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ぶらふまーは、お屠蘇でうはうはー

964 :悪魔将軍 :2022/07/05(火) 10:10:27.87 ID:???0.net
東映ヤクザ映画の2大スターだった高倉健と菅原文太。デビューはともに1956年だが、高倉が1964年の『日本侠客伝』でいち早く看板となったのに対し、
菅原は他の映画会社で芽が出ず1967年に東映へ移籍。1973年、任侠路線から実録路線へ舵を切った『仁義なき戦い』でようやくブレイクを果たした。

2人は全12作で共演しているが、1975年に公開された最後の共演作『神戸国際ギャング』に出演したガッツ石松は、その関係性をこう証言する。
「2人の間では文太さんが健さんを立てていた。撮影中、健さんが2階から拳銃で撃たれて壁にぶつかるはずが、壁のないところに落ちてアゴのあたりに怪我をしてしまった。それで撮影は一時中断になったんだけど、
監督がその間に他のシーンの撮影を再開すると言ったら、文太さんが『ふざけたこと言うんじゃねえよ。健さんがケガしたのに撮影なんかできるわけねえだろう』って怒ってやめさせた。
俺にとっては2人ともヒーローで、長男には2人の名を取って『健太』とつけたし、親父が死んだときに健さんがくれたお香と、文太さんがくれた自家製のワインは、心の家宝です」

『高倉健と任侠映画』などの著作があるノンフィクション作家・山平重樹氏は、菅原には高倉への意識が強くあったという。
「この作品の舞台挨拶で、健さんは司会者から『菅原文太という俳優をどう思うか』と質問されて『東映を背負って立つような素晴らしい俳優さんになられましたね』と答えていましたが、
対する文太さんは、本作よりもコミカル路線で当時大ヒットしていた主演作『トラック野郎』の話で笑いを誘っていた。健さんへの対抗意識があったのでしょう。
後年、『健さんを意識していたか』『健さんがいたから違う方向を目指したのではないか』と聞くと、文太さんは『同じことをやっても敵わないとなれば、誰でもそう考えて努力するのではないか』と語っていました」


2014年11月、高倉が死去。菅原は「健さん、東映、映画のことは時間をおいて自分で書きます」と追悼コメントを出したが、その18日後に自らもこの世を去った。

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