何らかの思い入れがあるわけではない。
そもそも、私には音楽鑑賞のセンスが完全に欠如しているので、
音楽だけを聴いて時間を過ごすことがなく、歌詞に対する関心と
切り離して歌手のファンになるようなこともない。

980 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/19(木) 09:38:09.82 ID:5kS/L8dc.net
>「こひ(恋)」は、[...] 基本的に「しげ(繁)き」ものとされ、気持ち
というよりも、波や風のように「絶え間なく」作用する動的なもの
として捉へられていたようである。<

実際、万葉集ナビのサイトで「しげき」をキーワードにして検索すると、
「しげき」とともに「こひ(恋)」という表現が用ひられている歌が数多く
ヒットするが、それらの用例も含めて、「しげ(繁)き」という表現の
使はれ方を概観すると、それが、英語の"frequent"に対応するような
感覚で用ひられる表現であることがはっきりと分かる。

万葉集 第10巻 1920番
>春草之 繁吾戀 大海 方徃浪之 千重積
>春草の繁き我が恋大海の辺に行く波の千重に積もりぬ
>はるくさの しげきあがこひ おほうみの へにゆくなみの ちへにつもりぬ
>frequent (adj.)
mid-15c., "ample, profuse," from Old French frequent, or directly
from Latin frequentem (nominative frequens) "often, regular,
repeated; in great numbers, crowded, numerous, filled, full,
populous," which is of uncertain origin. Watkins says probably
from PIE *bhrekw- "to cram together," and compares Greek
phrassein "to fence in," Latin farcire "to cram," But Beekes
regards the connection to the Greek word as "quite uncertain."
Meaning "common, usual" is from 1530s; that of "happening
at short intervals, often recurring" is from c. 1600.<
(出典 .etymonline.com/search?q=frequent)

981 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/19(木) 09:51:02.57 ID:5kS/L8dc.net
以下のような歌の事例を見ると、万葉集の歌において詠まれる
「こひ(戀)」を「こころ(心)の"turmoil"」としてイメージすることは
妥当であるように私には思はれる。

万葉集 第17巻 4019番
麻射可流 比奈等毛之流久 許己太久母 之氣伎孤悲可毛 奈具流日毛奈久
天離る鄙ともしるくここだくも繁き恋かもなぐる日もなく

万葉集 第15巻 3767番
多麻之比波 安之多由布敝尓 多麻布礼杼 安我牟祢伊多之 古非能之氣吉尓
魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに

万葉集 第11巻 2595番
夢にだに何かも見えぬ見ゆれども我れかも惑ふ恋の繁きに
いめにだに なにかもみえぬ みゆれども われかもまとふ こひのしげきに

万葉集 第11巻 2366番
真十鏡 見之賀登念 妹相可聞 玉緒之 絶有戀之 繁比者
まそ鏡見しかと思ふ妹も逢はぬかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこのころ

万葉集 第12巻 2917番
寤香 妹之来座有 夢可毛 吾香惑流 戀之繁尓
うつつにか妹が来ませる夢にかも我れか惑へる恋の繁きに

万葉集 第7巻 1378番
木綿懸而 齊此神社 可超 所念可毛 戀之繁尓
木綿懸けて斎ふこの社越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに

982 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/19(木) 09:58:52.05 ID:5kS/L8dc.net
>turmoil
a state or condition of extreme confusion, agitation, or commotion<
(出典 merriam-webster.com/dictionary/turmoil)

このようなイメージからは、日本語の古語の「こひ(古非/故非/戀)」
を「こ・ふ」という再帰表現の名詞化と見るなら、「古」⇔「固」の
関係性から類推して、「古非(こひ)」という表記は、甲類の「こ」
の発音によって表現される「固定化の作用」の「〜ふ」による
「ひっくり返し」と見ることも可能であるように思へる。

983 :テンペスト:2023/01/19(木) 10:05:51.21 ID:5kS/L8dc.net
>「この大地にあるものはすべて、消え去るのだ。そして、今の実体のない
見世物が消えたように、あとには雲ひとつ残らない。私たちは、
夢を織り成す糸のようなものだ。そのささやかな人生は、眠りによって
締めくくられる」
("Yea, all which it inherit, shall dissolve, and, like this insubstantial
pageant faded, leave not a rack behind. We are such stuff as
dreams are made on; and our little life Is rounded with a sleep."<
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/テンペスト_(シェイクスピア))

984 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/19(木) 14:37:08.05 ID:5kS/L8dc.net
ところで、Chaucerの"The Canterbury Tales"の対訳本を眺めていると、
序文からとても大切なことが書かれている。それは、Chaucerの用ひる
"trouthe"という表現が現代の英語の"truth"にそのまま対応している
ように見えるが、その時代のこの言葉は、現代の"truth"の場合のような
用ひられ方はしておらず、現代の英語であれば、"loyalty"に対応する
ような使はれ方をしているということである。逆に言えば、現代の
欧米のメディアの「真実」と「嘘偽り」についての議論や、哲学/思想
分野で「真偽」の概念を、日本語を母語とする人々が"ture/false"に
直接に対応するものとして扱ふとき、とても重要なことを見落としている
ことになる。それは、"truth"とは、もともと、素直に日本語にする
なら「ま・こと(真言/事)(/誠)」に対応するものであり、"false"は、
その否定、すなはち、「いつは(偽)り」に対応するということである。
したがって、"truth"を「真実」と考へる場合、そこで問題となっている
のは、"factual truth"であり、言明が"true"/「ま・こと(真言/事)(/誠)」
であるとされる場合、それは、その言明が何らかの"fact"/「事実」を
「ま・こと(真言/事)(/誠)」に伝へるものであるということだ。
また、「ま・こと(真言/事)(/誠)」と自然に対比されるのは「いつは(偽)り」
であって、「偽(にせ)」ではない。なぜなら、「偽(にせ)」は、その
発音から明らかなとおり、「に(似)せる」ことを前提としており、
「いつは(偽)り」にそのような前提は必要ないからである。
すると、「相対主義」を問題にするまでもなく、何かについて誰かが
「まことに遺憾です」と言う場合を考へてみればすぐに分かるとおり、
誰かにとってそれが「ま・こと(真言/事)(/誠)」/"true"であることは、
別の誰かにとってもそれが「ま・こと(真言/事)(/誠)」/"true"である
ことをまったく意味しないことが分かる。例えば、試合に負けて
負けた選手が「遺憾」であることは、「ま・こと(真言/事)(/誠)」/"true"
かもしれないが、試合に勝った側の選手からすれば、相手側が
「負けた」という「同じ事実」は、まったく「遺憾」なことではない。

985 :みどりのTruth-conditional semantics:2023/01/20(金) 08:19:29.49 ID:1iTXkJB3.net
>'snow is white' is true if and only if snow is white.

>>713-716
'the infant is みどり' is true if and only if the infant is みどり.

986 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/20(金) 08:28:30.44 ID:1iTXkJB3.net
これが所謂、真理の探究である。

987 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/20(金) 09:20:02.00 ID:1iTXkJB3.net
このようにきちんと論理的に真理を追究するなら、上に書き込んだ
「ニーチェにとってみどりと道徳は互いに逆数の関係にある」という言明
が真理である、すなはち、ま・こと(真言/事)(/誠)/trueのことわりである
ことも、誰にでも理解できるようになるのではないかと私は思ふ。

988 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/20(金) 16:54:03.20 ID:1iTXkJB3.net
>>985
「乳呑児がみどりである」ことの真理条件と私の個人的な人格や性格が
どのように関係しているのか、私にはさっぱり理解できないのだが、
このようなことを大学の研究機関で指導するような地位にある学者を
相手に実際に発言すると、まず問題にされる、というより、排他的に
それだけが問題であるとされるのは、私の経験から知り得る限り、
どのようにか大きく偏向しているとされる私の個人的な人格や
性格である。

989 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/21(土) 09:13:46.47 ID:0vNnC6+U.net
「ほんもの(本物)」/"true"と「にせもの(偽物)」/"fake"の対比に関して
言へば、言葉をつか(使/仕)ふ行為そのものが、
「事象がま・こと(真言/事)(/誠)」/trueに『そのよう』である」と
「如(=女・口)実」/"as if so"に互ひにつた(伝)はるように、
「そのよう」であることに「に(似)せ/偽」ようとする相互的な
擬態/"expressing by means of imitation"/faking true"の
こころ(試)み/心観である。

990 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/22(日) 11:22:57.30 ID:jb7e51zl.net
ううしよ(現世)の「現実」/《la réalité actuelle》とは、
《Ça me semble ... 》の「かへ(反)し」としての問ひかけである
《Ça te semble pas...?》を具体的に「こころみる(試)み/(心観)る」こと
を通して《une semblance de la vérité》を追求することによって
もたらされる「似姿」/《une ressemblance》である。

991 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/23(月) 10:15:38.23 ID:hp/bHgFa.net
私自身、ここ5、6年の間にはっきりと気付いたことだが、私は、
眠っている間が最も「頭が良い」。なぜそう確信できるのかというと、
目が覚めて間もなく、まだまどろんでいるときに最も「良い考へ」が
浮かぶからであり、その「良い考へ」は、普通に目が覚めているときに
考えようとすれば、複雑に絡み合った関係性のなかで現れるので、
その「良い考へ」が目が覚めた瞬間に形成されたということはあり
得ないからである。無論、「頭が良い」というのは、考へを「頭の働き」
に由来するものとする現代の日本語の慣用表現に過ぎず、より適切な
言ひ方をするなら、「考への巡りが良くなる」ということになる。
そのことが神秘主義的に思へるとすれば、それは、かつてであれば、
多くの人が、目が覚めたときにそのように「良い考へ」が浮かぶ
経験を「夢のなかでのお告げ」と捉えて、そのお告げが、神仏もしくは
鬼神とされるのであれ、故人とされるのであれ、何らかの人格化された
存在によるものであるとして自他に納得させようとしたからである。

しかし、そのように睡眠中に「考への巡りが良くなる」ことは、特に
私個人に限ったことではなく、本当は誰にでも共通することだろうと
私は思ふ。目が覚めている間に「考へている」というのは、実は、
その場で対処する必要性に迫られて、場当たり的に対応しているだけ
である。例えば、重大な帰結を伴うより大きな決断を迫られた場合、
その場で考へてすぐに結論を出すことは、一般的にも「浅はか」である
とされる。そこで「一晩考へを寝かせる」/"to sleep on it"ことが賢明
であるとされ、そのときに一晩置くのは、寝ている間に「考へを
よく巡らせる」ためであって、心配事を抱えながら、一睡もせずに
どうすべきか悩みつづけるというのは、最悪の対処法である。
なぜなら、目の前の対処すべきとされる問題に意識が囚われている
限り、その問題と絡み合っている様々な事象に気づけなくなって
しまうからだ。眠ることで、場当たり的な対処に追われることから
意識が解き放たれて初めて、問題を、その背景にある、それまでは
所与として無視されていた関係性のネットワークの中でより柔軟に
操作してみることが可能となる。

992 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/23(月) 14:12:03.18 ID:hp/bHgFa.net
英語の"affection"は、日本語としては「愛情」と訳されることが多いが、
「恋(こひ)心(ごころ)」として理解することもできる。
ここで、英語の"affection"に語源的につながるラテン語の"adfectus"
について検索してみると、Spinozaの"Ethica"からの次の命題がヒット
した。
>PROPOSITIO 3
Affectus, qui passio est, desinit esse passio,
simulatque ejus claram, & distinctam formamus ideam.

PROPOSITION 3
Un affect qui est une passion, cesse d’être une passion,
sitôt que nous en formons une idée claire et distincte.<
(出典 u-picardie.fr/ethique/partie5.php)

この命題の言葉で検索してみるとは、英語では、
>Emotion, which is suffering, ceases to be suffering
as soon as we form a clear and precise picture of it.<
日本語訳では、
>受動という感情は,我々がそれについて
明瞭判然たる観念を形成するや否や,受動であることを止める<
(畠中尚志訳?)と訳されているようである。私自身は、かなり昔に
日本語訳の『エチカ』を図書館で借りてきて少し目を通したとき、
そこに書かれていることがいかにも青臭く(「若造である」という意味で)
感じられたので、自分の肌に合わないと感じたため、スピノザの
著作は、ラテン語で書かれた"Tractatus Theologico-Politicus"しか
所有しておらず、(私はラテン語を読めないので)それも読んでいない。
したがって、英訳では、「感情」とも「情動」とも訳すことのできる
"emotion"と訳されている"affectus"を「感情」と訳したことについて、
日本語訳で特に訳注がなされているのかどうかも知らないが、「情動」
と訳した場合には、"e-motion"のように外に向かって動き出すイメージ
が強くなってしまうので、「感情」としたのだろうと想像している。

993 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/23(月) 14:35:34.26 ID:hp/bHgFa.net
それゆえ、この場合、ラテン語の"affectus"を「感情」と訳したことは、
日本語の訳語として適切なのだろうと思ふ。しかし、
"Affectus, qui passio est"を「受動という感情」と訳することが適切
であるとしても、この日本語の表現からは、原文とそのフランス語訳
や英訳を参照することなしには、何が言はれているのかを知ることが
私には著しく困難である。その理由は、ラテン語がフランス語や英語
とは同じ印欧諸語に属するために互いに近いための翻訳からも元の
ラテン語の表現が伝はりやすく、日本語は、印欧諸語とはかけ離れた
言語であるために適切に訳されても、原文の意図がよく伝はらない
といったようなことにあるのではない、と私には思へる。その理由は、
この日本語訳の表現をそのまま借りるなら、日本語訳が最初から
「観念を形成」した表現、つまり、「受動」や「感情」などの
観念/概念に依拠しているために、「受動であることを止め」て
しまっているからである。

994 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/23(月) 15:12:02.40 ID:hp/bHgFa.net
"Affectus, qui passio est"が「受動という感情」と訳されるのであれば、
"passio"/「受動」も、「外に向かう『情動』」ではないにしてもやはり、
「うご(動)かされること」ではあるわけだから、「こころ(情/心)」の
「うごき」であることに違いないだろう。しかし、「うごく」という
表現は、「うご『め』く」としてそれが「累加的」になる場合に
はっきりするように、私には、「表面化の変化が表面に伝はる」様態
を想起させ、"affectus"を「こころ(情/心)のうごき」と言い換えた
のでは、やはり、それが表面化するようなイメージが生じてしまう。
そこで、代わりにどのような表現が可能か考へてみると、私に思ひ
つくのは、"affectus"≒「こころ(情/心)のゆらぎ」/
「ゆらぐこころ(情/心)」であり、"passio"の方は、「受動」という
概念化をその働きに戻すなら、英訳の"suffering"にも対応するように
「こうむ(被)ること」となり、それをさらに古語として逆に辿る
なら、「こうむ(被)る」→「かうぶ(被)る」→「かがふ(被)る」となる。
すると、"Affectus, qui passio est, 〜"≒「こころ(情/心)がゆらぐのは、
かがふ(被)ることであるが、〜」となる。ただし、そのままスピノザ
の命題をなぞってみても能がないので、ここでは、その逆をとって
(それをひっくりかへして)みよう。

995 :伝染(うつ)るんです/infectio:2023/01/23(月) 15:41:05.96 ID:hp/bHgFa.net
>PROPOSITIO 3
Affectus, qui passio est, desinit esse passio,
simulatque ejus claram, & distinctam formamus ideam.<

逆命題
こころ(情/心)がゆらぐのは、かがふ(被)ることであるが、
そのかがふ(被)りは、それをひっくりかへすならただちに、
つた(伝)はるこころ(情/心)となり、ゆらぐこころ(情/心)を
うつすものとなる。

万葉集 第16巻 3858番
>比来之 吾戀力 記集 功尓申者 五位乃冠
このころの我が恋力記し集め功に申さば五位の冠
このころの あがこひぢから しるしあつめ くうにまをさば ごゐのかがふり <
(出典 万葉集ナビ)

996 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/01/23(月) 16:29:22.88 ID:hp/bHgFa.net
>>996を誤記の訂正に使はなければならないのは、とても残念だ。

誤:「表面化の変化が表面に伝はる」
正:「表面下の変化が表面に伝はる」

997 :Affectueusement:2023/01/24(火) 10:29:32.89 ID:bwo35FCf.net
このスレをどのようにを(終)へることにするかしばらく考へてみたが、
私もスピノザになら(倣)ひ、命題を提示することにしよう。

命題 1000
「こひ(戀)は、こころ(情/心)をゆるがすものであるが、
それでもひと(人)がや(止)むにや(止)まれずこひ(戀)にこころ(情/心)ひ(惹)かれるのは、
こひ(戀)こそが、うつしよ(現世)のこころ(情/心)をうつす花だからである。」

万葉集 第13巻 3332番
高山 与海社者 山随 如此毛現 海随 然真有目 人者<花>物曽 空蝉与人
高山と 海とこそば 山ながら かくもうつしく 海ながら しかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人

万葉集 第4巻 771番
偽毛 似付而曽為流 打布裳 真吾妹兒 吾尓戀目八
偽りも似つきてぞするうつしくもまこと我妹子我れに恋ひめや
いつはりも につきてぞする うつしくも まことわぎもこ われにこひめや
(出典 万葉集ナビ)

二番目の歌の「打布裳」という表現に見られる「打布」は、
Wikipediaの記載では、>打敷(うちしき)とは、[...] 荘厳具の一種。
元々は、釈尊の座る高座の上に敷かれていたもので、後に仏像の前の卓の上に
敷かれるようになったのが起源とされる。打敷の「打」には「張る」という意味があり、
卓上に張り敷くことを意味する。内敷とも書き、打布、内布ともいう< と説明されるが、
ここで「打布裳」が「うちしくも」ではなく「うつしくも」と読まれるは、
それが「うつ(現)しくも」との掛詞として用ひられているからであり、
「うちしき(打布)」の表記そのものが定まらず、「上に敷かれていたもの」である
ことから考えて、「現(うつつ)」の場合と同様に、「うつ」がその布によって覆われる
「表面」を表していて、「うつ・しき(敷)」と呼ばれ、その「うつ」に「打」の
漢字が当てられたために「う(打)ち・しき(敷)」と呼ばれるようになった可能性
も考えらえるだろう。いずれにせよ、この歌の場合、「打布」は、「表面を覆う
うつく(美)しい覆いの布」に過ぎない「いつはり」かもしれないという疑念を表現
するために用ひられているので、「うつしき」と読むのが妥当である。

998 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
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999 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/08/01(火) 02:39:32.03 ID:z/SJ28RZA
儿フィの身元にたと゛り着けなかっただの、複数人が名乗ってるだの言いなか゛ら,渡邊逮捕とかと゛う脈絡を付けるつもりなのか見ものた゛よな
結局四六時中スパイ通信してるスマホの情報を集中管理してる曰本に原爆落とした世界最悪のならす゛者國家機関からICPO経由で得た情報た゛ろ
曰本人が海外旅行中に空港て゛突然スマホの中身検閲されて口リポ儿丿持ち込みて゛逮捕懲役にされたり、侵攻前にロシアの内部情報を得てたり
こうした現実を理解て゛きす゛に、スマホに個人情報を詰め込んて゛るお前らのケツの穴から変態性癖,顔情報,指紋,学歴.犯罪歴.知能指数.
SΝSアカウン├.□座情報.位置情報にと、ヱシュ囗ンにデ−タベ−ス化されてる現実を理解せす゛に何かやらかすのはバカだけた゛からな
近年のならす゛者国製ΟSは全て四六時中スパヰ通信してて、これを回避するには、xр以前を使うか.LinuXなと゛OSSを使った上に
torやらて゛発信元偽裝しないとその監視網から逃れるのは不可能なわけだか゛.そんなタ゛ダ漏れの現実を知った上て゛か知らす゛か,スマホに
マヰナンハ゛━機能まて゛搭載しようとか.個人情報を意識してる者ならこのクソシナ顔負けのダタ゛漏れ監視社會化に怒りを覚えたほうがいいな

創価学會員は.何百萬人も殺傷して損害を与えて私腹を肥やし続けて逮捕者まで出てる世界最惡の殺人腐敗組織公明党を
池田センセ―が囗をきけて容認するとか本氣て゛思ってるとしたら侮辱にもほと゛か゛あるぞ!
https://i.imgur.com/hnli1ga.jpeg

1000 :名無しさん@お腹いっぱい。:2023/08/10(木) 02:55:29.56 ID:/nlD2L/WF
rrrrrrrrr121

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