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純文学と大衆文学(通俗小説)の違いって何?

1 :吾輩は名無しである:2015/10/05(月) 18:06:24.39 .net
芥川賞・・・純文学
直木賞・・・大衆文学

らしいけど、
純文学と大衆文学(通俗小説)の明確な境界線ってあるの?
  

551 :吾輩は名無しである:2022/01/03(月) 11:30:46.26 ID:W2MXB9xg.net
支離滅裂なことを並べ立ててもそれが美的鑑賞に優れてるなら文学(芸術)として成り立つ
純文学はたしかに天性の才能がいるだろうけど、エンタメのほうが作業量は多くなりそう

552 :吾輩は名無しである:2022/01/05(水) 19:34:48.94 ID:qb6/ZOIB.net
人間は本質的に神話と民話という2種類のタイプの物語を求める生き物だ。
世界中、あらゆる時代にこれは当てはまる。
これが現代の日本においては純文学と大衆文学として展開されている。
それだけのこと。
両者の違いはリアリティーがあることと、フィクションを前提としていること。

553 :吾輩は名無しである:2022/01/07(金) 19:26:36.58 ID:HIVAoWtx.net
>>552
神話にリアリティがあって、民話がフィクションだと
あんまり説得力ないですね

554 :吾輩は名無しである:2022/01/09(日) 14:09:25.57 ID:nsCPODeQ.net
>>553
チョット言い方が不味かったけど
神話は事実として語られるということ

555 :吾輩は名無しである:2022/01/09(日) 14:21:02.04 ID:Z/FAvUmE.net
大衆文学と純文学を対置させるなんてまだそんな古い価値観もってんのか

556 :吾輩は名無しである:2022/01/09(日) 18:43:08.40 ID:IJor9H2J.net
>>554
民話もそうなんじゃないの

557 :吾輩は名無しである:2022/01/09(日) 22:39:49.23 ID:nsCPODeQ.net
>>556
民話は違うだろ
昔々あるところにって感じで
ストーリーの面白さが主眼になってる

558 :吾輩は名無しである:2022/01/10(月) 05:48:46.80 ID:n5cycdkP.net
ウィキペディアで純文学を調べたら
英語版がない

これが実態
日本語にしかない概念

海外だとジャンル小説と普通小説が便宜上区別される感じかな
SFがカバーにサイエンス・フィクションとかかれ、普通小説がノベルとだけかかれるみたいな

559 :吾輩は名無しである:2022/01/10(月) 09:17:17.77 ID:2mQwGPo5.net
ストーリーを書けないやつが文章は上手いでしょと自慢したがるのが純文学
というイメージだな。

560 :吾輩は名無しである:2022/01/10(月) 09:37:53.94 ID:0kMYeCIV.net
物語とは関係ない文字の並びから垣間見える美しさが文学の本質だからね

561 :吾輩は名無しである:2022/01/10(月) 15:14:57.36 ID:HQmhC/xq.net
>>557
世界大百科事典だとこうなってて、オイラも同様の認識:

〈民話〉には口伝えという前提があるので,創作民話という表現は,自己矛盾である。民話が含む範囲を具体的にいえば,昔話のほかに世間話,実話が多少口伝えされた伝聞実話,神話・伝説・昔話の一体となった話(沖縄などに多い),歴史的事実のようだが確認できない話などである。 小沢 俊夫

562 :吾輩は名無しである:2022/01/10(月) 16:08:11.78 ID:aWEwPN5F.net
>>560
そんなものは文学の本質と関係ない。

563 :吾輩は名無しである:2022/01/10(月) 18:54:23.94 ID:ncVIJarw.net
>>561
小沢健二の父親なんだな
民話が専門らしから、全部入るように見えるんじゃないの
でもそれだと神話との違いが出てこない

564 :吾輩は名無しである:2022/01/10(月) 20:08:52.02 ID:as7cKxsU.net
>>563
神話には権威があるんじゃね
王家の起源とか、世界、国の起源とか
一方、民話はもっと周辺とか身近な出来事が基になってるかんじで、権威なく民間の伝承ってかんじ

どちらも何らかのもとねたはあると思う

565 :吾輩は名無しである:2022/01/11(火) 13:13:49.42 ID:nzNZ4DWN.net
神話は世界観・宇宙観を叙述する神聖なもの
民話は主に話の面白さを目的とする俗的なもの

566 :吾輩は名無しである:2022/01/11(火) 17:53:53.55 ID:i6Dkin3e.net
神話民話
そんなものなんの関係もない
なにトンチンカンなこと言ってるんだ

567 :吾輩は名無しである:2022/01/11(火) 18:17:43.66 ID:nzNZ4DWN.net
神話的なもの民話的なものを人間は普遍的に求めるものであり
それが現代日本では純文学大衆文学に対応するのではという仮説

568 :吾輩は名無しである:2022/01/22(土) 09:34:13.29 ID:aNIN6Pub.net
小説のセリフはどこか乾いた感じがする
ただの口述記録のような印象を受ける
それに比べて、ドラマは小説よりセリフに凄みがでるから感情移入しやすい気がする
文字の限界か

569 :吾輩は名無しである:2022/01/29(土) 00:44:06.51 ID:AYg7CgnW.net
純文学=文學界新潮群像すばる文藝に載るもの
大衆文学=それ以外
で問題ない

例えば、三島由紀夫が週刊新潮で連載した作品は大衆文学、新潮に載せた作品は純文学、
松本清張も新潮に載せた作品は純文学、小説新潮や週刊新潮に載せた作品は大衆文学、とすればそれで良い。

570 :吾輩は名無しである:2022/01/29(土) 03:37:56.48 ID:IOcPfB5n.net
純文学は売れなくても賞がとれればいい。
大衆小説は売れないと賞がとれない。

571 :吾輩は名無しである:2022/01/29(土) 08:06:52.89 ID:OPkiPylD.net
>>570
うまい

572 :吾輩は名無しである:2022/02/05(土) 16:17:28.42 ID:9acFBNg0.net
サリンジャーのナインズストーリーと
スティーブンキングの刑務所のリタヘイワースをどちらも原文で読んだけど、サリンジャーの独特の雰囲気のほうが勝ってる気がした
あくまでも個人的な意見

573 :吾輩は名無しである:2022/02/12(土) 22:44:13.40 ID:v54YW/KE.net
純ゲームとかはないし大衆ゲームとかもない
でも純文学と大衆文学の区別はある
時代による

574 :吾輩は名無しである:2022/02/13(日) 10:14:14.56 ID:KNB1nZXj.net
文章の芸術性を求めるかどうかの違いだけだ

575 :吾輩は名無しである:2022/02/13(日) 10:18:01.92 ID:zs5QoaK6.net
でも文章の芸術性を破棄してしまったら、
別に小説なんか読まずに漫画とか映画見てればいいんじゃねとは思う

576 :吾輩は名無しである:2022/02/13(日) 10:39:51.30 ID:ixhjn3xO.net
今は境界は曖昧になりつつあるけど
60年代くらいの混ざりぐあいはすごいな
三島由紀夫の春の雪みたいのがある一方で、
松本清張の黒い画集なんかもあるんだからな
同時代にあったというのがすごい

577 :吾輩は名無しである:2022/02/13(日) 11:30:47.14 ID:oFwec1ax.net
昔は帝大出が書く西洋化されたものが純文学
江戸からの流れのものが大衆文学だったろうから

578 :吾輩は名無しである:2022/02/13(日) 14:05:50.14 ID:m5rPe7Th.net
日本は西洋的近代文明を知識として取り入れたから
明治以降小説家や文芸評論家が知識人のトップランナーの位置づけだった
純文学をありがたがるのはその時の風習

579 :吾輩は名無しである:2022/02/13(日) 15:13:40.51 ID:oFwec1ax.net
>>578
だよね、オイラ的には漱石は知識も詩心も傑出してるけど、鴎外は知識だけの優等生に感じる
露伴、湖南あたりの西洋にあまり強くない人は評価されないのも残念

580 :吾輩は名無しである:2022/02/14(月) 23:39:20.26 ID:VMkB9pvQ.net
純文学という言葉を最初に用いたのは北村透谷だっけ
西洋の影響は否定できないね
西洋と漢籍の両方の教養を備えていたがゆえにかえって、鷗外漱石は西洋崇拝の終わった現代でもなお読むに耐えるのは皮肉

581 :吾輩は名無しである:2022/02/20(日) 18:55:42.42 ID:qp5FPUXP.net
松本清張は娯楽小説のなかに純文学的な要素をとりいれた最初の作家って書いてあったけどなるほどなと思った

582 :吾輩は名無しである:2022/02/20(日) 18:57:48.62 ID:qp5FPUXP.net
人は小説のなかに物語性を求めるのと同時に、人生に関わる重いテーマや文章の芸術性も求めるという強欲ぶり

583 :吾輩は名無しである:2022/02/20(日) 19:30:17.83 ID:lFZj3evM.net
>>581
清張は松本文学と言ったりする人もいるが
完全なエンターテイメントだと思う

584 :吾輩は名無しである:2022/02/20(日) 23:36:29.82 ID:v3znac7R.net
江戸川乱歩も最近岩波文庫に入ったりするけど、微妙だよね
たしかに初期作品は耽美派の意味で意欲的なのもあるけど、蜘蛛男以降は完全なエンターテイメントだし

585 :吾輩は名無しである:2022/02/20(日) 23:55:10.33 ID:btY8Q7Jz.net
>>584
陰獣は

586 :吾輩は名無しである:2022/02/28(月) 14:52:07.87 ID:g+SfVnkc.net
>>582

どっちもあればいいじゃない
物語の中に人間も社会的テーマも入っていて面白ければいいんじゃないの?
つまらないものを純文学だと保護する意味がわからない

587 :吾輩は名無しである:2022/02/28(月) 14:54:24.09 ID:g+SfVnkc.net
>>567

指輪物語などは一種の神話じゃないの?

588 :吾輩は名無しである:2022/03/05(土) 14:56:32.71 ID:IsUpL+j0.net
夏目漱石はやはりA型か
理想主義なところが彼を破滅させた

589 :吾輩は名無しである:2022/03/05(土) 16:08:13.79 ID:u6YdDrve.net
そもそも神話的な物ってどんな物なのか一ミリもわからん
なんかすごい物って感じで適当に言ってね?

590 :吾輩は名無しである:2022/03/05(土) 16:12:57.17 ID:u6YdDrve.net
>>588
漱石先生はおっしゃいました
文学の基礎は「善」「美」「真」「荘厳」「知的好奇心」の五つでてきてる
このうち善や知が強くなればエンタメ寄りとなり
美や真が強なれば文学寄りとなる
どんな三文小説でもその作者のものの見方を内包した文学作品であり
どんな一流文学でも読者を楽しませるために書いたエンターテイメントである

591 :吾輩は名無しである:2022/03/06(日) 15:04:40.32 ID:5+xaq55e.net
今はたとえば古事記などの神話でも事実と思うやつはいないから
逆に神話という言葉の意味自体が不明確になっているのだろうが
もともとは世界の始まりとか人間の誕生とか、人間とはなんなのかとかを
シリアスに伝えるみたいなものだった
というようなことはウィキでも分かると思う

592 :吾輩は名無しである:2022/03/14(月) 23:59:58.21 ID:tmYVLoDD.net
大衆文学は短期投資。今売れなくては話にならない。
純文学と言われるものは超長期投資。100年後に長く売れることが目的。

593 :吾輩は名無しである:2022/03/15(火) 00:18:52.42 ID:XEQDutf6.net
短期での利益回収を目的に投資するなら大衆文学で、
超長期での利益を目的に投資するならそれは純文学となる。

ちなみに文章の芸術性やら云々というのは、超長期での利益を狙うための手段にすぎないが、これを錯覚すると本質が見えなくなる。
ちなみに短期であれ超長期であれ、利益(ベネフィット)を全く考慮に入れない「文学」が存在した例はない。
そういう「文学」が存在すると信じているのは、得てしてロマン派の錯覚であり、転倒の産物である。

594 :吾輩は名無しである:2022/03/15(火) 07:15:56.23 ID:3xajk7nU.net
大衆文学は何が書かれているかが大事
純文学はどう書かれているかが大事
大衆文学は一回読んだら二度読もうと思わない
純文学はスルメのように何回でも読める

595 :吾輩は名無しである:2022/03/15(火) 07:17:24.43 ID:3xajk7nU.net
だからやはり純文学は教育に向いてるし学問に近いと思う

596 :吾輩は名無しである:2022/03/16(水) 18:47:37.39 ID:puXHqLB4.net
>>594
そりゃ単にあんたの好みだ
俺は大衆だろうが純文だろうが一回しか読まない

597 :吾輩は名無しである:2023/02/05(日) 18:42:11.06 ID:1PTOmLOR.net
>>594
むしろ話は逆で
純文学こそ何が書かれているかが大事、大衆小説はどう書かれているかが大事ではないかと思う
大衆文学はSF・歴史・ロマンス・ミステリ・ホラー等のジャンルの枠の中に収まる題材しか書くことができない
あくまでその枠内のバリエーションでしかないから何を書くかよりどう書くかが重要になってくる

598 :吾輩は名無しである:2023/06/27(火) 01:37:53.44 ID:IeJX/sAq.net
New Century New Cinema
ひとはイメージという病にかかった
2009/01/15

ロッセリーニの『不安』は女を操って浮気をした妻を脅迫する夫という話で、
この「操作する」という点が共通していて面白いんですが、
後に出てきたファスビンダーやジーバーベルクらニュージャーマン・シネマの人々は
ヒトラー時代に人々を操っていたメディアの作り出したイメージを
批判するための映像を発明しなければならなかったということがあります。
フランスはもちろんヌーヴェル・ヴァーグがそれ以前の老人の映画を攻撃して出てきたわけですが、
今のフランスの映画批評がなお芸術という領域にとどまり続けている(笑)というところに問題があると思います。

問題なのは映像を見る側がいまだに芸術とか娯楽とかの古い枠内にとどまってしまって、
映像イメージを日常のツールとして誰もが使用する時代に我々がかかった
「イメージの病」について考えることから背を向けていることです。
それは映像イメージが意図的または非意図的に人を操る能力を仮にそう呼んでみたんですが、
かつての映画が持っていて今のテレビが行使している機能のように、
イメージが世界を覆ってその外側がないかのように思わせる操作や、
あるいはカップルの間、人と人との間にも過剰なイメージというものが介在していて、
互いの見方を固定しにかかったり孤独にさせたりするということがあります。
そういった諸々の操作から、見る側がイメージ自身の成り立ちを考えることによって
解き放たれることができるようにする現代映画は、
イメージの病に対する一種の処方箋とも呼べるものなんです。
©Akasaka Daisuke

599 :吾輩は名無しである:2023/09/01(金) 04:38:13.61 ID:345J4bsxn
詐欺ガ‐だのほざいてる税金泥棒公務員ってキチカ゛イ丸出しで根絶やしにすべき国民の敵だよな
こいつらが憲法ガン無視で都心まで数珠つなぎでクソ航空機飛ばして温室効果ガスに騷音にコロナにとまき散らして、
それでも飽き足らずに拡声器まで使ってバカ丸出しで詐欺ガーだの喚き散らして威力業務妨害して知的産業を根絶やしにして
経済破壊して犯罪惹起して知的能力者を詐欺でしかマトモに稼げなくして詐欺推進してるのが事の本質なわけだからな
これほど他人の権利を強奪して私腹を肥やす強盗殺人を推進してんだから、俺も俺もと強盗殺人が頻発するのも当然だわな
諸悪の根源公務員を人類の敵だと認識して絶滅させないと益々お前らの生命と財産は破壊されるばかりだぞ
実際、私腹を肥やす目的で、気候変動させて海水温上昇させて土砂崩れに洪水、暴風、大雪、干は゛つ、森林火災にと災害連発させて、
国土に国力にと破壊して核ミサイルがおもちゃに思えるレベルのジェノサイドを公明党斉藤鉄夫國土破壊省は繰り返しているわけた゛しな
(羽田)ttps://www.call4.jp/info.php?typе=items&id=I0000062 , ttps://haneda-projecт.jimdofrее.com/
(成田)ttps://n-souonhigaisosyoudan.amеbaownd.com/
(テロ組織〕ttps://i.imgur.Com/hnli1ga.jPeg

600 :吾輩は名無しである:2024/04/06(土) 14:14:28.58 ID:0m+VNDnW.net
公募ガイド
書くために学ぶ文学史4:近代文学の潮流 大正・昭和編(鈴木信一先
生インタビュー)
2024/02/22

明治維新とともに印刷技術が普及し、世は新聞創刊ラッシュを迎えます。当時、新聞には二種類あり、
大新聞は政論中心のインテリ向け、小こ新聞は大衆紙で、食いっぱぐれた読本作家や戯作者は小新聞で
活躍しました。最初は雑報を書いていましたが、のちにこれが新聞連載に発展、明治10年代の人気は毒
婦物と白浪物、つまり悪女と怪盗でした。
明治20年代は黒岩涙香の海外探偵小説翻案物が流行。尾崎紅葉の硯友社は小説大衆文学の台頭に娯楽性
を求めていましたが、涙香のせいで本が売れなくなり、探偵小説人気にあやかって『探偵小説叢書』を
出版、しかし、結果は惨敗だったそうです。
また、三遊亭円朝などの速記講談、立川文庫などの書き講談、講談倶楽部の新講談など庶民の娯楽が人
気を博し、なかでも明治44年創刊の講談倶楽部(現「小説現代」)は昭和10年当時、発行部数50万部と
いう怪物に成長します。
文学史で言う上の文学は、それまではこれら下の文学を別種のものとし、自分たちに対抗するものとは
見なしていませんでしたが、大正時代には純文学×大衆文学という構図ができ始めます。
大正15年、芥川龍之介は中央公論誌上で、「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込
んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」と言い、昭和10
年、横光利一は『純粋小説論』の中で「純文学にして通俗小説」の実現以外に文芸復興はないと説きま
す。
戦後は通俗性やストーリー性のない純文学はますます売れなくなり、各出版社は危機感を覚えます。
昭和22年、林房雄は「日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」と発言、久米正雄
はこれを中間小説と言い、日本初の中間小説誌『小説新潮』が創刊。『オール讀物』『講談倶楽部』も
中間小説誌になり、活況を呈します。
現在、中間小説という言葉はほとんど使われません。それは中間小説がなくなったからではなく、市販
されている小説の大半を占めているからかもしれません。
そして、中間小説の中には、今では純文学より遥かに重いテーマを扱ったものがあると言われていま
す。

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