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みんなの爺さんの戦争体験を教えて
- 1 :名無し三等兵:2016/09/29(木) 21:45:51.42 ID:wlJgApWK.net
- みんなの爺さんたちの戦争体験を集めた統一スレを作ろう。
類似の良スレが多数あったのに最近廃れてきたような気がする。
高齢化による生きた歴史の証言をあつめておこうぜ。
- 71 :名無し三等兵:2016/12/03(土) 18:31:01.31 ID:PqJ1gBJc.net
- >>66
色んな本を読んでみたら?事実は小説よりも奇なりってよういうぜ。
俺は>>1と似てて祖先に満州の人がいて、アルセーエフとか寒いとこ関係の冒険記とか面白かった。
現代語訳にして、さらにラノベ風にして、登場人物の感情をてんこ盛りにすれば、すげー面白いしワクワクする。
- 72 :名無し三等兵:2016/12/07(水) 03:11:47.81 ID:f/At+W0K.net
- 面白いネタかストーリーで盛り上げろ
ワナビが書くには良い練習場所だぞ
- 73 :名無し三等兵:2017/01/22(日) 10:27:12.17 ID:yg4fJ8mR.net
- 大虐殺は知らんが、小規模なのはやっているってさ。
将校だった人に聞いた。
人間、そういう闘争心は必ずある、って。
- 74 :名無し三等兵:2017/01/22(日) 10:30:08.18 ID:yg4fJ8mR.net
- >>63
おいおい、
日本軍にヘリコプターなんてなかったぞ
クリスマス休暇も
あんた、何人だよ?
ベトナム戦争時のアメリカの話か?
- 75 :名無し三等兵:2017/01/29(日) 01:30:39.04 ID:jwpxVfqi.net
- 朝鮮行って麺麭買って軍艦乗って帰ってきた
- 76 :名無し三等兵:2017/02/05(日) 00:45:16.15 ID:kef1OzJd.net
- うちの母方のじいさんが鉄道連隊所属だった
日本軍の進軍のスピードに支那軍の撤退が追い付かず、軍用列車が駅に入るとまだ支那軍の警備兵がいて、慌てて日本の兵隊に敬礼したとか、
晴れの日に連隊本部前に雨傘持った中国人が踊っていて、他の兵隊は大道芸と思ってたのに、うちのじいさんが怪しいと尋問したら雨傘がアンテナで実はスパイだったとか面白い話をたくさんしてくれた
- 77 :名無し三等兵:2017/02/11(土) 17:32:24.80 ID:UQ3Ns3cS.net
- こんなスレあったんだ。
うちの爺さんは、レイテ海戦で死んだと聞いてました。
艦が沈没しそうな時に一度は甲板にいたので脱出、泳いで次の艦に
乗ったとかという話や、重巡洋艦の摩耶に乗っていたとか・・・
その辺は、亡くなったおばあさんから伝えられてきたことでした。
あやふやな感じあるので父が軍歴証明書を取得しようと県庁に問い合わせたら、
県庁は陸軍と言われ、厚労省へ問い合わせ。
実際に最後に何処で亡くなったのか判明しました。
摩耶に乗船したこともあったらしいのですが、
最後は軽巡洋艦の多摩という艦に乗船しいたらしいです。
多摩の沈没については、wikiで調べましたが、
生存者いないんですね・・・
証明という正しい形で祖父の最後を聞けたので、何か感慨深いものがあります。
- 78 :名無し三等兵:2017/02/11(土) 18:17:41.61 ID:sXnmiS7F.net
- 一昨年92歳で亡くなった爺さんは、潜水母艦長鯨に乗ってたらしい。
満州に行ったやら、グラマン戦闘機に撃たれそうになったやらの話になったら、婆さんが「あんたの行った時は戦争終わってた!」てちゃちゃ入れていつも話が終わってたな。
- 79 :名無し三等兵:2017/02/16(木) 08:13:24.76 ID:OMa3/ahI.net
- わしの中学生の時の数学教師は、戦艦大和特攻時に
随伴艦に乗り組み、撃沈されしばらく漂流したらしい。
当時50歳前後だったが、未だ海軍魂に満ち溢れていた。
その先生がヘルニアで入院したので、見舞いに行くと
「泣きたいほど痛い」と言ってた。よってヘルニアは
米軍より怖いとわしの心に刻まれた。
- 80 :名無し三等兵:2017/02/16(木) 11:23:30.69 ID:dgaH0PQV.net
- もう大分前に亡くなったがおいらの叔父
はガルカナルに出兵していた。餓島と
言われてた通り末期は飢と戦いながら
攻めてくる米兵から如何に逃げるかっていう
現状だったらしい。その頃になると米兵も
賢いもので寄ってきそうな水飲み場。
川や食べ物が成ってる木々の近くに
四六時中潜んでふらふらと来た日本兵を
射殺していたらしい。
叔父の部隊はそんな感じで日々洞窟の中に
息を潜めていたがとうとう叔父の同僚が
どうせ死ぬんだから最後にいい思いして
死にたい言う事で近くの川に乾ききった喉
を潤したいと言い出した。
叔父もなんかそんな気になって2人で夜中
にひっそりと川辺に行って水飲みに行ったらしい。
すると超幸運なのかどうかわからがんが
一向に弾が飛んでこない。訝しげに思いながら
喉を潤し帰ると部隊は火炎放射攻撃で
全滅していた。
捕虜になった後、どうもあの洞窟は
どうも前から目付けられてたらしい。
タマタマ水飲みに行く日と攻撃日が
重なってその日は見張りの米兵が出払っていた
らしいと言うことがなんとなくわかったとか。
戦後もジムニーで山に入りバックを誤り
崖下に落ちるも
そこから這い上がり何事もなかったか
のようにお茶をすすっていた叔父は強運
だったのかもしれない。
- 81 :名無し三等兵:2017/02/16(木) 11:33:15.45 ID:dgaH0PQV.net
- 捕虜になった後米兵からもらった
ミートビーンズがものすごく美味かったらしく、
米兵にしつこく頼んで貰っていたらしい。
復員が決まった時も米兵から色々たかって
家族にチョコレートやらなんやら持って
行ったらしい。嫁の叔母が感心していた。
まあ確かにミートビーンズは酒のつまみに
良く食っていたなあ。
- 82 :名無し三等兵:2017/02/16(木) 23:59:38.91 ID:51s+fsP2.net
- 俺のじいさんは大日本帝国空軍の食肉加工を生業としていた
戦時中、米軍の捕虜になったあとは日本人捕虜の解体を請け負っていた
捕虜に食わせる物はない。だから自前で用意させたんだ
- 83 :名無し三等兵:2017/02/18(土) 06:25:06.20 ID:EjmF73ge.net
- 男の茶髪というと最近の流行のように思われるが、オキシフルなどで
長髪を金色に染めるのは、昭和初期の男性ファッションで、全国的に流行していた。
日中戦争時代には禁止されたのだが、敗戦直前、軍の特殊部隊の隊員には金髪にして
いた者がいたよ。という話。
- 84 :名無し三等兵:2017/04/08(土) 08:21:51.26 ID:wIQGevaW.net
- 亡くなった婆ちゃんによると俺の曾祖父さんは白馬の大元帥ってモンをやってたらしい
世が世ならお前は・・って口よどんでたけど何だったんだろう
- 85 :名無し三等兵:2017/04/19(水) 19:03:29.46 ID:Bq2vd4Jc.net
- >>82
大日本帝国空軍かく戦えり
帝国空軍に対して、後世特別の御高配を賜らんコトを・・・・
- 86 :名無し三等兵:2017/05/09(火) 00:28:52.78 ID:cgIhIAKx.net
- 爺さんは1937年に入営、福生(今の横田基地)で飛行機(エンジン)の整備をしてた。
当時の新型一式戦一筋だったようだ。
最初の隊長、寺西中佐にくっついて中国(満州?)〜マレーに一式戦後部に潜り込んで移動したらしい。
その後チェンマイ(タイ)〜ビルマ(マンダレー)まで進出。
インパール作戦辺りで英軍に捕まって、レンバン島(インドネシア)に島流し。
最初の復員船で帰ってこれたとのこと。
やたらと大きな船と言っていたが、これは空母かいな?
- 87 :85:2017/05/09(火) 00:36:47.02 ID:cgIhIAKx.net
- 同じ隊のパイロットがハリケーンと戦って燃料タンクに被弾、
ガソリンまみれになりながら不時着したら、近くの村人が総出で助けてくれて
戦隊長が缶詰やら物資やらお礼をして、大喜びだったらしい。
- 88 :名無し三等兵:2017/07/15(土) 20:20:45.69 ID:c+1gsVf0.net
- 今は亡きじいちゃんの話。最終階級は少尉、戦車部隊で司馬遼太郎と同部隊だったというのは
何度か聞いた記憶がある。
最終地はマニラだが、マニラの戦い直前に結核により病院船で帰国。そのまま終戦。
ルソン島の戦いでからくも生き残り、マニラ防衛に寝ずの準備。
ただ、残った戦車も砲塔部分だけ地上に出して穴に埋めろという指示が出て、もうヤバい
かもと実感したそうな。(この部分は記憶があいまい。ルソンとマニラ、前後してるかも)
そんな中体調を崩して軍病院に今でいう入院。
日本への病院船が定期的に出ておりそれで帰国する予定だったが
当時制海権は日本に無く、出す船ほとんどアメリカに沈められ(赤十字のマークを
つけていてもお構いなしだったそうな)、日々力が入らなくなる自身の不甲斐なさと
このまま異国で死ぬかもしれない恐怖で夜中泣いていたとき、たまたま同郷だった
軍医さんが「心配するな、日本に帰してやるよ」と耳打ちしたそうな。
おそらく病状としてもう助からないだろうじいちゃんを不憫に思ったんだろう、
というのがじいちゃん本人の感想。
当時病院船も所謂順番待ちの中、軍医さんの判断で病院船に乗せてくれたそうな。
その軍医さん(じいちゃんは、アキモトさん?アキヤマさん?と言ってた)
はマニラの戦いで戦死なさったらしい。その船が奇跡的に台湾について、それから
広島?の病院に転院したと言ってた。
最後は実家で・・ということになったが、どういうルートかペニシリンを入手し
(ばあちゃんはその為に家財一式売り払った、とよくボヤいてた。そっちも
良い思い出)
ちなみに将校レベルが「オレも病気ということにして病院船に乗せろ」という
コネの依頼が軍医のところに殺到していたそうな。それを見てびっくりしたとか。
なお、山下奉文は「あんなの偉くあるもんか」とお気に召してなかった様子。
最後にマニラ湾に沈む夕日はとてもきれいだった、とつぶやいてたのが印象的。
- 89 :名無し三等兵:2017/08/05(土) 10:26:48.56 ID:ebHmR18I.net
- あげ
- 90 :名無し三等兵:2017/08/11(金) 18:20:18.04 ID:CbOXTp+A.net
- 満州開拓団で獣医やってたんだが、終戦間際に関東軍に徴用されて軍人でもないのに抑留された。
- 91 :名無し三等兵:2017/08/12(土) 02:41:01.00
- 海軍飛行機整備の爺様
南方へ移動中に乗っていた飛行機が被弾して墜落
助かったものの内地療養に
ほぼ直って次の配属が決まるまで偉いさんの鞄持ちすることに
それを伝えた上官によると、飛行機で移動される時に整備士がいると役立つかもとのことだったらしい
言われた場所に行ってみると、一番の偉いさんは山本五十六だったとか
長官のというより司令部の移動時のこまごまとした使い走りのように使われたらしい
ごく短い間だったが、兵士には気さくだったが、参謀に爆弾落す場面には何度か遭遇したとか
- 92 :名無し三等兵:2017/08/15(火) 00:28:41.45 ID:0xlXFzkM.net
- 今年90歳で亡くなった父は、横須賀田浦からフイッリッピン(フィリピンではなくこう発音していた)セブ島へ国民徴用で輸送船に乗せられた。
途中下田沖とルソン島近辺で魚雷攻撃されるも、船長が回避。腕の良かった民間人の船長は弱冠19だか20歳。ガンダムのブライトノア?
セブに上陸後、迫撃砲の破片を左足に数ヶ所受けて歩けなくなり、仮眠中に隊から置いてけぼりくらってはぐれたらしい。
数ヶ月の間、バナナの葉から滴る雨水や体についたシラミを食べて凌いで、投稿ビラを見て森から這って出てきたところを、現地人ゲリラに見つかり捕虜になって帰還した。
その後サラリーマン生活を送るのだが、地下鉄サリンで、サリン撒かれた日比谷線の1本だか2本後に乗車していた。
なんかそういう死に近いところと縁があったのかも。
上の人と同じで、戦争記にはフィリピンの夕陽がとても綺麗で、もう一度見たいと書いてあった。
- 93 :名無し三等兵:2017/08/25(金) 20:36:36.37 ID:+8D6BeHc.net
- 10年前に死んだ祖父の話です、当時中学生の私によく話してくれました
昭和17年大学を卒業し商社に就職し台湾勤務中に召集令状
早稲田大学で体格検査中ドゥーリットルの日本初空襲を体験したそうです
ドカンドカンって爆発音で周りの陸軍将校があたふたしていたそうです
その後ジャンケンに勝って東南アジア戦線に、負けた人たちはニューギニア戦線で
戻って来なかったそうです、人生の分かれ道ですね
ベトナムとかタイを通過してビルマ戦線へ舟艇で人員物資を運ぶ部隊だったそうで
米軍のP−38、B−24に散々叩かれたそうです
恐ろしかったのはP−38の機銃掃射で、超低空でジャングルを飛んで来るので
音が聞こえないそうで操縦士の顔がはっきり見え、戦友が塹壕で頭部をふっ飛ばされるは
舟艇は穴だらけにされるは酷い目に会ったそうです
大きな川を挟んで英軍と撃ちあったそうですが姿は見えず
小銃でカラスを撃って食ったり池に手りゅう弾を投げ入れて魚を獲ったり
終戦で英軍のキャンプに収容され道路工事の軽作業をしたりすると
ティータイムに紅茶とビスケットが出たそうですまたジープの運転もさせてもらったり
キャンプでシャーマンM4戦車を見て化け物に見えたそうです
帰国の際には輸送船から元憲兵が仲間に海に落とされるのを見たそうです
そして英軍の軍服を着て輸送船で山口の宇部?に帰国
その後祖母と結婚、商社を65歳で退職、生きててほんとによかったと常日頃言ってましたっけ
ただ弟が太平洋で戦死、一式陸攻の搭乗員だったそうです
- 94 :名無し三等兵:2017/08/25(金) 21:30:50.05 ID:FneWC8an.net
- 人の寿命は見えているらしく
寿命が短い人は魂がもう肉体から離れ
自分の肉体を見ているらしい
それを傍から見える人もいるらしい
見えなくても自分自身嗚呼まだ寿命が
有るんだあと思う場面は多いと思う
今この世に生きる人は選ばれた人なのです
- 95 :名無し三等兵:2017/11/13(月) 22:01:05.30 ID:/JjITijc.net
- あげ
- 96 :名無し三等兵:2017/12/23(土) 21:06:07.25 ID:JHZQKXoW.net
- 俺は、グランマの機銃掃射で撃ち殺された。
祖母の怒りを一身に受けた俺は機銃掃射でその身を引き裂かれ、駆けつけた兄が抱き上げると首がもげてしまったのだという。
血の涙を流し復讐を誓った兄は大日本帝国空軍に志願した。
成績はいまいちらしかったが、面接で志願理由を問われ「○○(俺の名)を殺した憎き鬼畜米英を皆殺しにすることです」
絶叫し採用された。そして帝国空軍の猛訓練で鍛え上げられた。
しかし爆装離陸訓練のときに、引きおこしを早くしてしまい、離陸に失敗、瀕死の重傷を負い終戦を迎える。
戦後も周りの人間が資本主義、米帝万歳に手のひらを返す中、徹底した反米、共産主義者として公安の監視下に入り、
やがて事件を起こし逮捕され、配偶者も子も得られないまま牢獄で孤独な死を迎えた。
- 97 :名無し三等兵:2017/12/23(土) 21:10:18.94 ID:pe4rl4Sh.net
- はい次の人
- 98 :名無し三等兵:2018/02/06(火) 12:55:56.43 ID:yimlzg93.net
- 曽祖父は満洲鉄道の機関士だった
当時のエリートであり、満洲国において一家はで超裕福に暮らしていたようだ。
祖母に聞いたが慰安婦等は現地人が自ら喜んで募集に列をなして
いたそうな。
終戦と同時にロシア人が侵略暴行の限りを尽くし雪崩れ混んできた
、現地での豊かな暮らしの全てを失い
命だけなんとか持って博多に帰還した。
- 99 :名無し三等兵:2018/02/06(火) 13:19:33.18 ID:q4+wMiQ6.net
- NHKでやってたが全員が強姦されない為に
献上した団もあったらしね
五木寛之の母も被害にと言われて居たな
- 100 :名無し三等兵:2018/02/06(火) 13:35:49.90 ID:q4+wMiQ6.net
- 爺さんは徴兵南方方面へ
婆と親父兄弟は原爆投下前の長崎に
実は爆心地にも近かったが
空襲も酷くなって
婆の実家から疎開しろとの話で疎開
その後原爆投下 南無南無
- 101 :名無し三等兵:2018/02/06(火) 21:58:31.14 ID:cXzepr5l.net
- ・・・。
- 102 :名無し三等兵:2018/02/06(火) 21:58:46.46 ID:cXzepr5l.net
- :::::::::::::::::::::``ヽ
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- 103 :名無し三等兵:2018/02/22(木) 08:11:53.40 ID:zf2p0zg+.net
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- 104 :名無し三等兵:2018/03/27(火) 11:44:38.26 ID:xExc2mzb.net
- 6年前亡くなった92歳の爺さんは戦争でフィリピンで食べるものがなにも無くなって人肉にかじりついても生き延びたらしい。
- 105 :名無し三等兵:2018/03/27(火) 15:01:35.77 ID:5g1jwHx1.net
- 南方の孤島では普通
- 106 :名無し三等兵:2018/05/19(土) 23:00:11.61 ID:qmM7J888.net
- ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
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- 107 :名無し三等兵:2018/08/11(土) 10:22:06.43 ID:Rj3dvY3g.net
- 十数年前に亡くなった祖父の話。
京都の大店の末息子で、何不自由のない生活を過ごす。たまにやってくる軍人さんから軍隊の話を聞かされ育つ。
生前は「戦争のおかげで大学に行けた。」「大学では酒と酒と酒の合間に勉強。」と豪語してた。実際に電停から自宅までの間に行き倒れ、それを見掛けた近所の人に連れ帰ってもらう毎日だったらしい。
そんな祖父にも赤紙が来た。悪友が醤油一気飲みすればと免除とか言うので、真に受けて買いに行く。しかし小間使いの居る大店の息子が自ら醤油を買いに来るのは変だと思われ、自宅に密告される。
帰宅するなり小間使いに「いや、お醤油切らしとったんです。」と没収される。あとあとになって「ええ醤油やったから、飲んだら勿体なかったな。」と言ってた。
なお悪友は実際に一気飲み七転八倒した挙句に、甲種合格。
- 108 :名無し三等兵:2018/08/11(土) 10:33:35.76 ID:Rj3dvY3g.net
- 祖父は徴兵検査で軍医に「可哀想にな。この心臓じゃ、五十まで生きられへん。」と気の毒に思われるも甲種合格。
「この国はアカンかも。」と思ったらしい。
毎年十月には。
祖父「明治神宮の壮行会に行きたかった。」
オレ「軍国青年やったんか。」
祖父「タダで東京見物がしたかった。」
祖父「“きゅうじょう”にも行きたかった。」
オレ「宮城って、やっぱり。」
祖父「職業野球が見たかったんや。」
(赤紙と徴兵検査の順序が逆でしたね。)
- 109 :名無し三等兵:2018/08/11(土) 10:49:54.08 ID:Rj3dvY3g.net
- 入営後は生活が一変したため、ガリガリの体型に。面会に行った曾祖母と大叔母が余りのことに、帰り道に労しいと号泣したとか。
本人は「しんどかった。」と言うだけで、後年聖母女学院になった16師団の建物を見ると懐かしそうにしてた。
その後は旅順へ。しかし足に被弾し、後方送りに。「跳弾やったから、思いのほか長引いた。」らしい。
病院で「貴様、こんなとこにおったか。」と聞き覚えのある声に顔を上げると、実家と取引のあった前述の軍人さん。
「所属は。」「俺のところに来い。」と捲し立てられ、5回ほど「はい。」と言ったときには転属が決まってたらしい。
その部隊は後方支援の部隊だったそうで、結果的に祖父は生還した。しかし自分だけ楽をしたという負い目からか、以後のことは語ってくれなかった。
戦後も戦友会などには行ったことがなかったらしい。
- 110 :名無し三等兵:2018/08/11(土) 11:09:38.93 ID:Rj3dvY3g.net
- 復員して、一番衝撃を受けたのは実父の「お前が帰って来たんか。」という言葉。
「一応な死線をくぐり抜けて帰って来たんやで。」と毎年ボヤかれた。五人兄弟のうち、二人が戦死。長兄は子供の顔を見ずに亡くなったらしい。
その後は婿養子に行き、婿養子とも思えないデカい態度で暮らしてた。
唯一気の毒だったのが「戦争が終わって、死ぬ時は畳の上やな。」と言ってたのに、最期は病院のベッドの上だったこと。
五十までしか無理と言われた心臓で、八十数歳まで生きたのにな。
- 111 :名無し三等兵:2018/08/11(土) 11:12:07.28 ID:Rj3dvY3g.net
- 最後に語ってくれた数少ない戦争から得た教訓。
・何事にも慌てるな。慌て者はすぐに死ぬ。(トラップに掛かって死んだ人がいたらしい。)
・食意地の張った奴はロクでもない。(ある村を検めたら、食卓の上に月餅が。これ幸いと食べた奴が死んだ。もちろん毒入り。)
(その割に酔うと、何故か月餅を買って来てた。家族が飽きてるのに、本人は美味い美味いと完食。)
・病院で使われたホルムスという黄色の傷薬(粉薬)がよく効いた。
(戦後も愛用してた。今でも我が家の救急箱に常備されてる。)
全くの余談だけど丼物全般が好物だった。(幼い頃はそんなのもの人足の食べ物と食べさせてもらえなかったらしい。)
しかしカレーだけは「飯に掛けて食べるものは子供の食べ物や。」と譲らなかった。夕食がカレーのときは祖父だけ別メニュー。
祖母によると海軍に行った知り合いに、ご馳走になったカレーが不味くトラウマになったらしい。(戦中のことだったし、ご馳走になったので残す訳にもいかず往生したとか。)
- 112 :名無し三等兵:2018/08/11(土) 18:30:24.03 ID:X4E0wXdl.net
- 俺の爺ちゃん沖縄で喫茶店やってた。
一人で喫茶店を切り盛りしてたんだけど、米軍が来るから引き揚げるっていう日の
前日に大日本帝国空軍の中佐が数百人程の部下を連れてきて、爺ちゃんをレイプしに
きたって。じいちゃん九二式重機関銃突き付けられて無理やりレイプされたんだって。
金歯を光らせてにやにや笑いながら自分を犯した兵隊たちの顔は一生忘れないって涙を
流して話してくれた。
- 113 :名無し三等兵:2018/08/13(月) 20:29:12.21 ID:OJ9m2OUZ.net
- 最近わかったこと
近所の総合病院はもともと陸軍の病院として作られたのだが、叔父がそこに戦時中に入院してた
古いアルバムの傷痍軍人姿はそこで撮影されたのかと思うと感慨深い
- 114 :名無し三等兵:2019/02/27(水) 12:38:51.20 ID:jULkKP/b.net
- あげ
- 115 :名無し三等兵:2019/03/03(日) 22:16:47.86 ID:GQlwPuPi.net
- 占領済みの中国に派遣。大卒だったのでいきなり将校。
戦闘行動中に流れ弾にかすった。
負傷後は国内で治療の温泉旅行をしているうちに天皇から勲章をもらって更に温泉旅行を続けていたらそのまま終戦。
国内の家も燃えなかったし軍隊生活は楽しかったそうです。
国内の実家は医者だったので戦争中でも食べきれないくらい治療のお礼のケーキを貰って食べるのが大変だったとか。
すいとんなんて戦後マスコミが戦中の生活をTVで特集するまで見たことも聞いたこともなかったそうです。
- 116 :名無し三等兵:2019/03/04(月) 14:57:14.87 ID:b//wHJTv.net
- SHINEw
- 117 :名無し三等兵:2019/04/30(火) 19:01:09.68 ID:HdtUFwAS.net
- 明日から令和。
- 118 :名無し三等兵:2019/06/04(火) 09:43:03.45 ID:toeVVXBm.net
- >>115
俺の祖父の話と似てるな。と言うかほぼ同じだ。
- 119 :名無し三等兵:2019/06/24(月) 17:38:53.06 ID:90L50qXf.net
- 友達のお父さんの話し。
横浜で夜間空襲があった時、パラシュートが降りてきて電柱に引っかかった。それで皆で、わーといって下から竹槍でぶすぶすと刺した。よし下ろせ下ろせとなって下ろしたら日本のパイロットだった。
- 120 :名無し三等兵:2020/10/09(金) 13:49:39.18
- ばーちゃんと婚約したじーちゃんが、軍需工場で鉄くず盗んで、ばーちゃんに指輪を作って持ち帰った。
夜中の空襲。「ラジオだけは…」と祖母。祖父はそれを抱えて家族と命からがら山へ。朝、祖父の手には枕が…
母が子供の頃、空襲で焼けた実家に戻ったら、お釜に水を張って入れていたお米が炊けていたという。
祖母は踊りの達人で、祖父は戦地でアコーディオンを弾いていたことを私は今まで知らなかった。
「どうせ死ぬなら」と、空襲で燃える港を夫婦で眺めた祖父と祖母。覚悟を決めると全て美しく見えるらしい。
かわいいもので自分を元気づけるために、祖母は、鞄に青い目の子猫とチューリップの刺繍をしてた。
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