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ニコン不買か 新宿ニコンサロン「慰安婦」写真展3

1 :名無CCDさん@画素いっぱい:2012/07/14(土) 00:31:57.32 ID:FiukWnae0.net
衝撃の前スレ


ニコン不買か 新宿ニコンサロン「慰安婦」写真展2
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/dcamera/1339094902/


797 :代理屋@日本食人考43(芳賀説の嘘)::2014/10/13(月) 15:33:36.55 ID:nNF20njr0.net
■日本食人考4(芳賀説の嘘)
今回は、1〜3と別角度から、芳賀説や桑原説の誤りを証明しておく。
じつは、中国人を食人種とする論文は、芳賀説を遡る29年前に、福沢諭吉が
親友と述べた文部官僚の神田孝平氏が発表していた。(*『福爺自伝』岩波文庫)
ただし神田論文は、後の芳賀、桑原両氏の論文とは【決定的に】異なっていた。
どこが違うか解説する前に、以下の時系列を頭にいれておいてほしい。

●1877年 西南戦争 
●1878年 川口武定『従征日記〈上/下〉』(*復刻版は青潮社 1988)
●1879年 E・S・モース「大森貝塚論文」(※日本先住民族食人説)
●1881年 神田孝平「支那人人肉ヲ食フノ説」『東京学士院会雑誌』
         (*所収:礫川全次『人喰いの民俗学』批評社 1997)
●1910年 芳賀矢一 『国民性十論』http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798465
●1918年 魯迅『狂人日記』
●1923年 桑原隲藏「支那人間に於ける食人肉の風習」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/card42810.html   (↓5へ)

798 :代理屋@日本食人考5(芳賀説の嘘):2014/10/13(月) 15:38:08.19 ID:nNF20njr0.net
西南戦争の翌年公刊された従軍記『従征日記』には、生々しい食人に関する
怒りの記述が見いだせた。(※著者川口氏は後に華族となり議員となる人物)
その翌年、モースが大森貝塚を発見。砕かれた人骨の状態から、モースは
日本先住民に食人風習があったと論じて大論争を引き起こしていた。
(※拙>>206>>231の小金井良精氏は、モース説に反発して人類学を研究)
そして神田孝平は、明治天皇が貝塚の出土品を天覧する際の責任者で、
モースをサポートする立場にいた。
以上を踏まえたうえで神田論文のダイジェストをご覧あれ。(※旧字など新に改)

彼は中国が《……文明の国と称し道徳仁義を……》掲げているにも関わらず、
《……古来史中人肉を食ひしこと続々として……》あとを絶たず、その理由も
《……飢に因りて……怒に因りて……味を嗜みて……病を医するか為……》
など多岐にわたると述べ、その具体例を列挙した。   (*礫川 前掲 頁41)
そして結論として、中国人が食人しないのは法が殺人を禁ずるためで、もし
法が無ければ彼らは人を食べる「食人種」だとした。が、それに止まらず(↓6へ)

799 :代理屋@日本食人考6(芳賀説の嘘):2014/10/13(月) 15:55:23.70 ID:nNF20njr0.net
さらに神田氏は、日本の食人事例は一例も言及せぬまま、単に明治になって
肉食が解禁されると、鶴が人々に食べられて急速に数を減らした事実のみを
採り上げ、こう断じた。 《……我復その食人人種たるを疑はざるなり》 (*前同)

神田論文の結語は、 「自分は日本人もまた食人種だと疑わない」だったわけだ。
これは芳賀/桑原説と正反対の結論だ。
では、なぜ神田はこんな論文をこの時期に発表したのか? 目的はなにか?

この論文を紹介した礫川全次氏は、日本先住民食人説を唱えたモースの
援護射撃だったと推測していた。その面もあったろう。
が、当方はモース説の前年の『従征日記』に記されたような、「日本の戦争」に
対する警鐘の意味が大きかったのではないかと愚考する。
日本は「不平等条約撤廃=文明国認定」を国家戦略としていた。
食人は、この国家戦略(政略)を破壊する。神田孝平氏は文部官僚として、
中国に仮託する形で(欧米に言質を取られぬ形で)問題提起をしたのではあるまいか。
(↓後日の7につづく)

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