2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

平家物語 第五巻

357 :風の谷の名無しさん@実況は実況板で :2022/01/30(日) 16:54:23.20 ID:AiB4lxiN0.net
特に「南都北嶺」と並び称された奈良の興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。
神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる。
白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残しているが、これは延暦寺の強訴を嘆いての事である。

嘉保2年(1095年)10月、延暦寺の大衆と日吉社の神人が初めて日吉社の神輿を担ぎ出して(神輿振り)、小競り合いで誤って僧を殺してしまった美濃守源義綱を流罪にさせようと要求するため、義綱の主である関白藤原師通がいる都に向け強訴を行なった。
朝廷はこれを防ごうと源義綱と源頼治を出陣させて防衛にあたらせたが、その際に神輿に矢が刺さる事件が起きている。延暦寺・日吉社側は死傷者が出てついに強訴を中止して撤退した。
しかし、その後延暦寺が藤原師通を呪詛し、承徳3年(1099年)6月に師通が亡くなると、延暦寺はそれを日吉社の神輿の神威であると喧伝したため、朝廷にとっては日吉社の神輿は畏怖の対象ともなっていった。
これ以降、延暦寺および日吉社は度々この神輿を使っての神輿振り・強訴を繰り返し行い、平安時代から室町時代にかけての370余年の間に40数回も行われている。
(Wikipedia先生より)

これは朝廷目線だとクソうぜえですわ

総レス数 1001
275 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200