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(戦艦大和)不可思議な美意識?(真田丸)
- 11 :名無し三等兵:2016/01/28(木) 18:17:03.96 ID:ZWCE6E8k.net
- 武田武士団を基盤とした会津武士団の誕生
江戸期から幕末の会津武士たちの中核となる家の大部分はルーツをたどると会津地方土着の武士ではなく
信州の武田家臣団に遡る。
保科正之は会津入りに際して高遠時代の家臣を重用し高遠からの人材流出をもたらした一方で、
会津が与えられる直前に藩主であった山形藩や保科氏入部以前の会津藩主であった加藤氏の家臣団の採用は
ほとんど行わなかったという。正之が会津入りしたときの知行取り以上の家臣は四二七名で、
そのうち前者の山形藩時代の鳥居氏旧臣の家臣は三〇名、後者の加藤氏旧臣は三一名と、
旧武田遺臣の信州武士が会津武士団の中核を占めた。
http://kousyou.cc/archives/4437
会津武士道・「会津家訓十五カ条」「什の掟」のルーツは甲州武士道・「御旗・楯無も御照覧あれ」
http://www.nobitown.com/dom011121.html
戦陣訓・特攻のルーツは甲州武士道と会津武士道
戦陣訓は1941年1月8日に陸軍大臣東條英機(東北罰リーダー)が示達した訓令で
畑俊六(福島出身)が発案し、陸軍教育総監部が作成を推進した。
教育本部長の今村均(宮城県出身)を中心に、教育総監部第1課長鵜沢尚信(千葉出身)、
教育総監部第1課で道徳教育を担当していた浦辺彰、陸軍中尉白根孝之らが執筆し、
最終的に土井晩翠(宮城県出身)島崎藤村(長野・仙台出身)などの詩人が監修した。
とういう話もあるが
昭和陸軍の戦陣訓(生きて虜囚の辱を受けず)の発案者は、
山縣有朋(長州)、畑俊六(会津)、山田乙三(長野)、今村均(仙台)、鵜沢尚信(東京)、浦辺彰(?)、白根孝之(九州)、中柴末純(長野)
(wikipediaでソース不明のものも含む)
メインは浦部彰と狂信的な軍人・中柴末純のようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93
http://ginnews.whoselab.com/081210/hana.htm
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20120716/1342365364
http://mat ome.na ver.jp/odai/2140883845708468701/2140924794542732103
https://www.youtube.com/watch?v=AR7bAyXsDlE
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