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近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代8

1 :名無し三等兵:2016/04/23(土) 23:58:23.34 ID:PoPQHH/z.net
軍事板の近世総合スレです。
概ね、戦場での主役が弓から銃・火砲に変化したあたりの時代での軍事全般を考察するスレです。

国ごとで、中世と近世の区分けの解釈が違ってきますが、
だいたい西暦1400年〜1850年ぐらいまで、東洋・西洋・日本国内を問わず、
陸戦、海戦、戦術、組織・動員編成、補給・兵站、諜報、外交、経済、
築城・縄張・要塞・土木技術、火薬、火砲製造技術・船舶・食料・農業や人口など、
軍事や戦争に僅かでも関係することなら何でもOKの軍事考察スレとします。

中世以前の話題については、古代・中世総合スレへ。
1850年以降の話題は19世紀後半軍事考察スレへ。

このスレでのお約束
上記すべての分野を東洋・西洋も時代の区分けも関係なく全部精通している人なんていません。
特定分野に詳しい神が降臨したら歓迎しましょう。
その人が何か別の分野で間違っていても、叩きすぎないようにしましょう。

このスレは、初心者には優しく、敷居は低く、荒らしはスルーしながら、過疎落ちしない程度にマータリ進行です。
2ch外のURLを貼るときは先頭hを外して直リンを避けること。
900踏んだ人は1000までに次スレを立てて、次スレへ誘導すること。
関連スレなどは>>2以降参照

前スレ
近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代7
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/army/1388893375/


参考資料:軍事年表(軍事百科事典より)
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/Zbv/sub04.htm

654 :名無し三等兵:2017/10/20(金) 16:58:34.24 ID:Wdxfnz4c.net
>>642
三眼銃じゃなくて、ガトリング的に銃身を回せるやつが気になる

655 :名無し三等兵:2017/10/20(金) 17:04:45.16 ID:bFgifVqj.net
三眼銃は、三発同時ではなく、三回に分けて発砲する。
それと朝鮮征伐の時の明軍の『戦車』は、なんと荷車に載せた、防盾付きの野戦砲だったりする。
前大戦の野砲みたいな発想だ!

656 :某研究者:2017/10/20(金) 17:33:39.43 ID:oEz+7dSR.net
>それと朝鮮征伐の時の明軍の『戦車』は、なんと荷車に載せた、防盾付きの野戦砲だったりする。
前大戦の野砲みたいな発想だ!

https://www.pinterest.jp/pin/343610646561173862/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561173858/
此れは上の物だろうが
砲を装備しない戦車は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%82%B4%E3%83%B3
紀元前119年には有るだろうが
https://www.pinterest.jp/pin/499618152402246307/
フス派が15世紀に砲装備の物を使用しているだろうが
砲にやられて廃れたと言う事だっただろうが

日本軍が明軍の戦車を貫通する為に銃を大型化した形跡は有るのかだが
サルフの戦いの絵では戦車は無い様に見えるが
日本軍が遭遇したら大鉄砲で狙撃していたのかどうかだが
近距離なら銃弾も貫通する可能性は有るのかだが
散開しても弓が命中する様な距離での銃撃は
避けていた可能性も高いのかだが
大鉄砲で側面から貫通されれば
可成りダメージを受ける可能性も有るのかだが

657 :某研究者:2017/10/20(金) 18:02:26.52 ID:oEz+7dSR.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E8.BB.8D
>日本軍は歩兵(足軽)が中心で火縄銃と弓を組み合わせて使用し、接近戦用には長槍、乱戦用には日本刀を用いた。
火縄銃は、六匁筒が標準であった日本国内の戦で用いるには威力不足な弾丸重量二匁半(約9.4グラム)の安価で
大量生産のできる比較的小口径のものが主に用いられ、大筒や大鉄砲を含む装備銃砲数のおよそ7割をこの二匁半筒が占めた[注 82]。

とは言え2匁半筒では300m等から明軍の銃兵の脚迄有る装甲や
藤牌を貫けるのかだが
こうした遠距離から狙撃出来る上手い兵は4−6匁等の銃を
使用していた可能性も有るのかだが
慶長の役で多い籠城戦時の近距離からの射撃なら2匁半筒でも
藤牌や鉄札を貫けると言う事だろうか

658 :某研究者:2017/10/20(金) 23:08:39.00 ID:oEz+7dSR.net
http://www.gaopu.com/mindai.html
>明の手銃兵も右の様な腕以外装甲の有る鎧を着ていると言う事の様だが

>加藤清正が明・朝鮮兵には鉄砲以外役には立たないと言う事を
>言っているのは
>上の様な鎧或いは藤牌を装備した歩兵が
>多い故なのかだが

一部の五人張り等の弓なら
鉄札は300m等の遠距離でも貫通する可能性も有るだろうが
藤牌を貫通して背後の人間にダメージは与えられるのかどうかだが

659 :某研究者:2017/10/21(土) 13:48:53.33 ID:U5d4AOzL.net
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Kang_Yingqian_being_overrun.jpg
上のサルフの戦いの絵の明の火縄銃兵は
手銃兵と異なり肩に迄装甲が有る様に見えるが
手銃兵より格上の兵だからなのかだが
http://www.gaopu.com/mindai.html
上の左の兵と異なり前腕に迄装甲が有る様にも見えるが
彼等も白兵戦は何処迄出来たのかだが
日本兵に似せて苗刀を装備している可能性も有るのかだが

日本軍の場合雑兵物語を見る限り白兵戦突入後も
近距離で射撃をするだろうから
至近距離の弓では鉄札は貫かれ
藤牌も銃や強弓では貫かれていたと言う事なのかだが
清の兵は白兵戦突入後も弓を果たして放っているのかだが
白兵戦突入前に至近距離で弓を放っている絵は有るだろうか

660 :某研究者:2017/10/21(土) 14:29:46.17 ID:U5d4AOzL.net
雑兵物語を見ると鉄砲足軽が刀を使うのは
残弾が尽きた後と言うから
其の前は左右に分かれていると言うから
弓足軽同様に近距離で射撃をしていたと言う事なのかだが

http://view.inews.qq.com/a/20170703A084QT00
こう言う密集隊形で静止した藤牌等に10匁士筒等が撃ち込まれた場合
同時に多数の兵がやられる可能性も有るだろうが
騎馬武者は此れは近距離で一発放って突撃していた可能性も有るだろうが
接近戦が苦手な者等は
銃を持つ足軽の様に近距離で銃撃を続けた可能性は有るのかだが
後列に隠れている指揮官に向けて
30匁等の大型銃を前列から近距離で指揮官迄貫通させると言う様な事は行われたのかだが

661 :某研究者:2017/10/21(土) 14:52:52.88 ID:U5d4AOzL.net
雑兵物語では騎馬武者用の士筒等を奉公人が
自分で撃とうとは思わないと書いて有るが
騎馬武者が使用した後であれば
許可が有れば白兵戦突入後近距離で撃っていた者も居ると言う事を
意味している可能性も有るのかだが

662 :某研究者:2017/10/21(土) 16:35:57.67 ID:U5d4AOzL.net
http://www.muneshige.com/column/03.html
黒田長政の火縄銃・墨縄の口径は1.4cmで有るから
4.3匁筒であり
対明・朝鮮用の銃では無い物の
標準サイズの6匁よりは小さいのかだが
黒田長政も銃の名手と言うなら
精度を重視していたのかどうかだが

http://repmart.jp/blog/column/gun-and-bow/
>その宴のさなかに長政と宗茂の間で、鉄砲と弓に関する論争が起きたという。つまり、どちらが武器として有利だろうかという話になったのだ。 
長政は、矢は風で簡単にそれるし、正確に当てられない。銃が有利でもう弓は必要ないのではないか。と主張した。
対する宗茂は弓と鉄砲の両方の名手で、宗茂はどちらにも状況に応じた利点があると語り、例えば鉄砲も雨では無力になると指摘した。
長政は鉄砲はかなりの腕前であり、宗茂も弓は免許皆伝である、両者とも手練れながらも、結果ははっきりと示された。
宗茂が弓でもって見事的に命中させ、勝利した。

とは言え風が乱れていたら
銃が先に命中していた可能性も高いのかだが
銃の雨覆いは碧蹄館直後の時点では無いのかだが
明・朝鮮歩兵には弓は
藤牌や鉄札鎧の前に遠距離では通用し難いが
対騎兵や至近距離の歩兵への連続射撃では有用と宗茂は見たのかだが

663 :某研究者:2017/10/21(土) 16:56:39.48 ID:U5d4AOzL.net
https://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment/1009339.html
>島左近率いる騎馬隊の突撃に合い、先手が突き崩されて退却。細川、田中隊も次々に破られた。
その乱戦のなかで、事態収拾のためいに、向うところ敵なしの島左近を狙撃する部隊を編成、
 菅和泉(かんいずみ)に任せた。小高い岡に駆け上った狙撃隊は、左近は馬もろとも被弾し、
倒れたが、馬廻りの部隊に守られて自陣柵内に後退した。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/?tag=%E8%8F%85%E5%85%AD%E4%B9%8B%E5%8A%A9
>黒田隊において鉄砲隊を預かっていたのは菅和泉(六之助)であったが、彼は部隊を
右手にあった小高い場所に駆け上がらさせ、50挺の鉄砲を隙間もなく撃ちかけた。

これにより石田隊の先に進んでいた兵たちは多くが撃ち殺され、あるいは負傷し、島左近も
生死不明ながら銃弾の餌食となった。
ここに敵のひるんだところを、黒田隊は得たりと勇み、即座に突き崩し多くの首を得た。

さて、この一戦において黒田隊に勝利を呼び込んだのは鉄砲隊の活躍だったが、
彼らが活躍したのも当然理由があった。この鉄砲隊に選ばれた足軽たちは特別に選別され、
又者(陪臣)であっても鉄砲の上手で、なおかつ心の健やかな者を選んで編成された部隊であった。
そのため、効果的な攻撃が可能だったのである。

後にこの鉄砲隊の者に「敵との距離はどれほどあったのか?」と尋ねたところ、
「あの時は一町四・五反(およそ150〜60メートル)以上ではないと判断し、そこを少し計算して
撃ちました。」と言っていた。


この50名は100m程度では人に
ほぼ確実に当てられる様な者達の集団なのかだが
こうした部隊が居なければ
東軍は島左近等に中央突破され敗北していた可能性も有るのかどうかだが

664 :某研究者:2017/10/22(日) 16:06:35.41 ID:o3whpJ+q.net
>後列に隠れている指揮官に向けて
>30匁等の大型銃を前列から近距離で指揮官迄貫通させると言う様な事は行われたのかだが

http://www4.airnet.ne.jp/sakura/weapons/weapons.html
装甲に当たると弾は分裂するだろうし
この後貫通力は低下するから
足軽の装甲の無い脚部等を貫く必要も有るのかだが
100匁筒等なら装甲を貫通しても弾は分裂しない可能性も有るのかだが
こうした物は20m等の距離から士大将等に当てられるのかどうかだが
周囲の兵に完全に隠れて位置が把握出来ぬ可能性も有るだろうが
士大将なら指物や大型の兜が上に出ている可能性も有るのかだが

665 :某研究者:2017/10/22(日) 18:13:12.39 ID:o3whpJ+q.net
100匁筒でも草摺や佩楯を貫くのは
精々5人分程度が限界と言う事は無いのかだが
備の最前列から士大将迄は騎馬武者・槍足軽・鉄砲足軽・弓足軽・士大将の護衛歩兵の
4−5列程度と言う事だろうか
旗足軽も居るが此れは戦闘中は最後列に居るのかだが
200匁等ならこうした列の後方迄貫通する可能性も有るのかだが
10m等でも士大将に当てられるのかどうかだが

666 :某研究者:2017/10/23(月) 13:33:54.12 ID:IsXZQoWU.net
https://i.imgur.com/oLSNDyM.gif
上の赤い矢印の様な形で備や本陣備等の士大将や総大将を
側面から狙撃するのは果たして出来るのかだが
通常の備なら上手くすれば指揮官以外を貫通せず
直接狙撃も出来る可能性は無いのかだが
護衛の徒武者が前に配置されている可能性も高いのかだが
本陣備では2−4人程度は貫かないと
駄目と言う事は無いのかだが

667 :某研究者:2017/10/23(月) 16:02:35.86 ID:IsXZQoWU.net
https://rekijin.com/?p=17139
>【 データでわかる関ヶ原の戦い 】裏切り者が出なくても、石田三成は徳川家康に負けていた?!

とは言え島左近が黒田長政の兵に狙撃されず
側方から突破を続けた場合
後方の吉川広家が裏切り毛利軍が徳川本陣を突いた可能性も
有るのかどうかだが
この付近に徳川軍の山内一豊等の予備兵力も居ただろうが
果たして何処迄こうした事に対処出来たのかだが

668 :某研究者:2017/10/23(月) 17:58:13.89 ID:IsXZQoWU.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
>これにより備は同時代における西洋の戦闘隊形に較べ高い戦術性、機動力と地形に対する適応力を持ち、
複雑な地形での機動や備単位での迂回、行軍隊形から戦闘隊形への即座転換などをこなす事が可能な上、
豊富な下士官による柔軟な指揮を可能とし、南蛮の宣教師が極めて厳格に操練統率されて居り我々の軍隊では歯が立たないと評した明軍を常々打ち破るなど、正面衝力でも大きく勝った。

下士官と言うのは鉄砲足軽・弓足軽・槍足軽に付いている
士官の事なのかだが
この程度はテルシオ等にも居たと言う事かも知れぬが
明や朝鮮の騎兵が備にやられたのは
彼等は倭寇や北方騎馬民族としかほぼ戦ってないから
敵の障害物を利用した射撃戦には慣れていなかった可能性も有るのかだが
https://read01.com/5624Pz.html
備の正面衝力が上の様な隊形より
果たして有るのかだが
正規軍兵士では銃兵が重装備の鎧を装備しているから機動性は低く
日本軍予備兵力の側面攻撃等でやられていたと言う事なのかだが
備の至近距離からの射撃でも可成りやられていたのかだが

669 :某研究者:2017/10/23(月) 18:04:10.54 ID:IsXZQoWU.net
https://twitter.com/tateita_hi/status/691607972884054016
>基本、まともな陣形を組みませんからね、戦国時代の日本。碧蹄館の戦いも陣形組まない日本軍を壊乱していると誤認したのが、切っ掛けとか。

備も鉄砲・弓・槍足軽には個別の士官(鉄砲大将・槍大将等)が居て
此れの配下の兵種は備の下でも纏まった行動は取っているだろうが
備指揮官の命令の無い侭
移動は何処迄していたのかどうかだが

670 :名無し三等兵:2017/10/23(月) 18:14:49.75 ID:AjPcIfgS.net
備って、体制的には中世の封建軍が発展した形だからなあ
同時代のヨーロッパが近代的な軍制に移行する過渡期だったって事考えたらまだ戦えるのかな

671 :某研究者:2017/10/23(月) 18:46:48.79 ID:IsXZQoWU.net
明軍歩兵前列の銃兵と此れを一部防護する藤牌兵は
日本軍の銃撃でアウトレンジされ壊滅
弓は射程の短いクロスボウの比率も多いから銃と余り撃ち合えず
遠距離からの射撃では散開して木を盾にもし
垣盾を装備しているかも知れぬ日本軍に有効打は与えられ無かったと言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561201946/
槍兵は銃兵より装甲は無いだろうし
装甲の無い兵も恐らく居るから
騎馬武者と対すればやられていたと言う事なのかだが
槍足軽は騎馬武者の居ない場所で
槍兵に対し同数なら時間を稼ぐ事は出来たかも知れぬし
彼等が時間を稼いだ後他の場所の敵を倒した
騎馬武者が突入していたと言う可能性も有るのかだが

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/52/Pan_Zongyan_being_overrun.jpg
上の陣地の明軍銃兵は盾越しの射撃しかしないからか
足に装甲は無いだろうか

672 :某研究者:2017/10/23(月) 19:56:53.51 ID:IsXZQoWU.net
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561201946/
>槍兵は銃兵より装甲は無いだろうし

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562232817/
上の槍兵はやや草摺が短いが
種類が有るのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562232816/
上は日本刀を持つ親衛隊・静粛隊だろうが
ブーツが無いから歩兵かも知れぬが
腕甲・兜は槍兵と違い装備されると言う事なのかだが

673 :某研究者:2017/10/23(月) 20:18:20.80 ID:IsXZQoWU.net
http://tihourekisimatome.blog.jp/archives/1063800596.html
>後期明軍の話が出てたので参考のために
戚継光「練兵実紀」にある対モンゴル戦のための部隊編成
(というか洋書からの引き写しです)

歩兵

歩兵の基本的な単位は12名の分隊である。分隊は2種類に分けられる。
1つはマスケット兵の分隊で、分隊長、10名の銃手、伝令からなる。
もう1つは"殺手"の分隊で、分隊長、10名の様々な近接兵器をもった殺手、伝令からなる。
同種の分隊を3つ合わせて37名の小隊になり、3つの小隊がさらに112名の中隊を構成する。
マスケット兵の中隊は合計で90挺のマスケット銃をもつ。
4つの中隊が449名の大隊を構成し、2つの大隊(マスケット兵と殺手)で899名の連隊になる。
3つの連隊が2699名の旅団(323名の士官、2160名の兵士、216名の伝令)を構成し、
1080挺のマスケット銃と216張の弓をもつ。

マスケット銃を大量に装備していたのは
確か戚継光の軍だけと言う事だっただろうか
トルコ的な緩発式銃も多かったと言う事かも知れぬし
中近距離での弾幕射撃的な使用しか無かったと言う事なのかだが

674 :某研究者:2017/10/23(月) 20:23:33.38 ID:IsXZQoWU.net
>騎兵

騎兵の基本的な単位もまた12名の分隊である。
騎兵の分隊には分隊長、多様な武器を装備した10名の兵士(マスケット銃2挺、火槍2本、
三叉の槍2本、槍2本、メイス2本。何名かは同時に弓矢を携帯する)、そして伝令がいる。
騎兵も歩兵と同様に分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団に組織される。
戦場での騎兵旅団は2699名から2988名にまで増援され、1152張の弓、432挺のマスケット銃、
60門の虎蹲砲(軽量の野戦砲)をもつ。
大量の銃と火砲が配備されていることから、これらは騎兵というよりむしろ竜騎兵、
騎馬で移動する歩兵であったようである。

マスケット装備の騎兵と言うのは戚継光の軍だけなのかだが
弓の装備も精々半数程度なのかだが

675 :某研究者:2017/10/24(火) 14:35:17.43 ID:9HFd0hhX.net
>>671
>槍足軽は騎馬武者の居ない場所で
>槍兵に対し同数なら時間を稼ぐ事は出来たかも知れぬし
>彼等が時間を稼いだ後他の場所の敵を倒した
>騎馬武者が突入していたと言う可能性も有るのかだが

槍足軽が時間を稼いでいる間に
騎馬武者だけでは無く
明軍の銃・弓・砲兵を排除した後の鉄砲・弓足軽の銃撃で
やられていた槍兵も多いのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562245853/
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/224422979
雑兵物語でもこうした槍兵の脇での
至近距離での射撃戦は行われていると有るが
こんな事をすれば弓・鉄砲足軽の損耗は馬鹿に成らぬ可能性も有るのかだが
近接戦時には残弾は余り無いかも知れぬが
命中率は高いのでは無いのかだが

676 :某研究者:2017/10/24(火) 14:49:32.97 ID:9HFd0hhX.net
https://i.pinimg.com/originals/ec/49/ea/ec49ea2b5b2d3c13b40c0036b113f3d3.jpg
上では騎馬武者主体の槍の列に足軽が一部混じっている様に見えるが
相手が騎馬武者なら同数ではやられる危険も有るのかだが
部分的に二列目も槍を前に出している様に見える部分も有るが
こうした事は多くは無いのかだが

677 :某研究者:2017/10/24(火) 18:55:48.99 ID:9HFd0hhX.net
ベルセルクのグルンベルドの盾は砲弾を弾く等と言うが
こんな物は現実に16世紀等に使われたのかだが

http://www.eniguma49.sak ura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/senngokuheiki1.html
>当時鉄砲の口径は6mm程が標準で現在の2口径の銃と略同じ威力です、鉄砲から身を守るのであれば10cm程の木の板で十分です、
16cmの木の板の上に10cm以上の鋼鉄装甲を施す理由は完全に砲弾の直撃を意識しているのでしょう、また鋼鉄板は斜めに取り付けられています、
此れにより着弾した砲弾が上へと弾き上がり衝撃を緩和する効果があります、ちなみに大戦中に連合国から脅威とされたティーガ−重戦車の装甲板の厚さは大盾車と同じ10cmで
ソビエトのT34戦車、アメリカのシャーマン戦車の75mm相当の対戦車砲弾を至近距離から弾き返しています、この大盾車も大筒の様な大口径の大砲の砲弾は無理としてもフランキ砲や大鉄砲などの比較的口径の小さい大砲の砲撃からは十分に身を守れたのでしょう。

17世紀の大阪城攻めではこんな物も有るが
1000匁(84.2mm)の筒等も止まるのかだが
大阪城の最大のフランキ砲は或いは止まる可能性も有るのかだが

678 :某研究者:2017/10/24(火) 19:33:24.51 ID:9HFd0hhX.net
>また大坂冬の陣は天守閣に大筒の玉が直撃し傾いたことでパニックを起こした淀殿が和議を叫んだことは知られていますが、
直撃させたのが四海波という名の大筒を使い砲撃した高政だとされます。今もその四海波など銘の付いた大筒が佐伯に残っています。

https://twitter.com/shiro_meglist/status/588645532333047808
四海波も上の物だろうが此れは精々
慶長大鉄砲と同様の50匁程度なのかだが
砲身は長いから精度は高いだろうが
遠距離から城壁を貫く威力は有るのかどうかだが

679 :某研究者:2017/10/24(火) 19:59:02.72 ID:9HFd0hhX.net
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1140800026
>豊臣家に仕える「お菊」と言う女中が「天守に鉄砲の弾が飛び込んだ」と言う内容を手紙に書いていますが、大砲の弾が天守を直撃したと言う記録は見つかってないようです。
なので「淀君が大砲の弾に驚いて和議を結んだ」と言うのは史実ではないと思います。

砲弾が天守を直撃したと言う当時の記述は無いと言う事なのかだが

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1140800026
>徳川実記には「淀殿の居間の櫓を打ち崩し、その轟音はすざまじいものだった。
淀殿の侍女7,8人が圧死(たちまち打ち殺され)、女童の泣き叫びはおびただしかった」とあります。

とは有るが徳川実記は19世紀前半の物だから
此れは事実なのかどうかだが 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


680 :某研究者:2017/10/24(火) 23:21:04.63 ID:9HFd0hhX.net
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248736/
上の抗倭図巻の右の盾とフックを持つ兵は腕にも装甲は有るのかだが
こうした兵は何処迄居たのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248590/
上の倭寇図巻のフックを持つ兵の装甲は胴鎧だけなのかだが
兜が有る可能性は有るのかだが
フックは機能が限定されるし
実際は鈎槍装備と言う事は無いのかだが

681 :某研究者:2017/10/24(火) 23:35:38.11 ID:9HFd0hhX.net
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561158616/
右の様な脚にも装甲が有る様な
明の重装歩兵は古い絵では今の所見ないし
鎧は唐の時代の形式の物に類似しているから
現実に使われた物では無い可能性も有るのかだが

682 :某研究者:2017/10/25(水) 11:51:10.21 ID:80ooezW6.net
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Koxinga_soldiers_with_plate_armour.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Soldiers_of_Ming#/media/File:Koxinga%27s_soldier.jpg
装甲が有るのは鄭成功の鉄人兵だろうが
清の弓に対抗する為の鎧で有るから
日本式の銃を意識した桶側胴では無く
従来型の綿襖甲が使用されていると言う事なのかだが
装甲は通常の歩兵より多目に成っていると言う事なのかだが
完全鎧の様な物迄装備した歩兵は何処迄居たのかだが

683 :某研究者:2017/10/25(水) 13:37:39.32 ID:80ooezW6.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F#.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BE.8C.E3.81.AE.E5.BE.8C.E5.8C.97.E6.9D.A1.E6.B0.8F
>その他の旧家臣団の多くは徳川氏に引き継がれ、関東直領の経営を支えたほか、各大名家にも多くの人物を出した。

徳川軍に入ったかも知れぬ関東の大量の騎兵集団は関ヶ原では
予備兵力であり使われていないと言う事なのかだが
秀忠の配下にも居たかも知れぬが野戦では無く攻城戦をしていた訳だろうか
大阪夏の陣の野戦では何処迄使われたのかだが
何れにせよ秀忠や家康本陣への攻撃は許している訳だろうか

684 :某研究者:2017/10/25(水) 23:33:32.33 ID:80ooezW6.net
http://katomiraikoubou.sa kura.ne.jp/wp/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E5%90%8C%E4%B8%96%E4%BB%A3%E3%81%8C%EF%BC%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%8E%8B%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B/
>清朝時代には満州弓という満州族の大型の弓(最大1.8m)が導入されており、  

此れはイングランドのロングボウと同程度の長さだろうが
矢を大型化して貫通力を増していたのかだが 
重くして反動も小さくする効果も副次的に狙ったのかだが

685 :某研究者:2017/10/26(木) 14:12:28.95 ID:Fw6I1gyJ.net
アーチェリーの弓は160cm台だろうから
140cmも無いトルコ・モンゴル弓よりは
満州弓に近い物なのかだが
満州弓の安定性を示していると言う可能性も有るのかだが
http://www.manchuarchery.org/arrows
満州の矢の羽は長いが
アーチェリーの矢羽根は此処迄長くは無いだろうが
合理性は何処迄有るのかだが
満州の鏃は余り鋭くは無い物も多いが
明軍の鎖帷子は貫けたのかだが
鎖装備の兵より綿襖甲装備の兵の方が多いのかだが

686 :某研究者:2017/10/26(木) 14:48:30.69 ID:Fw6I1gyJ.net
https://i.pinimg.com/originals/d9/8d/03/d98d0340c05f6fbc761171247390d201.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E5%BC%93
>モンゴル軍の短弓についても貫通力が低いという欠点を補うため、鏃に毒薬を塗る戦法、いわば毒矢を用いた[3]。
一方で、弓の構造上から威力は高く、日本の鎧では十分に防げなかったとする見解もある[4]。

モンゴルの弓の場合鏃が軽いから張力が70kgでも威力はどうなのかだが
袖毎鎧を貫く様な威力は流石に無いのかだが
弓に強い皮を挟んだ小札鎧・練皮札が二重と成り漆も有る大袖は
只の鉄板より容易に貫けないと言う事なのかだが

>長弓の場合、『保元物語』などで、鎧武者も貫通する記述がみられるが、
短弓に関する記述として、『土佐物語』巻第十七「繋ぎの城々 大蛇の事」には、
朝鮮出兵中、嘉山城において李王理という半弓の使い手が黒田長政の左腕に射当てるが、
長政はこれを事ともせず、敵中へ入り、そのまま王理を討ち取ったと記述されており、足止めにもなっていなかった描写がある。

土佐物語は史料価値は低いと言うが
仮に事実であれば
https://i.pinimg.com/originals/d9/8d/03/d98d0340c05f6fbc761171247390d201.jpg
上の長政の鎧の篭手は格子鎖が多いし
鎖や篠に当たって威力が減少した可能性は低いのかだが
城攻め時には当世具足にも大袖が装備されると言う説も有るから
此処に命中して深手は負わなかったと言う可能性も有るのかだが 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)


687 :某研究者:2017/10/26(木) 23:24:27.13 ID:Fw6I1gyJ.net
>>685
清の大型の矢羽根は近距離での安定性を考慮した物であり
通常の矢羽根では近距離では矢が安定せず貫通力が低下すると言う事なのかだが
大型の矢羽根は射程が短く成るから遠射用では無いと言う事なのかだが
アーチェリーの射撃距離の30−90mより近距離での安定性確保を
想定しているのかどうかだが

688 :某研究者:2017/10/27(金) 17:38:18.61 ID:M3alvHr2.net
http://archery-syoshinsya.com/category4/entry41.html
アーチェリーの弓は安定性重視故か2500gも有るが
http://ikai-kyugu.jp/?pid=112601806
張力15kgの和弓は500gだが
張力50kg等と成ると可成り重くは成るのかだが
重心はアーチェリーの弓と異なり上に有るのかだが

689 :名無し三等兵:2017/10/28(土) 15:16:47.29 ID:VijOY7pu.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E8%B9%84%E9%A4%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>この最中、十時連久、内田統続、安田国継(此時の名は天野源右衛門貞成と呼ぶ)らは突撃を敢行、鑓を投げて数十騎を突落し、

数十等の大量の犬槍が使われる例等は他に有るのかだが
持って直接馬等を狙った方が良いと言う事は無いのかだが

>明・朝鮮軍を中央突破して回転突破したが、
その際に中陣の戸次統直は強弓を引いて20餘の敵兵を射落し援護しながらも、
連久が李如梅の毒矢を受けて、帰陣から間もなく戦死し[24][25]、

毒矢と言うのは指揮官護衛用の物で
大量には無かったと言う事なのかだが
威力が無いので毒が使われていると言う連弩の矢と言う可能性も有るのかだが

690 :某研究者:2017/10/28(土) 18:29:24.31 ID:VijOY7pu.net
馬鎧装備の騎馬武者が明・朝鮮騎兵に
弓での反撃を受けても乗馬追撃を続けた例等は有るのかだが
https://twitter.com/Chinasword_kari/status/882996695490887683
明の鎧が上の清の明形式と言う鎧同様に12kg等なら
15kg以上の当世具足を装備する騎馬武者が
馬鎧装備で無く共追い付けない可能性も有るのかだが
碧蹄館で李如松を取り逃がしたのも
こうした装甲重量の差故の可能性も有るのかだが

691 :某研究者:2017/10/30(月) 21:50:23.62 ID:oQSFMKFU.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%85%B5#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E9.A8.8E.E5.85.B5
>『軍法侍用集』にも騎馬を集結運用する陣形が登場しており、馬、槍、鉄砲の運用について言及した長宗我部元親の文書や『雑兵物語』などの当時の文献でも、その様子を伺い知る事が出来る。

先述のフロイスの記述もあくまで少数だった和田勢が多勢の敵に対し密集して挑む為に下馬して戦ったまででその方が理に適っていたからである。

(戦場の地形が騎乗戦闘に適していたかも考慮しなければならない)
また戦国後期になると各兵科毎に集めて部隊を組む事も行うようになっており(戦国遺文後北条氏篇第3巻、
1923号には北条氏直が武蔵岩附衆に当てた書状にて小旗、鑓、鉄砲、弓、歩者、騎馬の兵科毎に奉行を置き
総勢1500人程の岩附衆がそれぞれの兵科毎に奉行に率いられて戦う様に書かれている)後期には兵科分けが行われた。

この兵科分けと言うのは北条以外も同様なのかだが
長篠でも織田軍の銃兵のみが前方に抽出されているが
この時点で騎兵が抽出されていた可能性は有るのかだが
とは言え西国の兵は長尾懸かりの様な騎兵突撃は
基本的に無いと言う事なのかだが

692 :某研究者:2017/10/31(火) 13:06:10.30 ID:439Ms9JG.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A6%82%E6%A2%85
>李如梅はサルフの戦いの直前に朝廷の者から日本兵と満州兵の強弱について聞かれて「倭兵は体躯倭少なれども、敏捷にして、鳥銃をよくす。
ただし一人同志の戦いとなれば、倭兵三十人をもってしても、満兵一人に敵せざるなり」と回答している[3]。

此れは銃を使わない戦い限定ではと言う意味なのかだが
白兵戦でも騎馬武者3−4人に同時に掛かられたら
清騎兵には板金の完全鎧も無いなら勝算は有るのかどうかだが
満州弓を乗馬して飛び道具を持たない騎馬武者30人の馬等に
一方的に当てると言う様な事なら出来るのかも知れぬが
そう言う戦いは基本的に東国の騎馬武者でも無い限り無く
雑兵物語に有る様に関東の乗馬した騎馬武者は
飛び道具を一部装備している訳だろうか

693 :某研究者:2017/10/31(火) 13:19:01.73 ID:439Ms9JG.net
https://i.imgur.com/cYUTUaR.jpg
朝鮮軍図屏風では敗走する明軍の弓で
騎馬武者がやられている場面も有るが
現実にはこうした反撃を避ける為に騎馬武者は長銃を持って追撃し
弓をアウトレンジしていた可能性も有るだろうが
一部の弓の上手い者は撃ち勝てると判断したら連射可能な弓を
使用している可能性も有るのかだが
西国の騎馬武者も清の騎兵を追撃する際は
銃を使用して弓をアウトレンジする可能性も有るのかだが
装甲重量の差で清や明・朝鮮の騎兵の追撃は簡単では無いと言う事なのかだが

694 :某研究者:2017/10/31(火) 13:55:16.83 ID:439Ms9JG.net
>あと『建州紀程図記』で、朝鮮軍人申忠一とヌルハチ家臣の馬臣の会話で、馬臣「倭子は状貌壮大と言うが、そうか」
申忠一「体つきはとても小さいが、良く草間を潜行し、弾を放てば必ず中てる」馬臣「遠くて小さいものも中てるのか」申忠一「倭銃は飛鳥をも中てることができるから、鳥銃というのだ」とある。

http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/thesis/090121_itabashi.pdf
C玉の製造と猟の準備
なお日本の火縄銃で、散弾を使用したか。これは明らかに使用したと考えらのである。
飛ぶ鳥はどんな名人でも火縄銃の一発玉では命中は難しい。
猟場ではどんな名人でも失敗がある。火薬の前に玉を入れてしまえば、銃身を台から外
し、尾栓を開けて、後ろから突き出さねばならない、従って簡単な尾栓回しは必要だった
のである。
木箱に上記の紐に結んだ装具一式、鉛、柄杓、玉型、散弾型など整理して納めたものも
良く見る。農業期間、鉄砲と装具は乾燥した人の目に付かぬところに管理したからである。
玉で関心があるのは、どのように散弾を作成し、使用したか?と言うことだ。
火縄銃で空中を狙っている猟師の絵(北斎)をみても明らかに散弾は使用したであろう。

現実の飛んでいる鳥を撃つ場合は散弾が使用された可能性も高いだろうが
漁師では無く軍人が練習用に通常弾を放つ例も有るのかだが

695 :某研究者:2017/10/31(火) 14:18:12.17 ID:439Ms9JG.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
>鉄砲の名手で、朝倉義景に仕官した際、一尺四方の的を25間(約45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。
そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。
「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(『明智軍記』)。

明智光秀が飛ぶ鳥を落としたと言う話も有るが
散弾使用では無い可能性も有るのかだが


http://historivia.com/cat1/akechi-mitsuhide/4148/
>一尺(約30.3センチ)四方の的に対し、25間(約45.5メートル)の距離から命中させたのです。中心の黒い部分に68発、
そこを外れた32発も的自体には当たっていました。つまり、100発100中というわけです。これは相当な腕前ですね。

此れは標準の6匁筒辺りを使用したのかだが

696 :名無し三等兵:2017/10/31(火) 14:33:00.98 ID:439Ms9JG.net
https://senjp.com/taki-2/
>織田信長は、滝川一益が鉄砲に熟練していると聞いて、射撃の腕前を検分したところ、百発百中に近い腕前であった為、鉄砲の腕前を見込まれて織田信長が家臣に加えたと言われる。
作り話ではあるが、鉄砲の腕前は、柱に穴を開け、その穴を通して柱の向こうにいる相手を撃ったと言う伝説もあるくらいだ。

等と有るが
具体的な射撃距離等は書かれていないと言う事なのかだが

697 :某研究者:2017/10/31(火) 14:40:01.95 ID:439Ms9JG.net
>>696
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5266742&id=57040505
>信長の目の前で火縄銃を100発撃ち、72発を的に命中させ 信長の配下となる

100発100中では無く72発命中と有るが
距離は明智光秀と同じ様な物なのかだが

698 :某研究者:2017/10/31(火) 18:02:20.43 ID:439Ms9JG.net
http://www.asatuyu.com/2015/07/25/gun-horse/
>(2)命中率の実験で3人合計18発撃つ
@距離100m:1発命中で命中率6%、A距離50m:13発命中で命中率72%

火縄銃の命中率も100mでは6%しか無いのかだが

http://blog.goo.ne.jp/cyrilsnow34/e/4099cd2e37084b077eecb3f95cd38bcd
上を見る限り100mでも命中率は上手い人間がやれば
可成り向上するのかだが
雑魚足軽は此処迄出来るのかだが

699 :某研究者:2017/10/31(火) 18:59:05.01 ID:439Ms9JG.net
>>693

見慣れぬ地形に引っかかる等して
明・清騎兵の逃走が遅れた場合
騎馬武者は弓を回避しながら銃の射程に接近し
出来れば地形に馬を隠し下馬
騎兵の馬を狙撃し敵を落馬させ
再装填後徒歩で逃げる敵を
同様に地形に馬を隠して狙撃すると言う様な方向なのかだが
落馬後は敵も地形や馬の影に退避する可能性も有るなら
簡単に狙撃は出来ぬ可能性も有るのかだが
相手を地形の影に拘束している内に後続の味方歩兵が追い付き
此れに敵を包囲させ仕留めると言う様な事も多いのかだが

700 :某研究者:2017/10/31(火) 22:00:10.40 ID:439Ms9JG.net
http://ueda-soukoryu.com/sliderbugu/  
大阪夏の陣段階では鎬の有る上田宗箇の
和製南蛮胴が使用されていると言う事なのかだが 
此れ以前はどうなのかだが 
1570年台の仏胴登場時に既に有る可能性は無いのかだが

701 :某研究者:2017/11/01(水) 22:15:01.05 ID:ImBYCE01.net
geocities.jp/pycbb333/framepage15.html
>北条新三郎氏信の甲冑  

此れは桶側胴的だが果たして1570年迄の物なのかだが 
直後の姉川合戦でもこの種の胴は使われた可能性も有るのかだが

702 :某研究者:2017/11/17(金) 16:06:31.42 ID:jQDXEnQV.net
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562554619/
上の様な9kgの袖型の盾は実在する様だが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561343380/
上と同様の物なのかだが
板札が固定式では無いのは銃弾の衝撃を逸らす為と言う事なのかだが
6匁筒が至近距離で止まる様な物なのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562554538/
この盾の厚さは大阪城に有る物と同様の4.8cmは無い様にも見えるが
古い物なのかだが

703 :某研究者:2017/11/29(水) 14:38:48.30 ID:Jrq/72U9.net
フス派の戦車は木張りだが
神聖ローマ軍の遠距離の手銃は止まったと言う事なのかだが
砲はこの時代でも割に有るが
戦車攻撃には使われたのかだが
マスケット銃や大量の砲の登場後も
コサックがフサリアに対して戦車を使用していた様に見えるが
鉄板は此れには張られていたのかだが

クロスボウ兵のパビスに手銃が向けられる事も有るのかだが
クロスボウの射撃距離の100m等の遠距離では命中しないか
命中しても貫通は出来ないと言う事なのかだが

704 :某研究者:2017/12/01(金) 16:43:04.45 ID:K8+X3BFO.net
http://myrp.maruzen.co.jp/press/eastwest/v13/index.html 
>中国に派遣されていたエドワード・バーリングトン・ド・フォンブランク(1821〜95)は、日英修好通商条約締結(1858年)の2年後に軍用馬を調達するため日本を訪れた。
大切に育てられた日本馬の優秀さが西欧にも知られ、イギリスやフランスが買付けを始める。イギリス側は「3000〜4000頭必要」と要求するが、幕府は簡単に応じられない。

日本馬も衝撃騎兵では無く軽騎兵としての用途なら
長距離のアラブ馬を上回る走力や
粗食に耐えると言う事が
19世紀でも有用と見做されていたのかだが

705 :某研究者:2017/12/01(金) 16:51:23.91 ID:K8+X3BFO.net
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%B1
中央アジアのアハルテケも粗食に耐え 
長距離の持久力も有るのかだが 
モンゴル系馬とどちらが軽騎兵用途としては上なのかだが

706 :某研究者:2017/12/01(金) 16:57:44.94 ID:K8+X3BFO.net
アハルテケもトルクメニスタンの砂漠に適応した色をしている様だから
砂漠や平地では兎も角
山岳地帯での運動性は日本馬程には
高くは無いと言う事なのかだが

707 :某研究者:2017/12/08(金) 22:58:06.20 ID:7iDLkkrz.net
Matchlock Musket Demonstration with Armor (Live Rounds)
https://youtu.be/X1WwQkeDuXs

17世紀に銃兵専用の甲冑もジェームズタウン等の米大陸等の一部で使用されていたのかだが
此れはインディアンの弓対策なのかだが

708 :某研究者:2017/12/17(日) 13:33:19.21 ID:ZL5nRqs/.net
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sarh%C5%AB
サルフの戦いの絵の明軍を見ると車輪付き盾や
低い土塁は有るが
馬防柵や戦車は使用していないし
これが有れば清の下馬騎兵・乗馬騎兵共に簡単に突入は
許さなかった可能性も有るのかだが
フス派の様な戦車陣や
長篠の様な野戦築城が成されていれば
山海関の様なヌルハチの戦死迄有り得たのかどうかだが

https://blogs.yahoo.co.jp/baron0742/68795733.html
長篠の陣地の場合土塁の上に馬防柵が有り
その後方にも銃丸の様な溝の有る土塁が有ると言う構造なのかだが
この様な物を清騎兵も下馬してさえ何処迄突破出来るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#/media/File:Battle_of_Nagashino.jpg
長篠合戦図を見ると全体にこうした物迄は無いと言う事なのかだが

709 :某研究者:2017/12/17(日) 13:49:11.87 ID:ZL5nRqs/.net
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sarh%C5%AB#/media/File:Pan_Zongyan_being_overrun.jpg
上を見ると明軍陣地は清下馬騎兵突入前にも
土塁後方が盾で完全に塞がれていた訳では無い様に見えるし
最初から隙間が有って此処にも
歩兵敗走後騎兵の突入を可成り受けたと言う事なのかだが
長篠の様な馬防柵や
フス派の戦車陣地ならこの様な事は無いと言う事なのかだが

710 :名無し三等兵:2017/12/17(日) 15:38:36.55 ID:ZL5nRqs/.net
>>709
日本軍に野戦築城された陣地が無い場合でも
碧蹄館の様に地形を利用すれば
清騎兵相手でも同様の結果と成る可能性も有るのかだが

711 :某研究者:2017/12/17(日) 16:24:24.60 ID:ZL5nRqs/.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで
混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。

夜間でも馬防柵やフス派の戦車を盾にしての至近距離からの銃撃は
防げる訳では無いだろうが
碧蹄館の様に地形しか無い場合では厄介な可能性も有るのかだが
馬防柵や戦車陣が有っても
視界の悪さを利用して兵を一点集中される可能性は
有ると言う事なのかだが
こうした事をしても籠城した明軍は破れなかった訳だろうか

712 :名無し三等兵:2017/12/17(日) 16:25:25.57 ID:C+IO52IT.net
大砲の有無もかなり関係してくるだろ。
秀吉の日本軍相手でも火縄銃をアウトレンジして、野戦なら優位に立っていたし、対清軍でもオランダの大砲を輸入してからは侵攻を許さなかった。
散開して速度の速い騎馬兵が相手でも、射程距離から接敵まで、一二割は敵を削減できるなら、かなりの戦果と言えるはず。

713 :某研究者:2017/12/17(日) 16:47:50.84 ID:ZL5nRqs/.net
>>711
>馬防柵や戦車陣が有っても
>視界の悪さを利用して兵を一点集中される可能性は
>有ると言う事なのかだが

そうした場所に備の機動力を利用して
予備兵力を迅速に移動する必要も有るだろうが
同様の夜襲に日本軍は割に慣れているかも知れぬが


>>712
大砲で乗馬騎兵の突撃を阻止した例は知らないが
フサリアにはスウェーデンの連隊砲も通用していないと言う事なのかだが
精度・威力の低い明軍の野戦用のフランキ砲では
火縄銃をアウトレンジ等出来るのかだが
碧蹄館では明軍は騎兵戦が主体であるから
此れは余り使用されていないと言う事なのかだが
泗川では城外での戦闘も多いが
フランキ砲は何処迄役に立ったのかだが
日本軍の鹵獲した散弾を詰めた砲の方が
近距離専用では有るかも知れぬが
或いは役に立った可能性も有るのかだが

714 :名無し三等兵:2017/12/17(日) 17:02:56.58 ID:uJKyPVaT.net
野戦で明軍も朝鮮軍も日本に優位に立ったことなど無かろ。

715 :某研究者:2017/12/17(日) 17:10:44.07 ID:ZL5nRqs/.net
http://proto.harisen.jp/mono/mono/koui-hou.htm
ポルトガルから購入した明軍の紅夷砲も
山海関でヌルハチを撃退した際の初期の30門から
400門以上は配備された様だが
籠城戦の使用以外は有るのかだが
籠城時に引き付けられた密集した低速の敵に発砲して
効果を上げた物と言う事かも知れぬし
野戦での清の乗馬騎兵や夜間の下馬騎兵の(城では無く)
陣地への突撃を阻止出来る様な物なのかだが

呉三桂も結局の所投降し
清に対し反乱を起こした後も勝利出来たのは
初期だけと言う事だろうが
1670年台には清の側にも砲は大量配備されていたかも知れぬが
攻城戦以外は依然騎兵が主体だったと言う事なのかだが


日本軍も大阪の陣では砲は大量使用しているだろうが
大阪の陣での野戦では何処迄利用されたのかだが
密集陣形では無い備には近距離の散弾以外は
有効では無かったと言う事なのかだが

716 :名無し三等兵:2017/12/17(日) 17:18:12.16 ID:d7QXzOEg.net
光栄のゲームと違っていろんな兵科が連携するのが史実の戦争なんだよ
砲兵の有り無しは軍全体の火力で雲泥の差ができる 砲兵無しても戦争はできるが、その場合火力は歩兵の脚に頼るしかない
17世紀のスウェーデン軍に砲兵が居なかった場合を想像してみたら? たぶんフサリア使うまでも無く撃退されてたよ
長射程の安定した火力、一発で歩兵を吹き飛ばすエネルギーは他の兵科では生み出せない と言うよりそのための兵科が砲兵
文章に残ってないから活躍してなかった、というのは昭和的史観だよ

717 :某研究者:2017/12/17(日) 17:22:34.88 ID:ZL5nRqs/.net
http://proto.harisen.jp/mono/mono/koui-hou.htm
>一方で女真族勢力(後金)も紅夷砲に対抗するために、投降武将ら明朝の人材を吸収し、新式火器技術を積極的に導入した。
>その結果、後金軍の火器の製造・管理・使用の最高責任者として重用された佟養性のもとで天聡五年(1631)正月、初めて紅衣砲(紅夷砲)の製造に成功している。

清も1630年台には既に紅夷砲の配備はしているだろうし
1670年台には大量に有ったと言う事かも知れぬが
野戦での主力は騎兵だったと言う事なのかだが

718 :某研究者:2017/12/17(日) 17:29:25.31 ID:ZL5nRqs/.net
>>716
とは言えスウェーデン軍でさえ清の騎兵を
地形無しで果たして阻止出来たのかと言う事は有るだろうし
スウェーデン式大隊も密集隊形であるから
突撃する前にも満州弓の攻撃で
砲兵も含め可成りの打撃を受けていた可能性も高いのかだが

719 :某研究者:2017/12/17(日) 17:38:05.81 ID:ZL5nRqs/.net
>>718
長射程の散弾(キャニスター弾)を撃てるスウェーデンの砲兵も
600mは射程の有る満州弓に
アウトレンジされ壊滅
騎兵を阻止する為のパイク方陣も
フォルカークの戦いのシルトロンの様に
満州弓で混乱し用を成さなく成ると言う事なのかだが
スウェーデンの騎兵も満州弓でアウトレンジされて
やられると言う事なのかだが

720 :某研究者:2017/12/17(日) 17:44:09.82 ID:ZL5nRqs/.net
スウェーデン軍が土塁に篭れば
夜間清の下馬騎兵が一点集中突撃しても
機動性の高い連隊砲や多段射撃可能な銃兵を
上手く集中すれば撃退出来る可能性は
有ると言う事なのかだが

721 :名無し三等兵:2017/12/17(日) 18:19:10.98 ID:d7QXzOEg.net
なんでそう極端な例しか想像できないかね
木製の矢の質量で500m以上先の目標に打撃なんか与えられないだろ
3lb砲キャニスターの射程400mってのは有効射程 和弓の有効射程はだいたい2-400m 届いて当たるだけじゃ壊滅しないんだよ
アウトレンジが成立するのはkm単位で戦闘する19C以降か、槍と刀で殴り合う中世の戦争
火力ぶつけ合って崩壊するまで殴り合う時代に使う考えではない
騎兵の機動力衝撃力が代替できないように砲兵も他では置き換えられない存在 フサリアに弱いからいらないとかいうものじゃない

722 :名無し三等兵:2017/12/17(日) 18:26:44.92 ID:d7QXzOEg.net
別に砲兵最強とかアジア弓兵弱いとか言ってるんじゃないよ
>>713で近世における砲兵の立ち位置について誤解してるのが気になっただけ
日本史では登場後すぐ平和になったせいで戦歴薄っぺらいけど、野戦において砲兵は重要な存在なんって事が言いたい

723 :某研究者:2017/12/17(日) 18:54:28.46 ID:ZL5nRqs/.net
500mでも砲兵に装甲が有る訳でも無いし
キャニスター弾で馬が1割等やられる前に
満州弓で砲兵に砲撃を継続的に妨害出来る程度の打撃は
与えられる可能性も有るのかだが

パイク兵・銃兵も完全鎧を装備している訳では無いから
徐々に満州弓で混乱して射撃や槍衾を構成する事が
困難と成る危険は有るのかだが

724 :某研究者:2017/12/17(日) 21:01:53.18 ID:ZL5nRqs/.net
https://weaponsandwarfare.files.wordpress.com/2016/06/2248153548_0638f1fc71_o.jpg
馬防柵から上の様な至近距離で弓を撃たれれば
清の綿襖甲でもダメージは受け得ると言う事なのかだが
柵を登る敵を槍で攻撃も出来るだろうが
清の弓での反撃は垣盾や土塁の銃丸で
防ぐ必要は有ると言う事だろうか
泗川で島津軍が用いた
散弾を詰めた砲での攻撃も
夜間の一点集中攻撃を目論む敵の威嚇には
有用なのかどうかだが

725 :名無し三等兵:2017/12/17(日) 21:08:13.18 ID:d7QXzOEg.net
>>723
近世のキャニスター弾は500mの距離では使わないよ
現代の戦車砲では対装甲用に徹甲弾、対人用にキャニスターの使い分けだけど、近世は長距離に実体弾、2-300m以内の至近距離でキャニスターという使い分け
実体弾ならスウェーデンの連隊砲(3lb)で有効射程2000-2700ぐらいだから流石に弓では届かんでしょ

726 :某研究者:2017/12/17(日) 21:17:41.34 ID:ZL5nRqs/.net
>>725
清の騎兵が全速でキャニスター弾の最大射撃距離よりやや遠い
300m付近に接近すれば
その間実体弾で何処迄打撃を与えられるのかだが

727 :名無し三等兵:2017/12/17(日) 21:41:13.02 ID:d7QXzOEg.net
>>726
鎧着込んだ兵士がモウコウマに乗ってるとして、2kmの全力疾走は不可能だから15〜30km/hの直線移動で6分ぐらい?(敵による妨害は考えないものとする)
レザーカノンだと10発撃てればいいとこかな 連隊砲は歩兵に追随するための砲だから当然歩兵陣が待ち構えてる訳だけど

ちなみに同様の野戦用軽砲は大砲大国朝鮮でも1649年から記録に登場してたりする 革じゃなくて紙だけど2kgの球形弾を発射するものらしい

728 :某研究者:2017/12/18(月) 07:54:08.85 ID:cPnIDNdK.net
キルホルム等でのフサリアの損害が極めて低い事を考えると
サルフの戦いで6万は居た
清騎兵の300mへの接近を砲の通常弾で阻止出来るとは
考え難いと言う事なのかだが

729 :某研究者:2017/12/18(月) 07:57:31.17 ID:cPnIDNdK.net
6万の清騎兵に対しては
1万も居ないフサリアが野戦で戦えば
ほぼ勝算は無いと見て良いのかどうかだが

730 :某研究者:2017/12/18(月) 14:11:37.01 ID:cPnIDNdK.net
馬防柵を使用せず
完全に騎兵を阻止出来ぬ地形でも
(傾斜の緩い場所は無い)ヘイスティングズの丘の様な地形で
騎兵の衝撃力を低下させられれば
日本軍も20万程度居れば
6万の清騎兵の夜間一点集中攻撃に対しても
勝算は有るのかどうかだが
立花宗茂の様に森林を利用したり
垣盾や竹束を大量配備して矢を防ぐ必要は有る訳だろうか

トゥール・ポワティエ間の戦いでは
フランク王国軍は平原でシールドウオールを用いて
イスラム騎兵を阻止しているが
清騎兵に対しこんな事は出来るのかどうかだが

731 :某研究者:2017/12/18(月) 19:15:14.72 ID:cPnIDNdK.net
https://i.imgur.com/bPoAXnk.gif
上の黄色は戦国後期の日本軍
赤が日本軍本隊
緑=日本軍の馬防柵・土塁
青が同時期の清騎兵だが

中央では清騎兵が日本軍を分散させる為に
夜間全方向から小数兵力で攻撃を仕掛け
右では一部多数の兵力を投入し
https://i.imgur.com/6tHIgxH.gif
上の左の様な形で日本軍を此処に引き付けた後
右の様に別方向に大兵力を投入し奇襲を掛ける可能性も有るだろうが
日本軍の兵力移動が遅れれば突入を許す危険も有るのかだが
こうした事を避ける為に日本軍も外部に偵察部隊を出して
花火等で敵の兵力移動を把握すると言う方向も有るかも知れぬが
川中島等でも大兵力での奇襲攻撃は成功しているから
こうした事は何処迄行われたのかだが

夜間は清側の視界も悪いなら
https://i.imgur.com/KlDZjf0.gif
上の様に日本軍の一部を柵の外に出し迂回させ
一点集中された清騎兵の背後等を奇襲し包囲される前に
離脱する事を繰り返すと言う様な方向も有るのかだが
清騎兵の機動力を利用され
早期に包囲される危険も有るのかだが
何れにせよこの間に一点集中された清騎兵を迎撃する為の
兵力を移動する時間は
稼げる可能性は有るのかだが

732 :某研究者:2017/12/18(月) 21:40:22.01 ID:cPnIDNdK.net
夜間は遠距離からの銃撃は困難であるなら
機動性の高い騎馬鉄砲隊が単独で
近距離で大鉄砲から散弾を放って
一撃離脱と言う様な方向も有るだろうが
こうした事は現実に行われては居ないだろうが
立花宗茂や加藤清正の足軽の様に
装甲を軽くした足軽と通常の騎馬武者が
通常の銃を至近距離で一発放って
離脱すると言う様な方向も有るのかだが
弓歩兵・弓騎兵は逃げながら矢を放ち
清騎兵の追撃を牽制すると言う方向なら
夜間で視界も悪い事だろうし
完全包囲されて殲滅される迄は行くのかだが


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%B6%8A%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E6.B2.B3.E8.B6.8A.E5.A4.9C.E6.88.A6.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E8.AD.B0.E8.AB.96
>子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、上杉連合軍に突入すると、上杉軍は大混乱に陥り、

軽装甲兵での夜襲は河越城の戦いで
行われた事は有るかも知れぬが
この夜襲は創作と言う意見が多いが
素肌武者の奇襲攻撃は夜間では無いが
第三次長島侵攻や大阪陣でも有る訳だろうか

733 :某研究者:2017/12/18(月) 22:33:23.73 ID:cPnIDNdK.net
http://sportsantique.jp/?p=1433
散弾が発射可能かも知れぬ馬上二十匁筒等も有るのかだが
こうした物は大量には無いだろうが
割りに数の有る十匁士筒に散弾を詰めて発射した例は
有るのかどうかだが
夜間馬上から此れで近接射撃し一撃離脱した様な例は
有るのかどうかだが

734 :名無し三等兵:2017/12/19(火) 07:15:15.27 ID:fmbkY4U1.net
散弾銃はもともと狩猟用に開発されたものだ
銃器の世界では珍しい事で、もともと兵器として開発されたものではない
それを戦争で用いだしたのはアメリカ
日本刀を相手に包丁で立ち向かうようなものだと揶揄されたが
実際に使ってみると、塹壕での戦闘などで、けっこう有効であることが明らかになり
現在も軍隊で用いられることもあるけど

しかし散弾銃の射程距離など、単発弾のスラグ弾でも100M程度だよ
散弾なら20M程度だからな
威力でも射程距離でもライフルとは比較にならない。
塹壕戦ならいざ知らず。普通の戦闘では使いたくないね

735 :名無し三等兵:2017/12/19(火) 08:59:16.52 ID:e3jpRhWg.net
近世日本の大口径小銃ってデカい弾を遠くまで飛ばすのが目的だからなあ
ガワが似てても運用思想が違うからまず無いだろうな

736 :名無し三等兵:2017/12/19(火) 11:42:56.47 ID:gCxLQoc9.net
米軍が効率的に弾幕を張れるよう弾頭が二つある小銃弾をベトナムで使ったけど
射程が短いし狙ったとこに当たらないというのですぐ使用中止
米軍ほど弾をバラまけてもこれではダメだと割り切るくらいなんで火縄銃じゃ…

737 :某研究者:2017/12/19(火) 12:12:31.34 ID:HUKOKsfl.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%81%AB%E7%B8%84%E9%8A%83
>(信長公記)の中にある信長狙撃事件の記述で「ふたつ玉にて打ち申し」という記述、もう一カ所鉄砲名人と弓の名人が騒乱中に対決した記録でも「ふたつ玉にて云々」という記述。 
これを二連式銃によるとか、二梃の銃を取り替え射撃したと書いた小説家がいますが、これは根拠を示すことの出来ない想像創作です。  
可能性が高い二つ玉とは各種伝書に共通して現れる二個の弾丸を紙と糸でくくり合わせた一種の散弾で、命中確率もしくは殺生力が非常に高いと信じられていたものだと思われます。 

散弾では無いが2つ玉と言う物なら多用されている様だし
https://rekijin.com/?p=15550
1558年の橋本一巴・林弥七郎の一騎打ちで既に使われていると言う事なのかだが
6匁筒の半分程度のエネルギーでも
至近距離では清の甲冑を貫ける可能性も高いだろうから
これを視界の悪い夜間で近距離から放てば
命中率やダメージは通常弾より増す可能性も有るのかだが

738 :某研究者:2017/12/19(火) 12:18:04.92 ID:HUKOKsfl.net
http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/thesis/090121_itabashi.pdf
>火縄銃で空中を狙っている猟師の絵(北斎)をみても明らかに散弾は使用したであろう。
古い民家から火縄銃とともに出た木箱、その中に狩猟に使った道具、玉型があった。
鉄板の内側を凸凹にして上から溶けた鉛を流し込むと細長い、凸凹状の鉛の紐ができる。
それを鋏で切ると、細かい粒になり、散弾を作った。一回、現在の5号くらいの大きさも
散弾が100個くらいできる。
現在の狩猟に使う散弾銃12番口径は18mm。その散弾のパターンは30mの距離で1
m四方くらいだ。これを火縄銃口径15‐6mmくらいで使うと、1m四方に広がるには
50mくらいの距離だろう。水面の鳥を撃つために使用するには最適だ。

鉛線をハサミで切って作る様な
火縄銃の狩猟用散弾も有ると言う事の様だが
此れは戦闘用に使われたのかだが

739 :名無し三等兵:2017/12/19(火) 12:24:29.91 ID:BymmqZym.net
二つ玉ってのは、ホローポイントの様な効果を狙ったもので、貫通力より殺傷力に主眼が置かれている。
江戸時代には最大三つ玉まであったけど、これは全弾同じサイズではなく、中間の玉は少し小さかったそうな。

他にも、中央の大玉に2〜4個の小玉をぶら下げたような物、ムカデのような物も巻物に残っているけど、恐らく空想か構想のみの物と思われる。

740 :某研究者:2017/12/19(火) 12:59:18.33 ID:HUKOKsfl.net
清の12kgの甲冑では胸甲の厚さは3mmも無いだろうから
2つ玉一つ分が2−3匁相当の威力でも
夜間の射撃距離かも知れぬ
50m以内程度なら貫通するかも知れぬし
板金鎧では無いから衝撃でのダメージも可成り受けるのかだが

741 :某研究者:2017/12/19(火) 13:21:59.14 ID:HUKOKsfl.net
>>731
https://i.imgur.com/WFVsu2Z.gif
清の一点集中された部隊に
日本軍の部隊が柵から一部出て背後を一撃し離脱
中央の図の様にこれの追撃に清騎兵が引きつけられた後
別の日本軍部隊が同様の一撃離脱を繰り返せば
清の一点集中された部隊の混乱は
更に増すと言う事なのかだが
こうした混乱で時間を稼いでいる内に
清主力部隊が前方への集中を完了した日本軍の攻撃に
前進を阻まれ戦意が低下したと見たら
右の図の様に日本軍は多数の部隊を柵の外に出し
此れを清の主力部隊の側面や後方に回り込ませて
包囲殲滅と言う可能性も有り得るのかだが

742 :某研究者:2017/12/19(火) 13:42:47.73 ID:HUKOKsfl.net
>>741
とは言え清の兵もこうした事にも備えて
予備兵力は別の場所に残している可能性も有るだろうから
簡単に包囲殲滅等出来るのかどうかだが

743 :某研究者:2017/12/19(火) 14:07:46.59 ID:HUKOKsfl.net
清の兵が明かりを目標に弓を放っている例も有るから
明かりの周囲に兵の居ない場所も一部作って
射撃を回避と言う様な方向も有るのかだが
此れは馬防柵外の戦闘でも有用なのかどうかだが
夜襲で兵を多く見せ掛ける為の明かりと言うのは
戦国期の日本でも確か利用されていただろうか

744 :某研究者:2017/12/19(火) 17:35:26.99 ID:HUKOKsfl.net
http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part2/archives/519
>Bくくり玉の各種

これは弾に紐が付いているが
2つ玉の様な物なのかだが

745 :名無し三等兵:2018/01/28(日) 21:35:41.14 ID:C/YfYXpC.net
カウンター・マーチってwikiとか色んなところで見るけど、本当にあったの?
出典が見当たらないし、英語で検索してもでてこないんだが

746 :名無し三等兵:2018/01/30(火) 21:53:52.10 ID:gL1ittG8.net
>>745
counter march infantry でざくざく引っかかるけどなあ。

747 :名無し三等兵:2018/01/31(水) 22:48:41.46 ID:ahgbcwdG.net
友清理士さんの翻訳新刊まだなの…

748 :名無し三等兵:2018/02/01(木) 13:18:08.45 ID:xKTKYiUM.net
ナポレオン期フランス軍で使われた1777年式マスケットってなんか銃床が同時期にも後の時代にも見ない変な形だけど
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/French_infantry_musket_model_1777-MCAH_HIS_91_01-IMG_8104-gradient.jpg
これ何の利点があったんだろうか?
なんていうか東南アジアや中国あたりでつくられた火縄銃にありそう

749 :名無し三等兵:2018/02/01(木) 23:20:42.54 ID:gyfazQ16.net
ブラウン・ベスと見比べてもそれほど違うとも思えないけど…
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/Brown_Bess.png

この時代の銃床は一本の木から削り出しだよな。グリップの下からがまっすぐ伸びてない分、フランス式の方が木材節約になるか?

750 :名無し三等兵:2018/02/09(金) 01:20:11.82 ID:QfBamBCu.net
背嚢を銃剣突撃前に基本的にどっかに部隊ごとにまとめて置いてから突撃するとのことだが
もし自分のが盗まれてたら紛失として罰せられるの?

751 :某研究者:2018/02/10(土) 11:31:36.70 ID:aDFKJqq4.net
日本の早合は1569年の立花道雪の物が初なのかだが 
西欧もペーパーカートリッジは14世紀後半から有るが 
木の筒に火薬しか入らない様な物も17世紀では多い様に見えるが

http://www.sykesutler.com/musket2.htm
16−17世紀のこうした西欧の一般的な銃兵用ベルトも 
カートリッジに見える物は火薬しか入らず 
弾はベルト下方の袋に有ると言う事だろうが 
これとは別に火蓋に入れる火薬用のフラスコも使われるが 
日本の早合でも同様だったかも知れぬが

youtube.com/watch?v=Yzf0ZiVr9qw
上の火縄式マスケット銃ではフラスコは何故か使用していないが 
弾薬袋から弾を装填すれば 
早合より数秒のロスは有るのかだが

http://blogokmy.neoya.net/?eid=818400  
欧の物に似た襷早合も有るが 
戦国期には有るのかどうかだが

752 :某研究者:2018/02/14(水) 18:46:03.09 ID:/JLEbJHQ.net
http://myarmoury.com/talk/viewtopic.8675.html
1540年迄スペインの大型マスケット銃は数が無いと言う事なのかだが 
1525年のパヴィアでは仏の騎士は基本的に 
小型のアルケブス銃でやられたと言う事なのかだが

753 :名無し三等兵:2018/02/22(木) 08:04:36.34 ID:zf2p0zg+.net
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754 :名無し三等兵:2018/02/25(日) 03:34:55.47 ID:UGLrF8QF.net
日本の火縄銃が銃床無いのは輸入したのをそのままコピーして改良しないから?

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