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【朗報】松村沙友理不倫路チューが週刊文春60周年記念の厳選60本記事に選ばれる 1.1

580 :君の名は:2019/06/12(水) 09:15:48.54 0.net
この事件は、4歳から7歳という低い年齢の女児が被害者となり、犯行声明を新聞社に送りつける・野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなどの、
極めて異常な行動を犯人がとったことから、欧米を中心に多発する児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺害事件などとの比較も行われ、
戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された。
特異性が強い事件であったため、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられ、
のちに犯人の父親が自殺したことで「メディアスクラム」をはじめとする報道のあり方が疑問視された事件でもあった。
1989年7月23日、この事件の犯人である宮崎勤が、東京都八王子市美山町で、別件のわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、
八王子警察署に現行犯逮捕された。
取り調べが行われるなかで、8月9日に連続幼女誘拐殺人事件の一部の事件への関与を認める供述を始める。8月10日に供述どおりに遺体が発見され、
その日の夕刊とテレビから大々的な実名報道が始まる。8月11日に誘拐と殺人の容疑で再逮捕され、以後9月にかけて4つの事件への関与を次々と供述する。
また宮崎は逮捕される前から過去の性犯罪者リストによって捜査線上に浮かんでいたとも言われている。
宮崎が自室に所有していた「5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、
これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。
2週間の捜査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像が発見された。そして1989年9月2日に起訴に踏み切り、のちに宮崎の供述により遺体が発見されたため、
一連の事件犯人として追起訴した。
宮崎は公判において、「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「俺の車とビデオを返せ」など、不可解かつ身勝手な発言を繰り返していた。
1997年4月14日に東京地方裁判所で死刑判決が下される。通常、死刑を宣告する際は被告人の精神状態を考慮して判決理由を朗読したうえで主文を後回しにするが、
この裁判では例外として冒頭で主文を言い渡された。
その後控訴するも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。
弁護側は、宮崎が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、
弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。この自身の死刑確定について宮崎は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、
面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していた。
死刑確定後、手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していた。
これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。
また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道されたことを「やっぱり私は人気者だ」と語り、
殺害した被害者や遺族に対しての思いのほどを問われ「特にない。いいことができてよかったと思う」と答えた。
2008年6月17日、鳩山邦夫法務大臣(当時)の下で東京拘置所において宮崎の死刑が執行された。宮崎の口から遺族に対する謝罪、
事件に関する反省の念が語られることはついに最期までないままであった。

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