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愛の道阿修羅 真・女神転生ウィッチオブフォローワーズ3

1 :宴も高輪テンコー:2022/05/21(土) 16:59:57.53 ID:gdgOmkXK+
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/gamerpg/1638628217/l10 禅スレ
この作業が一番眼精疲労感あるかも。

荒らし煽りにのってはいけません。反応するあなたも荒らしです
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ナンバリングマチガエタヒニン

326 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/07(金) 21:23:17.37 ID:6cgChVoDd
女教皇ヨハンナ(おんなきょうこうヨハンナ、羅: Ioanna Papissa, Ioannes
Anglicus)は、中世の伝説で855年から858年まで在位したとされる女性のローマ
教皇である。
歴史家たちは、創作上の人物と考えている。それは、反教皇的な風刺を起源とし、そ
の物語にいくらかの真実が含まれているために、ある程度の信憑性を持って受け入れ
られたと考えられる。
伝説
13世紀の記述
女教皇ヨハンナの話は13世紀のポーランドの年代記作家オパヴァのマルティン(ドイ
ツではトロッパウのマルティン、マルティン・ポルヌスすなわち「ポーランドのマル
ティン」としても知られる)から主に知られている。彼はChronicon Pontificum
 et Imperatumの中でこう記述している。

レオ……の後、マインツ生まれのヨハン・アングリクスが2年と7カ月4日の間教皇位につ
き、ローマで死んだ。その後一カ月の間教皇位は空位となった。このヨハンは女性であ
ったと言われている。ヨハンは愛人の男の衣服を纏ってアテネに連れてこられた少女で、
彼女は様々の学識に熟達していき、同等の者がいなくなった。その後ローマに行き自由
七科を教え、学生と聴衆の間の偉大な師匠となった。彼女の生活ぶりと学芸の高さは市
中で評判になり、彼女は万民にとってローマ教皇として選ばれるべき人となった。しか
し、教皇位にある間に彼女は愛人の子を身籠った。正確な出産予定日時への無知から、
サン・ピエトロ大聖堂からサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かう途中の、
聖クレメント教会からコロッセオに向かう細い路地で彼女は出産した。死後、彼女は同
じ場所に埋葬された。教皇は常にこの通りを避け、そうするのはこの出来事を嫌悪する
からである。彼女が聖なる教皇の一覧に加えられることもないのは、女性であるためと、
彼女にまつわることの汚らわしさの故である。
つまり、この出来事はレオ4世からベネディクトゥス3世の間の850年代に起きたとされ
ている[1]。

この話の別のバージョンがより古い時代のテキストにも登場する。
もっとも引用されるのは『教皇の書』(Liber Pontificalis)の写本のうちバチカン
でみつかったものの中のアナスタシウス3世ビブオテカリウスについての記述部分であ
り、彼は女教皇と同時代人の筈である。
しかし、この記述は明らかにマルティンの後の時代の書体で、文脈とは全く関係のない
位置に脚注として挿入されている。つまりこれはマルティンの記述を元に挿入されたも
のであり、論拠とはなりえない。また、Liber Pontificalisの他の写本には彼女の記
述は見うけられない。

マリアヌス・スコトゥス (Marianus Scotus) が11世紀に執筆した「教皇についての
年代記」(Chronicle of the Popes) についても同様である。彼女の名前について触
れるもっと古いテキストである写本ではヨハンナという女教皇について触れているが、
これら全ての写本はマルティンの時代よりも新しい。もっと古い時代の写本はこの伝説
について全く触れていない。
女教皇の記述の見られる、マルティン以前のテキストは、ジャン・ド・マイイ (Jean
de Mailly) が13世紀にマルティンよりわずかに早く執筆した年代記Chronica Universalis
 Mettensisだけである。彼は女教皇の時代を850年代ではなく1099年に設定し、こう
書いている。

彼女は人格と才能によって重要な秘書となり、やがて枢機卿となり最終的に教皇となっ
たが実は男に変装した女性であったために教皇やローマ司教の中には数えられていない。
ある日、騎乗している時に、彼女は子を産み落とした。即座に、ローマの正義により馬
の尻尾に足をくくりつけられ半リーグひきずられ人々から石を投げつけられた。彼女は
死んだ場所で埋葬され、その場所には"Petre, Pater Patrum, Papisse Prodito
Partum"(おおペトロ、父達の父よ、女性ローマ教皇の出産を裏切ってください)とい
う文が刻まれた。同時に「女教皇の断食」と呼ばれる4日間の断食がはじめて行なわれ
た。

SWITCH 真・女神転生III NOCTURNE HD 魔人組 vs 魔人だいそうじょう (HARD / ネタバレあり)
https://www.youtube.com/watch?v=HXkGZg7dH0Y

327 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/07(金) 21:31:59.59 ID:6cgChVoDd
14世紀以降の記述
De Claris Mulieribusにある女教皇ヨハンナが出産する場面
13世紀の中頃以降、中世およびルネサンスを通じて、この伝説は広く伝えられ信じら
れていった。
14世紀の作家ジョヴァンニ・ボッカッチョはDe Claris Mulieribusの中で彼女につ
いて述べた。
アスクのアダム(1404年)による「年代記」は彼女の名前をアグネスであるとし、さ
らにローマに彼女のものとされている像があることを述べた。しかし、それ以前には
像の記述はない点からすると、おそらくそれは別の人物の像であり、後に彼女のもの
とされたにすぎないのであろう。
14世紀末の版のローマ巡礼のためのガイドブック、Mirabilia Urbis Romaeにはサ
ン・ピエトロに女教皇の遺骸が葬られたと書いている。
ヤン・フスは1415年の裁判に臨んで、「教会は必ずしも教皇を必要としない、なぜな
ら"アグネス教皇"の在位期間も、物事はうまくいっていたからだ」と主張した。相手
方はフスの意見は教会の独立性について何も証明しないと主張はしたが、女教皇の実
在については争わなかった[2]。
15世紀の学者、バルトロメオ・プラティナはシクストゥス4世の命令で1479年Vitæ
Pontificum Platinæ historici liber de vita Christi ac omnium pontificum
qui hactenus ducenti fuere et XXを書いた。この本には女教皇について以下のよ
うな内容が含まれている。
教皇ヨハネス8世はマインツで生まれ、男装という悪の行為によって教皇の座についた
という。───彼女は女性の姿で情夫である学者とともにアテネに赴き、そこで学業にお
いて目覚しい成果をあげた。その後ローマにやってくると、彼女と同等の者はほとんど
おらず、まして聖書の知識で彼女を越える者はさらに少なかった。学術的で独創的な著
作と論争術によって、彼女は大きな尊敬と権威を獲得し、(マルティンの述べるところ
によると)ローマ教皇レオ6世の死後、次の教皇に選ばれるべきは彼女だということは
衆目の一致した見解であった。サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂からコロッセ
オ劇場とに向かう途中、彼女を陣痛が襲った。彼女はそこで死亡した。在位2年1カ月4
日であった。そしてそこへ儀礼抜きで埋葬された。───これは民間伝承ではあるが、何
者かははっきりしないにしろ作者がいるので、短く述べるにとどめた。これは詳しく述
べるとこだわっているかのように思われてしまうからだ。今後は、この話が全くの虚偽
と考えられていない事態こそが誤りである、といっていくのが良いだろう。
また、シエナ大聖堂に歴代教皇の胸像が置かれていたが、レオ4世像とベネディクトゥ
ス3世像の間に、「ヨハネス8世、フォエミナ・デ・アングリア」と名前のついた女教
皇の像があった。
15世紀中頃にあらわれたタロットは、教皇とともに女教皇を含めている。女教皇のカ
ードは女教皇ヨハンナの伝説を元にしているとしばしば示唆されている[3]。
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の椅子
また、関連する伝説もあった。 1290年代にはドミニコ会士ロベール・デュセは幻視で
「教皇が男であると証明したと言う」椅子を見た話を述べている。
14世紀にはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂にある、座る部分に穴の開いた、
二脚の古代の大理石の椅子、sedia stercorariaは教皇の性別を判定する為のものだ
ったと信じられていた。その使い方とは、まず教皇の候補者が裸で座り、枢機卿の委
員会が下から穴を見て"Testiculos habet et bene pendentes"(「彼には、睾丸が
ある、そして、それはきちんとぶら下がっている」)と宣言する、というものだった。
 15世紀の後半になるまで、9世紀の女教皇というスキャンダルに対抗してこの独特の
習慣が設けられたと言われていた。
クレメンス8世による否定
1601年クレメンス8世は女教皇の伝説が事実ではないと宣言し、シエナ大聖堂にあった
女教皇の胸像は破壊された。

アバチュ1実況:32-2 https://www.youtube.com/watch?v=rtNl1-LN9uU
アバチュ1実況:32-1 https://www.youtube.com/watch?v=1xkDicYToyU&t=1164s

328 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/07(金) 22:00:32.33 ID:6cgChVoDd
伝説の分析

タロットの女教皇はヨハンナがモチーフと云われる
17世紀中ごろのプロテスタントの歴史家、ダヴィッド・ブロンデル (David Blondel)
 は、女教皇ヨハンナの伝説に疑いを向けた。女教皇ヨハンナの伝説は20代はじめに死
んだヨハネス11世への風刺が元になったものではないかと提唱したのである。ブロンデ
ルは女教皇の伝説の主張とそこから推定されうる時期について詳細に分析を行ない、そ
のような出来事は起こり得なかったと結論づけた。

現代の歴史家も同様の意見である。彼女の存在を示す資料は、彼女がいたとされる時代
より400年ほど後の時代のものしかない。教皇が突然群衆の前で出産し石を投げつけら
れて死んだなどという事件を同時代人の誰も記録しないとは信じ難い。

レオ4世とベネディクトゥス3世の間に女教皇が存在したか
時間的な問題
850年代の教皇位の記録は不完全だが、それでもレオ4世とベネディクトゥス3世の間に、
「ヨハン・アングリクス」なる人物がいたという説には説得力がない。

レオ4世が855年7月17日に死去し、アナスタシウス・ビブリオテカリウスが教皇就任を
宣言したが僅か2週間で支持を失い、855年9月29日にベネディクトゥス3世が教皇とな
った、ということは複数の歴史書で一致している。つまりトロッパウのマルティンのい
う「ヨハン・アングリクス」が教皇となりうる期間は存在せず、まして2年間も教皇位
につくことはありえないのである。

ベネディクトゥス3世が855年の末に教皇になったことは歴史書以外の証拠でも確かで
ある。例えば、855年に鋳造された硬貨に、ベネディクトゥスが教皇として、ロタール
1世が皇帝として表裏に描かれている。ロタールはベネディクトゥスが教皇に就任する
前である855年9月29日に死んだが、ロタールがローマに居なかったため数か月間その
ことはローマに伝わらず、このような貨幣が鋳造された。このことから、ベネディク
トゥス3世の即位は855年9月近辺であると推定できる。 また、ランスのヒンクマルに
よる手紙には、ベネディクトゥス3世がレオ4世の死後すぐに教皇となったとある。ベ
ネディクトゥス3世の次に教皇となったニコラウス1世の手紙でも確認できる。

アバチュ2実況:31-1 物理がきかないとの説明 ダルマという法
https://www.youtube.com/watch?v=zTd5xqscnV8

329 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/08(土) 15:43:56.57 ID:83eVL5VeK
867年から872年の間にウィーン司教のアド (Ado) によって書かれた年代記には、継
承についてこのように簡単に記している:

ローマ教皇グレゴリウスが死ぬと、セルギウスが教皇に任じられた。そしてその死後
はレオが継承した。さらに彼が死ぬとベネディクトゥスが使徒座についた。
9世紀において教皇制と敵対した者達が女教皇について何も語っていないことも注記
に値する。例えばコンスタンティノポリスのフォティオスは、858年に世俗の官僚か
らコンスタンティノポリス総主教となり、863年にローマ教皇ニコラウス1世によっ
て廃位を宣言された人物であり、当然のことながら教皇とは敵対した。フォティオス
はローマ教皇に対する自身の総主教としての権威を激しく主張しており、その時代の
教皇制にどんなスキャンダルがあったとしても糾弾したはずである。しかし、彼の遺
した多量の文書に女教皇の話はない。それどころか、彼は「レオとベネディクトゥス、
ローマの教会で連続した偉大な司祭たち」と述べている。

17世紀にクレメンス8世が女教皇ヨハンナの不在を宣言した時に資料が改竄されたのだ、
という主張もあったが、ヨーロッパの全ての修道院と図書館の文書から彼女の名前を取
り除くのはほぼ不可能である。また、文書から文章を消したり偽造文書にすりかえたと
しても、現代では文章の書かれた年代を文書の素材や書式などによってきわめて正確に
判定できるから、改竄は容易に検出される。そして、13世紀以前の本から女教皇ヨハン
ナの記録が取り除かれたという証拠はない。逆に女教皇ヨハンナの記録が挿入されたこ
とが示されている。

対立教皇として存在したか?
前述した対立教皇アナスタシウス・ビブリオテカリウスが女教皇ヨハンナの伝説のモデ
ルになったと主張する向きもあるかもしれない。しかし、そうだとすると彼はその後の
教会でのキャリアを失うはずである。しかしアナスタシウスは対立教皇として廃位され
た後、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会の修道院の大修道院長になり、その
後枢機卿と教皇の司書となっている。もし彼が女性だと暴かれたならば、彼は決して枢
機卿や秘書とはなれなかったであろう。

彼とは別に僅か数週間教皇位にあった女性対立教皇アナスタシウスが存在したという証
拠はないし、それが女教皇ヨハンナと同一人物であるとする理由はない。

1099年に女教皇が存在したか
1099年に女教皇が存在したとするジャン・ド・マイイの主張も、既知の歴史と噛み合っ
ていない。確かにその頃教皇位には大きな混乱があった。1085年のグレゴリウス7世の
死後、何人もの候補者が教皇位をめぐって争い、皇帝とローマの人々の支持を受けたも
のが教皇位を勝ち取る情勢であった。ウルバヌス2世が1088年に教皇となったが、ロー
マには対立教皇クレメンス3世が存在し、ウルバヌスは1097年までローマに居住できな
かった。ウルバヌス2世が1099年7月29日に死ぬと、パスカリス2世、クレメンス3世、
その他の対立教皇たちが教皇位を争った。この時期になら、女性が教皇あるいは対立教
皇の一人となった可能性もあるが、ジャン・ド・マイイの言葉以外には証拠は何もない。
現代に残る文書に教皇が出産を行なったという記述はないが、教皇の出産など当時の一
大スキャンダルのはずだから、記録に残さないということはありえない。だからそのよ
うな出来事はなかったと言えるのである。

寓画の解釈
伝説上の人物・女教皇ヨハンナをモチーフとすると言われる。カトリック教会では女
性が司祭以上の職に就くことを認めていないため、カトリックの世界では現実には有
り得ないものとして扱われる「女教皇」はしばしば「反ローマ教皇」の象徴とされる。
マルセイユ版に描かれる「女教皇」は同版の「教皇」と同じような被り物(教皇冠)
を頭に乗せ、この女性が最も高い位の人物であることを表す。被り物の内側から頭全
体を覆う白いベールから、この女性が修道女あるいは尼といった聖職に就いているこ
とを示し、同時に処女であることを表現している。女性の持つ書物はトーラの書であ
ると解釈されるのが一般的であり「高度な知識や学問の象徴」とされる。

SMT4f 真女神転生IV FINAL - ミロク菩薩戦 (終末 / #22) 田沼政治とかアレか。
https://www.youtube.com/watch?v=USZWmAkbbbc&t=782s 王政復古って言い方もアレだよね。
真・女神転生IV FINAL キャラクターボイスムービー/ミロク
https://www.youtube.com/watch?v=xg9Gq8T7NAE

330 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/08(土) 15:46:09.28 ID:83eVL5VeK
関係する事柄
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の椅子の正体
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の穴のある聖座は実際に存在し、バチカン
美術館に今日もある。穴がある理由については諸説あるが、椅子とその穴は、女教皇
ヨハンナの伝説より古いもので、さらにはカトリック教会成立よりも数世紀古いもの
であることから、教皇の性別判定とは全く関係ないことは明らかである。元はローマ
時代のビデかローマ皇帝一家の出産用の足のせ台であろうと仮説がたてられている。
ローマ帝国あるいはローマ皇帝と関わりがあるものだとされていたため、ラテン語の
称号、最高神祇官(Pontifex Maximus)と同様に、ローマ帝国の継承者としての立場
を強調する意図をもって教皇たちが儀式に用いたのである。

中世の教皇たちの習慣
オパヴァのマルティンの言うように、中世13世紀の教皇たちはサン・ジョバンニ・イ
ン・ラテラノ大聖堂からサン・ピエトロの間の直線ルートを避けていたのは事実であ
る。しかし、この習慣が13世紀より前から行なわれていたとか、ましてそれが9世紀
の女教皇を意図的に拒絶するために始まったと言う証拠はない。この習慣の起源は不
明であるが、これが女教皇伝説が広まったことから続けられ、女教皇時代まで遡る習
慣と思われていたことはきわめてありそうなことである。

ヨハネス8世との関係
何人かの中世の作家は女教皇のことを「ヨハネス8世」と呼んでいるが、872年から
882年の間教皇位にあった本物のヨハネス8世の人生は、女教皇のそれとは全くの別
物である。

ヨハネス20世との関係
女教皇ヨハネスと関連付けられる問題に、ヨハネス20世が公式の教皇一覧に決して登
場しないという事実がある。これは、ヨハンナの存在を抹消するために教皇を数え直
したからだと言われることがある。実際、ヨハネス21世が1276年に教皇になって間も
ない頃、10世紀のヨハネス14世とヨハネス15世の間に「もう一人の」教皇がいたとい
う伝説が語られるようになっていた。オパヴァのマルティンは自分の年代記でこの教
皇について触れている。現実には対立教皇ボニファティウス7世がその時に教皇位を
占めていた。しかし、ヨハネス21世は「追加の」ヨハネス教皇の伝説に従って彼自身
と14世以降の全ての教皇を数え直したのであり、史実からすれば彼は本来、ヨハネス
20世のはずである。ゆえに教皇の数え方の混乱は女教皇の伝説とはまったく関係のな
いことである。

ヨハンナを扱った書籍
『女教皇ヨハンナ』(上・下) 著:ドナ・W・クロス 訳:阪田由美子 草思社刊 ISBN 4-7942-1448-0(上巻)、ISBN 4-7942-1449-9(下巻)
『女法王ジョヴァンナ』(『愛の年代記』より) 著:塩野七生 新潮社刊 ISBN 4-10-309603-9(単行本第五刷)、新潮社文庫 ISBN 4101181012(小説)

【THE YELLOW MONKEY】SPARK feat.初音ミクV4X (VOCALOIDカバー) [リップモーション配布]
https://www.youtube.com/watch?v=TADnENIceYI

331 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/08(土) 15:53:06.07 ID:83eVL5VeK
下生信仰
弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信
仰の方が流行した。下生信仰とは、弥勒菩薩の兜率天に上生を願う上生信仰に対し、
弥勒如来の下生が(56億7千万年などの)遠い未来ではなく現に「今」なされるからそ
れに備えなければならないという信仰である。
浄土信仰に類した上生信仰に対して、下生信仰の方は、弥勒下生に合わせて現世を変
革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。そのため、反体
制の集団に利用される、あるいは、下生信仰の集団が反体制化する、という例が、各
時代に数多く見られる。北魏の大乗の乱や、北宋・南宋・元・明・清の白蓮教が、そ
の代表である。
日本でも戦国時代に、弥勒仏がこの世に出現するという信仰が流行し、ユートピアで
ある「弥勒仏の世」の現世への出現が期待された。一種のメシアニズムであるが、弥
勒を穀霊とし、弥勒の世を稲の豊熟した平和な世界であるとする農耕民族的観念が強
い。この観念を軸とし、東方海上から弥勒船の到来するという信仰が、弥勒踊りなど
の形で太平洋沿岸部に展開した。江戸期には富士信仰とも融合し、元禄年間に富士講
の行者、食行身禄が活動している。また百姓一揆、特に世直し一揆の中に、弥勒思想
の強い影響があることが指摘されている。

アイネクライネ (米津玄師) acoustic arrange ver./ダズビー COVER
https://www.youtube.com/watch?v=CVuket8-1YI

五十猛神
いたける/いそたける
神祇 国津神
別名 大屋毘古神(おほやびこ)
禍津日神(まがつひのかみ)
別称 射楯神(いたてのかみ)
神格 草木の神
父 須佐之男命
神社 伊太祁曽神社、五十猛神社
テンプレートを表示
五十猛神(イタケルノミコト/イソタケルノミコト)は、日本神話に登場する神[1]。
イザナギ・イザナミの子であるスサノオの子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメ(大屋津
姫命、?津姫命)は妹[1]。また、イザナギ・イザナミの子大屋毘古神(禍津日神と
同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。

「イタケル」「イソタケル」と読み方は神社により異なり統一されておらず、紀伊国
 一宮である伊太祁曽神社はその御由緒でイソタケルは誤りでイタケルだと明記して
いる。[2] 一方で、五十猛の上陸伝承のある石見国五十猛村(現在の島根県大田市
五十猛町)が好字二字令により726年(神亀3年)に改称された際には「磯竹」の字
が当てられており[3]、少なくとも奈良時代以降はイソタケルが主流になっていたこ
とが示唆されている。
また、射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる[4]。
神格
林業の神として信仰されている(『日本書紀』、『先代旧事本紀』)[1]。紀伊は古
来林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。
また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、
商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある[4]。
紀伊国(かつては「木の国」と言った)に祀られているとの記述と『先代旧事本紀』分
注に「亦云 大屋彦神」とあることから、『古事記』で大穴牟遅神(オオナムジ、後の
大国主)がその元に逃げ込んだ木国の大屋毘古神と同一神とされる[1]。
子孫
辛嶋氏 - 豊国の氏族。当初は香春岳山麓に住み、その後大貞薦神社(現在の中津市)
で神官もしくは巫女を務めていたとされている。大神比義命とともに宇佐神宮の前身
の社を建立した。

332 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/08(土) 15:59:38.00 ID:83eVL5VeK
スラオシャ(Sraosha)は、ゾロアスター教の下級の神もしくは天使階級にあたるヤザ
タの1人。アムシャ・スプンタの1人とみなされることもある[1]。その名は「聞くこと」
を意味し、「聴取」と「従順」を守護する[2]。Srosh、Sirushi、Seroshともつづら
れる[1]。
スラオシャはアンラ・マンユの手先によって苦しめられる人々の叫びを聞く、アフラ・
マズダーの耳とみなされていた。スラオシャは怒りと暴力の悪魔アエーシュマを敵とし、
太陽が沈んだ後に地上に降りてこれと戦うという[3]。
ゾロアスター教の伝承では、スラオシャは全ての死者の魂が渡らなければならない「判
決の橋」の3人の守護者の1人である。スラオシャはミスラ、ラシュヌと共に裁きを下す
3人の神性の1人。
本来ペルシャ神話においては主神のための耳としての役割を持つ。
イスラム教がペルシアを征服しゾロアスター教に取って代わった後も、スラオシャはア
ッラーフの使者スルシュ(Surush)としてその名を残している[2]。

ラシュヌ(Rashnu)は、ゾロアスター教に伝わるヤザタの一柱。ミスラの従神で、ス
ラオシャ同様、暴力の悪神アエーシュマと敵対する。
概要
正義を司り、両神と共に死者の魂に判決を下す三神の一柱とされる。[1]名前は「厳格
な公平」を意味する。天国に通じる橋(審判の橋)を守るヤザタでもあり、ラシュヌは
3日間黄金の天秤で公平に死者の魂の価値を精査する。その間死者は自分の死体のまわ
りでさまよっている。[2] また、その橋によって「歌の館」に行けないと裁かれた魂
は、「不義の館」へと引きずり落とされる。[3]
あるいは、さまよった後、魂は審判の場である「頌歌の家」に行き、ラシュヌら3神に
よって秤にかけられる。善行が重きなら天国へ召されて、悪行が重きなら地獄に落とさ
れる。[4]

ミスラ(Mitra)は、イラン神話に登場する英雄神として西アジアからギリシア・ロー
マに至る広い範囲で崇められた神。インド神話の神ミトラ(????? mitra)と起源を同じ
くする、インド・イラン共通時代にまで遡る古い神格である。その名は本来「契約」を
意味する。
イランでのミスラの他、インドのミトラやギリシア・ローマのミトラース(ミトラス)
についてもここで説明する。
インドのミトラ
詳細は「ミトラ (インド神話)」を参照
インド神話では、契約によって結ばれた「盟友」をも意味し、友情・友愛の守護神とさ
れるようになった。また、インドラ神など他の神格の役割も併せ持った。『リグ・ヴェ
ーダ』ではアディティの産んだ十二柱の太陽神(アーディティヤ神群)の一柱で、毎年
6月の一カ月間、太陽戦車に乗って天空を駆けるという。また、同じくアーディティヤ
神群の一柱であるヴァルナとは表裏一体を成すとされる。この場合、ミトラが契約を祝
福し、ヴァルナが契約の履行を監視し、契約に背いた者には罰を与えるという。
ミタンニ文書でもミトラはヴァルナ、インドラ、ナーサティヤとともに現れる[1]。
後世のインド神話ではあまり活躍しない。

【こぐまと歌おう】大きな古時計(童謡)★ひらがな歌詞★
https://www.youtube.com/watch?v=hrF3uzwy4gw

333 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/08(土) 16:08:30.59 ID:83eVL5VeK
形而上学(けいじじょうがく、英: metaphysics)は、感覚ないし経験を超え出でた
世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思
惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野[1][2][3]。世界の根本的な成り立ち
の理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものに
ついて考える[4]。対する用語は唯物論[1]。他に、実証主義や不可知論の立場から見
て、客観的実在やその認識可能性を認める立場[1]や、ヘーゲル・マルクス主義の立場
から見て弁証法を用いない形式的な思考方法[1]。
形而上学は、PubMedにおいては、哲学の一分野で、存在の性質(オントロジー)と宇宙
の起源と構造(宇宙論)を含む第1原理を取り扱うものとしている。

君が思い出になる前に/スピッツ (ピッチ上げ + lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=pdf_oybcqT0

存在論(そんざいろん、英: ontology、独: Ontologie)は、哲学の一部門。さまざ
まに存在するもの(存在者)の個別の性質を問うのではなく、存在者を存在させる存在
なるものの意味や根本規定について取り組むもので、形而上学ないしその一分野とされ、
認識論と並ぶ哲学の主要分野でもある。

概要
「存在論」の原語は、ドイツ語でOntologie、ラテン語でontologiaであるが、この表
現は古代ギリシア語でε?μ?(be, exist)という動詞の現在分詞にして「存在するもの」
を意味する?ν (?n)と、「理論」を意味する「ロゴス」(λ?γος, lógos)を結んで、
17世紀初頭ドイツのアリストテレス主義者ルドルフ・ゴクレニウス によって作られた
ものである[1]。その後、ヨハン・クラウベルクを経て、クリスティアン・ヴォルフに
至り用語として定着した[1]。日本では、1870年に西周がヴォルフのOntologieを「理
体学」と訳したのが最初であり、以後、「実体学」、「本体論」、「実有論」などさま
ざまに訳され、1930年後半以降に入り「存在論」の訳語が定着し、一般にハイデガーの
Ontologieに対する訳語として用いられることになった。

存在論の歴史は古代ギリシアに遡る。ことにアリストテレスの第一哲学は存在への問い
を明確に立てたものであり、以後の西洋哲学の中心は近代に至るまで存在論が占めてき
た。

カント以降の哲学は、認識論への傾倒をみせるが、第一次世界大戦後の19世紀の末から
ニコライ・ハルトマンの批判的存在論や マルティン・ハイデッガーの基礎的存在論など
によって「認識論から存在論へ」というモットーのもとに復活をみせるようになった。

334 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/08(土) 16:15:30.96 ID:83eVL5VeK
歴史
古代
パルメニデス

パルメニデス(紀元前500年か紀元前475年-没年不明)
パルメニデスは、「ある」(希: estin)ということはどういうことか、という問題を
明確化した最初の人物とされている[2]。彼の哲学は叙情詩の形をとっており、その解
釈は一様でないが、彼によれば、感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそ
も「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになること
である。パルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて真に在るものは不変だと考えた。

哲学は、真理(希: Alêtheia、アレーテイア)の道と、思いなし(希: doxa、ドクサ)
の道に分けられる。
理性(希: logos、ロゴス)が真理、感覚はドクサの道である。
理性によれば、「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾であるが、
現実の存在者は「あり、かつ、あらぬ」(希: einai te kai ouchi)であり、生成流
転する(希: gignesthai te kai ollysthai)。したがって、感覚でとらえられる運
動・変化・多なるものは、死すべき人間のドクサにすぎない。これに対し、真に「ある」
とは、同時に「あらぬはありえない」(希: estin te kai hôs ouk esti mê einai)
ということである。したがって、真に「ある」ところのものは連続一体・不生不滅で変
化もしなければ運動もしない全体として、同質の球体を形づくっている。この全体はヘ
ラクレイトスのように対立物の合一したものではない。なぜなら、対立というものも存
在しないからである。
パルメニデスは、ソクラテス以前の哲学者の中でも、自然・万物の根源について探求し
たイオニア学派、それまでのミレトス学派と異なり、宇宙論に先立って、「真理」を問
い、これを現実の存在者でなく、存在と結びつけるという新しい哲学態度を示している。

プラトン

プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)
プラトンのイデア論は、パルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の
考えを調和させようとした試みであると言われ、この現実の世界は仮象の生成流転する
世界であって永遠に存在するものはなにもなく、イデアの世界こそ真実在であるとし、
最高のイデアは、善のイデアであるとし、存在と知識の最高原理であるとした。

プラトンは、『国家』篇第五巻において、哲学者は、知を愛するが、その愛の対象は、
イデアの世界の「あるもの」であるのに対し、ドクサを抱くにすぎない者の愛の対象は、
仮象の世界の「あり、かつ、あらぬもの」であるとして存在論と知識を結び付けている。
彼によれば、この宇宙は、神が質料(ヒュレー)からイデアを範型として制作したもの
であって、無から創られたものではない。彼の宇宙ないし自然に対する見方はソクラテ
ス以前の哲学者のそれと決定的に異なっており、これがアリストレスに受け継がれてい
くことになった。

『君が思い出になる前に』VOCALOID:IA (カバー曲)
https://www.youtube.com/watch?v=Gf-O7AtUnjQ
これからは・・・
って書くとまた変わるよね。

335 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/10(月) 05:52:20.03 ID:61xvRf0wT
アリストテレス

アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)
アリストテレスは、存在への問いを明確に立て体系化した最初の人物である[2]。彼は、
その学問体系を、「論理学」をあらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(organon)
であるとした上で、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイ
エーシス)に三分し、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫
理学」、制作学を「詩学」に分類した。アリストテレスによれば、形而上学は存在する
ものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知である。すなわち、存
在者のさまざまな特性を問う個別科学とは区別され、その上位に位置づけられる究極の
学問として、「存在者である限りでの存在者」、「全体としての存在者」、すなわち
「存在とは何か」を問う学問を構想し、これを「第一哲学」と呼んだ。

アリストレスは、まず、道具である論理学において、「述語」(命題「PはQである」と
いうときの「Qである」にあたる)の種類を10のカテゴリに区分し[3]、次いで、形而上
学において、存在者を多義的なものであるとして、存在をカテゴリに従って10に分類し
た。

パルメニデスは、存在を当時の通念に従って完全な「球体」であり、それは「一つ」で
あるとしたが、アリストテレスは、それを比喩にすぎないとして、現実の個物を実体と
し、「多様」な存在をカテゴリに従って分類し体系化した。

アリストテレスは、その著書『形而上学』において、有を無、無を有と論証するのが虚
偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。そこでは、「有・無」とい
う「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。そこで
は、存在論が真理論と認識論とに分かちがたく結び付けられている。

彼の学問体系は、その後、トマス・アクィナスらを介して古代・中世の学問体系を規定
することとなったが、そこでは、認識論的な問題は常に存在論と分かちがたく結び付い
ていた。そのため、形而上学の中心的な問題は、近代に至るまで常に存在論であった。

アリストテレスは、質料が形相と結び付いて、その可能性を実現して目的を達成するこ
とを「デュナミス」と「エネルゲイア」ないし「エンテレケイア」の概念を区別するこ
とによって行なったが、中世のスコラ哲学では、この区別が、「○○が何であるか」とい
う「本質存在」(essentia)と、「○○があるかないか」という「事実存在」(existentia)
の区別として概念化され、「本質存在の優位」が説かれるようになった。これらは○○と
いう事実にイデアないしエイドスという本質が優先するという考えである点で共通して
おり、いずれも神によってモデルに従って制作ないし創造された宇宙・自然という見方
と繋がっている。アリストテレスは、プラトンのイデア論を厳しく執拗に批判したが、
その肝要部分は決して手放していないのであった。

命のオーブ優先とか紋章の方か?
【B’z】Mannequin Village -ピアノカバー 弾いてみた- piano cover
https://www.youtube.com/watch?v=KHHNA1oFV2Y

336 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/10(月) 05:59:52.85 ID:61xvRf0wT
中世
アンセルムス

アンセルムス(1033年 -1109年)
アンセルムスは、理性によって神の存在を証明しようとした[2]。彼の神の存在証明
は、『プロスロギオン』の特に第2章を中心に展開されたもので、おおよそ以下のよ
うな形をとる。

神はそれ以上大きなものがないような存在である。
一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、
より大きいと言える。
もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、
それは「それ以上大きなものがない」という定義に反する。
そこで、神は人間の理解の内にあるだけではなく、実際に存在する。
トマス・アクィナス

トマス・アクィナス(1225年頃 - 1274年)
トマス・アクィナスは、アリストテレスの存在論を承継しつつも、その上でキリスト教
神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとした。

彼は、アリストテレスの「形相−質料」(forma-materia)と「現実態−可能態」の区
別を受け入れる。アリストテレスによれば、存在者には「質料因」と「形相因」がある
が、存在者が何でできているかが「質料因」、その実体・本質が「形相因」である。存
在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが「可能態」であり、それが生成
したものが「現実態」である。「形相−質料」は主に質量を持つ自然界の存在者に限ら
れるが、「現実態−可能態」は自然界を超越した質量を持たない形相のみの存在者にま
で及ぶ。すべての存在者は可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、すべ
ての存在者の究極の原因であり、質料をもたない純粋形相が「神」(不動の動者)と呼
ばれる。

しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。
旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との
啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在に修正を
加え、「存在−本質」(esse-essentia)を加えた。彼によれば、「存在」は「本質」
を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため
「可能態」である。「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存
する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。

人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限
である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっ
とも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長
し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には
信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を
完全に認識するものであり、真の幸福が得られる。

トマスは、存在論に基づく神中心主義と、理性と信仰に基づく人間中心主義の統合を図
り、後世の存在論に多大な影響を与えることになった。

恩恵の光がある限り何をされようともって、闇のオーブの方が光のオーブがなければってのと、
スターライトさえなければ、マフーもってのがアレだよね。
何言ってるか分かんないくらいの言い方だよね。
汎神論に行き着くというか、すべてを取り込む存在である?でもさ、だいたいすべてをとりこむそんざいって無に帰するってアレするよね。
#37 新・紋章の謎ルナティック【FE】
https://www.youtube.com/watch?v=usB3igiv_gk

337 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/10(月) 06:30:00.17 ID:61xvRf0wT
近世
ライプニッツとヴォルフ
ライプニッツ
ヴォルフ
(画像左)ライプニッツ1646年- 1716年(画像右)C・ヴォルフ(1679年 - 1754年)
存在論を初めて哲学体系に組み入れたのは、18世紀ドイツのクリスティアン・ヴォル
フである。彼は、ライプニッツの表象概念を基礎にした体系的な形而上学を構築した
ので、彼とその後継者の哲学は「ライプニッツ=ヴォルフ学派」といわれることがあ
る。彼の学問体系は、哲学を理論的哲学と実践的哲学とに分け、前者を「形而上学」
と呼び、この形而上学を構成するものとして、存在論、合理的心理学、宇宙論、合理
的神学を掲げた。このなかで存在論は「存在者が存在するかぎりにおいての存在者一
般の学」であり、優越した特殊な存在者(神や魂)を扱う特殊形而上学(合理的心理
学、宇宙論、合理的神学)に「先立つ」一般形而上学として位置づけられた。このよ
うにして、ライプニッツにおいては、神の存在証明、つまり神学と分かち難く結びつ
いていた存在論を分離し、哲学を神学から独立させた。


ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(ライブニッツ、Gottfried Wilhelm
 Leibniz ドイツ語: [???tf?i?t ?v?lh?lm f?n ?la?bn?ts][1][2][3]あるいは
[?la?pn?ts][4][5] 、1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) -
 1716年11月14日[6])は、ドイツの哲学者、数学者。
ライプツィヒ出身。ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の
大陸合理主義を代表する哲学者である。主著は、『モナドロジー』、『形而上学叙説』、
『人間知性新論』、『神義論』など。

俺がハマってて、それだといいなってのと、そうじゃないといいなってのがイロイロ垣間見える。
[ガトー] (下)
マルス王子シスター達がつれ去られた意味が今ようやく わかった▼
ガーネフは 彼女達を使ってメディウスの復活をもくろんでいるのだ▼
竜族のめざめを はやめるにはけがれなき高貴な女性の生命力が必要という▼
ガーネフは それを知ってシスターを連れ去ったのだ▼
#35 新・紋章の謎ルナティック【FE】https://www.youtube.com/watch?v=ncTx4Ru1pl4&t=1871s

モナド
詳細は「モナド (哲学)」を参照
複合体をつくる単純な実体で、ここでいう単純とは部分がないということである。モ
ナドは自然における真のアトム(=不可分なるもの)であり、これが宇宙における真
の存在者である。したがってモナドは単純実体ではあるが、同時にモナドは表象
perceptionと欲求appetiteとを有するが故に、モナドは自発的に世界全体を自己の
内部に映し出し世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化とを認めるこ
とが可能となる。そしてこの内的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから
区別される。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはないが、
神が創造において設けておいた「予定調和」によって他のモナドと調和的な仕方で自
己の表象を展開する、すなわち意志に応じて身体を動かすといった働きができるので
ある。要するに、モナドとは魂に類比的に捉えられる存在者なのである。[11]
法学
ライプニッツはアルトドルフ大学より法学博士(Doctor juris)を取得している。法
学への関心は実務から自然法まで幅広いものであった。法学の後進性や乱雑さに不満
を抱き、数学的な法学の改革を志向した。また、主権を研究し、ドイツやヨーロッパ
の連邦化を構想していた。

338 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/10(月) 10:04:52.64 ID:61xvRf0wT
認識論への転換―カントによる批判

イマヌエル・カント(1724年-1804年)
カントもまたヴォルフと同様に存在論を自身の哲学大系に組み込んでいるが、ヴォル
フと異なるのは、存在論を「人間のアプリオリな認識の諸原理・諸要素の哲学」(先
験哲学)と説き、存在者を悟性で分析する次元から、対象のアプリオリな「認識」の
次元へと転換した点にある。すなわち、存在論の定立は自明なものではなく、そもそ
も人間の有限な認識によって存在論的認識が可能であるか否かを、批判によって確定
することが先決条件であるとした。彼は、純粋理性のアンチノミー(二律背反)のう
ちの一つとして、世界の第一原因と神の存在証明を挙げ、ライプニッツ=ヴォルフ学
派の形而上学、その背後にあるアリストテレス=トマス・アクィナス的な神学そのも
のを批判した。このカントの批判哲学によって、ショーペンハウアーが「『純粋理性
批判』は存在論を分析知論に変えてしまった」と指摘したように、哲学の中心は認識
論に置かれることになる。

ヘーゲル

ヘーゲル(1770年 - 1831年)
カントは、デカルト的な主観/客観の二項対立図式を前提としつつ、現象と物自体を厳
密に区別したが、ヘーゲルによって完成を見たドイツ観念論は、理性によって現象と
物自体の区別を乗り越えるような形で発展した。

ヘーゲルによれば、カントの認識論は、認識の限界を認識するという循環論法的な議
論であって、それはあたかも水に入る前に水泳を習うようなものである。カントの反
省哲学の過ちは、二項対立図式を静的で固定なものと考えたところにあり、反省とは
「見る自分」と「見られる自分」を区別することから始まるが、自己意識の構造から
判明するように、両者が同一であることを「自分」は知っている。彼は、これを「区
別のない区別」と呼び、無限という動的な観点を入れれば、見る自分/見られる自分、
主観/客観という二項対立図式構造そのものが消滅するとした上で、それは、神が自身
を分裂させて、本質を現象させて自己認識を達成することによってその分裂から自分
を取り戻し同一性を回復する過程で成し遂げられるとした。

このようなヘーゲルの存在論は、弁証法という論理学を基礎に、認識論とネオプラト
ニズムを統合するというべきものであるが、ヘーゲルの死後、ヘーゲル学派は分裂・
対立を繰り返して崩壊し、かえって哲学の危機の時代を招いた。

高貴ってのがプラスされてるから、マリーシアとか落ち目のユミナとかアレだっけ?
カラオケ和訳 You Can't Hurry Love - Phil Collins 恋はあせらず / フィル・コリンズ 洋楽
https://www.youtube.com/watch?v=-vkYPO0dXtM

339 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/10(月) 15:31:02.05 ID:61xvRf0wT
現代
存在論の復権
カント以降の哲学は認識論への傾倒をみせたが、19世紀の末から第一次世界大戦後の
存在論は、「認識論から存在論へ」というモットーのもとに復活をみせる。
大陸哲学
フッサールとハイデッガー、ハルトマン ドイツ現象学の潮流
エトムント・フッサールは、デカルト的な主観・客観の2項対立図式を乗り越えたノエ
シス/ノエマ構造を本質とする志向性意識についての認識論的考察と、志向対象として
の存在者への考察を現象学的還元を介して批判的に記述することにより、限定的なが
らも存在論への道を開いた。もっとも、フッサールの存在論はあくまで認識論の範囲
内でのものであり、その限りで消極的なものである。
#25【女性実況】ドラゴンクエストVで癒される!やまたのおろち【ドラクエ3】 https://www.youtube.com/watch?v=uQN-X0VvXFY
デビルサバイバーOC【ユズルート】16:結界強化 タケミカヅチだと国譲りだよね。https://www.youtube.com/watch?v=EMFwPiWMGeI
#17 こんな悲しい演出ある??【ペルソナ4 ザ・ゴールデン / P4G】【初見実況】https://www.youtube.com/watch?v=gMi18F_Yd9M きになるきになる?

340 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/10(月) 16:25:22.19 ID:61xvRf0wT
マルティン・ハイデッガー(1889年 - 1976年)
20世紀に存在論の復権を高々に掲げたのが、マルティン・ハイデッガーである。彼は、
主書『存在と時間』において、西洋哲学の根本をなしてきたものは、「存在とは何か」
という問いであるが、従来の存在論(形而上学)はその問いに対して神や自然といった
存在を持ち出して応えようとしてきたとする。つまり、従来の存在論は、「存在者」
(das Seiende)と存在者を存在者たらしめている「存在」(das Sein)との区別、
すなわち「存在論的差異」を忘却してきた(存在忘却[4] Seinsvergessenheit)。
彼は、この点を批判し、あくまで存在そのものの「意味」を問おうとし、そのための
方法論として現象学を採用し、志向性を「関心」(Sorge)と呼び、「存在的」
(ontischen)なあり方と「存在論的(ontologisch)なあり方を区別した。彼によれ
ば、すべての存在者の中でも、存在論的な在り方において、存在の意味について関心を
持ち、理解し得る可能性のあるのは、理性ある「人間」のみであるが、「ひと」(das
 Man、世人)は、日常においては、存在忘却のため、本来の自己をもたず、他人一般に
支配され「世間」に埋没している。したがって、存在忘却から脱し、存在そのものの意
味を解明する準備として、人間たる現存在がどのような構造をもつかを分析する必要が
あるとし、この現存在の分析論を「基礎的存在論」(Fundamentalontologie)と呼び、
すべての存在者の意味に関する存在論の基礎を与えるものとした。彼によれば、基礎的
存在論は、個人の実存的体験を基礎としない心理学的な人間分析であってはならず、ま
た、個人の実存的体験のみを基礎とする「実存的分析」であってもならず、これと区別
された「実存論的分析」(existentiale Analytik)でなければならない。この分析
の結果、ハイデッガーは、現存在の根本的存在規定である「関心」の意味が「時間性」
(Temporalität)にあるとした。ハイデッガーは、現存在が自己を「時間化」する方
法は本来的なそれと非本来的なそれの二つがあり、それに応じて存在了解も変わってく
ると自説を展開した。存在の意味が変われば、その視点のもとに見られる存在者全体の
在り方とそれとの現存在の関わり方、すなわち、文化の形成の仕方も変化する。本来的
なそれにおいては、その時間化はまず未来への先駆として生起し、そこから過去が反復
され、そして現在は瞬間として生きられるが、存在忘却の下にある世人は非本来的なそ
れの中に生きており、未来は漠然とした期待のうちで開かれ、過去は忘却され、現在は
現に眼前にある事物への現前として出現するだけである。したがって、人間が自己を本
来的に時間化することができれば、未来が優越する緊密な時間の流れの中で、反復され
る歴史を解体し、現在の瞬間を自由に生きることが可能になる。そして、ハイデッガー
は、哲学の歴史、すべての形而上学の「解体」(Destruktion)を始める。彼によれば、
西洋哲学の歴史は、プラトン・アリストテレスに起源を有し、スコラ哲学によって定式
化された「本質存在の優位」という思想が形を変え、品を変え登場するだけであり、そ
れはデカルト・カントの近世哲学からニーチェに至るまで何ら進歩も変化もしていない
とする。それは、何らかの本質によって制作されて存在するという宇宙・自然という見
方であり、人間以外の存在者、宇宙・自然界の存在者すべてを「道具」とみる人間中心
的な「閉存」の立場である。それは、ソクラテス以前の哲学者が宇宙・自然を機械的・
道具的なものではなく、生き生きとした自ら成るものという見方をしていたことと対照
的である。ハイデガーは、プラトンに端を発する上のような見方に基づく西洋哲学の歴
史すべてを解体し、存在忘却が勢力をふるう近代を転換し、歴史を支配する存在そのも
のに耳を傾け従いながら、それを守蔵することを試みた。後期ハイデッガーの哲学は、
「故郷の喪失[5]が世界の運命となる。それゆえに、この世界を存在史的に思索するこ
とが必要となる」として、一種の静寂主義へと向かった。
ニコライ・ハルトマンは、もともとは新カント派に属していたが、やがてフッサールの
現象学の影響を受けて、これを独自に発展させ、理念的・意味的な存在者をも自身の存
在論の射程に収めるなど、認識さえも人間が他の存在者と結ぶ存在関係の一つとみなし、
批判的存在論を展開した。ハイデッガーの基礎的存在論があくまで現象学を方法論と
して採用し、その射程内に収まっているのに対し、ハルトマンの存在論は認識論に対す
る存在論の優位を認めるものであった。

【日本神話】コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ・古事記M【アニメ】
https://www.youtube.com/watch?v=WF6ttUiX7rE

341 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/10(月) 16:32:02.18 ID:61xvRf0wT
サルトルとメルロ=ポンティ フランス実存主義

サルトル
ドイツ発祥の現象学は、その後、フランスにおいて受容されたが、その影響は、フッ
サール自身の思想も時期により異なる内容を持つだけでなく、ハイデッガーにおいて
は現象学は方法論としての限定的な意義を有するにすぎなかったため様々である。サ
ルトルとメルロ=ポンティが誰のどの時期のどの著作を読んで影響を受けたのかが両
者の存在論の違いを生んだ。サルトルはフッサールのイデーン1巻とまだ存在論の優
位か実存論的分析の優位が決めかねていた時代のハイデッガーしか読んでいなかった
が、メルロ=ポンティはフッサールの未完成稿を含めた後期思想を含む本を読んでい
た。

フランス実存主義の祖サルトルは、主著『存在と無−現象学的存在論の試み』(1943
年)において、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とする存在論を
展開した。サルトルの思想は、特に無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主
義はヒューマニズムであるか」において、プラトン・アリストテレスに起源を有する
「本質存在が事実存在に先立つ」という伝統的形而上学のテーゼを逆転して「実存は
本質に先立つ」と主張し、「人間は自由という刑に処せられている」と述べた。もし、
すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在するならば、神は神自
身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あ
らゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているという
ことになる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので、
「本質が存在に先だつ」ことになる。しかし、サルトルはそのような一切を創造する
神がいないのだとしたらどうなるのか、と問う。創造の神が存在しないというならば
、あらゆるものはその本質を(神に)決定されることがないまま、現実に存在してし
まうことになる。この場合は、「実存が本質に先だつ」ことになり、これが人間の置
かれている根本的な状況なのだとサルトルは主張する。サルトルにとって、現象学に
よって把握される即自存在と対自存在の唐突で無根拠な関係は、即時存在の幻影的な
存在の根拠になっている。いずれにせよ、そこでは現象学に還元し得ない存在として
の実存が問題にされている。

君の神話〜アクエリオン第二章 - AKINO with bless4 // covered by 凪原涼菜
https://www.youtube.com/watch?v=cKkREdw8CP0
灰身滅智
けしんめっち
仏教用語。身を灰にし智を滅する意。身心ともまったくの無に帰すること。中国仏教
において,部派仏教の最終目的である無余涅槃をさしていう語。大乗仏教からは,一
種の虚無主義的で不完全な悟りの境地だとして批判された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
について 情報

342 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/10(月) 17:46:03.64 ID:61xvRf0wT
メルロ=ポンティは、後期フッサールの生活世界に焦点を当てて、これを乗り越えよ
うとした。彼は、『知覚の現象学』(1945年)において、知覚・身体を中心に据えて
幻影肢の現象を分析し、自然主義と観念論を批判する。その前提となる、デカルト的
なコギトにとって「私の身体」は世界の対象の一つであり、仮に、そのような前提が
正しいとすれば、私の意識が、客観的にない脚に痒みを感じることはないはずである。
彼は、デカルト的伝統を受け継ぐサルトルのように対自主体、即自客体を明確に二分
することに誤りがあり、両者を不可分の融合的統一のうちにとらえられるべきである
と主張する。主体でも客体でもあると同時に主体でも客体でもない裂開の中心である
両義的な存在、それが身体である。生理的な反射でさえ、生きた身体が環境に対して
有する全体的態度、意味の把握を伴うし、その全体性は決して私の反省的意識に還元
し尽くされることはない。私と世界の間の身体による関係は、全体的な構造であるば
かりでなく、時間的に発展する構造でもある。彼にとって即自存在と対自存在の対立
は、以上のような構造を有する、より一層深い媒介の所産であり、ここでは現象学よ
り存在論が優位する。

その後、フランスの現代思想において、サルトルとクロード・レヴィ=ストロースの
論争をきっかけに、1960年代に入って構造主義が台頭するが、メルロ=ポンティの身
体論は構造主義の準備ないしその橋渡しになったと評価する向きもある。

新トマス主義
トマスの思想は、近代的認識論の成立により、急速に衰え始めたが、19世紀になると、
新トマス主義の存在論として復活した。

新トマス主義には、人格神たる神が存在するという神学的な立場を前提に、トマスの
哲学を研究しようとするもの、そのような立場については判断を留保し、現代的な哲
学・科学の成果を取り入れ、修正すべき点は修正した上でトマス哲学を研究しようと
するものの二つに大きく分かれるといってよい。特に論争となっている点は、カント
による批判哲学、認識論の研究成果については、エティエンヌ・ジルソンのように、
存在論に対する認識論的優位を認めてしまうと、結局は観念論に行き着いてしまうこ
とからする消極的な立場と、むしろトマスの哲学には認識論的に示唆に富む記述が多
いとしてこれを現代的に修正していこうとする立場がある。

ミカヤだかミカンだか老可愛って銀髪なのかね?白髪と銀髪なんか違うっぽいよね。
ロマンスグレーってのだと、白髪交じりだよね?ブロンドの下に黒があるみたいな?
『光芒』by B'z | Official Lyrics Video 見たとかだよね。TRUTHをアレしろってネタにするのアレだよね。
https://www.youtube.com/watch?v=SGegRnLfDg8

343 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/11(火) 15:15:03.82 ID:lB8PYhwLb
分析的形而上学
論理実証主義の失敗とクワイン
ウィーン学団から始まった論理実証主義は、けっして一つの主張で固まっていたわけ
ではないものの、経験主義を基礎に実在論を主張するものが多くいた。そして、経験
主義の伝統においては、真理とは、観念と実在の対応であり、その場合の観念とは、
一つの名辞を単位に考えられていた。カルナップらの論理実証主義は、この単位を一
つの言明に置き換えた。つまり、ここでは、直接的経験によるセンス・データ(感覚
所与)言語に翻訳可能であれば、この言明は有意味であると考えられた。

しかしながら、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインによれば、このように実在
と観念の対応を一つの名辞、一つの言明に分解していく還元主義は不可能であり、わ
れわれの認識は一つの言語体系であり、したがって、とある信念を検証するにあたっ
ては、一つの理論の全体との関係で、経験の審判を仰がねばならず、そのコロラリー
として、分析的真理と総合的真理は区別することはできない。クワインは、これを
「全体論」と呼んだが、これによれば、経験による改訂の可能性を原理的に免責され
ている信念はなく、もし対立する二つの理論があるときは、どのような経験によって
も、そのどちらかが完全に否定されることはなく、どのような信念でも保持しつづけ
ることができることになる。

論理実証主義は、哲学に数学、論理学を基礎とした確固たる方法論を基盤に実験や言
語分析に科学的な厳正さを求め、存在論を含め形而上学的問題を哲学的に無意味なも
のと見なしたが、クワインの批判をきっかけに反論が強まり、哲学的に失敗したもの
とみなされるようになった。現在では「分析的形而上学」と呼ばれる分野で、存在論
だけでなく、時間・自由など伝統的な形而上学的なトピックのほぼすべてについて分
析哲学の手法を用いた議論がなされているといってよい。詳細は、なぜ何もないので
はなく、何かがあるのかを参照。

メタ存在論
メタ存在論と呼ばれている議論では、「何が存在するのか、との問いに客観的な答え
はあるのか」という問いに対して、これを肯定する「存在論的実在論(ontological
 realism)」と、否定する「存在論的反実在論(ontologicalanti-realism)」が
対立している。

ファイナルファンタジー4 iOS版 ボス戦 vsカルコ・ブリーナ FFW
関連項目
ポータル 哲学 ポータル 哲学
形而上学
実念論 - 実在論
唯名論
大陸哲学
分析哲学
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか
コンピュータにおける Ontology については、「オントロジー (情報科学)」を参照。
ココらへんもやろうと思うけどさ、引き受けるってのが難しくなったっぽくない?守るがアレだよね。
https://www.youtube.com/watch?v=Gv6OpRjlXA0 格落ちのネタに見えやすいのかもだよね。
パラディンを採用したみたいな。一見アレでしょ。

344 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/11(火) 15:22:51.37 ID:lB8PYhwLb
存在論の現在と未来
ドイツでは、戦後しばらくの間はハイデッガーが学派とまではいえないにせよ一定の
影響力を持っていたが、1960年ころから、いわゆる「ドイツ社会学の実証主義論争」
を経て、英米系の言語哲学、科学哲学、現代的認識論の発展の成果を受容する流れが
ドイツ哲学会では強くなり、ハイデガーの影響力は減退していった。

経験論、プラグマティズムの伝統の下、論理実証主義、分析哲学が発展し、形而上学
を否定する傾向のある英米系の哲学では、特にハイデッガーを評価する向きは少ない
ようであるが、近年、存在論も含め形而上学的な問題がやや形を変えた形で議論され、
分析的形而上学と呼ばれている。英米系の哲学では、クワインの主張が以後の存在論
の流れを方向付けた。存在論は認識論と同様自然化されなければならないとされ、い
わゆる存在論的問題は自然科学によって解答が与えられるべきものであり、そのプロ
ジェクトは科学者が共同して遂行していくものとのされた。そこでは、専門訓練を受
けた科学者が、それぞれの専門分野で、物理学の哲学、生物学の哲学といった個別の
分野ごとに存在論的問題を論じていくことになる。それでは存在論は単に科学の一章
にすぎないのであろうか、それともやはり哲学固有の問題は残り続けるのであろうか。
この点については、現在も肯否両論の立場から議論が続けられており、その解決は未
来に残された問題といえるだろう。

【VOICEROID実況】#28 琴葉姉妹のファイアーエムブレム 烈火の剣 ヘクハー女性縛り
https://www.youtube.com/watch?v=pXg6WExFGh0 ???

345 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/11(火) 15:53:48.53 ID:lB8PYhwLb
千本通(せんぼんどおり[1])は京都市の主要な南北の通りの一つ。二条以南は、かつて
平安京の朱雀大路のあった場所を通る。

千本通の名前については、船岡山西麓の葬送地への道に千本の卒塔婆を建て供養した
のを通り名とした、または、『日蔵夢記』で、日蔵が地獄へおちた醍醐天皇と出会い
「自分を地獄の責め苦から救い出すために千本の卒塔婆を立ててほしい」と、訴えら
れたので卒塔婆千本立てたことに由来する。

引接寺
千本えんま堂.jpg所在地 京都府京都市上京区千本通廬山寺上る閻魔前町34
山号 光明山 院号 歓喜院
宗派 高野山真言宗
本尊 閻魔法王
創建年 寛仁元年(1017年)
開基 定覚(小野篁とも)
中興年 文永10年(1273年)
中興 明善
正式名 光明山歓喜院引接寺
別称 千本ゑんま堂
札所等 通称寺の会(千本ゑんま堂)
文化財 十重石塔(重要文化財)
梵鐘(市指定有形文化財)
千本えんま堂狂言(市指定無形民俗文化財)
法人番号 5130005002247 ウィキデータを編集
引接寺(いんじょうじ)は、京都市上京区千本通廬山寺上る閻魔前町[注 1]にある高
野山真言宗の寺院[1]。山号は光明山。本尊は閻魔法王。一般には千本ゑんま堂(せん
ぼん えんまどう)と通称される[1]。春の念仏狂言で知られる。
引接とは仏が衆生を浄土に往生させること[1]である。その名の通りこの寺は、かつて
の京都の3大墓地であった化野、鳥辺野、蓮台野(れんだいの)の一つである蓮台野の
入口に立っている。現在でも地獄の裁判官である閻魔の像を祀り、「悪いことをする
な」「嘘をついてはいけない」という子供らへの教戒の場となっている。寺務所では
「えんま様のお目こぼし」というかき餅も売られている。
歴史
そもそもは現世と冥土を行き来して、閻魔法王とも交流したという伝承のある小野篁
(802年 – 853年)が、蓮台野の入口であるこの地に自ら閻魔法王の姿を刻んで祠を
建立して祀ったのが当寺の始まりであるという。
その後、寛仁元年(1017年)に藤原道長の後援を得た恵心僧都源信の弟弟子・定覚に
より、「諸人化導引接仏道」の道場とすべく篁が建立した祠をもとに開山されたと伝
える。後に廃れたが、文永10年(1273年)に明善律師によって中興された。
安土桃山時代、京に来た宣教師ルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)
中に、永禄8年(1565年)当時の本寺の境内の様子が記されている。
天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ、京の名所と町衆の姿を
描いた国宝『洛中洛外図屏風』(米沢市上杉博物館蔵)の左隻右上に「千本ゑんま堂」
が描かれている。その境内では普賢象桜や十重石塔とともにゑんま堂狂言「閻魔庁」を
演じている様子が描かれている。
千本ゑんま堂大念仏狂言は、1964年(昭和39年)に後継者不足が原因で途絶える。1974年
(昭和49年)には不審火によって狂言堂が焼け、狂言衣装も焼失する。しかし、翌1975年
(昭和50年)には焼け残った狂言面をもとに「千本ゑんま堂狂言保存会」が結成され、
狂言堂は仮建築ながら再建された。以前の西陣講中を中心としたメンバーや一般から募
集したメンバーも含めた編成に推移し、以降復活した狂言二十数演目が毎年境内で公開
されている。
年中行事
2月(節分会) – 厄除けの「こんにゃく煮(だ)き」が振る舞われる。
5月1日 - 5月4日 – 京都で三大念仏狂言の一つに数えられる千本えんま堂狂言(京都市指定無形民俗文化財)が有声で行なわれる。
8月 – 六斎念仏、盂蘭盆会 - お精霊さんをお迎えする迎え鐘が終日鳴り続ける。
8月24日 – 地蔵盆の盆踊り。
『新鬼武者〜DAWN OF DREAMS〜』PS2 OP オープニング 浜崎あゆみ startin' ロベルトとアレになってそうだよね。
https://www.youtube.com/watch?v=BYGJWNos7Zc

346 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/11(火) 15:56:35.83 ID:lB8PYhwLb
日本史[1]
Historia de Japam[1]
フロイスの日本史
フロイスの日本史
著者 ルイス・フロイス[1]
発行日 第一部のみ、ドイツ語版、1926年[1]
第二部のみ、ポルトガル語版、1938年[1]
ポルトガル国立図書館本全5冊、ポルトガル語、1976年-1984年[1]
ジャンル 歴史書
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『フロイス日本史』(フロイスにほんし)、正式には『日本史』(にほんし、ポルト
ガル語: Historia de Japam)は、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行
ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書。

執筆・出版の経緯
1579年、イエズス会司祭ジョヴァンニ・ピエトロ・マフェイ(イタリア語版)はポル
トガル国王エンリケ1世の命により、『ポルトガル領東インド史』の編纂を開始した。
この時マフェイは、当時すでにインドと日本からの通信者として知られていたルイス
・フロイスの事を思い出し、同年11月6日にイエズス会第4代総長エヴェラール・メル
キュリアン(英語版、フランス語版、スペイン語版)への書状を出し、フロイスを布
教の第一線から引かせ、ヨーロッパの後進が日本布教に赴く際の資料とするために日
本でのキリスト教布教史を書かせるよう依頼した。総長メルキュリアンはこれを承諾
し、インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに指令を出した。

1583年秋、フロイスは口之津でガスパール・コエリョからこの指令を受け取った。彼
は以後、10年以上にわたって執筆を続け、時には1日に10時間以上の執筆を行ったと
いう。

翌1584年には第1巻「日本総記」(現在では「日本総論」の目次を除き逸失)を書き
上げ、1585年6月14日には『日欧文化比較』を加津佐で執筆。1586年(天正14年)、
日本史1549~78の部がおおむね完成した頃、コエリョと共に五畿内をまわり、大坂城
で豊臣秀吉に謁見するなどした。

1587年、秀吉がバテレン追放令を発布したが、フロイスら宣教師は日本を出てはいない。

その後フロイスは1592年まで日本で執筆を続け、同年10月9日にヴァリニャーノとと
もに日本を発ち、マカオに到着。この後1594年に第三部が完成した[2]。ところが、
この時に原稿を検閲したヴァリニャーノは、自身が多忙なことや、あまりにも記事が
膨大で本来の執筆趣旨に反する事を理由に、編集を加えて短縮することを命じた。だ
がフロイスはこれに応じず、「原型のままローマに送付させてほしい」と時の総長ク
ラウディオ・アクアヴィーヴァ(英語版、イタリア語版、スペイン語版)あてに書簡
を出している。

1595年、フロイスは日本に戻っていくつかの年報や報告書を作成した後、1597年に没
した。彼の原稿はマカオのマカオ司教座聖堂に留め置かれ、そのまま忘れ去られた。

1742年、ようやくポルトガルの学士院が同書の写本を作成して本国に送付した。

1835年に司教座聖堂が焼失した際に原本は失われたと思われる。写本も各地に散逸した。

後年に再度蒐集され、行方不明となった第1巻以外は20世紀以後に徐々に刊行される
ようになった(詳細は下記参照)。

織田信長役に吉川晃司と貴重な“幻の金屏風”/ドラマ『MAGI -天正遣欧少年使節-』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=NUdmPt2DB_8

347 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/11(火) 16:15:43.37 ID:lB8PYhwLb
『日本史』の構成と特徴
研究により、『日本史』は以下のような構成によって成り立っていたことがわかっている。
第1巻
序文
日本六十六国誌 : 未発見
日本総論 : 目次のみ現存
第2巻
第一部 : 1549年(天文18年) - 1578年(天正6年)の記録
第3巻
第二部 : 1578年(天正6年) - 1589年(天正17年)の記録
第三部 : 1590年(天正18年) - 1593年(文禄2年)の記録
本文は現存しない「日本総記」と称される第1巻(序文・日本六十六国誌・日本総論か
ら成る)、フランシスコ・ザビエルが日本を訪れてキリスト教の布教が開始された1549年
(天文18年)から1578年(天正6年)までからなる第2巻、そして1578年(天正6年)
から1589年(天正17年)までからなる第3巻から構成される。ただし、実際の第3巻は
1594年(文禄3年)まで執筆されており、1589年(天正17年)以後の部分は加筆され
たものと考えられ、この加筆部分を別の巻として扱う見方もある。
キリスト教の布教史としてのみならず、織田信長・豊臣秀吉ら諸侯・武将の動向から
庶民生活の実情、災害や事件などについて細かく描かれており[3]、一部に日本人に対
する誤解やキリスト教的偏見が含まれているものの、優れた観察眼と情報蒐集の確実
性が明らかにされており、日本史における重要な史料として高く評価されている。ま
た日本語研究においても、日本の人名や地名のローマ字表記から当時の発音が分かる
貴重な史料である[4]。
『日本史』の翻刻・翻訳
原文の翻刻
Luis Frois, Historia de Japam. Edição anotada por Jose Wicki. 5 vols. Biblioteca Nacional de Lisboa, 1976-1984.
リスボン・ポルトガル国立図書館(ポルトガル語版)蔵の写本を元に現存する全文を翻刻。
ドイツ語訳
Luis Frois, Die Geschichte Japans (1549-1578). nach der Handschrift der Ajudabibliothek in
Lissabon ubersetzt und Kommentiert von G. Schurhammer und E. A. Voretzsch. Leipzig, 1926.
リスボン・アジュダ文書館蔵の写本を元に、1549年 - 1578年の記事を翻訳。
日本語訳
『日本史 キリシタン伝来のころ』全5巻、柳谷武夫訳、平凡社〈東洋文庫〉、1963年 - 1970年。上記ドイツ語訳からの重訳
『日本史』全12巻、松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社、1977年 - 1980年、普及版 1981 - 1982年。現存する全文を翻訳、テーマごとに再構成
『完訳 フロイス日本史』全12巻、中公文庫、2000年。
織田信長篇 I 将軍義輝の最期および自由都市堺 ISBN 4-12-203578-3(単行判では3巻、五畿内編I)
織田信長篇 II 信長とフロイス ISBN 4-12-203581-3(4巻、五畿内編II)
織田信長篇 III 安土城と本能寺の変 ISBN 4-12-203582-1(5巻、五畿内編III)
豊臣秀吉篇 I 秀吉の天下統一と高山右近の追放 ISBN 4-12-203583-X(1巻、豊臣秀吉編I)
豊臣秀吉篇 II 「暴君」秀吉の野望 ISBN 4-12-203584-8(2巻、豊臣秀吉編II)
大友宗麟篇 I ザビエルの来日と初期の布教活動 ISBN 4-12-203585-6(6巻、豊後編I)
大友宗麟篇 II 宗麟の改宗と島津侵攻 ISBN 4-12-203586-4(7巻、豊後編II)
大友宗麟篇 III 宗麟の死と嫡子吉統の背教 ISBN 4-12-203587-2(8巻、豊後編III)
大村純忠・有馬晴信篇 I 島原・五島・天草・長崎布教の苦難 ISBN 4-12-203588-0(9巻、西九州編I)
大村純忠・有馬晴信篇 II 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗 ISBN 4-12-203589-9(10巻、西九州編II)
大村純忠・有馬晴信篇 III 黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国 ISBN 4-12-203590-2(11巻、西九州編III)
大村純忠・有馬晴信篇 IV キリシタン弾圧と信仰の決意 ISBN 4-12-203591-0(12巻、西九州編IV)
https://www.youtube.com/watch?v=J1kQAMKmcvU

348 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/11(火) 16:54:48.73 ID:lB8PYhwLb
関連項目
日本のキリスト教史
キリシタン日本布教の記録
十六・七世紀 イエズス会日本報告集(松田毅一監訳、同朋舎 全15巻)
日欧文化比較(フロイス)
日本諸事要録(ヴァリニャーノ)
日本教会史(ジョアン・ロドリゲス)
日本キリシタン教会史(ハシント・オルファネル(カタルーニャ語版))
近世ヨーロッパ人による日本記述
日本王国記(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン)
ドン・ロドリゴ日本見聞録
日本大王国志(フランソワ・カロン)
日本誌(ケンペル)
日本(シーボルト)


石像寺SyakuzouJi.jpg本堂所在地 京都府京都市上京区千本上立売上ル花車町503
山号 家隆山
院号 光明遍照院
宗派 浄土宗
本尊 地蔵菩薩(釘抜地蔵)
創建年 伝・弘仁10年(819年)
開山 伝・空海
中興 重源
正式名 家隆山光明遍照院石像寺
別称 釘抜地蔵
札所等 洛陽四十八願所地蔵第16番
文化財 石造阿弥陀如来及び両脇侍像・石造弥勒仏立像(重要文化財)
法人番号 5130005000242 ウィキデータを編集
本堂の釘抜の絵馬
石像寺(しゃくぞうじ)は、京都市上京区にある浄土宗の寺院。山号は家隆山(かり
ゅうざん)。本尊は地蔵菩薩(釘抜地蔵)。詳名は家隆山光明遍照院石像寺(かりゅ
うざん こうみょうへんじょういん しゃくぞうじ)という。地元では通称の釘抜地蔵
(くぎぬきじぞう)で知られている。
歴史
寺伝では空海(弘法大師)により弘仁10年(819年)に真言宗寺院として創建されたと
いう[1]。
その後衰微していたが、鎌倉時代に俊乗坊重源により、浄土宗の寺院に改められて再
興された。そして、藤原家隆が入寺したことから後に山号は藤原家隆から名をとって
家隆山とした。
その後、再び衰退したが慶長19年(1614年)に西蓮社厳誉上人が再興したという[2]。
当寺の本尊は空海が唐から持ち帰ったという石に自ら刻んだとする地蔵菩薩である。
この地蔵は苦しみを抜き取るということから苦抜(くぬき)地蔵と呼ばれ、それがな
まって室町時代には釘抜地蔵と呼ばれるようになった[1]。
享保15年(1730年)の西陣焼けで焼失するが、再建された。
釘抜地蔵の伝説
「釘抜地蔵」のいわれについては、次のような伝説がある。室町時代の弘治2年(1556年)
頃、紀ノ国屋道林という商人がいた。彼は両手に激しい痛みを感じていたが、どんな治
療を施しても効き目がなかった。そこで霊験あらたかな石像寺の地蔵菩薩に7日間の願
かけをしたところ、満願の日の夢に地蔵菩薩が現れた。地蔵菩薩は「お前の苦しみの原
因は、前世において人をうらみ、呪いの人形(ひとがた)を作ってその手に八寸釘を打
ち込んだことにある」と告げ、呪いの人形から抜き取った八寸釘を道林に示して見せた。
道林が夢から覚めると、両手の痛みはすっかり消えていた。そして、石像寺に参詣する
と、本尊地蔵菩薩の前には血に染まった2本の八寸釘が置かれていたという[3]。

FINAL FANTASY VII REMAKE 釘バット集 Chapter 1〜4 フレーフレーフレーフレー
https://www.youtube.com/watch?v=COUJklthwwA

349 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/11(火) 17:00:07.65 ID:lB8PYhwLb
大報恩寺Daihoonji temple 6.jpg本堂(釈迦堂、国宝)
所在地 京都府京都市上京区七本松通今出川上ル溝前町[注釈 1]
山号 瑞応山
宗派 真言宗智山派
本尊 釈迦如来(重要文化財)
創建年 承久3年(1221年)
開山 義空
別称 千本釈迦堂
札所等 新西国三十三箇所第16番
京都十三仏霊場第8番
ぼけ封じ三十三観音第2番
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第2番
文化財 本堂(国宝)
木造釈迦如来坐像、木造十大弟子立像10躯、木造六観音像6躯ほか(重要文化財)
公式サイト 千本釈迦堂 大報恩寺
法人番号 2130005002191 ウィキデータを編集
大報恩寺の位置(京都府内)大報恩寺
大報恩寺(だいほうおんじ)は、京都市上京区にある真言宗智山派の寺院。山号は瑞
応山(ずいおうざん)。本尊は釈迦如来[1]。千本釈迦堂と通称される。霊宝殿は新西
国三十三箇所第16番札所で本尊は六観音である。おかめの物語や、12月の風物詩であ
る大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として護持された。
歴史
鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原
秀衡の孫で、比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代の勧進状によれば、「猫
間中納言」と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したとい
う。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商から寄進を受けて現存する本堂が完
成した。1951年(昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂
は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千
本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及され
ている(文永は1264年 - 1275年)[2]。
本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている(後述)。
倶舎(くしゃ)・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許された。この本堂は応仁・文明
の乱にも焼けることはなかった創建当時のもので、洛中最古の現存建造物で国宝とな
っている(「京都市内」最古の建造物は醍醐寺五重塔)。
大報恩寺には近隣の北野社(北野天満宮)境内にあった「北野経王堂」の遺物も保管
されている。足利義満は明徳の乱(山名氏清の乱)の戦没者と氏清を悼んで、乱の翌
年の明徳3年(1392年)、法華経一万部を読誦する北野万部経会を創始し、応永8年
(1401年)に北野経王堂願成就寺を建立した。
経王堂は文安元年(1444年)の文安の麹騒動で北野社と共に焼け落ちたが、慶長10年
(1605年)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として北野社を復興した際に、共に再建され
ている。しかし、寛文11年(1671年)には老朽化のために規模を縮小されて改築され
ている。さらに、明治時代となって神仏分離令が出されると、北野天満宮にある仏堂
は解体されていき、経王堂は当寺に観音堂として再び規模を縮小して移築された。経
蔵に伝来した一切経、傅大士(ふだいし)及二童子像、?太鼓縁などは大報恩寺に保
管されている[3]。
おかめの物語
詳細は「おかめ」を参照
おかめ像
本堂を造営する際、大工の棟梁であった長井飛騨守高次が代りのない柱の寸法を切り
誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言ア
ドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。しかしおかめは女の提案で大
任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福
を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾
ったとされる。その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面
を着けた御幣が飾られている。度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福
のおかめ信仰につながっている[4]。

[DQ4]驚愕!3章のトルネコの店でMAXの売り上げ金を検証してみた
https://www.youtube.com/watch?v=gpAPz02lD9U

350 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/11(火) 17:20:20.68 ID:lB8PYhwLb
平城宮 第1次大極殿(復元)

平安京の大極殿跡(京都府京都市)
千本丸太町北西の児童公園内。
大極殿(だいごくでん)は、古代の日本における朝廷の正殿。

概要
宮城(大内裏)の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座が据えられ、即位の大礼
や国家的儀式が行われた。中国の道教では天皇大帝の居所をいう。「大極殿」の名は、
万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。ゆえに中国においては太極
殿といい都城内の建物に起源をもち,三国時代の魏の明帝青竜3年(235)、「北魏洛陽
城」において太極殿が初めてであるとされるため、大極殿を「だいぎょくでん」とも
読む。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である[1]。

日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、飛鳥浄御原宮説(福山敏男・小澤毅・
渡辺晃宏ら)[2]と藤原宮説(狩野久・鬼頭清明ら)[3]に分かれている。

原型

小墾田宮推定見取図
大極殿の原型は、飛鳥の小墾田宮の「大殿」にあったと考えられる。小墾田宮は、推
古天皇の時代、それまでの豊浦宮にかわって603年(推古11年)に造営された宮であ
る。『日本書紀』の記述によれば、この宮は、南に宮の正門である「南門」(宮門)
を構え、その北に諸大夫の勤める「庁(まつりごとどの)」が左右に並び、その間の
中央広場としてオープンスペースの「朝庭」があり、さらにその北中央に「大門」
(閤門)、その奥に推古女帝の出御する「大殿」がひかえるという構造であったこと
が示されている。

このような宮の構造は、608年(推古16年)に隋の使節裴世清や611年(推古19年)の
新羅使、任那使の来朝に関する『日本書紀』の記載からうかがわれる。なお、「庁」
はのちの朝堂の起源となった建物と考えられる。

吉村武彦によれば、小墾田宮は「単純な構造ながら、のちの藤原宮や平城宮にみられ
るような、都宮の基本構造の原型として考え」[4]られる。ただし、「大殿」や「庁」
、「朝庭」の遺構は検出されていないので、その規模等については不明である。

乙巳の変後、天智天皇や孝徳天皇らによって650年(白雉元年)に造営のはじまった
難波長柄豊碕宮は、難波宮跡の発掘調査の結果、前期難波宮跡がそれに相当するとの
見方が確実である。北に天皇の居所である内裏があり、そのうち前殿がのちの大極殿
に相当する殿舎である。内裏前殿をふくむ内裏空間と官人の出仕する朝堂・朝庭の空
間の境には内裏南門があり、この門は桁行7間、梁行2間(32.7×12.3メートル)で平
城宮の朱雀門をしのぐ規模である。内裏南門の東西入口には、他に例をみない遺構
「八角殿院」があり、鐘楼のような施設の存在が考えられる。「天子南面」の思想に
より、内裏の南には朝堂・朝庭の区域があり、その規模は東西233.4メートル、南北
263.2メートルにおよぶ。そこでは、少なくとも計14堂の朝堂(庁)があったことを
確認しており、藤原宮や平安宮の12堂を上まわる。この宮に特徴的なのは、朝庭の広
さであり、空前絶後の規模といってよい。また、すべての建物が掘立柱建物であり、
瓦はまだ使用されていなかった。

【VOICEROID実況】#20-2 琴葉姉妹のFE封印の剣ハード 女性縛り
https://www.youtube.com/watch?v=T3vUXAZCqLQ マルテが手に入るのか。別に他に男がいてもああああ

351 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 07:46:40.01 ID:c3JtgBA2Y
沿道の主な施設

大極殿跡

立命館朱雀キャンパス
佛教大学
船岡山
京都ライトハウス 千本北大路下ル
上品蓮台寺 千本鞍馬口上ル
引接寺(千本えんま堂) 千本廬山寺下ル
石像寺(釘抜地蔵)
大報恩寺(千本釈迦堂)
大極殿跡 千本丸太町
京都市営地下鉄東西線 - 二条駅
山陰本線(嵯峨野線) - 二条駅 - 丹波口駅
立命館朱雀キャンパス(中川会館)
京都市中央卸売市場第一市場 五条から七条
嶋原 五条から七条
角屋もてなしの文化美術館 千本花屋町
公共職業安定所分室
梅小路公園、梅小路蒸気機関車館
羅城門跡 千本九条
京都府立鳥羽高等学校 千本九条
鳥羽離宮跡
交差する道路など
ここでは、主要な通りとしての三条以北について記述する。
交差する道路などの特記がないものは市道。

おおき おほき【大】
[1] ?形動? (本来は「多し」と同源。→おおい・おおきい・おおきな・おおきに)
@ 空間を占める容積、面積が大であるさま。
※竹取(9C末‐10C初)「此児やしなふ程にすくすくとおほきになりまさる」
A 事が大がかりであるさま。おおげさであるさま。
※源氏(1001‐14頃)若菜下「猶おぼしめぐらしておほきなることどもし給はば」
B 心が広いさま。寛大であるさま。
※源氏(1001‐14頃)藤裏葉「おいらかにおほきなる心おきてと見ゆれど、したの心ばへ雄々しからず癖ありて」
C 恩徳、利益などが大であるさま。価値があるさま。
※大唐西域記長寛元年点(1163)五「冥(はるか)に景(オホキ)なる福を加へ、隣に強き敵無からむ」
D 地位、身分が高いさま。
※天草本平家(1592)一「vôqinaru(ヲウキナル) クライ ニ イタッテ」
E 程度がはなはだしいさま。はげしいさま。ひどいさま。
※竹取(9C末‐10C初)「てんかのことはと有ともかかりともみいのちのあやうさこそおほきなるさはりなれば」
[2] ?接頭? 名詞の上につけて用いる。
@ 大きい、また、偉大な、の意を添える。「おおき海」「おおき戸」「おおき聖(ひじり)」など。
A 同官のうちの上位であることをあらわす。「おおきまつりごとびと」「おおきものもうすつかさ」など。⇔少(すない)。
B 同位階のうちの上位であることを表わす。「おおきみつのくらい」など。⇔従(ひろい)

DS版『サガ3時空の覇者 Shadow or Light』ミロク戦
https://www.youtube.com/watch?v=e_ogOEzoshs

352 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 07:58:30.02 ID:c3JtgBA2Y
唯名論(ゆいめいろん、Nominalism〈ノミナリズム〉)は、主に哲学・形而上学にお
ける立場の一つ。対義語は実在論(Realism)。文脈によって様々な意味をもつ[1]。

普遍論争における唯名論。普遍者実在論(実念論・概念実在論とも)に対する唯名論。
様々な抽象的対象についての唯名論[1]。
歴史
古代ギリシャ
唯名論の反対概念は実在論である。プラトンは実在論、すなわち非唯名論の立場を明確
に述べた西洋哲学の最初の作家と考えられている。

「universal」という英語の語彙は、アリストテレスの造語である「καθ?λου(katholou)」
の訳語として当てられたものである。アリストテレスは、プラトンのイデア論への批判
で知られるが、同時に唯名論も拒否していた。

唯名論の議論を明確に説明した最初の哲学者はストア派、特にクリュシッポスであった。

中世思想

三浦俊彦が描いたオッカムの剃刀の説明図[2]。三浦はオッカムの剃刀について「ある
事実Pを同様に説明できるのであれば仮説の数(または措定される実体の数)は少ない
ほうが良い」とするものだと説明した。
フランスの哲学者、神学者のコンピエーニュのロスケリヌスは、黎明期の著名な唯名
論者である。唯名論の思想は、ピエール・アベラールの著作に見られ、最も影響力の
ある徹底した名目主義者であるオッカムのウィリアムが開花させた。アベラールやオ
ッカムが主張した唯名論哲学は、概念論(概念主義、conceptualism)と呼ばれ、唯
名論と実在論の中間的な立場をとっている。

オッカムは、存在するのは個人だけであり、普遍は個人の集合を指す心的方法にすぎ
ないと主張した。「私は、普遍的なものは、対象に存在する現実的なものではなく、
心の中の思考対象(objectivum in anima)としてのみ存在することを主張する」と
述べている。オッカムは原則として、説明に必要のない実体を仮定することに反対し
た。したがって、例えばソクラテスの中に「人間性」という実体があると信じる理由
はないし、それを主張しても何も説明されないと書いている。これは「オッカムの剃
刀」と呼ばれる分析方法に対応したもので、現象の説明にはできるだけ少ない仮定を
置くべきだという原則である。

これに対して、概念論的手法は、普遍性という心的問題にのみ答えを与えると批判が
ある。同じ概念が2人の個人に正確かつ恣意的に適用されるならば、2人の個人の間に
は、同じ概念に該当することを正当化するような類似性や共有される性質があるはず
であり、それこそが普遍性が対処するために持ち込まれた形而上学的な問題であり、
問題全体の出発点であるという[3]。個人間の類似性が主張されれば、概念論は穏健な
実在主義となり、否定されれば、唯名論に崩壊する。

近代・現代思想
トマス・ホッブズ[4]とピエール・ガッサンディ[5]は、近代哲学の潮流の中で唯名論
を復活させた。

唯名論を擁護する現代の分析哲学者には、ルドルフ・カルナップ、ネルソン・グッド
マン、H・H・プライス、D・C・ウィリアムズなどがいる。

★霊とかだよね?スピリッツ、ゴースト、ソウル。ウィルキンソンのジンが最初にキテるのか。
アイドルつまり偶像もアレだよね。まあでもモノとして目の前にある場合邪教によりて語るのが易し?
【歌ってみた】Everyday、カチューシャ/ベアードアード【オリジナルMV】
https://www.youtube.com/watch?v=rRhuqhPO8E0

353 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 08:04:34.56 ID:c3JtgBA2Y
普遍論争
中世西欧のスコラ哲学において、「人間」「犬」「薔薇」などは、類の概念として形
相存在として実在するのかどうかという議論(普遍論争)があり、これに対し唯名論
は、類の概念は実在しないと答えた。

唯名論の立場は、類の概念(普遍概念、普遍者)は、名前としてのみ存在するのであ
り、実在するのは類の概念の形相(フォルマ)ではなく、具体的な個物(レース)、
つまり個々の具体的な人間やイヌや薔薇であると考えた。これに対する考えが実念論
(普遍者実在論)で、「薔薇」とか「ネコ」などの類の概念が形相として実在すると
した。

西欧では、13世紀末以降に、理性が信仰から独立して行くのと並行して唯名論が優勢
となる。フランシスコ会士であるオッカムなどは唯名論の立場をとった。

唯名論を表すにvia modernaとすることがある。

関連項目
ポータル 哲学 ポータル 哲学
普遍論争
実在論
反実在論 - 「実在論」の対義語という点では同じだが、文脈が異なる。
オッカムのウィリアム
構造主義

犬ってなんで犬?っていうの?が唯名論にアレかもだよね。
ふざけてるとヤバイってネタだっけ?

類概念(読み)るいがいねん
精選版 日本国語大辞典「類概念」の解説
るい‐がいねん【類概念】

?名? ある概念が他のいくつかの概念を外延として包括する場合の、前の概念のこと。
「人間」「牛」「馬」に対する「動物」の概念のたぐい。上位概念。類。〔哲学階梯(1887)〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉「類概念」の解説
るい‐がいねん【類概念】
論理学で、ある概念の外延のうちに別の概念の外延が含まれる場合、後の下位概念に
対して前の上位概念をいう。例えば、「動物」に対する「生物」の類。→種概念
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の類概念の言及
【概念】より
…アリストテレスに由来する,現代以前の伝統的形式論理学では概念に対してさまざま
な分類が行われてきた。たとえば,〈生物〉〈動物〉〈犬〉等のように概括度,包括
度の高低による上位概念と下位概念(類概念と種概念)の区別,肯定概念と否定概念の
区別等がそれである。これらのうちには下位集合,補集合等の用語で新たに規定し直
されるものもあるが,分類の意義や根拠の明確でないもの,錯誤を招く恐れのあるも
のもある。…

POP STAR - 平井堅 // covered by 長瀬有花
https://www.youtube.com/watch?v=i-H8qT3RRoo

354 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 08:53:18.81 ID:c3JtgBA2Y
実在論(じつざいろん、Realism)とは、名辞・言葉に対応するものが、それ自体と
して実在しているという立場。対応するものが概念や観念の場合は観念実在論になり、
物質や外界や客観の場合は、素朴実在論や科学的実在論になる。
実在論の起源は古代ギリシアのプラトンが論じたイデア論にまで遡ることができる。
イデアの理論によれば、感覚することができる世界は実在するものでなくイデアの射
影であると考えられた。個々の感覚を理性によって把握することによってのみ実在す
るイデアを認識することができると論じている。
アリストテレスもまた普遍的な概念として実在を考えており、感覚によって捉えられ
る個物を「第一実体」、そしてそれが普遍化されたものを「第二実体」と呼んで区別
した。
中世のスコラ学においてはプラトンやアリストテレスの伝統を受け継ぎながら霊魂と
いう観念的な存在の実在を基礎付けるための議論が起こった。それが普遍論争であり、
その論争で実在論はトマス・アクィナスなどによって一方の立場と位置づけられた。
この意味のときは実念論とも訳し、唯名論の立場に対立する見解となった。
近代哲学においてはベルナルト・ボルツァーノは概念そのものの観念的な対象が実在
することを主張し、科学的実在論の立場からはゴットロープ・フレーゲは科学的に構
築された理論、論理記号を制約する独立した普遍的な対象が実在することを主張した。
関連項目
普遍論争 唯名論 道徳的実在論

【Cover】木綿のハンカチーフ【Matsuri Kazamiya】
https://www.youtube.com/watch?v=gaGoz1zvdHY

https://plato.stanford.edu/archives/sum2019/entries/nominalism-metaphysics/
1. 唯名論とは?
英米の伝統において現代の哲学者が使用する「ノミナリズム」という言葉は、あいま
いです。ある意味では、中世に由来する最も伝統的な意味で、それは普遍的なものを
拒否することを意味します. 別の、より現代的だが同様に確立された意味では、抽象
的なオブジェクトの拒否を意味します。これらが言葉の異なる意味であると言うこと
は、普遍的な対象と抽象的な対象が同じことを意味しないことを前提としています.
実際、そうではありません。異なる哲学者は、普遍的なものによって異なるものを意
味し、抽象的なオブジェクトによっても同様に異なるものを意味しますが、広く使用
されているように、ユニバーサルはさまざまなエンティティによってインスタンス化
できるものであり、抽象オブジェクトは空間的でも時間的でもないものです。
したがって、(少なくとも) 2 種類のノミナリズムがあり、1 つは普遍的なものは存
在しないと主張し、もう 1 つは抽象的な対象は存在しないと主張します。[ 1 ] 普
遍性についてのリアリズムは普遍性が存在するという教義であり、プラトニズムは抽
象的な対象が存在するという教義である。
しかし、ノーミナリズムは単に普遍的なものや抽象的な対象を拒絶することではあり
ません。もしそうなら、虚無主義者、つまり実体はまったくないと信じている人は、
唯名論者として数えられるでしょう。同様に、普遍的なものや抽象的な対象を拒否し
たが、具体的な対象や具体的な対象の存在については不可知論者であった人は、唯名
論者として数えられます。「唯名論」という用語が現代哲学でどのように使用されて
いるかを考えると、そのような哲学者は唯名論者ではないでしょう。「ノミナリズム」
という言葉は、対応する学説が、すべてが特定的または具体的であると主張し、これ
は空虚に真実ではないことを暗示しています.
このように、ある種の唯名論は、特定の対象があり、すべてが特定的であると主張し、
別の種類のノミナリズムは、具体的な対象があり、すべてが具体的であると主張します。
★海外の審判の日ってのを、日本画取り込み始めたんだよね?元から押し付けが凄そうじゃん。
これは犬です。これは犬じゃないってのが起きたら、唯名論を使って行くのがアレなんでしょ?
犬って言った?って揚げ足をとるほど真実から遠ざかる場合もあるんだよね?せいぜい20日がアレとかでしょ。
狙われてるよってのがネタでアレでしょ?脅しじゃないんだよね?
拒絶するアレってことでしょ?
※ウィキペディアには「普遍」という見出しの百科事典記事はありません(タイトルに「普遍」を含むページの一覧/「普遍」で始まるページの一覧)。
代わりにウィクショナリーのページ「普遍」が役に立つかもしれません。

355 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 09:02:52.90 ID:c3JtgBA2Y
反実在論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
分析哲学において反実在論(英: anti-realism)という言葉は、あるものの客観的
実在性を否定する立場、あるいは検証超越的な言明の真偽を問うことを否定する立場
を指して使われる。後者の立場はときに、「Pであるかそうでないかという事柄につ
いての事実などない」と言うことによって表現される。それゆえ、他人の心、過去、
未来、普遍、(自然数などの)数学的実体、倫理的範疇、物質的世界、あるいは思考
についてさえ反実在論が語られうる。上記の二種類の説明ははっきりと異なっている
が、しばしば混同されている。たとえば、他人の心の存在を否定する「反実在論者」
(独我論者)は「観測不可能な他人の心が存在するかどうかという事柄についての事
実などない」という「反実在論者」(論理的行動主義者)とは似ても似つかない。

哲学
この言葉は、マイケル・ダメットが「実在論」という論文の中で、唯名論、概念実在
論、観念論、現象主義などを含む古典的哲学議論を再検討する過程で導入したことに
よって広く知られるようになった。ダメットの手法の斬新さは、数理哲学の分野で直
観主義とプラトン主義(プラトン的観念実在論)のどちらに立つべきかをめぐって行
われた論争とこれらの議論を類比的に見たことにあった。直観主義者(数学的対象に
関する反実在論者)たちによれば、数学的言明の真理性は我々がそれを証明できる能
力に依存しており、プラトン主義者(実在論者)たちによれば、数学的言明の真理性
は客観的実在との一致に依存している。それゆえ、直観主義者たちにとっては、「Pま
たはQ」という形の言明は、我々がPを証明できるかまたはQを証明できる場合にのみ、
真となる。これは選言的性質(英: disjunction property)と呼ばれる。特に、言
明Pを証明も反証もできない場合があるため、一般に「PまたはPでない」は真である
(排中律)を主張することはできない。同様に、直観主義者たちは、古典論理におけ
る存在性質(英: existence property)の欠如(φが内包する言辞tを一つも挙げ
られないとしても∃x,φ(x)を証明することが出来る)に反対する。ダメットは、古典
的な形での様々な反実在論の根底には、真理についての直観主義的な考え方が潜んで
いる、と論じる。彼はこの反実在論という考え方を利用しながら現象主義を再解釈し、
それが(擁護できないとしばしば考えられている)還元主義という形式をとらなくて
も成立すると主張する。

科学哲学においては、反実在論は主として電子などの「観察不可能な」実体の非実在
性に関する主張に適用されている。それらの実体は人間の普通の感覚器官では検知で
きないものであるにもかかわらず、多くの人々はそれらが実在すると主張している。
オカシャにはこのような反実在論と実在論とを比較した簡潔な議論がある[1]。イアン
・ハッキングもまた同様の定義をしている[2]。科学哲学における反実在論者の立場は
しばしば道具主義、すなわち観察不可能な(あるいは間接にのみ観察可能な)実体の
存在に対して単に機能主義的な見方を採る立場、とされている。機能主義的な見方を
採れば、Xは理論Yの内部で作用する範囲でのみ存在し、その範囲をこえてなにか存在
論的な主張をしてはいけない。

文芸
芸術(視覚芸術、文学、楽曲、詞などを含む)においては、反実在論や反リアリズム
という言葉は、上記の哲学的表現のどれかとして使われたりあるいは単に実在論、リ
アリズム(それがどんな意味であれ)との比較として使われることがある。それゆえ、
視覚芸術におけるシュルレアリスムには反実在論的な傾向があり、また1960年代にア
メリカでよく見られたようなサイケデリックバンドは「反実在論的」であった。これ
らの術語は、芸術に応用されるときには、哲学的な事柄について語られる場合と比較
して正確さには欠けるだろう。反実在性という言葉もこの意味で使われることがある
が、また別の意味で使われることもある。

あれこれ言ったら、犬とDOGってのを国際的にアレだよね。英語知らないと、DOGって言われてもアレだけど、犬のこと?って
たびたびなるのあるよね。使わない文字とかアレだったりするでしょ。
LOOSERの事って言われたら、はあ?ってなるのだよね。DOGってしていいか?とかもお互いアレだけど、コンセンサスがつたないとアレだよね。
そんな感じになってるんじゃない?お互いの間のアレでしょ。話してないとアレなんじゃない?
DQ2 FC版 02 復活の呪文(ラブソング探して)
https://www.youtube.com/watch?v=eIcWamu9r18

356 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 09:08:25.90 ID:c3JtgBA2Y
普遍論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中世スコラ哲学において、普遍論争(ふへんろんそう、英: Problem of universals)
とは、「普遍」(「普遍者」ともいう、英: universals) の実在に関する論争を言う。
これと内容的に同じ議論が、古代から続いており、近代哲学や現代の哲学でも形を変え
て問題となっているが、普遍概念をめぐる論争として中世の論争を特にこの名で呼ぶ。

概要
通説では、中世における最大の論争である普遍論争(the problem of universals)
は、3世紀にフェニキア人ポルフュリオス(232/33 - 305頃)によって書かれた『ア
リストテレス範疇論入門』(Eisagoge eis tas Aristoteles kategorias、通称:
イサゴーゲー)の次の一節に端緒を持つと言われる[1]。

例えば、まず第一に類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚
しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的な
ものであるのか、また〔非物体的なものであるならば〕離在可能なものなのか、それ
とも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか、という問題については回避
することにする。

中世スコラ哲学全体を貫く最も重大な問題はこの一節で述べられている類や種から得
られる「普遍」の実在性の問題であり、中世の哲学者はポルフュリオスが答えを出さ
なかったこの普遍の実在性の問題について議論を重ねた、とされる[1]。普遍の実在
性が問題であったと言われるものの、そもそも普遍概念の捉え方自体が論者によって
まちまちであり[2]、19世紀半ば以降に通説として、実在論(realism)、唯名論
(nominalism)、概念論(conceptualism)の三つの立場が存在したと整理される
こととなり、普遍論争の通説として用いられている。

本項の内容もこの通説に基づく。ただし、21世紀現代の中世哲学史研究では、この通
説は批判の対象になっている[2][3]。

ファイアーエムブレム 蒼炎の軌跡 ムービー回想6 『結ばれし絆』
https://www.youtube.com/watch?v=e0cicuhVt3A

357 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 09:13:25.81 ID:c3JtgBA2Y
普遍概念
一般に、普遍(羅: universus)とは、一つ(uni)の方向性をもった(versus)広
がり全体のことを言う[4]。一方、普遍論争における普遍概念(羅: universalia)
とは、伝統的に、個物/もの(羅: res、レース)に対する普遍、すなわち「複数のも
のの述語となるもの」(類概念)と定義される[5]。個物とは中世において自明的に
存在すると考えられた個別的な事物のことで、例えば、フィレンツェに住む商人のミ
ケーレ氏とか、そのミケーレ氏の邸で飼っている犬のフェリスとか、ミケーレ氏の邸
内に生えている柏の大樹などである。

ミケーレ氏は、「人間の類」に属し、犬のフェリスは「犬の類」に属し、柏の巨木は
「柏の樹の類」に属している。これらの「類の概念」は「形相(羅: forma、フォル
マ)」であると中世哲学では考えられた。そこで、これらの類の概念、つまり「人間
の形相」「犬の形相」「柏の樹の形相」などが、「普遍概念」とも呼ばれた。

個物が存在することは疑いがないが、では類の概念、つまり普遍概念は存在するのか
どうか。具体的なミケーレ氏という人間とは別に「人間の普遍概念」が存在するのか、
同様に、犬のフェリスとは別に「犬の普遍概念」が存在するのか、また「柏の樹の普
遍概念」が存在するのか。この問題は、古代においても、事物のイデアー存在と、個
別存在の違いということで問題になっていたが、スコラ哲学では、更に精緻に議論や
考察が行われた。

【FE】紋章の謎第2部 病人・老兵縛り#15 17・18章グラの落日・峠の戦い【ゆっくり】
https://www.youtube.com/watch?v=uUD2QpE5jPQ&t=920s

スコラ学(スコラがく)とは、ラテン語の「scholasticus」(学校に属するもの)
に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者など
の学者たちによって確立された「学問のスタイル」のこと。このスコラ学の方法論に
のっとった学問、例えば哲学・神学を特にスコラ哲学・スコラ神学などのようにいう。

概要
スコラ学は決して特定の哲学や思想をさすものでなく、学問の技法や思考の過程をさ
すものである。スコラ学の「スコラ」とは英語の「School(学校)」と同源語であり、
この言葉が入っていることからわかるように、当時の「修道院」において用いられた
学問の技法と対照的なものであった。すなわちスコラ学の特徴は問題から理性的に、
理づめの答えが導き出されることにあった。これに対して修道院で伝統的にとられて
いた学問のスタイルは古典の権威をとおして学ぶだけであり、研究者の理論的思考と
いうものは必要とされていなかった点に違いがある。

スコラ学の究極の目的は問題に対する解答を導き出し、矛盾を解決することにある。
スコラ学の最大のテーマは信仰と理性である[1]などと言われ、神学の研究のみが知
られているきらいがあるが、真の意味でのスコラ学は神学にとどまらず哲学から諸学
問におよぶ広いものであった。「真の宗教とは真の哲学であり、その逆もまた真であ
る[2]」ということがスコラ学の基本的命題だと言われることもある。

スコラ学は西方教会のキリスト教においては大きな位置を占めたが、他方正教会では
17世紀頃に西方教会からスコラ学を含め影響を蒙ったものの[3]、19世紀以降の正教
会では東方の伝統に則った見地から批判的に捉えられており[4]、20世紀以降21世紀
に入った現在においても、論理と理性に基盤を置く西方の神学は、静寂に基盤を置く
東方の神学とは方法が異なると捉えられている[5]。

358 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 09:46:18.64 ID:c3JtgBA2Y
実在論と唯名論
アンセルムスなどの実在論者は、普遍概念は存在するとし、何ものかが明らかでない
個物の基体存在物に、例えば「人間」の形相が付与されることで、すなわち「人間の
普遍概念」が基体存在に加わることで、簡単に云えば、「人間の具体的存在」すなわ
ち「個物としての人間」が成立するとした。このように、類の概念、すなわち普遍概
念が実在するとする考えを、「実念論」または「実在論(Realismus)」と呼ぶ。

実在論者は新プラトン的立場に立ち、イデアが事物より先に立ちそれ自身において存
する点に鑑み、アダムによって堕落しキリストに救済されることが成り立つためには、
人類という普遍者が存在し、それが人間の本質として前提されなければならないと考
えた。そうでないとすると、アダムの原罪もキリストの受難も個々の事実に過ぎず、
人類全体の救済という普遍的な意味を持ち得ないからである。

これに対し、オッカムのウィリアムなどの唯名論者は、人間の類の概念、すなわち
「人間の普遍概念」は形相的に実在するのではなく、古代のアリストテレスが考えた
ように、実在するのは具体的な個々の個物であるとした。つまり、人間のミケーレや
犬のフェリスや柏の巨木が、個物(レース)として実在しているのである。このとき、
「普遍概念」は、類を示す「名前(羅: nomen)」であり、名前は「言葉」として存
在するが、類の概念、すなわち普遍概念としての形相的存在は実在しないとした。極
端な唯名論を唱えたロスケリヌスは、普遍は音声の風(flatus vocis)にすぎない
としている。このような考えを「唯名論(Nominalisme)」と云う。アベラールの見
解では普遍はまず事物よりも神のうちに概念として存在し、その次に物自身のうちに
共通な本質的規定として存在し、さらに物の後に人間の悟性のうちにその思惟の結果
得られた概念として存在することになるとした。これはプラトンとアリストテレスの
折衷的な解釈であった。しかしこのような歩み寄りにもかかわらず論争は続いた。事
物、人間の普遍性を認めなければキリスト教の最も重要な教義と矛盾してしまうから
である。

トマス・アクィナスは、実在論の立場から両者を調停して、普遍は神の知性において
は「事物に先だって (ante rem)」存在し、世界の中においては「事物の中に (in
re)」存在し、そして人間の知性においては「事物の後に (post rem)」存在すると
している。

著名な論客
実在論者には、神の存在証明で名を知られるアンセルムスがおり、実在論の立場から
唯名論との調和をはかった者には、トマス・アクィナスがいる[6]。他に、フランシ
スコ学派のドゥンス・スコトゥスなど。 他方、唯名論者には、異端として排除された
ロスケリヌスの他、自由恋愛のアベラールや経験論哲学の先駆であるオッカムのウィ
リアムがいる[7]。

#菩薩 #浄土教 #浄土三部経
弥勒菩薩
論客って言い方ね★
https://www.youtube.com/watch?v=XUH1y7FwMOY&t=501s

359 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 13:22:52.30 ID:c3JtgBA2Y
「薔薇の名前」と普遍論争
エーコの小説のなかでは述べられていないが、フランシスコ会と教皇庁の争いは、フ
ランシスコ会総長チェゼーナのミケーレ他幹部が、論争に決着を付けるためアヴィニ
ョンを訪れるが、教皇庁側の対応に疑問を抱いた彼らが、一夜にしてアヴィニョンを
逐電し、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国領)へと逃れるに及んで最終的に決裂した。
このとき、逃走した者のなかには、当時の普遍論争において、唯名論の側の立場に立
つ筆頭の論客として知られた、オッカムのウィリアムも含まれていた(この後、教皇
庁はミケーレを解任し、フランシスコ会に新しい総長を選出させた結果、二人の総長
が並立するという事態になる)。
オッカムのウィリアムは、論理思考における「オッカムの剃刀」で良く知られている
ように、近代合理的な思考、経験的科学的な認識論を指向していた。従って、オッカ
ムのウィリアムが、またバスカヴィルのウィリアムのモデルだとも言える。
普遍論争とは中世に存在した、実在するのは何かという哲学議論で、簡単には、事物
(レース)について、その類観念つまり類のエイドス(形相)が実在しているという
のが、「実念論」の立場で、これに対し、オッカムのウィリアムなど「唯名論」の立
場では、実在するのは個々の事物(レース)であって、類の普遍観念つまりエイドス
は、「名(nomen)」に過ぎないという考えであった。
この事物の類観念と個々の事物の関係を、「薔薇(rosa)」という事物または類観念
で考えると、「その薔薇のその名前(Il Nome della Rosa)」とは、「その名前」
が普遍観念で実在か、「その薔薇」こそが具体的事物で実在で、「その名前」は形式
に過ぎないのか。オッカムは後者の立場であり、したがってバスカヴィルのウィリア
ムも唯名論の立場で、後者である。しかしメルクのアドソは晩年に至って、師の教え
に反し、「その名前」が実在である、つまり実念論の立場に転向した趣旨が小説の
「最後の頁」で示唆されている。
/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ という小説最後のラテン
語の詩句が、ここで中世の普遍論争の文脈に置かれることになる。また、時代錯誤で
あるが、作者エーコは、バスカヴィルのウィリアムに20世紀の分析哲学の思想に類似
した内容を語らせており、ヴィトゲンシュタインの言葉の引用に似た表現が登場する。
分析哲学は、中世の普遍論争の問題を20世紀において継承した思想である。
エーコの小説の「枠」を外した事実上の「始まり」の部分は、「初めに(原初に)、
言葉があった( In principio erat verbum.)」(『ヨハネ福音書』1章1節)であ
り、「最後」は、筆写室に手稿を残してアドソが部屋を後にするという説明であり、
そして、最後の最後に、上のラテン語の詩句が置かれている。「原初の薔薇(rosa
pristina)」とは何で、「裸の名前(nomina nuda)」とは何か、作品は、言葉と実
在の関係をめぐり、記号と世界の秩序の関係をめぐり、壮大な「薔薇の名前」の物語
を築いている。

X Japan Say Anything Instrumental Cover
https://www.youtube.com/watch?v=a-470_Hwb8Q 君は薔薇よりとか情熱の薔薇とかベタそうだけどさ。
X JAPAN - SAY ANYTHING (Thai sub)
https://www.youtube.com/watch?v=hhf_YqQSuMw 造花の薔薇に埋もれて?

360 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 13:53:12.88 ID:c3JtgBA2Y
形相(けいそう。英語: form、古代ギリシア語: ε?δος、エイドス)とは、哲学用語
で質料に対置して使われる用語。日本語としては、「ぎょうそう」とも読めるが、哲
学用語として使う時には「けいそう」と読む。
アリストテレス哲学における「形相」
「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス)を対置して、内容、素材とそれを用い
てつくられたかたちという対の概念として初めて用いた人は、古代ギリシアの哲学者
アリストテレスである。彼の『形而上学』の中にこういう概念枠組みが登場する。ま
た『自然学』でもこうした枠組みで説明が行われる。
プラトンが観念実在論を採り、あるものをそのものたらしめ、そのものとしての性質
を付与するイデアを、そのものから独立して存在する実体として考えたのに対し、ア
リストテレスは、あるものにそのものの持つ性質を与える形相(エイドス)は、その
もののマテリアルな素材である質料(ヒュレー)と分離不可能で内在的なものである
と考えた。
プラトンは元来イデアを意味するのにエイドスという言葉も使っていたのだが、アリ
ストテレスが師の概念と区別してこの言葉を定義した。
大雑把に言えばプラトンのイデアは判子のようなものであるが、アリストテレスのエ
イドスは押された刻印のようなものである。イデアは個物から独立して離在するが、
エイドスは具体的な個物において、しかもつねに質料とセットになったかたちでしか
実在し得ない。
エイドスが素材と結びついて現実化した個物をアリストテレスは現実態(エネルゲイ
ア)と呼び、現実態を生み出す潜在的な可能性を可能態(デュナミス)と呼んだ。今
ある現実態は、未来の現実態をうみだす可能態となっている。このように、万物はた
がいの他の可能態となり、手段となりながら、ひとつのまとまった秩序をつくる。
アリストテレスはまた、「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であら
ねばならぬ」と語る。ここで肉体は質料にあたり、魂は形相にあたる。なにものかで
ありうる質料は、形相による制約を受けてそのものとなる。いかなる存在も形相のほ
かに質料をもつ点、存在は半面においては生成でもある。
質料そのもの(第一質料)はなにものでもありうる(純粋可能態)。これに対し形相
そのもの(第一形相)はまさにあるもの(純粋現実態)である。この不動の動者
(「最高善」=プラトンのイデア)においてのみ、生成は停止する。
すなわち、万物はたがいの他の可能態となり、手段となるが、その究極に、けっして
他のものの手段となることはない、目的そのものとしての「最高善」がある。この最
高善を見いだすことこそ人生の最高の価値である、としたのである。

【初音ミク】名もなき詩 / Mr.Children【Covered by ゆめあ】https://www.youtube.com/watch?v=airYlSfnZes
OVER ミスチル LOVELOVESHOWイエモン?
【MMD】君は薔薇より美しい【巡音ルカ】 【ユキV4_Natural】君は薔薇より美しい【カバー】
【KAFU】LOVE PHANTOM - Arrange cover【 B'z 】 https://www.youtube.com/watch?v=KeqSS4LikhQ あとでユニオンの見ておくって言い方?

質料(しつりよう、古代ギリシア語: ?λη、ヒュレー)は、古代ギリシアの概念で、形
式をもたない材料が、形式を与えられることで初めてものとして成り立つ、と考えると
き、その素材、材料のことをいう。
アリストテレス哲学における「質料」
アリストテレスはこの概念について『自然学』で解説している。
たとえば、建築家が「木造の家」をつくるとき、材木が質料(ヒュレー)である。こ
の受動的な存在である材木にはたらきかけ、形を与えることによって、「木造の家」
が現実化する。プラトン的なイデア観においては、イデアは現実の外にあってエロー
ス(愛)の対象となった。しかし、アリストテレスにおいては、「イデアは個物に内
在する」ととらえる。上記の例でいうと、材木を用いて家をつくるその家のかたちが
イデアなのであり、イデアは家を建築する場=実在の家に内在化する。このようなイ
デアを、プラトンの考えと区別し、エイドス(形相)と称した。こうして、ヒュレー
とエイドスの関係で事物を考えることによって、事物の運動発展を論理的に説明でき
るようになった。

辞書だと、物理学をあんまり入れてないよね。質量と質料?カントは、物理学ってさ。勘と?カントの修めた物理学?

361 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 13:59:58.37 ID:c3JtgBA2Y
大陸哲学(たいりくてつがく、英語:continental philosophy)とは、ドイツ及び
フランスを中心とする大陸ヨーロッパ(Continental Europe)において19世紀以降
主流となる現代哲学である。イギリスやアメリカを初めとする英語圏において19世紀
後半から20世紀以降主流となる分析哲学に比較して呼称される。

特徴
大陸哲学と言ってもはっきりと(例えば地理的ないし定義的に)英米の哲学と区切ら
れるものではなく、あくまで緩い区切りである。現に英米にも大陸哲学的な手法や研
究をしている哲学者はいるし、逆もまた然りである。例えばイギリスやアメリカに留
学して分析哲学を学び、独自の分析哲学を展開するパスカル・アンジェルや数理哲学
のジャン・カヴァイエスがそうであるし、アメリカではリチャード・ローティーやス
タンリー・カヴェルが大陸寄りの哲学を展開している。また、分析哲学のルーツと言
われるゴットロープ・フレーゲの他、ルドルフ・カルナップ、ルートヴィヒ・ウィト
ゲンシュタインなど20世紀前半の分析哲学の代表的哲学者は、いずれもドイツ語圏の
生まれである。

また、必ずしもそうであるとは言いきれないが、大陸哲学は文系寄り、文学志向の手
法をとるものとしてイメージされることが多く、比較的イギリスやアメリカの論理や
言語の分析ようなアプローチ方法をとり、比較的理系寄りの問題を扱うことの多い分
析哲学とは趣きを異にしている。また、ソーカル事件のように、英米の哲学者が大陸
哲学側の用語や論理の曖昧さ、いい加減さを攻撃し、大陸哲学側がそれに反発するな
ど、時として両者は対立的で、場合によっては悪意ある偏見・ステレオタイプさえあ
る。その一方で、両者の和解、統合を目指す哲学者もいる。

大陸哲学は、ドイツ観念論やヘーゲル学派の影響が強い。大陸哲学の代表的な手法と
しては解釈学、現象学、実存主義、構造主義などが挙げられる。

両哲学の特徴の対比の例は参考文献にも挙げている『Continental Philosophy』に
豊富である。例えば、ジョン・ステュアート・ミルにおけるジェレミ・ベンサムとサ
ミュエル・テイラー・コールリッジの評価、アルフレッド・エイヤーとジョルジュ・
バタイユのすれ違い、チャールズ・パーシー・スノーの「二つの文化」論などなど。

起源
サイモン・クリッチリーによれば、大陸哲学と分析哲学の分岐地点は二つあるとされ
ている。一つはイマヌエル・カントの哲学に対する二通りの反応と評価であり、英米
哲学は『純粋理性批判』の成功した認識論に、大陸哲学は『判断力批判』の「実践」
にそれぞれ強い関心を持った。もう一つはブレンターノらの心理主義に対する二人の
哲学者の異なった反応である。一人はエトムント・フッサール、もう一人はフレーゲ
である。この二人からそれぞれの哲学の流れは分岐し、マイケル・ダメットはそれを
フッサールを黒海に注ぐドナウ川に、フレーゲを北海に注ぐライン川に喩えている。

Giten Megami Tensei OP Windows Version - 偽典・女神転生 OP Windows版
https://www.youtube.com/watch?v=Id8F9lx_O60
大陸・儀典女神転生 分析・真・女神転生? フォルマサーチストレンジジャーニー?
狂いとかだとアレだよね。真だもんね。クレイジーアメリカ

362 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 14:03:51.89 ID:c3JtgBA2Y
分析哲学(ぶんせきてつがく、英: Analytic philosophy)は、ゴットロープ・フレ
ーゲとバートランド・ラッセルによる論理学(記号論理学)研究及び言語哲学研究の成
果に起源を持ち、ラッセルの教えを受けたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語
哲学研究、及びウィトゲンシュタインの思想に対する誤解を含めて彼から多大な影響を
受けた論理実証主義の受容とそれに対する批判、日常言語学派の発展と影響の拡大など
の歴史を経て形成された現代哲学の総称である。なお広辞苑によれば、分析哲学の主唱
者はジョージ・エドワード・ムーアである。

これは、現代の記号論理学や論理的言語分析、加えて、自然科学の方法及び成果の尊重
を通じて形成された。20世紀には英語圏で主流となった哲学である。たとえばアメリ
カ合衆国の圧倒的多数の大学で、哲学科で教育され研究されるのは「分析哲学」であ
る。これは、イギリスやカナダ、オーストラリアでも同様である。 こうした状況の中
で、分析哲学全体に共通する主張といったものを見いだすのは困難である。分析哲学
には、多様で共通点のない様々な観点が可能であり、蓋然的な共通点しかない可能性
もある。ひどくおおざっぱに言えば、分析哲学は、明晰さの追求と徹底的な論述を特
徴とする。

20世紀の大陸ヨーロッパ(特にフランスとドイツ)において主流となった大陸哲学に
比較されることもあり、単に「英米(現代)哲学」といえば、この記事で扱う分析哲
学を指す場合が多い。

この物語はフィクションです★
フィクションとロジック。フィクションもロジックを含みます?
あなたに話が通じるところが1つでもあるならば。おやすみのあいだにアクマにからだをのっとられぬよう・・・
[ゲーム\Game]真 女神転生 ストレンジ ジャーニー
https://www.youtube.com/watch?v=uow1Zhv4WX0

363 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 14:07:42.93 ID:c3JtgBA2Y
特徴
性質的特徴
分析哲学という一つのまとまった、一枚岩の哲学は存在しない。しばしば分析哲学と
は言語哲学であるかのように言われるが、分析哲学の哲学者は分析哲学が「もっぱら
言語とか論理とかいった主題を扱うものだと決め込んでいる節がある」[1]とはいえ、
実際には言語そのものを対象としているのは分析哲学の一部であり、主題においても
立場においても非常に多様である。しかし、概ね次のように特徴付けることができる
だろう。

一つ目は、厳密には解明されるべき真理は存在せず、哲学の目的はただ思考の論理的
明晰化をはかることであるという、実証主義の伝統である。この考えは、アリストテ
レス以来の伝統的な哲学の基礎付け主義と対照的である。基礎付け主義という伝統的
な考え方は、哲学を諸学の中で特権的な位置つまり最も優越する位置におき、哲学が
諸科学を含む学さえもすべて含め、あらゆるものの原理を研究するというものだった。
反対に、分析哲学者は自分たちの研究が、自然科学とつながるもの、あるいは自然科
学に従属するものと考えることさえ普通である。

二つ目は、論理的言語分析の方法を用いて諸命題を明晰化することが、諸命題の論理
形式の分析で達成できるほとんど唯一のことであるという考えである。命題の論理形
式は、同じ体裁の他すべての命題との類似を示すために用いられる、命題を表現する
方法の一つである。これには、しばしば現代記号論理学の形式化された文法と記号が
用いられる。ただし、日常言語をどのように論理的に分析するのかについて、分析哲
学者の間での見解の一致はない。

三つ目は、世間で言う「哲学的な」言辞と旧態依然とした曖昧で不明瞭な哲学(言う
なれば、疑似哲学)を棄却することである。この「大理論」の拒絶は、(全てではな
いが)分析哲学者が、形而上学的なうぬぼれに対して、日常言語や常識を擁護すると
いう姿となって現れる。特に日本では、晦渋な翻訳の問題の是正に貢献している面も
ある。

方法的特徴
分析哲学の方法としては以下のことが挙げられる。反対に言えば、こうした特徴をそ
なえていれば、マルクス主義であっても分析的マルクス主義として分析哲学の一分野
であり得るだろうし、形而上学も研究方法次第では分析形而上学となり得るだろう。

言語分析、概念分析を中心的な道具とする
定義や議論の論理構造をはっきりさせ、明瞭な論述を行う(記号論理学を参照する)
言語表現の範囲内で問題を設定する
分析の正しさの基準として、しばしば思考実験に訴える
経験科学の知見を取り入れて議論を展開することも多い

【MV風に撮ってみた】THE YELLOW MONKEY「Love Communication」を歌ってみた
https://www.youtube.com/watch?v=sdCNkF3qNnA

364 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 14:12:56.92 ID:c3JtgBA2Y
歴史
分析哲学の歴史は、大まかに言えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての論理学の発
展を背景にした、「論理的言語分析の哲学」[2]、つまり或る種の典型的な言語哲学
として始まった。なお、言語は古代ギリシア哲学から哲学の主題であり続けたが、今
日では一般に、「言語哲学」は分析哲学における言語哲学を指す。これは、バートラ
ンド・ラッセルのように論理学的な人工言語を重視する流れ(理想言語学派)と、反
対に日常言語を重視する流れ(日常言語学派)とに分かれた。この分離は以後ますま
す大きくなり、これは1960年代以降、分析哲学における言語哲学の衰退に繋がっている。

言語哲学以外にも、分析哲学に関わり、当初からの重要な位置をしめていたものに科
学哲学があり、またこれに関連して、従来の認識論が現代の自然科学の自然認識を基
礎付けないばかりか多くの点で不整合になったことから発展した知識の哲学、そして
知識の哲学の中から生まれ、認知科学の発展に呼応して展開する心の哲学など、分析
哲学自体は衰退することなく逆に拡大と発展を遂げた。このなかで、従来なら分析哲
学が棄却しようとした問題(たとえば形而上学として排斥された実在論の問題)が、
分析哲学及びそれを批判しつつ継承する流れの中で、再び取り上げられるようになっ
ている。またそれぞれの科学についての哲学、具体的に言えば生物学の哲学や心理学
の哲学も、近年における分析哲学の一角を形成している。(#多様化も参照)

第二次世界大戦以前
20世紀初頭にゴットロープ・フレーゲやラッセルによって記号論理学が成立し、論理
学が強力な分析のツールとなったことが一つの契機としてあげられる。L・ウィトゲ
ンシュタインの『論理哲学論考』は、記号論理学の使用について一つのパラダイム、
範例となり、ウィーン学団の論理実証主義に影響を与えるなど、影響は絶大なもので
あった。また、G・E・ムーアの「自然主義的誤謬」についての分析など、概念分析を
中心とする分析が登場したのも20世紀初頭であった。

この時期を分析哲学に含めるべきか、或いは、その前段階とみなすべきかには論争が
あるものの、少なくともそのころのこの種の哲学的活動の中心はイギリス(とドイツ
語圏)であり、言語哲学における意味の理論や数学の基礎づけに関する影響は確かで
ある。科学哲学における操作主義や論理実証主義などが次第に主な領域となった。

【AIずんだもんカバー】アポロ ポルノグラフィティ【NEUTRINO】
https://www.youtube.com/watch?v=ZHjFBKh5kI4

365 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 14:18:58.31 ID:c3JtgBA2Y
第二次世界大戦以後
「ポスト分析哲学」も参照
第二次大戦後すぐは日常言語学派が大きな力を持つようになり、ギルバート・ライル、
ジョン・L・オースティンらによって哲学的な問題が日常言語の問題へと解体されてい
った。これに対するウィトゲンシュタインの影響は大きく、この洞察はムーアに帰着する。

しかしその後、第二次大戦中にドイツ語圏から主要な哲学者がアメリカへと移住した
ことをうけ、第二次大戦後の分析哲学の中心は次第にアメリカへと移って行った。こ
の動きを代表するのが、ルドルフ・カルナップの影響をうけたW・クワインの戦後の一
連の著作である。クワインは分析と総合の区別の否定、意味の全体論、根源的翻訳の
議論、自然化された認識論の議論など、刺激的なテーゼを提出し、分析哲学の指導的
役割を果たした。

多様化
第二次大戦後から21世紀にかけて、分析哲学のトピックは多様化が進んでいる[3]。
とりわけ、行為論[3]や形而上学(分析形而上学)などのトピックが積極的に取り上げ
られるようになった。

また、分析哲学の方法論(#方法的特徴)を異分野に応用するという学際的な営みも行
われている。その主な例として、分析法学、分析的マルクス主義、分析的政治哲学[4]、
分析美学[5]などがある。

その他、分析哲学の観点から、プラトン・アリストテレスを始めとする過去の哲学者・
哲学史を再解釈する営みも行われている[6][7]。

同様に、分析哲学の観点から、仏教哲学・インド哲学・中国哲学・西田哲学といった
東洋哲学を再解釈する営みも行われている[8][9]。具体的には、2010年代、出口康夫
やグレアム・プリーストによって、京都大学を拠点に「分析アジア哲学」という名称
の国際共同研究プロジェクトが立ち上げられている[8][9]。ただし、同様の営みはそ
れ以前から散発的に行われている[注釈 1]。

LOVEマシーン / OИE[CeVIO AI] https://www.youtube.com/watch?v=eYPC7uVHRjg

366 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 14:26:53.96 ID:c3JtgBA2Y
森 ?外(もり おうがい、1862年2月17日[1][注釈 1]〈文久2年1月19日[2]〉 - 1922
年〈大正11年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、
陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・
功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
Mori Ogai in the atelier of Sculptor Takeishi Kozaburo in 1916.jpg54歳の森?外(1916年)
誕生 森 林太郎(もり りんたろう)
1862年2月17日
石見国津和野町田村(現・島根県津和野町町田)
死没 1922年7月9日(60歳没)
東京府(現・東京都)
墓地 禅林寺
職業 小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚、教育者
言語 日本語
国籍 日本における郵船商船規則の旗 日本
教育 医学博士、文学博士
最終学歴 東京大学医学部
活動期間 1889年 - 1922年
ジャンル 小説、翻訳、史伝
主題 近代知識人の苦悩
文学活動 反自然主義、高踏派
代表作 『舞姫』(1890年)『うたかたの記』(1890年)『ヰタ・セクスアリス』(1909年)
『青年』(1910年)『雁』(1911年)『阿部一族』(1913年)『山椒大夫』(1915年)
『高瀬舟』(1916年)『渋江抽斎』(1916年)
主な受賞歴 勲一等旭日大綬章(1915年)
デビュー作 『於母影』(1889年)

【黄咲愛里】あなたのキスを数えましょう【CeVIOカバー曲】
https://www.youtube.com/watch?v=ratRn-5dfwc デート・カウント?

美学(びがく、英: aesthetics、またæsthetics、esthetics、エスセティクス、エ
ステティクス、希: Αισθητικ?)は、18世紀に成立した哲学の一領域である。美の本
質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験
的かつ形而上学的に探究する。美的対象、美的判断、美的態度、美的経験、美的価値
などが問題とされてきた[1]。

日本においては、森?外により「審美学」という訳語が与えられた[2] [注 1]が、現
在では美学と呼称される。

単に美意識、美的感覚を表すこともある。近年ではビジネス理論でも外観や雰囲気を
あらわす言葉として用いられる(日本では主に片仮名のままエスセティクスと言われ
る)。また、日本語の「美学」は、本来の意味から転じ、高潔で優れた信念を持つ様
を表すこともある。例えば、囲碁棋士の大竹英雄の棋風は「大竹美学」と称される。

367 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 14:43:32.68 ID:c3JtgBA2Y
★18世紀まで無いってのちょっと分かんないけど、アレだよね。とりあえず、無かったって話しで見るんでしょ?

概要
伝統的に美学は「美とは何か」という美の本質、「どのようなものが美しいのか」と
いう美の基準、「美は何のためにあるのか」という美の価値を問題として取り組んで
きた。科学的に言えば、感覚的かつ感情的価値を扱う学問でもあり、ときに美的判断
[3]そのものを指すこともある。より広義には、この分野の研究者たちによって、美
学は「芸術、文化及び自然に関する批評的考察」であるとも位置づけられる[4]。

美学が一つの学問として成立した歴史的背景には、18世紀に啓蒙主義の思想と自然科
学の確立に伴って表面化した科学的認識と美的もしくは感覚的認識の相違が認められ
たことと関係している。アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンは理性的認
識に対して感性的認識に固有の論理を認め、学問としての美学を形作った。後にカン
トは美学の研究について美的判断を行う能力としての趣味を検討し、趣味を支配する
普遍的な原理は存在しないことから、美学を美そのものの学問ではなく美に対する批
判の学問として位置づけた。ここから美学はシラー、シェリング、ヘーゲルなどによ
り展開された美に対する哲学的批判へと焦点が移行するが、19世紀から20世紀にかけ
て美の概念そのものの探究から個別の美的経験や芸術領域、もしくは芸術と他の人間
活動との関係にも考察が及んでいる。

19世紀後半のドイツでは、美学から芸術の研究を独立させようと、芸術学(げいじゅ
つがく、独: Kunstwissenschaft、英: science of art)が提唱された。その後、
美学は一般芸術学の主張を取り入れて変化し、今日では美学が哲学的であるのに対し
て、科学的・実証的な芸術研究を指して、芸術学と呼ぶようになってきている[5]。

西洋における美学
名称
「美学」という術語が生まれたのは18世紀半ばである。「美学」(aesthetics/英)
という学問の名称は、ドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテンが用いたAesthetica
(日本語に直訳すると感性学)に由来している[6]。

この aesthetica という語は、古典ギリシア語 α?σθησις(aisthesis)の形容詞
 α?σθητικ-?ς(aisthtike)をラテン語化したもので、二つの語義を持っていた。
一つは「感性的なるもの」であり、他方は、「学問」(episteme)という語が省略
(ギリシア語での慣例による)された語義である「感性学」である。バウムガルテン
がどちらの意味でこの語を使用しているかはその諸著においても曖昧であるが、遅く
とも『美学』以降では、後者の意、さらに詳しく言えば「感性的認識論 scientia
cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである[要出典]。

バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性」(『美学』14節)であるから、
aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学 ars pulcre cogitandi」
(同1節)である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」
(「詩」を指している)を典型とする芸術一般は美にかかわるから、aesthetica は
「芸術理論 theoria artium liberalium」(同1節)である。

( aesthetica = 感性的認識論 = 美について考察する学 = 芸術理論 )
バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、
理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、
「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。

Persona 5 vs. Lupin the 3rd ( ペルソナ5 vs ルパン三世)
https://www.youtube.com/watch?v=TJ5IH9UtwIU

美しくないといけないのか?ってのだよね。何か問題を全てアレなものとして見るとかに発展するのが18世紀以前の考え方になるとか?

368 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 15:01:16.56 ID:c3JtgBA2Y
引用

美学(自由学芸の理論、下級認識論、美しく思いをなす技術、理性類似物の技術)は、
感性的認識学の学である。(第1節)

美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美であ
る。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は
醜である。(第14節)


歴史
ギリシャ・ローマ時代には美学という明確な術語が存在しなかった[6]。古代にも美と
芸術は存在論、形而上学、倫理学、技術論などから捉えられたが巨視的な考察は乏し
かった[6]。また、古代における美学の捉え方は特定の局面の断片的または個別的なも
のにとどまっていたと考えられており、組織的な考察は行われてはいなかった[6]。体
系化された美学の淵源はプラトンにまで遡る[要出典]。

哲学的美学(Philosophical Aesthetics)としての美学は、18世紀初頭、イギリスの
ジャーナリストジョセフ・アディソンが雑誌『スペクテイター』の創刊号に連載した
「想像力の喜び」から始まったと言われている[7]。

学問としての「美学」の誕生
美学という哲学的学科を創始したのは、ライプニッツ・ヴォルフ学派の系統に属すド
イツの哲学者バウムガルテン(A.G.Baumgarten,1714-62)である。バウムガルテン
は1735年の著書で、美学に新しい概念を与え[8]、詩の美学的価値の原理的考察を思
考する学としてaestheticaという学を予告した。彼はフランクフルト大学で1742年
から「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義
内容に若干の加筆修正を行い、これをラテン語で出版した[要出典]。『美学(Aesthetica)』
第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。この著書のなかで、バウムガルテ
ンは芸術の本領が美にあり、その美は感性的に認識されるという考え方を示し、芸術
と美と感性の同円的構造を打ち立てた[9]。

近代美学
18世紀に入って余暇活動が盛んになると、美学に関する広範な哲学的考察が本格的に
展開された[7]。初期の理論においてイマヌエル・カントは最も影響力を持っていた
[7]。ロマン主義の登場や政治革命の時代になると、これに関連した美的概念として、
崇高性が評価されるようになった[7]。崇高性はエドマンド・バークが "A Philosophical
Enquiry into the Origin of our ideas of the Sublime and Beautiful "で理
論化した概念である[7]。

シェリングの『芸術の哲学』講義、ヘーゲルの『美学』講義などを経て、フィードラー
(de:Konrad Fiedler)の「上からの美学」批判を受け、現代に至る。

現代美学
現代美学において特筆すべきは、実存主義・分析哲学・ポスト構造主義によるアプロ
ーチであろう。分析哲学の手法を用いて美学的な問題を扱う学問は、分析美学と言わ
れる[10]。分析美学の主要なテーマの一つに芸術の定義がある[11]。また、認知神経
科学の一分野で、美学的体験や芸術的創造性について、認知神経学や心理学的アプロ
ーチにより研究する神経美学(英語版)(neuroaesthetics)がある[12]。


【Lily】Beauty & Stupid【hideカバー】
https://www.youtube.com/watch?v=A5XNfA25ZG8
 ぼくにはかわいいとかわたしにはかっこいいとかNGみたいか。

369 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 15:05:59.65 ID:c3JtgBA2Y
Wakare Uta cover vocaloid Iroha Nekomura 猫村いろは/わかれうた(中島みゆき)
https://www.youtube.com/watch?v=CpBdHbkquIM

日本における美学
日本における主要な美学関連学会としては美学会があり、雑誌『美学』(年四回)お
よび欧文誌 Aesthetics (隔年)を発行している。毎年十月に行われる全国大会の
ほか、年五回関東および関西で研究発表会が開催される。なお2001年の国際美学会議
(4年おき開催)は日本で行われた。

訳語
日本語の「美学」は、中江兆民がフランスのウジェーヌ・ヴェロン(フランス語版)
の著作(1878年)を訳して『維氏美学』(上 1883年11月、下 1884年3月)と邦題
を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は東京美術学校お
よび東京大学におけるフェノロサのヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎(森?
外)による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学につい
ての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル(ケーベル先生の呼称で知られる)
による東京大学での美学講義である。また京都においては京都工芸学校においてデザ
イン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立
の一講座として大塚保治を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年)の大
学である。

日本の美意識
近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」は
無い。しかし、いき、わびなどの個別の美意識は、古くから存在しており、また茶道
や日本建築、伝統工芸品などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、
能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色
彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、
西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。
そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することがで
きない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じる
と、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本
の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の
視点を生かした研究が待たれる。

歴史的に見ると、日本神話の天の岩戸の挿話は、民族の危機が歌舞(うたまい)の芸
術によって救われたという意味であり、日本民族の歴史に占める比重の大きさを示唆
する。 ここにおける理想的人間は「明(あか)き浄(きよ)き直(なお)きこころ」
(宣命)という内面の曇りの無いことに結晶し、罪はみそぎと祓いとによって水の果
て、風の果てに消散されるとする宗教的呪術的心情には、美と清さとがなんらかの形
において一致するという美学的思考が胎生している。アメノウズメの踊りに関する記
述には、乳房や女陰に関する言及もある。

日本において美学的思考が初めて意識的に理論化されたのは、『古今和歌集』「仮名
序」においてである。 紀貫之は「仮名序」で、和歌は純粋な心の結実であるとした
(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。 そして和
歌は天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、「生きとし生けるも
の」の生の表現がヒトにおいてその精華を開花させたものであるとした。

この歌論が芸術批評、創作指標として理論化されたのは、藤原公任の『新撰髄脳』、
『和歌九品』以降においてであり、後者の9分法は仏教における九品蓮台によると思
われるが、基本的には中国唐代の画論における品等論の影響が推定される。藤原公任
によって最高の歌格とされた「あまりの心」は、藤原俊成、壬生忠岑、そして鴨長明
によって「余情(よせい)」として深度化され、幽玄と関係づけられた。

そのころ歌風は、「たけ」、「長高様」(崇高あるいは壮美)、「をかし」(趣向の
面白さに由来する美)など、美的カテゴリーの細分化がおこなわれ、「和歌十体」と
して体系化された。歌人の西行(1118年-1190年)は2300首の、美意識にあふれた和歌
をよんだと伝えられている。

370 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 15:19:31.75 ID:c3JtgBA2Y
藤原定家は、「むかし貫之歌のたくみにたけおよびがたくことばづよくすがたおもし
ろき様をこのみて余情妖艶の体をよまず」(『近代秀歌』)として、「あはれ」(優
美)の範疇を開拓した。

藤原定家によって重んじられた幽玄様、右心体の趣を禅的思想で深めた正徹は、「い
かなる事を幽玄体と申すべきやらむこれぞ幽玄体とてさだかに詞にも心にも思ふ斗り
いふべきにはあらぬ也」と、名状しがたい悟入の境地と芸術の奥義とが照応している
ことを指摘した(『正徹物語』)。

ここから芸道の精神が生まれ、演劇論としては、能の世阿弥の『花鏡』の「動十分心
動七分身」(心を十分に動かして身を七分目に動かせ)という余情演技、「せぬが所
が面白き」という「為手(して)の秘する所」を中心とする能の幽玄論の「かたちな
き姿」を尊重する秘伝につながる。

これは、技法上の修練が必要であることに理解を示したうえでの、俳人の松尾芭蕉に
よる、「俳諧は三尺の童にさせよ初心の句こそたのもしけれ」(『三冊子』)という、
「気」の芸術の主張につながる。 この内面的な自発性は、『笈の小文』によれば、西
行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、千利休の茶を貫く風雅の精神である。

このことを別の側面から保証するように、文人画家の池大雅は、絵画でいかなること
が困難であるかと質問されて、「ただ紙上に一物もなきところこそなしがたし」と答
えたという(桑山玉洲『絵事鄙言』)。

この気の芸術の神秘主義は、宇宙的生命の自己表現から出発する日本の美学思想に起
源するが、多分に、中国思想、仏教思想の影響がある。
【歌ってみた】Pretender / Official髭男dism【Kotone(天神子兎音)cover】
https://www.youtube.com/watch?v=V5rQJX0KAAI

371 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/12(水) 15:57:05.66 ID:c3JtgBA2Y
一方、これに対して、純粋な日本的精神による美学を主張したのは国学者の本居宣長で
ある。 本居宣長(『石上私淑言』)は、「事にふれてそのうれしくかなしき事の心をわ
きまへしるを物のあはれを知るといふ也」と述べて、事象と自我との接触としての経験
において事象の本質を認識したうえで成立する感動を、「物のあわれ」と規定した。
そして、これを知る人を「心ある人といひ知らぬを心なき人といふ也」(同上)として
、すなわち「もののあわれ」を知ることが人間が人間たるゆえんであるとした。 「な
べて心に深く感ずる事は人にいひきかせてはやみがたき物」(同上)であるのだから、
感動の表現は人間的な必然となる。」その表現手段の粋は、「鳥虫に至るまでも(中略)
おのれおのれが歌謡をなすものを人間として一向詠む事あたはざるは恥ずべきことのは
なはだしきにあらずや」(『あしわけおぶね』)というように、和歌である。宣長は儒
教の教えとは鋭く対立し、芸術の自律性の主張した点においても、近代精神を先取する
側面があった。

このように美と芸術を重視する思想的伝統があるために、西洋美学の摂取も成功したの
であり、西周、森?外以後においては、東洋の伝統に立ち茶道における老荘の美学的世
界観を主張した岡倉覚三の『茶の本』、および西洋美学の方法で歌論を研究してその側
面から範疇論を補足した大西克礼の『幽玄とあはれ』は注目すべきである。近現代の文
化人としては三島由紀夫、谷崎潤一郎、泉鏡花、江戸川乱歩らが美意識にあふれた作品
を発表した。戦後の60年代以降、寺山修司、大島渚らがその美学を引き継いだと解釈す
ることも可能である。

プリテンダーピアノアレンジ【幼稚園児の初恋編】Official髭男dismカバー
https://www.youtube.com/watch?v=QE7WsDR6h3k ミスチルのLOVEみたいなのだと、まだアレだけど、勘違いとかすれ違いだとアレなんだっけ?

もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な
文学的・美的理念の一つ。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、
しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。苦悩にみちた王朝女性の心から生ま
れた生活理想であり、美的理念であるとされている[1]。日本文化においての美意識、
価値観に影響を与えた思想である。

「もののあはれ」の発見
「もののあはれ」は、江戸時代後期の国学者本居宣長が、著作『紫文要領』や『源氏
物語玉の小櫛』などにおいて提唱し、その頂点が『源氏物語』であると規定した[2]。
江戸時代には、幕府の保護、奨励した儒教思想に少なからず影響を受けた「勧善懲悪」
の概念が浸透し、過去の平安時代の文学に対しても、その儒教的概念や政治理念を前
提にして評価され、語られた時期があったが、この本居宣長の「もののあはれ」の発
見はそういった介入を否定し、文学作品の芸術的自律性という新しい視点を生み出し
た[3]。

宣長は、それまで一般的な他の文学作品同様に『源氏物語』が時代時代の思想風土、
政治風土に影響されて、その作品の内在的な美的要素からではなく、外在的な価値観
や目的意識から読まれてきたことを排し、歌・物語をその内在的な価値で見ようとし
[3]、「文芸の自律性」という契沖以来の新しい文芸観に基づいて、『源氏物語』に
おける「もののあはれ」を論じた[3]。

宣長は『源氏物語』の本質を、「もののあはれをしる」という一語に集約し、個々の
字句・表現を厳密に注釈しつつ、物語全体の美的価値を一つの概念に凝縮させ、「も
ののあはれをしる」ことは同時に人の心をしることであると説き、人間の心への深い
洞察力を求めた[3]。それは広い意味で、人間と、人間の住むこの現世との関連の意
味を問いかけ、「もののあはれをしる」心そのものに、宣長は美を見出した[3]。

372 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/13(木) 06:07:58.17 ID:8M2LOo4CZ
解釈の一例
ドイツ初期ロマン派の基本的心的態度を、「無限なるものへのあこがれ」と特徴づけ、
ニーチェやキルケゴール研究者として知られる和辻哲郎は、本居宣長の説いた「もの
のあはれ」論に触れて、「もののあはれをしる」という無常観的な哀愁の中には、
「永遠の根源的な思慕」あるいは「絶対者への依属の感情」が本質的に含まれている
とも解釈している[2][3]。

無常との関係
自然を愛し諸国放浪した歌人西行(1118〜1190年)は、『旅宿月(旅路で野宿して見
る月)』と題する歌において、「都にて 月をあはれと おもひしは 数よりほかの す
さびなりけり」〈都にいた折に、月を“あはれ”と思っていたのは物の数ではない す
さび(遊び,暇つぶし)であった〉と詠んだ。これは西行が、自身が都に住んでいた
時に、月を見て、「あはれ」と思ったのは、すさび=暇つぶしでしかなかったと詠じ、
旅路での情景への感動を詠んだ歌である[4]。また、「飽かずのみ 都にて見し 影よ
りも 旅こそ月は あはれなりけれ」〈飽きることなくいつも都で仰いでいた月より
も、 旅の空でながめる月影こそは、あわれ深く思われる〉という歌もある[4]。

月に「あはれ」を見た西行は、幽玄の境地を拓き、東洋的な「虚空」、無を表現して
いた[5]。西行と歌の贈答をし、歌物語をしていた明恵は、西行が物語った言として
次のように述べている。

西行法師常に来りて言はく、我が歌を読むは遥かに尋常に異なり。花、ほととぎす、
月、雪、すべて万物の興に向ひても、およそあらゆる相これ虚妄なること、眼に遮り、
耳に満てり。また読み出すところの言句は皆これ真言にあらずや。花を読むとも実に
花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず。ただこの如くして、縁に随ひ、
興に随ひ、読みおくところなり。紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがや
けば虚空明かなるに似たり。しかれども、虚空は本明らかなるものにあらず。また、
色どれるにもあらず。我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色ど
るといへども更に蹤跡なし。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。
— 「明恵伝」[6]

PV【96Neko】月光 / Gekkou【Chihiro Onitsuka】Sub Esp
https://www.youtube.com/watch?v=azxB5TdUbgY

373 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/13(木) 06:13:13.38 ID:8M2LOo4CZ
金刀比羅宮 本宮拝殿本宮拝殿
所在地 香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1
主祭神
大物主神
(相殿)崇徳天皇
社格等 国幣中社
本殿の様式 大社関棟造
札所等 さぬき十五社13番
真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。

田村神社(たむらじんじゃ)は、香川県高松市一宮町にある神社。式内社(名神大社)、
讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。

概要
高松市中部、高松市街地から南に約7kmの地に鎮座する。
一帯は湧水地であり、現在も当社の奥殿が深淵の上に建てられているように、水神信
仰を基盤とした神社である[1]。讃岐国内では名神大社三社の1つで、讃岐国の一宮と
して崇敬された。また、現在に伝わる神宝は「田村神社古神宝類」として国の重要文
化財に指定されている。
なお「田村」の社名は鎮座地名によるもので、他の田村神社のような坂上田村麻呂と
の関係はない。

祭神
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。
倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)
五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと)
別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。
猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
天隠山命 (あめのかぐやまのみこと)
別名を高倉下命(たかくらじのみこと)。
天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。
田村大神について、中世の書物では猿田彦大神[2]や五十狭芹彦命[3]を指すとされ、
近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命[4]など様々で一定していない。
社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)
であったとする説もある。

FF3のリ売亜?リバイアって水で雷属性とかあったっけ?カスガづくり?春日造の社殿
ペルソナ4 ペルソナモーション集【塔】/Persona4 Persona Motion Collection 【Tower】
https://www.youtube.com/watch?v=gb4uSTedh0c

374 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/13(木) 06:19:31.84 ID:8M2LOo4CZ
歴史
創建
社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、
その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が
設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。

なお、当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一
視(建物も同じ)されていた。

概史
朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名
神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位
の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」
の扁額が残っている[1]。

また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造
営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。こ
れは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである[5]。

天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社
領100石を寄進された[1]。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わった
のちも祈願所として崇敬された。

延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏により一宮寺が分割され、後に一宮寺
は別の地に移された。その際、一国一宮として選ばれていた四国八十八箇所の札所と
本地・正観音像は、一宮寺に移される。

明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。

神階
いずれも「田村神」と記載。

嘉祥2年(850年)2月28日、従五位下 (『続日本後紀』)
貞観3年(861年)2月13日、官社に列する (『日本三代実録』)
貞観7年(865年)10月9日、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』)
貞観17年(875年)5月27日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)
元慶元年(877年)3月4日、正四位下から正四位上 (『日本三代実録』)
建仁元年(1201年)、正一位[1]

【ペルソナ】アルカナ解説]Y 塔編
https://www.youtube.com/watch?v=xv9GVtbobdY
バベルの塔が唯名論と実在論だっけ?アレにアレか。唯名論と反実在論が一致するとも言えない?完全一致か。
反実在論ってこれは犬ということで一致でいいか?みたいな強いアレの雰囲気だよね。そう雰囲気。

375 :みっくすぶるーちゅニュース:2022/10/13(木) 07:28:37.90 ID:8M2LOo4CZ
メギドの戦い (メギドのたたかい、Battle of Megiddo) は、紀元前15世紀にトトメ
ス3世率いるエジプト軍とカデシュ王率いるカナン連合軍との戦いである。
エジプト側が勝利し、カナン連合軍はメギドへ向けて敗走した。エジプト軍はメギド
を七ヶ月にわたり攻囲したうえ開城させた。ファラオと共に従軍した書記の記録に基
づいた複合弓の使用、死者数などの記録が残る歴史上最古の戦いである。テーベ(今
日のルクソール)のカルナック神殿外壁にヒエログリフにより記録されている。



境内
本社拝殿・奥殿は宝永7年(1710年)の造営で、春日造。奥殿は二重構造で前方は本
殿に接続していて、神座があり、その床下に「定水井」と呼ばれる深淵がある。なお、
現在、奥殿には垣根で近づくことができず鬱蒼と茂った木々でほとんど見ることはで
きない。拝殿は明治10年の再建で、入母屋造。

そのほか境内には、海軍少年飛行兵之碑・海外開拓者殉難之碑などの鎮魂のための碑
や、桃太郎話に仮託した犬・猿・雉と吉備津彦・倭迹迹日百襲姫命や讃岐七福神の石
像など、多くの石造物が設けられている。

関係地
花泉(はなのい、花ノ井とも)
境内の西端にある井戸(北緯34度17分11.79秒 東経134度01分37.01秒)。社伝では祭神の百襲姫命が手を洗ったという[6]。
袂井(たもとい、田本井とも)
境内の東方にある井戸(北緯34度17分08.65秒 東経134度01分41.56秒)。百襲姫命が熱病に罹った際、侍女が袂を浸し水を奉ったという[6]。
休石(やすみいし)
神社の東方100mにある(北緯34度17分11.12秒 東経134度01分48.35秒)。百襲姫命が憩った地という[6]。
天降(あまくだり)
神社の南2kmの地にある御旅所の跡(北緯34度16分07.86秒 東経134度01分30.46秒)。天降田村大神が現れた地という[6]。現在は天降神社が鎮座する。
摂末社

弁財天像
おもな末社を本社の向って右から外へ順に。

宇都伎社 うつき
祭神:大地主神、倉稲魂神
昭和62年の再建で、本殿は春日造、幣殿拝殿は入母屋造。
素婆倶羅社 そばくら
祭神:少名毘古那神、大年神、塞神、大水大神、菅原神
平成14年の再建で、本殿は春日造、幣殿拝殿は入母屋造。
天満宮
祭神:菅原道真公
宮島社
祭神:市杵島姫命
そのほか、姫の宮、淡島社、稲荷社など多くの末社が祀られている。
★なんか沖縄っぽい響きだな。ウタキとは違うか。ソーキソバはうどんかそばか。

征夷大将軍と関東管領とかアレだよね。江戸も蝦夷だよね?
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本
列島の東国(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道や樺太)などに住
む人々の呼称である[1]。

【 メギドラオン 】 Persona ペルソナ ペルソナ2罪・罰 ペルソナ3 ペルソナ4 ペルソナ5 P1 P2 P3 P4 P5 P5R P5S PQ PQ2 P4U2 エリザベス
https://www.youtube.com/watch?v=ihTnlQpjAyg

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