2ちゃんねる スマホ用 ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【人に内在する】神言会を語るスレ【良心神】其の参

1 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/03/02(木) 20:24:45.42 ID:27G0Ebn/0.net
神は言葉なりき。

※前スレ
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/occult/1484998236/

799 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 00:02:23.86 ID:Q62WyKoe0.net
>>797(続き)
そこにあるのは「武士は食わねども高楊枝」なのです。
その武士は食わねども高楊枝とは、見栄を張っている意味ではないのです。
やせ我慢をする意味でもないのです。
たとえどんなに貧しい境遇にあっても、貧しさを表に出さず気位を高く持って生きることなのです。
ボロは着てても心の錦、どんな花より綺麗だぜのことです。

悪をすれば面白く生きられる

で悪を選ぶよりも

貧しくても清く正しく生きる

中国の故事(詩経)に「他山の石をもって自分を磨く」がありますが、「他人の生き方や誤りを見て、それを教師として自分を磨く、成長させる」意味ですが、社会の底辺ほど人の素直な心情が出て来ます。

私は社会の底辺に身を置いている時、人の優しさや親切は上の社会に居る方達よりも底辺の人の方が強いと学びました。
人は社会の上に立つと、地位や身分に執着して、自分の地位を守ろうとして実に卑怯な行為に走る方があります。
上司が責任を取らずに部下に責任を押しつける。
表面は善人ぶっていてもそうした人が多いと言えます。
だが、社会の底辺の人は自分を善人面の様な装いはありません。「素」のままです。

私は社会の底辺で「表面は善人、魂は真っ黒け」を見て来ました

小さな欲に負けている人が多い

社会の底辺の者にとってはそんな守る地位や身分は何もないのです。ありのまま、素のままで行けるのです。ですから底辺の人の方が本来の優しさや親切が出て来るのです。
それは薄っぺらいスピリチュアルで「愛」だと言っているものとはまるで違うのです。
自分の【良心であり義であり素】から出て来るものだからです。

そうでないと、その人の魂から発する光など無いのです。

http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=429

800 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 00:09:46.88 ID:Q62WyKoe0.net
ほとんどの方は死後に渡る霊界での自分のことが念頭にありません。

お坊さんが葬式の時に御経を上げてくれたら極楽に往生もありませんし、イエスを神の一人御子だと信じれば天国にも行けません。
イスラム教で神は偉大なりとテロに走っていても天国には渡れません。

天国門で判定されているのはその人の良心。

誠とか義とかの「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の孔子の八徳です。

それらを統括するのが「良心」神なのです。

仏教は「八正道」とした為に、逆に意味が解らなくなってしまったのです。

単純に「里見八犬伝」で行けばよかったのです。

801 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 00:14:28.77 ID:Q62WyKoe0.net
これまでの世は長いもの(蛇が意味する権力)には巻かれよが言われて来ました。それがこの世で生きる智慧だったからです。

為に正しい人達は世の上には立てず、社会の底辺に置かれた。出世をしようと思えば悪に迎合しなければならなかった。

そうした世が終わりますと高らかに宣伝したのが大本教と呼ばれる宗教でした。

しかし、大本教の出口王仁三郎聖師が大本教信徒が、ではその世はいつ来るのかと催促することに対して、そんなに簡単な話じゃ無いと語っておられます。

確かに簡単ではなのです。仕組みそのものは完了しているのです。だがその発動命令は首相の国会解散権と同じで、天がどこでそのカードを切って来られるかが解らない。

正しい者が泣かなければならない世は早く終わりにしなければならないのですが。

802 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 00:21:54.21 ID:Q62WyKoe0.net
>>798
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%97%A1%E6%8F%90

803 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 00:46:13.88 ID:Q62WyKoe0.net
大本教の出口王仁三郎聖師は、自分の曾孫玄孫の時代は人の姿をしていても、人の魂では無い魂が生まれ出て来て可哀想だったか気の毒と言われたとされていますが、今回の福島の放射能の影響の意味ではないのです。
もう出口王仁三郎聖師さんの直系の玄孫さんは既に出ておられます。
それは、人の姿をしていても魂的には人の魂ではない人達が出て来ておられるのです。
それは新人類ではなくて、人の魂ではない魂の人類なのです。
それが何かは、やはり可哀想だし気の毒だから言えませんが、宇宙サイドとしては別におかしくはないのです。
神として高次元に上がることだけが全てではないからです。
それに近い現象は今日までも【魂の食い破り】としてあるにはあったのですが、それとは異にするものが出て来たようです。
もう、この地球が「神や天人を育成する場」としては機能を失っているのです。

人の魂とは【神とも成れる魂】を持った間なのです。

もう神とも成れる魂を持っていない人達に「良心」神を説いても意味を為しません。あるのは「愛」の教えのみです。
そうした魂の人達は宇宙的なことは言われるでしょうが、主の神を説くことはないでしょうし、良心神の意味すら解らず、主の神を拝(はい)することもしないわけです。

http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=189

804 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 00:46:51.77 ID:YPXrfmhK0.net
もはや、自分の生活が継続しているも、基礎のみの上に立ったその場しのぎかもわからん
底辺かもそうでないかも知らん
胸に光があろうが空っぽだろうが
あんまり関係ない

強い芯に基づこうとする理想と、現実のぐらつき
日々紙一重

別に悲観はしてないけど

立派ですねぇ、コピペさんは。ありがとう。

805 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 00:56:52.93 ID:Q62WyKoe0.net
誰かの優しさも

皮肉に聞こえてしまうんだ

そんな時はどうしたらいい?

https://m.youtube.com/watch?v=3Um_xMmE8OA

806 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 03:12:37.80 ID:Q62WyKoe0.net
私達は誰しもある不思議を知ります。

神が正義であると仮定するならば、何故に悪神とか邪神が存在するのか?。

一度神位を保有すれば、魂は汚すことだけでは神位は剥奪されず魂の消滅はありません。
例え魂を汚した悪神であろうと邪神であろうと、魂を潰したり腐らせていなければ消滅はないのです。

そうした事柄を地に墜ちた天使とも言うのです。

何故ならば、如何なる悪神も邪神も悔い改めれば魂の浄化が出来るからです。
だが、その魂を腐らせたり潰してしまえばそれで終わってしまうのです。

私自身は、現に生きている方の腐った魂や潰れた魂を見させて貰いました。その人達はこの世を去れば天国に行かれましたではなく、潰れている魂は破砕されるとは知りましたが、腐った魂がどうなるのかは私が出遭った霊能者の方達からは聞いてはおりませんでした。

仏教で腐った魂は「ダキニ天」に食べられるとします。このダキニ天とは日本では豊川稲荷とされています。で、そこから稲荷に関わると恐いと言う方達があります。稲荷を信仰すれば自分の魂が食べられてしまうです。

私自身は幼少時は豊川稲荷さんを指導神としていましたので、腐った魂を豊川稲荷様は食べられるのかと疑問に思い、豊受様並びに豊川様の御代をしていた師匠に尋ねましたところ、
豊川稲荷とダキニ天では意味が違います。豊川稲荷として神道で信仰するのはよいのですが、仏教のダキニ天として信仰してはいけないと言います。
あまりにも不思議な内容なので意味を教えて下さいと言いましたところ、いずれ貴方もその意味が解る時が来るでしょうと教えてくれませんでした。

807 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 03:19:48.34 ID:Q62WyKoe0.net
その師匠は自分の出身地に引き籠もられてからは疎遠となって、お出会いする機会もありませんでしたが、ある時、師匠の元に居られた豊受様が私の元に来られて、ある女性のことを言われるので、
いい機会だからと思って、その豊受様にダキニ天とは何ですかと聞いたところ、すると、その豊受様がダキニ天とはこういうことじゃとある形相をされたのです。その形相を見て、私は意味を理解しました。

腐った魂を食べるの深い意味です。

仏教は表面的にしか説いていなかったのです。大多数の人は単純な受け取り方をされます。私の師匠がダキニ天の意味を教えず、やがて貴方にも解る時が来ると言ったのも、当時の私ではまだ真の理解力に達していないと思ったからでしょう。

私もその件に関しては質問されても教えません。その意味を受け取れるだけの力量を持った者で無いと教えてもムダになります。もし、質問されたならば、腐った魂などどうでもいいじゃないかでチョンします。

お釈迦様にしても、そんな腐った魂はどうでもよかったわけです。だから、救いの道を説かれなかった。

知識だけを得たいという頭でっかちではなく、そこに深い思考能力がないと神のスケールの大きさが解らないのです。

大事なことは、自分の魂を腐らせない潰さないなのです。それは自己責任なのです。

そうしたことからも解る様に、全ての人に後生(来世)があるわけではないのです。人は死ねば終わりだ!。で、霊界に入らず消え去る方もあるのです。だがそれは、比較的犯度は軽い存在と考えられます。
人は死ねば終わりだからと言って、やりたい放題の悪事を犯すのであれば、仏教で説かれる無間地獄と呼ばれる恐ろしい世界が待っているかも知れません。
どうも無間地獄とは平面的に考えられているようですが、真っ暗闇で降りても降りても降り着かない霊的世界が存在しており、ただ墜ちるのみで底が果てる時が無い。
這い上がれない世界のことではないかと思われますが、例え魂は腐ったり潰れていても、兇悪犯罪者であれば罰としてそちらに行かされるおそれもあるのです。

808 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 03:27:26.62 ID:Q62WyKoe0.net
私は神を畏れて、悪事をせずに善でしか生きようとしない人は小心者かも知れませんが、汝、幸いなりし者と言います。神を畏れ敬い悪事をしない。それでは神も罰する手がないのです。

だが、神が心から欲する者とは、例えこの世で大悪をした者であっても大事をこなして功を為し、悔い改めし者なのです。

小善で動かざる者では世は変えられず、例え大悪の者であっても世を動かす大事を任せることが出来る者なのです。

少善なる者は自分の小さな幸せだけを願い、国や人民をどうするか考えることもせず、ただ自分の価値基準だけで物事を言うわけです。

例えば、織田信長は比叡山を焼き討ちにした。本願寺を攻めた。神仏に敵対した者であっても、肉親間ですら裏切りに裏切りで殺し合う戦乱の世を戦乱無き時代に導こうとしたわけです。

スピで神は愛で何をしても赦されると説く人が後を絶ちませんが、それならば腐った魂や潰れた魂も存在しないはずなのです。

道理を見極めようとしないで、自分を聖人の如く見せる者はそれもまた「臭」い者となるのです。

ですから、常に自分は「いと小さき者」と認識すべきなのです。

もし、貴方が後生(来世)を願うのであれば、お葬式の時にお坊さんが唱えるお経で極楽に行けるなどの信仰ではなくて、自己の中における神性とか仏性に目覚める。
仮に困って一時の神仏頼みから信仰に入ったとしても、神仏は実在する存在として、自分はその神仏に対してどうあるべきなのか?。何が出来るのか?。そこに思考が入らなければならないのです。

それが、自分の目に神の存在は見えずとも、神の使徒として生きることとなるのです。

例え腐った魂でも、捻れ曲がった潰れた魂でも、魂の授け親たる「鬼が云う」の神ならば、その人達にみろく世と呼ばれる世界に入れる魂(鬼が云う)が付与出来るのです。そのみろく世に入れる玉が「水晶玉」と呼ばれるのです。永遠に腐らない潰れない玉です。

本来、創造神に「ウシトラ」金神などの名称はありません。
何故に「ウシトラ」の言葉を出されたのか?。よくよく考えることです。

神の仕組みの大きさが解らずに、己の僅かな知識を振り回すは愚かなり。

http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=292

809 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 03:55:39.85 ID:Q62WyKoe0.net
最初の師匠が亡くなる前に私に言いました。自分は信者さんの育て方を間違えていました。本当は御利益信仰で引っ張るのではなくて、もっと人としての心の在り方を信徒さんに教えるべきでしたと。

私がその師匠に連れられて初めて伏見稲荷山に上がった時、私に自分のところの信者さんの信仰心はどうでしょうかと訪ねられたので、

確かに皆さん熱心な信仰です。しかし、その信仰は神様に何かをして貰おう信仰で、自分が神様の為にどう尽くすのか。何をすべきかが無い。それではその神様を乗り超えられないと言ったのです。

すると、その師匠が、信仰している神様を乗り越えられるのですかと聞かれたので、稲荷神ならば超えることは可能ですと答えておきました。後になって、私が言った意味が理解出来たようです。

基本的に弟子取らずの方でして、弟子を育成して神に仕えさせるはしなかったのです。霊感がある人が相談に来ても、ほとんど使い者にならないと言って、神霊世界に関わらないようにされたのです。現代のスピの講習をして動物霊の容器にさせるとは真逆の方だったのです。

810 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 04:03:54.36 ID:Q62WyKoe0.net
私の師匠は神さんが言われる事は100%正しい式の方でした。だが、その豊受様の神示と言えども外れることはままありました。
正解率としては、私が見るところ70%〜80%です。これは霊能者としてはすこぶる高いのです。100発100中の霊能者は存在し得ません。

普賢岳爆発や阪神淡路大震災を事前に言ったことでも解るように、トップクラスでした。もし存命であれば、今回の東日本大震災も事前に言っていた口でしょう。

ただ、そうした豊受様の神示でもある特徴を知ったのです。それは魂の格が高い方に対しては当たらない。低い方はよく当たるです。
これは豊受様云々ではなくて、その方についている守護神によるとみました。その守護神が高い方は、必ずしも豊受様の意向に従うではないからです。

それはサニワの時でも、低い霊と言えども本音を言わない。愚弄して懸かって来るがあります。ですから、霊の言うことなど100%信じてはいけない。

その師匠も豊受様が私に対して言われる事は、実によく外れる。さすがにそれを不思議に思って師匠が豊受様に聞いたら、
あの者はこの豊受をして見通せない霊界の壁の外から来る力に作用されている。その力が何であるかは豊受とて解らない。この豊受があの者を何とかしてやりたいと思っても、その力にどうすることも出来ぬです。

その師匠が私に言いました。貴方の身に起きる出来事が解る神など日本中探してもいない。世界を探しても居ない。

それは私が子供の頃に臨んだ声は、そなたが何者かは神々にも解らないようにしてあるです。私の背後にある存在は日本では国常立尊様とは一部の霊能者の方達には見えていても、私その者がいったい何者なのかは神々にも解らないなのです。

私がその師匠に感心したのは、カラスの羽根は黒いと解っています。だが、神様がカラスの羽根は白いと言われれば、私はカラスの羽根は白いと言いますです。これがその師匠の絶対なのです。つまり神様の言われることは絶対に外れないの信念です。

私がその師匠にある事柄で注意したところ、それで豊受様が地獄に墜ちて行かれるのであれば、私は豊受様に従って地獄に行きます。そこまでの信念があるので、豊受様もその師匠にはいろいろ教えられたのです。

811 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 04:06:24.58 ID:Q62WyKoe0.net
私の最初の師匠は、神から右を向いて居れと言われれば2日でも3日でも右を向いている方でした。盲目の人の目を開けて上げたいと伏見稲荷山の眼力大神の前で24時間正座して祈り続けて盲目の方の目を開けさせた。

それが私に出来るかと言えば私には出来ません。そこまで出来るのは何故なのかは、私には解りません。違うとすれば根性が違っているのかも知れません。

私はその師匠の行為を見習おうとは思いません。もし必死に祈るとしたならば、そこに自分を動かすだけの大義がない限り、私はそうした行為はしません。

ただ、自己の命を削って他人の命としてあげられた行者の方の行為は私にも解ります。仮に誰かと自分。どちらかの命を差し出せと神から言われれば、私は差し上げましょうとは言えます。別にこの世に何の未練もありませんし、執着もないからです。

私は家族も子供も居ませんから気楽に言えると思われるかも知れませんが、仮に妻子が居ても言えます。例えその子供がそれが孤児になるとしても、その子は親が居なくても立派に育ってくれるでしょう。

なまじ親が甘やかして育てた子供よりも、遙かにその魂はたくましく育つでしょう。

お釈迦様が妻子を捨てて修業に入られたことを、とやかく言う方があります。だが、そのお釈迦様から捨てられた子供は成長するとお釈迦様の元に修業に入り、十大弟子の一人となった。

魂から見ると、この世は魂の修業場で有り、その魂は親の愛情よりも社会の試練をくぐることが磨きになるからです。

本来の神は甘やかしはしないのです。これでもかこれでもかと試練を与え続ける。それはその魂が腐らないようにする為です。その意味が解らなければ魂は「鬼が云う」を理解出来ないのです。

神の愛情とは、甘やかすことではないのです。

812 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 08:54:36.81 ID:YPXrfmhK0.net
>>805
おや、コピペさんは怒ったのかと思いきや、朝からこんな感動曲を聴くとは思わなかった。

昨夜はぐるぐると考えましたが、今朝になってポコッと一つ思いついた事があったんで、
そこからちょっと考えときます
というか、ざんざん書いてあることなのに、理解となると難しい

813 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 09:21:17.26 ID:YPXrfmhK0.net
>>774
ここの神言会のを読んで、念の強い動物についても考えてました。
人に飼われたペットなど、たまに一般的ではないぐらい頭のいいのがいて、その精神の複雑さで一生懸命生きすぎたために、
ここで斬られる狐や狸の類のようなものになってしまったこともあるのではないかと

心当たりがあるような無いような
もしまだ自分と一緒にいるなら、生きてる時と変わらずに守りたいとも考えるわけですが

814 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 12:20:52.81 ID:KPmshuAQ0.net
マズハ風呂ハイリナハレwww
湯船ヨ温泉ヨ
風呂ハイラント臭いノ道理ゾwww
栓ヌケバ渦ゾミエルゾセンタクヨ
トンデ火ニ 悪ノ根 断ちテクレルラシイゾwww
マブタ開いてヨウミナハレ
灰ノ色ハ真白ゾマブタ開いてヨミナハレ

815 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 12:31:37.83 ID:KPmshuAQ0.net
フム…カミガカリ イカント書いてるぞ
カミデカカレ ト書いとる
カカッテイコウカ?www
架かるカナ?

816 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 12:40:11.57 ID:KPmshuAQ0.net
トウ!ジュワ!

817 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 12:51:17.87 ID:KPmshuAQ0.net
アのキゾ秋ヨ秋立ってよドマンナカ
キヲツケナハレ
秋ナガイナー

818 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 13:08:24.92 ID:YPXrfmhK0.net
>>773
そこにある善意ね。
少なくとも自分に向けられた善意や働きかけ。
相手が人であろうがなかろうが

それをきちんと察知して、見逃さず取りこぼさず、阿吽の呼吸ぐらいで反応できるようになりたいのですよ
表面的なことではなく

819 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 13:40:46.79 ID:Q62WyKoe0.net
https://encrypted-tbn2.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQ2QwLm18tVLwI-G697zHlMpRoF1evpVDzxy88wgD7OnYyKkMJ5JAf8Z65f

820 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 14:20:32.86 ID:Q62WyKoe0.net
>>812
実は連想ゲームの要領で数珠繋ぎに書き込みしてるだけなので怒ったようにみえても気にしないでくだされ

>>813
妙に賢すぎる動物は元々人間だったが畜生道に堕ちて反省の期間を経て動物に生まれ変わるパターンがある
とか何とかどっかで読んだ気がしますw

霊媒氏 見てきたような嘘をつき
審神者 扇で嘘を叩き出す

パパン、パン、パン、パン。

821 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 16:04:30.79 ID:Q62WyKoe0.net
ご承知かと思いますが、イエスが説いたのは創造神(唯一神)の到来の日は近い。その為には「悔い改めなさい」を主眼として説いたわけです。だが、あに図らんやイエスが死してから2000年を経ても未だその日は来ないわけです。

仏教でも両部神道に入りますと、山を巡って「懺悔、懺悔」と「悔い改める」ことを唱えるわけです。しかし、口で言うのは易し。行動に移すは難しいなのです。

それは「悔い改めた」ならば、何故に赦されるのか。その基本となる部分がキリスト教にもイスラム教も仏教も、そして日本神道界の神々もその意味の教えが抜けているからです。

蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊など見て来ますと、これらは必ずしも動物霊ではないのです。元は人間であった存在が蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に身替えっている。

そうしたことは多くの霊能者が知っておられます。しかし、そこに【何故?】と言う疑問符をぶつけておられなかった。
それは私の最初の師匠も同じです。神々は蛇や狐だと著本に書いてはいますが、その理由を書いていないのです。意味を理解するまでには行っておられないわけです。

為に間違った方向の教えが進んだなのです。力に頼る方向です。強い者が勝つ、われよしです。

そこに大本教という宗教が起きて、「われよしは行けないぞ」と出たわけです。

そうした神々が力に頼って、創造神に立ち向かえることが出来るかです。

創造神が天下った場合は、「破壊と創造」に入ってしまうのです。

822 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 16:21:59.27 ID:Q62WyKoe0.net
聖書を持ち出して来ると、神は言葉で何々在れと言われたら六日間でこの世が創られた。そして七日目が安息日ですが、それは今が神代七代と言われる時であり、それまでに途方も無い月日を経過しているのです。決して6日ではありません。
みろくの世とは「8」の世。無限(∞)の世と言われるのは、今が「7の世」であるから次の世のことなのです。7の次は8です。そうした理解無しに進むと、創造神の意図が見えて来ません。

これだけ「言葉の仕組み」に示されているにも関わらず、低級霊が見せる光景とかその霊の声に踊らされてしまいますと、創造神が意図される本質を見失うことになりかねません。

私は豊受神や此花咲耶姫神から天帝(創造神)による立替で人類は1人も残らないと聞かされても別に驚きません。
何故ならば私達人類は今日まで【輪廻転生】をして来た存在であり、そうした修羅場を過去にもくぐって来ているからです。
人類にとって最大の【修羅】場は、ラ神で説明した【羅(ラ)】の輪廻転生なのです。

この宇宙は【想像神】の意識から創造されたのです。そして、私達も「意識(魂)」を持ち続ける限り、そこに魂の命たる【死】等は存在しえないのです。

問題は、魂(意識・心)は永遠に不滅!なのか?どうかなのです。

823 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 16:28:41.34 ID:Q62WyKoe0.net
霊的世界において魂とよく似た【残留思念】を消してしまうことは人間で言う殺人の「殺魂」には当たりません。それは「思念」だからです。単に「想い・思い」が重くなって塊となったことだからです。
霊的浄化と呼ばれるものをする時は、そうした「残留思念」を消して行く作業があります。そうした霊的浄化はスピリチュアルは金儲けだ式の方はされることはありませんので、あまり意味がよく理解が出来ていない分野ではあるのです。

人が自分が生きていると実感するのは【想う・思う】からであり、「思う・想う」ことそのものがエネルギーの発散であり、人が想った(思った)ことはエネルギーとして出て行くことにより「思念」が創られるからです。

そして私達の肉体が【想う・思う】ことを止めてしまうと、そこに肉体は存在していても「生きてはいない」と同じ状態に入り込んでしまいます。
私達が「死」と呼んでいるのは、肉体がその「想う・思う」を止めたことにあります。
肉体を持った人の場合その魂の宿る場所は肉体の心臓なので、心臓停止を以て肉体の「死」と定義することに何等問題がないのです。
一方、脳死がありますが、脳死をすればこちらも「想う・思う」にはなりません。肉体を動かす指揮命令系統が破壊されるからです。
機械的に心臓を動かしても、「想う・思う」が無くなれば、それは肉体としては「死」んだのと同じなのです。

仏教において「輪廻転生」からの解脱として「無我」が説かれました

無我に成る=自己の意識を持たない。個々の魂にとって「無我」に成ると言うことは自分という存在を消すことです。
自分という「自我」を消せば、もう「生きている」ではありませんので、そこに【喜怒哀楽】は存在しなくなります。喜怒哀楽は思う(想う)ことから生じるからです。当然そこに苦は無くても逆の楽しいもありません。そこに在るのは「空」のみなのです。

この仏教の教えは【理論】としては正しいのですが、果たしてそれは魂論としては【正解】なのかということなのです。


永遠の命である魂を生かせるということは、善であれ悪であれ「意識・心」を働かせるなのです。


大本教神諭と出されました神示に、【人は自我があっても行けないし、自我がなくても行けない】とあります。

完全【無我】となりますと、魂の死につながるからです。

824 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 16:36:01.08 ID:Q62WyKoe0.net
人は誰しも「欲望」があります。欲望があるから人より頑張れる。努力もします。欲望が悪いのではなくて、【我欲】が行けないのです。

我欲とは、【自分さえよければそれでよい】という身勝手です。自己本位。自己中心です。

人は改心・悔い改めすれば次の世もあると言うのは【我欲】からの脱却なのです。

私が出会ったある悪党は、人は死ねば終わりだ。人は神には成れない。死ねば終わりだから悪をしないと損をする。神は人が困った時だけに助ければいいのだと言いました。
その悪党も困った時には神頼みで、霊能者の元に相談に行くのです。神社に祀られている神霊と人間とが別物だと思っているからです。

それは、仏教においては最初に【魂(鬼が云う)】論が出されていなかったことがそうさせたのかも知れません。自分に魂があるのならば、その魂はどうあるべきかが論議されていなければならなかったからです。

幸い日本では古来より「日本は言霊の幸はふ国」であり、明治に大本教と呼ばれる宗教から「節分の炒り豆の鬼」と日本の「国に常に立つ御言(国常立尊)」として
日本語の言霊の一つである「ス」神論が展開されたことにより、鬼が云うの魂論で【言葉の神】の存在を浮き彫りに出来たわけです。

そこに日本語は言葉そのものが「神学」の紐解きに結びついていて、「魂」論から創造神の存在を知ることが可能となっていたわけです。

​日本語を知れば創造神が存在すると解る日本で、ミカエルだとかガブリエルだ等は必要無きものなのです。

生きるとは、息(自分の心)を吸うことであり。

「想い・思い」で活(いき)きることなのです。

では、魂は【永遠に不滅】なのでしょうか?。

私は魂の修業場で在るこの世において、腐った魂や捻れた魂を拝見するがありました。今の私達に与えられている魂は腐ったり潰れたりします。それは魂とは、決して「永遠に不滅」の存在ではないと言うことなのです。

825 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 16:42:05.29 ID:Q62WyKoe0.net
幽霊などと呼ばれる霊などは非常に「思い・想い」が強くて、自分の肉体が死んだ土地などに地縛霊化しています。
その霊の「思い・想い」などを聞いてあげて、祝詞やお経などでどうか成仏してください式で行くと、その「思い・想い」を捨ててくれた時、本当の霊界にと旅だってくれたりするわけです。
一部のスピリチュアルでは神は「光だ!」「愛だ!」のお題目主義で何をしても赦されるだとバカげたことを言う方が後を絶ちません。
そんなスピリチュアルは、貴方はそんなに地獄界に行きたいのですか?。なのです。

他人を恨めば恨むほどその「思念」のエネルギーは強まって、「私怨」として生き続けることになるわけです。
ただ、「思念」は時が流れることで風化にさらされて消えて行くがあります。そこには「思念」は元々永遠性はないのです。

そこが魂と思念の大きな違いとは言えます。

826 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 16:46:54.66 ID:Q62WyKoe0.net
私が子供の頃に臨んだ声は、人は生まれて死んで生まれて死んでを繰り返していると告げられました。

だが、魂の修業場で在るこの世に転出して「刹那心(この世の僅かな時間)」に溺れて、永遠の命で在る「魂」を腐らせたり潰してはいけないとも告げられたのです。

精神世界においては「死と再生」論があります。だが、こうした死と再生論は輪廻転生とは異にします。
例えば私達が住む地球のような星であっても太陽のような恒星であっても、膨大な年月を経ればやがて星の終焉としての死の訪れを迎えます。
星は爆発してブラックホールに飲み込まれて新しい星にと生まれ変わります。されど、それは星の「死と再生」であっても、人の輪廻転生ではないのです。

私達の魂はこの世の肉体の死を以て霊界にと帰りますが、全ての魂が星の様に粉々にされてまたこの世に出るではありません。
生まれ出る場所の環境において魂にその考え方や思考に変化は起きますが、魂の意識たる本質的なことは昔より受け継いでいるのです。
ですから同じ親から生まれた子供でもその「性格」を異にするのです。

そうした過去世の自分のことを「前世」と言いますが、私達が前世を記憶していないのは「神の温情」からなのです。

本当に神上がりが出来たような方は、よほどの使命がない限りこの世には降りて来ないからです。

自分は何万回とこの世に降りて来た等は、それは自分の過去の行動はほとんど失敗だらけだったに過ぎないのです。

私は何人かの凄まじい人生を送っておられる方を拝見しましたが、それは過去世におけるその方の罪からです。
一般的には【カルマ】として語られますが、カルマを「軽魔」だと思っていると、人によっては恐ろしいほどの出方をするのです。
その凄まじい段階だと霊能者でござい。神でございでどうにかなるではないのです。


私達にとって必要なことは、永遠の命であるところの魂を汚さない。そして自己の魂を高める為には、【高い志(意思)】を持たないと行けないのです。


高い志を持つ意志(石)は宝石のごとく、高い志なくば魂を磨いても光らぬ石となる。


http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=443

827 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 17:31:26.60 ID:Q62WyKoe0.net
大本教神諭に「この金神は禰宜や巫女には憑(うつ)らんぞよ。何も解らん神が憑りて参りて、知った顔を致して種々(いろいろ)と口走りて、肝心の仕組みも解らずに、世の立替の邪魔をいたすから、一寸の油断も出来んから」とある様に、
本当の高次元の神霊は霊能者でございとか、少しの霊感で降りる存在ではありません。まして、石笛を吹いたから降りて来るなどはありません。石笛を吹いたら降りて来るなどは低次元の話なのです。

私の最初の師匠は豊受様によれば、当時の日本では10本の指に入る霊能者。豊受様の御代としては、伏見稲荷大社講社の某支部長さんと双璧。どちらがトップであってもおかしくないと言われていたぐらいで、
近隣の霊能者の方にその師匠の名を告げると、あの先生が言われることならば間違いがないと言われるほどの方でした。霊能者が霊能者を誉めるなどあまりない話です。それぐらい近辺では知られていました。
だが、一人前の霊能者になるまでの間、あまりの苦難に二度も自殺を図られたのですが失敗。いくら死のうと図っても豊受神が自分を死なせないと解った時から、あらゆる試練に打ち勝って来られた人でした。

私は自分では「辛い苦労をして来た」と思っていました。
しかし、豊受様はその師匠に私のことを「あれは苦労が足りぬ。もっともっと試練を与えるつもりであったが、あの者の母親の神力に邪魔されて叶わなかった」と言われたのです。
確かに、私は苦労が足りぬと言われれば足らなかったかも知れません。

828 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 17:34:49.61 ID:Q62WyKoe0.net
神は幸せを授ける存在だと思っている方は、あまり魂に成長がありません。

この世は魂の修業場。この世の艱難辛苦を乗り越えることが魂の成長です。

西洋では「試練は神が与えたプレゼント」の言葉がありますが、神と呼ばれる存在を見る目を改める必要があるのです。

同じ神でも幸せを与えられる者には善い神でも、試練を与えられる者からすると悪神かと言いたいほどなのです。

神を知るとは、学で知ることではないのです。

高い魂を持った人ほど、この世の苦労を味わさせられる為に社会の底辺に叩き落とされることから、さほど学歴はないのです。

人の苦労が解らぬ者に、神のことなど解りません。

何の努力も修業もしないのに神霊が懸かるはありますが、それは初期段階であって、苦労を積まないと魂が磨かれることはないので、結局は低級霊の餌になってしまいます。

http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=327

829 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 17:54:22.79 ID:Q62WyKoe0.net
私が子供の頃に臨んだ声は、『そなたを見てそなたに頭を下げる者はそなたに頭を下げたのではなく、この私に頭を下げたのである。
例え、その者が乞食の様に卑しい身であっても、そなたに頭を下げるのであればそなたも同じ様に頭を下げなさい。
その者がそなたに正座してふれひすのであれば、そなたも正座してふれひすをしないと行けない。
そなたの背後に居るこの私を知る者は永遠の神の世界にと導く』と言われたのです。

それはイエスが説いた「私を見て父を見よ」ではないのです。それだと自分が父なる神式の思い上がった者となります。

私に臨んだ声は、『そなたはバカを演じていればよい。そんなそなたを見るのではなくて、その「バカ」たるそなたの背後に居る神が解らないようでは、使い者には成らない』なのです。

そして、それは私が神の名を振りかざして「思い上がるな」という戒めでもあるのです。

ほとんどの教祖様は「ふんぞり返って」おられます。
そうではなくて、同じだけ頭を下げられる者となりなさいなのです。

本来の土下座は神に対しての敬いの「ひれふす(平伏す)」なのです。

よく威張り散らす者が、「詫びるのであれば、俺に平伏せ」等と要求して来ることがあります。それは自分を神の如く思っている尊大な行為なのです。こうした者達は死後に地獄界へと墜ちて行くのです。

また、いくら神仏に仕えて神仏に対しては頭を下げれても、人に対して頭が下げられずに権力者だけには頭を下げる宗教家も同じです。

己の我が強いから、「己我無(おがむ)」になっていないのです。

830 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/18(火) 18:00:10.83 ID:Q62WyKoe0.net

質問です。米教は魂の心棒にしっかり良心神を立て、世根活動をして禄を積み上げていくことで心の段階を生命的欲望から他者を助け自分も上がっていき、智慧のある如来の段階、最後は神の段階まで成長させていくことを説いているのだと思います。
信仰は、人は言葉を仰ぎ見よと米教にあり、言葉は神だと最近しみじみとわかってきました。
拝むという行為も宇宙やあらゆる生命を創造してくださる根源的唯一神に対してするものだと思いますが違いますでしょうか?



拝むということは、その存在に対して敬意を表することです。全ての人に主の種は宿ります。

その人の発言が主の種の宿りから来るものであれば、それは主の言葉的にもなります。するとその言葉は「尊敬」に値します。尊敬=尊を敬うです。

自分の我が強いと、それが解らないのです。この我を超えて来ないと、本当の「あるがまま」には到達しないのです。

自分が「いと小さき者」と理解しない間は人の言動にも腹が立ちます。自分は「いと小さき者」と理解し始めると、己の我を無にする「己我無」となって来て、「ひょうひょう」とした「あるがまま」になる。すなわち「良寛和尚」の様になって来るのです。

人はなまじ「我」を持つ為に、どうでもいいようなことに自分で苦しむのです。

831 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 19:08:42.95 ID:0oI27zzz0.net
>>818
オジサン今日ミツケテ来たぞwww
意図ハ解らんけども
杯ガアフレルwww灰ノ杯ッテカwww
ヤハリたまに他のスレミルモンダ

832 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 19:19:03.63 ID:0oI27zzz0.net
マサニ成果ナリ小さな実ナリ
善悪オイトイテ正解モ間違いモネ
スバラシイwwwコノ小さな実デモ納得した
コレダヨこれコウデナクテハ行けない
ココニモ書けばイイノニ
確かにソコハソウねwww
銀ノ翼ゾwww意図ハ解らんけどもwww
油ヲ注ガレタヨ 与えよ与えよwww

833 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 19:24:56.32 ID:0oI27zzz0.net
コレハアレよ薄々マジヤナ?ト思ってたよ
ココニ書かないの僕ノセイヤナwwwwww

834 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 19:29:06.43 ID:YPXrfmhK0.net
>>831
そんないいもの見つけたなら、独り占めしないでここに書きなさいよ!

と言いたいけど、雑談するとなんか申し訳ないから默
自分用のスレ立てたら?

835 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 19:30:14.96 ID:YPXrfmhK0.net
默って、なんで黒犬って書くんだろう

836 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 19:43:20.50 ID:0oI27zzz0.net
撤退ヤデマタ
その前に順ヲ
ゴータマさんノ悟りノ順ヨ
逆ゾ何も在るから何もナイノゾwww
有無ノ有ヨ 有間地獄ニセネバミエナイヨ
解脱ヨ
悪ノ仕組ト神ノ仕組悟りテクダサレヨ
糸ハ紡いで糸ヨ織り成し衣結ビ皮ヨ
ホドケバまた別れ
言わないでもワカルッテ?www
両目ヨ良心ノ両親ヨ両親愛ヨ
シツコイけどもwwww両親ハ両親ナンダゾ
ドンダケ〜デモ両親ヤゾwwww
ココ大事よ本当に大事よ
心デキメナハレよ併秋真線wwww

837 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 19:47:02.58 ID:0oI27zzz0.net
>>83
立てないで観戦シトクヨ流れ?おwww
チョットした話サ神言ノwww

838 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/18(火) 20:01:46.87 ID:YPXrfmhK0.net
私も見つけちゃった

839 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/19(水) 13:23:09.37 ID:XfGlvzCy0.net
https://encrypted-tbn1.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRy7QODXOyY_-Npm2-Msg3CNUD3_Pfd9kYeM879xH01UkaATVGvz_taEMmYew

840 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/19(水) 14:13:01.99 ID:XfGlvzCy0.net
霊感頼りの無知なるスピ系、低い世界と関わる霊感で「神は愛であり、何をしても許される」と等と平気で説いている方達は、当然に「閻魔大王」等の存在は否定されます。
何故ならば何をしても許されるのであれば、「閻魔庁」は存在しないのです。ただ、そうした方達が閻魔庁など存在しないと思われた原因は解ります。それは霊界には邪神や悪神が蔓延っているからです。

確かに、仮に【閻魔大王】が存在するのであれば、「邪神や悪神」が存在していることは論理としてもおかしくなります。どうして、閻魔大王は邪神や悪神を取り締まらないのかと言う声は当然起きるでしょう。


閻魔庁とは、正式には閻羅大王が鎮まる「羅(ラ)」城のことであり、人間界に出る為の「来世門」があり、その門をくぐらないと人間界に出て来ないわけです。


その一点であって、霊界で邪神や悪神のままで過ごすのであれば、別に羅城の「来世門」をくぐる必要はさらさら無いのです。ですから、霊界では邪神や悪神のままでいいのです。存在出来ます。

あるがままの意味を理解していない霊能者の方は、どうぞ邪神界や悪神界にと進んで下さい。別に遠慮は要りません。お好きにどうぞ。天帝がお許しくださるでしょう。


天帝の裁きとは、【捌き】の立替で永遠に正神界と邪神界とに別れます。私は子供の時に旧約聖書の神と名乗る声から「永遠の別れ」と告げられた者なのです。

片方は天帝が表に出て来られる「みろく世」。片方は天帝など糞喰らえと言って、やりたい放題をされている神々で万物を育成されたらいいのです。

多くのスピ系の人達が邪神界の神々に味方をされることでしょう。数では圧倒的に正神界が負けるでしょう。邪神界は大賑わいになるでしょう。


悪神や邪神が存在するから「閻魔庁」が存在しないではないのです。

人が霊界で高い位置に行こうとするのであれば、必ず人間界に出て、その人間界での学びにおいて高い霊界へと進めます。

その為にはあの世での「羅城門」をくぐらないといけません。

そこである程度の罪を払って「この世」に出して貰うのです。

841 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/04/19(水) 14:24:20.32 ID:XfGlvzCy0.net
九つ花の真ん中の「41」は単に良心神の為の「ラ」だけではなくて、新たに人間界に進む為の【羅(ラ)】の意味を秘めるのです。
そこに閻魔の意味には魂の「円真」があると説いて来たのです。
これを大本教の出口王仁三郎聖師が出された「ス」神論で行くと、意味が解らなくなるのです。
ですから、出口王仁三郎聖師さんが説かれた「ス」神では似せ型となるので、【美濃か尾張の国から出る国道41号線】で説かしていただきました。
その「ラ(羅)」神論が解れば、大本教が説いた【節分の炒り豆で鬼は外と追われた神】の意味も解るわけです。

節分の炒り豆で追われているのは来世門の門番たる「羅」城の番卒。
京都千本九条の羅城(来世)門には鬼が住むと歌われ、映画「羅城門」もありました。
その羅城(来世)門の門番は牛頭の虎パンツ。牛虎(ウシトラ)金神の配下の羅卒達。
その長官は「国常立尊」様。別名「閻羅(閻魔)大王」。
悪を取り締まる警察官のことを「羅卒」と言いました。
その存在(牛頭に虎パンツ)に対して、皆さんは「鬼(牛頭の虎パンツ)」は外と節分の炒り豆をおもしろ半分に投げておられるでしょう。

それは、国常立尊様を鬼として追う行為なのです。

言葉など関係が無い。自分の直感に従うのが正しいと言う霊感者で、いくら自分は霊界で高い者だと思っていても、さほど高くはないのです。こうした言葉の仕組みをするだけの力などどこにもないのです。


言葉の仕組みは自分の霊感程度で出来ることではないと気付けないとは気の毒な人達です。


げに恐ろしきは邪(蛇)霊の囁きに踊る人達

巳(蛇)帰るも理解出来ず


どこで目を覚ますかは本人次第と言えます。


http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=321

842 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/19(水) 20:38:00.50 ID:XfGlvzCy0.net
私が子供の頃に臨んだ「旧約聖書の神」と名乗る声は、私はこの世の幕を降ろす。次に嬉し嬉しの永遠の世を創ると言われます。私も成長してそれが「みろくの世」と表現されている世界のことだと解って来たしだいです。

大本教神諭予告の【九つ花】を紐解いた時、この仕組みがお釈迦様の本当の悟りを忘れた人達に【五十六億七千万】の仕組みで日本語で「みろく」を現す仕組みだったと解った時には、さすがに度肝を抜かれたわけです。

それまで弥勒の【五六億七千万】の数字がどこから出て来たのか意味が解りませんでした。大本教の出口王仁三郎聖師の太陽系が出来て「五六億七千万」の説明など、天文学からしても論理が通るようなものではないからです。

それが紐解けた時、あまりにも途方も無い大きな仕組みであり、大本教神諭に【誠】の者でないとそのお世話が出来ないとあるように、

単に霊が見えるとか霊の声が聞こえるでは、それが逆に災いとなって言葉の仕組みのスケールの大きさに気づくことが出来ない難しい話になると解りました。

843 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/19(水) 21:06:17.66 ID:XfGlvzCy0.net
その旧約聖書の神と名乗る声は一度この世の幕を降ろして、新しい世の幕が開くと言われたので、それはこの世の舞台の幕が一度は降りて、また新しい演目の舞台の幕が開くことは子供心にも理解しました。


その旧約聖書の神と名乗った声は、このことを世に知らせむ為に、神の芝居の舞台が用意されている。その神の舞台に上がる役には「善」の役もあれば「悪」の役もある。
その神の舞台の主演を演じる者もあれば助演も脇役もある。与えられた台詞(セリフ)が何も無く、ただ神の舞台を通り過ぎるだけの通行役の者もある。それらが混然として神の芝居の舞台が演じられる。
神の芝居の舞台を演じる役者に舞台の上での演技として、高い身分の地位を演じる役とか低い身分の地位の役を演じさせるはあれども、神の芝居の舞台は終われば全員皆同じ立場なり。
今回、高い地位の役を演じさせて貰っても、それは「役目」上のものと知りなさい。 その神の舞台を見事に演じたならば、次の舞台では悪役から転じて正義の役の主演もある。
だが、神の舞台の役の上での悪の演技と言えども、その役者の化粧を落とす時、性根まで悪に染まっていたならば、それはもはや神の役者には非ずと言われたのです。


だが、次の様なことも言われたのです。

この神が脚本を書いて監督する神の芝居の舞台の筋書き(シナリオ)は誰もが知らず。
世に出て居られる神々達もその筋書き(シナリオ)は知らない。
この神が見せる神の芝居の舞台に立つ役者も、この神の筋書き(シナリオ)を知らずに演じることになる。
この神が見せる神の芝居の舞台を見学する観客は、世に出ておられる神々であり、舞台には立たない人民である。
全てが終わったならば、世に出て居られる神々も人民も、こんな「仕掛け」だったのかと驚いて、この神の栄光を讃えるであろう。

そうしたことを告げられたのです。


つまり、【世の大立替とされるものは創造神が見せられる神の芝居たる舞台であり、創造神たる神の存在を神々や人民が知ることであり、全てが終わったならばとんでもないドンデン返しが待っている】なのです。

844 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/19(水) 21:13:08.59 ID:XfGlvzCy0.net
その内容は一度は私達が見ているこの世の天地は崩れてしまうのです。

全てが終わったと思うと、そこには新しい天地が存在しているのです。

だがその新しい天地はこれまで見た天地と何等違和感が無い世界、為にこの地球が次元上昇しただけと判じる方も出るでしょうが、その地球に住むメンバーがこれまでと同じではなくなるのです。

そこには【選別(餞別)】があるのです。餞別を渡されて違う世界に行く人も出るでしょう。 (参考>>720)

845 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/19(水) 21:17:08.72 ID:XfGlvzCy0.net
大本教神諭に【世の立替があると云うことは、どの神柱にも判りていれど、モウ一厘の肝心の事は判りておらん】。

また大本教神諭に【今度の大事業(大望)は人民の知りた事では無いぞよ。神界へ出ておでます神にも御存知ないような深い仕組みであるから】とあります。


しかしながら、その神の芝居の舞台に立つ役者も、何の筋書きも持たせてもらっていないとすれば、誰が主演で誰が助演で誰が脇役かさえ解らないとなります。舞台の役者のメンバーすら誰も解らないなのです。


明治31年の大本教神諭には
【出口直に明治25年に申してある事、この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。
誠の人を西と東に立別けて御用がさして在るぞよ。この事解りて来たなれば、三千世界が一度に開くぞよ。綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ】。


ある意味、世界に一人しか知らないことをいくら言っても、圧倒的多数の人はそれを知らないとなると、いくら叫んでも世の中には通りません。

何故にそんな無体な仕組みをされたのかは、それは創造神のみがその意味を知るなのです。


私が子供の時に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声は、【そなた一人と全人類との戦いぞ】と告げられましたが、世界に一人知りておるの意味とは思いもしませんでした。

846 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/19(水) 21:20:51.33 ID:XfGlvzCy0.net
​大本教関係者はこの神諭の存在を「出口王仁三郎聖師」のことだと思っておられたことでしょう。

だが、出口王仁三郎聖師は「九つ花」を紐解かれることはなかったわけです。

この神諭の該当の役目では無かったからです。

それは、それそれが持ち場持ち場に応じて神の芝居を演じているなのです。


豊受の神様も此花咲耶姫様にしても世の立替はあり、人民は一人も残らないと言われますが、さりとて全てを御存知ではないのです。まして末端の神々ともなれば、立替など話すとそりゃ「何じゃ」と言われます。まったくご存じない有様と言えます。

私なども立替が起きるぞ。立替が起きるぞの空宣伝ばかりで、実際に立替等と言う事態が起きるのかと問われたならば、正直言って解らないとしか言いようがないのです。ただ、万一起きてもそれに対処する道を説くしか出来ないわけです。


何の台本(シナリオ)も渡されておらず、神の舞台を演じろ演じろと言われても、正直なところ戸惑うだけなのです。

豊受の神様にしても、人類は全員死ぬとは言われても、では何時のことなのかと尋ねれば、その時期は解らない。ただ、言えることは貴方は間違いなくその立替の大嵐の中を突破されるだけです。

ただ、解っているのは人類は全員死ぬとしても、聖書で予告されている【復活】にと進むと言うことです。

ただ、それには魂の【更生(甦る)】が必要とされるです。


http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=438

847 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/19(水) 21:33:27.86 ID:XfGlvzCy0.net

今回の内容とは違いますが、私には小さな子供がおります。立替えの時、まだ小さな子供達はカルマの解消や悟る時間がないのではと考えてしまいました。愚問かと思いますがよろしくお願い致します。



子供さんの場合は幼い子は悪いことも「汚れ無き悪戯」と言うように、善悪の判断力が整っておりません。善悪の判断力が無い場合は、魂に汚れは生じて来ないのです。

どこから大人として判断されて行くかは諸論出ますが、13歳位からと思われます。もう物事の善悪が判断出来る歳だからです。

日本の古来の武士の格が高い家では数えの15歳(満だと13〜14歳)で元服で、もう大人として扱われて場合によっては当主として家来すら持ったのです。

17歳〜18歳で子供だと言うのは、甘やかしも甘やかしなのです。

戦前ですと尋常小学校(4年制)と高等小学校(4年制)で、それで社会人となったわけです。14歳になりますか。もう責任が取れる歳なのです。

魂を汚すとは、善悪の判断力がありながら悪に走ると起きて来るのです。世界の宗教の戒律とは、その基準を示しているのです。

人を殺してはいけない。人を傷つけてはいけない。人の持ち物を盗んではいけない。不倫してはいけない。宗教によって説く道徳の観念に差異はありますが、仏教とキリスト教では戒律として大きな差異はないはずです。

しかし、現代の人は仏教でもキリスト教でもその戒律が守れない人だらけになっているなのです。


宗教の根本的間違いは、我が宗教を信じる者は天国で異教徒は地獄に墜ちる。これが根本的誤りなのです。

848 :コピペ@\(^o^)/:2017/04/19(水) 21:41:24.71 ID:XfGlvzCy0.net

今更ながら疑問がまた出てきてしまい、質問させていただきます。すみません。

以前、子供は善悪の判断ができないので、だいたい13歳くらいまでは魂の汚れがないと仰られていましたが、カルマはどうなるのでしょうか?
この世に生まれ出る前に地獄や中有界にいた者は、子供のままでは魂の加点は難しいので弥勒の世に行けないのでしょうか?
また、以前のブログで弥勒の世行きの船に家族で乗ろうとするべきという様な内容が確か書かれていたのですが、可能なのでしょうか?
個々の良心神次第だと思っていたので気になってしまいました。



私は個々の人のカルマまで知る立場にはありません。

一般的に個々の借銭払いであり、借銭が多い人は多いほどその借銭を払う度合いが大きいであり、借銭が少ない人はその借銭払いが少額で終わる。これはどの方も言われるようです。当たり前と言えば当たり前の話です。

早くから禊をしている人は当然禊の量は少なくていいのです。

大本教神諭に早くから知らせているのにその時になって文句を言うなとありまますが、備えあれば愁い無しです。

親の躾が効いているお子さんは親と同様にありますので家族が離れるはないでしょう。

どうあろうとも常に神に任せる信心であれば、そんなことに一喜一憂することもありません。そこに本当の信仰をしている方と、そうでない信仰者が解ります。

だいたい真の信仰者は、自分が助かりたいなど何一つ考えていないものなのです。如何に自分が神の為に尽くすかです。

🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾

お答え頂きありがとうございます。

神様への信仰心が足りませんでした。申し訳ありません。反省致します。
助かりたいという汚い心になってしまっていたのだと思います。
全ては神様の御心のままに。
世の為人の為にすべき事を致します。本当にありがとうございました。

総レス数 848
511 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★