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web歴史・時代小説を語るスレ 28口目

97 :この名無しがすごい! (アウアウウー Sa85-Xbxe):2020/08/31(月) 20:46:20 ID:/yWTQYlca.net
>>90
1944年初め。B-29を開発したアメリカは日本本土空襲をする企画を立てて、
成都(第20爆撃集団)とマリアナ(第21爆撃集団)を根拠地に定めた。
それぞれの部隊で担当というか縄張りも決めて、北九州の八幡は
成都部隊の担当になった。

夏以降になったマリアナ攻略作戦に対し。成都への進出は年始から進んでいて、
成都部隊は一番槍だとやる気満々だったんだけど、そこで日本軍が
インパール作戦を発動(3月)。
米軍は英軍から輸送機貸してくれと泣きつかれる。

でも当時は欧州でノルマンディー作戦(6月)を控えていた時期でもあり。いかに
アメリカといえど、いきなり100機単位の輸送機なんて都合できない。

でも辺りを見回したら、たまたまそこに100機単位の輸送機があった。
それは成都からの日本本土空襲用の機材や資材を運ぶインドからの
輸送機部隊で。また悪い事に、インパール後背のコヒマのちょっと先。デマプールは
成都への空輸拠点でもあった。
そして日本軍はコヒマを落とし、デマプールを窺う様子も見せる。

なのでアメリカもスルーする訳にはいかず、英軍に輸送機を提供。
おかげでインパールは持ちこたえたけど、成都への進出は大幅に遅れてしまう。

それでも一応B-29の本土空襲一番乗り(6/15の八幡空襲・米軍の
サイパン島上陸と同じ日)は成都からやったけど、インパール作戦は
まだ続いているので、成都の拠点整備と物資集積は大幅に遅れまくり。

結果、日本本土空襲と言えばマリアナ発というイメージが定着するほどの差となり。
それでも第20爆撃集団の面子があるので、八幡空襲は成都から細々とやっていた。
でも結局致命的な損害を与えるには至らず。結局八幡製鉄所は最末期に
鉄鉱石の不足で稼働率が大幅低下したものの、空襲で壊滅する事はなく、
終戦まで操業を続ける事が出来ましたとさ。
めでたしめでたし。

というお話。

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