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後味の悪い話 その172
- 820 :本当にあった怖い名無し:2017/11/03(金) 10:13:22.55 ID:p1wC+2wL0.net
- 1946年(昭和21年)に復員。父はすでに死去しており、父に報いるためにも打倒ヒグマ70頭の誓いを新たにし、翌1947年(昭和22年)から狩猟を再開した。
ほかの猟師と協力してヒグマを仕留めたこともあるが、ほとんどの場合は1人で狩猟を行なった。
戦場で培った度胸もあり、毎年1頭から4頭、多いときでは年に7頭を仕留め、1969年(昭和44年)には50頭を達成した。
この頃に周囲の勧めで、5連発のライフル銃を購入。新たな銃の性能も手伝い、
間もなく念願の70頭を達成。地元では祝賀会が開催された。
しかし依然として北海道内では、ヒグマによる被害が続いていた。
周囲の要請もあり、大川は新たに100頭の目標を立てた。
すでに60歳を過ぎており、山に入ることでの疲労が増し、銃の重量にも負担を感じ始める年齢であったが、
1977年(昭和52年)、ついに100頭を達成した。
このうち大川が単独で仕留めたものは76頭を占めている。
それきり大川は銃を置き、猟師を引退した。
その後、事件の犠牲者たちの慰霊碑の建立を計画。
思いを同じにする地元住民たちの協力のもと、地元の三渓神社に「熊害慰霊碑」が建立された。
碑には大きく「施主大川春義」と刻まれた。
1985年12月9日、三毛別羆事件の70回忌の法要が行なわれた。
大川は町立三渓小学校 (のちに廃校) の講演の壇上に立ち、「えー、みなさん……」と話し始めると同時に倒れ、同日に死去した。
大川は酒も煙草もやらずに、当日も朝から三平汁を3杯平らげ、健康そのもののはずであった。
その大川が事件の仇討ちとしてヒグマを狩り続けた末、事件同日に急死したことに、周囲の人々は因縁を感じずにはいられなかったという。
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