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【神社】寺社にまつわるオカルト話32【寺】
- 1 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/02/19(日) 23:27:04.27 ID:8SpQp6vX0.net
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【神社】寺社にまつわるオカルト話30【寺】
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【神社】寺社にまつわるオカルト話31【寺】
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/occult/1484352928/
- 248 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/03/03(金) 17:09:03.95 ID:uqGhT18x0.net
- 触穢
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A6%E7%A9%A2
触穢とは、神道上において不浄とされる穢に接触して汚染されること。
後に陰陽道などとも結びついて、中世日本の触穢思想へと発展していくことになった。
古来より神道においては人間・動物の死と出産は不浄のものとして禁忌とされ、
また、血の流出や神道における国津罪に相当する病気にかかる事は穢が発生する原因であると考えられてきた。
そこで、これに関連した穢物(死体など)・穢者(既触穢者・非人・女性など)に直接接触する事は勿論、
垣根や壁などで囲まれた同一の一定空間内に穢物・穢者とともにいただけでも場合によっては汚染されると考えられていた
(特に同じ火にあたる事、同席する事、飲食をともにする事は直接接触する事に近い行為とされた)。
感染された人は一定の期日を経るか、祓を受けるまでは神社への参拝や神事への参加、公家の場合には参内を控える事が求められてきた。
『延喜式』においては、人の死穢30日、産穢7日、六畜の死穢5日、産穢3日の謹慎が定められていた。
律令制が衰退すると、触穢は衰退するどころか陰陽道と結びついて強力な迷信として社会に定着して、触穢思想として発展することになる。
触穢思想が前近代における日本人の衛生観念の発展に貢献したという見方がある一方で、
女性や、葬送などで死体の処理を扱う人々(非人)、身体障害者や癩病などの肉体的なハンデを背負った人々、
言語・文化的に相容れない慣習を持つ人々などは、祓などでは清浄化は不可能であり、
その存在自体が穢であるという発想すら生じて差別や偏見を正当化する根拠として用いられるようになった。
- 249 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/03/03(金) 17:11:57.14 ID:uqGhT18x0.net
- 脇田晴子(滋賀県立大学名誉教授)
日本古代にはもともと穢れの観念があったが、祓えば清められる程度のものとして認識されおり、
死の穢れなどを忌む触穢思想のような不浄観は存在しなかった。
七世紀に、百済人の触穢思想による死穢を忌避する風習に人情が薄いと驚いている(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条)。
ところが、触穢思想が朝鮮半島を経由して入ってくると、
それは直接的、間接的に死穢その他に触れている人間を差別する構造に転化することになった。
それは天然痘などの悪疫の流行が、死霊、怨霊のもたらすものと観念されたことからはじまる。
疫死による恐怖感が触穢思想を蔓延させることになった。
たとえば、天皇家の古墳築造や葬送を担っていた土師氏は、葬送のことを司るのは凶事であり、人に嫌がられるとして、
天皇の親戚であることを利用して葬送の責務から外してもらっている。そして姓も大江、菅原、秋篠と改め、外交、文書作成、
学問などの官僚貴族としての道を歩みはじめる(直木孝次郎「土師氏の研究」『日本古代の氏族と天皇』塙書房、一九六四年)。
触穢思想の展開によって、それにかかわる人びとは卑賤視されるようになり、
それから逃れられる人は逃れるから、触穢思想にもかかわらず、それに従事して葬送という死穢に携わったのは、非人たちであった。
しかもこの世に恨みを残して非業の死を遂げた者は怨霊として悪疫病をまき散らすと観念されていたので、
その死体を火葬、埋葬するなどの処理をして清め、鎮魂するのが非人の役割となった。
常に穢れにかかわっているから非人と接触すると穢れると考えられたのである。
- 250 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/03/03(金) 17:14:30.29 ID:uqGhT18x0.net
- https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8764727.html?pg=4
太古の人間の、生命の不思議に対する畏れの感情から自然発生したとも考えられますが、
記紀以降の穢れの観念を象徴しているのは、たぶん、記紀に出てくるイザナミの腐敗の描写でしょう。
しかし、記紀編纂前に外来の文化が入ってきていますし、それ以前の日本には、必ずしも死を穢れとする習俗が顕著には見られなかったようです。
高取正男の「神道の成立」には、日本書紀の記述として、642年、百済の義慈王の子の翹岐が来朝したとき、
従者の一人に続いて子供が一人死んだときの記述が引用されています。
是の時、翹岐と妻と、児の死にたることを畏じ忌みて、果たして喪に臨まず。
凡そ百済・新羅の風俗、死亡者あるときは、父母兄弟夫婦姉妹と雖も、永ら、自ら看ず。
此れを以て観れば、慈無きが甚だしきこと、豈禽獣に別ならむや。
このような態度は、平安中期ごろまでの貴族の喪葬での行為と同じだが、日本書紀では理解しがたい行動とみなされていた、とあります。
「神道の成立」にはさらに、儒教の道徳思想で神道の祓を説明することは難しい、という津田左右吉の説明を引用し、
仏教の母国インドでは、浄と穢の観念は早く「マヌ法典」のなかにみえる、とあります。以下、部分的に引用します。
「無着、世親によって大成された唯識説は、もともと禅定を意味する瑜伽行(ヨーガ)の実践家である瑜伽師によって組織され、伝承された。
・・・世親の祖述した如来蔵説では成仏の可能性を如来像とも仏性とも呼び、
凡夫の心は汚れているが自性清浄心たりうるし、修行によって自性清浄心の全現したものが如来と説いている。
・・・こうした考え方は中国において儒教や道教に大きな影響を与え、それらが一体となって日本に伝えられたことはいうまでもない。
・・・浄穢の観念は宗教的真実を示すものでありながら、即物的に了解されたとき、現世におけるさまざまな禁忌を理論づける格好の論拠を提供する。
「女奴」は下婢であるからではなく、けがれているとの理由で塔に近づくのを禁じられる。
死とか産、血といった人間の生命現象に直結する忌みごとは、死穢、産穢、血穢の三不浄とされ、忌避の理由づけとなる。」
- 251 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/03/03(金) 17:16:24.61 ID:uqGhT18x0.net
- 穢れと結界に関する一考察 「ケガレ」と「ケ」
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/7966/1/itoh.pdf
天武天皇は、陰陽道・先進的文化の摂取に積極的だった人物であった。
また、陰陽呪術の具体的な実践者・理解者であり、その具体的効果を知っていたようである。
陰陽道を利用することが、神秘的な王権の権威の昂揚にもつながり、権力の維持にも密接に関係してくるのである。
陰陽道の日本への影響は『記紀神話』の中にも認められ、イザナギノ命の呪的逃走だけでも、
桃子三箇を使用することで、悪霊を追い返すことや此岸と彼岸を別け隔て、その間に塞の神をおくところなどにも現れている。
拙論「古代の呪術とその分析」名古屋大学大学院国際言語文化研究科修士論文では、
陰陽道など中国的な影響の強い朝廷側の発想と民衆側の発想という文化的基盤の差異が、
災禍をも「タタリ」の信仰と捉える形で発展したと考察している。
中世の「ケガレ」を分析しようとする時、
古墳時代から続く民衆の「ケガレ」の意識とそれとは違う陰陽道の影響を強く受けた朝廷側の「ケガレ」観念が、
双方入り混ざって資料に反映しているため、より複雑で、理解しにくいものなってしまっている。
- 252 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/03/03(金) 17:18:26.60 ID:uqGhT18x0.net
- http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2d50806f9e670d95df1f2000e5657b60
>うーん、罪=穢れと見なされるようになった、ということでしょうか。
この問題については次の文章の中にある部分が参考になるかと。
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho14.htm
「日本の民俗社会における死穢・産穢・血穢などは一時的な穢れであり、一定の手続きによって祓い・浄化が可能であるのに対して、
仏教の業や因果の思想は、現在の被差別的境遇や姿形をすべて過去世の罪業の結果であると説くことによって、
それらを永続化する作用を果たしてきた」
これはおおむね、横井清という人が主張していたことと重なるのですが、仏教側の池見澄隆さんは反論されていました。
「他者や客体のなかに個別的穢れを見る意識から、自己自身の実存のなかに普遍的な不浄や悪業を凝視しそれを主体的に自覚することへの転換」
それが仏教の果たした仕事である、と。
(私が思うに、一般庶民に浸透したのは横井さんの言われることであり、池見さんの言われることは一部の卓越した仏教者の思索ではないかと)
で、次の文章の中の小森さんと門馬さんのとこ。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/odake5-3.html
「穢れ意識というのは、『誰かが誰かを、穢れとしていく事』 という、『関係性の中にある事』としてとらえられる。
別の言い方をすれば、『社会の秩序からはみださせられた(排除された)、それが穢れとして位置づけられていく」
「そして差別とは、差別する側が、差別される側にレッテルを貼る作業で、しかも貼られた側は容易に貼りかえせない。
穢れの場合もそうで、いったん穢れと名指しされた側は自ら剥がすことはなかなか出来ない。」
というのが、おおむね私の考えてることと同じだと思います。
- 253 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/03/03(金) 17:22:24.25 ID:uqGhT18x0.net
- 死穢の概念はいつ現れましたか?
http://kegare.blogspot.jp/2010/12/blog-post_5684.html
縄文時代(紀元前14000年−紀元前300年)に死体をこの人は生きている時に住んだ村に葬った。
そして死んでしまった小児が生まれたら、この小児の死体を陶器の中に入り、母の家の入り口の前に葬った。
母は死んでしまった小児の骨壷に立てたら、小児の魂が母の中に戻る事が出来ると思われたためであった。
縄文時代の人は「死んだ人と一緒に生きていた」−死体の近くに住んでいたため、
たしかこの時代にケガレ(特に死穢)の概念はまだなかったと思われている。先祖の死体を神聖なものとして大事にしたそうだ。
弥生時代(紀元前300年−紀元200年)に死体を葬ることは大きな変化をとげた。
この時代に死体を村の外にある墓地で葬った。弥生時代の人は先祖の代わりに神を神聖なものとして大事にしたそうだ。
死んだ先祖のために儀式がなくなって、死んだ人の体は怖くなったそうだ。
そのために、死穢の概念が弥生時代に現れたと思う人類学者がいる。
この仮説を証明するのは3世紀に書いた「魏志倭人伝」という中国の年代記。
この年代記は様々な日本の儀式についてインフォメーションを含み、葬り方についてもインフォメーションを含んでいる。
魏志倭人伝によると日本人は死体を棺におさめ葬ったということである。
その上、死んでしまった人の家族は10日間に哀悼し、哀悼の時にお肉を食べなかったそうだ。
他の葬式に入る人はたくさん飲んだり、踊ったり、歌を歌ったりしていた。
10日間の後で死んだ人の家族は川に禊をした。禊とは水を使って、ケガレを洗うことだ。
このような死んだ人と接触する後の払うことは初めて「古事記」という712年に書いた日本の年代記で現れる。
古事記によるとイザナミという神は火の神を生んだ後で死んでしまった。
イザナギというイザナミのご主人は女房を見つけるために黄泉の国という死んだ人の国に行った。
女房と会った時、彼女を見ないと約束した。けれどもイザナギは約束を破り、イザナミを見、彼女の腐っている体を見た。
そのため、イザナギは逃げ、泉の中でお祓いをした。古事記は8世紀に書いたため、この時に死穢の概念が現れたと思う人類学者もいる。
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