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後味の悪い話 その166

1 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2016/09/16(金) 13:04:58.91 ID:pwWpD+pD0.net
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不安に駆られたり、体中がむず痒くなるような話を語り合うスレです。

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後味の悪い話 その165
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/occult/1470579168/

243 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2016/10/01(土) 22:49:33.78 ID:Pdx0nFr80.net
成済の話
三国時代、曹操の息子、曹丕によって後漢から禅譲を受け建国された魏であったが、
建国40年後の西暦260年の時点では、司馬懿(孔明の好敵手として三国志演義では描かれている)の息子、
司馬昭によって魏の朝政は牛耳られていた。
魏の第4代皇帝、曹髦(曹丕の孫)は「司馬昭の(皇帝にとってかわろうとする)心は路傍の人はみな知っている」と言い、
無理やり禅譲させられるくらいならまだ自分に皇帝としての権威が残っているうちに司馬昭を追放してしまおうと
皇帝自らクーデタを宣言。(中国史家、岡崎文夫はこれを「一種浪漫的な反抗」と記述している)
ところが曹髦が側近であった王経、王業、王沈にクーデタ計画を告げたところ、王経は曹髦を中止するよう諌めた。
一方、王業、王沈は司馬昭の元に走りクーデタを密告してしまった。
司馬昭は腹心の部下、賈充に対処を命じ、賈充は自分のところで養っていた兵士を曹髦にさしむけた。
(なお、この賈充の父親は曹丕の魏建国のおりに活躍し、死後、曹髦から「魏の忠臣」として祀られた人物であった。)
さすがに相手が皇帝ということで気後れする兵士たちであったが、賈充は
「こういうときのためにお前達を養っていたのだ。全責任は私にあるからさっさと皇帝を殺せ」と命令。
その命令に従い、成済という人物が曹髦を殺害。

244 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2016/10/01(土) 22:51:59.85 ID:Pdx0nFr80.net
司馬昭は「皇帝、曹髦は生前様々な親不孝をした」と皇太后(曹髦の母親)に宣言させ、曹髦の帝位を剥奪。
それでも皇帝殺害の罪は免れないと思ったため、成済が勝手に皇帝を殺したとして、屋根に逃げた成済を射殺。
(三国志演義では凌遅刑(生きたまま切り刻まれる刑)に処せられたことになっている)

ついでにその後の歴史
曹髦を諌めた王経は、曹髦側についたとして母親とともに処刑。
(母親を巻き込んだことを悔やむ王経に、王経の母親は「お前は忠臣として死ぬのだから胸を張りなさい」と言ったという。)
司馬昭の代では皇帝になることはなかったが、その息子、司馬炎は魏から禅譲を受け、晋を建国し、三国を統一。
賈充は皇帝殺害時の功績もあり、その娘、賈南風(色黒の不美人で淫乱かつ乱暴であったと伝わる)は
司馬炎の息子で2代目皇帝の司馬衷の皇后となった。
(ただし司馬衷の暗愚ぶりと賈南風の暴政により晋は内乱に陥り、異民族のために滅亡することとなる)

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